――斬られたら、そこで終わるのか。
果てのない武の道を歩む、烈海王はそんな疑問をずっと持っていた。
刃が身を切り裂き、食い込んだとして――反撃は不可能なのだろうか。
……否、と烈は考えていた。首を撥ねられぬかぎりは、十分に攻勢に転じることが可能だと。肉を切らせて骨を断つことができると。そう信じ込んでいた。
愚かな妄信だった。
古の剣豪――宮本武蔵。
かの刀使いが放つ斬撃は、あまりにも速く、鋭く、強く、そして――痛すぎた。
肉を切らせて骨を断つ?
現実は――ただ無様に、肉を斬り払われ、背骨を切断された。
世界が遠く感じた。
立ち上がることもできず――ただ、意識が薄れていった。
……次に活かせる。
そう思い――
想い――
そして――
「――ッッッ!?」
覚醒とともに、烈は跳ね上がった。
いや――跳び下がった。後方へと。
魔拳、烈海王らしからぬ反応であった。驚き、戸惑い、慌てて距離を取るなど。
だが――それも致し方ないことだったろう。
あの地上最強の生物、範馬勇次郎でさえ――もし同じ状況に陥れば、烈と同様の動きをしていたかもしれぬ。
「キサマ――」
烈はようやく言葉を発した。
抑えきれぬ困惑を抱きながら――
「ここは――――どこだッッッ!?」
――日本の建築物と思わしき、茶の間。
畳の敷かれた部屋は、日本での滞在が長い烈にも馴染みがあるものだった。
そして、ちゃぶ台を前にして座っている――眼鏡をかけた六十歳ほどの男性。
おそらくは日本人だろう。
和室にいる……日本人。
違和感は――ない。
だが――
(俺は……地下闘技場にいたはずだッッッ)
烈は武蔵と闘い、そして負け――最後の記憶はそこで終わっていた。
もし意識を失ったあと、医者による救命がおこなわれたとしても――
いるべき場所は、病室のベッドの上だろう。
そう、原人ピクルに右足を喰われた……あの時のように。
だが、現実はどうだ。
こんな日常的な空間で――烈は目を覚ました。
場所が奇妙すぎる。
こんなところにいるのは、道理に合わない。
だが――それ以上に不可解なのは。
(……無傷……だと……)
眼前の男を警戒しつつも、烈は自分の腹に目を向けた。
普段着としている
その下の生身は――明らかに無傷の感覚だった。
五体は万全であったのだ。
そう――五体が……欠けることなく、ある。
ある……失ったはずの、右足さえもッ!
なまじ自然すぎて、今ようやく気づいた有り様だった。
「ばか……な……こんな……なぜ、わたしは……」
「――烈海王」
動揺をあらわにする烈に対して――はじめて眼前の男は声をかけた。
落ち着いた声である。
事態を把握していない烈とは違い――彼は状況を理解しているようだった。
名を呼び、何を話すつもりなのか。
烈は警戒を保ちつつも、男の次の言葉を待った。
そして、次に目にした光景は――
「――すまなかった」
――ちゃぶ台に手をつき、深々と頭を下げた。
謝罪。
己の非を表明し、許しを請う言動。
――意味も、意図も、まったくわからないものだった。
「……なぜ、わたしに謝る」
「俺のせいだからだよ。お前が死んだのは」
「死――死ん、だ? わたしは……生きているが……」
「死んでいるのさ、烈海王は。……ここは死後の世界で、俺は“神”だとでも思ってくれ」
「…………」
くだらん。
――と、平時なら烈は吐き捨てていただろう。
だが――今は、あまりにも状況が奇怪すぎた。
致命傷を受けて、死後の世界へと旅立った――それを頭から否定することはできない。
だが、疑問も大きかった。まず烈が気になったのは――
「……わたしは、あなたに殺されてなどいないが」
宮本武蔵。
クローン技術で現代に蘇った彼に、烈は文字どおり真剣勝負を挑み、そして敗北し殺されたのだ。
つまり死んだのは――武蔵のせいだった。
この男のせいではない。
辻褄が合わなかった。
「……最初は、本部以蔵のつもりだった」
「なに……?」
「武蔵を出すなら、誰かを斬らせきゃいけない。だから最初は、以蔵を犠牲にするつもりだった。だけどな、以蔵が本当に
――言っている意味がわからない。
それが烈の感想だった。なぜ本部以蔵が出てくるのか。そして斬らせるとは? まるで、この男が武蔵を操っているかのような言い草ではないか。
この男は――何者だ?
……神?
ばかな、そんなものを……簡単に認められるはずが、ない。
「――泣きながら、烈を宮本武蔵に斬らせた」
「…………」
烈は男を睨んだ。
歳を取っているが、体つきは貧弱な様子がなかった。若いころは肉体を鍛えていたのだろう。もしかしたら――ボクシングなどをやっていたのかもしれない。
格闘技も嗜んでいた神様など、不可思議極まりない話ではあるが。
「仮に……あなたが神だったとして」
鋭い眼光を保ちながら、烈は問いかける。
「――何が目的だ?」
そう、それが重要だった。
これが荒唐無稽な夢だという可能性もあるが、ひとまず置いておこう。
男の言い分が間違っていないとして――
「――死んだわたしに、何を求めると
まさか、ただ歓談しようなどという動機ではあるまい。
烈はまっすぐと男を見据えた。まともに答えないようであれば、多少の暴力でさえも辞さないつもりである。
殺気立つ烈を目にしても、男は焦燥ひとつ見せず――ゆっくりと口を開いた。
「――新しい世界に降り立ってほしい」
「……なん、だと?」
「異世界だ。つねに勝負していく、挑戦していく――それが俺の“作風”だ。だから……お前を転生させたい」
「…………」
烈は奇妙な表情をした。この男は、完全に自分を“神”だと信じている様子だったからだ。
彼の発言を真に受ける前に――烈は足を動かした。
戸口のほうへ。
部屋の外へ。
室内を抜け、建物を脱出すれば――日常の現代日本社会が存在するのではないかと。
そんな一縷の、一抹の、些細な願いを抱いて――烈はそこにあった障子を開いた。
「……ッ」
――現実は、現実ではなかった。
そこにあるのは、ただ白の空間であった。
障子を開けた先は、何もない白い虚無が広がっている。飛び込めば、いつまでも、永遠に、際限なく墜ちていくような――異空間が広がっていた。
この茶の間は、切り取られていた。
脱出は――できない。……烈海王には。
「――信じる気になったか?」
「……少しは」
障子を閉じ、烈は男のもとへ戻った。
そして、ちゃぶ台を挟んで対面に座る。
男とコミュニケーションを取らねば――何も始まらない。
烈はそう判断したのだった。
「……異世界で、赤子からやり直せと。そう命令しているのか? あなたは」
「ちょっと違うな。姿かたちが変わったら、烈海王は烈海王じゃない。……その姿のまま、行ってもらう」
「…………」
「そして……“特典”も付けてやろう」
「……特典、だと?」
烈は顔をしかめた。
自称神の言う、特典。
何らかのベネフィット、ということだろう。
だが――訳も分からぬ相手から贈り物を与えられて、烈は喜ぶような性格ではなかった。
もし、超常的な力でも押し付けようものなら――怒鳴りつけるつもりでいた。
他人にも厳しく、自分にも厳しく――烈海王とは、そういう人物であった。
「……強いやつを用意する」
ぽつりと、呟くように男は言い放った。
「地上最強の生物、1億9000万年前の原人、江戸時代から蘇った剣豪……それに匹敵するような、強敵。それを用意してやる」
「…………」
「時期は言えないが……烈という
「――それが転生の特典だと?」
険しい目つきで尋ねた烈に対して、男は頷いた。
敵をけしかけることが特典、などと
普通の人間ならば、それが“特典”などとは思わないだろう。
だが――烈海王は尋常ならざる武人だった。
鍛えられた肉体は、培われた技術は、人類の最高峰に近い水準に達しており――
苦戦するような敵を見つけることすら、困難だった。
『――敗北を知りたい。』
脱獄した死刑囚たちが、そう言って日本へとやってきたことを思い出す。
烈にも、その気持ちは理解できた。強すぎると、勝利がたやすく手に入ってしまうのだ。
そんな簡単な勝利に――満足感を得られるはずもない。
強い相手と戦いたい。
敗北をもたらしてくれるような――強敵と。
どこまで自分の武が通用するのか、試したいのだ。
そして――さらに自分を高みへ、山の頂上へ。
“オーガ”範馬勇次郎。
“原人”ピクル。
“剣豪”宮本武蔵。
そのような生物として究極の存在と、自分の全力を出しても勝てるかわからぬ相手と、ふたたび
「烈海王」
男は――
いや、神は言った。
「お前の答えは?」
きっと、彼はわかっていたのだろう。
烈海王ならば、どう答えるのか。
ほかに道もなく。
なれば、ただ愚直に突き進むのみ。
幾度となく口にした言葉。
それを、烈海王は――はっきりと伝えた。
「わたしは一向に――かまわんッッ!」