梅雨の真っ只中。
深夜。
舐められていると錯覚するほどの湿った風。
視界を後ろに抜けていく光。
身体を芯から冷やす霧雨。
精神を削るような濡れた道。
そんな中を俺はバイクで駆けていた。
「ちっ……」
なんだってこんな日に、バイクなんて……と何度目かの愚痴を叩く。理由はあるにはあったが、根本的に、ただ走りたかっただけ。少しくらいは気が晴れるかと思って、だから走った。結果は……少なくとも今感じている感情は、間違っていたと思えて仕方がない。
赤信号で止まったついでに視線を上げると、山がすぐそこに聳えていた。後数キロも走れば、後十分も走れば、山道だろう。赤信号の向かい側、対向車線の脇にはコンビニエンスストアがあった。もしかすると、あそこを逃したらしばらく停車出来る場所は無いかも知れない。信号が変わる。対向車線には車が居ない。俺はコンビニエンスストアに立ち寄ることに決めた。
コンビニエンスストアでホットの缶コーヒーと多少のモノを買って、表で飲む。かしゅりと小気味良い音がして、湯気が立ち上る。その程度には寒いのかと思わずつぶやく。
そんな時に限って、ヒトは居るもので、若いカップルが寝間着姿のまま自動ドアをくぐるところだった。なんだかバツが悪いので、小さく舌打ちして、ポケットから煙草を取り出し、吸い始める。
前にも、こんなことがあった気がする。
梅雨でもなんでも無い。真夏の夜に、ヤツから誘われて二人切りのドライブデートをした日があった筈だ。デートと言ってもヤツは男で、俺も男で、お互い異性愛者だが。
俺はロングピースを深く吸って、吹かす。
「……」
ジッポライターとソフトケースを胸ポケットにしまい直して、缶コーヒーを啜る。
曇天の空に、煙草の煙が溶けていく。湿った空気が煙草の味を変えていた。煙草の葉が濡れていないのは幸いだった。もちろん、濡れにくいジャケットにしまっているのだから、そんな簡単に濡れてたりしたら困る。
「ふぅ……懐かしいな……」
ヤツのことを思い出していた。
ヤツとはもう、まるで接点がない。仕事も違う。業種も違う。住む世界も違う。連絡もないし、しない。
趣味はまだ同じだろうか? まだ、アイツは小説を書いているのだろうか? それとも、最後に会ったときに興味を持ち始めたらしい写真の方を頑張っているのだろうか? 今は何を楽しんでいるのだろう? 吸っている煙草の銘柄は、まだ、マルボロなんだろうか? 好きな酒は、まだ、ギネスなんだろうか? 家庭は持ったのだろうか? 子供は……もしかすると居るのだろうか?
ふつふつと湧いた郷愁の思いに好奇心が混じると止まらない。
けれど、吸って、吐いて、啜って、そうして居る内に、煙草もコーヒーもなくなった。
「……行くか」
呟いて、バイクに跨る。
バイクは……これは生活の為に買って、趣味になったもの。けれどアイツの影響もあったかもしれない。
走り出した道は、湿っていた。
流れる景色が、建物から森に変わり始める。道路は直線から曲線へ。夜空は相変わらず曇天で、何が何やらわからない。時折すれ違う車は、皆、ハイライトを付けて前を見つめているようだった。
「マナー守れや……」
小声で呟いても、ヘルメットと風切り音で聞こえやしないが。
大学時代の話だから、もう四、五年ほど前になるか。
あの日、ヤツから急に電話が来た。夜の十時だ。
「何?」
俺はシャワーを浴び終わって、これから酒でも飲もうかと思って黒霧島のボトルに手をかけていた時だった。ロックでやると美味いと今でも信じている。それを邪魔されたと感じ、思わず苛ついた声になっていたかもしれない。
「ドライブするぞ」
異論を待たず、ヤツは電話を切った。俺は溜息を漏らして、そして、服を着ることにした。
十数分して、ヤツは俺のアパートの前に来た。
俺はヤツの車の扉を開いて、尋ねる。
「どうした、急に」
ヤツは煙草を吸って、吐き出した。
「気晴らし。乗れよ」
俺は車に乗り込んで、扉を締めた。
俺はと言えば、気楽なヤツだから、ついさっきまでのイラつきはどこへやら。一応は大学で一番付き合いの深いヤツとのドライブに、やや浮足立つ気持ちだった。
山道から、風景が変わる。山をひとつ超えたのか、少しだけ開けた場所に出る。
ぽつぽつと民家が増え、小さな個人商店も何件かあった。そのどれもが真っ暗で、薄汚く見えた。人が住んでいるのか、それとも居ないのか、営業しているのか、していないのか、その答えはまるでわからない。
交番と、消防署の前を通る。ほんの少し、速度を落として丁寧な運転を心がける。通り過ぎてからふたつ目の信号を過ぎたら、普段の運転に戻る。
橋を通って、駅の前の道に出る。人は、誰も居なかった。赤く点滅する信号機だけがそこにあった。
ヤツの車に乗って数分、俺達は他愛ない話に興じた。 例えば最近出たゲームの話や、漫画の新刊、共通の友人の下世話な噂話。そんな他愛ない話。
けれど、道路が下道から高速道路になった瞬間、俺は思わず話を遮って尋ねた。
「お前、どこ行くんだよ」
ヤツは楽しげな気持ちを存分に込めて「んー」と悩むフリをした。
「別にどこでも良いけどさぁ……」
俺はそう言って、車を汚さないように気をつけながら、足を組む。
「――は、何処に行きたい?」
珍しく俺の名前をヤツは呼んだ。俺はくくっと不気味に笑って、応える。
「俺の彼女かなんかか、お前は」
ヤツは余程面白かったのか、げらげら笑い出した。ハンドルが少しブレたのか、車体が揺れる気がした。
「どこでもいいよ。お前の好きなとこ行けよ」
俺の言葉に、ヤツは「ん」とだけ言って煙草を吸い始めた。
今でも思うが、運転しながら煙草に火を点けるというのは余程器用なことに思う。バイクばかり乗って、免許こそあるが車に乗らない俺だからそう思うのだろうか?
「俺も良いか?」
ヤツは何も言わず、灰皿の位置を運転席側のドリンクホルダーから、エアコン前のホルダーへと変えた。
当時の俺は金がなくて、Echoなんか吸ってた。マルボロの匂いに嫉妬と憧れを抱いていたかもしれない。今になって、そう思う。味も香りも、正直な所嫌いな煙草なんだけれども。
風景は変わって、再び山道に。民家どころか自販機すら一台もない、寂しい道のり。あるのは木と電柱とガードレール位。そう思っていたら、サイドミラーに強い閃光が浮かんだ。後続車両だった。
「はええな……抜いてもらうか……」
勝手に追い立てられて居るような気持ちになりながら走っていると、十分な広さの路肩が出てくる。
俺はウィンカーを左に炊いて、車体を寄せる。後続車は、ざあっと濡れた道路を叩きながら駆け抜けていった。こういう時はバイクも良いもんだと思う。走ってて寒いし濡れるし、良いところなんか殆ど無いが。俺は道路に戻って、再び走り始めた。
しばらく走っても風景は山道。時折、びっくりさせるためだと疑ってしまうようなびがびが光るガードレールなんかも出てくるし、風切り音とエンジンの音に混じってどこどこ言う振動も地面からやってくる。山道は楽しいが、嫌いだ。
高速道路を走っていると、追い越したり追い越されたりするくらいで、風景は全然変わりやしない。まぁ、夜だという事もあるし、市街地を通る道路だから壁もあったりするからだが……。
カーステレオから流れる曲がやや懐かしさを覚えるアニソンから洋楽に変わった時、ヤツが口を開いた。
「……同人サークル作ろうと思ってる」
「いいんじゃない? 売り子ならやるよ。何の?」
奴はその頃、一世を風靡していたジャンルを言った。
「ふぅん……漫画?」
ヤツは某という人物の名前を述べる。
「あー、あいつか……」
ふんふんと納得した。ヤツからしたら友人、俺からしたら知り合い、そんな程度の微妙な距離がある関係の人物。そいつが絵を描けることは知っていたし、それなら漫画も、というのは当然の成り行きだった。
「……いいねぇ、主催、主催かぁ」
ちょっとしたあこがれを込めてそう言うと、ヤツは楽しそうに笑う。
「で、再来月のオンリーイベントに出る予定。売り子は頼んだ」
俺はそれに誘われたことが、嬉しかった。頼られていると思った。
が、この際だから欲しい物を強請ることにした。本当は、何も要らないのに。
「EchoとMonsterで手を打とう」
「おっけー」
楽しげで軽い言葉だったが、俺は本当に嬉しかった。伝わりなんかしないだろうが、それでも、嬉しかったんだ。
風景が幾度目か、変わる。
今度は山道のままだったが、片側が開けた。谷があって、底の方に川でも流れているのだろう。幾らか空気は冷たくなっていた。
俺は思い出に耽りながら、道を走り続けていた。
目的地はあるにはあるのだが、そんなの関係ない気分だった。煙草が切れるまでは、ガソリンがなくなるまでは、走れそうな気持ちだった。
駐車場なのか、資材置き場なのか、単に開けた路肩なのか、それさえ定かでない虚ろな空間を見つけた俺は、そこにバイクを止めた。真っ暗闇の向こう側から、水のせせらぎが聞こえた。
そして、煙草を吸い始めた。火を点けてから、背負ったボディバッグから携帯灰皿を取り出す。煙を吐き出して、コンビニで買っておいたペットボトルのコーヒーに口をつける。
不意に、がさりと何処かが揺れる音が聞こえる。
「……! 何……」
思わず驚きを口にして、周囲を見回すが何も居ない。幽霊なんぞ信じちゃ居ないので、きっと小動物……鳥か、狸か……そんなものだろう。
天蓋はしとしとと雨音を立てていて、それにせせらぎが加わる。虫の鳴き声は無かった。車の音も無い。本当に静かだった。自分一人にさえ思えたけれど、心は郷愁に囚われていた。それは、自分一人だと思えたからかもしれない。
結局、そのドライブは中途半端にサービスエリアまで行って終わった。往復二時間も無い、奇妙なドライブだった。折り返し地点となったそこで、俺達は飯を食って、煙草を吸って、俺の『売り子』への報酬が支払われて、帰宅となった。
それで、その日は終わり。帰り道も他愛ない話で終わった。もしかしたら、どんなのを作るのかとか、そんな話もしたかもしれない。その程度。
それからなんやかんやあって、卒業に至る。
俺は事情があって休学を挟んだから、ヤツを始めとした知り合いの進路なんて知らない。けれど、ヤツから連絡が来たことがある。メールにひとつのファイルが添付されていた。
なんぞと思いながら開くと、小説だった。最近書き始めたらしく、メールの文面には「指摘・添削してくれ」との事。俺はヤツの力になれることがまた嬉しくて、頑張った。役に立てるかどうかわからないなりに、多少なりとも小説を好きで読んでいたなりに、頑張った。
それから数度ほど、やり取りがあって、途絶えた。
だからヤツが今何をしているのかなんて、さっぱり知らない。
目的地に到着した。
湖に面した、駐車場。そこが目的地。
大きな湖だった。真っ暗な暗闇が広がっているのに、せせらぎの音と真っ黒な水面に反射するまばらな街頭が湖の存在を示していた。
ツーリング中で何回目かの煙草を吸おうとして、気付く。
「ちっ……切れてら……」
それからしばらく、湖面を眺めて過ごす。
すると、遠くから車のエンジンの音が聞こえて、それは俺のバイクから離れたところで止まった。
エンジンの音は、あの頃と違っている気がしたが、俺は振り向きもしないで、言う。
「ハンドルにかかってる袋。マルボロとMonster。付き合ってくれた礼」
ジッポライターを開く音が聞こえて、マルボロの匂いがした。
「おう。で? 今日はどうした」
ヤツの声が聞こえた。懐かしかった。
「聞けよ、俺も書いたぞ、小説」
もちろん要件はそれだけじゃない。けれど、それを直接、言えたことがこそばゆかった。
「それと煙草、一本もらってもいいか?」
ヤツは楽しそうに笑った。