目を開ければ、そこは地獄だった。
生命一切の存在を許さない業火が視界を埋め尽くしている。
文明も、営みも、人類が生み出したもの総てが否定される世界。
「ぇ…………?」
そのただなかに放り込まれた少女は、目を白黒させ、これが夢か現かの判断をすることすらできない。
そんな少女の背中に低い声がかけられる。
「来たか」
恐る恐る振り向いた先──そこには、絶望がいた。
視界横一杯に広がる六対十二枚の漆黒の翼。
目の下に血涙のように流れる赤いライン。
「ひっ……!?」
常人ならば直視しただけで魂魄が破壊されるであろう、神秘と荘厳に満ちた異形。
悪魔の頂点というだけでなく、地獄を己が身一つで構成する超常にして絶対、至極の存在。
少女が発狂しなかったのは単に相手が存在のスケールを自ら引き下げていたのに加えて、無自覚ながらにも彼女が持っている権能が、自動発動する形で精神を保護したからである。
「あ、あなたは……」
少女の問いかけに対して、闇そのものが厳かに口を開く。
「宿命を忘れたか。運命を失ったか。だがそれもまた一興だ、力も意思もなき少女よ」
その言葉の意味を、少女が理解することはない。
「我が地獄にお前の席が残ることに、一抹の不安もない。お前はすべてを糧にして進むだろう。だが進む先を定める権利をおれは有さない……人間の使う言葉を借りるならば『お前の信じる道を進め』、といったところか?」
「え、えっと……」
少女の困惑をよそに、偉大にして最悪、至上にして災禍の存在は謡うように言葉を紡ぐ。
「結ばれた縁に偽りこそないが、それは記憶という砂上の楼閣に寄り掛かったものだ。神経を走る電気信号が変われば、世界も変わるだろう。故にお前はおれを知らず、おれもお前を知らない。おれは世界を焼き尽くす炎にあらず、ただお前の夢に現れた、いわば亡霊のようなものだ」
そこで目の前の存在は、何か面白いことがあったように笑い始めた。
「く、くく……このおれが亡霊を名乗るとはな。実に愉快じゃないか」
「はい……?」
「西暦世界においての話だが、人々に亡霊と呼ばれるものが巣食う場所、死後の世界を二分化した際にお前たちが逃れようとする領域の主にほかならないというのに──お前の前では単なる一つの亡霊に過ぎない! 新鮮と呼ぶのは些か腰が低すぎるか?」
そこで少女はおぼろげながらに気づく。
これは双方向性のコミュニケーションではなく、眼前の大悪魔から一方的に伝えられるメッセージなのだと。
「今のおれは過去の残骸の上に佇む、薄い影法師に過ぎない。このひと時とて覚えているかどうかも分からないだろう……だがその瞳に焔が再び宿ること、それは我が権能ではなく、我が意思として確信している」
影が、世界の敵が少しの間目を閉じ、そのまま少女に背を向ける。
「お前は必ずおれの前に立ちふさがる宿敵にして運命。無限の円環を描く星の軌道を疾走する、原初にして最新の輝き。おれの視線を留め、おれの心を内側より焼き尽くす者であるが故にな」
言葉に嘘偽りはない。
彼はいつも少女の内側から世界を見ていて、少女の進む先を見ている。
「夢の時間は終わりだ。そして、もしもお前が日常の始まりに立った際に、この逢瀬のことを覚えているのなら……今のお前の隣に立つ男へと伝えてほしい言葉がある」
「……?」
◇
「で、それってリョウさんのことだと思うんですが……『破壊による創造は自滅と紙一重、引き際を誤るなよ』とのことでした。多分なんですけど、アドバイスしてくれたんじゃないでしょうか、あの悪魔さん」
「待ってくれ待ってくれ待ってくれ」
マリアと二人並んで王都の道を歩きながら、リョウは頭を抱えて呻いた。
データとして大悪魔ルシファーの存在は知っていたが、夢の中に現れてコンタクトを取って来るほどに少女との関係が深いとは思っていなかった。
「それは……どうして朝に言ってくれなかったんだ」
「す、すみません。なんだか朝のリョウさん、少し考え事してたみたいだから、私の夢なんか教えてもな……と思ってしまって」
「いや、それは何よりも優先されるぐらい大事なことだ。これから先は俺が死にかけていようと伝えてくれ」
「それは流石に治療が先ですよね!?」
いやまあ大した治療なんてできないと思いますけど……とマリアは声のトーンを落とす。
それから、視線を地面に落としたまま、ぼそりと呟く。
「あの悪魔さんは、私のことを知っているようでした」
「……記憶を失う前の知り合いだった、ということになるな」
ある程度の事情──記憶を失う前の彼女は大悪魔の因子を持っており、神々だけでなく、地獄の主の側にとっても巫女に近しい存在であったこと──を知るリョウだが、それを明かす理由はない。
「私、一体、何なんでしょうか……?」
「……さあな」
禁呪保有者で大悪魔の因子持ちで次期聖女の友人でミリオンアーク家嫡男の婚約者で王子から求愛されてて何度も国家存亡の危機を救い騎士団大隊長をタイマンで倒した国内最高クラスの戦力ですとか言えるはずもなかった。
「まあ、気落ちするな。記憶はふとしたきっかけでよみがえることもある、と先生がおっしゃっていた。気長にやっていけばいい……」
滔々と言葉を並べた後に、リョウは自分で自分の発言に愕然とした。
(……いや気長にやってもらって、それでどうするつもりなんだ俺は)
膝から崩れ落ちそうだった。
そもそも相手は記憶を失っているとはいえ敵対陣営の中心人物だ、こんな慰めの言葉をかける義理などない。
「あの、リョウさん? こっちで合ってますか?」
「あ、ああ……そうだ、この道を真っすぐに」
不安そうに王都の街並みを見渡すマリアに対して、リョウは進行方向を確認して。
「……ッ!」
身体が反射的に動き、リョウは彼女を押し倒した。
カッと閃光が走ると同時に、マリアの身体はリョウに抱きしめられるような姿勢で路上に横たわる。
遅れて爆発音が響いた。
「きゃあっ!? な、何が!?」
「悪い、言うタイミングがなかった」
マリアの目の前には、自分に覆いかぶさったリョウの横顔があった。
彼は緊張した様子で周囲の様子をうかがっているが、マリアからすればとんでもない姿勢である。急激に自分の頬が熱を持つ。
「あっ! あ、あの、リョウさん、その……」
「分かってる、すぐにどくさ」
言葉通りにリョウは素早く立ち上がり、警戒態勢を取る。
立ち上がったマリアは、服から砂を払った後に周囲を見渡し、頬をひきつらせる。
「ここって一応王都なんですよね……?」
「残念なことに、な」
突然の爆発に市民たちは悲鳴を上げて逃げ出していた。
油断なく視線を走らせたリョウは、爆音の出どころが大通りに面した銀行であることに気づく。
(白昼堂々と銀行を襲撃したのか。しかし騎士の到着までに退散できるという計算あってのことだろう……王都の治安は、この間の不死の兵士たちによるテロ以降劇的に悪化しているな)
グルスタルクが引き起こした、王都においては未曾有の被害を起こした大規模テロ事件。
それを見た反社会組織たちは自分たちもと息巻き、組織的犯罪を活発化させている。
「私たちも逃げた方がいいんじゃ……」
「連鎖的な爆発じゃない、今逃げたところで──ん?」
その時、爆音のした方向から一台の馬車が駆けてきた。
公的機関のマークはない。逃げているように見えるが、がむしゃらさはなく、既定のルートを通っているように見える。
恐らくは銀行を襲撃した面々を載せているのだろうとリョウは看破した。
(やはり足を用意していたか。追跡をかわす算段もつけて、まるで騎士団をおちょくっているみたいだな)
リョウが冷静に分析していたその時だった。
過ぎ去ろうとした馬車が速度を緩め、リョウたちの隣で停車する。
ドアを開けて出てきたのは、口元をバンダナで隠した数名の男たちだ。
「……逃げないのか? 随分と余裕があるじゃないか」
「あと二分ほどの猶予がある」
「この間のテロで見定めたのか、いい仕事だな」
ドアの向こう側に見えた馬車の中には、紙幣や硬貨を入れた革袋がたんまりと積みこまれていた。
銀行襲撃の犯人たちは、騎士団の行動パターンをきっちりと読み切っているらしい。
「誰かと思えばお前だったか、リョウ」
「どこかで顔を合わせたことが、あったかな?」
「闇市場で武器を値切ろうとしてた時に、割って入って来ただろ」
「ああ……あの時のノロマ共か」
リョウは誰が見ても分かるように、なるべく丁寧に分かりやすく、顔に嘲笑の色を浮かべた。
「アンタらにしてやられるようじゃ、騎士団もお先真っ暗だな」
「侮辱には実力で返すのが俺たちの流儀だ」
その刹那、影がマリアの背後に忍び寄り、彼女の首を腕でとらえた。
「きゃあっ!? りょ、リョウさん……!」
目の前の男から意識は逸らさず、視線だけを向ける。
犯人グループの一人が少女を拘束し、その首元にナイフをあてがっていた。
「15秒やる。地面に頭を擦りつけて詫びろ、さもなきゃこの女の裸を晒してやる」
「チッ……」
舌打ちしながら、リョウの眼は敵の瞬間的な隙を探して細められた。
(誰がこんなカス共に土下座なんざするか。マリアを拘束している右腕を根元から吹き飛ばす!)
無刀流の使い手にとってその程度は造作もない。
リョウは相手に気取られないようにしつつ、身体の動きを起こそうとした。
その時だった。
バチリと、光が散った。
『────!?!?!?』
それは雲の上、成層圏を突き抜けた先にある星々の輝きだった。
逃げまどっていた市民たちが、本当の恐怖に圧し潰され、身動きどころか呼吸すらできなくなる。
事件現場に向かっていた騎士たちが想定を遥かに超えた神秘の濃度を感じ取り狼狽する。
「……こいつは」
リョウは冷や汗を一筋だけ垂らしながらも、少女の頭上に顕現した異形を見上げた。
銀河が無理矢理に形を歪め、人の形を真似たような姿。
光り輝く鎧を各所に装備したそれが持つのは、宇宙の最果てすら貫く強弓。
(十三の世界の原初の一つ、形状と武器からしてサジタリウス! やはり彼女の権能は沈静化しているだけで、失われてはいなかったか……!)
マリアンヌの中に眠る十三領域が一つ、人馬宮より飛来せしもの。
魔法、或いは神秘を認識することができる者全員の背筋が凍る。
余りにも違う。自分たちが使う魔法や加護が、子供のおもちゃにしか思えない。
(こんなにも神秘の密度が違うのか……! これが単なる強力な魔法というステージを超越した禁呪保有者の持つ権能……ッ!)
本物はこちらなのだ、と瞬時に理解させられた。
宇宙そのものが君臨しているかのような、言語化して理解することはできないのに、納得だけが先行する感覚。
『────────』
サジタリウスが啼いた。
人には理解できない、エーテル仮定領域を通して発せられる理外の言語。
「ま、待って! そんなことしないで!」
それを聞いたマリアが、悲鳴じみた制止の声を上げる。
だが銀河を貫く者は止まらない。自らの主に害をなそうとした敵を根絶するべく、弓に矢をつがえる。
「あ、あぁ……」
マリアを人質に取っていた男は、サジタリウスを直視した瞬間に思考能力を奪われ、その場にへたりこんでしまっていた。
射手の極光が、男の存在を根底から消し飛ばそうと猛る。
「やめてくださいっ!!」
だが──自らの主の声が、寸前でそれをとどめた。
弓を構えたまま静止し、サジタリウスはマリアをじっと見つめる。
「あ、あの……やめてください。やめてもらっても、いいですか……?」
サジタリウスは渋々といった様子で頷いた後、空間そのものに攪拌されるようにして消えていった。
市街地に恐ろしいほどの静けさが戻る。
(完全にコントロールできているわけではないものの、命令権は変わらず有しているか。歩く爆弾だな、こいつ……何で拾ってしまったんだ……)
自分が拾った少女のスケールに、思わず頭を抱えそうになる。
だが今はそんなことを考えている場合ではない。
「おい、行くぞ。ここにいると厄介なことになる」
事態が落ち着いたのを見て、リョウは声をかける。
サジタリウスが消え去った空間を見つめていたマリアは、そこでハッとした。
「は、はい」
「……いや、少し遅かったか」
リョウの視線の先には、フル武装の騎士団の面々が音を立てて迫って来ていた。
慌てるマリアの隣で、リョウは視線をめぐらせて逃走ルートを精査する。
(チッ、俺としたことがつまらん連中を相手にしてしまったか)
騎士団にまだ捕捉されてはいない、ひとまず飛び込む先として路地裏を見定めようとするリョウだったが。
「こちらに来るといい」
「えっ!? あ、はい!」
突然の出来事だった。
いきなり現れた青年が、マリアの腕を引いて、リョウが見ていたルートとは異なる方向へ彼女を連れて走り出したのだ。
「な……!?」
「君も一緒に来るんだ」
青年の言葉に対して一瞬の逡巡こそ挟んだが、リョウは二人を追って走り出した。
背後では騎士団が市民に状況を確認する声が聞こえたが、こちらに気づいた様子はない。
しばらく走った後に、三人は追手がいないことを確認して立ち止まった。
「あ、ありがとうございます」
「礼には及ばないさ」
青年は黒いスーツに身を固めた、長い金髪の偉丈夫だった。
落ち着いてから見れば、彼が身に纏う雰囲気の異様さに気づく。明らかに一般人ではなく、佇まいには単なる気品以上の、いわば存在の格とでもいうべきものがあった。
「アンタは……まさか」
「ここでは単なるお助けキャラさ。現状、君たちが騎士団に捕捉されることは、私にとっても望ましくないものでね」
驚愕の表情を浮かべるリョウに対して、青年は唇に人差し指を当てるジェスチャーで返した。
それから彼は顔を横に向け、困惑する少女の顔を黄金色の瞳に映し込む。
「身体に異常はないかな?」
「だ、大丈夫です……その、もしかして記憶を失う前の私を、知ってるんですか……?」
その問いかけに対して青年は数秒黙った。
深く、深く息を吐いて、自分の中の感情を抑え込んでから、彼は微笑みを浮かべる。
「いや。知り合いに似ていたんだ」
黒スーツの青年はマリアの肩に手を置いて、そっとリョウへと押した。
「だが違ったようだ」
「は、はあ」
「あの感じでは強盗グループも全員捕まっただろう。今のうちだ、行くといい」
青年の言葉に、リョウは訝し気な視線を向ける。
「本当にお助けキャラそのものだな。だがアンタの存在意義を俺は知っている。何故見逃す?」
「……気まぐれと処理しておきたまえ。私とて、期待自体はしているのさ。王子たちよりも急進的な民主主義者たちの動向はチェックしているが、上手くいくのなら、支援したっていいぐらいなんだ」
「へえ、そうなのか。いいことを聞いたよ」
「プレゼンはいつでもできるように準備していてくれると嬉しい」
探るような会話をした後に、リョウはマリアの肩を叩いた。
「行くぞ。元々正面から行く予定じゃなかったが、ここからなら裏ルートで移動しやすい」
「あ、はい。あの……ありがとうございました! 本当に!」
何度も頭を下げながら、少女はリョウと共に去っていく。
その光景を、青年は笑顔で手を振りながら見送った。
◇
二人が立ち去った後の路地裏で、金髪の青年は深く息を吐いた。
「……なかなかに凹むな。仲良くなれたと思っていた相手に、忘れ去られているというのは」
独り言ちた後に、彼は表情を切り替えて、いつの間にか背後にいた影へと向き直る。
「よろしいのですか。今ならば無条件に殺害できますが」
「私の前で、二度とそんなことを口にするんじゃない」
「……失礼しました」
ぴしゃりと言い放った後に、青年は路地裏から出て、二人が向かった先──王都中枢の大聖堂を見やった。
(そもそも神父の皆さんに見つかる可能性もあるが、そこはあの少年、なかなかにやり手のようだし問題ないだろう)
首を横に振り、大聖堂に背を向けて、正義の味方は一人道を歩き始めた。
(これも一つの結末なのかもしれない。争わずに済むというのなら、それで、ぼくは……)
その背中を、彼を補佐する役割に過ぎないはずの影は、じっと見つめていた。
感想返信遅れていましてすみません。
今日明日中には前回分の感想に返信します。