ふわりと、目の前を桜の花びらがよぎった。
視線がつい後を追ってしまい、箒を握る手が止まる。流れる微風が頬の産毛をくすぐり、さらさらとせせらぎのような音が耳に届く。
風の来た方――渡り廊下の吹き抜けからは、春の日差しが溢れている。
その光に急に疲れを覚えて、俺はため息を吐いた。
3月も終わりに差し掛かり、天気は着実に、暦に追いついて来ていた。
空は雪解けの清水を思わせる柔らかな色に晴れ渡り、中天に浮かぶ太陽は優しげに輝いている。無人のグラウンドはかすかな黄金色に染まり、再び学生たちが訪れるのを、静かに待っているようだった。
体育館前の渡り廊下には、俺のほかに生徒の姿はない。掃除担当のポジション的に、ここは好き嫌いの分かれる場所だ。こんな日の、のどかな景色をひとり占めできるところは、まあ、なかなか悪くないのだが。
箒を柱に立てかけて、背筋を伸ばす。
大気には水と土の気配が色濃く漂い、深呼吸をすると、肺いっぱいに、かぐわしいものが満ちる。風が吹くと、校庭から幽かに甘やかな香りが運ばれてきて、空気にいっそうの華やぎを与える。
のどかな日和。眺めもよく、ひなたなら適度に暖かい。清掃場所としては、贅沢に過ぎるくらいだ。
厄介なことといえば、桜の花びらがヒラヒラして鬱陶しいってことと、風が強まると、そのたび仕事がリセットされて、いつまでたってもここを離れられないってこと。
ざあっと、木々が一斉に朗らかな笑い声をたてる。
さらさらと、足元で花びらが戯れる。
あー、桜キレイだわー。涙が出そうだワー。
卒業式をつつがなく終えて、総武高校は短い春休みに入った。
短いとはいえ、休みは休み。
本来なら残り僅かとなったモラトリアム期間を惜しみつつ、ダラダラと快適な自室でだらけるか、千葉方面の書店のハシゴにでもいそしむのだが……登校日の午後に特別清掃とか、ちょっとかったるすぎない? そこは学校の偉い人、空気読んでほしいなぁ。
心の中でぶちぶちと文句をこぼしつつも、箒を握りなおす。
前進再開。
ひと掃き、箒を振るごとに、淡い花びらがふわっと舞い上がり、春の空気と戯れるように軽やかに乱れ、やがて地に降りて、再び伏せる。最初はその美しさと物悲しさに見入ってしまったが、5分もすると飽きてしまった。だって、ヒラヒラ飛び散るばかりで、なかなか進まないんだもん。イライラしてくる。
行く手を見れば、渡り廊下の反対側の端まで、まだ半分以上の距離が残っている。ああ、くそ。ため息しか出てこない。
教師なら、人生に例えそうだなと思った。「掃除は人生の縮図だぞ。手を抜いていたら、どうにもならないくらい汚れきってしまうからな」とか。厚木あたりが言いそうだ。
人生は掃除ほど単純じゃないだろ、と思う。
ちゃんと前に進んでいるのか怪しいし、綺麗にしてるつもりが、逆にゴミを撒き散らかしているだけかもしれない。そうしたゴミは、時間がたてば黒くベタベタした汚れになって、壁の隅にへばりつき、二度と取れなくなる。人が、後悔とか黒歴史とか呼ぶものに成り果てて。
でも、そんなもんだ。
人生はどこまでも清潔で、綺麗なものだけで出来ているべき? ――まさか。
つーか、そろそろ手が痛くなってきた。これ終わりそうにない。あー、サボりてえ。
もともと掃除は好きじゃない。箒をつかうのがかったるくて、小学生の頃から終業時の清掃は憂鬱だった。そもそも掃除が好きな奴なんて見たことないけど。どっかのヤクザ顔の高校生みたいな奴にはついぞ会ったことがない。むしろ事あるごとに俺が押し付けられてたまである。クラスメイトが俺の名前を呼ぶのは、そういう時だけだった。「なあヒキヤ、お前今日これから用事とかある?」なんだよその、まさかあるなんて言わないよな、ていう無言の脅迫は。あれで夕方5時からの再放送を、なんど見逃したことか。てか最初は、「え、もしかして俺を遊びに誘ってくれてたりするの?」って心の中でトキめいちゃってたんだぞ。一人でえっちらおっちら机を運びながら聞いた、同級生たちの弾けるような笑い声と、廊下を走り去っていく賑やかな足音は、今でもたまに、泣きたくなるくらい夕日のまぶしい日にフラッシュバックします。
渡り廊下の半分を過ぎた辺りで、限界を迎えた。
疲れた。
手が痛え。
サボりてえっ!
ささやかな恨みを込めて、風に舞う花びらの一つを目で追う。
開花の早かった桜は早くも散って、こうして無残な死骸をさらしている。うんざりしてはいるが、それにしても、花は死に際すらも綺麗なものだ。穏やかな陽光を反射するリノリウムの床は、静かな川のようで、そこに散る桜の白さ儚さが、いっそう引き立っている。
水面に浮かんだ花びらを、花筏(はないかだ)なんて呼び方をするんだと聞いたのは、最近のことだ。花の残骸に対して、ずいぶんと美しく風流な呼び名をつけたものだと感心すると同時に、その言葉を発明した昔の誰かに、ひどく残酷な感性を見た気がした。
しかし、国語で俺の知らない知識を人から聞くと、前は嬉しかったり面白かったりしたんだけど、最近は単純に喜べない。あ、それ知らなかった、やべーな、と、腹の中がきゅっとすぼまるような焦燥感を覚える。ちょっとナーバスだ。
来てほしくないと願う未来ほど、気づけばすぐ後ろに立っていて、ぽんと肩をたたいてくる。おそらく半年後の俺は、去年の小町の比じゃないくらい、殺伐とした状態になっているはず。はぁー、やだなー。勉強したくねえなぁー。働きたくねぇなぁー。
思わず先々の人生にまで思いをはせていると、ひたひたと小柄な足音が校舎側から聞こえてきた。
「お、サボってる人、発見―。いーけないんだー」
「サボってるんじゃない。小休止だ。あとその言い方、いつにも増してあざとすぎるから、やめろ」
なんなの、その一昔前のギャルゲーちっくな会話の入り方。どこで覚えてきた。
振り向くと奴がいた――カエル、もとい亜麻色の髪を揺らし、大きな瞳にニマニマと笑みを湛えた、小悪魔系の後輩。
現・生徒会長、一色いろはは、今日も可憐であざとかった。
細身の制服をすらりと着こなしたサマは、今日も今日とて完成度が高い。後ろ手を組んで、小首をかしげてこちらを覗き込むような、いかにもなポーズ。秋葉系のアイドルも真っ青――もとい、真っ赤になりそうだ。ブレザーの下にはカーディガン。冬の間はピンクをよく来ていたが、今着ているのは淡い若草色のニットで、それがいつもの可愛らしさに溌溂とした印象を添えている。
会長殿は、あたりを一瞥すると、意地の悪い笑みを浮かべた。
「うわぁ、ぜんぜん進んでないじゃないですか……今までずっとサボってたんですかぁ?」
「ちげーよ、掃いても掃いても、風吹くとすぐリセットされんだよ、ここ」
まさに風来の試練。そこらの床にマジックで「ぜんめつ」とか書いても、花びらが全滅してくれたりはしないし。むしろ俺が落書きの咎でゼンメツされちゃうまである。
――いや、もうそんな暴力を振るわれることもないのか。
「まあ、先輩一人じゃ無理だろうってのも分かりますけどね。いいですよ、ここは私、見なかったことにしてあげますから」
「いや、だからサボりじゃなくて休憩だっつの……」
俺の抗議には耳を貸さず、うふふと笑いながら、一色は近寄ってくる。
左の15度くらいにコテっとかしげた首は、間違いなく黄金の角度。制服の肩口に流れるセミロングの一房とか、反対側のうなじの白さとか、いろんなイメージがさわさわと押し寄せてきて、分かっててもその仕草がちょっとばかり可愛く見えて、つまりはそれやめろ。その技は俺にはもう効かん。効かないんだからさ――きかないってば。それいつまで続ける気なのん?
「あはは、実のところ、校門の方も大変そーみたいでしたよ。適当なとこで切り上げて、ぼちぼち帰り支度に入ってる人たちもいますし」
「は? なにそれ、もう終わりでいいのかよ」
「まあ、今日の清掃は、3年に上がった人たちに、『これまでの学校生活への感謝を込めて奉仕してもらおう』って理屈みたいですし? カタチだけってことなんじゃないですかね」
奉仕という言葉を口にするとき、少しだけその声音が、固くなったように聞こえた。
「おいおい、なんだよその理屈……感謝って、強要されるものじゃないだろ」
なんで学校側から、「生徒のみんな、ウチへの“ありがとう”を込めて、お掃除していってね♪」なんて言われにゃならんのだ。そういう気持ちの表明こそ、自主性を尊重するべきなんじゃなかろうか。具体的には、自由参加とか、そういう形で。
「そうですかね、わたし最近、折につけ『ありがとうございましたー』って言わされてますけど」
「お前の場合、普段から口にしてるだろ。クラスの男子を、お願い光線で洗脳する時の仕上げとか」
生徒会長の仕事で「ありがとうございました」を言わされる機会が多いってことなんだろうけど、もともと言い慣れてそうだよな、こいつ。ノート見せてーとか、ちょっとここの席使っていいかなー、とかの軽いお願いなら、女子はたいてい「ありがとー」の一言で完了させる。見てくれが可愛ければ、言葉一つの報酬でも、喜んで働く男は多い。
たとえば、クラスメイトに掃除を押し付けられたある男子が、翌日、クラスでも2番目くらいに可愛い女の子から「ヒガヤくん、昨日はごめん、ありがとね」ってニッコリ言われて、「あ、うん、ぜんぜんだいじょぶだから――なんだったら、また……」とか答えちまったケースなんか、その最たるものだろう。その男子は、その日から永世掃除当番の二つ名を拝命したことは言うまでもない。ちなみにその女子とは、その後卒業まで、2、3回あいさつ程度の会話しか出来なかった。お礼の言葉も二度と貰えなかった。
そんな悲しいエピソードはさておき、小悪魔ぢからを指摘された一色は、心外とばかりにぷくーっと頬を膨らませた。
「普通に失礼すぎませんか。今はもうそういうの、あんまりしてないんですよ、これでも」
「ああ、そうだったのか、ワリい。――で、『今はもう』ってことは、前はしてたってことだよな」
「~♪」
明後日の方へ視線をやってぴひゅーと下手な口笛を吹きだした。もういいよ適当で。
「……ま、人に頭を下げる事に抵抗がないってのは、将来役に立つかもしれんぞ。お前、社畜の才能がある」
「なんてコト言うんですかぁ!? わたし、年収800万以上の若手イケメン俳優かIT社長と結婚して、専業セレブとして、わたし似の可愛い女の子の育児日記とかインスタに投稿して、『いいね』をたくさんもらうような生活が夢なんですよ!?」
とんでもないことのたまいますね、キミ……。
そういう奴はたいてい、空気を読まない幸せアピールから発火・炎上して、泣き詫びコースになるって、有名タレントの皆さんが教えてくれてるじゃない。もっとワイドショーで勉強しなさい。
しかしインスタうんぬんの部分を削ぐと、こいつの言ってることって、ほとんど俺の口から垂れてくるタワゴトと同レベルですね……。つまり俺も、逆玉狙いJKだった? 年収800万のIT社長サン、来てきて! あなたのハチマンはココよぉ~(野太い声)。
ひとしきり無駄口をたたき、冗談を飛ばす。一色の声が、さざ波のように、微かに揺れる。
やがてどちらからともなく、ふっと、ため息に似た呼吸が漏れた。
天使が通りすぎた、という言葉がある。
フランスのことわざらしい。ようは会話の接ぎ穂が途切れ、自然と沈黙が訪れることだ。
いかにもフランス人が好みそうな、洒落っ気が過ぎる言葉だと思っていたが、今だけは本当に、見えない何かが通り過ぎたように、2人とも言葉を失っていた。
静寂の中、桜の花びらが床をこする音だけが戻ってくる。繋いでいた手を離された子供のように、どうしていいか、分からなくなった。
会話が途切れた一色は、居心地が悪そうに視線をさまよわせている。毒舌や退屈そうな態度は何度も見てきたが、そんな、どこか怯えるような姿を目にしたのは初めてだった。
頬が熱くなる。
認めたくはないが。
俺はいま、こいつに、気を遣わせたのか?
「――すまん一色、なにか用事、あったんじゃないか?」
「え、あ――そ、そうです! こんな漫才をやりにきたんじゃないんですってば。ちゃんと用事があったんです!」
当惑から立ち直った一色が、慌ててマジメな顔をする。
「ん、そりゃ悪かった」
羞恥心を飲み下し、なるべく静かな声で謝罪した。そもそも3年じゃないこいつが、今ここにいるのも、生徒会の仕事でもあったからだろう。その時間を割いて、俺のために来てくれたのだ。余計な時間を食わせるべきじゃなかった。
「んで、用件はなんだ?」
改まってそう尋ねると、また沈黙が落ちた。数秒の間、一色の目が俺から外れて、宙をさまよった気がした。
「その、部活についてのことです」
「そうか」
目で先を促すと、一色は、虫歯の痛みにでもおびえるように、口を小さくもごもごさせながら、そっと言葉を紡いだ。
「たまたまそこで、新しい顧問の先生と会って、訊かれました」
端的な言葉。
怯えるような声音。揺れる抑揚。
――ふと、野球のキャッチャーは、こんな感覚なのだろうかと思った。次の瞬間に、衝撃が飛んでくることが分かっている状態、というのは。
「その、部の……」
言葉が途切れかける。
だが大きく息を吸い、意を決したように一色はまなじりを上げた。強い光が俺に向けられ、けれど俺を通り過ぎて、いずこかへと飛んでいく。多分その視線が向いているのは、今ではない、いつかの時間だ。
「奉仕部の」
「おう」
――まるで埋葬されてゆく思い出を見送るような。
そんな目を、真っすぐに見返しながら、俺は一色の次の言葉を待った。
一色が去ってから、適当に掃除を切り上げる。
ヨソが手抜きで済ませてると知った以上、こっちも律義にやる必要はない。ていうか、うすうす分かってたけどね。風が吹くたび散らかるわ、外から新しい花びらが流れ込んでくるわで、やってもやっても終わらないって。学校側も仕上がりは期待してなかったろう。あらかじめ「適当に切り上げていいぞ」とか言ってほしかった。
掃除道具をロッカーにぶち込んで、手を洗う。それから、ぶらぶらと歩きだした。
校舎のあちこちからは、箒を掃く音や、机の脚が床をこする音、そして誰かの笑い声が聞こえてくる。残っている新3年生が、まだまだいるのだろう。リア充とその眷属どもからすれば、こんなかったるい行事でも、思い出作りの一環になるということか。
あるいは、今のうちが最後の猶予期間だという事を、彼らも本能的に悟っているのかもしれない。
夏休みに突入するころには、受験ムードが本格化するだろうし、秋ごろには友達と休日に遊ぶ余裕さえも無くなってくるはずだ。なによりその頃になると、友達は潜在的なライバルになる。同じ大学を目指しているならばもちろん、そうでなくても。――たとえば模試の判定で、一方がよりいい評価をもらっていたら、その2人は、もはや純粋な友情だけでは繋がっていられなくなる。危機感と、僅かな安堵感をトレードしあう関係。相手を意識し、心の内で競い合う関係。
たとえ好意は変わらないとしても。
ただ好きでいるだけでは――“一緒にいるだけでいい”、では、いられなくなる。
つまりは、『お前に足りないのは危機感だ』って煽りあう関係だな。『お前まさか、まだ自分が落ちないとでも思っているのか?』……あ、いかん、これダメ。このネタ、自分へのダメージでかすぎる。いま自分の言葉に、ちょっと心臓止まりそうになった。
アホなことを考えている間も、足は止めない。
特別棟に入ると、生徒たちのたてる掃除の音は、小さく遠ざかった。頻繁に使う教室ばかりではないし、立ち入り禁止の部屋なんかもあるから、こっちの掃除はすぐに終わったんだろう。
通いなれた廊下を、静かに歩く。荒々しく床を踏み鳴らしたりはせず、ことさら忍び足もせず。ただ、試合に臨む武道の選手のような気持ちで、一歩一歩、足を運ぶ。
別に誰かと戦うわけでも、重要な決定をくだす会合に向かうわけでもない。
重要な決定は、もうすでに下されている。だからこれは、後始末のようなものだ。
奉仕部の部室は、開いていた。
くっと力を入れれば、一度がたりと音がし、そこからはするりと戸は動く。
ふっと、紅茶の香りが鼻を撫でたような、そんな気がした。反射的に、部屋の奥に目が吸い込まれる。窓辺にたたずむ、長い髪を揺らした少女の姿――。
もちろん錯覚だ。部屋の空気は冷たく、かすかに埃の匂いがする。窓辺の影と見えたのは、開け放した窓からの風に、カーテンが揺れているだけ。光の加減で、女の子の髪に見えただけだった。
空気がこもっていたから、換気をしていたといったところか。
「おお、来てくれたね」
横手から、そう声をかけられる。
部屋の奥でなにやらやっていたらしい先生が、こちらにやってきた。年のころは六十から七十くらい、ヤギみたいなお爺ちゃんだ。しょぼしょぼした小さな目に、縁無しの眼鏡をちょこんと乗せている。顔は覚えている。たしか数学の先生だったはずだ。俺は捨て科目だったから、この人の授業、ほとんどマジメに受けてこなかったけど。
「えー、と、寒川先生、でしたよね」
「うん、よく覚えていてくれたねぇ。君たしか、ボクの授業、寝てばかりだったのに」
ほっほっほっと、朗らかに先生が笑う。
やべ、気まずい。おじいちゃん先生は笑っているけど、内心はどんなものだか。自分の授業で堂々と居眠りする生徒なんて、面白い存在のはずがない。てか、この先生が俺なんかを覚えてくれてたことがまず驚き。「そういえば君の名前は、えーと、ヒノモトくんだったかね?」「いえ、ヒキガヤです……」「あー、そうだった、そうだった」。
若干微妙な気持ちになるが、不満を言える立場でもない。軽く頭を下げた。
「その、すみません、数学はどうにも苦手で、はい」
「うん、気にせんでいいよ。君みたいな生徒は、どこのクラスにも2、3人はいるから」
ナチュラルに流された。怒ってはいない、のか?
「勉強をするのは結局本人だからねぇ。数学に興味を持ってもらえないのは残念だし、それはボクの力不足でもあるから、申し訳ないとも思うけど、本人が興味が持てない、必要ない、というなら、それも仕方ない」
ほがらかな口調で、けっこうドライなことを口にする。
寛容な先生ではあるけれど、これ見方を変えれば、『後で困っても君の自己責任だからね?』て言われてるようなもんだよな……。
「ま、もしも必要になったら、その時には改めて勉強すればいい。その時に、スタートがちょっと楽になるかどうか、ボクの授業はその程度の違いだよ」
こともなげに言って、寒川先生はのんびりと自分の顎を撫でた。あんまり接点はなかったけど、こうして話してみると、なかなか印象深い人だ。
「それで、離任された平塚先生に代わって、ボクがいちおうの臨時顧問という事になるんだけど」
「あ、はい……」
だしぬけに投げられた言葉に、少し固まる。
いまさら。
いまだに、だ。
卒業式と同時に、離任式が行われたのも、つい先日のことだった。その場で平塚先生の離任が正式に発表され、別れの挨拶が告げられた。
あの人はもう、この学校にはいない。
「そもそもボクは、この奉仕部という部活が何をする部なのかも、よく分かってないんだ。生徒の悩み相談みたいな部活らしいとは聞いているけど」
「はい、まあ、そんなものです」
「君たちも、もう3年だし、あまり部活に出てくることもないだろうけど、いちおう書類上の管理は必要でね。確認しておきたいんだが」
「はい」
「部長は君でいいのかい?」
先生の質問に、体が冷えたような気がした。
部屋の温度は変わらない。ならばこれは、俺の心が作り出した温度だ。
かつての暖かさの記憶を覚えているからこそ、ぬくもりを鮮明に記憶しているからこそ、その欠落は、痛いくらいの冷気となって、俺をくるんでいく。
紅茶の香りも、明るい笑い声も、静かに紙のページをめくる音も――すべてはもう、過去のものだ。
総武高校、3年の春。
かつての奉仕部の部室にいるのは、俺だけだった。