銀色の糸が空から下りる憂鬱な朝。ゆか姉の馬鹿話がいつもの数倍面白く感じられず、いつもより相当早い時間にバーむらさきを出て学校へ向かう。
つまり、今日は雨だった。
どうやら今日は一日雨らしく、厚い雲からは微塵も晴れる気配を感じられない。
「こうも雨だとやる気も糞もないな」
傘など持ってるはずもなく、ずぶ濡れになりながら一人呟き、しばらく立ち止まる。
……サボろう。どうせ行ったって一日クソつまらない授業受けて、面白くない日の確率の方が高い奉仕部に強制参加させられるだけだ。
ポケットからタバコを取り出して火をつけながら、考えを進める。
いやしかし、面白いかどうかが分からないというのも面白い要素だし、そもそもサボった所で行く当てもないんじゃないか?
パッと思いつく場所は本屋、ゲーセンくらいだ。何度もサボりに使っているが、通報された試しがないのでその点は安心だろう。
現在の時刻は八時過ぎ。どちらかに行くにしても、ああいうところは往々にして十時くらいにならないと開かない為、時間を潰す必要がある。
ゆか姉のとこに戻るか? ……無いな……。
うんうん唸っていると、何時の間にかタバコの火が消えていた。
これだから雨は嫌いだ。
もう一本、今度はちゃんと吸うぞと思い火をつける。
それにしても、一度サボると決めてしまうと一気に行く気が失せるのってなんでだろうね?
ちなみに俺はこの現象を「誘惑の魔の手現象」と名付け、親しみを持って二年ほどお付き合いしている。中々良いカップルだと思います。キャッ! 言っちゃった!
アホな事を考えてると、指に火が当たりそうなほどタバコが短くなっていたので、火を消した。
うん、時間潰すアテもないし学校行くか。誘惑の魔の手を振り切る、その意気やよし。
チャイムが鳴り四限が終わった。一気に空気が緩む。
俺はとりあえず、コンビニで買ってきたパンを齧っていた。
普段なら非常用階段で煙と戯れているところだが、こんなに雨だと、外に出るのも億劫なのである。
それにしてもクソまずい食べ物だ。変な味しかしやがらねぇ。売り物ならもっと魂懸けて作りやがれ!
一人でパンに文句をつけつつも、ゴミ箱に叩き込むのも食べ物に悪いので食べきった。うん、今度からこのパンは絶対食べない。
ご飯を食べ終えると、クラスの喧騒がやたら耳につくようになる。こういうのもきっと青春の一部なのだろう。外から見る青春、それもまた乙なものだ。
教室の前の方でPSPを持ち寄って楽しそうに狩りをする奴、後ろの方で異性と仲良くサーティワンがどうのと談笑する奴、そしてそれを腐った目で見ている奴……比企谷くんだった。
クラスの中では俺と比企谷くんは全く干渉しない為、教室に比企谷くんがいるという事をあまり気にかけていないのだが、流石にあの目は……ちょっと……。
気を取り直して、俺はカバンの中からPSPを取り出し一人でゲームをする事にした。
五分で狩りを終えると、物凄い虚無感に襲われた為やめることにした。やっぱり、無駄に上手くなってしまうとつまらなくなっちゃうよね。やる事が無茶な縛りプレイくらいしかなくなってしまう。
前で騒いでる奴らくらい下手くそならみんなで騒ぎながら出来るんだろうけど、俺やゆか姉ほどになるとマジで作業になってしまう。三分あれば終わってしまう為喋る間も無いので非常につまらないのだ。出会って三分で討伐。何かのタイトルみたいだ。
俺はソフトを変え、一人で連鎖の頂へ登る事にした。
いつ聞いてもユウちゃんの声は可愛いなぁ。
一人でほのぼのしながら連鎖を組んでいると、後ろの奴らの声が耳に入った。
「俺ら、今年はマジで国立狙ってるから」
え、この学校そんなにサッカー強かったの? 初耳なんだけど。
ゲームを中断して後ろを振り返ると、声の主はその中心にいた。
えーっと、アレは……そうそう葉山くん、葉山隼人くんだ。
彼について知ってる事はほとんど無いが、イケメンで社交力の高い、文部省の理想の高校生みたいな人間だということは知っている。
あ、文部省といえば「異性と交際しているが、エロいことには全く興味がない」というのが彼らの理想の高校生像らしい。腹筋がこむら返りそうになるほど笑ったのが記憶に新しかった。
「それにさー、優美子。あんまり食い過ぎると後悔するぞ」
後悔するぞ……って、葉山くんは一体何スターダークさんなんだ……。
「あーしいくら食べても太んないし。あー、やっぱ今日も食べるしかないかー。ね、ユイ」
高らかに太らない宣言を謳い上げるのが、葉山くんの相方の三浦優美子さんだ。
意義が不明なほど短いスカートの主。そして金髪ロール。ものすごい勢いで片っ端からいろんな要素を詰め合わせている、今時中々見れないステレオタイプな女の子だ。
美人で整った顔なのだが、派手な格好と言動のせいで相当数の男から敬遠されているのは想像に難くない。
しかし、俺は彼女のことが全くと言っていいほど嫌いではなかった。
彼女の極めて動物的で刹那的快楽主義な立ち振る舞いは、何処までも俺と似通っている。やはり人間こうでなくちゃいけない。
外から見ているだけなので、彼女が実は思慮深いとかそういう展開があるのかもしれないが、出来ればそういう展開は勘弁して欲しいものである。
「あーあるある。優美子スタイル良いよねー。でさ、あたしちょっと今日予定あるから……」
「だしょ? もう今日食いまくるしかないでしょー」
臣下の休暇届を見事に無視して三浦さんが話を続けると、周りの人たちがどっと笑った。え? 今の笑いどころどこだったの? や、三浦さんの存在自体が面白いってのはわかるけど。
彼らの声が大きいのと、三浦さんが面白い為、俺は連鎖の頂を目指すのを諦め、彼らの会話に完全に耳を傾けることにした。うぅむ、青春である。
「食べ過ぎて腹壊すなよ」
葉山くんは彼らの中心で人好きのする笑顔を浮かべながら、三浦さんに進言する。
ていうか女の子相手に腹下すなとか言うのは大丈夫なのか。自分の見識も広がる思いだ。
「だーからー、いくら食べても平気なんだって。太んないし。ね、ユイ」
三浦さんはいくら食べてもトイレに行かないらしい。見上げたアイドル精神である。
「やーほんと優美子マジ神スタイルだよねー脚とか超キレー。で、あたしちょっと……」
今更気付いたが、ユイと呼ばれてた女の子は由比ヶ浜さんだった。さっきから全て見事にスルーされている為、精神的にかなりキテそうだ。
それなのに健気に殿の機嫌を取り続けるその姿、まさしく臣下の鏡だ。天晴れである。由比ヶ浜さんには臣下オブザイヤー賞を進呈しよう。ありがたく受け取れ。くっだらね。
「えーそうかなー。でも雪ノ下さんとかいう子の方がやばくない?」
「あ、確かに。ゆきのんはやば」
あ、遂にやらかした。殿の御前での抜刀は反逆行為ぞ。
「…………」
案の定、三浦さんはお怒りの様子である。三浦さん、素直で良い子だなぁ。
「……あ、や、でも優美子のほうが華やかというか!」
由比ヶ浜さんは慌ててフォローするが、どうやら三浦さんはそれじゃ満足出来なかったらしく、不機嫌そうに目を細めた。満足出来ねぇぜ……。
「ま、いんじゃね。部活の後でなら俺も付き合うよ」
張り詰めた空気を察したのか、葉山くんが軽いノリでそう言った。すげーな葉山くん。空気清浄機かよ。マイナスイオンどばどば出てんぞ。
葉山くんの一言で機嫌を直した殿……違う、三浦さんの「おっけ、じゃメールして」という言葉と笑顔で会話が再開する。
それを見て安堵したように胸を撫で下ろす由比ヶ浜さん。そんな気を遣うくらいなら、つるまなきゃ良いのに。
しばらく由比ヶ浜さんを見ていると、彼女は何かを決意したように深呼吸した。
「あの……あたし、お昼ちょっと行くところあるから……」
お、遂にちゃんと言えたぞ。偉いぞ由比ヶ浜さん。まるではじめてのおつかい見ている時の気分だ! ちょっと前にゆか姉に無理やり付き合わされて一回見ただけなんだけどね。
あのクソアマ、自分で誘ったくせに、隣でくだらないだのつまんないだの散々文句言ったり、いきなり泣き始めたりして、色々と困った。
「あ、そーなん? じゃさ、帰りにレモンティー買ってきてよ。あーし、今日飲み物持ってくんの忘れててさー。パンだし、お茶ないときついじゃん?」
ナチュラルにパシリ扱い。やっぱ三浦さん最高だわ。
「え、え、けどほらあたし戻ってくるの五限になるっていうか、お昼まるまるいないからそれはちょっとどうだろーみたいな……」
由比ヶ浜さんらしくふわっとした物言いである。
しかし三浦さんはそれを明確な裏切り行為であると判断したらしく、飼い犬に噛まれたような表情をしていた。どうやらあんな性格をしていても、他人の悪意には割と敏感らしい。器用な女だ。
三浦さんは魔女裁判の真似事みたいな雰囲気を醸し出しながら友達がどーのこーのと言い始め、由比ヶ浜さんはどんどん落ち込んでいく。凄まじく憐れだ。これが他人の顔色を伺うしかしてこなかった奴の末路である。
「ごめん……」
「だーからー、ごめんじゃなくて。何か言いたいことあんでしょ?」
ま、この言い方を受けちゃうと普通の人なら何も言えないわな。ゆか姉辺りなら単刀直入に「てめーとつるむのつまんねえから死んでくれ」くらい言いそうだが。あ、雪ノ下さん辺りも良いそう。
しばらく無言のまま険悪な空気がクラスに流れる。
前の方でゲームしながらはしゃいでたクソ雑魚共も、三浦さんにあてられてかすっかり無言になってしまった。
だからお前らはいつまで経っても下手くそなんだよ。修羅となりたいなら、この空気の中で黙々と狩りを続けられるメンタリティを手に入れてみろ。
や、彼らはそんなコミュニケーションツールとして使ってるだけだから、そこまでガチにはならないんだろうけどさ。
一人でゲームをしていた奴らをけなしたり弁護していると、ガタッと椅子を引く音がした。
次は何だと思い音のした方を見ると、なんと比企谷くんだった。
「おい、その辺で──」
「るっさい」
「……そ、その辺で飲み物でも買ってこようかなぁ。で、でもやめておこうかなぁ」
一世一代レベルの決意を見事に粉々にされた比企谷くんに黙祷を捧げる。
すごすごと座り直す比企谷くんには目もくれず、三浦さんは小さくなった由比ヶ浜さんを見下ろす。やっぱ三浦さん素質あるなぁ……。
しかし、アレは流石にやりすぎである。唯我独尊も度が過ぎてしまうと周りの気分を害してしまう。あと比企谷くんがあまりにも憐れだ。
そこで俺は一計を案じる事にした。
立ち上がり教室を後にした俺は、廊下の窓ガラスの前で制服をちゃんと着直してから、メガネをかけて髪の毛を前に下ろす。
よし、大丈夫だろ。
深呼吸して、もう一度教室に入り直す。
さあ、七里ヶ浜七之助様の数ある特技の一つ、「猿芝居」を披露しよう。
「あ、あの、由比ヶ浜さん」
「え? ……あ、七里ヶ浜くん……?」
変装は中々上手くいったらしい。何回か俺をしっかり認識したことのある由比ヶ浜さんを戸惑わせることが出来るなら、三浦さんには分からないだろう。
「えっと、その、待ってても中々来ないから、その……何かあったのかと思って……もしかして今日は都合悪いですか……?」
完璧である。いかにもな声が出せた。
ちなみに演技のコンセプトは「奥手だが勇気を振り絞って気になる女の子を食事に誘った気弱な少年A」である。
普段とのギャップがあまりに大きすぎるため由比ヶ浜さんはしばらく戸惑っていたが、あまりにも大きなギャップが逆に俺の真意を由比ヶ浜さんに伝えてくれたようだ。
「えっとね、優美子。今日はこの人にご飯誘われちゃってさ。あんまりアレするのもアレじゃん? 今日一回だけって話だし、行ってあげよっかなーって思ってさ」
ふわっとしてて中々良い感じだ。ここまで行ったら三浦さんも折れるだろう。
何やかんや言って、彼女も人のしがらみの多い場所で生きている。ここで「関係あるか死ね」なんて言える奴は、『そこ』じゃ生きていけない。俺やゆか姉みたいになる。や、俺はそんなこと言わないけどね? 人に迷惑をかけないのが俺の信条なのだ。
「ふーん……。ていうかホントにそいつに誘われたん?」
疑わしそうな目で俺を見てくる三浦さん。さて、どうリアクションすりゃそれっぽいか。……怯えてみるか。
「す、すみませんでした! 迷惑ですよね……こんなのに誘われても……」
「そんな事ないよ!」
わたわたとしながら由比ヶ浜さんが乗ってくる。中々素養のある奴だ。やっぱりあの社会を生きるにはこの程度のお芝居は当然のようにうてなくちゃいけないらしい。
「そーいうことなら早く言いなよ」
そのあと三浦さんは由比ヶ浜さんの耳元で何か囁き、ひらひらと手を振った。
「う、うん、分かった! てわけでゴメンね優美子!」
そう言って俺の背中を押してくる由比ヶ浜さん。彼女の体温が背中に伝わる。
……我慢だ。我慢しろ。ここで手を払うのは色々マズイ。
廊下に出ると同時に由比ヶ浜さんの手を払った。
「あ……えっと、ありがと……」
「つまんなそうなことしてるなぁ、ホント。正直に言えば良いのに」
俺は制服を元通り着崩しメガネを外して由比ヶ浜さんに苦言を呈す。ここまでやってやったんだ。これくらい言わせてもらってもいいだろう。
由比ヶ浜さんが俯いたので、一応フォローというか、声をかける。
「……あー、なんだ? ちゃんと奉仕部の事とか言っといた方がいいぞ? これから先似たようなことになるの、目に見えてるしさ」
「うん……」
「ま、余計なお世話かもしれんけどさ」
「うん……」
二人の間に沈黙が落ちる。
これまだなんか言った方がいいの? いい加減終わらせてくれない?
「……ホント、ありがとね」
由比ヶ浜さんがこちらをしっかり見て感謝を伝えてきた。うん、整理付いたみたいだな。
「や、比企谷くんがやったから便乗しただけ。あいつに言ってやれよ」
「……うん、それじゃ!」
笑顔で手を振ってから駆け出す由比ヶ浜さん、こちらも手を振って見送る。
……ふぅ。ていうかホントに雪ノ下さんとご飯食べるつもりなんだな。よく雪ノ下さんが認めたもんだ。
「お前だって全く気づかなかったわ」
教室に戻ろうとすると、比企谷くんが教室の前で立っていた。
「やっぱり? 今度から俺のことは怪盗七面相と呼んでくれ」
「……微妙にショボくね?」
軽口の応酬で口元が綻ぶ。
「ショボいくらいで良いんだよ。完璧な人間なんてつまんねぇし」
「雪ノ下みたいな?」
射抜くような視線を感じて、反射的に比企谷くんを見る。
比企谷くんは、まるで俺を値踏みするような視線を向けていた。
「雪ノ下さんは……完璧じゃあないだろ。所々抜けてるところもあるし、自分の感情だってあんまり上手くは隠せてない」
「ふーん……。俺はてっきり、お前は雪ノ下のこと嫌いだと思ってたわ」
こともなげに言う比企谷くんに、少し驚いた。
特に表に出した事もないし、むしろ悟られないよう隠していたことなのに、彼は容易く見破ったのだ。
「まあ、好きではないけど。でもどっちかっていうと由比ヶ浜さんの方が苦手だな」
「なんで?」
「……ああいう風に、他人に気ぃ遣いまくってる人見るのが苦手なんだよ」
「分からんでもないな」
そう言って比企谷くんがハッと笑う。
「大体、雪ノ下さんの事嫌い? とか聞かれて『いや超好きだよ』とか言えねえだろ。後々に禍根残るわ」
「まーな。んじゃ」
そう言って比企谷くんは教室に引っ込んだ。こういう時に一緒に教室に入らないのが俺と比企谷くんの距離感を如実に表してるなぁ。まあ、比企谷くんの性分ってところもあるんだろうけど。
俺も教室入って寝ますかね。
廊下の窓で自分の身だしなみがうまく元に戻ってることを確認してから、俺は教室に戻った。