短編集   作:むかいまや

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儚いから美しいという話

 雪に桜の花というのも、なんだか不思議だ。「きれいなものにきれいなものを足せばもっときれい」。そんな安直さも感じなくは無いけれども、それでも綺麗だった。不幸にも曇天ゆえ、月明かりも星々の煌めきもないけれども、家々の明かりや街灯に照らされてきらきらと光を放つ雪の塊があった。そして、同じように光を受けて佇む桜。まぁ、有り体に言ってしまえば、雪月風花というヤツだろう。

 ……雪月風花とは、何の言葉だったろうか? 確か麻雀にそんな役が有った気がするのだが……違ったか? 確か……花鳥風月とか、風花雪月とか、そんな名前だった気がする。まぁさして問題にはなるまい。どれも似たような言葉面だし、意味も大差あるまい。きちんとした意味合いを調べずに言うのも無責任だし、それを誰かに吹聴したら恥をかくだろうが、話題にはなるだろうから。多分四季折々の美しさが云々とか言う言葉がなのだろう。全部揃って初めてソレという訳でもあるいまい。まぁ、美を表現するにあたって、そういう言葉があるのだから、使わない理由もあるまいて。

 

 季節外れの降雪に、アパートメントの表通りはひっそりとしていて、車一台どころか人ひとりが歩くことも無い。真っ白な……というには少し時間が経ってしまって、ところどころ土の汚れが見える白い絨毯だったものを見下ろす私は、片手に紫煙を燻らせて、殊更に意識して長く、細く、煙を吐き出す。腕を組んで、全開になった窓から見える光景をのんびりと見つめる。景色とは別に、多少なりとも暖気した部屋の空気がみるみる内に冷えていくのは、新鮮な空気を取り込めているのだとぞっとするくらい実感できた。

 ぐっちゃりとしたアスファルトの雪に辟易する一方で、路端の植え込みに積もったそれは、密やかな美しさがあるように思えた。踏まれぬ、穢されぬ、そんな美しさ。現代世界に於いてありふれた高嶺の花。そのクセ、もう明日には欠片ほどの大きさになって、明後日には消えてしまう。そんな儚さが、そこには有った。

 美しさと儚さは、きっと大差あるまい。でなければ桜を美しいなどと言うまいから。別段、私は桜の樹も花も、好いてなど居ない。特に満開だからといって、感嘆の声をあげることもしない。むしろ葉桜の方が好きだ。生命の輝きに満ちている。まばらに散った白桃の色が、若葉の緑に映えて、一層美しいくらいではないか。地面に散らばる花びらの哀れさなど、これくらいの時期のほうが一層感じられるではないか。

 とはいえ、風情のわからぬ男では無いつもりだし、満開の桜も綺麗だとは思う。それに、木の根元には死体があるだの、異様に重たい女から好かれて逃げてきた男だの、桜というものが何らかの舞台になることは多いのだし、ここは大衆に迎合したほうが良いのかもしれない、そんな思いもある。

 車が一台通る。びしゃびしゃと騒がしげに地面を鳴らしながら、ヘッドライトで路肩に寄せ集められた、薄汚れた白い塊が照らされる。エンジン音が遠ざかって、テールランプの光も見えなくなった。

 私は煙草を一口吸って、吐き出す。表の寒さと湿度の高さが相まって、煙草の味わいは普段と違っている。どこか、甘いというか、吸いごたえがあるというか……そんな錯覚を覚える。こういう時の煙草は面白い。自分の呼吸というものだとか、煙が鼻腔をくすぐる感覚だとか、そういういちいちがはっきりと感じられるのだ。

 私は灰色がかった夜空を、煙で透かして見る。月があれば、きっともっと綺麗だったのかもしれない……なんて思わないでもない。とはいえ、それはあまりに出来すぎていて、自然の神秘に感謝するにも美しすぎて、作為を感じるくらいで、きっと偽物っぽいに違いない。思っていたのと違う、なんて思うに違いない。月に叢雲云々とか言うのは悔し紛れの言葉だったはずだし、同じような話でサーモンだかなんだか言う場所の女神像が腕と頭が無いからこそ美しいのだとかいう悔し紛れの説もあるのだから、もしかすると、不完全だとか作為的な何かだとか、そういうものがない方が美しいと思うのは時代も国も関係なく共通するところがあるのかもしれない。

 煙は夜空に解けて消えて、もう目で追えない。私は視線を落として、路傍の茶けた、薄汚れた小山に視線を移す。白く細やかで、白く淡く輝く雪が、あたかも月光や星明かりが降りてきたかのような神聖なあれが、あんなことになるのだと思うと、悲しさを覚える。もしかすると、穢れというものへの恐怖さえ抱くかもしれない。エド・オンリーとかいう仏教学者だったか、仏教の云々で穢れが云々とか言っていたのは。そこまで特定の宗教に固執しては居ないが、そう考えればこの世もなかなかにいやらしいものである。私は、再び、植え込みの上にちょこんと積もった細やかな輝きに視線を移す。電灯の明かりが程よく彼女らを照らしていて、それは、さながら精一杯生きる子供のようで、可愛らしかった。

 

 下らない冗談はさておき、雪には個人的な思い入れがある。愛していると言っても、良いかもしれない。

 それは、単に雪が降る景色が好きで、冬の寒さが好きで、誰も踏みしめていない雪を踏みしめるときのなんとも言えない背徳的な喜びが心地よくて、異様に低い空の下に居ることが好きで、湿った生ぬるい空気に佇むことが好きで、雪が降って慌てる人々を見て覚える『非日常』が好きで……とまぁ、好きなところを挙げたら枚挙にいとまがないくらいだが、そういう概念的な、感覚的な話ではなく。具体的に、小さな思い出があるのだ。

 あれはどれくらい前だったろうか? 多分、四年とか五年とかそれくらい前に、歴史的な積雪があった。その時の私は地元を離れていたのだが、地元の方では陸の孤島などと呼ばれる程度には大変だったらしい。『非日常』というものをありがたがる私は、不謹慎ながらも、「すげえ楽しそうじゃん?」などとぼんやり考えていた筈である。

 と、これは別の話。実際のところ、大切なのはそんなことではない。私はその時に地元を離れて、東京に居た。歴史的降雪の初日、私はアルバイトのために寒空の下、コートを着込んで職場へと向かっていた。その際に私は電車を使っていたのだけれども、その車内でふと耳にした歌が、鮮烈に記憶に残っているのだ。

 いつものように電車に乗った私は、車内を見回して、椅子に腰掛ける。東京といえどなかなかの積雪量で、時間帯が十五時くらいだったのも手伝ってか、乗客は本当に少なかった。

 熱さすら感じるくらい温められたシートに腰掛け、鼻腔が乾燥していくのがわかるくらいガンガンに効いた暖房に一息着く。冷えた身体がたちまち温められ、凍えて力具合がわからなくなった手が自由に動くようになっていくこの変化が好きで寒さが好きなのかもしれない。そんな風呂に浸かった時のような喜びを噛み締めていると、不意に隣から声が聞こえた。少女の囁き声だった。

「ねぇ、学校で――習った?」

 それは彼女の隣に座る別の女子への問いかけだった。塾に行くのか、遊びに行くのか、はたまた学校帰りなのか、それは彼女たちの姿を意図して見ないようにした為わからない。それに、曲名はさっぱり覚えていない。何か、童謡だった筈なのだが、曲名はまるで覚えていないクセに、頭の中で一節を諳んじたような記憶さえある。

「習ったよ。――――」

 こちらも同様に、囁き声だった。

 返事に加えて、彼女は歌い始め、最初に問いかけた少女も一緒に歌い出す。一応人が居ることを理解しているのか、小さな声だった。か細げながらも、音程の取れた、透き通るような声だった。聞いているだけで、愛おしくさえ思えた。やかましさと元気が爆発したような子供の歌声ではなかった。隣の会話相手に届きさえすれば良いという必然性もあったろうが、そっと囁くような高い声で、心地よいものだった。不意に聞こえた彼女たちの歌声にしんみりしたといえば良いのか、それとも、退屈が紛れたといえば良いのか、難しい。

 無論、私も常識人だ。別に彼女らの会話に参加することも無ければ、歌い始める訳でも無い。むしろ、『常識』という観点から言うならば彼女たちの方が常識外れで、それを咎めるべきだったかもしれない。けれど、むっとするような感情よりも先に、声というものが持つ美しさに心を奪われた。次の駅まで数分も無いのだという現実が、もったいないくらいだった。優しい声だった。

 例えば、歌手なんかの声が綺麗だとか、上手だとか、そういう美ではない。訓練や才能で生み出された美ではなく、無邪気さとほんの少しの遠慮が生んだ無作為の美だった。それはきっと不意に目にする木々の若芽の淡い緑に心を奪われる様な、花開く前の蕾に滴る朝露の煌めきだとか、そういった偶然と幼さが生んだ美だった。

 まもなくして、電車が駅に止まると彼女たちは歌うのを止めて、別の話題に移った。そうして、もう歌うことはなかった。それに、私と彼女たちの降車駅は違っていたので、私の心に強く残ったこの思い出以外に、もう、確認する術など無い。

 少女の歌声の儚さを綴ったのは何の作品だったか。無論それが主題ではなかったはずだし、儚さを綴ったとも限らない。しかし、私は折に触れてあの小説を思い返す。それもあってか、あの時の歌声に一層心奪われたのかもしれない。叶うのならば、もう一度くらい似た機会に見えたいものだが、そうも行くまい。今度は、きっと、作為を感じてしまうろうから。多分、この思いも、思い出も、心の中にそっとしまっておくのが良い。

 

 再び煙草を口に加えて、一服する。

 当然、自分にはあんな声は出ない。歳や性別、あるいは煙草、そういった諸々の事情もあるのかもしれないが、真似が出来たとしてもするまい。それは猿真似だし、結局、偶然が齎した奇跡のようなものなのだ。

 私は視線の先にある、植え込みに積もった雪の欠片を見る。それをひとしきり愛でて、茶けた路肩の雪山を見る。あぁ、汚い……そう思って手にした煙草をそこへ投げ捨ててやりたくさえ思ったが、灰皿に押し込む。

 

 不意に、風が吹いた。桜が、雪の山にはらりと幾枚か落ちる。存外、悪くなかった。ゴミ山にガラスひとかけらとでも言えばよいのか、汚濁の中に、清浄なひとひら。まぁ、悪くない。投げ捨てなくてよかった、ぼそりと呟いて窓を締めた。

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