登校日の翌日は土曜だった。
当然、次は日曜日で、そこで春休みはおしまい。月曜が始業式、その次の火曜を入学式として、新年度が始まる。
そう、始業式の翌日が入学式なのだ。
わざわざ分けるなんておかしな事で、本来はありえない。種を明かせばお粗末な話で、新入生に郵送した入学案内の日付が、ミスプリで始業式の翌日になっていたとの事。戸塚筋の情報では、平塚先生の離任で、雑務を引き継いだ誰だかが、文面をよく確認しないまま発送しちまったらしい。発覚後に学校側は、慌てて訂正の連絡を入れたけれど、今さら言われても都合がつかないやらなんやら、多くの保護者から猛反発を食らって、結局そのまま行くことにしたという。
平塚先生は、やっぱり偉大だったんだなーと、しみじみ噛みしめる春のひと時……ていうか、若手に仕事押し付けすぎじゃね? ウチの学校、とんだブラックスクールだぜ。
社会の恐ろしさに改めて身震いをし、やはり働くなんてロクでもないという思いを新たにしつつ、俺は春休みの残り時間をダラダラと消化していた。
さすがに三年ともなると、いまさら新年度の前に準備など必要ない。だが新入生となるわが妹は、そうもいかないようで……。
「えーっと、こっちがいいかな、それとも……」
土曜の昼下がり、リビングでダラダラしていると、小町の部屋から、なにやらぶつぶつと聞こえてきた。ドアも閉めずに、お悩み中らしい。
カマクラの尻を無心に突っ付くのにも飽きてた俺は、テーブルの下から立ち上がりざま、うんと背を伸ばし、そのまま妹の部屋に足を向ける。
「何やってんだよ、お前……」
「んー、見ての通り、自分の美的センスと格闘中」
案の定、開きっぱなしのドアから中を覗くと、妹は鏡の前で、自分の頭をいじくり回してる最中だった。鳥に突つかれたように乱れた髪に、櫛やらヘアピンやらを当てがって、ああでもないこうでもないと、一心不乱にヘアメイクをしている。そのさまはお洒落をしているというより、毛玉のオブジェでも捏ねているみたいだ。
視線を移すと、机の上にはリボンや髪留めなんかが、アクセサリー屋のごとく並べられている。随分いろいろと持ってるんだな……。こう言ったらなんだが、まるでカラ――げふんげふん、ちっこい小動物が、宝物をせっせと巣に蓄えてるのを見たみたいで、ちょっと微笑ましい。
だけど中には、宝石みたいにキラキラした石が付いてる品なんかもあって、ちょっとびっくりする。もちろん、そこまで高価な物なんかじゃないだろうけど、なんだか落ち着かない。そっちにあるリボンは紫のサテンで妙に色気があるし、その隣の髪留めとか、シルバーっぽいけど、まさか本物の銀なのか? 巻貝をあしらった意匠がとてもシックで、この前まで中学生だった奴の持ち物とは思えない。
しかし、とも思う。
たぶん似合わないわけじゃない。こういった物を身につけて、めかしこめば、こいつはもう、それなりにサマになるはずだ。妹の成長は早い。気が付けば子供の領域から、もう足を踏み出しかけている。そして、そういう妹の姿に惹かれて集まる男どもも、これから先、うじゃうじゃと湧いて出てくるのだろう。たとえば大志とか大志とか。あの仏像顔、もし高校デビューで浮かれて小町にちょっかいかけてきたら、シェルブリットぉバーストォゥを食らわせてやるからな。
想像の中の、角を生やして舌をチロチロさせてる大志に向かって、ガルルッと敵意を掻き立てていると(それもう大志じゃないよね?)、小町がうあーと猫じみた声を出した。
「だめだぁぁ、決まらないぃ」
「なあ、あんま気合い入れ過ぎると浮くぞ。ウチは一応、まじめな校風だからな」
もちろん、三浦とか、川なんとかさんみたいに、派手にメイクしたり着崩してるのもいるけど、あれは少数派だしな。入学式から『そういうキャラ』でいくと、後から辛くなる。
「んー、分かってるよ。でもでも、高校デビューなんだよ! 小町にとっては一生に一度の!」
小町はこっちに振り向くと、両手を広げて力説する。確かに一度きりだけどさ。つか高校デビューが一生に何度もあるとか、どんな無間地獄だよ。
「高校生って、やっぱり大人に近くなるじゃない」
「いや、ぜんぜんガキだぞ……」
「それでも! 中学生に比べたら!」
「……まあ、世間的にはな」
「だからこそ、ここで一つ、ビシィッと決めたいじゃん!」
分からなくもない。俺も高校に入学する時、期待と不安に心臓をシェイクされながらも、新しい自分に生まれ変わるぞーっ、とか夢見てたからな。入学式にすら出れなかったけど。
しかしまあ、もし事故に遭わなかったとしたら、俺のことだ、高校デビュー目指して勘違いムーヴした挙句、同級生からの侮蔑や嘲笑に串刺しにされて、ビシィッと磔死体にでも成り果てていたに違いない。
小町なら、きっと俺より上手くやるだろう。中学でカースト上位に食い込めた実績を見ていればそれは分かる。ただ、無駄に背伸びをしていると、結局どこかでコケるというのが、この世の真理だよなぁ。
「なあ小町、高校に入ったからって、お前が急に大人になるわけじゃないぞ」
「えぇ~? それは分かってるけどさぁ~」
不満げな妹を制して、俺は言う。説教臭い調子にならないよう、できるだけ、そっけなく。
「いろいろと目新しいことも出てくるだろうけど、今まで通り、お前はお前のまま、一日一日を過ごしていくだけだ。その当たり前の一日一日を通して、ちょっとずつ、お前の目指す大人に近づいていくしかねーんだよ」
ゆっくりと、言葉の一つ一つを手繰るように言うと、小町は驚いたように目を見開いた。
「お、お兄ちゃん……具合でも悪いの?」
おい。
「お兄ちゃんの口から、まっとうな言葉が出るなんて……」
なんなの? 俺がまじめなこと言うと、天変地異でも起こるわけ? これでも割とマジメな方なんですよ、ボク?
「いつもだったら、『へっ、変わりたい? アタマ空っぽ、ジブン空っぽなアホほど、簡単に変わるってまくしたてんだよ』とか腐った意見を吐くのに」
手加減しろよ……俺のこと、分かりすぎだろ。
「あのな……とにかくまあ、劇的に変わろうとか考えない方がいいぞ。入学式の翌日からも、学校は毎日あるし、その毎日を上手くやり過ごしていく事は、他の誰かに肩代わりしてもらう事は出来ないからな」
そもそも劇的な変化なんて、そうそう起こせないものだ。まあでも、小町が三浦ばりに金髪に染めて「あーしさー」とか言い出したら、それはそれで劇的な変化ではあるが、その時にはお兄ちゃん、自分で自分の目を潰しちゃうよ。
「いや、さすがに金髪とかはしないよ……小町の目指す方向じゃないし」
懸念を伝えると、小町も微妙な顔で答える。自分の可愛らしさの性質を理解してるから、それが生かせない方向は考えてないみたいだ。よかった。世界の滅亡は回避された。
「んーでもでも、やっぱり一大イベントだし、ただ無難にやり過ごすってのも、なんかやだなぁ」
「まあ、後悔しない範囲で好きにしたらいいんじゃね?」
「その範囲を見極めるのが難しいんだってば」
やだもう、ワガママね、この子ったら。
「と、いうわけでっ! 今日はお試しデイとします!」
「は?」
何を唐突にと、怪訝な視線を向けると、小町はふりふりと生意気な仕草で人差し指を振った。
「だーかーらっ、お試し! 慣らし運転、リハーサル、みたいなの!」
「リハって――入学式の?」
脊髄反射で聞き返すと、小町はしらっと冷えた眼差しを向ける。
「なにアホなこと言ってんのごみぃちゃん。2人でどうやって入学式のリハすんの? 脳内のお友達に出席してもらうの?」
いやたぶん違うって分かってたけどさ――もうちょっと手加減してよ。
ダメージに膝を折りそうになっていると、「じゃなくて」と小町は苦笑混じりに言った。
「ふ、く。学校の制服、別に入学式の前だからって、着ても問題はないわけでしょ?」
「あ、ああ――多分大丈夫なんじゃないか」
校則とか、詳しく把握してるわけではないけど、式の前に制服を着たから入学取り消しとか、そんな話はさすがに聞いたことない。
「だから、制服の慣らし運転。ついでに髪型のシミュレーションもやっちゃおうってわけ」
「はあ」
まあ、いいんじゃないすかね。
「なにポケっとしてるの。小町これから髪をまとめるから、お兄ちゃんも着替えてきてよ」
「はえ?」
戸惑いまじりに見つめ返すと、小町は鼻を鳴らしながら、芝居がかった仕草で片目を瞑ってみせた。
「一緒にそこのショッピングモールまで行くんだよ。ごみぃちゃんでもそれくらいできるでしょ?」
まる2年間、毎日続けてきただけあって、制服に着替えるのには5分もかからない。
鏡でネクタイの結び目をチェックしつつ、なんでこんなことまでせにゃならんのかと自問する。
まあ小町が制服着るのに、俺は私服とか、どっちも居心地が悪くなるのは確かだし、ならば俺が折れるのは筋だ。うん、問題ないか。
ちゃちゃっと身支度を終え、点検を繰り返す。襟のフケとかもないし、うん、こんなものだな。妹はまだ来る気配がない。あの様子じゃもう少しかかりそうだ。
手持無沙汰になって、リビングの椅子に腰を下ろし、スマホぽちぽち暇つぶしに入る。んー、今日も世界は嫌なニュースに満ちているな。ニュースサイトの見出し一覧とか見てても、ほんと気が重くなるだけだ。どうせならスマホのニュースサイトはプリキュアとライダーに関連するニュースだけ流すようにしたらどうかしら。小さいお友達も、大きいお友達も、みんな幸せになれるんじゃないかな!(まっとうになれるとは言っていない)
気を滅入らせていると、スマホがぶるぶる震えて新着メールを告げてきた。すぐ確認するが、ただの広告だ。
息を吐いてウィンドウを閉じようとする。が、指が滑ったのか、誤って別のボックスを開いてしまう。スマホはこれがイラつくんだよなぁ。タップの誤感知。
表示されたのは、通常の受信ボックス――つまりは家族や知り合いからのメール一覧だ。
その一番、上。
最新の受信日は、卒業式の翌日だった。俺たちが無い知恵絞りだしてどうにか勝ち取った、あのプロムの開催された日の――翌日の夕刻。
差出人の名前が、目に入る。
アプリを終了させ、リビングの中に視線をさまよわせていると、しばらくしてドアが開いた。
「お兄ちゃん、おまたせー! って、どうかした?」
「ん、いや、暇だからな、ぼーっとしてただけだぞ」
何か言いたげな視線を感じた。が、それも数秒のこと。
小町はすぐにニパッと笑顔を決めると、俺の前でくるりと一回転してみせる。
「ほらほら、どう? 高校生に進化した小町の晴れ姿は?」
「ん、おお…」
改めて小町に目をやって、俺は目を見開いた。
トランセルがバタフリーに、というと大げさだが、妹は確かに、一段階、脱皮したように見えた。
おろしたての制服は、生地もまだツヤツヤでパリッとしている。黒のブレザーはタイトで大人びたデザインだから、正直まだまだ小町には荷が重いかなと思っていたが、どうしてどうして。妹の可愛らしさと明るさが、ともすれば固い印象になりがちな制服を、元気で活き活きした方向に引っ張っている。小町ちゃんてば、軍服とか着せても様になりそう。「司令、よろしくお願いしますっ☆」とか言われたらトキめいちゃうよ。レアリティは星4以上は確実ですな。バリバリ課金しよう。――嘘だよ。課金は節度を保って、趣味の範囲でな。みんな、ハチマンとの約束だゾ☆。
「――なんか変なこと考えてるでしょ?」
「いやぁ、ぜんっぜん! ……本当に、よく似合ってる。兄じゃなかったら惚れちゃいそうだ」
「あはは、気持ち悪い冗談は顔だけにしてよね、ごみぃちゃん」
顔だけで笑いながら、小町はツツッと後ろに下がる。その反応、けっこう傷つくからやめて。
「まあ冗談は置いといて、見違えたぞ。その髪もな」
「ん、そ、そう? えへへ、それはそれは……」
頬を掻きながら、小町は俯いて、ぼしょぼしょと言葉を濁す。
妹の髪は、さっきまでの苦闘の跡が嘘のように、綺麗に櫛が通されていた。いつもなら頭のてっぺんあたりでピンと立っている遺伝のくせっ毛もなりを潜めて、ふわっと可憐なショートボブに纏められてる。装飾は一点、さっき部屋で見た、あの紫のリボンのみ。先ほどは艶っぽいと映ったが、制服姿に一点だけ合わせると、森の木陰に一輪だけ咲いた桔梗みたいな、奥ゆかしい可憐さが出てくるから不思議だ。デビューを控えたティーンアイドルとか言われても納得してしまいそう。
「へへっ、あれこれ悩んだけど、お兄ちゃんと一緒なら悪目立ちするより、普段にプラスアルファしたくらいが一番かなって」
「おう、いつもどおりだけど、いつもより百倍ましくらい可愛いぞ」
「ま、まあ、小町が可愛いのはこの世の真理だし、当然だよね!」
「もちろんだ。だけどそういうことは、外では声に出さないようにな」
「ふっふーんっ、当たり前じゃん、そんなの」
まあ今さらな心配だとは思う。でもこいつ、計算高いように見えて、抜けてるとこもあるからなぁ……。ときどき心配なんだよね。
「さて、で、行くか?」
気分を切り替えて、なるべく朗らかな口調で言ってみる。
「もちろん」
満面の笑みの小町が、率先して玄関に向かう。
やだ、お兄ちゃんと出かけるの、そんなに嬉しいの? このブラコン天使め。
数日ぶりに、ちょっとウキウキした気持ちで、俺も後に続いた。
ショッピングモールは人出で溢れていた。
新年度を控え、準備やらお祝いやらで買い物をする人間が多いのだろう。エントランスを流れる姿には、明るい春物のコートや、晴れやかな笑顔が目立った。その中には、真新しい学生服の姿もちらほらと散見する。施設内もあちこち桜の造花やら、ピンクのポップアップやらで飾り付けられ、おめでたムード一色だ。
「えへへっ」
「なんだよ」
隣を歩いている小町が、急にニマニマし始めたので、軽くたしなめる。いや、俺は可愛い妹の笑顔は全然OKだけど、外ではもうちょっと自重しような、外では。
「や~、なんか、合格したんだなぁって思って」
「いやお前、今まで散々お祝いしてたじゃないの?」
お疲れ様会やら、おめでとう会やら、よろしく会やら……俺によろしくしてくれるのは勇気だけだな。愛と勇気も、全然無いけどネ!
「んー、まあ、それはそれ? まだ実感無かったっていうか」
「ええ……卒業旅行まで行っておいて、実感がないって、どうなんすかね……」
このまえ、友達同士だけで2泊3日かけて東京横浜の周遊旅行いっておきながら、まだ実感なかったのかよ。ていうか、あの旅行の詳細も気になってる。変なことはしてないと思うんだけど――あんまりしつこく尋ねた挙句「お兄ちゃんウザイ」の一言で撫で斬りにされて以来、二度とは尋ねることが出来ないでいる。今でもちょっぴり心配です。
「なんていうか。今までは『合格した』っていうより、『受験が終わった』ってことに喜んでいたような気がする」
「あー、それな」
なんとなく、言いたいことは分かる。
受験が終わって感じるのは、合格した喜びとか、卒業してしまう事への寂しさとかよりも先に、まずは圧倒的な解放感だ。ソースは俺。合格した日の夜にやった徹夜ゲームは、背徳感も相まって脳汁ドバドバ、マシマシだったな。終わったんだから別に背徳感なんて感じる必要ないのに。あれってなんでだろうね。
「でもさ、こうやって、いよいよ入学式が迫ってきて、その前に制服を着て歩いていると、なんか、こー、ね」
「実感がわく、か」
もしかしたら、家族である俺と歩いているからこそ、そんな感慨に浸れるのかな? ――そんな自惚れも、思ってしまう。
よろしく会とやらは、話に聞く限りでは、学内政治の地盤固めという感じだし、さしもの小町もあまり気が抜けないだろう。要は、きたる新生活でスクールカースト上位の席をつかむための下地作りだ。なにそれ、外交官のパーティーかよ。鹿鳴館かよ。小町が明治時代風のドレスとか着たら、やっぱり似合いそうだよネ! 華族のお嬢様って感じで! そういう社交がまったくダメだった俺は、そりゃボッチになる。そんな会行っても、ろくに喋れないだろうし。中学ボッチだった奴が、高校でいきなり人生逆転させてリア充になろうとか、そういう発想がまずもって夢物語でしかなかったと、今ならよく分かる。
て、ええい、今はそんな事を考えている時ではない。
どうでもいい暗黒時代の記憶を頭から追い払うべく、違う話題を振ることにする。
「で、どうだ。制服の感じに、ちっとは慣れたか?」
「ん。最初はごわっとしてたけど、歩き回ってて、ちょっと馴染んできたかも」
さもありなん。初めて袖を通す制服は、まだ固くて、ぎこちない。そんな感触もすぐに慣れて、やがて制服を着るという行為そのものが日常化して価値を失っていく。
馴染むというのは、つまりは特別性を失うということに過ぎない。
「そのうち嫌でも慣れる。今のうちにせいぜい新鮮な感覚を味わっておけ」
「はーい。でもその新鮮な制服デートの相手がお兄ちゃんって時点で、どーにも締まらないけどね」
「お前が服合わせろつったんだろ……」
本当にもう、ワガママなんだからっ☆。
しかしまあ、微笑ましい言い分ではあるのか。今頃、本当に恋人と制服デートとかしてる奴も、多分いるだろう。あるいは、よろしく会で出会って、相手を品定めに掛かってる奴とか。その点で、わが妹はしっかりしている。お兄ちゃん嬉しい! 大志とかの血で、ボクのこの手を汚さなくて済んだ。あと川崎に、犬と豚のように殺される未来も回避できた。言う事なしだな。
――でもそれでいいのか、という誰かの呟きが、胸の深いところから聞こえた気がした。
「なあ」
「ん?」
「本当に制服デートしてみたい男って、お前、いたりする?」
「ちょっと、やめてよね、こんな時まで」
本気でウザそうな顔をする妹に、しかし俺はなぜだか、言葉を続けてしまう。
「いや、その、勘違いすんな。別に、説教とか、監視とか、そういうつもりはないんだ。ただまあ……」
なんだろう。何を言いたい。何が言えるんだ。
「ただまあ、俺はお前の兄貴で――つまりもっと――お前の味方でいたいんだ、ってこと」
「なにそれ」
怒ったような声。やらかしちまったかな、と思い、ため息をつきたくなった。
「すまん。怒らせたいわけじゃなかったんだ」
返事は、すぐには返ってこなかった。
これが現実だ。十年以上を一緒に過ごした家族とすら、意思の疎通に苦労している。つまるところ、俺はボッチになるべくしてなった人間ということなのだろう。言葉にしたところで分かり合えないし、言葉にしなくても伝わるなんて、傲慢もいいところ。――海辺を洗い続けるさざ波のように、いつかの言葉は、いまも繰り返し、思考のひだに寄せては返す。
しばらく、無言で歩く。空気は重くて、モール内を流れるBGMだけが陽気で春めいている。行きかう人々の笑い声や、はしゃぐ子供の叫びが、耳の穴を素通りしていく。会話もないまま、同じ学校の制服を着て、並んで歩く俺たちは、傍目にはどう映っているのだろう。
「……心配しなくても、小町はそのうち、すっごい素敵な彼氏さん作るから」
やがて小町が、俺に目を向けず、前だけを見たまま、口を開いた。
「イケメンで、優しくて、爽やかな感じの男の子とか、チョイ悪だけど頼りがいがありそうなセンパイとか、子犬系の幼馴染男子とか、そーいうのを」
「ん……、そうか」
なんか、そこらのゲームショップでワゴンセールしてる乙女ゲーとかに出てそうな顔ぶれだな。ていうか、『そーいうの』の方向がブレまくってるんですが、それは……。
「で、お兄ちゃんを悔し涙でひいひい泣かせてみせるよ」
「えげつねーな。少しは兄をいたわってくれ」
でも、それぐらいの方が、むしろ安心できるか。
「――――ってんの」
「ん?」
「なんでもない。キモいから、急にニタニタしないでよ。いつも以上に腐った笑いとか、やめてっ」
「お、おおう、すまん」
お前もさっき、それやってたけどね? ていうか、いつも以上ってなんだよ。
あわてて口元を引き締めていると、小町がさらに言い募った。
「ね、お兄ちゃん、小町にお祝いしてよ。合格のお祝い」
「は? いやなに、それ?」
お祝いとか、もう十分じゃないのん? 友達と旅行にも行ったし、先週は家族で焼肉も食いに行ったし――これ以上、何が必要だというのかね!?
「……しゃーねーな。あんま高い物とか、買ってやれねえぞ」
「分かってるよ。いつだって、小町は兄思いの妹ですから」
ツンとすました顔で、小町は俺の前に立って歩きだした。俺は頭の後ろを掻きながら、へいへいとぼやく。
分かってる。
いつだって、小町は俺には過ぎた妹だ。だって、こんなにも兄思いなんだから。
小町の先導で、モール内にある喫茶店に入る。内装は木目調のインテリアを中心にした、ややクラシック風味の店だ。椅子の座面にパステルな色が使われていて、そこそこライトかつお洒落感がある。価格もまあまあ良心的だ。窓際のボックス席に、2人で腰を落ち着けた。
「クリームソーダ一つください」
「えーっと、俺は……その、スフレパンケーキを」
かしこまりましたっ、と感じのいい営業スマイルを浮かべて、ウエイトレスさんが下がっていく。うーん、やっぱりプロって、ああいう人のことを言うんだよなぁ。俺も将来は、いつも笑顔で奥さんをコントロールする素敵な主夫を目指さなきゃ。なにそれヒモじゃん。
小町は向かいの席で頬杖をついて、窓の外に目をやった。
目元に落ちる、まつ毛の微かな影を見つめていると、本当に、いつの間にこんな顔が出来るようになったのだろうと、感慨とも戸惑いともつかない感情が湧いてくる。毎日、水を与えていた鉢植えに、ある朝、見たこともない花が咲いているところに遭遇したような。
もっとも、その横顔はどんなに美しくても、俺には妹の顔でしかない。
ただ、家族以外の奴にとっては、また別のものに見えるのだろう。
さっきは不用意に口にして機嫌を損ねてしまったが、いずれは、そういう話が出てくるだろう。誰かが小町に惹かれるのか、こいつが誰かに心を奪われるのか。当然ながら、面白くはない。――ないが、それが自然だし、ゆくゆくは小町の幸せにつながるなら、できる限り力になってやりたいな、とも思う。
らしくない、我ながら、鼻で笑ってしまうような思考。まあ大志は許さないし潰すけど。いや潰しちゃダメだろ。
「――なんていうかさ」
ややあって、少し疲れたような声音で、小町が切り出した。
「受験が終わって、高校に入ることが出来さえすれば、苦しいことは全部終わって、楽しい生活が待ってるんだと期待してた部分もあったんだけど」
「うん」
「やっぱり世の中、そんな簡単じゃないなって、思う日々なのです」
「あー、なんだ。お疲れさん、て言っとくべきか?」
「うん。だから今日くらいはお兄ちゃんにいっぱい労ってほしいなーって。友達とか友達予備軍の人たちとかじゃなくて、心を許せる人に目一杯、甘えたいなって。あ、これ小町的にポイント高い!」
にぱーッと八重歯をのぞかせて、小町があざとい笑みを浮かべた。くっ、この魅力に溢れつつも油断のならない小悪魔スマイルっ! お兄ちゃん、マジで君の1年後が不安だよ。具体的には、なんとか色さんみたいになってないか不安だよ!
そこでふっと、肩から力が抜けた。
自然体を演じるということにも、それなりに意味はある。それは葉山と戸部達から俺が学んだ、数少ないことの一つだった。
「……ありがとな」
「ほえっ!? な、なんでお兄ちゃんがお礼を言うの? ここは小町の可愛さにクラクラしつつ、捻デレ気味に『ちっ、しゃーねーな』とか言うところじゃないの?」
「はは。ま、お前はよく出来た、自慢の妹だってことだ」
小町は俯いて、返事をしなかった。あれれぇ、また失敗したのかな、と思っているうちに「お待たせしましたぁっ」と注文の品が届けられる。
「ほんじゃまあ、合格、おめでとさん」
水のコップを、クリームソーダのグラスにカチンと合わせた。ソーダの中に浮かぶ氷が、からんと透明な音を立てて回る。
「ありがと」
言葉少なに礼を言い、小町はストローで緑色のジュースを啜り、微かに笑った。
「ん、おいしい」
「そか。良かった」
「合格祝いに、お兄ちゃんにクリームソーダを奢ってもらう――ふふ、なんかマンガか小説の話みたい」
笑顔でそう話す小町は、わが妹ながら綺麗で可愛くて、そして少し、物悲しそうだった。
現実では、マンガや小説みたいな綺麗な終わり方をすることは稀だ。ハッピーエンドを語る物語の多くは、『こうであればよかった』という願望を投影したものだと、いつから理解すようになったのか。
「――なんていうか、やっぱりね」
「おう」
「さっきも話したけど、高校生って、中学生に比べれば大人に近くなるわけじゃない」
「それは……いや、そうかもな」
「だからさ、もっとちゃんと――ちゃんとした大人になりたいなって、小町は思うのです」
「ちゃんとした大人、か」
呪文を復唱するように、無心にその言葉を繰り返す。
抽象的だが、俺たちのような年頃の人間にとっては、切実な願望だ。
大人になる。
単に背丈が伸びたり、体の発達が待ち遠しいというだけなら、そのまま時間の経過に身を任せていればいい。しかし、小町が望んでいるのはそんなものじゃない。『焦らなくていい』なんて偽善に満ちた言葉じゃ、まるで足りない。
けれど、俺には小町が満足するような指針は与えてやれない。けして長くはない高校での時間で、俺が知った事、教えられた事はある。しかし血の通っていない言葉に、何の価値があるというのか。
小町も、別に俺には期待してはいないのだろう。それ以上なにか言うこともなく、スプーンでアイスを掘り崩し、口に入れ、目を細める。
「ん~~、さいこうっ! あ、でもでも、お兄ちゃんのパンケーキもおいしそう! 一口小町にめぐんでよぉっ。小町のアイスもあげるからさぁ!」
「へいへい」
可愛い妹のおねだりに、俺はどうにか笑顔で応えてやる。
大人になる。すべての子供にとって、等しく難しい命題だ。
でも。
子供だって、いや子供だからこそ、誰かを助けられるという事も、あるんじゃないか。
甘えられるのだって、悪くない。
……いやまったく。
俺も、いい加減、大人にならんとな。
いつまでも妹に頼ってちゃ、世話ないわ。
自嘲を隠しながら、俺は小町のさし出すスプーンにかぶりつく。アイスがとろんと舌の上で溶けて、バニラの香りが口の中に広がる。
甘くておいしい。
その甘さに、ちょっとだけ泣きそうになった。