「────その程度ですか」
崩れ落ちる間際。
こちらを見下ろす、彼女の両眼を見た。
真紅だった。茜空をすくい上げたような、透き通った朱色だった。
「こんなものですか」
倒れ伏す己を足蹴にして、彼女は周囲を見渡した。
無駄な行為だ。もう戦える者は自分しかいない。いなかった。そして最後の自分すら、こうして無様を晒している。
「これで終わり、ですか」
失望を隠そうともしない声色。
ああそうだ、と認めてしまう弱い自分がいた。
まだだ、まだやれると叫ぶ自分もいた。
「……貴女は?」
「ッ!」
自分以外にもまだ、立っている人間がいたのか。
視線だけで背後を確認すれば、確かにそこには、黒髪の少女がいた。
「いえ。目を見れば分かります。戦える人間ではないのでしょう」
「…………どうして、こんなことを……?」
「決まっています。わたくしが最強であることを証明するために」
「最強って、それは────」
言葉に詰まる少女を相手に。
絶対の勝利者である彼女は、地面に届くほど長い黒髪をばさりとなびかせて告げる。
「正義なき力が暴力であると同様。力なき正義など、子供の戯言以下ですわ」
「────!」
「覚えておきなさい。わたくしの名はマリアンヌ・ピースラウンド。貴女がもし、自分の意志を貫こうとした時。或いは天命を理解し立ち上がった時──貴女の障害となる女ですわ」
続いた言葉を聞き。
最後に倒れ伏した男子生徒は、砕けるほど、奥歯をかみしめた。
(彼女の眼中に、俺はいない)
瓦礫と同化してしまったのではないか、と錯覚するほどに、もう舞台上に自分の存在感はなかった。
嫌にうるさい心臓の鼓動だけが、自分はここにいると叫んでいる。
それはかつてない、己の無力さに対する苛立ちだった。
(彼女は……俺を見てなんか、いない)
彼の名は、ロイ・ミリオンアーク。
王国政府中枢にすら影響力を持つミリオンアーク家の嫡男。
そして彼女──マリアンヌ・ピースラウンドの婚約者でもあった。
魔法学園の授業は多岐にわたる。
単純な魔法の使い方だけでも、基本的な四元素属性それぞれが別講義で行われるし、実生活で用いられるマナ操作も初年度はそれなりのコマ数を割かれていた。
箒による飛行、使い魔の使役、などなど。覚えてられっか。
「ピースラウンド様。本日も麗しゅうございますね」
「うん」
「ピースラウンド様……?」
「オーホッホッホ! 当然ですことよ! わたくしの美貌に全米が泣き、大地に花が溢れておりますわ!」
あぶねえ。朝イチでボロを出していた。
わたくしことマリアンヌ・ピースラウンドは大げさな笑みを浮かべつつ、教室のど真ん中を闊歩し、それから最後尾の机に優雅に腰かけた。
世紀末悪役令嬢伝説を目指している身としては、ドッと腰かけて机にドカッと足を乗っけたいところだが……いかんせんスカートなので却下。実家直営の工場で試作中のジーパンが完成すれば最速で履くんだけどな。
「ああ、今日も自信に満ちていらっしゃるわ……!」
「わたくしもピースラウンド様に焼き尽くされたい……!」
「ピースラウンド様の
マジでこいつら使えねえ。唾を吐き捨てそうになるのを必死にこらえる。
わたくしを追放しろつってんの。マジ今ここでビンタしてやろうか。
してみるか。
わたくしは席を立つと、少し離れた席に座る女子の元へ歩み寄った。
「ちょっと失礼しますわ」
「へ? ひでぶ!」
パァン! と風船が破裂したような音が響いた。
腰の捻りを乗せ、手首のスナップを利かせて、その女子を思いっきりビンタしてみたのだ。
「失礼。虫がいたもので」
どう考えても虫相手に放つ威力ではなかった。
さあこれでどうだ、とビンタした相手の女子生徒を注視する。
叩かれた頬を押さえ、数秒呆然としてから……だんだん目がトロンとし始め、叩かれてないほうの頬も紅潮し始めた。
「ぴ、ピースラウンドさまぁ……」
「オーッホッホ!」
高笑いをあげながらわたくしは自分の席へと飛ぶようにして帰る。
クソが! 入学試験でマゾだけ受からせたのか?
「今日も刺激的……」
「ええホント……朝からビンタされるなんて、羨ましさの極み……」
俺はビキバキに引きつった笑顔を貼り付けながら、周囲の会話を聞かなかったことにする。
追放されるならこいつらの性的嗜好が一番の難関かもわからんね。
その時だった。
「ハァ……」
タガハラさんが、わたくしの隣に座りながら『こいつらマージなんにも分かってねえな』みたいな態度をしていた。
「ちょっ……あの庶民態度悪くない?」
「いちゃもんとかじゃなくて普通に態度悪くない?」
「ていうかナチュラルに隣に座ったわよ」
「庶民の癖になんて図々しい」
庶民とか関係なしに図々しいなとはちょっと思った。
「まったく、ピースラウンドさんも大変ですね」
「え、えぇ……」
なんだこいつ? お前庶民ですわよね? なんで苦労は分かるってばよみたいな顔してんの?
結局そのままタガハラさんはわたくしの隣で授業を受け、ことあるごとに手紙を渡そうとして来たりしてクッソうざかったですわ。
ユイ・タガハラは男子寮の屋外庭園にいた。
白い椅子に腰かけ、落ち着かない様子で周囲をきょろきょろと見ている。
「突然の誘いで申し訳ありません、ミス・タガハラ」
「あっ! い、いえお構いなく!」
対面に座るのは、『王子』という言葉を聞き万人が思い浮かべた好青年──それをまるっと合成して、純度を落とさなかったような、そんな男だった。
(……で、誰なんだろう?)
彼女がここにいるのには2つの原因があった。
1つは、ユイが生来の好奇心から、マリアンヌが職員室に行っている間に校内を探険し、そうして男子寮にたどり着いたという経緯。
もう1つは、本来ならば女子生徒の立ち入りは禁じられている寮から、『敷地内ではあれど、寮とは異なる施設である』という言い分で屋外庭園に彼女を助け出した男子がいたという理由。
「自己紹介が遅れましたね。お初にお目にかかります、ユイ・タガハラさん。私はロイ・ミリオンアークと申します……やや形式ばったあいさつになってしまったけど、僕も君もお互い、肩の力は抜いて話そうか」
「あ、はい。初めまして……」
会釈しながらも、ユイは言いようのない既視感を抱いていた。
(……ミリオンアーク? 私その名前、聞いたことがあるような……)
輝く金髪と甘いマスク。生徒たちからどよめきともつかぬ歓声が上がっていた。
そうだ。彼は、ユイもいた入学式会場で、壇上に上がっていたではないか。
(ああ、そうだ。ピースラウンドさんが暴れる前に、壇上に立っていた。新入生代表の……!)
入試主席。
並みいる貴族たちを歯牙にもかけない超のつく名家。
王族とのつながりも強く、もはや政権中枢に食い込むほどの権力を持つミリオンアーク家。
その嫡男であり、文武両道にして質実剛健。
御前試合においてはたった一人の相手を除き無敗。
希少な雷撃魔法適合者であり、稲妻の如き速度と威力を誇ることから『強襲の貴公子』の異名を取る麒麟児。
彼──ロイ・ミリオンアークは雲の上の人間だった。
ちょうどそのタイミングで、寮に勤める使用人が二人分のティーカップを運んできた。
「親族が茶葉を送ってくださってね。良ければどうかな」
「い、いいんですか」
「勿論。東の方……極東ほどはいかないけれど、異国の商品だからね。飲みなれない味や香りがするかもしれないけど……一級品なのに間違いはないよ」
告げて、涼しい顔でロイは紅茶を一口飲み干した。
追随するようにしてユイも口に含めば、微かな酸味と、複数の苦みがまじりあって舌を刺激した。
我慢して飲み込むと、胸のあたりが熱くなる。薬効でもあるのだろう。
(うっ……ヘンな味)
「どうだろう。マリアンヌと仲良くしてくれているみたいだけど、最近の彼女は機嫌がよいのかな」
「え、ええと……ピースラウンドさんは、なんていうか、特にお変わりありません。私なんかに付き合ってくださるのは驚きですけど」
喋っているうちに、不快感は消えていった。
むしろユイは全身が少し汗ばむのを感じた。
「彼女は意外と、人見知りなところがあるからね……君がどうやって仲良くなったのかは、少し気になってるんだ」
「そんなに特別なことが、あったわけじゃないです。私、何度か話しかけて……そうしたら、少しずつ会話には応じてくれるように……」
「驚きだ。たかが数回話しかけただけで、雑談ができるようなレベルになるなんてね。最初から君に興味があった、と言われても信じられるよ」
ロイは穏やかな笑みを浮かべて、それからもマリアンヌとユイについていくばくかの質問をした。
世間話の延長なのだろう。しかし。
「あの、どうしてピースラウンドさんのことを?」
「ああ、僕はマリアンヌ・ピースラウンドの婚約者だからね」
ピシリ、と何かにひびの入る音がした。
それが自分自身の胸の中から聞こえた音だと、ユイは知らず知らずのうちにちゃんと分かっていた。
日が沈み、空が茜色に染め上げられたころ。
ユイは土産の茶葉を片手に、とぼとぼと女子寮への道を歩いていた。
(……婚約者がいらっしゃっただなんて)
どうして自分に教えてくれなかったのだろうという嘆きと、そんなの思い上がりも甚だしいという自分の糾弾が、ユイの中で渦巻いていた。
短い時間ではあったが、それなりに仲良くしてくれているという自信があった。他の皆よりも距離が近いという優越感すらあった。
(……そんなことなかった)
嘆息して、道に伸びる自分の影を見つめる。
ぼうっと歩を進めていると、不意に別の影と自分の影が交錯した。
顔を上げると、どうも町で買い物をした帰りらしい、同じ魔法学園の女子生徒がいた。
「それにしても最近はどのメーカーもだめねえ。芸術性ってものがないわ」
「まったくよ。フリルをつけるだけつけてればいいと思ってるんじゃないのかしら」
「ほんとアクシーズファム着てる女許せねえ」
いかにもな女子生徒たちだった。
三人目は特定のメーカーにキレ散らかしていたが、何かうらみでもあるんだろうか。
(とりあえず回り道しよっかな……)
「ん? あらあら、タガハラさんでしたっけ? 十数年ぶりの、庶民出の入学生」
嘲笑する声色。
目をつむって深呼吸して、ユイは尊敬する令嬢の顔を思い浮かべた。
彼女ならどうするか。
「──失礼します」
胸を張って、大股にずんずんと歩き。
ユイはその三人組の眼前を横切って、堂々と立ち去っていった。
「……ッ、貴女ねえ、失礼だと!」
一人が食って掛かろうとして、だがユイが手に持つ小包を見て息を詰まらせた。
「その袋」
「え?」
「ミリオンアーク様の家の袋じゃない?」
あ、と間抜けな声をあげて、それからしまったと顔をしかめた。
「何? あんたなんかが何をもらったというのかしら」
一人が手を伸ばし、小包をむんずと掴む。
ユイは思わず手を払いのけた。
「やめてください!」
声に出してから、ハッと気づく。
三人の空気がもう違う。ユイが抵抗することを予想していなかったのだ。
おもちゃだと思っていた相手に、手を振り払われたこと。それは貴族にとっては、ユイの想像を超えた屈辱を意味する。
「庶民のくせに────」
ぞわりと、ユイの背筋を悪寒が走った。
相手の体内で《魔力》が膨れ上がる感覚。マリアンヌが見せてくれるものよりやや遅いが、間違いなく魔法発動の前兆。
だがそれを読み取れたところで意味はない。自衛用の簡易魔法すらユイは満足に放てないのだ。
(……ッ!)
両目をつむり、自分の身体を守ろうと両腕を前に突き出して。
「
雷が迸った。
魔力の充填も、形成も、発動も、何もかもが速過ぎた。
発動された魔力、炎が矢を象って射出されたそれを、黄金色の光が砕いた。
恐る恐るユイが目を開けば、破壊された魔法の残片が空中に漂い、夕日に煌めている。
その輝き越し。
ただ一人で、制服の上に、金色に縁どられた純白のコートを翻し。
ロイ・ミリオンアークが歩いてきていた。
「……ッ、ミリオンアーク様……!?」
「彼女は私の婚約者である、マリアンヌ・ピースラウンドの客人だ。手に持っているのは、マリアンヌへの土産だよ」
彼の言葉に、女子生徒たちの顔がさぁっと青ざめる。
男子寮と女子寮の中間地点であり、ここは町へ連なる馬車道でもあった。かのミリオンアーク家の嫡男がいるだけでも十二分、加えて庶民出の少女までいるとあって、学生たちが何事かと見物を始めている。
「彼女、ユイ・タガハラへの侮辱は、私とマリアンヌへの侮辱と思っていただこう」
「そんな……!?」
ビッグネーム2つが並び、思わず足から力が抜けそうになった。
「ちょ、ちょっとミリオンアークさん! ピースラウンドさんの名前を勝手に使っていいんですか……!?」
「別にいいんだよ。家柄としては僕の方が格上だし」
「なんか突然貴族っぽいこと言い始めましたね!?」
なるほど確かに、彼女をかばい立てするのも分かるほどには砕けた口調で会話をしている。
そんな馬鹿な、と呻きたくなった。
あんな庶民出の女相手にどうして、新入生の二大巨頭が心を開いているのだと。
ロイ・ミリオンアークと。
そしてもう一人。
「────なんの騒ぎかしら」
音が、消えた。
雑踏が静寂に包まれ、次の瞬間、人混みが真っ二つに裂ける。
道が出来上がった。彼女が歩く道、何人たりとも邪魔できない、王の進む道。
開けた道の向こう側には、腕を組み、沈みゆく陽を背にした、マリアンヌ・ピースラウンドが佇んでいた。
おかしい。
タガハラさんがよく分かんねえ女子に絡まれるとこまでは見ていた。
これはチャンスだと思ったのだ。うまいことタガハラさんが……そう、服剥かれる程度のとこまでいって、それから止めればいいと思った。善人として止めるのではなく、イイ感じに巨悪として「シケた遊びしてんじゃねーよ三下が……」みたいな感じで悪役令嬢アピールできると思ったのだ。
それがなぜ、わたくしの婚約者くんがこんなに出張っているんだ?
……あ! あああーーーー! あーー!!!!!
もしかしてお前、パッケージとかに出てくる主役クラスの攻略対象だったりすんのか!?
確かに王道属性を詰め込みまくったイケメンだとは思っていたけど、さてはメインだなおめー!
「ちょうど良かった、マリアンヌ。親戚がとてもおいしい茶葉を送ってくださってね。何でも西方由来の貴重なお茶らしいんだ」
にこやかな笑みを浮かべて、ロイがわたくしに話しかけてくる。
クソが……したり顔してんじゃねえよ。事態を収拾しきった後特有の全能感やめろ。
「もしよければ、今から一緒にどうかな?」
「おととい来やがれ、ですわ」
ビシリ、と空気が固まった。
周囲の面々の表情が強張っているのを適当に眺め、それからわたくしは踵を返した。
「あの、婚約者なんですよね……?」
「わたくし、雷にはいい思い出がねーんですわよ」
「……え?」
後ろを振り返ると、ロイが苦笑いを浮かべながらわたくしを見つめていた。
適当に肩をすくめておく。
「相変わらず
「手厳しいな」
だってそれ金色でメッチャ綺麗で悔しいもん。セイバーみたいで超羨ましいもん。
わたくしもそれが良かった!! キーーー!!!
立ち去っていくマリアンヌの背を追おうとして。
ふと、ユイは隣に佇むロイの掠れた声を聞いた。
「……まだ、だね」
「?」
「まだ、彼女は俺を見ていない」
魔法の発動速度。
かつてとは比べ物にならなくなった。
けれど、入学式では、完璧に対処された。
魔力を練り上げる精度も進歩したと思った。
完璧に制御下に置いたという自負があった。
けれど、彼女の腕の一振りで霧散した。
何よりも、魔力放出の質。
同年代はおろか、王国騎士団の精鋭を吹き飛ばすことが可能になった。
近衛騎士が太鼓判を押したのに、彼女にとっては『雑な魔力放出』らしい。
思わず、乾いた笑みがこぼれた。
それから咳ばらいを挟み、黒髪の少女に笑みを向ける。
「……タガハラさん。送っていこうか?」
「あ、いえ! 大丈夫です!」
ユイは一礼してから、慌ててマリアンヌの背を追いかけ走っていく。
茜色の空の下、マリアンヌとユイの姿が並ぶのを見て、ロイはぎゅっとこぶしを握った。
飲ませた紅茶。自白剤が入っていた。
ロイにしてみれば、ユイのマリアンヌへの接近はあまりに不自然だった。
スパイである疑いをかけていた。その彼女が男子寮に侵入してきたときは、もしスパイならド下手糞だと思った──だがチャンスでもあった。
「自白剤が効かない体質、あるいは胃まで落とさず口内に留めた可能性は?」
「魔法によって液体の重量を重くしておりますので、確実に胃まで届き、脳へと魔力を送信しているはずです」
振り向きもせず、いつの間にかそこに居た使用人へ声をかける。
ロイは両手をポケットに突っ込むと、金縁の施された白いコートを翻して歩き出す。
「警戒レベルは引き下げない。何かあったら俺にすぐ知らせろ」
「御意」
使用人の姿がかき消える。
男子寮に勤める使用人、に擬態させた、ミリオンアーク家お抱えの諜報部隊だった。相変わらずいい仕事をする、とロイは音もなく消えた部下に感嘆する。
一人、帰路を進む。
脳裏によぎるのは入学式の日の無様な敗北。
けれど。
最後の最後。刹那にも満たない時間。
自分を、見てくれていた。
戦っている時しか此方を見てくれないのなら、より長く戦い続けられるように。
瞬殺されるのではなく、永遠に剣を振るい続けられる強靭な肉体と、魔法を防ぎきる鉄壁の防御を身につけなければならない。
あの目に映るのは自分だけでいい。
あの真紅眼に、自分だけを永遠に映しこんでしまいたい。
その、マリアンヌ・ピースラウンドの、真紅の双眸に。
ロイ・ミリオンアークはかつて、そして今もずっと、心を奪われているのだから。