スーパーかなんかみたいなところで男二人でスケートして楽しんでるとか言うよくわかんない夢だったんですけどねぇ
小学校六年生の頃、ぼくには気になっていた子が居た。名前を祥子と言う。
気になり始めた理由なんて些細だったと思う。ぼくと同じ「ショウ」というあだ名で呼ばれていたから休み時間に教室でひとり、本を読んでいたから。腰まである黒髪が、クラスで目立っていたから。小学校三年の春に転校してきたから。そんなところだと思う。もしかしたら、単に可愛かったからという安直な理由もあるかもしれない。
それはともかく、その頃のぼくは彼女に対して寄せていた関心が、子供なりの恋心であったことなんて全然気付かなかった。あれがぼくの初恋だったのだからそれも仕方ない話ではあるのだが。
夏休みの終わり頃のある日のことだ。
その日の前日から続く大雨で窓からも天井からもこつこつという雨音がしきりに聞こえていた。そんな中で、ぼんやりとした不満感を抱きながらもぼくは家でずっとそわそわしていたと思う。
じめじめとした湿気が部屋中に立ち込めていて、汗と混じって不愉快だし、折角の夏休みなのに外で遊べない。だから家に閉じこもって居るしか無い。遊び盛りの小学六年生にこの状況はなかなかしんどい。
ただでさえ退屈なのに加えて、鬱々とした不満とも焦りともつかない嫌な感情も抱いていた。だから宿題も手に付かないし、テレビを見たり漫画を読んだりして時間を潰そうにも、そわそわとして落ち着いていられない。父さんも母さんもその日は家に居たから、最初の内はくすりと笑ったりしていたけれど、夕飯の頃にもなると訝しげな視線を寄越したりなんかもしてきた。
あの時に抱いていた感情の原因はまるでわからなかったけれど今ならわかる。あの子と話をする事無く、夏休みが終わるからだ。それは単に『青春の一コマ』を無為に過ごすことに対する苛立ちや焦りではない、もっと明確な、はっきりとした理由があった。その感情の原因は、あの時のぼくにさえ伝えられていたのだ。ただ、その事実とその時の思いとが紐付けられていたことに気付いていなかっただけ。気付いたのは、出来事が起こった後だった。
夕飯の頃、外の雨脚はかなり弱くなっていた。
歳の離れた姉さんはご飯を済ませると早々と部屋に戻っていた。聞きたいCDがあったんだっけか。
なので、ぼくと母さんと父さんの三人で食卓に着いていた。
父さんがグラスに注いだビールをがばりと煽って言う。
「もうすぐ雨も止むかな」
母さんが父さんの言葉を聞いて外をうかがう。母さんがカーテンを捲ったからか、ぼくにも外の光景がちらりと見えたけれど、真っ暗だという事以外なにもわからなかった。
「そうねぇ――弱くはなってるけど……畑、大丈夫かしら?」
「どうだかなぁ……土砂崩れとか増水って話は来てないが……明日は片付けやら掃除やら……しんどいだろうなぁ」
父はため息をひとつついて、ビールを今度はゆっくりとひと口飲んだ。そしてぼくの顔を見て言う。
「お前も手伝うか?」
父の言葉は冗談めいたものだったけれど、ぼくは顔をしかめる。
「えー、やだ」
「こら、そんな事言わないの」
椅子に座り直した母さんはぼくと父さんとのやり取りにほほえみながらも、ぼくをたしなめた。
「手伝わなくてもいいけど、その分宿題進めておくのよ。いい?」
「……ん」
「決まりだな。頑張れよ」
父さんも楽しそうに笑っていて、ぼくは「騙された」なんて思っていた。
そんな時、不意に電話がなった。
「あら、出てくるわね」
母さんは反射的に立ち上がろうとしたけれど、それを父さんが静止する。
「町内会の連絡かもしれん、俺が出るよ」
そう言って父さんは電話を受けに居間を離れた。けれど、すぐにニヤニヤと笑みを浮かべながら戻ってきて、ぼくを呼んだのだった。
「おい、ショウ。お前に電話だ」
母さんもぼくも困惑の表情だったと思う。普段はぼくに電話なんて来ないし、来たとしても父さんの反応がヘンだった。
「……? わかった。……だれ?」
ぼくが尋ねると、父さんはニヤニヤをそのままに、あの子の名前を呼んだ。
「祥子ちゃん、だっけか。お前のクラスメイトだったろう」
あの子の名前が出てきた途端、母さんは「あらぁ」なんて楽しげな声を漏らしたし、ぼくの顔が熱くなってしまった。
茶化すような、それとも成長を喜ぶような、そんな不思議な声色で話をしだした父さんと母さんを無視して、僕は電話に出る為に玄関先へ行った。もしかしたら、両親の声なんて聞こえていなかったのかも知れない。どくどくと心臓の音がうるさくて、どうしようもなく緊張して、電話の意図がまるでわからないのに嬉しい……そんな色々が入り混じっていたのは事実なのだ。
薄暗い玄関で、電話のランプがぼんやりと光っていた。
ぼくは受話器を持って、保留のボタンを押す。
「もしもし、正一郎、です」
妙に堅苦しくなったのは、緊張の所為かもしれないし、電話で女の子と話すのが初めてで距離感を測りかねていたからかもしれない。
「……くつ、何センチ?」
電話先から届く声はなんだか堅苦しい響きがした。
それに、なんともぶっきらぼうで唐突な質問に困惑してしまう。
「く、つ……? スニーカーとか、上履きとかの?」
「うん。何センチ?」
ぼくはさっきまで感じていた緊張なんてどこへやら、ぽかんとして数秒固まった。
「……なんセンチ?」
しびれを切らしたのか、祥子は同じ言葉を繰り返した。
「ご、ごめん……えっと――」
正直な所、靴のサイズなんか覚えちゃいなかったから、少し時間をかけて考えてしまう。考えながら、電話越しに時折聞こえる彼女の呼吸に緊張がまたやって来てしまった。殊更に祥子を意識してしまうと、どうしてもそうなってしまった。
「――二十四センチ、だったと思う」
「ありがと」
彼女はそう言ってがちゃりと電話を切った。
「……? 何だったんだろ……?」
ぼくが受話器を戻す頃には、抱いていた緊張感はどこかへ消えていて、困惑の思いだけが胸の中に広がっていた。
居間に戻ったぼくを迎えたのは父さんや母さんからの質問攻めだった。ぼくは適当にのらりくらりとそれをかわして(無視してとも言える)自室に戻った。
ぼくは布団に寝転がって、天井を見ながらつぶやく。
「転校、かぁ……」
転校するのはぼくじゃない。祥子だ。
二学期の始まりという、あまりにも変な時期だが、親の仕事の都合らしい。詳しいことは全然知らないけれど、大人の事情というヤツ。
「大変だよなー、あいつも」
そもそも祥子は転校生で、三年生のいつだったかは忘れたけれど、ここに来た。それ以前も小学校に入る時期に合わせての転校なんかもあったそうで、祥子は転校がまだ続くことを察していたのかもしれない。
彼女は外で遊んだりもあまりせず、友達も多くなかったし、増やそうとすることもなかった。時折、本の話をぼくとしたり、他の女子とテレビの話をしたりもしていたけれど、基本的にクラスの中心人物ではない。転校を察していたからこそ、交流を深く持とうとしなかったのだとしたら、それはなんだか悲しい話のような気がした。
小学校四年生の春。
昼休みの教室。からりと晴れた春の日差し。
彼女は教室の窓側にある自分の席で、ひとり、本を読んでいた。窓から差す陽光が彼女の真っ黒な髪を輝かせていた。
彼女に興味を惹かれて、ぼくは尋ねる。
「何、読んでるの?」
正直な事を言ってしまえば、本の事なんてどうでもよかった。彼女の事を知りたかった、彼女と話をしたかった。それだけのこと。そう言えば、その時まで話をしたことがなかった気がする。
「……本」
祥子は開いたページから目を離さずにそう言った。
ぼくは思わず呆れてしまったけれど「不思議な子だなぁ」なんて好奇心も抱いていた。
「いや、そうじゃなくてさ……なんの本?」
祥子は本をぱたりと閉じる。
手慣れた手付きで栞を挟む仕草が、どことなく大人びて見えた。
「……短編集。雑誌に載った話をまとめたんだって」
ぼくは「ふぅん」と呟いて、彼女の前の席に座る。
祥子はぼくの顔をじっと見つめていた。好奇心とも警戒ともとれない瞳が光を受けて煌めいていた。
「ぼくも読んでみようかな、その本」
ぼくはそう言って視線を本の表紙に移す。ラミネートがされておらず、学校の図書館の本ではなさそうだな、なんてぼくは考えた。
「難しいよ、これ」
彼女はそう言って、ぼくに本の適当なページを開いて見せた。漢字ばかりでくらくらしそうだったけれど、それは言わずに、馬鹿にするなとぼくは彼女に反論する。
「祥子ちゃんにも読めるなら、ぼくにだって読めるさ」
彼女はくすりと笑う。
「お父さんから借りた本……他にもあるけど、読んでみる?」
彼女はそう言って、ランドセルの中から文庫本をもう一冊取り出した。同じようなタイトルだったけれど、微妙に違っていて、知らない人の名前ばかりが並んでいた。書かれた名前も全員違う。
「……読む」
祥子は楽しそうに「ふふっ」と笑った。
「すごい顔してる。感想聞かせてね、私はそれ読んじゃったから貸してあげる」
どうやらぼくは相当渋い顔をしていたらしい。それこそ、笑顔なんて見たこと無いとさえ思った彼女の顔が、にこやかなものになったのだから。
「ショウー! お風呂ー!」
母さんの大声にぼくははっと目が覚めた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
時間にして、二時間くらいだろうか?
「はーい!」
ぼくは着替えを持ってお風呂に向かった。
祥子と話をしたのはあの時が初めてだった筈で、それがきっかけで本を貸したり貸されたりしながら、時々感想を話したりした。ぼくが貸したのは姉や父のお下がりみたいな漫画が殆ど。一方で、祥子が貸してくれた本はほとんどが小説だった。その上、ぼくが小説を読む速度と彼女が漫画を読む速度では比べ物にならないほど彼女の方が速い。読んだ本の量という点では、かなり彼女が徳をしていた気もする。
そんな事を思い出しながらお風呂に入って、その日は寝ることになった。
……のだけれど、変な時間に居眠りしてしまったからか、寝付けずに真っ暗の部屋で天井を見つめたり、眼を閉じてみたりして、退屈な夜を過ごしていた。
暗闇に目が慣れて、気付けば時計は0時を過ぎていた。
「んぁー……」
思わず変な声を出して、寝返りを打つ。
普段はとっくに眠っている時間だ。両親は眠っているだろうけれど、居間に戻ってテレビを見るのも怒られる。かと言って部屋の電気を点けて漫画を読んだりするのは、なんだかそのまま朝まで起きてしまいそうで躊躇われた。
「はぁ……」
目を閉じて、もう一度寝返りを打つ。
今度こそ、眠れますように……そう思ってごろごろごろごろしていると、不意に窓がとんとんと叩かれた。風か何かだろうと思って無視していると、もう一度、窓がとんとんと叩かれる。
「うるさいな……」
小さく呟いて、布団から抜け出る。
庭の木になにかが引っかかったのだろうと思って、カーテンを開くとそこには祥子が居た。
「ぅおっ! ど、どうしたの……?」
祥子は俯きながら小さな声で言った。
「さんぽ……しよ……?」
ぼくは思わず頷いてしまった。頷いてしまったからには――そう思って着替えを済ませてから、玄関に忍び足で靴を取りに行った。
玄関からは流石に出られないから、ぼくは自分の部屋の窓からそっと外へと抜け出る。祥子はぼくを待っている間、壁に寄りかかってぼんやりと空を眺めていたようだった。
彼女の視線に釣られてぼくも空を眺めると、台風が過ぎた後のような澄み渡った空が広がっていた。
「雨、止んだんだね」
ぼくが尋ねると、彼女はこくりと小さく頷いた。
「だね」
普段から本の事以外では口数が多くない彼女だけれども、いつにも増して堅苦しい印象をやっぱり伴っていた。
「散歩、付き合ってくれてありがと」
彼女は姿勢も視線もそのままに呟く。
「眠れないからさ、へーきへーき」
ぼくは上の空で返事をする。
「そっか。行こ?」
彼女はそれだけ言って、ぼくの前を歩き始めた。
道路を進むぼくたちを半月が照らしていた。
街灯が幾つかぽつぽつとある程度の田舎道だから辺りは殆ど真っ暗。雨が降った後だからかいつにもまして星や月の光が綺麗だった。それがあまりにも普段の町の姿と違うものだから「ぼくは夜の町を歩いているのだ」と強く意識させたのを覚えている。特別な空気の所為とでも言えば良いのか、祥子と電話をしていた時とは違う、知らない所を探索する時のような高揚感がぼくの胸の中に湧き上がっていた。
けれど、ぼくの興奮とは裏腹にぼくと祥子の間に会話はなかった。話題が無い、というよりも静寂を破るのが恐れられた。それは彼女が黙ってずんずんと道を進んでいるからかもしれないし、あるいは、どこかの誰かを起こしてしまわないかという要らぬ心配の所為だったかもしれない。
ぼくはしびれを切らして彼女に尋ねる。
「ねぇ、祥子ちゃん」
ぼくが尋ねると彼女は振り返る。身体の動きに合わせて肩にかけた袋が揺れるのに気付いた。
「なに?」
薄暗くて彼女の表情はわからない。
「どこ、行くの?」
彼女は前に向き直って、歩き始める。
「ちょ、ちょっと――」
ぼくは祥子の後に続く。
祥子は前を向いたまま、言った。
「学校。……気付かなかったの?」
ぼくはそう言われて周囲を見回す。彼女の言う通り、この道はぼくが登下校に通る道だった。ちょうど目の前の十字路を左に曲がれば母さんがよく行くスーパーに続く道。右に曲がれば広い国道に出る。そして、このまましばらく真っ直ぐ行くと学校だ。
「あ、ホントだ……でも、どうして学校なんか……」
彼女はぼくの質問に答えない。
「待ってったら――」
ぼくが駆け足で彼女に追いつこうとすると、足元で水たまりがぱしゃりと弾けた。
彼女の隣に並んだぼくは続けて尋ねる。
「そ、それに、その袋は? っていうか、なんで急に散歩なんて」
彼女はぼくの質問に一切答えなかったけれど、質問への回答代わりなのか、小さな声でひそひそと喋り始めた。
「……学校の、グラウンド……水はけ悪いでしょ?」
祥子はぼくに視線だけ送る。その視線にぼくは頷いた。
「うん」
去年の運動会が台風の所為で延期になって、その時に出来た水たまりがまるで池や沼のように広がっていて、しかもしばらく残っていたのをはっきりと覚えている。
「でしょ? で、それに用事があったの」
「用事って……なにそれ」
彼女は少し早足になってほんの少しぼくを追い抜く。
「……着いたら教える」
「待ってったら……!」
ぼくも負けじと彼女の後を追う。
楽しいけれど、ワケがわからない。学校までの数分がそんな道のりになっていた。
追いついたり、追い越されたり、そんな風にしている内にあっという間に校門に着いた。
道中で大人の人やお巡りさん、それこそ車の一台にだって出会うこともなくここまで来られたのは奇跡と言っても良いのかもしれない。
校門に先に着いたのは祥子で、ぼくはその後だった。
「ほら」
祥子がグラウンドを指す。
そこは大雨が溜まりに溜まってちょっとした湖のようになっていた。数は少ないけれど街灯の光が水面に揺らめいていて、本当に湖のように思えた。
「……こんなの見てどうするのさ。単にでっかい水たまりでしょ、こんな時間にわざわざ……」
ぼくが愚痴を言うと、彼女は手にしていた袋から二つの靴を出す。
「履いて。ショウのはお姉ちゃんのお下がりだけど……ごめんね」
「靴? 履き替えるの? ――ってこれスケート靴?」
彼女がぼくに差し出した靴は文字通りのスケート靴だった。底に取り付けられたブレードが鈍くきらめいている。
「うん。そうだよ」
「そうだよって……」
ぼくが渋っていると彼女はびしゃびしゃになったグラウンドを一瞥してから、ぼくに尋ねる。
「魔法とか、超能力とか……信じる?」
唐突な質問にぼくは首を振る。
「そっか」
あからさまにしゅんとした声色に、ぼくは慌てて訂正する。
「あ、いや、全部信じてないってワケじゃなくって……その、えーっと……あったら良いなとは思うけど、でも――」
ぼくの言葉に彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて、ぼくの方に向き直る。
「私に、そういう力があるって言ったら?」
ぼくは眉間にシワを寄せる。ありえない。そう思った。
「まさか」
「そのまさか、だったら?」
彼女は自信ありげな表情でぼくの眼をじっと見つめていた。
「……信じるよ」
祥子はそんなくだらない嘘を着くような人ではないことを、ぼくは知っている。
ぼくの言葉に彼女は納得したようだった。
「誰にも見せてないし、話したくないの。他の人に、言わない?」
ぼくは小さく頷いた。
祥子は「信じてるよ」と一言だけ言って、それから少しの間、考え込んでいた。
一分にも満たない程度の時間が経過して、彼女はぼくの耳元でささやき始める。
「えっとね……最初に、言っておくね。そんなに凄い力じゃ、無いんだ」
「う、うん……」
ぼくからしてみれば、彼女の吐息が、熱が、それこそ不思議な力を持っているようだった。
彼女の顔が近づいてシャンプーの香り。ささやき声に混じるコーヒーの香り。彼女の呼気の熱。それらがぼくの身体を熱くして、それら自体がありえない力を持っているかのように思えた。
「……みずたまりを凍らせる。それだけなの」
ぼくはあっけに取られてしまった。
あまりにも大したことなさそうな力だったからというのもある。ただ、それよりも普段真面目な彼女が真剣な声色で、瞳で、そんな間抜けな事を言いだしたことがなんだか面白いやら理解できないやらだった。
「えっと……それだけ……?」
「そ、それだけ」
彼女はぼくの耳元から顔を離した。
「せ、世界を救うーとか、世界が滅びるーとか……そういう話じゃないの……?」
祥子は小さく頷いた。「漫画の読みすぎ」と彼女はぼそりと呟いた。この言葉が照れ隠しから来たものなのか、それとも本気でそう思っていたからなのか、今でもわからない。
「――でね、もう会えなくなるでしょ、ショウと」
話のつながりがよくわからなかったけれど、ぼくは頷く。
「そう、だね……引っ越し、すぐなんだよね?」
「うん、明後日」
夏休み中とは聞いていたけれど、もうすぐそこの出来事だったなんて知らなかった。
「はっや……いね……」
「だから――」
彼女は言葉を途中で切って、しゃがみ込む。そこいら中に水たまりがあるから、彼女の服が濡れてしまうと思ったけれど、杞憂なのだろう。彼女の力が事実なら、彼女は今、氷の上に座っている筈だから。
「――思い出づくりしようかな、って……」
ぼくが彼女の思い出にふさわしいという言葉に、言い知れぬ喜びを感じながら、ぼくは彼女をみつめる。
「でね」
彼女は言葉を続ける。彼女は喋りながらスケート靴に履き替えていた。
「でっかい水たまりって、ショウは言ったでしょ? わたしもそう思ってた。だから……それ全部凍らせて、一緒にスケートしようかなって思ったの。……素敵でしょ? 真夏のグラウンドでスケートなんて」
ちょうどそう言い終わると、彼女は立ち上がってスケート靴をなじませるように足をとんとんと動かす。
「な、なるほど……」
全てを飲み込むには時間が足りず、そういうのが精一杯だった。
「ほら、ショウも履いて? 座っちゃって平気だから」
「う、うん……」
彼女に促されるがまま、ぼくは地面に座る。
彼女の言葉通りお尻の下は凍った水たまりだった。真夏とは思えないような冷気が伝わる。
「ふぉ……! 凍って……!」
「ね、信じてくれる?」
ぼくは黙って頷くことしか出来なかった。
……と、ぼくも祥子も靴を履いたのは良いけれど、門を乗り越えるためにスケート靴を脱いで、靴に履き直したのは余談だ。
校庭に踏み入ったぼくらだったけれど、まだグラウンドは水でびしゃびしゃだった。
「んー……これだけでかいの凍るかなぁ……」
祥子の呟きにぼくは驚きの声を出す。
「えっ」
確証もなしに? と言わなかっただけ立派だと思う。
彼女はすっとしゃがんで、水たまりに指を漬けた。そして、ぱしゃぱしゃと指を軽く動かす。
「……いけるいける」
「ほ、ほんとぉ……?」
ぼくが恐る恐る尋ねると、祥子はズボンの裾で手を叩いて水気を落していた。
「うん。ほら」
彼女がグラウンドを指差すといつの間にやらグラウンドは氷で覆われていた。真冬でさえこうはなるまいと思われるほどだった。
真夏の夜に校庭がスケートリンクになるという不思議な出来事にぼくは言葉を失う。街灯の光や月光が、氷面を照らしていた。
「ショウってさ――」
彼女はぼくに尋ねながらもリンクに足を伸ばす。彼女は一瞬だけバランスを崩しながらも、慣れた様子で姿勢を戻し、ぼくの方に振り返った。
「――スケートしたことある?」
ぼくは彼女の後に続いて一歩を踏み出す。バランスを盛大に崩して転びそうになったけれど、すんでのところでこらえた。大股で中腰という決まりきらない格好ながらも、ぼくはなんとか静止して、彼女の顔を見上げる。
「い、一応。何年か前に一回だけ」
街の方で一度だけ両親に連れられてスケートリンクに行ったことがあった。
「そっかぁ……。ちょっと氷の様子見てくるね、待ってて」
祥子はそう言ってすいっと氷を蹴って滑り始めた。速度自体は決して早いものでは無いけれど、慣れた動きですいすいと進んで行く。ところどころで減速して、止まって、しゃがむ。しばらくすると、また動き出す。彼女の動きに合わせて、黒髪が揺れて、たなびいて、ふわりと空を漂う。漂う黒髪が光を放つ。きらめく。ぼくはそんな彼女の姿に見惚れてしまっていた。
祥子はグラウンドの半分ほどを見回ってから、ぼくのところに戻ってきた。
「この辺りと登り棒の辺りだったらショウでも大丈夫かな……。校庭の真ん中は氷が薄いから気をつけて」
「おっけー、わかった」
ぼくは彼女の言葉に頷いて、氷を蹴る。
「ぅおっ……!」
その瞬間、ぼくは前のめりになってどすんと転んでしまった。
「ってて……」
大きい怪我はないけれど、あまりにもダサい姿を晒してしまったことに心がしゅんとなった。
「大丈夫? 立てそう?」
祥子はくすくすと笑いながら、ぼくの隣にしゃがむ。
「うん、立つくらいなら」
ぼくは何度かバランスを崩しながらもようやく立ち上がる。彼女はしゃがんだまま、ぼくの奮闘ぶりを眺めていた。
「ふぅ……難しいね……」
ぼくが立ち上がると、祥子も立ち上がった。
「時期に滑れるようになるよ」
彼女の励ましにぼくは苦笑いを浮かべてしまった。
それからしばらくの間、ぼくらはスケートを楽しんだ。
基本的には祥子がぼくの隣でゆっくりと滑っていて、ぼくにアドバイスをくれたり、転んだぼくに手を差し出してくれたりという具合だった。
祥子もぼくも、ふたりとも笑顔で滑っていた。時折、笑い声なんかも漏れていたと思う。お互いに別れのことなんか忘れていた。
「――ふぅ……ちょっと休憩するよ」
「あ、じゃあ私も」
半分埋められたタイヤの遊具を目指して、ぼくらはゆっくりと進む。
「祥子ちゃんはさ、スケートよくやるの?」
「最近はあんまり。前は北海道に住んでてね、よくスケート場に行ってたよ」
「なるほど、通りで上手なワケだ」
彼女は小さく首を振る。
「そんなにだよ」
「そうなの? そんなに滑れるのに?」
「滑るだけならショウも出来てるじゃない」
「そうかもだけどさ……」
ぼくがそういうと、ちょうど遊具のところに到着した。
祥子はタイヤに腰掛けて、一息つくとぼくに言う。
「速かったり、綺麗だったり、そういうのじゃないと」
ぼくも彼女の後に続いてタイヤに座る。
「難しいもんだねぇ……」
彼女はぼくの言葉に「うんうん」と頷いた。
「……」
「……」
ぼくらの会話はそこで止まった。窮したぼくは、他愛ない話を無理に口からひねり出す。
「祥子ちゃんと外で遊んだの、初めてだよね」
「うん」
「……。スキーとかは、するの?」
「あんまり」
「確か去年の冬に――」
「風邪で休んじゃったよ、スキー教室」
そこまで言って墓穴を掘っているのだとようやく気付いたぼくは口を閉じて、考える。
疲労から黙っているのでは無く、ぼくも、祥子も、言うべき言葉を理解しているのに、それを言い出せないのだとなんとなく思った。
ぼくは内心で「よっし!」と呟いて、口を開く。
「ねぇ、祥子ちゃん」
「なぁに?」
彼女はぼくの顔を見ていた。
心臓の鼓動が激しくなって、頭がパニックになって考えがまとまらない。
「えっと、その――」
彼女は黙っている。変わらず瞳がぼくの顔に向いていたことだけ、理解できた。
「――引っ越し前に、話せてよかった……じゃなくって、えっと、その……」
今から思えば「キミが好きだ」とか言ったほうが良かったのかもしれない。けれど、その頃のぼくにはそんなことは思いついてもいなかった。……それに、もしその時「好きだ」と伝えられたとしてもどうにもならなかっただろう。
「寂しくなるけど、元気で……友達になれて、よかった」
ぼくはそう言って、笑顔を作る。
祥子は小さく笑みを浮かべた。
「私も。……楽しかった。もし、引っ越さなかったら……もしかしたら……ううん――」
彼女は何かを言おうとしていたようだった。けれど、首を振って、もう何も言わなくなった。
ぼくはそんな彼女に、今日一日感じていた思いを告げる。
「夏休み前にさ、お別れ会あったでしょ?」
「うん」
「あれで最後だって思うと、なんだか落ち着かなくて……。もう少し話したいって思ってた」
「うん」
「だから……その……今日は散歩誘ってくれてありがとう。このことは、多分、ずっと忘れないと思う」
思ったことを素直に口にしただけなのに、どうしようもなく緊張していた。
ぼくがそう言うと、彼女は立ち上がった。
「……ありがと。聞けてよかった」
彼女は数歩分ほど滑り、くるりとターンをしてぼくの方に向き直る。髪の毛がふわりと半円を描いてぼんやりとした光を反射していた。綺麗だ、と素直に思った。
「……帰ろっか」
「うん」
そうしてぼくらは校庭を後にした。
帰り道、ぼくらは他愛ない話をずっとしていた。会話に困ったからではなく、この夜の間に張り詰めていた緊張というのがようやくほぐれたのかもしれない。
最初に読んだ短編集のこと、最後に貸し借りした本のこと、来週に新刊が出る漫画のこと、同級生の噂話、祥子の引っ越し先のこと、本当に飾り気のない雑談だった。
けれども別れの時間は来る。ちょうど、家の方向に分かれる交差点に差し掛かる。
ぼくは、彼女に言う。
「――じゃあ、また……いつか」
いつか、なんて本当にいつなのかわかりやしないのに……そう思いながらも、「いつか」と言った。
「……うん、また、いつか」
彼女も、ぼくの言葉を繰り返した。けれど、彼女は一歩も動かない。
「……えっと、その……帰らない……の?」
ぼくが尋ねると、彼女は立ちすくんだまま、視線が地面とぼくとを行ったり来たりしている。
ぼくは、彼女に近づく。彼女は驚いたようにぼくの顔を見つめた。
「……送るよ。こういうときは……うん、男が送るもんだって」
ぼくが意を決して言葉を口にすると、彼女は小さく首を振った。
「いいよ。家すぐそこなの、知ってるでしょ?」
ぼくは困ってしまい、乾いた笑いを漏らす。実際、祥子の家は屋根が見えるくらいにすぐそこだった。
「ま、まぁ、そりゃね……知ってる、けど……」
少しでも彼女と居る時間を引き伸ばしたかったし、男としての矜持を示したかった……なんていう浅はかな思いを彼女は見抜いていたのかもしれない。
「……ちょっと待ってて」
彼女はぼくの返事すら待たず、家に駆けていく。ぼくはぽかんとしながら彼女の背中を見送った。
数分して、彼女は一枚の紙片を手に戻ってきた。息を切らしながら、彼女はそれを差し出す。
「これ……引越し先の、住所、だから……」
ぼくはそれを受け取って、じっくりと眺める。彼女の引越し先のことは話には聞いていたけれど、文字にされるとずっと遠くだということに嫌でも意識が向く。
「う、うん、ありがとう……」
「だから、だから……手紙、ちょうだい……?」
俯いたままの彼女の声は震えていた。緊張かもしれない、感極まったのかもしれない。
「……わかった。手紙、書くよ、何を書いたら良いかわかんないけど……うん、書く」
その言葉が持つ曖昧さに、その時ぼくは既に気付いていた。得てして、文通というのはどちらかが中断させるものなのだと、いつの間にか消えてなくなるものだと、気付いていた。
そして彼女もぼくと同じようなことを考えていたのかもしれない。
「待ってるから……」
ぼくは「うん」と頷く。
「今度こそ、また、いつか。……手紙、待ってるからね」
彼女はそう言って、振り返った。
「うん、また今度。……手紙、出すから……!」
ぼくは手を振りながら、彼女が家に戻るまで見届ける。彼女が家の敷地に入る瞬間に、ぼくの方をちらりと見て手を振ってくれた。小さな彼女のシルエットが見えなくなって、ぼくはようやく自宅に向かって歩き始める。
家に戻ったぼくは、ほんの少しだけ満足感を抱いていたけれど、どうしても何か物足りないような感情も抱いていた。その不足とも欠落とも失敗とも取れない思いについて考えても考えても答えは出ず、そのままぼくは眠ってしまっていた。目覚めたぼくに待っていたのは、普通の日常。夏休みの終わり。そんな程度だった。
別れの言葉を告げられたこと、彼女に手紙を出せること、それだけでも頑張ったほうで、それだけでもかけがえのない経験なのだと思う。だけれども、やっぱり、どうしても、別れそのものが寂しく、悲しいのは変わりようのない事実。
あの夏に、ぼくは少しだけ成長出来たのかもしれない……なんてごまかすような事はいくらでも思いつく。彼女を引き留めようとしたところでそれがかなわないのも事実。
あの時に気付かなかった感情や思いに今では幾らか気付けている。だから「こうしていれば」なんてのも多少は思いつく。だけれど、何をどうしたところで待ち受けているのは別れなのだから、どうしようもなかったろう。
あれから何年も経って、ぼくはかつて通っていた小学校を眺めている。帰省の為に実家に帰ったが、なんとなく心惹かれる思いがして夜にも関わらず、校門の前に来ていた。
校舎の改装があった為に、もうあの頃の面影は全然無い。あの時のようにグラウンドがびしゃびしゃになるようなことも、もう無いだろう。見てみれば、グラウンドは今風のよくわからない素材でしっかりと塗り固められていた。
あの校舎には色々な思い出がある。けれども一際強く心に残っているのはあの夏の思い出。恐らくは初恋で、それが破れた日の思い出。
思っていたよりも、ずっと長く彼女とのやり取りは続いている。
今でも、彼女とは時折連絡を取り合う程度はしているのだ。手紙がメールになったり、住所やメールアドレスが変わったり、そんな小さな変化はあるものの、繋がりが完全に途絶したワケではない。一方で、あの頃ほど進展したりあの頃以上になったりしているワケでもない。
それは切なくもあり、悲しくもある。
けれどあの夏の夜の散歩がなければなくしていたつながりが今でも在ることが少しだけ誇らしい。
今晩、彼女にメールを出そう。
内容は……あの日の思い出にしようか。彼女はどう返事をくれるのだろう。