短編集   作:むかいまや

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去年の年の暮れに祖母が死んだ。
そこで感じた思いは”ぼく”にとって何だったのだろうか?

この物語はフィクションです。


祖母へ

 

 去年の年の暮れ、祖母が死んだ。

 

 ぼくはその時、地元を離れて東京に居た。その時はもう、大学を中退してからずっとフリーターをしていた。内蔵を凍りつかせるような冬の寒さに震えながら、熱気の充満した特急電車に乗って地元に帰ったのを覚えている。

 

 最初にぼくに来た連絡は、母からのメールだった。

『おばあちゃんが入院したからこっちに帰ってきなさい』

 という極めてシンプルな文面。ことの重大さはぼくには伝わってこなかった。

 だからだろうか、ぼくはのんびりとしながら実家へ帰ることになった。東京土産の菓子と着替えを数着、それだけ持ってアパートを後にした。時間にして午後三時くらいの橙色の光が降り注ぐような年末に、ぼくは駅へと向かったのだ。

 

 電車に揺られながら、幾つもトンネルを通る。

 柔らかな冬の午後の陽射しが差し込んでは途切れる。冷たい暗闇が電車を覆い隠しては途切れる。そうこうしている間も、ぼくはのんびりと外の景色を見つめていた。

 その時のぼくは、祖母が危篤だなんて知りもしない。そもそも糖尿病を患っていた祖母はよく病院のお世話になっていた。それに歳も歳だ。ちょっとした怪我――例えば骨折とか、そんな――で命に別状は無いが、数年来会っていないぼくに逢いたいから連絡をしたのだ、それくらいに考えていた。

 けれど、こうなってくると不思議なもので、祖母との思い出の幾つかを思い出しても居た。

 

 ひとつは、ドライヤーを使わずにストーブの前に陣取って髪を乾かす祖母の姿。

 ひとつは、祖母の運転する車でデパートに行った帰り道、買ってもらったゲームのパッケージをワクワクしながら眺めていた思い出。

 ひとつは、祖母がよく呟く歌。リンゴの唄。最初のフレーズだけをずっと繰り返す、祖母の姿。

 

 ぼくにとって、祖母は育ての親だった。

 父に先立たれた母は必然的に稼ぎの為に働きに出る。そこで、母方の祖母がぼくら兄弟の世話をしてくれた。勉強を教えることは無いし、お小言も多い。けれど、育ち盛りのぼくら兄弟にご飯を作り、はちゃめちゃに汚した服や何かを洗濯してくれたし、他愛ない話もしてくれた。間違いなく愛してくれていた。そんな育ての親だ。

 

 そんな事を考えている内に、勝沼ぶどう郷駅に電車が着いた。

 ここから見る盆地の景色は、地元のどこよりも地元の臭いがすると思う。

 そして電車が動き出す。ぼくはもう、考え事を辞めてスマートフォンを取り出してその時やっていたゲームなんかを楽しんでいた。

 祖母の思い出はしっかりと胸に残っていたけれど、享楽的な、刹那の楽しさに頭は一杯だった。

 

 そこから数駅、地元の最寄り駅に到着する。

 最寄り駅と言っても、この辺りは田舎の典型なので〝車で十分〟は近い距離だから、当然のように駅までは車で行く。東京に出たときに〝最寄り駅〟を基準に話をするのが不思議に思えたくらいだ。

 それはそれとして……ぼくは車で向かえに来てもらう必要があった。

 病院の最寄りで良かったのかもしれない、そう後悔しながら待っていると、一台の黒い車が来た。陽光をきらきらと反射しながら、すいすいと駅のロータリーを進んで、ぼくの前でそれは止まった。

「よう、久しぶり」

 次男だった。最後に会った時と比べると少しでっぷりとしていたし、似合わない茶髪だった。

「おう、買ったのか? 車……っしょっと、じゃあ頼むわ」

 ぼくは車に詳しくないから、軽自動車か普通自動車かを判断するくらいしかできない。普通車だったから、よく買ったなぁなんて話をしたかったけれど、次男はぼくを無視していた。それか、考え事でいっぱいだったのかもしれない。

 ぼくがばたんと扉の閉めると、車は静かに走り出した。

「病院? 家?」

 僕が尋ねると

「病院」

 次男の言葉に、ぼくは「そうか」と小さく答えた。

 それきり会話は無かった。沈黙に包まれた車の中で、カーオーディオから流れるやたらと破壊的な音楽だけがぼくらの間を取り持っていたように思う。或いは、ぼくとそれ以外の人物の抱いている思いとの乖離を暗に訴えていたのかもしれない。

 

 十数分の道のりを経て、ぼくは大きな病院に到着した。

「どうも」

 次男は「ん」とだけ答えてぼくを先導するように病院に入っていった。

 病院に入ったぼく達は、受付へ向かう。次男は受付であれこれ話していたけれど、ぼくは何もできないので周囲をきょろきょろと見回していた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……覚える気も実践する気も無いのにあちこちに貼られたポスターを見ていると、次男がぼくに声をかける。

「六階、六〇四号室。俺はそこのコンビニで買い物すっから、先行ってて」

「あいよ」

「それと、これ。首から下げろってさ」

「ん」

 次男が差し出したのは『面会許可』と記載された首から下げる紙だった。ラミネートがきらきらとしていた。

 ぼくは次男からそれを受け取り、そのままエレベーターに乗って、部屋に向かった。

 

 部屋に入ったぼくを迎えたのは、チューブに繋がれ虚ろに目を閉じている祖母と、深刻そうな表情を浮かべる母と叔母、そして叔母の息子だった。

 事ここに至ってぼくは事態の深刻さを察した。

 あぁ、ばあちゃん。ヤバいんだ……初めてそう思った。

「……あぁ、来たの。遅かったじゃない」

 母がぼくに言った。

「単に顔見せろって話かと思ったんだよ。あのメールじゃ流石にわからんって」

 ぼくは母の顔を見ないで、じっと祖母の顔を見つめていた。

「それと、叔母さん、こんにちは」

 ぼくが小さくお辞儀をすると、叔母は少しだけ微笑んでくれた。

「久しぶり、もう何年ぶりだねぇ」

 そう呟いていたけれど、叔母は祖母の寝姿を見つめていた。ぼくの従兄弟も小さくお辞儀をした。

 叔母の家族は一時期、海外に居たこともあるからか、祖母に対しては微妙な距離感を覚えていそうだったけれど、でも、深刻そうというか悲しげというか、憂いを帯びているように思われた。

 ぼくはベッドの隣に置かれた丸椅子に腰掛けて、祖母の手に触れる。シワが目立ち、冷たい手。冬だからじゃないその冷たさにぼくは少しだけ驚いたけど、すぐに気持ちは平らになった。

「ほら、おばあちゃん、来たよ」

 母が祖母にそう囁く。聞こえているのか聞こえていないのか判然としないやり取り。

 けれど、祖母はゆっくりと細く眼を開いて、ぼくの顔を見つめた。そして小さく頷いた。

「――――――」

 口を小さく動かして、母に耳打ちをする祖母。その内容はぼくにはわからなかったけれど、母は困ったような笑みを浮かべて、ぼくに言う。

「奥さんはできたかってさ」

 ぼくも困ってしまって笑ってしまう。

「ごめん、まだ」

 祖母は小さく眉をひそめて、もう一度母に囁く。

 今度は考え込むように眉間にシワを寄せて、肩をすくめた。

「仕事には就いたかってさ」

 これもまた困ってしまう。

「それもまだ」

 やっぱりお小言かとぼくは不愉快にさえ感じたけれど、状況が状況だからか、今まで程の不快感は無かった。むしろ、申し訳なく思うばかりだった。

「でも、うん、帰ったら探すよ、仕事」

 祖母は小さく頷いて、再び目を閉じた。

「……寝ちゃった」

 母の呟きに思わずくすりと声が漏れた。

 そこで次男が部屋が戻ってきた。

「はい、晩飯。適当に買ってきたよ」

 コンビニの袋には菓子パンやおにぎり、サンドイッチが多様に入っていた。

 部屋には消毒液のような病院の臭いが充満していたし、事の重大さを意識せざるを得ないからか、夕食の味は殆どしなかった。

 その後、関西の方から向かってくるという三男から電話があって、祖母と朧気な会話をして……それで終わり。

 

 祖母が死んだのは、その日の深夜だった。十二月二十九日の午前三時。

 病院から電話が来て、跳ね起きたぼくらは急いで次男の運転する車に乗った。叔母達はホテルを取っているのでそちらから向かうらしい。

 病院に到着した僕たちは、慌てた様子の看護師さんや、奇妙に落ち着いたお医者さんに先導されて部屋に入る。顔に布をかけられた祖母。布は微動だにせず、垂れていた。

 それから暫くの間、ぼくの意識は曖昧だった。

 単に眠気なのか、それとも慌てふためく母につられて狼狽したのか、それは定かでは無いけれど、カウンターの辺りで母と次男が病院職員と話をしている間、ぼくはベンチに座ってふたりを眺めていた。

 その後、気づいたら車に乗っていて、実家に居て、カップラーメンを母達と一緒に啜っていた。いつの間にか叔母達も実家に来ていて、少し不思議な心地だった。

 

 母と叔母は葬式やら手続きやらの話をしていたから、覚悟はしていたのだろう。現実に訪れた事態に対して困惑と悲しみを抱いては居たようだけれど、しっかりと手続きや親戚一同への連絡をしていたのだから。

 

 祖母の死が認められて、それから二日間、ぼくは思っていたよりもずっと退屈な日々を過ごしていた。実家で何をするでもなく、祖母の遺体が置かれた部屋で寝起きをし、飯を食い、風呂に入って、そんな時間だった。

 実家は大して広くない。居間があって、その隣に一部屋。後はキッチンがあって、風呂とトイレと、二階に二部屋。小さな小さな家。居間の隣の部屋は祖母が寝ていた。だから、祖母の遺体はそこに安置された。

 

 そこでぼくは実のところ暮らしていなかった。両親が結婚した時、小さなアパートメントを借りていたのだ。そこで母と父と、産まれたばかりのぼくが居た。兄弟が増えても居室は変わらず、そこだった。小学校や中学校の都合もあったし、高校だってそこの方が通いやすかったのだ。

 が、ぼくが大学へ進学する頃にもなると、父は居ないし、金銭的な負担もあってか家族は母方の実家へと戻ることになった。その機会は殆ど同時で、結局の所、ぼくからしてみれば〝時折行く実家〟ではあっても、母は言うまでもなく、下の弟ふたりは短期間でも〝暮らした実家〟なのだ。

 どこか余所余所しさをこの家から感じていたのは、だからなのかもしれない。

 

 時折、祖母の知人や親しい人、久しぶりに会う親戚、そんな人達が来てくれた。その人たちに対して、母はお茶を出したり、祖母の話をしたりとしていたし、ぼくもそれを手伝った。胸の中には長兄であるのだからという漠然とした責任感だけがあった。だから少し道化を演じることになったかもしれないけれど、ぼくは努めて明るく振る舞い、お茶を勧め、悲しげな表情を浮かべていた。

 けれども、ぼくの心の中は空っぽだった。

 悲しくもなければ、愛おしくもなかったし、残念でもなかった。あれだけ愛してくれた祖母なのに、あんなに頑張ってくれた祖母の死なのに、何も感じていなかった。面倒だと思い、手間を厭っていた。

 要するに、〝できる長兄〟を演じながら、呆けた精神で居たのだ。これに後悔もなければ、感心もしていない。単に、自分が下らない人間なのだと、冷静に見つめるだけだ。

 

 時間が経過して、式場の人がやってきた。

 祖母に手を合わせて、それから母と叔母とに向き直る。〝おとな〟があれこれと話をしている間、ぼくはじっと祖母の顔を見つめていた。

 祖母の顔色は病院で虚ろだった時と比べると綺麗だった。本当に、今から起き出して小言を言い出すのだと思えるほどだった。月並みな感想だけれど、本当にそう思えた。

 ただ、ぽっかりと空いた口だけとドライアイスで冷え切った遺体の、無機質な温度だけが祖母から伝わる何かの事実だった。きっと、死んだのだという事実の列挙なのだろう。けれど、何も感じなかった。

 

 祖母の遺体が式場に運ばれる日、三男が帰ってきた。

「ごめん、遅くなった……」

 落ち込んだ様子の三男に母が声をかける。

「おかえり、大丈夫、話はしたじゃない」

 震えた声の母の言葉が、ぼくにはよそよそしく感じられた。

 けれど、三男は真面目だからか、落ち込んだ様子で「顔、合わせたかったけどね」と小さく呟いて、二階のかつての自室に荷物を置きにいったのだった。

「あ、出棺だけど――」

 母はぼくの肩を叩いて言った。

 母と叔母はここに残り話をしなくてはならない。次男は車を出すから残らなくてはならない。三男は支度が色々とあるから残らなくてはならない。いとこは流石に縁が遠い。年齢、縁、そういった関係から、ぼくに遺影を抱いて霊柩車に乗って欲しいという事。

「……うん、いいよ。支度する。荷物はお願い」

 そしてぼくはその日の夕方、霊柩車に乗った。

 クラクションが鳴り響く車内は沈黙に包まれていて、車の外では泣く人もいれば、俯く人もいた。この人達とぼくと、何が違うのだろうと思う。母や叔母、弟達、いとこ、親戚、隣人……これらの人達とぼくと、どうして抱く感情が違うのだろうか。表情と内心が一致するとは限らないけれど、きっとこの人達はぼくほど取り繕っては居ないだろう。

 そんな事を考えながら、式場に到着した。

 

 その晩、遅れてやってきた母達と一緒に、式場に宿泊することになった。そこでぼくは兄弟たちと近況を話すことになったのだ。

 場所は建物から一歩出たところに置かれた灰皿の周り。兄弟全員煙草を吸うけれど、親父の吸っていた煙草と同じ煙草を吸っているのはぼくだけだった。

 ぼくはロングピースを指で弄びながら尋ねる。

「……お前は何やってんの? 最近どう?」

 次男はハイライトの灰を地面に落としながら、答える。

「工場。来月、配置換えの予定だってさ」

 次男は確か高校を卒業してから就職した筈だ。職場こそ知らないが、そう聞いている。

「お前は? 大学何年だっけ?」

 三男に聞くと、彼はマイルドセブンのソフトケースを胸ポケットにしまって答えた。

「三年。一応、院に行く」

 三男は理系で、確か機械系の大学だった筈だ。

 

 ぼくと次男は五つ、三男とは七つ歳が離れている。

 そして、三男が小学校にあがったころ、親父は死んだ。

 

「ふぅん……結構ちゃんとやってんだねぇ……」

 ぼくは煙草の煙を長く吐き出して、言った。夜空に溶けていく煙が、どこか羨ましかった。

 

 喫煙所から戻ると、母と職員が話をしていた。

「ちょっとアンタ達」

 母はぼくらの姿を認めると、ぼくらに声をかけた。

「なに」

 次男が聞き返すと、職員の方が話してくれた。

「明日の式が終わって、出棺するときにお祖母様のお好きな曲を流そうと思うのですが――」

 ぼくはその言葉にふと、リンゴの唄を思い出した。祖母が好きなのかは知らないけれど、良く口ずさんでいた曲だから。

「……んー……」

「……ちょっとわからないですねぇ」

 次男も三男も首をかしげていた。

 母は困ったように笑いながら、呟く。

「流石にマツケンサンバは流せないからねぇ……」

 それは祖母の携帯電話の着信音だった筈だ。

「あはは、たしかに」

 次男か三男か、そう返事をしたが、結局そのまま答えは出なかった。

 なぜ、ぼくは何も言わなかったのだろう、何も言えなかったのだろう。そう思うけれど、答えはわかっていた。何も、悲しくないからだ。何も、思っていないからだ。祖母のことは大切な人だと思っているけれど、それだけ。周囲から居なくなって久しいし、実家に、祖母の家にいた時間が絶対的に短いからだ。

「じゃあこちらで曲は決めるということにさせてもらいますね」

 職員の言葉に母も弟達も頷いた。

 ぼくは頷くことができなかったけれど、口を開くことができなかった。そんな権利はぼくに無いのだと感じていた。

 

 翌日、予定通り葬式が始まることになった。

 受付にはぼくといとこが居た。中に居ても退屈なだけだからぼくはそれでよかった。それに〝長兄としての責任〟を果たすにはここに座る以外無いのだから。そもそも、祖母や参列者に示すほどの哀悼の意を抱いていなかったし、整理するほどの気持ちは落ち込んでいなかった。ぼくは自分が冷酷なのか、薄情なのか、まるでわからなかったけれど、隣に座る従兄弟との会話を楽しもうと漠然と考えていた。

 開場三十分前、ぼくは隣に座る従兄弟に尋ねる。

「いま、幾つだっけ?」

 従兄弟はぼくの方をじっとみつめて、言う。

「十七です」

「あぁ、じゃあ来年入試かぁ……こんなんで大変だろうけど頑張ってね」

 困ったような笑い声が聞こえたけれど、ぼくは続ける。

「志望校はどこ?」

 従兄弟は恥ずかしそうにしたけれど、ひとつの大学名を答えた。私立上位校だった。

「すっごいねぇ……頑張ってね」

 素直にそう伝えたけれど、でも、悔しかった。ただ、その悔しさはあっという間に消えていった。

「えぇ、まぁ、はい……」

 その後は会話も無く、開場を迎えた。

 

 幾人かの人が受付に来た。

 そこで、ぼくらは少しだけ慌ただしさを楽しみながら作業を進めた。名前と住所を書いてもらって、その後に受け取った包みの中の金額を書く。それを繰り返している内に、人は来なくなって、ぼくらは焼香をしに中に入った。なんとも思わなかったし、思えなかった。焼香のマナーがわからなくて困ったことしか覚えていない。

 

 そして、出棺。

 どこかで聞いたような綺麗な旋律が流れたけれど、ぼくの記憶の中に居る祖母の姿とは全然結びつかない曲だった。それなら、まだ、マツケンサンバでも流れてくれた方が祖母の葬式だと思えたくらいだ。祖母の明るさと騒がしさと、それを感じたかったのに。

 

 その後の宴会とか、実家に戻ってからの予定とか、そういうのも全部済ませて、ついに祖母が焼かれるときになった。そこでさえ、ぼくは何も感じなかった。重苦しさだけがぼくの胸の中に積もっていった。

 

 ぼんやりした何かを感じながら、僕はその後、東京に戻った。

 不安でも、不満でも、悲しみでも、なんでも無い漠然とした感情だけ抱えて戻った。

 それからの生活は何も変わらなかった。今の今まで祖母の事を思い出すことも無かったし、恋人もできなければ、仕事に就くこともなかった。

 

 

 

 この経験が何を意味するのか、ぼくはわからない。けれど、あの日に抱いた感情が今ようやくわかった気がする。

 

 それは〝隔絶〟と〝劣等感〟だ。

 

 ぼく以外の人はみな、前を見ていた。前に進んでいた。

 次男は仕事に、三男と従兄弟は進学を、母は目の前に降りかかった出来事を処理する為に、親戚たちは過去を見ていたかもしれないが、それでも前に進もうと思って悲しみを受け容れていた。

 それが何を意味するのか。

 ぼくが世界に必要無いということ。だって、ぼくが前に進めないことを案じてくれていたのは祖母だけだったのだもの。その祖母は死んだのだもの。

 ぼくは世界に馴染めないのだということ。だって、その人を失ってさえぼくは前に進もうとしないのだもの。

 

 もはやもう、周回遅れで、手遅れで、ぼくは背中ばかりをみているのだと思う。

 ぼくは大人になれていない。だって、演技しかしていないし、何も考えていない。

 空を見つめて口を開いてぴぃぴぃ鳴く雛鳥と大して変わらない自分が居る。けれど、雛鳥と違うのは、巣立つべき成鳥の姿をしているということ。

 誰かから与えられて初めて動けるくらい、ぼくは劣っている。

 そうであるのなら、ぼくはどうしたら良いのだろう。

 

 目の前に今、輪っかが下がっている。

 ぼくはどうしたら良いのかわからない。最初はその気だったのだけれど、書いているうちにわからなくなった。

 

 祖母に謝りたいという思いだけは確かにあるのだけれど、それだけで〝それ〟を選べるほどぼくは強くない。それに祖母に会えるとも限らない。どうせぼくは地獄に行くだろうから。罪深い人生では無いけれど、何も成し得ない人生でもあった。

 ひとつだけ、祖母に謝りたい。

「リンゴの唄、かけてもらうべきだったよね」

 それを伝えるのが何時になるのか、ぼくにはわからない。

 

 もう筆を置きます。

 ……どうするのかは、ぼくにはわかりません。何も決められない愚図が、自分のしたいことやしようと思ったことを決められるだなんて思いません。

 たぶん、下らない、凡百の、ありふれていて、そして劣った命が、ぐだぐだと続くのでしょう。そう思います。ぼくは、それが悲しいけれど、きっとその悲しみはどこかへ消えます。それでは。

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