潮風が真白いワンピースをなぶる。
かぶった麦わら帽子を飛ばされないように押さえた。
「マリアンヌ嬢、風は冷たくないか」
「大丈夫ですわ」
隣に立つ青年の言葉に、微笑みを返す。
紅い長髪を一つに束ねた彼は、見かけほど暑くはない、夏用のシャツにサマーベストを重ねた格好だ。
「ジークフリートさんこそ大丈夫ですか? そちらのカバン……」
「ああ……あくまで今回はプライベートだからな。こうして自分で運ぶしかない。しかし大丈夫だ、これぐらいなら背負って全力疾走し続けられる」
バケモンかよ。それ、軽装備とはいえ騎士の戦闘用甲冑ですけども……
「では行くとしようか。ここからは歩きだ」
ええ、と頷き、二人で歩き出す。
今回の目的地は、ある貴族が所有し、貴族向けにレンタル業を営んでいるビーチだ。
道行く人々もやはり富裕層が多い。観光地として利用されている、王国東部の海岸地域である。前回臨海学校で来たのとは別のところだ。
「やはりなんというか……居心地は悪いな。オレだけ浮いているだろう」
「ええ。ですが、隣にわたくしがいるので無問題ですわよ」
「だといいのだが」
腕を組みジークフリートさんはうなる。
彼のような猛者でも、やはりTPOは気にするらしい。
まあわたくしが超ド直球にお嬢様スタイルで来たから護衛として見られているだろう。事実、彼を訝し気に見るような視線はほとんどない。むしろどこか微笑まし気に見られている。
さて。
夏休みの後半も半ばというところで、なぜわたくしがジークフリートさんと二人で海を訪れているのか。
その理由はいたって明快であり、同時にこの二人での行動となったのも自然と言っていい。
──竜が現れたのだ。
この観光地の中でも、上述したプライベート用のビーチにて、巨大な竜が出現した。
すぐさま騎士団が派遣されるはずだったが、そこに待ったをかけたのが騎士団大隊長たちである。
なんでもプライベートビーチを所有する貴族と過去確執があったらしい。むしろ恩を売ればいいのにとも思うが、そんなに単純な話でもないのだろう。そもそも竜が人を襲ったという報告ではなく、ただ姿を現したというだけらしいし。
しかし現場の騎士たちは国民を守るために騎士となっている。見過ごすというのは選べない。
そこで動いたのがジークフリートさんだ。
当面騎士団が動かないことを確認すると、素早く二日間の有給を取得。
部下の騎士達に王都の警邏を任せ、自分は海に来た。
しかし単独で海に向かい竜を討伐した、となれば命令違反の誹りは免れない。
そこでわたくしが強引に旅行の予約を取り付け、説得しきれなかったため妥協案として護衛としてついてきた──という筋書きになったのだ。
わたくしが勝手に竜のいる場所に突っ込んでも違和感はないだろうと中隊の騎士たちも頷いていた。帰ったら一発ずつ殴る。
「予約していたピースラウンドですわ」
たどり着いたリバーサイドホテルのラウンジで名前を告げる。
超一級VIP客を相手にしても、ドアマンたちは笑みを崩さない。
「お待ちしておりました。お部屋まで案内いたします」
やって来たベルスタッフに荷物を渡し(ジークフリートさんのカバンは重すぎるので自分で持ってもらった)、最上階のスイートルームまで向かう。
何平米とか考えるのが馬鹿らしくなる広さだった。もう家である。
窓の外には海を一望する貸し切りプールがある。放蕩貴族なら女を集めてパーリナイだ。悪くない。わたくしも悪役令嬢としてそれぐらいやっておこうかな。
「ホテル内ではこちらのカードをお見せいただければ、全てのサービスを受けることができます」
わたくしが海を眺めている間に、ジークフリートさんがベルスタッフの方からメンバーカードを受け取っていた。
カードを見て、彼は眉根を寄せる。
「パンチェッタ卿とは何方です? 名前が違うようですが」
「当ホテルではお客様方のプライバシーを最大限に尊重させていただきます。特に今回はピースラウンド様、国内でも並ぶ者のいない、気高く誇り高いお家のご令嬢ですから」
そこでベルスタッフは一切の嫌味なく、笑顔で言う。
「お忍びでの逢瀬となれば、我々もプロとして、極めて安全かつ安心のできる空間をお届けいたしましょう」
「は?」
「は?」
わたくしとジークフリートさんは同時に素っ頓狂な声を上げた。
ベルスタッフの言葉を脳内で反芻し、意味を理解する。
「あっ……あ、ぁああぁああああっ!?」
これ外から見ればお忍びデートじゃねえか!!!
〇外から来ました いや自覚なかったんかーい!!
〇無敵 テメェ!!どけ!!価値を知らない人間がその人の隣に立ってんじゃねえッッ!!
は? どくわけねえだろバーカ。
頬を赤くして口ごもるジークフリートさんを見ながら、わたくしはちょっとニヤニヤ笑うのだった。
荷物をホテルに預けた後、わたくしとジークフリートさんは早速ビーチに来ていた。
「激戦は必至だろう」
「お任せを。アナタの足を引っ張るような真似は致しません」
「ふ……心強いな」
わたくしとジークフリートさんは、視線を重ね不敵に笑む。
それから顔を前に向け、前に歩き出す。
ビーチに人影はない。観光地自体は多くの客でにぎわっていたものの、この地域は立ち入り禁止となっているのだ。
「どのような竜かも不明だ。報告によれば、天に届くほどの巨体だったというが……」
「見ればわかるでしょう」
しばらく砂浜を進みながら、隣でジークフリートさんは鎧の調子を確かめる。
プライベート故、正式装備を持ってくるわけにもいかなかったので、レーベルバイト家に頼み、余っていた試作品を彼のサイズに再調整して貸してもらった。いやあこういう小回りが利くの本当に助かるな。
「あれだな」
ジークフリートさんが足を止め、視線を鋭くする。
見れば砂浜が途切れ岩場になった先、水色の鱗に覆われた竜が、身体を丸めてこちらの様子をうかがっていた。
想定よりかなり小さいな。翼もない。どちらかといえば日本の竜に近い外見だろう。
『人間か』
「ええ、そうですわ」
声が響く。
隣でジークフリートさんがぎょっとした。
「今の、聞き取れるのか?」
「え?」
「……無自覚か。オレは資質の問題で意思疎通ができるが、君も竜の言語を認識できるようになっていたのだな」
えぇ……? マジ? 知らない……怖……
〇鷲アンチ 着実に近づいてるな
〇つっきー うん……
〇日本代表 こないだ神聖言語の筆記もできるようになってたからな。単純な認識の拡張だけじゃなくて存在そのものが引き上げられてるっぽい
なんかまだ眠っているわたくしの中のチカラが目覚めさせられている気配を感じる。今ここからstory始めちゃおうかな。
『矮小な存在よ。ここは既に我の領域だ……去れ』
見れば砂浜に寄せては引いていた波が、静かに消えている。
どうやら海の流れに干渉しているようだ。
「かつてよりは、だな」
「まったくです」
物怖じしないわたくしたちに、竜の方が動揺する。
『何? 我は海より生まれ、海を操るもの。敵う道理はないぞ』
「お生憎さま。こと水の操作に関しては……既に頂点と相まみえていますので」
これより何千倍も強くて怖い相手と戦って、勝ったんだ。
ビビる理由はねえよ。
「竜よ、立ち去ってくれ。人々を怖がらせてはいけない……君のあるべき場所に帰るんだ」
『ほざけ……!!』
ジークフリートさんの言葉に耳を貸すことなく、竜がその大きな身体を持ち上げる。
「どうやら話はまとまったようですわね! さあジークフリートさん! 竜殺しの経歴をまた一つ増やすとしましょう!」
「いやまったくまとまっていないんだが……しかし、そうだな。君と一緒ならば、オレは何度でも、悪しき竜を滅ぼしてみせよう!!」
青い青い海を舞台として。
わたくしとジークフリートさんは、強大な竜に向かって駆け出した────
瞬殺だった。
「いや瞬殺でしたわね……」
「ああ……」
『ふえええん』
わたくしが一発ぶん殴ってジークフリートさんが平伏しろと命じたらそれで終わった。
六龍マルチってこんな感じなんだな。
「というか……アナタ、幼体ですか……?」
「!」
『な、なにっ』
一発殴った時、なんか違和感があった。
ファフニールや、教会で暴れていた火竜と比べて違う感触がした。
確かに火竜とは格の違いがあった。
しかしファフニールと比べれば脆弱性が顕著だったのだ。
〇宇宙の起源 お嬢、それは……
「恐らくは上位存在。自然発生でしょうが……生まれて間もないのでしょう。確かにリザードも上位存在としてテリトリーを守っていましたわね。そういう習性があるのかもしれません。少なくともこの場所はお勧めしませんわ」
『うっ……やはり、我はまだ弱いか』
「ひとまずは安全な場所を探されては? なるべく人のいない場所の方がよいかと思いますわ。討伐指令が出なくて良かったですわね、騎士部隊が来てたら、話す暇もなく殲滅されていたかもしれません」
『人類、怖いなあ……!』
竜──水竜アイアスと名を教えてくれた──はぶるぶる震えてしまった。
そんなに怖がらせるつもりはなかったんだけどな。もしかしてこれ、動物虐待ならぬ上位存在虐待だったりする?
「……君は……どうやって、幼体だと判断した?」
「え、殴った感触で分かりましたが」
〇red moon どう思う?
〇日本代表 ……存在ごと引き上げられている、だけの単純な理屈じゃ説明できないな。視神経に作用されてるのか……?
えっ。
何、何? 怖いんだけど。ジークフリートさんもなんか引いてるし。
わたくし、何かやっちゃいました?
「まあいいですわ。一件落着と言うことで……遊びますわよ!」
わたくしはワンピースをばっと脱ぎ捨てる。
ジークフリートさんが慌てて神速で目を隠したが、安心してほしい。
「この日のために新しく買った水着を着ておりました!」
「……そ、そうか。しかしそれは……」
恐る恐る手を降ろしたジークフリートさんが、わたくしの水着姿を見て眉根を寄せる。
わたくしが着ているのは白を基調として青いラインの走った、スポーティーな競泳水着だ。
「やはり……ミリオンアーク君が言っていたからか?」
「え? ああいえ、元々このデザインの水着は好きなので。彼がいる場所で着ると確かに願望に答えたみたいになってしまいますが、今日はいませんし」
「…………ああ、見せなくていいな」
「ええ! ではアイアス、ビーチバレーしますわよ!」
『ひっ。こ、殺さないで』
「結構トラウマになりつつありますわね!? 危なくないですわよ~。ほら、楽しいですわよ~」
震えているアイアスにボールを差し出し、遊びに誘う。
「……馬鹿かオレは……学生相手に、張り合って……」
後ろではジークフリートさんが頭を抱えて何か言っていたが、とりあえずアイアスを怖がらせないよう一緒におもちゃとか出してくれねえかなあ。
「なかなか上手になりましたわね!」
『ふはは! 我は海を操るもの、ならば海を舞台とする遊戯にも精通して然りだ!』
日が水平線に没し始めた夕暮れ。
そのころにはもう、アイアスとマリアンヌたちはすっかり打ち解け、仲良くビーチバレーをしていた。
「器用なものだな。頭部でボールをぽんぽんと上げて」
『ふん。かの大悪魔やその配下たちは人型を取っているが、あれは大悪魔ルシファー殿の意向だからな。我のような強大な存在にとって、本来お前たちのように四肢を持つ構造は邪魔だ』
「そうなのか、興味深いな」
水竜と竜殺しが仲良く会話する光景。
マリアンヌはそれを見て微笑み、だが直後、すっと感情の色を消した。
「アナタ……ルシファーと知り合いなのですか?」
『ん? ああ、生まれた直後に、端末が我の元を訪れた。なんだったか……ああ、そうだ。『
「……ッ!」
それを聞き、マリアンヌは顔色を変える。
「神域権能保持者を集めている……!? あの男、何を企んで……!」
ボールを砂浜に捨て、腕を組み、ぶつぶつとつぶやき始めるマリアンヌ。
『……その。今日は、助かった。だから……』
「……はい? ちょっとすみません、今考え事をしているのですが」
『いや、だから、そのルシファーに関してだ……アレは、手出ししてはいけない存在だと思うぞ』
「はあ?」
顔を上げた少女の瞳から、紅い稲妻が迸っている。
人類など歯牙にもかけない存在であるはずなのに、アイアスは明確に、その少女に恐怖した。
「誰に何を言っているのか、分かっているのですか? アレが世界に降り注ぐ終末だというのなら、わたくしはそれを打ち砕くのみ」
夕暮れを背負い、少女は天を指さす。
「なぜならば! この世界に、わたくし以外の悪など必要ありません!
高らかに宣言する姿に。
『なん……なんだ……あの、女は……』
アイアスは、ドン引きした。
「彼女の在り方はずっと変わらない。問題はオレたちがそれをどう見るかだ。世界を救う英雄か、あるいは滅ぼす悪鬼か。器に限るなら、それらにすら収まらないと感じる」
『そんな存在を隣に置き、お前は何を考えている。我には分かるぞ、お前はファフニールの子孫だろう。やはり、世界を滅ぼすのか』
「その言葉は──オレだけでなく、彼女に対する愚弄だ。今すぐ取り下げてもらおう」
『……!』
ジークフリートの声が低いものになった。
「彼女は、今ここにある世界を愛している。彼女自身は……どこか、世界を愛してはならないと自分を律しているような気配があるが……それでも愛している」
『それは……矛盾だ。現世に生きる人間が、なぜ現世を否定する』
「分からない。だから、分かりたい……それを知らなければ、彼女は、オレたちの知らない、彼女の倫理で……どこかに行ってしまいそうな気がするんだ……」
アイアスはジークフリートの横顔を見つめ、しばらく黙った後、ぽつりと問う。
『怖いのか』
「……そうだな。背中を見失いたくはない」
『違う。どこかへ行くだと? ヌルい言い方だ。あれは何にでもなれる女だろう。英雄や悪魔など目ではない。神にもなれそうだ』
「ああ、そういうことか……確かに、人によっては、確かに彼女は畏怖の対象だろう。しかし……オレは違う。オレは何があっても、彼女に怯えたりしない」
そこで言葉を切り、目を細め。
竜殺しの騎士は、天を指さし哄笑を上げる少女を見つめた。
「オレにとっての彼女は、オレが守るべき存在であり、オレを導いてくれる月明かりだ」
だから。
「決めたんだ。彼女の道はオレが守る。しかしその道が、世界を破滅に陥れる邪悪な道に成り果てるのだとしたら」
──オレが、彼女を殺してでも止める。
アイアスは海の奥深くへと帰って行った。
それを見送り、マリアンヌとジークフリートはホテルに戻っていた。
「ふう……」
大浴場を出て、ジークフリートは息を吐く。
マリアンヌの方が時間はかかるだろうから、先に部屋へ戻ることにした。
すれ違う貴族たちに会釈しつつ、魔力によって動く籠で最上階へ上がる。
(先ほどはああ言ったが。彼女がそんな存在になる前に、引き戻してみせるさ)
想像を絶する存在たちと幾度も相まみえ、生き残るどころか悉く打倒してきた少女。
うかうかしてはいられない。彼女を止め、導くためには、彼女の後塵を拝している暇はない。
ジークフリートは一つまた、決意を新たにした。
(…………)
そんなことを考えながら自分たちの部屋に着き、ドアノブを握ろうとして。
ジークフリートは、装備を持ち出さなかったことを後悔した。
息を整えてから、一瞬でドアを開け放ち室内に躍り込む。瞬きする間もなく自分のカバンに飛びつき、そこから武骨な剣を引き抜き、構えた。
「何者だ!」
「初めまして、ジークフリート君」
男がいた。
豪奢な長い金髪。黒いスーツ、黒いシャツ、黒いネクタイと黒一色の服装に身を包んだ、見た者を残らず魅了するほどに美しい男がいた。
その男は部屋のテーブルの前に座り、ジークフリートをじっと見つめていた。
「私はナイトエデン・ウルスラグナ。
いっそ簡潔なほどに。
男──ナイトエデンは、自らの力と肩書きを語った。
「
「ああ、そうか。君はもう
その言葉を聞いて、ジークフリートの中で一つの推測が組みあがる。
「……貴様。オレと同じように、神聖な存在から力を借りた存在か……!?」
ジークフリートの指摘に対し、ナイトエデンは緩く首を横に振る。
「本来は同じだが、
そう言って、開闢の覚醒者は立ち上がる。
ジークフリートは油断なく切っ先を向けるが、まるで意に介さずナイトエデンは微笑んだ。
「時は迫っているよ。いつか君は、我々と共に、大悪魔とそれに連なる禁呪保有者たちを抹殺しなければならない。奴らは世界を滅ぼす存在。そして我々は世界を守護する存在なのだから」
「……っ!?」
そこでやっと、ジークフリートの脳内で点と点がつながる。
(そう、か……! ファフニールが言っていた、オレとマリアンヌが共闘する意味というのは、そういうことだったのか……!)
臨海学校における一幕が脳裏をよぎる。
あのとき大悪竜は、二人が共闘することに驚愕し、それはあってはならないことだとまで断じていた。
「オレは【
ナイトエデンが頷く。
「君の意思を縛る権利は私にはない。彼女と仲良くしているのは、咎めこそすれど邪魔はしないよ。だが覚悟だけはしておくんだ。君が、彼女を殺すことになるかもしれない」
「……っ! だが、それは立場の話だ! 彼女が単に世界を滅ぼそうとする邪悪な存在でないことを、オレは知っている! 立場だけで行動を決めるなど……!」
男の言葉を認めるわけにはいかない。
ジークフリートは胸を張って言える。
たとえ宿命が、世界を滅ぼす悪だったとしても──マリアンヌ・ピースラウンドという少女は、それとは違うと。
仮に自分が彼女を殺すとしたら、それは禁呪保有者だからではなく、彼女自身の在り様の問題だと。
「君はこう言いたいのか。『たとえ世界を滅ぼす存在であっても、意思によって変われる』と」
「……だったら?」
両手を広げ、悲しげに眉を下げ、ナイトエデンは沈痛な声色で語る。
「視野狭窄だよ、それは。どれだけ個人の感情を重視しても、それは結局、論点を価値観の違いにすり替えようとしているだけだ」
「違う! それは──」
「いいや違わない。おかしいと思わないか? 世界があるから感情はある。まず世界ありきで、次に個人だ」
「それは一面的な押しつけだ! 世界は──」
「
「……!」
ナイトエデンの高説に、ジークフリートはたじろぐ。
明らかに舌戦では向こうの方が上だった。こちらの思考を読み、何か言う前に先んじて反論を打たれているような心地すらした。
「ああ、いや。勘違いしてないでほしい。君の考え方を変えたいわけではない。何度も言っているように、最後の決断の時は近づいている、とだけ言いたかった」
「……貴様、は」
「では今度こそ、本当にこれで失礼するよ」
爽やかな微笑みを最後に浮かべ、ナイトエデンはパチンと指を鳴らす。
足下に魔法陣が展開され、浮き上がり、彼の姿は飲まれるようにして消えてしまった。
ジークフリートが呆然としている中、部屋の扉がガチャリと開かれる。
「ふぃ~、いいお風呂でしたわね。長風呂してしまって、ちょっとのぼせ気味ですわ。いかにもリゾートホテルのお風呂という感じで……あれ? でもこの世界リゾートホテルって言葉ありますの? よく考えたら普通に乗りましたけどエレベーターモドキもありましたし、ちょっと文明レベル本当ガタガタでは……」
めちゃくちゃどうでもいいことを言いながらマリアンヌが入ってきた。
濡れた髪にタオルを当てて水気を吸わせつつ、訝しげにジークフリートを見やる。
「にしても水気さえ取ればあとは風魔法で髪を乾かせるから楽ですわね。これがドライヤーだけだと本当に死ぬほどダル……あら、ジークフリートさん? どうしました?」
「………………」
騎士は言葉を返さない。返せない。
自分と少女の立ち位置を、はっきりと理解してしまったがゆえに。
「あとその……言いにくいのですが……えっとですね……」
「……どうしたんだ」
なんとか返事だけ絞り出したが、正直、彼女の言葉が頭に入ってこない。
先ほどナイトエデンに言われた理屈がずっと頭の中でぐるぐる回っている。
そんなジークフリートの心境を知らず、マリアンヌはお風呂上りとは別の朱を頬に差し、顔を逸らしてベッドを見る。
「あの。水着をワンピースの下に着てきて……その……替えの下着を忘れてしまっていたので、できれば今晩は離れて就寝を──あれ? これ普通にダブルベッドでは?」
ジークフリートの頭の中から、ナイトエデンの言葉が全部消し飛んだ。
ベッドの上で、自分でも恐ろしいほど心臓が早鐘を打っているのが分かる。
ジークフリートさんは床に腰を下ろし、ベッドに背を預ける姿勢で目を閉じた。流石に同衾はナシということで、まあそりゃそうだよなと思うしなんか残念な気もするし残念ではねえよ!?
「……起きてますか、ジークフリートさん」
「……起きている」
ノーパンノーブラで成人男性と一夜を明かすとか完全にアウト。
これがバレたら婚約破棄確定だと思う。しかも追放には全然つながらない破棄じゃん。それは流石になあ。
──いや、待てよ? 発想を逆転させるんだ。追放→破棄じゃなくて、破棄を足掛かりにして追放を狙うっていうのはどうだ。アバズレビッチの悪女であることが露見して評判がた落ち悪評バフ載せて追放着地ドーン! やべえ、わたくしIQ5億だわ……
「寝にくくなくて? せっかく広いベッドですし、いかがですきゃ?」
羽のように軽い掛布団を持ち上げ、妖艶に微笑み誘おうとして噛んだ。死ねよ……
今のをどうやってなかったことにするか考えていると、彼は静かに顔だけこちらに向けた。
「……君の心を、教えてほしい」
「はい?」
ベッドに置いていた手に、固く、厚く、優しい感触が重ねられた。
剣を握り人々を守る、強靭な騎士の手だった。
ひょおおおおおおおおおおおおおっっっ!?!?!?
〇外から来ました は?
〇木の根 し、新スチルじゃん……
〇無敵 コヒュ
〇第三の性別 あっ、死んでる
「オレの力は……君の禁呪とは相反するものだ。役割だけを考えるのなら、オレたちは殺し合う運命にある。しかし……」
何? 何? マジで思考止まった。
ちょっと視界がぐらついてきた。思考吹っ飛ぶって。ちょっ……
「君は、どう思っているんだ。禁呪は世界を滅ぼす力。そして君は……理由こそ知らないが、悪の存在を目指している。ずっと聞くべきだったんだろう。君は、世界を滅ぼしたいと思うか?」
完全にお風呂上がりののぼせが復活し、意識が混濁する。
ぐるぐる目を回しながら、なんとか気合を振り絞って、彼の問いに答える。
「わたくしは……」
「ああ」
「……みんなが笑って過ごせる光景が、あれば……それで……」
それだけ言って。
超絶イケメンの手の感触を脳に刻み込みながら、わたくしは意識を手放すのだった。
疲れていたのか、会話の途中で彼女は瞳を閉じてしまった。
(やはりそうだ。彼女は世界を滅ぼそうとなどしていない)
片手を彼女の小さな手に重ねながら。
もう一方の手で、寝息を立てるマリアンヌの頭を撫で、ジークフリートは息を吐いた。
深く、深く、重い息だった。
(もしも彼女を殺すのだとしたら、その役割を担うのは……オレだ。タガハラ嬢やミリオンアーク君に、背負わせるわけにはいかない)
それは承知している。
そしてジークフリートにとっては、そうなってしまう前に彼女を正しい道へ導くことこそが、最優先の使命だった。
しかし。
(立場、か。世界を滅ぼす存在と、世界を守護するための存在……)
殺し合う運命と、先ほど自分は言った。
間違いではない。
(……運命か。屈するわけにはいかないな)
もしも。
もしも、ナイトエデンがこの場にいたら、彼の決意も簡単に口頭でくじいてしまったかもしれない。
だが月明かりと、少女の寝息だけがあるこの場所では。
(あの時、オレがあの声の主からお借りしたのは、
ジークフリートは静かに、マリアンヌの髪を指で梳いた。
(もしも彼女が世界を滅ぼす悪しき存在になるのだとしても、オレは最後まで呼びかけよう。君の本質は、きっとそれじゃないと、何度でも)
騎士の決意は静かに、迅速に行われる。
答えが出る時は遠くない。
それが分かっていても、世界が明るく回り続ける間は微笑み合うことしかできない。
二人はもう、出遭ってしまったのだ。
今この一瞬だけはせめてと願えばいいのに。
過ぎ行く刹那の本当の価値に気づかないまま、二人の夜は沈んでいった。
次回で幕間は終了です。