* * *
「……だから、ゆきのんの気持ち、教えて」
決して、大きい声ではなかった。
囁くように、両手で包んでそっと差し出すように、静かに告げられた言葉。
それが夜の中にぽとんと落ちて、ゆったりと波を描いていく。
いつしか夜も更け、駅前からはすっかり人通りがなくなっていた。先刻までちらほら見かけていたスーツ姿の人々すら見かけなくなって、とても静か。だから彼女の言葉はよく透り、じんわりと耳に染みこんだ。
世界の終わりを告げる言葉――というには、少し優しすぎる声。
でも、間違いない。
いまなのだ。
いま、ここで、名前を付けなかった私たちの関係性は、一つの終わりを迎える。
名付けるとは、ラベルを張る行為だ。
可視化された概念の紐づけ。言葉にして、相手と互いに承認しあうことで、共通の認識と関係性を作り出す。
思えば私は、それが昔から嫌いだった。
他人と足並みを揃えること。相手の気持ちを慮ること。言葉による約束で、つまらない相手とつまらない取引を交わし、挙句に自分自身を縛ること――すべて、馬鹿げた行為だと軽蔑していた。
特に、トモダチという言葉は、あの時から、ずっとずっと、嫌いだった。
それまでずっと傍にいてくれた人さえ、一緒に嫌いになってしまうほど。
でも。
『……なあ雪ノ下。俺と』
――ごめんなさい、それは無理。
『っだぁ! まだ最後まで言ってねえだろ』
文化祭が終わった直後の、あの他愛ない会話のときから、もしかして私は予見していたのだろうか。いつかこの瞬間が巡ってくると。
選択するということから、私は逃げていたのかもしれない。
夜風が吹いて、街路樹の葉がさらさらと音を立てる。なにかが崩れていくような――それを見送る者を、慰めているような――そんな音。
駅前の街灯を受けて、彼女の目は穏やかな光を湛えて私に向けられている。真っすぐで、でもとても優しいまなざし。いつも私を温め、勇気づけてくれた優しさ。私と彼を――ひねくれた人間たちの間を――いつも取り持ってくれたぬくもり。
唇がうごめいた。
一瞬、彼女のその優しに溺れて、このまま言ってしまおうかと――そんな思いがあふれかける。
息を吸う。
さらに深く深く、吸いこむ。
息吹はいつしか、深呼吸じみた深いものに変わる。
言葉を吐く代わりに、冬の名残の冷たい空気を肺いっぱいに満たす。冷たい水を一気に飲んだように、のぼせた体温が冷えていく。
彼女の優しさに、私はいつからか、少し甘えすぎていた。
認めよう。
私は弱い。居場所が欲しくて、誰かに受け入れられたくて、でも他人を求めたり、頼ったりということが、どうしようもなく下手だ。もしも自分を高めるのと同じくらい、他人を理解し、受け容れられる努力をしていれば、今頃はもう少し違った人間に成れていたのかもしれないけれど。
私の傍にいてくれたのは、彼と彼女だけ。私のような、どうしようもない人間に、自分から歩み寄ってくれたのは、この二人だけだ。
せめてこの宝物を傷つけることだけはしたくない。彼女の優しさに勇気づけられ、彼のひたむきさに救われた、これまでの日々を、ここまでの自分を、裏切りたくはない。
だから。
名前を付けることなく、なにものかに成ることを拒否したままの、私たちの関係。
それを、ここで。
私は彼女の目を見返し、唇を開き、そして――。
* * *
週が明けた四月の一日の空は、薄曇りだった。
春先には多い空模様だ。桜の季節に特に多く、薄い日差しに花の淡色がよく映えるから、花曇りなんて呼び方もされる。
いまさら花を楽しむでもなく、ボーッとした頭で、俺は自転車を走らせた。
花見川沿いの通学路を進むうち、ぽつぽつとウチのブレザーを着た生徒の姿が増えてくる。彼らの多くは、二種類の人種に振り分けることが出来た。
顔が微かに上気していたり、声色が明るかったり――きたる新生活に興奮や期待を抱いている人間。
もう一方は、同じ笑顔でも、祭の終わりを予感したような、どこか寂しげな影がつきまとう側だ。大仰な話しぶりや笑い声にも、なにやら不安や緊張が滲み出ている気がする。
深く考えるまでもなく、その違いは推察できる。つまりは二年か三年かという違いだ。
たった一年。されど一年、か。
駐輪場に自転車を止め、カバンを手に昇降口に向かうと、玄関を入ってすぐの所に、山のような人だかりが出来ていた。クラスの振り分け表が、掲示板に張り出されているのだ。
歓声やら、落胆やら、悲喜こもごもの音声が、あちこちで弾けているが、俺には興味も関心もない。あ、いや戸塚の名前は探しちゃうな。やっぱ。
それでも、たいして時間をかけることでもない。掲示板の前には近づかずに、俺は遠目に、自分の名前を組分け表に求める。
理系クラスであるB、D、G組は、最初から候補から外れる。さらに文系でも特進クラスであるAは違うし、実質的に準特といっていいCもないだろう。成績には多少自信はあるが、内申は決していいとは言えないのが俺だからな。となれば、残りの候補はおのずと絞られる。えーと、は行、は行……。
しばし表を見つめ、ようやく自分の名前を見出す。そして俺は、肩を落としながら二階へ上がった。
神は残酷だ。二年の時には天使との邂逅を与えておきながら、翌年にはそれを奪うなんて。
二階の廊下もわいわいと喧騒に満ちている。
そこここで「やったー! 今年も一年よろしくね!」やら「うれしーっ! またノート見せてねーっ!「えぇ……」」やら、喜びの挨拶が溢れている。あの男子生徒はあんま嬉しそうじゃないですね……。昔の俺なら「やれやれ系リア充かよ、けっ!」とか思ったところだが、本当に迷惑に感じてる奴もいるからな。あの女子生徒は、勉強の保険が欲しいだけなのか、遠回しなアプローチなのか知らんけど、もうちょっと相手の顔色を読み解く訓練をしようね……。
そんなやり取りを横目に見つつ、俺は自分の教室に入る。
三年F組。
奇しくも、去年と同じクラス番号だ。もちろんただの偶然で、それ以上の意味なんかない。物理的にも時間的にも、ここは去年とは違う教室だ。
黒板に張り出された席順に従って、中ほどの席に座る。机にぐでっと上半身を倒しつつ、周囲を観察――ぱっと見、知らない奴ばかりだ。名前の分かる顔はほとんど無いな……まあ、まだ教室に来ていないだけかもしれんが、今のところは。
ふうぅっと、細く長い息を吐きだした。そこに込められた感情が放心なのか、落胆なのか、安堵なのか、自分でもよく分からない。いや、安堵は妥当か。俺はいま、少しだけほっとしたのだ。きっと。
「おはよう」「うっす、おはようさん! 最後の年だけど、盛り上げていこうな!」
「はよーっ」「おっ、ゆっこー。へへ、同じクラスかぁ。今年一年、逃がさんからな~」「あははっ」
「おはよっ、最後の一年、よろしくね!」「え? あ、ああ……うん、おはよっ!」
交わされる挨拶を聞き流しながら、俺は腕を枕に、寝たふりに入ろうとする。
このクラスでも、俺はきっと誰とも深く交わりはしない。今さらそんなものを求めるつもりもない。
既に、多くの事を間違えた。ちっとばかり、間違えすぎた。勉強代と呼ぶには、かなり高い代償も払った。いや、俺一人だけなら問題ない。問題は、周りの人間を巻き込んでしまったことだ。
きっともう、欲しがることさえ、許されてはいない。
――クリスマスの頃も、確かそんなことを考えていたっけ。今となっては、単に自分のことで不貞腐れていただけとよく分かる。自分が欲しがったもの、自分の力で成し遂げたものが、思っていたようなのじゃなくて、勝手に失望していただけだ。
思考が呼び水となり、記憶が連鎖する。
寒い冬の空気。夜のしじま。潮の香りに溶けていく煙草の煙。
――誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだよ。
フッと、息が漏れる。ふて寝のポーズのまま、制服の袖に、額を強く擦りつける。
もしも、覚悟もないまま傷つけてしまったなら。
きっとそれは、どうしようもない不誠実だ。見るに堪えない驕慢だ。俺がなにより嫌い、唾棄していた行為。かつて俺が受けた仕打ちと同じだ。
傷つけられるのは、まだいい。
『そちら側』に立っていられるのならば、俺はまだ自分自身を認めてやれる。
だが傷つける側に回るのは――比企谷八幡が『あちら側』に立つのは――あってはならなかった。無自覚な悪意で蹴落とされる痛みを、俺は決して忘れない。世の中で毎日のように、どこかで誰かによって行われていて、みんな仕方ないと受け入れている、それ。当事者をいちいち憎んだところで何にもならず、だからこそ、個々の人間ではなく、その行為を、意思を、俺は決して許さない。そのはずだったのに。
なのに、今のこのザマは、どうだ。
つらつらと、ラチもない物思いが頭の中を巡る。
そんなものに溺れていたせいで、直前まで俺は気付けなかった。
「――比企谷くん」
耳慣れない呼びかけに、ぞわりと背筋が泡立った。
違和感。
既視感。
慣れ親しんだもの、確かに知っている筈のものが、そこにある。
だがこの異質な感じは。
「比企谷くん。起きてるよね?」
耳に届く声は、聞き覚えがあるものだった。
だが、一致しない。致命的に一致しないのだ。
顔を上げるのが怖くて、躊躇する。
しかし呼びかけられて、無視を続けるわけにもいかない。
鉄の扉を引き開けるような心持で、俺はゆっくりと顔を起こし、机の隣に視線を向けた。
あったのは、透明な微笑だった。
喜怒哀楽の偏りのない、静かな笑み。たわめられた唇には、こわばりもなくて、笑顔そのものに嘘は見つからない。
艶やかな黒髪が、教室に差し込む静かな光の下で、ふわりと揺れる。
「比企谷くん、おはよ」
「あ、ああ……その……おはようさん」
舌に鎖でも掛けられているように、言葉が回らない。言いたいこと、言うべきことはある――筈だ。山のように。
耳の端に、教室のどこかからの囁きを感じる。視界のすみには、こちらの様子を伺っている2人の女子の姿。この教室に去年のクラスメイトは多くないとはいえ、やはり目立ってしまう。カーストのトップなのだから、当たり前だ。
「色々あったけど……元気だった?」
「あ、ああ、まあな」
「そか」
小さく、噛みしめるようにそう呟く。それから『彼女』は、もう手を触れられない思い出でも愛でるような目で、俺を見た。
「高校生活も最後の一年だね。最後までよろしくね」
「おう……」
ろくに会話になっていない。自分の振る舞いに、寒気がする。
ダメだ。何か、何か言わなければ。
「由比ヶ浜」
俺は、彼女の名を口にした。
「ん?」
黒髪の少女は、小首をかしげて、俺を見る。
その仕草は、自然にも見えたが、芝居がかっているようにも見えて、真意が掴めない。
さらりと波打つように揺れる髪に目がいき、そこで今さらのように、トレードマークだったお団子髪が解かれていることに気付いた。
ほんの一か月前とは、まるで印象が違う。
ピンク掛かった茶髪は、艶のある黒に変わり、お団子を解いたせいで、髪は肩を撫でるくらいのセミロングに変じている。
「その、ずいぶん変わったな。……なんていうか、印象が」
「あはは、よく言われる。朝からもうたいへん」
静かに笑う彼女の表情、そこから立ち昇る情感――不自然なようでいて、しかし単に無理をしているだけの“りきみ”とは違う、眩しい緊張のようなものが満ちている。うっかり直視し続けると、火傷をしてしまいそうな。間違いなく変わった筈なのに、これまでの由比ヶ浜としっかり地続きで繋がっているような、不思議な感覚だ。
「まあ、あたしも3年だしさ。そろそろ本腰入れて勉強しないと、来年どうなってるか分からないし」
「ああ……まあ、そうだな」
お前、マジで成績ヤバいもんな、と言うと、そうなんだよーと、軽快な笑いが返ってくる。まるで何事もなかったかのような彼女の声に、めまいを覚える。
俺は、どう振る舞うことを求められているのか。
俺の躊躇に気付かないのか、見透かしているのか、由比ヶ浜は自然な調子で続ける。
「今まではさ、みんなと遊んだり一緒に過ごすのが楽しくて……それが一番大切でさ、他の事とかあんま考えてなくて、でもそういうの、そろそろ見直さなきゃな、って思って」
「そう……か」
「うん。あたし、自分の楽しさに、目が眩んでたんだ」
脳みそに針を突き立てられたように、生暖かく、女々しい吐息が漏れた。
「由比ヶ浜、俺は……」
「ごめんね」
言葉の緒すら、断ち切られる。
謝罪というのは、何より強固なシャッターだ。
どんな言い訳も、慰めも、とりなしも、あらゆる調停のための努力も、たった四文字の言葉で弾かれてしまう。それ以上の先はない。非を認めたなら、その非礼を詫びたいというのなら、言われた方は、もう何も言えないではないか。
『お前に謝られる謂れはない』、『お前の謝罪なんか受けたくない』――俺はここで、そんな風に言うべきなのか。
「今まで、ごめんね」
「……なにがだ」
「それは、まあ、いろいろ」
はにかむように苦笑する。言葉を探すような沈黙の後で、由比ヶ浜は言った。
「でもまず、そうだね――ヒッキーなんて呼んじゃってて、ごめんね」
自分の表情が分からなかった。
俺は今、どんな顔をして、どんな声で、こいつと話しているのだろう。
「別に、今さらそんなことで――」
「だよね。今さら謝られてもって感じだよね。――それでも、ごめん」
彼女が謝罪を口にするたび、息が締め上げられていく。思い知る。これは清算だ。
糺すべきことを、彼女は糺そうとしている。それはどこまでも正しい筈で、けれど俺の方が、音を上げそうになっている。
「俺は、ホントに……」
「ううん、初対面でいきなり、一方的にあだ名で呼ぶなんて、ほんとは良くなかった。あの時ヒッ――比企谷くん、ちょっと嫌そうな顔してたし。でもあたし、ホントは上手く話せるか怖くて、自信なくて……だからああいう態度で誤魔化して、茶化しながら喋るしかなかったんだ」
それはもう、ずいぶん昔の事のような気がする。現実には、一年もたっていない、すぐそこの過去のことだ。
すぐそこでも過去だ。見えていても、もう触れられない。
「比企谷くんの優しさとか、か、かん――寛容さ?とかに、あたしずっと甘えていたから」
だから今までごめんね――。
言葉の残響が耳にこだましているうちに、話は終わっていた。
色々と言葉を交わしたはずなのに、席に戻る由比ヶ浜の後姿を見ながら、何を言ったか、よく覚えていない自分に気付く。
俺はまだ、今の自分の顔が分からなくて、今どんなツラをさげてるのかとか、ぼんやりとそんなことばかりを考えていた。