「何だこれ…………」
ピアノを弾き、休憩時間のうちに携帯電話のディスプレイを眺めると、そこにはやたらと長い猫への薀蓄をつらつらと綴った謎のメールが表示されていた。……送り主は、言うまでもない。
ていうか、知ってる薀蓄を延々と読まされるのって結構精神的にクるんだな……。今度からゆか姉あたりとは気を付けて話そう。
「いきなりどうしたの?」
「川崎さん……。川崎さんは、謎に長いメールとか送らないでくれよ」
「いや、あたしあんたのアドレス知らないし……」
そう言って、川崎さんはグランドピアノへ視線を落とし、大屋根の縁をそっと撫でた。
「それなら良かった。そんな事より、これ、どう返信したら良いんだ?」
俺は真剣に、どうするべきか手をこまねいていた。メールのやり取りにすら慣れていないのに、いきなりこんな難易度の高い地雷を処理する羽目になるなんて何の冗談だ。勘弁してくれ。
「良かったって……。自分で考えなよ、そんなこと」
すげなく冷たく簡潔に、川崎さんは俺に背を向けて答える。
……あっれー? 川崎さんには結構仲良しフラグ立ってた筈なんだけど勘違いだったのかなー? もしかしてあの夜の出来事は全部イリュージョン、幻想だったのか?
どこで間違ったのか、俺の数少ない脳細胞をフル稼働させながら考える。……あれ、なんか考えるべきことが他にあったような……。
こうなってくるともうダメだ。往々にして俺は、こういうややこしいことを考えるのに向いてないのだ。諦めて次に弾く曲の選定に入ろう。うーん、何弾こう……。
「あ、ていうか質問しに来たんだけど」
言いながら、そのままカウンターの中に戻りかけた川崎さんが思い出したと言わんばかりに踵を返して戻ってきた。
「はいよ、なに?」
「これなんだけど……」
そう言って川崎さんはこちらへ紙を差し出した。
「物理か……」
受け取った紙を眺めながらしばらく考える。川崎さんが持ってきたのは力学の範囲の問題だったのだが、問題云々よりも川崎さんの書いたバネの図がとても綺麗でちょっと笑えた。
受け取った紙に書き込んだりしながら、俺は川崎さんに中々親切な説明をする。
「……うん、大体分かった。ありがとね」
説明を終えると、川崎さんははにかみながら礼を言った。
「これも一応、給料に入ってるからな。あと、何回も言ったと思うけど、やった問題は死ぬまで繰り返してやること。じゃないとすぐ忘れるから」
「死ぬまでって……」
「言葉の綾だ。標準問題なんかだと、もう見た瞬間解法見えるようになるまでやらないと、難しい問題なんて手も足も出ない。そうはなりたくないだろ?」
軽く笑いながら冗談めかして言うと、川崎さんも少し笑いながら俺の差し出した紙を受け取った。
「あ、ゆかさん、明日中で猫の名前決めるって言ってたよ」
「……マジで? 俺なんも考えてないんだけど」
「あんたね……」
川崎さんが、呆れたように頭を振る。いやホントすみませんね。自分、不器用ですから。
「まあ、考えとくわ。……あ、猫っていうと、雪ノ下さんのメールどうすっかな……」
またもや思考の海へと潜りこみかけたが、制服のズボンに入った携帯電話の振動で強引に引き上げられる。
次は何だよと思いながら携帯電話をぱかっと開けると、電話は再び雪ノ下さんからのメールを受信していた。内容はこうだ。
『そういえば今日、比企谷くんと偶然会って話をしたのだけれど、明日、由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを選ぶことになったわ。貴方も何か用意しなさい』
簡潔な内容である。先のメールに比べりゃなんぼかマシなものだ。しかし、それでもこれにどう反応するべきかは分からない。いや、由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントって言われてもですね……。ていうか雪ノ下さん、由比ヶ浜さんの誕生日まで把握してるのか。こりゃ下手すると俺の誕生日とかも割れてるんじゃないか?
まあ、雪ノ下さんは俺なんかにプレゼントをくれるような殊勝な女じゃないし、関係ない話だろうけど。言ってて哀しくなってきた……。
「『はぁ、プレゼントですか。どんなものを用意すればいいんですか?』っと……」
かこかこと携帯電話のキーを打鍵してメールを作成し、そのまま送る。まあ、無難なメールが作れたんじゃないかなと思っていると、もう一度、今度はノータイムで返信があった。いや、俺今のメール打つのに三分かかったんすけど……。どんだけみんな携帯電話の扱い方に慣熟してんだよ……。
『そう言うと思ったわ。明日比企谷くんと小町さんと一緒に選びに行くから、あなたも来なさい』
そのメールの後ろには、場所と集合時間が書かれていた。
なるほど、確かにみんなで選んだ方が良いものをプレゼント出来るかもしれないし、そもそも雪ノ下さんが選ぶものに、普通の女子高生は興味がないだろう。あの人は、妙にハイソなものを選んでドン引きされてしまいそうだ。
「『了解しました。それではまた明日』っと……」
「……あんた、口に出さないとメール打てないの?」
メールを打ち終えた後に聞こえた呆れ声に振り返ると、川崎さんが珍獣でも見るかのような目で俺を眺めていた。キョトンとした顔がかなりキュートなのだが、それ以上に悪気のない毒舌の破壊力に心が震えた。思わずうずくまるレベル。なんというか、初体験でナニが反応しなかった時の男みたいな気分だ。知らないけど。
「機械にはあんまり強くなくてな……。あ、ゲームは好きだけど」
「へぇ。それにしてはゲームやってるところなんて見たことないけど」
「携帯ゲームってあんまり好きじゃなくてな……。やってんのは据え置きのゲームばっかりだ」
どうにも、あの小さな画面でわざわざゲームをしたいとは思わないのだ。充電がかったるいというのもあるし。そういう訳で、俺はあまり人前でゲームをしない。
「へー、プレステとか?」
「いや、サターンとかドリキャスとか。あとスーファミも」
「……え、サターンって何?」
俺が適当にゲーム機を挙げると、川崎さんは不思議そうな顔をしながら、少し間を開けて尋ねてきた。そうだよね……知らないよね……。
「……土星のことだ」
俺は軽く首を振りながら、川崎さんの質問に投げやりな声で答えた。
翌日の日曜日、俺はてくてくと目的地へ向かって歩いていた。
川崎さんを誘ってみようかとも思ったが、断られたときのことを考えると後々の関係に影響が出て面倒臭そうなのでやめておいた。まあ、川崎さんは奉仕部の部員じゃないから、出来上がった関係の中に無理やり放り込まれてしまうのも辛いだろうというちょっとした思いやりも、あるにはあるのだが。
そんなわけで俺はちょこまかと一人で歩いているのである。
「ふへー。良い天気だなぁ……」
季節は梅雨……のはずなのだが、空には雲一つなく、青空が広がっている。まさしく皐月晴れである。あ、皐月晴れというのは五月の晴れた空のことではなく、梅雨の合間に珍しく晴れた空のことを示す。五月の晴れなんてよくあることで、そんな特別な名前をつける必要がないんだから勘違いのしようがないと思うんだけど、他人というのは分からないものである。大体旧暦で言ってるんだから……。
「……ふぅ」
不毛である。これ以上ウダウダ言う必要性を感じない。ていうか俺は誰に文句を言ってるんだよ……。
それにしても良く晴れている。晴れていた方が気分は良いんだけど、ここまで綺麗に晴れていると、何だか嫌なことがありそうだと勘ぐってしまう。
そんな事をつらつら考えながら歩を進めると、ようやく目的地へ到着した。
どうやら俺が一番遅かったらしく、比企谷兄妹も雪ノ下さんも「ようやく来やがったよ……」みたいな胡乱げな目でこちらを見つめていた。いや、比企谷くんが胡乱げな目をしているのは今に始まったことじゃないな。うん。
「はいどうもー、みんなのアイドル七之助くんだよー!」
「つまらないことを言ってないでとっとと行くわよ、七里ヶ浜くん」
「最早スルースキルを超えた何かだな……」
「比企谷くんも早く行きたいでしょう? ならこれで良いじゃない」
「いや、七里ヶ浜完全に固まってんじゃねえか……」
「そうっすね……早く行きましょう……遅れてすみませんでした……」
「「滅茶苦茶落ち込んでるし……」」
比企谷兄妹が全く同じタイミングで同じツッコミをするのを聞いて、やっぱり兄妹だとツッコミも似るんだなと、変なところで俺は感心していた。
「驚いた……かなり広いのね」
なんとか気分を盛り返しつつショッピングモールに辿り着くと、雪ノ下さんが感心したような声を上げた。
「はい、なんかですね、いくつにもゾーンが分かれてるんで目的を絞った方がいいですよ」
そんな雪ノ下さんの声に応えるように比企谷さんが早速アドバイスを送る。見事なアドバイザーっぷりだった。
「と、なると効率重視で回るべきだな。じゃあ俺こっち回るから」
「ええ、では私が反対側を受け持つわ」
「じゃあ俺が奥か……比企谷さんはどうする?」
色々と言いたいことはあったが、ここは流れに乗っかることにした。比企谷さんならツッコんでくれるだろう。アドバイザー兼ツッコミ役とか一人で何個役割持つんだよ。エースだな。
「ストップです♪」
比企谷さんは案内板を指差す比企谷くんの指をくきりと折り、わざとらしくオーバーなため息を一つ吐いたあと、俺たちを見回した。
「みなさん、一人じゃ選べないからみんなで来たんですよね?」
「そう言えばそうだったな……」
「……言われてみればそうね」
「じゃあみんなで回るか」
「そうですよ! じゃないと意味ないじゃないですか! 小町の見たてだと結衣さんの趣味的にここを押さえておけば問題ないと思います!」
そう言って比企谷さんは案内板に備え付けてあるパンフを開き、明らかに女の子女の子した店を指差した。
「じゃあそこ行くか」
比企谷くんがそう言うと雪ノ下さんはこくりと頷いたので、それを合図に俺たちは足を動かし始めた。無言の行軍である。
「すみません、七里ヶ浜さん……」
比企谷くんと雪ノ下さんの後ろを黙ってついて歩いていると、比企谷さんに後ろから肩をちょんちょんと突つかれた。
「ん? どしたん?」
小声で話しかけられたのでこちらもそれに倣って答えると、比企谷さんは申し訳なさそうな顔で俺の服をくいくいと引っ張って、進行方向と違う方を指差した。
「……あー、なるほど。いいよ」
比企谷さんの言いたいことを察した俺は、雪ノ下さんたちにバレないよう集団から離れた。
「ホントすみません……」
比企谷くんたちから十分な距離をとってからも、俺と比企谷さんはのろのろと歩く。
「やーやー。全然良いよ。兄ちゃんがああまで草食系だと、妹ちゃんとしても困ったもんだねぇ」
つまり比企谷さんは、比企谷くんと雪ノ下さんを二人っきりにしたかったということだ。前に会った時も思ったけど、比企谷さんすげえ兄ちゃん思いの良い妹だよなぁ。兄思いの妹、泣けるね。
あ、人の言ったことの内容とその時間を秒単位で完全に覚えているようなちょっとアタマのおかしい妹はノーサンキューで。……まあアレは、別に俺だけって訳でもなく楽太郎とかゆか姉の言ったことも全部覚えてるのが唯一の救いだ。そうじゃなければ完全にヤンデレだ。いや、知り合い全員に対してヤンデレなのか。どうでも良いわ。
「……分かってたんですか?」
「そりゃあ流石に。ここでいきなり……んんっ、『実は小町、七里ヶ浜さんのことが前から好きだったんです!』なんて言われるとは思えないしさ」
「えっ!? 今の声……えっ!?」
「中々似てるだろ?」
俺のモノマネで真剣にビックリしてくれている比企谷さんにホッコリしながら、おどけたように笑ってみせる。
「変な人だとは思ってましたけど、七里ヶ浜さんって実はものすごく変な人なんですね……」
「今更だなぁ。あ、コーラでも飲む? 奢るけど」
比企谷さんの言葉に苦笑いを浮かべていると、視界に自販機が現れた。丁度良いやと思い、俺は比企谷さんへと振り返る。
「ホントですか!? ありがとうございます! あ、でも小町、紅茶の方が良いかなーとか思ったりして」
「チッ!」
「え、何で舌打ち……」
「……気にすんな。ただ、趣味の不一致を感じただけだ」
「キャ、キャラ変わってるし……」
「冗談だよ冗談! 流石の俺でも、二つも下の、しかも女の言うようなことに腹立てるほど人間腐っちゃないからさ。ほい」
比企谷さんに紅茶を手渡してから俺もコーラを買い、プルタブを引いてコーラを口に含む。うん、やっぱコーラって神だわ。
「あ、ありがとうございます」
「いいよいいよ。俺は適当に由比ヶ浜さんへのプレゼント選んで帰るから、比企谷さんも気を付けて帰れよ」
言うだけ言って、俺は軽く手を振ってからその場を後にした。これ以上あの子と二人で話を持たせるのは、面倒臭いしごめんだ。
さてと、邪魔者はいなくなったし、喫煙スペースでも探しますかね! ……最高に屑いな、俺。