「ふぅ……」
浄化されたお湯に浸かりながら息を吐く。クエストも兼ねて街の周囲の魔物を退治したところであったので丁度良かった。そんなことを考えながら、お湯をひとすくいした。
「温泉の、汚染、か」
ポツリと呟き、そして一人で吹いた。何で唐突にオヤジギャグを言ってしまったのだろう。そんなことを思いながら、改めてお湯を眺め、そして見えはしないがアルカンレティアの源泉があるであろう方角に視線を向ける。
これが何者かの仕業であるならば。十中八九そうであるのは分かっているが、魔王軍の仕業であるならば、放ってはおけない。目の前で悪事を働かれているのに見逃すことが出来るほど、薄情な人間ではないのだ。
しかしそうなると一人で来てしまったことが今更ながら悔やまれる。仲間と一緒ならば、困難も簡単に乗り越えられただろうに。
「……少し、申し訳ないが」
そこまでを思うと、脳裏に浮かんだこの街にいる知り合いに――恐らく向こうは自分をその程度にしか思っていないだろう――声を掛けてみようかと考えた。正直あまり乗り気ではないだろうが、ダメ元で頼んでみるくらいは大丈夫だろう。
そう結論付け、再度温泉を眺める。ここは大教会に併設されているので男女別だが、場所によっては混浴も存在する。
件の人物は、そういうのに興味津々であったはずだ。聞こえてくる評判を聞く限り、少なくともストイックな性格でスケベとは無縁であるなどとは口が裂けても言えない。
「今頃、誰かと温泉に入っているんだろうか……」
そんなことを考えて、案外自分も下世話なんだな、と笑った。そうしながら、そろそろ上がるかと立ち上がる。タオルに覆われていない、一糸まとわぬその姿が温泉内で顕になった。
そうして、全裸のまま、御剣響夜は脱衣所まで歩いていく。温泉で上機嫌になったのか、鼻歌交じりで。
「まあ……一人もたまには気楽だな」
佐藤和真は二度目の異世界最大ピンチを迎えていた。前回は昨日である。スパンが短すぎる。
「遠慮しなくてもいいのに」
「……頑なにこっち見ませんね、お兄ちゃん」
見たら死ぬ。どこぞの怪物を相手にするような覚悟を持って、カズマはシズルとリノから視線を逸らしていた。だから彼は今二人がどんな状態なのかすら知らない。
とりあえずバスタオルを巻いている状態だったところまでは確認した。入ってすぐの話である。
「まあ、いいか。弟くん、背中流してあげるね」
「はぁ!?」
今なんつった。思わず奇声を発したカズマは、そこで瞬時に思考を巡らせた。
よくよく考えろ、相手はお姉ちゃん、つまりは年上だ。となると犯罪で捕まる可能性は減る。少なくともコッコロにされるよりは健全なはずだ。問題はどうやって相手が背中を流すかだ。普通にタオルでゴシゴシとやってくれるだけでも十分だが、相手はお姉ちゃん。弟の嗜好を十分理解している女性だ。ワンチャン、タオルを使わずに背中をゴシゴシとしてくれる可能性だってある。つまりは。
「やって欲しいの?」
「何も言ってませんけどぉ!?」
「いやお兄ちゃん思考ダダ漏れでしたよ……。まあ、分かる人はそう多くないでしょうけど」
「そうそう。あ、でも、あの子は分かりそうだから、向こうではそういうことあんまり考えちゃダメだぞっ」
誰のことを言っているのか何となく理解したカズマは、そのことを想像し追加で奇声を上げた。それだけは駄目だ。他の二人にバレるのもそれはそれでアウトだが、コッコロだけは特に駄目だ。場合によっては、主さまが望んでいるのならばとか言っちゃいそうだから絶対に駄目だ。
ゼーハーと肩で息をしたカズマは、頬を張り気合を入れる。もう大丈夫だと気を取り直し、まあとりあえずそれはそれとして普通に背中を流してもらうくらいならばと思わず振り返ってしまった。
「こんな感じ?」
「どわぁぁぁぁ!」
タオルをペロンと捲り胸元へボディーソープを垂らしているシズルの姿が視界に入り、カズマは即座に顔を戻す。一瞬だけであったが、間違いなくいかがわしいお店のビジュアルであった。
え? ひょっとしてやってくれるの? そう考え思わずカズマの体の一部がホットホットしかける。
「別に私は構わないけど……どうする?」
「え?」
どうすると言われれば、許可も出たことだし遠慮なく。遠慮なくどうすればいい? と自問自答する。恐らくこの機会を逃したらこんなことは二度と。
「いや、そういうのいいです」
別にそんなことはなさそうだ、と結論付けたカズマは、もう少し落ち着いた状況を待ってからの方がいいと判断した。頼まなくてもやってくれそうなお姉ちゃん相手にがっつくのは、なんか違う。カズマとしてはもっと恥じらいとかシチュエーションにもこだわりたいのだ。
「お兄ちゃんの考えてることが手に取るように分かりますね……」
「ふふっ。男の子だねぇ」
じゃあ普通にやりましょうか。そう言ってタオルをカズマの背中に当てたシズルであったが、ふと動きを止めるとニンマリと笑みを浮かべる。どうせだから、前も少し洗ってあげる。そう言いながら手をカズマの胸元へ。
「すとーっぷ! シズルお姉ちゃん、お兄ちゃんのお兄ちゃんが危ないからそれは駄目です! 前を洗うなら前からやってください!」
「私は構わないよ」
「駄目ですって! お兄ちゃんが魂抜けそうになってますから! 色々危ないですから!」
ツヤツヤしているシズルとは対照的に、カズマは割とカサカサしていた。別段ナニかしたわけではない。お兄ちゃん大丈夫ですか、とリノが気遣っているのがその証拠だ。
「もう。昔とは違うって言ってたばっかじゃないですか」
「あはは。弟くんが可愛かったから、つい」
「つい、じゃないですよついじゃ! どーするんですか!? お兄ちゃん魂完全に抜けちゃったじゃないですか!」
ちなみにカズマは遠い目をしながらブツブツと何かを呟いている。一単語で、具体的には。
「おっぱい……おっぱい……」
「ちょっとこれヤバくないですか!?」
「他人事みたいに言ってるけど、リノちゃんも原因の一つだからね」
湯船に入る時にタオルを巻いていてはいけない、と取っ払ったのが始まりであった。ついでにその状態で隣り合って温泉に浸かっていたのが致命傷で。
カズマのカズマさんがおはようをしたのを見ながら、どこか慈愛に満ちた表情をされたのがトドメである。
「いやどう考えてもシズルお姉ちゃんが原因でしょう!? 何ですか『大きくなったね弟くん』って! どこ見て言ってるんですか! ダジャレですか!?」
「弟くんの成長ぶりを目の当たりにして喜ぶのはいけないことじゃないでしょ?」
「どこの成長喜んでんですか! いくら昔から見慣れてるからって、やっていい態度と悪い態度っていうもんがですね」
「えー」
「えーじゃないですから!」
ゼーハーしながらツッコミを入れたリノは、それでどうするのだと彼女を見た。対するシズルは、少し考え込む仕草を取った後、カズマを自身の膝に乗せる。とりあえずは落ち着くまで休ませてあげようか。そんなことを笑顔で述べた。
「私もお兄ちゃん膝枕したい……」
「こういうのは、早いもの勝ちだよ」
そう言いながらカズマの頭を撫でる。どうでもいいが少し屈んだ状態でそれをやったおかげで胸部の大ボリュームがむにぃとばかり彼に押し付けられた。これがおっぱいアイマスクというやつか。
「おぱぁぁぁぁ!」
「弟くん!?」
「だーかーら! どうするんですかお兄ちゃんが巨乳恐怖症になったら! あ、でもそうなると普通サイズの私の方に来るから問題ないのか……」
「うん。リノちゃんも大概だと思うよ」
ごめんね、とシズルは姿勢を正す。お姉ちゃん、ちょっと調子に乗っちゃった。そんなことを言いながら、どこか寂しそうに彼の顔を見詰めていた。リノはそんなシズルを見て、困ったような表情で小さく息を吐く。
「弟くんの嫌がることはしないように、って思ってたのになぁ……」
「いや別に嫌じゃなかったけど」
「あ、弟くん。正気に戻ったの?」
その言い方は語弊があるが、まあ大体そんな感じだとカズマは言葉を濁した。こっちはこっちでつい調子に乗って悪ノリしていたので、本気で凹まれると罪悪感が出る。とはいえ、この人のことだからその辺も織り込み済みでこの態度なんだろうなと彼はぼんやりとそう思った。
それはそれとして膝枕はもう少し堪能したいので起き上がらない。
「そういえば」
「どうしたの?」
「温泉に入る前に言ってただろ? ここの汚染の対策とか調査とかは後回しって」
「言ってたね」
「その辺の仕事って、これから回ってきたりとかは」
カズマのその問い掛けに、シズルはんー、と少し考え込む仕草を取る。そうした後、まあよっぽど来ないだろうと結論付けた。
「そういうのは、高位のクルセイダーとかアークプリーストの仕事だからね。私には関係ないかな」
「いや何しれっと嘘ついてるんですか。シズルお姉ちゃんまさにそういうやつでしょう」
「ほら、ゼスタ元最高司祭がいるし」
臨時の温泉管理人にされている変人を思い浮かべる。アークプリーストとしての実力だけは飛び抜けている彼が担当するのならば、別に自分達は動く必要がない。そんな意味合いの言葉に、リノもまあそうですけどと頬を掻いた。
「でも、何だかんだでうちのマスターが何か言ってきません?」
「弟くんとの時間を邪魔するなら容赦はしないよ」
笑顔で言い切った。確かさっきも聞いたぞそれと思いながら、カズマは自分のことはある程度棚に上げてそういう頼まれごとは聞いてやらないとと述べる。
「弟くんがそれ言っちゃうんだ……」
じとー、と少し目を細めたシズルは、しかし次の瞬間には笑顔になった。まあそういうと思ってたけどね。そんな言葉を続けながら、よしよしと膝枕されたままのカズマの頭を再度撫でた。
「しょうがないなぁ。マスターが何か言ってきたら、一応手伝おうかな。あ、弟くんは気にしないで観光を続けてね」
「……まあ、そういうことなら遠慮なく」
そう言いつつも、気にはしてしまう。そうは思ったが、カズマは口に出さないでおいた。
勿論見透かされているので、二人に笑顔を返された彼は本日何度目か分からない奇声を上げ悶えるのだが、大したことではないだろう。
外に出た三人の視界にまず入ったのは、どうにかして中の様子を覗こうと画策していたらしい一人のプリーストの姿であった。カズマには見覚えがなく、シズルとリノは顔見知りだ。
「何をしてるのかな?」
「はっ!? もう出てきちゃったの!?」
「いやもうも何も……あんた盗聴に夢中で時間忘れてたわね……」
シズルの言葉に反応したそのプリースト、セシリーとは違い、後ろにいたキャルは呆れた様子だ。ペコリーヌとコッコロはノータッチを決め込んでいた。
が、それはあくまでセシリーに対してだ。混浴温泉から出てきた面々をスルーは流石にできない。そう思っていた矢先、彼女達より先にシズルが先手を取った。
「それで、そっちはキャルちゃんと、弟くんのパーティーメンバーだね」
「え? わたしたちのこと知ってるんですか?」
「勿論。弟くんに関係することだから」
笑顔である。迷うことなくそう言い切ったシズルを見て驚くペコリーヌであったが、反対にコッコロはゆっくりと目を細めていった。表面上は平静を保ったまま、彼女はそのままシズルへと歩みを進める。
「初めまして。わたくし、今、現在の、主さまのおはようからおやすみまでお世話させていただいている、コッコロと申します」
「……コロ助怖い」
「やばいですね……」
即座に襲いかかるようならば止めようと思っていたが、流石にそんなことはなかったらしい。その代わり、オーラが半端ない。キャルもペコリーヌもどうしようかと若干引く。
「そんなに怖い顔しないで。私は別に弟くんを取ったりしないよ」
「どの口が言いますか……」
「リノちゃん、ちょっと黙っててもらえるかな?」
笑顔で振り向いたシズルを見て、リノが小さく悲鳴を上げる。思わず隣のカズマにしがみつき若干涙目で彼を見上げた。
コッコロの纏うダークオーラが更に大きくなる。
「コッコロ、落ち着け。いや、落ち着いてください」
「主さま。わたくしは冷静です。ご心配なく」
絶対冷静じゃない。ペコリーヌもキャルも、そしてカズマもそう思ったが、口にはしなかった。理由は多々あるが、とりわけ大きいのは、怖かったからだ。
「普段はおとなしく礼儀正しいエルフの美少女が見せる新たな一面……ん~、いいっ!」
「あんたはちょっと黙ってるかこの場から消えるかして」
空気を読むことを放棄しているセシリーは放っておくとして。シズルは笑顔を崩さず、そんなに疑うのならば、とカズマの手を取り前に出す。へ、と間抜けな声を上げているカズマを、そのままコッコロの眼前へと押し出した。
「はい。弟くんはそっちに渡しておくよ」
「シズルお姉ちゃん!? どうしたんですか!? いつもならもっと腐れ外道みたいな手段でお兄ちゃんを手中に収めようとするじゃないですか!」
「もぅ、リノちゃん。あんまり根も葉もない話でお姉ちゃんを悪く言っちゃ駄目だ、ぞっ☆」
脳天を突き抜けるほどの衝撃を伴った頭突きがリノの側頭部に炸裂する。悲鳴を上げた彼女は暫しフラフラと揺れ、そして我に返ったかのように動きを止めた。記憶は飛んだらしい。
突然の衝撃に、コッコロも思わず正気に戻る。カズマが戻ってきたのも関係しているかもしれない。ともあれ、リノという尊い犠牲により緊張は緩和されたのだ。
「え、っと……?」
「私は、弟くんに嫌われたくないから。無理にこっちに縛るとかは、しないよ」
「お姉ちゃん……」
笑顔のシズルを見て、カズマは少しだけ胸に来るものがあった。彼女はきっと、それでもし自分が嫌われても、敵対しても。それでも、弟の味方をするだろう。絶対に、何があっても、彼女はお姉ちゃんなのだから。
「あいつの周囲がどんどんカオスになってくわね……」
「キャルちゃん? その言い方だとわたしたちも含まれますよ?」
無意識なのか、自虐なのか。どちらにせよ、まあそこを否定するかと言われればそんなことはないのでペコリーヌとしては問題ない。ツッコミを入れつつも、じゃあとりあえず一件落着ですねと胸を撫で下ろした。
さてそれでは、と解散ムードになったタイミングでシズルがあいた、と声を上げた。どうやら何かが降ってきたようで、それを拾い上げるとああやっぱりと眉尻を下げる。
「どうしたんですか?」
「ちょっとお仕事、かな? アクシズ教徒の問題だから、そっちは気にしなくても大丈夫だよ」
ペコリーヌにそう述べると、若干混乱した状態のままであったリノを連れてシズルはその場から去っていく。カズマはそれに心当たりがあったらしく、二人に向かって無理はしないようにと声を掛けていた。
「カズマ、何か知ってるの?」
「いや、確か温泉の異常の調査に呼ばれるかもって言ってたから多分それじゃないかって」
成程、とキャルは頷く。そうしながら、彼女はシズルが去り際に言っていた言葉を思い出していた。
「アクシズ教徒の問題、か」
ならば別に関係がない。そう言ってしまえるし、そこを疑うことは微塵もないが。
それでも、ここの空気に当てられたのか、どうにもそれが引っかかってしまっていた。
そろそろボス戦かな。