短編集   作:むかいまや

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少しくらい雰囲気出せたらなぁと思う


朝焼けに思う

 午前三時。草木も眠るとはよく言うもので、辺りはしんと静まり返っている。風も無く、鬱々とした湿気と熱とが僕の身体を責め苛む。背中から滲み出るような汗が、塊になってだらりと溢れるのがわかる。

 僕はついさっきまで煙草を吸って空を眺めていたけれど、今はもう、その火も無い。けれどまだ僕は空を眺めていた。無心で、或いは、よしなし事を虚に抱いて、眺めていた。何をする気にもならず、かと言って、何もせずに居るのも苦痛だった。煙草を吸って空を眺めていると、少しだけ、救われた。

 

 空は真っ暗で、帯のような細い雲が幾つか浮かんでいるのが見えた。それらは歩みを止めたかのように佇んでいる。なんとなくではあるが、どこか同情のような、仲間意識のような、共鳴めいた思いを抱いて、僕はそれを眺めていた。

 

 憂鬱、それとも、案外夏バテかもしれない。そんな気持ちのまま、日々を過ごすのは辛いもので、当たり散らしこそしないけれど、かと言ってご機嫌になれるわけでも無い。

 虚しくて、胸の奥がちくちくと痛んで、どくどくと煽り立てるように、忙しなく、何かが蠢いている日々。ともすれば、何かの過ちをしでかしかねない。過ちが何なのかはわからないけれど、でも、きっと、そう。根拠のない不安が燻っているのは、僕がお酒を飲んでいたからかもしれないし、単に眠いからかもしれない。

 

 僕の人生の師匠は、焼酎の酔いはよくない風に言っていたけれど、現代ではきっと9%の缶チューハイのそれが適切だろう。師が現代に生きていたら、きっと浴びるように飲んでいたに違いあるまい。

 そして言うんだ。むかむかして、吐き気がひどい。味も乱暴で、粗野。甘味料の味が下品。不思議なくらい酔えて、なんとも怪しい。そう言うに、違いない。

 けれどそのクセ、毎朝毎晩飲んだくれるのだ。ゲロゲロ吐いて、懲りずに飲んで、そしてしかめっ面をしながら、文机に向かうのだろう。これは命の水なんです、なんて言うに違いあるまい。

 僕は心底彼に憧れる。やりたい放題した人生に見えて、繊細な内心を抱えていたかもしれない。あるいは大衆に迎合しすぎて嫌われる節もあったかもしれない。けれど世に認められて、後世まで愛されている。

 デカダンスなんて、きょうび無理だ。でも、憧れる。じゃあ、僕は? と思う。

 だらりと背中と首に汗が流れるのを感じた。

 憧れて憧れて、けれど目指さなかった。それは、少し惜しいかと思うが、過去の選択を悔いてはいない。あの時に、僕は別の事を考えていて、それに邁進した。

 その結果として今こうしている。決して満点ではないが、同時に決して赤点では無い。少しくらい誇りたい。今の生活に不安は当然あるし、未来にも同じく。ただ、まぁ、こうして煙草を吸って空を眺める程度には生きていけている。それだけは、確実だ。明日はどうにかなっても、明後日にはどうにもならなくなるかもしれない、そんな綱渡りの日々だけれども。

 

 今更、彼の様には生きていけまい。憧れるけれど、目指してはいけない人だと思う。妻がありながら……なんてのはズルいけれども、まぁ、そこに全てが集中する。本当に死のうと思ったら、冬に夏物の服でももらわない限りは、あそこで死にたい。冗談。

 

 僕はゴールデンバットに火をつけて、一口吸い込む。金が無いから吸っている割に、結構嫌いじゃないんだな、こいつのことは。辛い後味も、くらりとするような強い刺激も、雑味すら感じる味が、混沌としているようで、けれど統率されているようで、魅力的なんだ。好きだけど、やっぱり不味いんだけど、それも好き。なんとも不思議な煙草だと思う。

 

 ぼうっと眺める空は広い様で狭かった。

 

 アパートメントの一階の廊下。頭上では空を切り取る様に蛍光灯で照らされた天井が走る。そもそも位置も悪い。ここは北側に面していて、月も無い。それに視線を下ろせば民家がすぐそこにあるし、電線も走っていた。要するに、空なんて殆ど見えないんだ。手のひらで掴みきれる程度の、紫煙が溶けるので精一杯の、それくらいの広さしかない。

 でもここが一番落ち着く……というのはなんとも不思議に思えた。

 人通りがこの建物で一番多い場所なのに、ひとりっきりの夜を満喫出来ている特別感のお陰かもしれないし、月に……お天道様に見られていないと言うのが、何というか、秘密めいていて、好きなんだ。

 僕には満天の空は贅沢すぎるし、のしかかってきそうで怖いくらいなのかもしれない。日陰者だと思われるかもしれないけれど、でも、僕には俗物に囲まれた天窓から覗く夜空で十分満足出来た。

 

 視線を地面に向けると何やら小さな黒い塊が視界の端でもぞもぞしていた。部屋で見かけたら、殺すか追っ払うかしそうだけれど、酔いの回った頭はそう思わなかったらしい。

「お前もか、一緒に吸うか」

 問いかけるでもなく、煙草をひと口、ふた口吸って、そいつに吹き掛ける。そいつは、もごもご焦った様に僕から離れていった。少しだけ、虚しかった。

 

 目を閉じる。

 

 蛍光灯の白んだ光が何かを訴えたげに明滅した。何かの機械が動く音がして、遠くから微かに虫の声が聞こえる。草木も眠る、とはいうが……虫は眠らないのかしら。そう思った。

 眼を閉じて、思う。

 色あせた白色の壁も嫌。土汚れの目立つ廊下も嫌。明滅する蛍光灯も嫌。ボロの部屋も嫌。そこに住んでいる事実が嫌。あくせく働くのも嫌。人目を気にして生きていくのさえ、嫌。何かをしようと思って人の目を気にするのなんて、馬鹿げていて嫌。

 けれど、そうして生きて行かねばならぬのも、知っている。明日に一縷の望みを掛けて、生きて行かねばならぬのだ。細い細い糸を手繰り寄せるようにして、明日まで這い上がっていく。明日に上がったら、そのまた明日を目指して這い上がっていく。手を止めれば落ちる。昨日に落ちるのではない。すべてが終わる場所まで落ちる。全部台無しというのは、なんとも甘美に思える。それを選びたいけれど、そうする勇気なんて無いのも知っている。

 

 人はきっと、みんな道化なのかもしれない。他者に対するサァヴィスを必死に行って、そうして生きていくのだろう。辛い、と思う。しんどいと、思う。でも、やらなきゃいけない。明日に生きなきゃいけない。

 目を閉じたまま、煙草を加え、吸い込む。

 ふーっと長く吐き出して、灰皿に捨てる。

 蛍光灯の光しかわからないけれど、薄暗い廊下に煙が溶けていくのはわかった。

 

 目を閉じている内に、いつの間にか僕は眠っていた。つい眠る直前までしゃがんでいたのに、今は地面に腰を下ろして、足を伸ばしてさえいる。ズボンや尻が汚れるなぁなんて思って、ひとつ溜息をついて空に視線を移す。呼気にこびりついたような酒精が鼻についた。けれど、それさえ忘れてしまうような朝焼けが見えた。

 

 空が白んでいた。朝焼けだった。

 黄金色に煌めく真白な雲が浮かんでいた。薄青の空に浮かんでいた。切り取られた空を横切るような細長い雲。それが二筋。眠る前の雲かもしれない。もしかしたら別の雲なのかもしれない。

 

 夏なのに、冬に夏物の着物を貰った気持ちになった。いや、それだと気障に過ぎるか。今見た光景をまた見られるときまでは頑張ろう……というのが妥当か。

 

 その時まで、がんばれるだろうか? がんばろうと思いたい。いや、頑張るしかないんだ。やるしかない。やらないといけない。

 

 そう思った。

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