大聖堂の礼拝堂の懺悔室はイメージ通り、こじんまりとした簡素な部屋だった。
通常の礼拝をするための広間とは別ルートだからか、他に人気はない。
「ありがとうございます」
「い、いえ……その、本気ですか……?」
ここまで案内してくれた小太りな神父さんにお礼を告げる。
彼は冷や汗を浮かべながら、何度目になるかも分からない同じ問いを投げてきた。
「驚くのも無理はないでしょうが、知人の勧めでして」
「なるほど……」
「こう見えて色々と、その。罪深いこともしておりますの」
「あっ違います、懺悔することがあるのに驚いてるのではなくそれを懺悔しに来たことに驚いてるんです」
「どつきまわしますよ」
「そういうところですよ」
確かにこの態度を普段からやってるやつが、突然殊勝にも懺悔しに来たとかそりゃびっくりだわな。
「では私はこれで失礼します……くれぐれもその」
「大丈夫ですわ。一通りの作法は存じ上げております」
「懺悔室は壊さないでくださいね」
「本当に壊してやりましょうか?」
「そういうところですよ」
クソが。わたくしのことなんだと思ってるんだ。
〇red moon 祈りだけで物理的破壊ができるの、強キャラっぽいな。良かったなお嬢
〇宇宙の起源 普段祈りを馬鹿にするような言動をしておきながら心の根っこでは祈るという行為に価値を認めているお嬢、完全に解釈一致です。本当にありがとうございます。
わたくしの解釈とかされてもな……もっと有意義なことあるだろ。ユイさんとか解釈のし甲斐があると思うけど。
神父の背中を見送った後、わたくしは懺悔室の中に入った。
椅子に座り、仕切りを正面から見つめる。ちゃんと声を通すように設計された壁だ。埃っぽくもない。定期的に使われているのだろう。
さてと。向こう側から呼びかけられるまでは待ちだ。
膝の上に手を置いて背筋を伸ばす。今のわたくしは貴族ではないし、学生でもない。懺悔をしに来た一市民である。最低限守るべき礼儀というものがあるだろう。
そうしていると、壁の向こう側から、微かなささやき声が聞こえる。
『おい……本当に来ちゃったぞ……やべえって……』
『誰行く? 私絶対やだよ、王国の守護獣を殺傷してしまいましたとか言われたら失神する自信があるもん』
『大量破壊用
この壁ぶち壊して全員の前歯へし折ろうかな。
ビキバキと額に青筋が浮かぶのを感じる。わたくしのことなんだと思ってんだよ。
さすがに何か言い返してやろうかと思っているうちに、向こう側では、わたくしの懺悔の内容を推察する会話が進んでいく。
『他国の王子を半殺しにしました、とか……』
『大量殺人鬼を私情で見逃しましたとか?』
おっと正解が二連続で飛び出てきた。
もしかしてわたくしへの評価、実は適正だった?
『禁呪保有者とか言い出したりしないよな……』
『悪魔と契約してますとかかもしれねえぞ』
すみません、原初の禁呪保有者で、大悪魔の因子持ちです。本当にすみません……
『よし、じゃんけんで決めよう。じゃんけんな』
『私最初チョキ出すから』
『ここで心理戦!? お前本気で行きたくなさすぎるだろ!』
『はいはい、じゃあいくぞ。じゃーんけーん』
『ぐわあああああああああああ』
人死んだ?
断末魔っぽい絶叫を最後に、しばらくの静寂があった。
ごくりと唾をのんで待っていると、壁の向こう側に、誰かがやって来た物音がした。
「お待たせしました」
「あっ……はい……」
しっかりとした声色だった。
『大丈夫かー? 膝震えてるぞ?』
『マジやばくなったらタガハラ様呼ぶから無理しちゃダメよ?』
なんだろうな。マフィアの頭目に謁見するチンピラみたいな構図だなこれ。
流石にこの扱いはあんまりだ、と肩を落とす。
〇つっきー いや仕方ないっていうか私たちも心配だよ。ちゃんと懺悔できる?
はじめてのお使いを見守るお母さんですか?
確かに懺悔は初めてですが、大丈夫ですわ。進研ゼミでやった気がします
〇第三の性別 ベネッセ手広いなあ!
〇鷲アンチ こいつの懺悔聞くくらいならケーキが工場で大量生産される工程の動画とか見てる方がまだマシ
〇苦行むり あれ面白いよね、ありえない量のバターとか使ってて笑う
こいつら、舐めやがって……!
見てろよ。完璧に懺悔して、吠え面かかせてやるからな。
「あなたに、神は回心を呼びかけておられます」
「はい」
「神の声に心を開いてください」
ほーん。第一関門だな。
神の声、か。
何か言いたいことあります?
〇つっきー はいもうダメ
〇宇宙の起源 「作者の気持ちを答えよ」で作者召喚して正解聞いてるみたいなもんだからなお前
〇無敵 かぐや様は告らせたいをかぐ告って略すの、正直ドラゴボとかジョジョきみょとかと同じ系譜じゃね?
なるほどな。
「かぐや様は告らせたいをかぐ告って略すの、正直ドラゴボとかジョジョきみょとかと同じ系譜じゃね? だそうです」
「え、何が?」
「神の声です」
「………………アナタに、神は回心を呼びかけておられます」
おいなんか選択肢ミスったっぽいぞ。会話がループしてる。
〇日本代表 はいって言っとけ!
「はい」
「ヨシ!」
今ヨシって言った?
「……神の御心は寛大で、海のように広いものであらせられます。慈悲が降り注ぐのを待つために、その間に、あなたは今から、あなたの罪を告白してください」
「…………わたくしは」
罪の告白。やっとだ。
静かに息を吸った。
目を閉じる。今でも明瞭に、瞼の裏に浮かぶ。
「わたくしは、今この時は……素直に懺悔いたします」
刹那だった。
「わたくしは、守れるはずだった笑顔を────おや?」
「え? どうしました?」
瞳を開いた。
座っていた椅子が軋んでいる。身体から放たれる無色の圧力がそうさせている。
わたくしの全身を、神秘的な加護が循環していた。
「これは……!? 力が、漲ってきます……!」
「は?」
「なんということでしょうか! これが、これが懺悔の効果なのですか!?」
「えっ……知らん……え……? 何それ……コワ……」
直後である。
大聖堂中に火花が散った。
壁が一瞬発火し、黒焦げになってからバコンと倒れた。向こう側に口をぽかんと開けたままの若い神父さんが突っ立っていた。彼の髪はアフロになっていた。
何? 何なんすかねこれ。
もしもしカスタマーセンター?
〇苦行むり ……ごめん。ちょっとその、こっちとのリンクが強すぎて
〇太郎 お嬢が正規の手順でアクセス可能な場所で祈りをちゃんとささげた場合、なんだけど
〇木の根 こっちからのフィードバックが激しすぎて、余波が破壊現象になるな
えーと、つまり?
〇日本代表 お前、手動セーブ禁止な
あっこれセーブ機能だったんです!?
なるほどセーブ禁止……縛りが追加されるとよりRTAっぽくなってきましたわね……
腕を組んで頷いていると、若い神父さんがその場にゆっくりと崩れ落ち、同僚たちが悲鳴を上げて駆け寄っていた。
まあ見た感じケガはない。ないんだが、どうしようかなこれ。あちこちで廊下を走る音とか大声とか聞こえる。ちょっとしたテロだと思われてるっぽい。
さっさと説明しに行くか。なんて言えばいいんだろう。ユイさんの友達としてフルにゴリ押しするしか思いつかねえな。
〇外から来ました お前がもともとあんまり祈らない方で良かったよ
そりゃまあ、祈る暇があるなら自分でつかみ取った方が早いですからね
〇宇宙の起源 お前教会に何しに来たんだよ……
分かんねえ。このままだと無差別破壊するためだけに来た感じになる。
それは勘弁してほしいところだな……
倒れてしまった神父さんを同僚たちに預けて、わたくしは大聖堂の公開されてる範囲を見て回る。
さっきの小太りの神父さんとかに事情を説明しておきたいところだが……なんか、同僚の人たちから説明行くんじゃない? わたくしから探さなくてもいいかもしれないんじゃない?
とりあえず入口の大広間に戻ろうと廊下を歩いていると。
「……ッ」
呼ばれている。
何だ? 声じゃない。思念にすらなり損なっている。
ただわたくしに向けられた、何かしらの力場を感じる。
〇みろっく 神性系の反応じゃないな。何だこれ?
こっちか?
廊下を曲がり、地下へ向かう階段を下りた。
すれ違う神父たちはあわただしい様子であっちこっちに走り、事態を把握しようとしていた。その混乱の中をすり抜ける。
胸騒ぎがする。力場もあるが、地下に降りるたびに少し息が詰まっていく。
〇つっきー 自覚ないだろうけど、今限りなく理想的なスパイムーブしてるんだよな
〇火星 騒動を起こしてそっちに注意を逸らして地下に潜っていくの本当に手際よすぎて笑う、トム・クルーズかな?
全部偶然なんだよなあ。
地下三階ほどに降りると、いよいよ人気はなくなり、冷や汗が浮かび始めた。何か、空間自体と相性が良くない気がする。
だが何かしらの力場は確実に強くなっている。発信源が近いのだ。
薄暗い廊下を、足音を殺して静かに進む。力場の発信源へ直進する。鉄製のドアをあけ放つと、空気の温度ががくんと下がった。まっすぐに鉄格子の部屋が並んでいる。
独房? 入っている人間こそいないが……大聖堂の地下にこんな施設があるのをユイさんは知っているのか?
〇トンボハンター これ……あれだな……
〇外から来ました 秘密を発見してしまって後ろから襲われるやつだな
……うわ……ほんとじゃん……警戒しよ……
星を纏え、と二節詠唱で周囲に流星のビットを滞空させた。敵意を察知すれば自動でガードする仕様だ。
自分でも周囲に視線を巡らせながら、ゆっくり進む。歩くたびに指先がしびれるような感覚がした。やがて鉄格子の列が終わり、またもやドアが立ちふさがった。
向こう側に人の気配を感じる。誰かがいる。
「誰ですか」
「ッ」
先んじて向こうに呼ばれた。
気配は完璧に殺していたはず。っていうかその声は知った人の声だ。
「どうやら気配察知の技術に関しては、わたくしはまだまだのようですわね」
「え……マリアンヌさん……!?」
ドアを開ける。
そこには、聖女としての、紺色と白をベースとした礼服に身を包んだユイさんがいた。湿った土の廊下に椅子を置き座っていた。
彼女はわたくしが入ってきたのを見て驚愕の表情を浮かべている。
「一体全体なんですの、これは。上は大騒ぎだというのにこんなところにこもって……」
原因であることはいったんさておき、わたくしはユイさんの元へと歩み寄る。
人の気配は一つじゃなかった。
鉄格子越しに彼女と会話していた女性が振り返る。
「な……ッ!?」
「あん? お前……久々じゃねえか。よう、自称聖女様。あたしが豚箱ブチこまれてお前が無罪なの、勝てば官軍って感じでいいよな。あたしは納得いくぜ」
寒くないよう動物の毛を編み込んだセーターを着こみ、膝に毛布をかけて。
彼女は鉄格子の向こう側、冷たい独房で軽口を叩く。
悪魔に憑りつかれ、教会内部で聖女の権限を拡大した女。
禁呪『
「聖女……リイン……ッ!?」
「元聖女、な。つか元にしたのはお前だろーが」
「ここは見てくれこそ最悪だが、住めば都ってやつだ。栄養バランスを考えた三食がきちんと届く。ありがたくて涙が出るが、煙草がねえのが唯一腹立つとこだな。お前一本持ってねえか?」
「生憎、非喫煙者です」
ユイさんの隣に佇み、わたくしは随分と見ていなかった顔と再会していた。
少しやせただろうか。いや、分からない。近くで見たわけでもない。ただ空気感は違う。なんというかあの時は、悪魔が聖女ロールしてたからこそ聖女聖女していた。
今は違う。素はこんな感じなのか。
「アナタ、幽閉されてましたのね。後々の処遇には興味がなかったので、何も聞いていませんでしたが……」
「悪魔に取り憑かれたやつはここでしばらく隔離されるんだよ。なんでも魂の免疫力が落ちてるとかで、しばらくはまた狙われやすいらしい。地下空間は地脈から建築材の段階で悪魔祓いの刻印を結んでるからな、絶対にたどり着けねえ」
ああ、道理で居心地悪いわけだよ。
「大丈夫ですか?」
「お気遣いありがとうございます。大丈夫ですわこれぐらい」
「いや、効果がないと逆に困るんです」
ユイさんは真顔だった。
肩をすくめる。あの大悪魔が人類の技術如きでどうこうできるとは思えねえ。
「で、どうしたんだよ」
「こちらのセリフですわ。アナタが呼んだのでしょう?」
わたくしの問いに、二人は顔を見合わせた。
「リインさん、あなた何かしたんですか?」
「まったくもって身に覚えがねえが……あれか? あたしの中にまだ『激震』が残ってるから、とかか」
「あー……」
なるほど。
これは禁呪保有者が発する力場なのか。
ん? でもおかしいな。ユートからは感じたことがねえんだが……
〇火星 推測するに、禁呪だからじゃなくて、『激震』だからだろうな
〇日本代表 あー、あの時確かに分子の振動を操作してたもんな。無自覚のうちに、周囲の分子を禁呪の力で振動させて、それがお嬢のところまで伝播してたってことか
珍しくコメント欄が即座に情報提供してくれた。
助かる、ちょうど切らしてた。
「マリアンヌさん、それじゃあどうして大聖堂に?」
「ああ、懺悔しに来たのです」
「………………一緒に埋めに行きます」
「死体を作ったわけではありませんよ!?」
どいつもこいつも、わたくしへの認識がバグってんだよ。
「へえ、懺悔か。道理でしょぼくれてると思ったぜ」
鉄格子越しに声を投げかけられ、わたくしは思わず振り向いた。
リインは冷たい目をこちらに向けていた。
「言ってみな。あたしは確かに元悪魔憑きだが、それより前は普通に聖職者だったんだぜ。まあド田舎の不良シスターだがな」
「……不要です。ここは大聖堂、貴女以外の適任者は大勢います」
ユイさんが切って捨てた提案。
だがわたくしはジークフリートさんの言葉を思い出していた。顔見知りだからこそ、言えないことがある。
「お願いできますか?」
「マリアンヌさん!?」
わたくしはスカートを整えると、鉄格子の向こう側にいる聖女に向かって、跪いた。
おろおろするユイさんに対して、リインが静かに人差し指を唇に当てる。
「馬鹿。神聖な祈りの時間に聖女が慌てるんじゃねえ。静かにしてろ」
「……ッ」
声色には、有無を言わせぬ説得力があった。
こほんと咳払いして、リインは滔々と語り掛ける。
「神の声に心を開いてみな。これは外から聞こえるもんじゃねえ。お前の内側から自然と生じている声だ。耳を澄ませるんだ、自分の内側に。外の音は、あたしの声以外聞かなくていい。目も閉じな」
「…………はい」
「お前の内側にも、神はいる。誰の中にもだ。もともといるんだよ。そしてその声に応じて、天にいらっしゃる神は声をかけて下さる。だが狙いの精度を上げるためには、お前の内側からの声が必要だ」
「…………」
「聞こえるか。今お前の中で、お前の中の神はなんて言ってる。神と呼ぶのに違和感があるなら、認識できない自分の一部でいい。自分の本音を無理に引き出そうとはするな。ただあるがままにして、出てきた言葉を全部言っちまえばいい」
リインの言葉がするりと脳にしみ込んだ。
自分の中から自然と出てくる言葉。
暗闇の中で、ただ漠然と跪く。浮いているような感覚すらあった。
だから口から言葉が零れたことには、自分の声を自分で聞いてから気づいた。
「わたくしには……分からない……」
「……ほう。何がだ?」
「……最初から無理だったと。分かっているのに。それでも手を伸ばしてしまう。これは、正しい行いではあっても、恐らく正解じゃない」
背後で、ユイさんが息をのむ。
理論的にはもう、考えられるものなんて全部考えている。
既に彼女は手遅れだった。彼女の望む通り、これ以上の悲劇が起きないよう防ぎきれたのは、まぎれもなく最上の結果なのだ。
だが。
あの消えていく瞬間、笑いながら泣いていた彼女の顔を、夢に見る。
「なら諦めるべきだったのか。けれど、諦めるなんて……」
「なるほどな」
目を開いた。
数度頷き、リインはわたくしを正面から見つめた。
「なんだ。お前あれだな。
リインははっきりと、憐憫の色を浮かべていた。
「やっとわかったぜ。記憶の中……あたし、っつーかあたしの身体に憑りついてた悪魔相手に啖呵を切った姿と、全然合致しなかったんだ。お前さては、ただ真っすぐなだけであそこまで到達したな? 時々いるんだよな、そういうやつ」
「……それは」
「だが今の声は、神に届いた。神はお前の苦悩を許す。それはあっていい苦悩だ。お前は悩んでいい。天の声はお前の懊悩を、煩悶を、それは正しいものだと認めている」
すとんと。
その言葉が、胸の一番奥に落ちた。
「お前は今、背負う荷物が重すぎてしんどいんだろうな。一人で無理して背負おうとした結果がこれだ。なら二つに一つだ」
「二つに一つ、ですか」
「荷物を捨てろ。あるいは、一緒に誰かに持ってもらえ。それしかねーぞ」
リインの視線がわたくしからユイさんへスライドした。
「諦めることは。いいやそれより……
「……ですが、それでは」
「ああそうだ。捨てたくねえもんまで捨てる羽目になることだってある。だが本当にゴミ箱にポイするわけじゃねえ。そういう朽ち果てた祈りも、神様は拾ってくださるんだ」
懺悔はいつの間にか終わっていた。
あれほど気負ったり、いろいろ考えていたのに。
リインはほんの数分で、わたくしに与えるべき明瞭な言葉を見つけているようだった。
「ほら、もう立っていいぞ。一人で立てるだろお前」
「……ッ」
「だが遠くまで歩くとなったら話は別だ。荷物を捨てていくのを選ぶやつがごまんといる。そうしたくねえのなら、仲間と荷物を分け合え。時々入れ替えて、みんなで苦楽を共にしろ」
「……仲間」
「そうだ。お前は恵まれてるだろ。だがそれは偶然じゃねえ、必然だ。為すべきことを為し続けた人間は、自然と背中に人を率いてるもんだ」
「……それはその……実体験、ですか」
「あたしゃ反例だ馬鹿」
立ち上がり、スカートについた砂を払う。
ユイさんに目を向けた。彼女は困惑した様子で、わたくしとリインを交互に見ている。
こほんと咳払いをしてから、わたくしは鉄格子の向こう側の彼女にお辞儀をした。
「ありがとうございます」
「あたしじゃねえよ。神様にお礼を言うんだな」
不良シスターってなんだよ。
超立派なシスター様じゃねえか。
だからこそ、彼女が悪魔に憑かれたという事実に、言い知れぬものを感じた。
頭を振った。踏み込んで聞いていいことじゃないと思った。
改めて頭を下げる。
「次来るときは煙草を差し入れます。銘柄は?」
「いいのか? 禁輸指定されてるやつなんだが」
それ違法ドラッグってことじゃねえか。
危うく犯罪の片棒を担ぐところだった、ぶっ飛ばすぞこのクソアマ。
鋭くにらむと、リインは怖い怖いと笑った。
だがどうしてだろうか。
そのヘラヘラした笑いには、限りなく長く、そして険しい道のりを歩いてきた人だけが持つ影があるように見えた。
マリアンヌとユイが地上に上がると、やはりまだ大騒ぎは続いていた。
ユイは近くの神父を捕まえると何事か告げた。神父は頷いて走っていった。
「原因について把握したと告げました。次からは気を付けてくださいね」
「ええ、そうしますわ」
二人はそれから中庭に歩いていった。
マリアンヌは既に大まかな事情をユイに説明していた。とはいえ配信関連は抜きにして、禁呪系統の神聖パワーが逆流したとだけ言った。
(さっきの説明マジで一から十まで大嘘しか言ってないな……)
「彼女もまた……確かに、聖女の資格を有していたのですね」
虚偽過ぎる申告をしてしまったことにマリアンヌが嘆息している横で。
中庭のベンチに腰掛けて、ユイは沈痛な面持ちで呟く。
「私はまだ、全然だめですね……」
「そんなことはありませんわ。アナタそもそもまだ次期聖女でしょうに。いろいろと、勉強してる途中です。ならこれからですわよ」
なんとなく肩の荷が下りた感覚があった。
だからマリアンヌはスマートに慰めの言葉をかけられる程度には回復していた。
その様子を見てから、ユイはそっと視線を地面に落とす。日を遮るような形で、自分の顔が黒い影を作っている。
「もっと、です。もっと勉強しないといけない。人間は、どういうことがうれしくて、どういうことが悲しいのか。私はそこをまだ全然知れてない」
「と、いいますと?」
「………………私……学校に入学する前は、なんにもなかったんです」
「……?」
何もなかった、という言葉は、あまりにもがらんどうな響きを持っていた。
マリアンヌは首をかしげる。
「ですが無刀流の鍛錬などはあったでしょう?」
「鍛錬は、ほとんど無意識でやっていました。何かが必要だとは思いませんでした。何かを得ているという感覚もなかった。ただ人を殺すのが上手になっていくんです。毎日……毎日……ものを壊し続けて……」
今でも目を閉じれば、過去はすぐ傍にあった。
ただ人体の知識を学んだ。明日のための学習ではない。若者が社会にはばたくための知恵ではない。誰かの明日を奪い去り、破壊するための知識。棍棒と何が違う。
「……本当に、何もなかった」
だが。
そこで言葉を切って、次期聖女は、親友となってくれた少女の目を見た。
「紅い目」
「?」
何もできないまま。
ただ、殺人技術を磨いて。
そうしてある日、聖女としての加護が発現して。
学園へ入学することとなって。
自分でつかみ取ったものなど何ひとつなかった。
常に、誰かが何かを求めて、それに応じていた。
それしかないのだと思っていた。
そして入学式の日。
ユイは、人生をまるごと変える真紅の煌めきを見たのだ────