1. Animus Box
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬように心せよ。
おまえが深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
-『善悪の彼岸』 146節より フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
その部屋の中は、極めて静寂そのものであった。
年月が経ち過ぎて半ば橙色に変色してしまった一つのランプだけが狭い室内を照らし、数羽の小さな蛾が粉を吐きながらコン、コンと灯をつついていた。
張りぼての窓ガラスの向こう側は日が暮れて紺色になった夜の闇に覆われており、その真下にあるゴミと鼠の死体が散乱する路地裏から流れ込む冷気が、したたかに窓の骨を揺さぶっていく。
その僅かな息吹を受けて、床に転がった無数の毛埃が虫の様に跳び上がり、宙を舞って落ちていった。
部屋はこれらの音と、時折揺れてゴミを動かしている床のボロ新聞紙の擦れる音が鳴る程度であった。
雨が降れば、窓を開けたすぐ上にある壊れた樋から落ちる水滴が、その錆びきった窓枠に当たる音がよく聞こえるだろう。
例え雨が降らなくとも、湿った埃と腐敗したゴミの臭気が嫌になる程に漂うだろう。
だが今日部屋を支配していたのは、嗚咽にも聞こえるくぐもった呻き声と血の臭気であった。
普段は誰もいない筈であるこの部屋の中心に、一人の男が椅子に縛り付けられていたのである。
男は30代前半程の顔であったが、若禿と無精髭が目立つ容姿に、雑巾の如く汚れた血糊付きのシャツとズボン、そして布による目隠しと猿ぐつわをされている為かぐったりと沈んでおり、実年齢より遥かに上の齢に見える。
男の顔には無数の大小様々な青痣と切り傷があり、骨ごと左に折れ曲がった鼻からは生温い血が流れ、右の鼻たぶは赤みの強いピンク色の肉が見えるほどに抉られていた。
口もまた然りである。上の前歯は全て無くなっており、唇の一部や歯茎はゴムの様に毟りとられ、黒く変色した血と肉の欠片が垂れ下がっている。
肩から鎖骨にかけて骨が砕け折れているのか、男の右肩は奇妙な形のまま動かない。
椅子の背もたれに回され後ろ手に縛られた両手の指数本は爪が剥がされ、幾許かの肉の毛が不揃いに立っており、骨もまた完全に折れている為、親指などは白い骨が露出していた。
男は裸足であった。足の下にある箱には無数の鋭いガラス片がどれも上を向いて散乱しており、男は力なくその場に足を下ろしている。
既にガラスの山は紅色に染まっていた。男の猿ぐつわと目隠しもまた、同様であった。
その時だった。不意に部屋の扉が開き、固いブーツの靴音が室内に響いた。
靴音は男の目の前で止まると、男が裏返った声で呻きだし、やや嘔吐を混ぜながら悲鳴を上げる。
男はこの靴音をよく知っていた。靴音の主が自分をここまで惨めで痛ましい置物にした人物である事を、彼はよく知っていたのだ。
男は、このセイヴァールでも中の下に及ぶ程度の異能の戦闘能力を持っている。
しかし彼は普通の人間である筈のこの愛外の人物と真っ向から戦い、30秒もせずに敗北したのである。
固定されていない頭を振りながら、男は必死の抵抗をした。
しかしその足掻きは、不意にこめかみに襲いかかった鈍痛によっていとも容易く止められてしまう。
そして男は自分の目隠しと猿ぐつわが外されていく感覚に戸惑いながら、周囲を見渡した。
オレンジ色に彩られた視界は、全てがぼやけきっていた。
その時男が幸運だった事は何も見えない状況から解放された安堵と混乱に身を任せた為に、右側の視界がもう闇しか映せなくなった現実に気付かずに済んだことであった。
男は必死に周囲を見回しながら、助けを呼ぼうと叫び声を上げんと口を開ける。
しかしその瞬間、男の顔色は絶望に変わった。
声が出ないのだ。幾ら力を入れようと、掠れた空気の音しか返ってこないのである。
彼はすっかり緊張した為に忘れていたのだ――――既に喉が潰され、半ば裏返った小さい声しか出せなくなっている事を。
「―――――42番街ブロード・チャイルド、89番街イーサン・ネイヴァー、91番街エイミー・トッドウェル。
三人とも名の知れた違法薬物の売人で、昨日の午前二時に何者かに殺害された。
お前は調停召喚士の職権を利用し、この三人が娼婦や色狂いのクズ共に薬を流していた事実を隠蔽していた――――警備料金と称して週毎に金を受け取っていたな。
この三人の最近の動向を知っているな?」
その時であった。ランプの光の外側――――目の前の暗闇から、声が投げかけられたのである。
この低い声は静かに話していた。その音色は恐ろしく冷徹であり、まるで感情の無いおぞましいものであった。
未だ朦朧とする意識の中でその声に恐怖した男は、逃げる様に視線を右に動かした。
すると右の床には、小さな狐型の幻獣―――男の響友だった者が、屍となって転がっていた。
その頭は爆弾がさく裂したように凄まじく裂かれており、酸化して黒くなった夥しい量の血だまりの上にその中身がぶちまけられている。
赤黒い脳の肉片や、ゲル状の部分が潰れて醜い液体と化した目玉が音も立てずに鎮座している様は、普通の人間が見れば嘔吐してしまうだろう程に悲惨な光景であった。
前足は引きちぎられ、肉の紐が垂れ下がる断面からは蛆の張った白い骨が見えていた。
恐怖からの逃げ場をなくした男は、呻いた後に咽びながら急いて話し出した。
「わかったよ、話す、話すから……
俺は確かに金を受け取ってた。けどアイツらとトラブルは起こしてない……
そこはわきまえてた。寧ろ最近は羽振りが良かったんだ。報酬の額も増えてたんだよ。
バーで言ってた。奴ら、真紅の鎖から流し込んだ最新のヤクをばらまいてたんだ……」
「それはいつ、どこでの話だ?」
「ああ、クソ……十日前だ。
たしかターミナルストリートの外れのバーで……畜生、いてぇ!
もういいだろ!? 全部話したんだ、助けてくれよぉ!」
男が力を振り絞って叫ぶが、返ってくるのはペンが紙か何かの上を滑る音だけであった。
しかし影の中に居る誰かはその時だけ、先程までとは違う行動に出た。
男の目の前――――ランプの光の中に姿を現したのだ。
しかしその手に握る物を見て、男の顔は再び絶望の淵へと立たされた物のそれと化していく。
影から出てきた人物が右手に持っていたのは、そこらの廃墟にならばよく捨てられているサバイバルナイフだった。
しかしその形は錆びきった廃棄物にもかかわらずナイフ元来の姿のままで、その白刃も先端も恐ろしい程に良く尖っていたのだ。
影から出てきたその人物は、まるで最初からそんな物など無かったかのように平然と幻獣の死骸から出た脳髄を踏みつぶし、男の右側へとゆっくり歩み寄る。
そしてグチャリと音を立てる脚をピタリと止めると、その人物は一瞬の内に、その固いブーツの靴底で男の足を踏みつけた。
この刹那に自分が何をされたのかがまるでわかっていなかった男は、踏みつけられた足が無数の鋭いガラス片を砕き、ピッと赤い飛沫を上げたその瞬間になって、掠れきった声で叫んだ。
必死にもがいて足をガラス入りの箱から離そうと力を入れるが、踏みつけている脚は退くどころか微動だにせず、寧ろその力を強めて男の足ごとガラスの山を踏み潰している。
影から出た人物は、先程と全く変わらぬ声で静かに、しかしはっきりと言葉を発した。
「イーサン・ネイヴァーは耳と顔を削がれ顔を火で炙られゴミと共に捨てられた。
真実を吐かないならば貴様も同じ末路を往く事になる」
「嘘はない、ないんだ! 畜生いてぇ、助けて!
ああクソ……クソ、わかった! 五日前に会いに来たんだ、ネイヴァーが!
助けてくれって言ってた。ヤバイ客にヤクを売ったから匿ってくれって!
俺は……断ったんだ。小遣い稼ぎが目的だった。なのに何でこんな……」
その時だった。男は目の前の人影がナイフを持ち上げている事に気付いた。
男は慌てて首を振って脱出を試みるが、金具でがっちりと固定されている椅子は揺れを受けても微動だにしない。
男はよだれを垂らしながら慌てて人影に向き直り、乾いた声でまくしたてた。
「おい、待て……待ってくれよ。全部話したろ!?
もう見逃してくれよ! あんたの事は外に漏らさない、約束するからよぉ!
だから助けてく――――――」
男が言い切らない内に。ナイフが降り上げられた。
彼が最後に見たのは、ナイフの切っ先とそれを握る黒い革手袋。
そして胸元に白と黒と真紅によって彩られた、叫喚する髑髏の紋章入りのロングコートだった。
-午前11時06分 セイヴァール 中央最高裁判所 第89号法廷
「第1級謀殺について、判決は?」
「我々陪審員一同は、被告人ジェラルド・シーニーズを有罪とします」
陪審員代表が書簡を読み上げると同時に、法廷はどよめきに包まれた。
驚いた様子で隣の見ず知らずの人間と会話する傍聴者、慌ただしく指示を出しメモを取る報道陣、被告人の親戚達の嗚咽。
間も無く打ち鳴らされたガベルの固い音と、閉廷を告げる裁判長の声とをぼんやりと聞きながら、アベルトは入口の脇の壁に寄りかかったまま、被告人の背中を見つめいていた。
興奮冷めやらぬと言った様相のままざわめく傍聴席を背に、二人の廷吏に両脇を抑えられた被告人が連行されていく。その背は、心なしか開廷前に見かけたそれと同じように酷く小さく見えた。
ドアの脇に立つ廷吏が扉を開け、傍聴者達に外へ出るよう呼び掛ける。
腕組みをしたままそれを一瞥し、その無数の靴音や話し声を何処か遠くに感じながら、アベルトは何気なく法廷の天井を見上げた。
そのまま、去年見たジェラルド・シーニーズの背中を思い出そうとしては、その後ろ姿に掛る霧を回想していた。
「―――――騎士アベルト、どうなさいました?」
廷吏に名指しで呼ばれ、ふと我に返ったアベルトは、自分たち以外誰もいなくなった法廷を見回した。
どうやら閉廷から少し時間が経っていたらしい。人混みが消えた事にすら気付かないほど深く考え込むなど、あまり自分らしくない、と考えながら背を壁から離し、廷吏に軽く返事をして法廷を出る。
穏やかな晴れた昼前だと言うのに、裁判所は喧騒に包まれていた。
別件の殺人事件の公判準備や報道陣の取材の嵐、傍聴席に詰めかける人々―――――普段なら鬱陶しがるだろうそのどれもが、今のアベルトにとってはまるでどうでもいいものに見えてしまう。
ふと、左手の腕時計に目をやった。今日は久々のまともな非番だったが、特に用事の宛ても無い。
黒い短針がもうすぐ十二時を指そうとしているのを見て、アベルトは自分が朝食を取るのを忘れていた事に気付いた。
-午前11時26分 セイヴァール 繁華街 喫茶店『コンフェッション』
屋外テラスの席に腰を下ろし、アベルトは賑わう路地の方をぼんやりと眺めていた。
此処のテラス席はほぼ満席で、小さな子を連れた親もちらほら見える。アベルトは通勤の際にこの店の前を通るが、これほど繁盛しているとは思いもしなかった。
先程注文を受けた女性店員が、奥の厨房に注文の内容を伝え、表の勧誘を務める店員に何か言われている姿がチラリと映る。それもまた新たに入店した女性客二人の笑顔に隠れていく。
平和だ。漠然とだが、アベルトはこの時間を何処か懐かしがっている自分が居る事に気付いた。
今まで働き続きの毎日を走っていたせいか、今日の時間は酷く緩緩としたものに感ぜられる。
たまには書類の山や事件とにらみ合いをせずに、こんな風にゆったりと無駄な時間を過ごしておく時間が必要かもしれない。
ただでさえ最近では物騒な事件が立て続けに起きている。
ターミナルストリートで発見された、三人の違法薬物密売人の惨殺体。犯罪シンジケート同士の抗争の激化、マキス埠頭に入港する異世界商船襲撃の噂……
何の気なしにそんな事に考えを巡らせていると、先程注文した二枚のエッグトーストとコーヒーが女性店員の持つトレイに運ばれてやってきた。
アベルトが礼を言ってそれを受け取ると、その店員は少々申し訳なさそうな表情で、おずおずと尋ねた。
「お客様、当店は現在満席でして……
大変申し訳ありませんが、相席でも宜しいでしょうか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
店員が深々と頭を下げたのを見て、アベルトは優しく笑いかけて気にしない様に言った。
元々喫茶店に一人で居る事で得られる落ち着きは、今のアベルトにとってはどうでもいいことだった。
食欲もそうありはしない。ただ此処で何となく時間を潰せればいいと思っていたのだ。
朝から飲まず食わずで裁判の傍聴にかかっていた為、アベルトはとりあえず乾いた口と喉を潤わせようとコーヒーカップを手に取った。
「――――――あら、アベルト?」
その時、背後から凛々しく響いた女性の声で名前を呼ばれ、アベルトは思わずカップを口から離して振り返った。
赤と黒を基調とした警察騎士団の制服を纏い、そこに立っていたのは、イェンファであった。
「奇偶ね。貴方、今日は非番じゃなかったの?」
注文を取り終えたイェンファは、小さなそよ風に髪を揺らしながら、人で賑わう路地に立ち並ぶ店を一瞥した。
正直な所、アベルトはこの女性をよく知らない。
数日前の魔精タケシーの群れによる列車強盗事件で初めて顔を合わせて共に捜査を行い、先日まで続いていたらしい住民の急激な物忘れに関する事件について、幾つか質問された程度だ。
彼女の肩書きが警察騎士団本隊の精鋭部隊「櫻花隊」に所属する特務騎士である事も知ってはいたが、それもつい最近まで眉唾ものの都市伝説扱いされていた噂程しか知らないのである。
しかし悪い人間ではない事はよく理解していた。そうでなければこの数日間アルカ達の職務についている説明が付かない上に、彼女は列車強盗事件の際に住民に危害を加えたタケシーの一団に確かに怒りを抱き、逃げ惑う人々を守ろうとしていた姿勢が見えたからだ。
コーヒーを啜っていた口をカップの縁から放し、アベルトは小さく片眉を上げた。
「非番さ。朝出かけたついでに、この店で昼飯を済ませてんだ。
……アンタこそ、アルカとペリエについてなくていいのか?」
「今は、ね。流石に二十四時間彼女達に付く訳にはいかないもの。
それに、私もあなたと同じような理由よ。出掛けたついでに此処に寄っただけ」
「そうか」
自分らしくない素っ気ない口調に、アベルトは内心酷く驚いていた。
しかしそれを知ってから知らずか、イェンファは口調や声はいつも通り凛としたもののまま、アベルトを見据えて言葉を続ける。
「……何かあったの?」
「……いや、何もないさ」
「貴方と付き合いが長い訳ではないけれど、貴方の雰囲気が少し異常なのはわかるわ。
それに、朝食もとらないで何かを考え込むのは、身体に悪いわよ」
その言葉に、アベルトは微かに目を見開いてイェンファの視線を見つめ返した。
テーブルを挟んだ二人の間に小さな静寂が生まれ、木製の椅子が僅かに軋む音が静穏を攫う。
路上販売の店から子供達の穏やかな笑い声が響き、アベルトははっと我に返る。
それから少し間を置いて、彼は手に持ったカップを静かにコースターの上に置いた。
「お見通し、って訳か?」
「いいえ。悪いけれど、カマをかけただけよ。
……でも、それ以上の事が理由だって言うのは、分かる」
店員が運んできたアイスコーヒーを受け取り、イェンファはそれを可愛らしい模様のストローでくるりとかき混ぜる。
氷がカラン、と爽やかな音を立てて囁き、コップの表面に結露した滴が陽光を跳ね返した。
アベルトは苦笑して小さく肩を竦めると、溜息を吐いたままコーヒーカップの水面を見つめた。
「……サニタス取締役銃撃事件、ってのは覚えてるか?」
「ええ、確か今日判決が……」
そこで何かを理解したように、イェンファが口を噤んだ。察しが付いたのだろう。
アベルトは黒い水面に浮かぶ自分の顔を見つめながら、言葉を続けた。
事件の始まりは、五か月前のある日の昼下がりに遡る。
警察騎士団セイヴァール本局に、70番街の路上で銃撃があったという通報が殺到した。
「背の高い男が誰かを拳銃で撃った」―――――それぞれの詳細は多少違えど、要点は一致していた。
当時付近を巡回していた警察騎士団員二名が本局からの無線を受けて現場へと向かうと、そこには胸に三つの赤い大穴が空いている横たわったスーツの男性と、弾切れになった拳銃を握り締め、酷く粗い呼吸をし、体を激しく痙攣させて呻いているジェラルド・シーニーズの姿があった。
当然ながらジェラルド・シーニーズはその場で逮捕されたが、ジェラルドは意外な事に全く抵抗をしなかったらしい。
その後初動捜査隊と鑑識班が現場検証を開始し、現場から二発の.357マグナム弾と六個の薬莢を発見している。また、その場で発砲されたと思われる残りの四発は、被害者の肋骨、心臓部、右肺等からひしゃげた姿で見つかっていた。
どちらも逮捕時にジェラルドが所持していた回転式拳銃の線条痕と一致しており、銃のグリップからはジェラルドの指紋が、ジェラルドの右手からは大量の硝煙反応が確認されていた。
銃の製造番号から販売元を調査した結果、銃の購入者もジェラルド自身であることが判明し、最早彼が犯人であることは火を見るよりも明らかだった。
この事について、騎士団上層部は比較的早い段階での記者会見に踏み切っていた。
それは何も早期の事件解決を成し遂げたからというだけではない。被害者の身元が問題だったのだ。
スーツを着た男性――――もといオスカー・エイブルは、セイヴァール中の企業の大手スポンサーを務める、大製薬企業の社長だった。
路上で平凡な男性に撃ち殺された哀れな被害者が、経営規模で言えばセイヴァールでも五本の指に入る大手製薬企業「サニタス」の、それも代表取締役を務めていたとなれば、マスコミが注目を寄せるのも当然であるからだ。
問題はこれだけの人物が殺害された事に注目が行き、騎士団本局の捜査が「遅れている」と民衆に思わせない事だった。
現在警察騎士団では人員不足が深刻になりつつあり、休暇を返上して勤務に励む騎士は多い。
それが原因で、手抜き捜査や公的機関としての労働基準無視等のあらぬ不正のうわさが流れては、警察騎士団への人員募集に深く関わる事態になってしまう。
新たな騎士を必要とする上層部としては、そんな事態だけはどうしても避けたかったのだ。
事実記者会見場は満席となり、局長に対する記者陣からの質問は長い間途切れる事が無かった。
その中で、当時丁度別の殺人事件の解決を迎えていたアベルトは、まだオスカー殺害の「容疑者」として拘束されていたジェラルドの取り調べを任命されたのだ。
その時の事を、アベルトははっきりと覚えている。
太った弁護士の横に座っていたからだろうか、酷くやつれて痩せ細った様に見えるジェラルドは、窪んだ眼光で虚ろな視線を机に向けていた。
銃器不法所持のネタで供述を取ろうと身構えたアベルトに対し、ジェラルドはアベルトを牽制しようと何かを言いかけた弁護士を抑えて、ぽつりぽつりと喋り出した。
曰く、ジェラルドは娘ジェニーが6歳の時に妻を病で亡くし、それから五年間男手一つで娘を養い続けた。
しかし三年前の春、ジェニーは小児がんを患い、肺に悪性肉腫が転移していたことが判明した。
それから半年の間、「サニタス」が製造・販売を執り行う抗がん剤を使用しつつ治療を行っていたが、娘の容体が回復する事は無く、間も無くして死亡。余命宣告より二年も早い最期だった。
その後ジェラルドは、娘の速過ぎる死の原因はサニタスが販売していたあの抗がん剤にあるのではと思い、独自に調査を開始したと言う。
探偵を雇って製薬から販売までの形態をくまなく洗い、娘の遺体を調べた結果、あの抗がん剤には微量ながら悪性腫瘍の成長や転移を促す成分が含まれている事が判明した。
一か月前、彼はそれを元手にサニタス製薬部を起訴したが、裁判所側は十分な証拠ではないとして起訴を棄却。
そして怒りを堪え切れなくなった彼は護身用銃器販売店から購入した小型の拳銃を使用し、オスカー・エイブルが出先で一人になる瞬間を待って襲撃したのだ。
この事件について、裁判所と陪審員は極めて冷徹な態度を取った。
弁護側の主張が全てジェラルド自身から得た情報と言う事や、犯行当時明確な殺意があり不特定多数の人間を危険に晒す行為をした事もあり、彼への厳刑――――――終身刑はゆるぎない物となった。
その後サニタスは次期社長任命までの間、副社長及び専務による経営の続行を表明。
一時暴落しかけた株価は上昇傾向となるまでに持ち直し、問題となった抗がん剤はいつの間にかカタログから姿を消していた。
「俺達は、警察騎士団だろ?」
事のあらましを話し終えたアベルトは、長い溜息を吐いて椅子の背凭れに体を委ねた。
その急な問いにイェンファが黙ったまま訝しそうな表情で彼を見るが、それに構わず続ける。
「俺達は正義を掲げて、皆を、平和を守るために力を持ってる。
確かにジェラルド・シーニーズがした事は重罪だけどさ」
コーヒーカップの水面が揺れる。生まれた小さな波紋が、鏡写しのアベルトの顔を歪ませ、朧な輪郭へと変えた。
「あの男が人を撃つ前に阻止して、牢屋で余生を送らせない……
それが出来て初めて正義って言えんじゃねえかって、思えて来るんだ」
霧がかったあの背中が、再びアベルトの回想に割り込んでくる。
小さく、そして全てを失った様にぽっかりとした、一人の男の背中。
その背中に手を触れて後押しをすべき時がいつだったかは、永遠に分からないだろうとアベルトは思えた。そしてそれが出来なかった自分が、警察騎士団が、本当に正義であるのかもまた、疑問に思えた。
「―――――私達は秩序を守る番人で、警察騎士団よ。
誰にも平等であり続けねばならないし、そして振り返ってはならない時もある」
虚ろなアベルトの視線を叩き斬る様に、凛としたイェンファの声が飛んだ。
「私達は、私達の思う正義で動いてはならないの。
それがどれくらい良い結果を残せたとしても、それは秩序を乱すから……」
そこで一つ区切ると、イェンファはそれまでの冷たく厳しい声色とは違う、微かに穏やかな笑気を含んだ声で、言った。
「でも、貴方の考えは正しいと思うわ。それに――――」
――――私はそういう考え方、嫌いじゃないわよ?
そう小さく呟きながら、平静のままアイスコーヒーのストローに口を付けるイェンファを、アベルトは少しの間呆然と見つめていた。
しかし間もなくして小さく笑い、カップを手にとってコーヒーを啜る。
口の中でほんおりとした熱と、独特の苦みが緩やかに広がった。
白雲をたなびかせる青空が燦々と太陽を輝かせ、全てを照らし出さんとしている様を肌で感じる。
カップを置いた時のアベルトの顔は、頭上に広がる青空に似た明るさが燈っていた。
「あんがとな……少し楽になった」
その言葉を受けたイェンファは、一瞬だけアベルトを見つめ、それからふと微笑みを零した。
そして彼女が再びストローに口を付け、程良く冷えたアイスコーヒーを飲もうとする。
その時だった。
何かが弾け飛ぶような、乾いた音が繁華街に鳴り響き、アベルトとイェンファが表情を凍りつかせる。
男女入り混じった短い悲鳴が何処からか聞こえ、先程の住民達の溌剌とした笑い声と活気は斬り取られた様に消え失せていた。誰の足音も聞こえない、奇妙な静穏が生まれていく。
誰もが顔の何処に怯えた表情を覗かせて、家々に反響するその不気味な音を、見えもしないのに目で追おうとする。
それよりも早く、アベルトとイェンファは勘定をテーブルに置いたまま駆け出した。
二人は経験と仕事柄、その音の正体を熟知していた。普通の人間なら、何処からともなく来た奇怪な音だと結論付けて済ますだけのこの音は、彼らにとって最悪のケース――――死傷者が出るかもしれない、悪魔の方向にも聞こえたのだ。
銃声。それも、その近くに居るだろう人々の悲鳴を伴った、惨劇の予兆。
二人のその研ぎ澄まされた感覚により鍛えられた耳は、普通ならば反響でぼやけてしまう銃声の出所だけではなく、この通りの二つ向こう側―――――繁華街中心部の西方面エリアから響く、銃声と同じ場所から来るだろう怒号と悲鳴を感知していた。
走れば現場まで一分とない。アベルトはその俊足を駆使しながら、非番時の非常事態対応様に腰に差していた投擲具――――鴉烏の柄に手をかける。
横を見れば、イェンファもまた腰のホルスターに納めた中折れ式の二連拳銃―――――MTD-41Sのグリップに手をやり、携帯無線で本部へ連絡を入れていた。
走る為に出てしまう域に合わせて、風に負けない声で叫ぶ。
「イェンファ、道はわかるな!?」
「ええ! 47丁目ね!」
「よし、裏から回ってくれ! 俺は表の方から気を引いて注意を逸らす!」
了解、と叫んでイェンファがフェンスを軽やかに飛び越えて散解していく姿を見送りながら、アベルトはいつの間にか眼前まで迫っていた逃げ惑う人混みに巻き込まれる。
誰もが悲鳴を上げ、我先にと逃げ場を求めて無我夢中で走る中をくぐり抜け、アベルトは最後の一人とすれ違い、曲がり角へと行き着いた。
見ると、数メートル先の家具店の中から、数人が這い出る様に逃げる姿がある。
舌打ちをしまいと強く堪えながら、その中の一人である腕に怪我を負ったらしい男性の肩を捉えた。
「怪我の具合は!?」
「だ、大丈夫だ、掠っただけだよ。アイツら、小さい銃で撃ってきやがって!」
アイツら、という言葉に眉を顰めて、アベルトは男性の両肩を軽く叩いて落ち着かせる。
「店内に何人居る?」
「た、確か二人だ。どっちも黒づくめで、一人が小さい拳銃みたいなのを持ってた……
突然、う、撃って来やがったんだ!」
「よし、いいか。此処から向う数ブロック先から警察騎士が来る筈だ。
そいつらに事情を説明して怪我を診てもらうんだ、いいな!?」
両肩を強く押さえられたまま、痙攣した様に頷く男性を見て、アベルトは手を離した。
そして男性が無事に現場から脱出する後ろ姿を尻目に、店を挟んで反対側の道から、拳銃を構えたまま身を顰めるイェンファに、待機する様にハンドサインを送る。
イェンファが頷いたと同時に、アベルトは一気に店の入り口の脇まで駆け込んだ――――――その直前だった。
「―――――ッ、な」
アベルトが驚愕すると同時に、次の合図を待っていたイェンファもまた目を見開いて店の入り口を見ていた。
当然である。明らかな銃声が響いた店内に向かって、悠然と、そして堂々と歩いて入っていく男の姿があったのだから。
男の足取りは全く平静そのもので、危険地帯へと踏み込んでいく人間のそれとは到底思えない。
あまりの光景に数瞬の間呆気にとられたアベルトとイェンファは、男を止める事も――――いや、男の相貌をよく見ることすらもままならず、そのブーツが響かせる固い靴音を聞いている事しか出来なかった。
その時二人の瞳に煌いて映った物は、男の右の胸元の紋章―――――黒と白、そして真紅に彩られた喚起する髑髏の紋章だった。
手慣れた、簡単な仕事だ、と髭面の体格の良い男は思った。
繁盛している家具店を襲って、その売上金を丸ごと奪い取り、早々に身を隠す。
此処の店主は怠慢なのか、それとも何か事情があったのか――――どちらにせよ、一週間分の売り上げを奥にある部屋の安物の金庫に蓄え、日を迎えたら専用の集金係に売り上げを渡し、銀行へ送る。
最近になって悪化しつつあるセイヴァールの治安状況を考慮すれば、あながち的外れな行動でも無いが、それでも防犯意識が低過ぎる。
だからこそ、安い密造品のデリンジャー ―――――22口径の小型上下二連拳銃だけで、手早く簡単に仕事を済ませられる。
相棒の大男が奥の金庫を特殊工具で破る音を聞きながら、手元のレジを蹴り、貧乏ゆすりをして銃を握る手を意味も無く忙しなくさせる。 そろそろ一時間前に摂取した麻薬の効き目が来る頃だった。
その時だった。視界の端に、何者かが此方に歩み寄ってくるのが見えたのだ。
髭面は咄嗟に銃を構え、その乱雑な動きしか出来ず、照準を合わせる為の数秒の静止すら望めないだろう腕を入ってきた人物に向ける。
しかし入ってきた客は、仮にも露骨な殺意をもって銃口を向けられているにも関わらず、歩調を緩める事は無かった。
「おぉい! 止まらねぇとブッ殺すぞ!」
タガと言うものが無い、白痴じみた声で髭面が叫んだ。
特殊工具が金庫の錠を破ろうとする音がゆっくりと途絶え、店内に靴音だけが響く。
髭面は薬のせいで微かに揺らぐ視界の中、その人物を三白目でじろりと睨んだ。
入ってきた客は、冷徹と言う言葉も生温い程の冷たい眼で髭面を見据えていた。
客――――――男は渋い皺を寄せた、少なくとも40代前半以上はあるだろう顔立ちだった。
優に195cmの背丈と、厚いコートの上からでも判別できる程の凄まじい筋肉を誇る体に着た、黒みの強い紫色のロングトレンチコートを揺らしている。
コートの内には黒無地のワイシャツに暗いワインレッドのネクタイ、そして下半身には紫みのある黒無地のスーツズボンを穿いており、黒く強面の相貌をしたブーツが固い音を鳴らす。
両手は黒い薄手の革手袋を着けてポケットに突っ込まれ、胸の真紅と黒、そして白に彩られた髑髏の紋章が光る。
黒みの灰色をした短い短髪を微かに揺らし歩み寄る男の顔は、無表情―――――いや、冷酷その物が宿った様な恐ろしい雰囲気を漂わせ、ブルーの鋭い瞳が髭面を射抜いた。
薬で気分が上がり続けている髭面は、その異様な雰囲気に思わず怯みかけ、そして自分を笑った。
男のとの距離は4、5メートルで、こちらは既に銃口を向けている。
少し腕に力を込めて引き金を引けば、それで事は済むのだ。怯む必要が何処にある。
「聞こえねえのかぁ!? 見らんねぇ顔にしてやろうか――――」
改めて調子にくれた髭面の怒声が終わるその前に、男は歩きながら傍にあった家具カタログの小山から数冊を手に取り、それを髭面の手元へと投げる。
発生に意識を集中する一瞬の隙を狙ったその動作は、普通の人間でもまず捉えられない素早さで行われた。
回転して固さを増した雑誌が拳銃を握る手を叩くと同時に、反射的にガードをしようとした髭面が手を顔を覆う様に上げる。
その瞬間、残った腕がぐいと凄まじい力で前に引っ張られる。男がこの哀れな強盗の右側まで肉薄し、腕を手で引っ張り上げたのだ。
男は真っ直ぐに伸びた髭面の肘に向かって、肘の一撃を叩きこんだ。
尋常ではない力で殴り砕かれた髭面の肘が、ボキリと音を立てて逆向きに反る。
銃が取り落とされると同時に骨を折られた張本人の悲鳴が上がりかけるが、立て続けに見舞われた男の拳が髭面の悲鳴を、顔を歪ませ、何本かの歯の欠片が血と共に弾け飛ぶ。
そして掴んでいる右腕を捻り上げながら、男は髭面の膝の裏を蹴って跪かせ、その後頭部を髪の毛ごと鷲掴みにする。
ほぼ数瞬の出来事に意識が飛びかけていた髭面の、その血まみれの顔が一度上を向き―――――男は引き上げたこの強盗の顔面を、目の前の木棚の角目掛けて凄まじい力で叩きつけた。
短い呻き声が上がり、固い樹木で作られた棚の角に片目ごと顔を叩きつけられた髭面が、血を垂らしながら奇妙な音を発した。だが男は構わず、捻り上げていたこの強盗の右腕を軽い関節で極めながら、二度目、三度目と哀れな強盗の顔を更に強く角に叩きつけた。
「何かましてんだクソ野郎!」
男の背後から怒声が上がり、彼が振り向くと同時に背後まで迫っていたのだろう、強盗の片割れである覆面の男が拳を振りかぶる―――――が、それよりも早く男が一歩を踏み出し、その前進による凄まじい力を乗せた左腕の払いで拳を制し、同時にこの強盗の喉に右の一撃の喰らわせた。
自身の勢いも相まって気管支が一気に潰れた覆面男は、呼吸が出来ない事も忘れて咽る様に前にのめる。
しかしそれを逃さず、男は下がってきた後頭部を抑えつけてその顔に膝を叩きこみ、先程抑えた腕の関節を極めて肩部ごと外す。
そしてそのまま立て続けに強盗の足を払い、捻り上げた勢いを利用して床に尻から落とし、衝撃でふらついている哀れな物取りの顔に、眼球に、容赦なく拳を叩きこむ。
黒い革の手袋が強盗の顔を抉ると同時に、眼球の液体が混じった血が飛沫となって散った。
そして血を吐いて倒れ伏したその顔を更に蹴り飛ばすと、男は衝撃を逃がすまいと掴んでいた強盗の右腕――――と言ってももう動かない肉の塊だが――――をへし折った。
ここまでのほんの一分にも満たぬ一幕を終え、男は以前表情を変えぬまま、二人の物言わぬ元強盗犯を見下ろしていた。
あれだけの運動をしたと言うのにもかかわらず呼吸一つ乱さず、そして傷一つないままで、男はコートの襟を整える。
その時、店の入り口から二人分の足音が響いた。
「――――動かないで!」
突入と同時にMTD-41Sの銃口をぶれることなく男の背中に合わせ、イェンファが叫んだのだ。
アベルトもまた同じく、鴉烏をどの刹那にも投擲できる構えのまま突入し、男を見た。
しかし男は背後から明確な殺意と威嚇を向けられて尚、平然とその場に立っている。
アベルトがもう一度勧告し様と口を開いた時、男が懐から何かを取りだした。
銃か、或いは爆発物か――――どちらとしても危険にである事に変わりはない。
二人は、流石の素早さで完全な攻撃態勢へと移り、身構えた――――が、男の取り出したものを見て、固まった。
赤と黒の紋章――――警察騎士団、それも本隊に所属する騎士の証明である勲章だ。
何故、この男が――――イェンファがいぶかしんだ直後、アベルトが同じ疑問を驚愕の色を持って口にした。
「アンタ、一体誰だ――――――!?」
それを聞いて男は勲章を懐に戻し、二人のほうへと振り返った。
「警察騎士団本隊『特捜班』所属―――特別捜査官のリゼルだ」
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