対抗運動会に向けて、慌ただしく準備を進めている王立魔法学園の五つの学園。
その中でもエリートたちが集う中央校において、火属性魔法を担当する教諭にして、地獄からやって来た上級悪魔アモンは、放課後の研究室で生徒のレポートに目を通していた。
(一年生の火属性魔法の理解が、例年より高いな。恐らくはハインツァラトゥスの第三王子が良い影響を与えているのだろう)
学園に来る前から魔法を学んでいるのが当然だとしても、一年でこのレベルまで理解を進めているのには驚きと喜びが湧いてくる。
「ふう……」
レポートの採点が一段落した後、アモンは自分で淹れたコーヒーを飲みながら、先ほどまで使っていた万年筆をじっと見つめた。
王立魔法学園の教諭になるため、独学で人間の魔法を学んでいたアモン。もとより合格ラインには達するだけの知識と技量を持つに至っていたが、合格を確実なものとするため、彼は教師試験用の勉強塾へ参加していた。
塾では実際に魔法学園で働いている教師がメンターについてくれたのだが、そこで出会ったのが、今マリアンヌたちのクラスを担当している、幼女にしか見えない外見の教師だった。
(思えば随分と長い付き合いになっている。恩もあって飲みを断れはしないが……飲食店での人間の振る舞いを熟知するための勉強代みたいなものか)
万年筆はその幼女先生から、中央校教師の合格祝いに貰ったものだった。
アモンはコーヒーを味わいながら、ちょうど直近で彼女と共に飲み屋街へ繰り出した時のことを思い出した。
『にへへ~』
『ハァ……流石にこれ以上は、明日に響きますぞ』
既に四軒目とあって、カウンター席の隣でジョッキを握る幼女先生はぐだぐだになっていた。
毎回のように年齢確認を食らうのは慣れたもので、そこからの飲みっぷりに店員がドン引きすることまで含めて恒例行事だ。とはいえ、顔なじみとなった店では大きな声と笑顔で歓迎される太い客になっているのだが。
『ねえねえアモン先生~』
『我が輩もこれ以上はかなり厳しいので、流石に水が欲しいのですが』
『アモン先生はぁ……どうして、これ以上は仲良くなったらダメだっていう線を持っているんですか?』
『む? ……人と人の付き合いというのは、そういうものでしょう。我が輩とてそれぐらいは知っています』
自分でも、完璧に人間としての返答ができたという自負があった。
しかし幼女先生はとろんとした赤い顏を、寂しそうにゆがめた。
『あなたの場合は~……お互いに傷つけないようにっていうより。自分が相手を傷つけてしまわないように、無理矢理遠ざけてるように感じるんですよ~』
アモンは絶句した──それは、あまりにも的確に図星だったからだ。
数秒間の沈黙を挟んだ後に、彼は慎重に言葉を選びながら返事をする。
『……仮にそうだったとして、自分でこのような言葉を使うのは少々気が引けますが、それもまた一つの気づかいでは?』
『全然違います~! 相手に自分を理解してもらわなくてもいいっていうのは、相手から見た時には、信頼を得られていないっていうことなんですから』
ぷんすこと擬音付きで怒る幼女先生に、アモンは今度こそ、返す言葉を持ち合わせていなかった。
悪魔は群れとしては存在しない。他者へ教えを乞うベルゼブブは例外中の例外だ。かくいうアモンも、地獄においては誰かとつるむことなどなかったし、他の悪魔が何をしているのかなど知ろうともしなかった。
机に頬をべったりとつけて、幼女先生は微かに潤んだ瞳でアモンを見上げる。
『それはね、ただの独りよがりなんですよ、
『……申し訳ないです』
かつて塾で、教え子である自分に向けられていた呼び方を出されては仕方ない。
アモンは完全な敗北の姿勢を取った。
『ですが、人付き合いにまだ慣れていないのはご存じでしょう。どうかご容赦いただきたいところです』
『ま~今すぐなんとかしろって言って、なんとかなることじゃないですからね~』
悪魔である自分にとって、人間の思考など本来は必要ない。
だがこうして様々な人間から、彼ら彼女らの生き方を、考え方を教えられ、そのたびにアモンの胸のうちはひどく温かくなるのだった。
『会計はいったん我が輩が済ませますので、そろそろ』
『あ、だめですよ! 王立学園の教師は賄賂受け取りは厳罰ですから、片方が奢っちゃうと捕まっちゃう可能性があります!』
裏口入学を徹底的に潰すための法律である。
『私たちは対等ですから。割り勘にしましょうよ~』
『先ほどアモン君と呼んできた口で、よくおっしゃいますね』
『あ、もしかして根に持ってます?』
『いえいえまさかそんな。さ、
『根に持ってますよねえこれ!!』
酔っぱらいながらも、憮然とした顔でカバンを渡してきた幼女先生。
表情を思い出して、くすり、と笑みがこぼれた。
そのことに行動してから気づいて、アモンは言葉を失った。
(……
ばかげている。
彼が一切の制限を取り払い、人間としての身体を捨てて戦えば、恐らく学園を壊滅に追い込むことはたやすい。
人間のフリをしているのは道楽に過ぎないのだ。あの日、自分を呼び出したこの身体の持ち主は、外で生きてみたかったという後悔を告げて事切れた。その言葉に興味を持った、外とはどんな場所なのか。人間たちはどうやって生きているのか。
だが、知れば知るほどに分からないことばかりが増えていく。
本来要らないのに。
アモンにとって不要で、邪魔で、ただうっとうしいだけなのに。
何故教師などをやっている。何故人間のフリをし続けている。
答えは明瞭だ。しかしアモンは当事者であるがゆえに、自らを悪魔と定義しているがゆえに、それに気づけない。
「邪魔するぞ」
その時、渦巻いていたアモンの思考をドアが開けられる音と、透き通るような美しい声が断ち切った。
「む、ピースラウンド嬢……?」
ドアを開けて入って来たのは、何故か肩に黒猫を乗せたマリアンヌだった。
その猫は中央校に住み着いている野良猫であり、生徒や教師からも可愛がられていることで有名だ。
しかしアモンは猫ではなく、マリアンヌの顔を見て、驚愕のあまり椅子から立ち上がった。
「な、あ……ッ!?」
「どうした。この猫か? ここで来る途中、どうにも
「いやそちらではない!」
きょとんとした表情で。
マリアンヌは、その
「おれが──大悪魔ルシファーが来たことが、そんなに不思議か?」
◇
火属性魔法の研究室。
マリアンヌとアモンは向き合う形でソファーに腰かけていた。
否──そこに座っているのは、マリアンヌの身体を借りた大悪魔ルシファーである。
「最初に言っておくが、マリアンヌ本人からは了解を取った」
「精神の深層では覚醒状態なのか」
「いや、ブレイクブレイドと武装少女マキャヴェリズムが次回で最終回だと言ったら寝込んでしまった」
「そうか…………」
よくわからない単語を並べられ、アモンはとりあえず曖昧に頷いた。
ルシファーの膝の上には猫が乗り、退屈そうにあくびをしている。まさか身体を制御している意識が世界を滅ぼす大悪魔だとは思うはずもなく、猫はマリアンヌのふとももに顎をぺたりと置きくつろいでいた。
「……ピースラウンド嬢は、放課後は迅速に下校するよう言われていたはずだったが」
「問題ない、分身を生成して下校させた。おれもここまでは透明化して来ている」
ルシファーとアモンはテーブルにチェス盤を置き、対局していた。
なんということはない、情報交換をしながらの手慰みに等しい。
アモンの白のクイーンが、ルシファーの黒のキングへと迫る。
「ほお……やるじゃないか。どこかで習ったのか?」
「独学だ。教員同士でチェス同好会を作る機会があってな」
「うまくやっているようだな」
頷き、黄金色の目が細められる。
「だがおれとて、伊達や酔狂でやっているわけではない」
「意外だな。お前もチェスを嗜んでいたとは」
「アニメでめちゃくちゃ出てくるから勉強したんだ」
マリアンヌの貌が微かに唇をつり上げる。
白く細い指で、彼女は黒のキングを持つと、前へと進めた。
「キングを動かすのか……?」
「我らのキングは、こうして矢面に立つのが好きらしいからな」
「……ピースラウンド嬢をキングとするか。ならば、さしずめお前はプレイヤーといったところだな」
「そうだ。盤上に駒は揃いつつある。お前も知っているだろう、既に七つの禁呪のうち、六つがマリアンヌたちと接触した」
現状、ルシファーが確認できた禁呪保有者は6名。
『
『
『
『
『
『
「『疫死』に関しては既に死亡済み、空席となっているようだが……待て。『激震』の保有権は、未だ元聖女が持っているのか?」
「レアケースだ。禁呪を獲得した際の悪魔の人格よりも、彼女本人の方が適性を持っていたぞ。習熟度も増している……幽閉されながらも密かに研究しているようだ」
チェス盤に駒を置く音が途切れた。
鋭い攻めを受けて、アモンが顎をさすりながら長考する。
「残った最後の禁呪保有者に関しても、漠然とではあるが活性状態にあるのは把握している。むしろ習熟度で言えばマリアンヌたちよりはるかに高く、『烈嵐』にあと一歩、『禍浪』に匹敵するレベルだろう」
「そうなのか、ではついに……」
ああ、と頷いてルシファーは淹れてもらった紅茶を優雅に飲んだ。
鳴き声を上げる猫の顎を指でくすぐる様は、休みを過ごす優雅な令嬢そのものである。
「『
「五つ?」
現状、ルシファーが確認できた七聖使は、五つの枠と四人の覚醒者。
第一天『
第三天『
第四天『
第五天『
第六天『
「は……?」
アモンはコーヒーカップを唇へ運んだ姿勢のまま、完全に硬直した。
「今代の第四天と第六天は重複している。厄介なことに、この二つの枠は相性が良すぎる……良すぎるからこそ、一度は制御できそうだった出力が完全に本人の手から離されてしまったようだがな」
「ま、て。待て、ルシファー。貴様の認識が誤っている可能性はないのか。禁呪保有者が重複することはないだろう!?」
その言葉に、ルシファーは首を横に振った。
「縋るような推論はやめろ、時間の無駄だ」
「……っ」
「我らとあれらでは根本的に構造が違う。本質的には先行しているなどと戯言をほざいていたが、所詮は我らを討つためだけに、たかが数千年で作り上げられた突貫工事の枠組み。使える物なら何でも使うのだろう──どんなに惨い使い潰し方をしてでも、だ」
アモンが防御の一手をひねり出す。
ルシファーは意に介することなく、次々に攻めの一手を放った。
「だが、肝心な第七天──我が輩たちの前に立ち塞がるであろう、『開闢』と並ぶ最重要敵対存在は姿を見せずか。案外我が輩たちの近くに、既にいるのかもしれんがな。お前はどう思う?」
確実に追い詰められていく白のキングをなんとか救う手立てを探しつつ、アモンはふと問いかける。
「…………」
「ん? どうした、何か知っているのか」
「本人の意向を優先する」
その言葉に、アモンは目を見開いた。
明らかに対象を把握している言い草だったからだ。
「まさか接触しているのか?」
「候補どまりだ。しかし向こうの意思にとっては、ほとんど唯一無二だろう」
しかし、とアモンが食い下がろうとした時。
ルシファーが机を指で叩いた。硬質な音が響き、アモンの唇が縫い留められる。黒猫が顔を上げ、じっと黄金色の瞳を見つめた。
「この件についてこれ以上話すつもりはない」
「…………分かった」
ルシファーはアモンと対等な関係を望んでいる。
対等だからこそ、話したくないという意志は尊重される。決してアモンがへりくだって黙ったわけではないことを理解し、ルシファーは満足そうに微笑む。
「話を続けるぞ。残る第二天はまだ観測できていないが、マリアンヌはこの王国の教会を統べる教皇は七聖使だろうと推測していた。ならば消去法で、今の教皇が第二天だ」
建国の英雄が構築したという、騎士の加護システム。そこにマリアンヌは、歴史の裏で暗躍してきた七聖使の気配を感じていた。
アモンがあやを求めて一気に攻め込もうとするが、ルシファーは最後のあがきを切って捨てた後、黒のクイーンを盤上に優しく置く。
「チェックメイト」
「お見事。流石は我らが母にして支配者、隙のない打ち回しだった」
「定石と効率を学び、多少の心理的駆け引きを習得すればこの程度は造作もない」
紅茶をすすり、ルシファーは自らの勝利に終わった終局図を眺める。
「とはいえ第二天の力は、おれが感じている限りでは、何故か年々劣化しているようだがな」
猫の頭をなでながら不思議そうに首をかしげるルシファーに、アモンは呆れかえる。
「既に老年だからだろう……いや、お前には寿命の概念は伝わらないのか?」
「人間らしいことを言うじゃないか」
既に齢八十を超す教皇が、その力を段々と失いつつあるのは道理である。だが大悪魔にとっては、たかが時間が経過しただけで命そのものが削られていくことは、理解の範疇にないのだ。
「その猫もそうだ。確かそれなりに年を取っているはずだ、人間に換算すると老人だろう」
ルシファーは動きを止めて、じっと黒猫を見た。
「そうか。老いて死ぬのだな、この猫は」
「地上の生命はすべてそうだ」
「フン。余りにも脆弱と言わざるを得ない。風に吹かれるだけで褪せていくなど……」
鼻を鳴らすルシファーの瞳は、黒猫を静かに、神聖な輝きを含んで、ただ見つめている。
「おれが支配すれば、寿命を迎えることなく……いいや、存在を書き換え、上位存在として永遠に生き永らえさせることも可能だろうな」
「……それは」
アモンはその言葉を聞いた瞬間、本当に自分が、地獄ではなく地上の住民になってしまったのだと実感した。
生理的な拒否感が発生した。それはもう命ではないと、はっきりと思った。
「なあ、アモン」
静まり返った研究室に、ルシファーのつぶやきがぽつりとこぼれる。
「猫もマリアンヌも、支配しようと思えば、支配すればいいんだ。なのに、そうしたくならない。それどころか、支配を……おれの本領を発揮するのは、唾棄すべき選択だと感じるんだ」
同じだった。
破壊と殺戮を本分とするアモンが、その選択を取らないように。
支配と命令のために存在するルシファーは、その存在意義を果たせていない。
「風に吹かれるだけで、雨に打たれるだけで、全ての物質は劣化する。彩を失う。おれにはそれが……分からない。それをよしとしているこの地上の生命たちが、何のために生きているのかが分からない。続いてほしいのに、終わりを認めなくてはならない。空に輝く星の光すらだぞ。こんなことを認めていいのか。永遠にしなくていいのか」
せきを切ったようにルシファーは言葉を並べる。
無自覚ないら立ちが、興味が、そしてその奥にある感情があふれ出る。
「いつか朽ち果てると知っていながらも疾走することは、確かに美しい。だがその美しさにおれは触れられない。輝きを奪い永劫の檻に閉じ込めることしかできないのが、それがおれの総てなのが、あまりにも歯がゆいんだ」
顔を上げ、黄金色の瞳が正面からアモンに向けられる。
「これは……おれの胸を焦がすこれは、何と言うんだ、アモン」
口を開くのには逡巡があった。
アモンの脳裏を、親愛なる教師や、自分を師と仰いでくれる生徒たちの顔がよぎった。
「……その言葉は、悪魔が口にするにはあまりに離れていて、馬鹿馬鹿しくて、手を伸ばす資格すらないものだよ、ルシファー」