ある夏の日だった。その日は少し涼しくて風が強い日だった。そして何より、僕の休みの日だった。
天気予報では終日晴れということで、最近始めた写真撮影でもしようかと思って、公園に行くことにした。僕は恋人が居ないからこういう日は、日がな一日ぼーっとして過ごす訳だが、友人達の多くは恋人やら家庭やらがあって誘うに誘えない。だから独りだし、だから悔しくて外に出掛けるという訳。
僕はポラロイドカメラとデジカメをひとつずつ鞄に押し込んで、家を出る。「ポラロイドなんか無くても……」と知人は言うが、これはこれで味があると思っているし、何よりも誰かをモデルにさせてもらったりしたら、その場で渡せる。だから、外に写真を撮りに行くときは両方持って出掛ける。
ドアを開くと、しゃわしゃわと蝉の声が僕を迎える。
落ちてきそうな位、それか、落ちてしまいそうな位の青空は心地よいけれど、眼を灼くような陽射しや殺人的な熱とが、僕を迷わせる。
「……」
玄関から一歩踏み出して、思わず僕は部屋を振り返る。外出を取り止めれば快適な空間でネットサーフィン……それは僕を魅了してやまないけれど、それを選べば今日を無駄にしそうな気がする。
「……っし、行くかぁ」
僕は自分に言い聞かせるように呟いて、外へ出た。
電車とバスを乗り継いで、街外れの公園に到着する。
「あっつぅ……」
思わず呟いて、僕は公園へと入る。
この公園には遊具が殆ど無いけれども、だだっ広い芝生と程よく手入れされた林がある。僕は何度かここに通っているけれど、風景を撮影しようとカメラを担いでいる人は見かけなかった。つまり『穴場』なのだ。
とは言え、写真を撮りたいと心惹かれるようなモノは少なく、僕は辺りをぶらぶらと散歩していた。
「んー……」
僕は自販機で買ったジュースを一口含んで、辺りを見回す。
林はこの前行ったから、今日は良いかな……と思っていたので、僕は足を芝生の方へと向ける。
「今日は、うん、ローアングルで空でも……」
流石に写真は始めたばかりだし、僕自身、懐に余裕がある訳でも無い。だから高いレンズも無ければ、変わった技法を知ってる訳でもない。それでもアングルとか被写体とか、そういうのには拘りたいなんて思いを僕は胸に抱いていた。
「ありきたりかなぁ……でも、やってないし……」
ゆっくりと歩いて居ると、隣を真っ白な塊が駆けていった。塊の像から遅れて、きゃはきゃはと甲高い声が聞こえてきた。少し驚きながらも視線を上げると、おそろいの白いワンピースを着た女の子がふたり、芝生の広場へ走っていた。
子供は元気だなぁなんて思いながら、彼女たちの背中を追っていると、後ろから声をかけられる。
「すみません、ぶつかったりしませんでした……?」
母親だろう、三十代ほどの女性だった。首から下げたタオルでしきりに汗を拭っている。
「あぁ、いえ、大丈夫ですよ」
どうせ安物のデジカメとポラしか無いのだから、何かあっても問題は無いのだけれども。
「ホント、すみません……ちょっと、ふたりとも……!」
お母さんはそう言って早足でふたりを追いかけていった。
僕はその光景に、どこか心穏やかになりながらも「子育てって大変だなぁ」なんて考えていた。
そういう訳でたまたま、そう、たまたま、彼女達と同じ場所へ行くことになったのだが……。
「……」
広場には彼女たちが居るきりで、撮影にはもってこいだと思われたのだけれども、なかなか上手く行かない。というのも、幼い姉妹が所狭しと駆け回っていて空の写真を撮るには……正直邪魔だったのだ。
「まってぇ!」
「やー!」
楽しげな幼い声に苛立ちなどしないけれども、困るものは困る。
カメラを首から下げて、周囲を見回すと、お母さんが木陰に敷いたブルーシートに腰掛けていた。シートの上に荷物を散らばらせて、大義そうに扇子を仰いでいる。彼女の視線の先に居る姉妹は、今は芝生の上でもみくちゃになって転がっていた。
姉妹の(恐らくだが)姉が立ち上がり、それを追いかけて妹が立ち上がる。姉がぺしぺしと妹の尻と背中を叩いて芝を落として、妹もそれを真似して……穏やかな光景だった。
彼女たちの動きを少し見ていると、むしろ空よりも彼女たちの方に興味が向いた。
僕は母親の元へと歩いて、声をかける。
「すみません。ちょっと良いですか?」
彼女は胡散臭そうに僕を見上げた。
「……なんでしょう?」
少しだけ頭の中で言葉を整理して、口を開く。
「えぇっと……写真を撮るのが趣味なんですけど――」
説得するのには少し時間を要したが、彼女は承諾してくれた。こういう時「保育士さんみたいな顔」と言う毒にも薬にもならない言葉を貰いがちな僕の顔も役に立つのだなぁと思う。
「まぁ、そういうことでしたら……悪用はしないのと、一応、後で見せてください。それでしたら」
世知辛い世の中になってしまったのだなぁと、ちょっとだけ思った。
「そ、そりゃあもちろん。……もし良いのが撮れましたら、データをお送りしますね」
奥さんは少し大仰に頷いて「頑張ってくださいね」と呟いて、額の汗をタオルで拭った。
僕は遠巻きに姉妹を撮影してみる。
一枚はピンぼけしてしまった。
もう一枚はピントは合っていたけれど、彼女たちの動きにレンズが追いついておらず、長い像になってしまった。
「んー……」
困り果てる僕に、お母さんが声をかけてきた。
「難しいですよねぇ、子供って……」
心当たりがありそうな声に、僕は思わず小さく笑ってしまう。
「あはは……本当に……」
ぱたぱたと扇子を仰ぐ手を止めて、彼女は身を乗り出してデジカメの画面を覗き込む。
「あー、やっぱり……どうしてこう、子供って速いんでしょうねぇ……」
「お母さんも写真を……?」
僕が尋ねると、鞄の中からスマホを取り出して僕に示した。
「これで、ですけどね」
そう言って少し画面を操作した彼女は、僕に面白い写真を一枚見せてくれた。
「……わぁ……」
思わず声を漏らすと、愉快げに彼女は笑った。
「でしょ」
見せてくれた写真は、凄いものだった。
真っ赤な線になって駆け抜ける姉と、それを待ち構えつつも眼を閉じて口を開いている妹という図。上手とは言えないかもしれないが、けれども躍動感だけはしっかりとあった。
「あの子達、難しいのよぉ……」
くすくすと楽しげに笑いながら、呆れのような言葉を漏らしていた。
と、姉妹が揃って母親のところに駆け戻ってきた。
「じゅーす!」
「おじさんは? だれ?」
オジサンでは無い歳だと言いたいが、まぁ、子供だから……。
「写真をちょっとね」
僕はそう言って姉妹にデジカメの画面を見せる。すると、彼女たちはけらけら笑い出した。
「これ! あたし?」
「これは? これは?」
二枚目の方を見せたのだけれど、白い塊がふたつ駆け抜けているのが分かる程度なので、彼女たちの疑問も当然だ。
「いやぁ……わかんないねぇ……」
僕の言葉に、再び彼女はけらけら笑い出す。元気な子ですこと、なんてちょっと思った。
姉妹の休憩が終わって(と言っても五分にも満たなかった)、彼女たちは僕にせがみだした。
「撮って! 撮って!」
「わたしも! 貸して、撮らせて!」
そんな二人を母親が嗜める。
「ほら、ふたりとも! やめなさいって……! お兄さん困らせちゃダメでしょ!」
母親の言葉にふたりは少しだけしゅんとした様子だが、きらきらとした瞳は僕のカメラに注がれていた。
「おっけー……じゃあ、そうだなぁ……」
僕はそうしてふたりをモデルにして写真を撮り始めた。
何枚かはポーズを決めてもらったりしたけれども、どれもしっくり来なかった。確かに可愛く撮れているかもしれないけれど、なんと言ったら良いか……作為的なものを感じてしまった。ピースサインだったり、アニメかなにかのポーズを決めて貰ったりもしたけれど……だからだろうか?
僕が撮った写真を見比べながら悩んでいると、妹の方は飽きてしまったのか広場の真ん中の方へと行って寝転がり始めた。姉の方は新しいおもちゃに興味津々と言わんばかりにじっと僕の手元を眺めていたが……。
「どうです?」
母親が僕に尋ねる。
「……こんな具合です」
そう言って僕はカメラを手渡す。ついでに写真を送る操作も教えておく。
「なるほど……」
彼女はそう言って画像データを見比べていく。
「あ、これ頂いても良いですか?」
姉妹が手をつないで、ピースサインをしている写真だった。
「良いですよー。……メールか、それともSDカードかですが……」
奥さんはスマートフォンを開いて、アレコレ操作した後に本体を手渡した。
「カードで良いですか? 確かコレ、買い替えたばっかりなんでよくわかりませんけど……ここに――」
彼女の示した場所にカードのスロットがあったので、そこにデジカメから抜き出したカードを差し込んで操作をしていると、姉の方が声をかけてくる。
「おじさん、あたしも撮ってみていーい?」
「んー……」
そう呟いて、僕は操作の手を止める。
そして、僕は鞄からポラロイドカメラを取り出して、彼女に手渡した。
「こっちの方なら、良いよ。好きに使ってね……あ、乱暴にはしないでね。ここを覗いて、ここを押すと――ほら、出てきた」
出てきたのは広場の真ん中でしゃがみこんで何かをいじくり回している妹を写したものだ。
すこしパタパタと煽ってから、彼女に渡すと、ゆっくりとその像が浮かび始める。
「残り五枚だから……慎重にね」
そう伝えるや否や、彼女は「うん!」と元気よく答えて、ポラを構え始めた。
「……大丈夫なんですか?」
お母さんの言葉に僕は答えながら、手元のスマートフォンを操作していた。
「えぇ、まぁ……高いものでも無いですし、もともと人に渡す写真しか撮らないので、あっちは」
だから、気にしていない。そう言外に匂わすと、お母さんは俄に納得したようで「そうですか、すみません」と通り一辺倒の言葉を言うのだった。
少しして、操作が終わる。
「よし、これでオッケーです」
お母さんにスマートフォンを返すと、彼女はふんふん言いながらライブラリを覗いた。
「えーっと……あ、ありますあります。わざわざありがとうございます」
僕は首を振って答えた。
「いえいえ、コレくらいならお安い御用です。むしろこちらこそお礼を言いたいくらいで――」
お礼の言い合いを予感させる言葉は、姉の方に遮られた。
「おじさん。ごまい、撮っちゃったぁ」
思っていたよりもずっと早かったので僕は苦笑してしまった。
「ほほう、見せてもらってもいい?」
彼女は「うん!」と元気に答えて、写真を僕に手渡してくれた。
一枚、また一枚……捲っていくと、最後の写真に、僕は心を奪われた。
全部が妹を撮った写真だった。ただ、最後の一枚は何故撮れたのかと疑問にさえ思えた。
それは妹が立ち上がった瞬間の写真だった。
日光が彼女を背後から照らしていて、風が彼女のワンピースに吹き付けられていた。煽られたワンピースのスカートは彼女の背中にぴったりとくっついていて、空を漂う白いレース地は仄かに陽光を透かしていた。少女の……というよりも幼児の丸みを帯びた体型がはっきりと見て取れる。
悩ましげにつんと尖った彼女の口元と、微笑んだ表情とのアンバランスさが、むしろ子供の不安定さと元気さを示している様に思えた。彼女の背景はぼんやりと焦点から外れた様になっているが、それがむしろモデルの妹の姿を殊更に主張している。彼女の視線は遠くに向いていて、けれど微笑んでいて、何を見つけたのだろうかと不思議に思ってしまう。
丸い頬も、丸い手足も、低い身長も、全てが子供そのものでありながら、けれども大人びた印象さえ覚えさせる写真。全ての意匠が彼女に集中した写真。……そして、僕には撮れないだろう写真。
「……おじさん?」
余程僕の表情が強張っているのがわかったのだろう。姉が不思議そうに尋ねる。
「……ご、ごめんね。……す、凄いねぇ、上手だよ。これ、なんか――」
僕はそう言って一番最初の写真を見せようとしてしまった。
その写真は彼女が撮影した中でも悪い出来のものだった。手がブレたのか、全てがぼやけていた。
僕は彼女に写真を手渡そうとした瞬間に、引っ込める。
「ごめんごめん。こっちだった……」
アンフェアだと思った。大人らしくないと思った。子供っぽいと思った。胸にいだいていた感情は、彼女の腕前を認めたくないという醜い感情だった。
姉は怪訝そうな表情を浮かべたけれど、写真を受け取るとすぐに微笑む。
「ほんとぉ!? やったぁ!」
僕は、僕は……悔しかった。
子供が無為に撮った、偶然の写真を破り捨てたいとさえ思った。
けれどそれはやってはいけない行為なのは、よくわかっていた。
「……。うん、これは……本当に、綺麗に撮れたねぇ」
他の人なら、こういう時彼女の頭を撫でそうなものだけれど……。
「やったぁ! はーちゃん! これぇ!」
姉はそう言って妹に写真を見せようと駆け出した。
無邪気で、元気で、無為で……だからこそ撮れたのかもしれない。そう思って僕は溜飲を下げるしか無かった。
僕は意を決してお母さんの方へと向き直る。
「……これも、どうぞ」
「えっと……? あぁ、ポラロイドの」
僕は「えぇ」と相槌を打つ。
「……ポラは全部人に譲ると、決めてますので……あの子が持っていったのも含めて……受け取ってください」
悔しかった。せめて、もっとじっくりと眺めて研究くらいしたいと思う。
けれども、少女に負けたという事実よりも、そんなものよりも、ずっと、ずっと――
「ありがとうございます、なんだかお世話になりっぱなしで……本当にすみません」
――自分の決めたことくらい、守れないのが嫌だった。だから、渡す。
「いえ、お気になさらず……」
僕はそっと姉妹に視線を運ぶ。
羨ましかった。別に、僕は写真で生きていけるような人間では無いし、そんなつもりも無い。賞に応募してみるだなんて考えたことも無い。けれど、どうしても、綺麗なものを、素晴らしいものを生み出した彼女には、嫉妬してしまった。
「僕は、失礼しますね。今日は本当にありがとうございました」
深々とお辞儀をすると、お母さんも立ち上がってお辞儀を返した。
「あ、そうです、デジカメの方の写真、何か消したほうが良いものとかありました?」
事務的なやり取りの最中でさえ、僕は彼女達の事を考えていた。
きっと、良い写真を撮れると思う。写真でなくても、きっと綺麗な……いや、素晴らしいものを創り出せると思う。今日のそれが偶然だったとしても、意図したものだとしても、きっと。僕は、そんな確信めいた思いに囚われていた。どうしようもなく羨ましくて、どうしようもなく妬ましかった。
「……最後に、その――」
「なんでしょう?」
僕は一瞬伝えるか迷った。
「……あの子に渡した写真、本当によく撮れてるので……大事にするように、お伝え下さい」
初心者の僕が言うのも変な話ですけど、と付け加える。
母親は、微笑んで言った。
「わかりました」
僕はほほえみ返して小さく頷く。
「では、失礼します」
広場を後にした僕の背中がじりじりと妬いた。
きっと昼過ぎの太陽の所為だろうと必死に心の中で繰り返しながら、僕は公園を後にした。