マリアとリョウが、ダストトレイルの顕現の場となった謁見の間から教皇の手引きでなんとか逃げおおせた後。
二人は大聖堂を無事に抜け出して、自分たちの拠点へと戻ってきていた。
今は夕食の時間であり、食堂代わりのホールにリョウ一派の面々は集合している。
「ひどい顔してんじゃねーかよ、マリアちゃん。なんかあったのか?」
スープをなみなみと注いだ皿を片手に、エプロンをつけたマリアに声をかける男の姿があった。
名をデンドーという、リョウ一派における切り込み隊長役を自任する男である。
「あ、いえ……私がリョウさんに、迷惑をかけてしまって」
「おいおい、そりゃいいっこナシだろ? あいつだってマリアちゃんに山ほど世話させてるじゃねえか」
会話を聞いてリョウがビキリと青筋を浮かべる。
そもそも彼はマリアの隣に座っているので、聞こえないわけがない。
「マリアちゃんは気立てがいいし、美人だからな! リョウみてーなガキは迷惑をかけて構ってもらいたがるもんだろ」
「おい、俺のこと何歳だと思ってんだ」
極めて不機嫌そうにリョウが口を開く。
西暦世界においては中学生程度の年齢に該当するリョウにとっては、そのような形の拙いコミュニケーションは逆に軽蔑や嫌悪の対象となる。
「むしろデンドー、お前の会話の吹っ掛け方の方が問題だろうが。女性相手に好かれたいなら……」
「だはは! もっと俺はボインなねーちゃんと付き合いたいからよ!」
「だからそういうところだって言ってんだよ! 口閉じろ、馬鹿が出過ぎてる!」
スプーンでズビシと指されても、デンドーは笑うばかりだ。
「まあそういうこった、二年後とか三年後とかに期待しておくぜ」
「あはは……」
あんまりな言い様だったが、とりあえずマリアは愛想笑いを返した。
今その女は体のラインが出にくい服を着ているだけだぞ、とリョウは吐き捨てそうになったが──それでデンドーが本気になっても困ると気づき、内心に留める。
「にしてもマリアちゃん、やっぱり磨けばもっと光るわねえ」
続けてうっとりした表情でマリアの肩に手を置くのは、筋肉質な長身が特徴のリョウの仲間、ハーゲスだ。
顔に化粧をしたハーゲスは、男性として生まれたが自分を女性と定義している。
「お金がもっとあれば化粧品を専用に揃えてあげられるんだけど……ごめんなさいねえ、ウチって貧乏だから、共用品扱いじゃないと買えないのよ」
「そ、そんな……! 貸していただけるだけでも嬉しいですよ……!」
「アラもうホンット良い子ね。ウチのワガママな男連中に見習ってほしいわ」
頬に手を当てて笑顔を見せるハーゲスだったが、そこで不意にリョウへと視線を向けた。
「マリアちゃんには、リョウのお世話も任せちゃってるしね。化粧品ぐらい、お駄賃としちゃ安すぎて申し訳ないわ」
「お世話だなんて、むしろ私が拾ってもらって、ご飯を食べさせてもらっている身なのに……」
照れながらもマリアは機敏な動きでパンやスープのお代わりを差し出された皿に載せていく。
記憶喪失の少女は、目下お手伝いとしてリョウ一派の暮らしに溶け込み、今では食卓を取り仕切るまでになっていた。
「うっし! 腹も膨れたし、いっちょ組手といこうぜリョウ!」
「食後にすることかそれ……」
勢いよく立ち上がったデンドーが、自らの掌に拳を打ち付ける。
呆れた声を上げながらも、リョウは空になった食器を持って立ち上がった。
「まあ、少し待ってくれデンドー。今日の皿洗い当番は俺なんだからさ」
リョウはこのグループにおいては誰もが認めるエースである。
指導者こそ先生であるものの、皆が頼りにするリーダーは彼だ。
そんな彼が律義に皿洗いへと向かう姿に、マリアは少し笑みをこぼすのだった。
◇
食堂代わりのホールを出た屋外広場。
普段は戦闘員たちの訓練に使われているそのスペースにて、リョウとデンドーが向かい合っている。
互いに部屋着姿だが、常在戦場も心構えの一つとして有する彼らにとって、服装は戦闘力と直結しない。
「自信ありげだな」
「お前はマリアちゃんにかっこいいところ見せたいだろうが、そうはいかねえよ」
「誰がだよ」
実際、食事を終えたマリアたちも観客として並んでいる。
とはいえそんな雑念などあるはずがない。
ムッとするリョウだが、構わずデンドーは拳を握った。
「さあ、かかって来い!」
「お前が言うのかそれ」
デンドーの構えを見て、リョウは嘆息した。
(まあ、随分と腕を上げたとは思うが……)
その構えは、無刀流と神秘の術式を混合した、リョウたち一派独自の戦闘術式だ。
教会式戦闘術のエッセンスを抽出しつつも、無刀流の強みを十全に生かしたハイブリッドタクティカルシステム。
(とはいえまだ判断に隙があるな、
マリアは知らないことだが──マリアンヌ・ピースラウンドの隣にいつもいる少女は、近接戦闘術同士の対決において大陸でもトップクラスの腕前を持つ。
そんな彼女相手に脅威を感じさせた、もっと言えば互角に戦う権利を有しているリョウは、控えめに言っても大陸最強クラスの腕前を持つということで。
「来ないならこっちから行くぞ!」
勢いよく踏み込んだデンドーは、その場でバク宙のように勢いよくひっくり返った。
何が起きたのかもわからないまま背中から地面に叩きつけられ、げびゃ! と間抜けな声が出る。
「いっでぇ……!」
「何をどうしたら俺が行かないと判断できたんだよ、モロに加速準備してただろ……」
瞬時に間合いを詰めてデンドーを投げ飛ばしたリョウが、皮肉っぽく肩をすくめる。
「くそっ、もう一回だ!」
「ああいいぜ。でもその前に型稽古やれよ」
「分かった!」
威勢のいい返事と共に跳ね起きて、デンドーはその場で構えを取った。
リョウは姿勢が正しいのを確認した後に、観戦していたマリアの隣へと向かう。
「おい、寒くないのか」
「えっ、あ、はい。大丈夫です」
マリアの視線に畏敬の念が籠っているのを感じて、リョウは微かに顔をそむけた。
大の男を一蹴したのは事実だが、自身の経歴を加味すればこの程度は赤子の手をひねるようなものだ。
「すごいですね、リョウさん。あんなに簡単にデンドーさんを転がしちゃって」
「……姉さんに比べたら、純粋な技量じゃまだまだダメだ」
拳を握って、リョウは煮えるような暗い声を漏らした。
先日の顔合わせの際に実感した──驚くべきことに、ユイはまだ成長を続けている。
同門として共に稽古を受けていたころより、ずっと強くなっていた。
「リョウ君は……お姉さんに、戦ってほしくないんですよね」
「…………」
深刻な表情で語るマリアの横顔に、リョウの思考が一瞬だけ白熱した。
別人だと分かっているのに、苛立ちを超えた憤激が胸の奥底から湧き上がってくる。
(……姉さんがあの忌まわしい殺人技術を前向きに扱い始めたのは、お前のせいだろ)
感情のままに吐き出しそうになる。
すべてがおかしくなったのは、自分の姉が闘争の運命を選択するような愚か者になった原因は。
(お前の目が、こんなにも綺麗な紅色だったから、姉さんは……!)
だがリョウは結局、今は何も知らない少女に対して、口火を切ることなどできなかった。
◇
ロイ・ミリオンアークは優秀な魔法使いである。
宿命が故に、
(妨害術式を破壊して回るだけではたどり着けないな。これぐらい計算の内なんだろう……)
学園の休憩室にて、彼は頭の中に描いた王都の地図上にマークをつけていく。
マリアンヌを探そうとした際に、各所で人払いの結界が作動していることを彼は正確に見抜いていた。
(あの精度、ナイトエデン・ウルスラグナが仕掛けたものだろう。すべてがマリアンヌを匿うためとは思わないが、一部を転用しつつ、新たに仕掛けている……)
思考をまとめながら紅茶を啜る。
そうして没頭している彼の席に、カタンと音を立ててティーカップが置かれた。
顔をあげれば、制服姿のリンディとユートがそこにいた。
「アンタひどい顔よ」
「分かってるよ、それぐらい」
それだけ返して、ロイはまた視線を宙へと彷徨わせた。
仕掛けられていた妨害魔法の位置から逆算して、隠蔽したい地点、たどり着かせたくない場所を導き出せないかと試行錯誤している途中だったが──ランダム性が高すぎた。
(僕たちが探し回っても意味がない、と分からせようとしているのを感じるな。こういう領域でも隙が無いとは、恐ろしい連中だ)
苛立ちに表情が強張るロイを見て、リンディとユートは顔を見合わせる。
「ユート、あんたはどう思うの」
「あいつがいなくて不安なのは俺も同じだが……ったく、見てらんねえな」
席に座りながら、思考を遮るようにしてユートが声をかける。
「お前、準備できてんのかよ」
「……何の話だい?」
「クリスマスパーティー用の一張羅だよ。見繕ってねえだろ、その調子じゃ」
「そんなこと言ってる場合か?」
声にこれ以上ない苛立ちが混ざったのを自覚して、ロイは息を吸った。
冷静さを失っている自覚はある。
「……すまない、今のは仲間にかける言葉じゃなかった」
「気にすんなよ。そもそもあいつがどういう状況か想像してみろよ、絶対に無事だぜ。好き放題やってんじゃねえのか?」
「そう、だといいんだけどね」
ロイとて、マリアンヌがそう簡単に窮地に陥るとは思っていない。
だが連絡がないこと、確かに自分たちの捜索を妨害している勢力がいること、それらを合わせて知る以上は焦りばかりが募っていくのは仕方ないことだった。
「ジークフリートから聞いただろ。国王アーサーがマリアンヌの無事を保証しているって」
「……分かってるよ。僕にできること、できないことの境界線は見えている」
深く息を吐いた。
最近は動き回るか机に座って捜索場所を見定めるかばかりで、身体の調子が損なわれている。
「じゃあ今から礼装を見に行くわよ。今年は入学して初めてのクリスマスパーティーなんだから、新調したくない?」
リンディの言葉は自分を気遣ってのものだと分かっていた。
そして──それを無下にするのは、切羽詰まっているのではなく、ただ自分の視野が狭まっているだけだとも分かっていた。
「ああ、そうさせてもらうよ……最近のトレンドって何だい? ここしばらく、すっかりその辺りを調べていなくてね」
「触手柄のネクタイが流行ってるらしいわよ」
「この国終わり過ぎじゃないかい?」
◇
薄暗い階段を下りて、下りて、その果て。
肌を刺すような荘厳な神秘が空間を埋め尽くす、大聖堂の真下にある空間。
「おいおい……そんな暇人じゃあないはずだろうが、次期聖女サマはよ」
やってきた来客を見て、その空間の主である元聖女リインは口をぽかんと開けた。
「時間はきちんと取っています。公務に影響が出ない範囲で来ました」
鉄格子を挟んで相対するは、己とは違う本物の聖女──ユイだ。
「そうかい、そりゃよかった。にしても顔色が悪いな……あんまり寝てねえし、メシも満足に食ってなさそうじゃねえか」
「……色々とありまして」
表情を曇らせるユイに対して、リインが唇をつり上げる。
「なるほどねェ。あのイカレ女が行方不明になって、すっかり意気消沈ってか?」
「……ッ!? どうして知っているんですか!?」
驚愕に目を見開くユイの前で──(こいつ今イカレ女ってワードで普通に通じたな)という言葉を飲み込みつつ──リインは自分のこめかみを指で叩く。
「『
わるーい偽聖女ちゃんに全部読み聞かせてるみたいなもんだぜ、とリインが嘲りの笑みを浮かべる。
「ま、それを悪用するようなことは、やろうと思ってもできねえ状態なんだがな。暇つぶしにやってるみたいなもんだ」
「……そのレベルで禁呪を行使することが可能なら、あなたは拘束を破って外に出ることもできるんじゃないですか?」
「かもな。今試してみるか?」
空間の温度が下がった。ユイの肌を、修羅場の予兆が針となって刺す。
薄ら笑いを浮かべたままで、リインは口を開いた。
「──いやいや、やんねーよ。あたしだって馬鹿じゃねーし。お前だけでもかなり絶望的なのに、山ほどいる神父連中相手にするなんざ無理無理」
ぱたぱたと手を振って、元聖女は椅子に深く座りなおした。
「で、一体全体何の用だ。流石に会話聞いてるだけだから、あの女がどこにいるかなんか分かんねーぞ」
もちろんリインとて、その件で自分を頼ってきたわけではないだろうとは分かっている。
ユイは居住まいを正して、息を吸った。
「あなたに聞きたいんです……聖女の資格とは、何なのかを」
「持ってなかったんだけど?」
呆れた様子でリインは肩をすくめた。
悪魔に憑かれていた自分にとって、それは最も遠い言葉だった。
「いいえ、あなたは……持っていると思うんです。私なんかよりもずっと」
「へぇ……?」
だがユイの表情は真剣そのものだった。
リインは彼女と視線を重ねてしばし黙り込むと、一つ頷いた。
「ま、神の威光に焼かれる側に落ちぶれちゃいるが、年下の子供の話を無下にするほど自分を見捨てたくもねえ……話してみろよ」
大聖堂の地下深く、聖なる加護が届くのか不安になるような最下層にて。
次期聖女と元聖女は、静かに対話を始めた。