ホワイトボードに、青マーカーの線が踊る。
ワックスのきいた床で軽快なステップを踏むように、キュキュッと小気味いい音を立てて、アンダーラインが矢継ぎ早に引かれる。
真新しい蛍光灯の下では、綺麗な楷書体で書かれた文字がよく見えた。それを指しながら解説する講師の少し疲れたような目元も、首元に結ばれたネクタイの、落ち着いた臙脂色も。
二年の夏から通っている学習塾は、総武高校とは反対の方向――幕張の中心街にある。設備は真新しく、照明も内装も白々と明るい。学校の教室の、もったりとした光とは段違いだ。塾が入っているテナントビル自体、まだまだ新しいから、当然ではあるのだけれど。
明瞭さ、清潔さは、ある種の緊張感にもなる。塾のそういう雰囲気が、俺は嫌いじゃなかった。普段ならば。
「何度も言うが、古文の基礎は活用を押さえておくことだ。それと文脈の把握。現代文と違って、主語や目的語が極端に省略されていることが珍しくない」
ノートに板書の内容を写しつつ、耳に入ってくる話は端のほうにメモする。その動作はなかば自動的で、内容は当然のごとく、頭に入ってこない。
本当は、集中しないといけないのは分かってる。
文系で学年第三位の実力ではあるが、俺も弱点がないわけじゃない。古文は比較的、苦手な領域だ。今のうちからコツコツと力をつけていかないと、後でヤバいことになる――その予感は、ある。
そもそも、スカラシップを受けられてはいるが、ここは本来タダじゃない。結構な額の授業料がかかるサービスだ。それを無駄にする訳にはいかない。
どんなにしんどい問題を抱え込んでいても、時間は流れていくし、現実の生活はなんとかやり過ごさなけりゃならない。そうしているうち、やがて日常という灰色のベールを何重にもかけられて、この時間は記憶の底にしまわれていくのだろう。それを嘆いても仕方ない。感傷は、感情の余剰だ。そんな贅沢ができる余裕は、今の俺にはない。
あいつだって、だから――。
「――さて、ではこの段落の意味だが……比企谷、分かるか?」
「え、あ……」
唐突に名前を呼ばれ、目を白黒させる。講師の先生は、かったるそうな顔で俺を見ていた。
「十八ページの上段、真ん中の『いとおほけなき~』で始まる段落だ。分かるか?」
「あ、その」
教室内の十人ほどの学生の視線が集まるのを感じて、頬に血が這い上がってくるのを感じる。うぉぉっ、ボッチ歴ながいけど、このシチュだけは慣れないっ! いつだって辛い!
「その、すみません、あまり集中できてませんでした……」
「もう少し、よく聞くように。――それでは、この『おほけなし』という語だが、二つの意味がある。一つは『恐れ多い』――」
解説を再開する先生から目を伏せ、少し呼吸を整える。
あー、心臓に悪い。ボッチ生活で人間強度を鍛えたといっても、本当の意味でメンタルが強くなったわけじゃない。こういう不意のプレッシャーはダメだ。くそ、あの先生、いつもやる気なさそうなのに、こっちが気を抜くと狙い澄ましたみたいに当ててくるな。FPSのスナイパーかよ。てかそれ、塾講師としては、けっこう有能ってことじゃね?
「――ん、では今日はこれまで。次回までの課題は忘れないように」
どうにか講義終了まで、粘り切る。
適当な課題を言いつけて、先生が出ていくと、学生たちも三々五々、教室から退出を始めた。それを見送りながら、少し席でグズグズする。
掻かなくていい恥を掻いてしまって、ちと座りが悪い。まあ俺の自業自得だけどさ。
教室から出ていく他の生徒の近くに寄るのが、恥ずかしい。クスクス笑いとかやられたら赤面ものだし、もしもチラとでも憐みの目を向けられたら、今夜はベッドで七転八倒だ。
今日は最後に退出するとしよう。
そう思って席にとどまっていると、突然ちょいちょいと肩を突かれた。
はて、こんな可愛い幼馴染みたいな行動をとる奴が、この塾にいただろうか?
振り返ると、見知った顔がニコニコと笑顔を浮かべていた。
「はろはろー、奇遇だねぇ、ヒキタニくん。この塾だったんだ」
ああ、うん……見た目は可愛いヒロインですね。中身は女リッチみたいな人ですけど。リッチなの? ならウチ、なんか奢ってほしいなぁ~。
「いや、なんでいるの……」
「ご挨拶だなぁ~。私だって受験生だよ。塾通いぐらいするよ」
赤い眼鏡のフレームを、くいっと指で押し上げて見せながら、彼女は答えた。
いや、そうだろうけどさ……先週までこの教室にいなかったじゃん。なんなの? 本当にゲームのモンスターみたいに湧いて出てきたワケ? レアポップ?
俺のじっとりとした視線を受けて、彼女――海老名姫菜は、カラカラと笑った。
「あはは、まあマジメに言うと、春休みの講習に試しに出てみたら、なかなか良さげな感じだったからさ、今日から正式に通うことにしたわけ。うん、その判断は正しかったね」
面白いオモチャを見つけた子供みたいに笑うの、やめてくれないかな……俺をオモチャ扱いするのなんて、陽乃さん一人で十分――いや十分じゃねえよ。一人も要らないからね? マジで。
つまり今日、最初からこの教室にいたのか。俺が気付かなかっただけで。
さすがに知り合いがいるのに見過ごすとか、ちょっと自分で自分が信じられなくなりそう。自分を信じたことなんて、中三の最後の告白以来、一度もないけどネ。
内心がモロに表情に出ていたのだろう。海老名さんは顔に笑みを残したまま、肩をすくめてみせた。
「そんなに嫌そうな顔しなくても、変なことなんかしないよ。ただ顔見知りがいた方が、なんとなく安心できるってだけだから」
「ああ……悪い、つい」
「ぐふっ、でもぉ~、それはそれとしてぇ、塾の講義中はヒキタニ君と一緒とか素敵だねぇ~。ヒキタニ君と三角関数とか、ヒキタニ君といまそかりとか、ヒキタニ君と長曾我部元親とか、色々楽しい想像できちゃうんだ~、ぐふふ腐っ」
だめだこいつ……早くなんとかしないと……。
相変わらずすぎて、鼻水も枯れる。数式やラ行変格活用と絡ませられたら……ハチマン、もうおかしくなっちゃぅぅ! てか最後のが具体的過ぎて特に嫌なんだけど。ゲームとかのイケメンイラスト見たら、リアルに想像してしまいそうだ……当分は長曾我部とか検索しないようにしよう。
「ま、ともあれ、学校に引き続いて、こっちでもしばらくの間、ヨロシクね」
「あ、ああ……まあ、よろしく……」
ぬぅう、嫌なことを思い出させる。
そう、クラス分けでも同じだったんだよな、この人。昼間は由比ヶ浜のインパクトで気が付いてなかっただけで――
そこで、思い付いた。
少しためらい、しかしすぐ、意を決して口火を切る。
「あのさ……」
「うん、結衣の事でしょ」
「知ったのは一昨日だよ。いつもみたいに3人で集まろうって話になって――で、待ち合わせ場所に来た結衣は、もうあの格好だった」
そこまで言ってから、海老名さんは手元のカップに、ストローを突き立てた。
いつまでも教室に居残っているわけにもいかなくて、場所を変え、駅近くのスタバ。
ガラス張りの大窓に面したカウンター席に腰を下ろし、俺たちは話を再開する。ささやかな情報料として、ここは出そうと思ったが、「そういうのいいよ」と、自分で呪文みたいな商品名をコールして、颯爽と席を取りに行った海老名さんは、改めて俺とは違う世界の住人だと思いました。
――「いらっしゃいませぇ、ご注文はお決まりでしょうかぁ?」「あー、この、ロイヤル…アホ…フェ…?」
まあ柄にもなく、『らしい』注文をしようとしたのが良くなかった。注文の仕方よく分からないのに。いつも通り、最初からコーヒーって言えば良かったんだよ、うん。他人のペースに釣られると、ほんとロクな事ないよね。
そんなペースの主である海老名さんは、こういう場所にもしっかりと溶け込んでいるから流石だ。赤い眼鏡に清楚なショートヘア、押しの強くない、けれどすっきりと整った面立ちに、今は物思わしげな表情を浮かべて、窓の外の宵闇を見つめている。うっかりすると、店舗の広告写真みたいに見えてしまう絵図だ。
「私ら二人とも驚いたよ。前の電話とかでは、別に何も言ってなかったから。いつものお団子頭を探してたら、急に後ろからハキハキ話しかけられて、『え。誰?』って素で思っちゃった」
目の前の幹線道路を流れる光を目で追いながら、海老名さんはぽつぽつと続ける。その時の光景を瞳に蘇らせているように、視線はどこか虚ろだった。
「で、まあ――特に優美子がさ、すごい反応した。結衣を見るなり、『どーしたん、その頭っ!?』とかショッピングモールの入り口で叫んじゃって」
三浦なら、さもありなんという感じだ。でも往来で叫ぶとか、俺なら無言で距離をとるよ。ネタじゃなしに恥ずかしいもん。
ちょっとばかり、海老名さんに同情の視線を送ってしまうと、彼女はこっちを振り返って、ま、しゃーないよねという感じで、苦笑した。
「でまあ、それから色々と質問攻めにしたんだけど……いや、びっくりした。手強いのなんのって。なんか結衣、今までと全然違った。あの優美子相手に、一歩も引かなくて」
「マジか……」
信じがたいような、でも不思議と、さもありなんとも思えてくるような。
一時期、由比ヶ浜は三浦に対してひどく遠慮――というより委縮したような態度をとっていた。それが奉仕部の影響もあって、より積極的に自分を出すように変わっていった訳だが――それでも、彼女たちの人間関係は、三浦が中心だったと思う。由比ヶ浜は皆をなだめたり、場の空気を取り持ったりといった、クッションの役割を果たすことが多く、それが彼女の定番のポジションだった。
人とぶつかったり、角突き合わせる姿なんて、うまく想像できない。
――比企谷くん、ごめんね。
わしわしと、乱雑に自分の髪を掻きまわす。そんな俺にかまわず、海老名さんは続ける。
「私も驚いたよ。優美子が『何があったん?』とか『誰かにひどい事されたん? あーしに言ってみ?』とかなだめすかしても、『何でもない』って、きっぱり言い切るんだもん。あんなの見たことなかった。むしろ優美子の方が、ちょっと気圧されてたなぁ。なんていうか――」
言いかけて、しかし彼女はそこで黙ってしまい、また窓の外へと視線を向けた。
隣で俺も、無言のまま、夜の幕張を眺める。
薄暮の中、県道二六二号には、ヘッドライトを白々と剥いた車が、せわしなく行きかっている。街灯の下を歩く人の恰好は、メッセが近いからか、スーツ姿が多い。四月という季節柄、まだ黒を基調としたコートも目立つが、白系のスプリングコートや、薄手のスカートも混じり、どっちつかずな印象を残していく。この時期は過渡期だ。そして過渡期というのは、はたから見れば、いろいろ中途半端で、みっともなく映る。たとえ当人たちがどれだけ真面目で精一杯でも。
見てくれなんて、だから気にしてもしょうがない。必死でやってる本人からすればどうでもいい事だ。
黒い髪の由比ヶ浜結衣も、そういった過渡期の一つなのかもしれない。朝は、殴り付けられたような衝撃で、まともに見る事が出来なかった。けれど、あの由比ヶ浜の姿は、むしろ俺には――。
とりとめのない物思いを流すように、トールサイズのマグを傾けて、自分の喉を湿らせる。
お、うまいなこれ。
さすがスタバというべきか。普通のコーヒーだけど、なかなか美味い。ミルクに砂糖、蜂蜜と、いろいろ入れまくって大甘に仕立てたけど、コーヒーそのものも、なかなか良い味してんじゃねえの、これ?
お手製カフェオレの味に満悦していると、海老名さんも音を立てずに、なんとかフラペチを一口啜る。
2人して、ほぅっと息をついた。
「――どんなふうに言ってたんだ、由比ヶ浜は? その、問い詰められて」
「んー、言葉自体はよくある内容だったな。『勉強に集中したい』、『もう三年だから』、『オトナにならなきゃ』――とか」
今までの結衣からは考えられないセリフよね――ささやかな笑い混じりに、海老名さんは言った。
「もう三年、もうオトナ……か」
聞いた話をまとめ、思考を巡らせる。万華鏡を回したように、脳裏には様々な言葉が立ち現われ、しかし端から四散して、方々へと散っていく。
わずかに残ったのは、一つだけ。
最近、同じキーワードを耳にしたばかりだ。俺の周りだけで、熱のない流行り病として流行しているのだろうか。
――ちょっとずつ、色んなものを諦めて、そうやって大人になっていくんだよ。
笑うような、嘆くような声が、呪いのようにひとりでに耳に蘇る。
ああそれと、と海老名さんが口を開いた。
「当分ヒキタニ君は、優美子には近寄らない方がいいかもね」
「うへぇ、やっぱそうなるか」
まあ状況的に、俺が由比ヶ浜に何かやらかしたのは誰でも分かるしなぁ…。
重い気を揉んでいると、海老名さんは、さらりと俺に流し目をくれた。
「ま、いろいろと難しいだろうけど――あんまり気張らず、ほどほどに頑張ったらいいんじゃない? じたばたしても、どうにもならない時は、どうにもならないんだし」
言って、ストローを咥えて、飲み物を片付けに掛かる。投げやりなような、気遣うような、微妙な態度だ。慰めるような、突き放すような――あきらめるような。
そんな響きが、あまり面白くなくて、けれどその、小さな苛立ちを吐き出すこともできず、俺は代わりに、言うべきことを言っておく。
「すまん…いろいろ助かるわ」
「お礼には及ばないよ。私も結局、野次馬根性で見てるだけだしね」
言って、かすかな笑みを浮かべる。
あまりいい笑いじゃない。レンズの向こうの瞳が、待機モードに入って輝度を落としたパソコン画面みたいに、翳る。
海の底の瞳。
たびたび彼女は口にしている。私、腐ってるから。
その言葉の正確な意味も、起因も、俺は知らないし、あえて知りたいとも思わない。それは彼女に踏み込んでいく、他の人間がやるべきことだと思っている。
ただ、なんとなく。
いまこの時は、それに見て見ぬふりをするのが億劫になった。海老名さんの態度に、少し苛立ちを覚えたせいだろうか。あるいは友達のはずの由比ヶ浜に向けた『野次馬根性』という言葉に反発を覚えたせいだろうか。
「……海老名さんは、俺に対して含むところ、ないんだな」
「ん。もちろんだけど、どうして?」
「『わりと気に入ってる、なくすのは惜しい』……そんなふうに言ってたろ」
あの秋の日、京都駅の屋上で、彼女は確かに、そんな事を口にした。
たとえ口から吐き出す言葉の、ほとんどが嘘であろうとも――いやむしろ、そうであるならばこそ――本当に大切なことには、嘘を被せない。それは、俺たちのような人間が、本能的に守っている一線だ。むろん海老名さんが、俺と同じように考えているとは限らないが、この一事については、確信に近いものがある。
「なんつーか、俺は、間接的にせよ――」
「別に、君が気に病むことじゃないと思うよ?」
一オクターブほど、声が低まる。
空調の聞いた店内に、どこからか隙間風が吹き込み、耳に飛び込んできたような感覚。場合によっては、戸部が直面していたのは、こういう顔だったのだろうか。
「いいよ。私もちょっとだけ、本音で話そうか」
そう言って、海老名さんはあの瞳のまま、体ごと俺に向き直る。黒髪がさらりと揺れて、シャンプーのものか幽かに良い香りが漂い、こんな時だというのに、テンポの早まる自分の心臓に、少し嫌気がした。
「あの時、惜しいって言ったのは本当だよ」
でも、と平坦な声が続く。
「いつまでも続かないかも――て事も、そりゃまあ、予想はしてた。ヒキタニくんのおっしゃるとおり」
棘を含んだ声音に、俺は微かに眉をしかめながら、それを受けて立つ。
「まあ、やっぱ考えるよな」
「うん、いつか戸部くんや優美子あたりから、綻びがくるかもとは思ってた。出来れば、女の子同士の繋がりは残せたらいいなとは思ってたけど」
やはり、俺が分かっている程度の事は、海老名さんは先刻承知していた。
「で、私は腐った人間だから」
眼鏡の奥の瞳が、細くなる。
「いつかは終わるとしても、なるべく、一瞬でもいいから長く捕まえていたかった。それも嘘じゃない」
そして。
「もう一つ。私、自分がそれを終わらせる原因にはなりたくなかった。私がきっかけになって、居心地のいい場所が崩れていくのは、ちょっと嫌だった。誰か他の人、他の要因のせいであってほしかった」
あとは分かるよね、と、投げて寄越すように言う。
返答の言葉に迷い、押し黙った。マグを手に取り、いつの間にか、もうそれがカラであることに気付く。
沈黙が落ちる。チクチクと掌に刺さるような、両手で持て余してしまいそうな、刺々しい数秒が続く。
やがて「まあでも」と、海老名さんが声音を変えて言った。
「あの時は、ヒキタニくんがあそこまでやってくれるとは思ってなかった。戸部くんに、『絶対無理だからやめとけ』とか言ってくれればなって程度に思ってたけど」
別に、最初から君にスケープゴートになってもらうつもりはなかったんだよ――呟く声は、さっきよりは淡々としていた。
「ああ、別にそれはいい。俺が勝手にやったことだからな」
「それにしても、文字通りの出血大サービスだったよね。あれはマジで助かった。だからね」
言って、海老名さんは、微笑みに似たものを顔に浮かべた。
「私、結衣や優美子には、友達としての義理がある。君には、あの時の借りがある。だから君らの問題については、特定の誰かの肩を持ったりしない……そういう事で、この話は手打ちにしない?」
中立宣言か。いかにもこの人らしい、この人好みの提案だ。でも俺も、それで異存はなかった。
「ああ。それでいい」
「良かった」
目元だけで少しばかりの好意を示してから、海老名さんは居住まいをただす。それから窓の外に視線を戻しながら、ぽつりと呟いた。
「にしても、今の結衣は、ちょっとすごいね。こういうのは、正直予想してなかった」
――いいよ。
まるで、気に入ったアーティストのアルバムについて語るような口ぶりだった。
「優美子やヒキタニくんには、今の結衣の姿って、不本意で痛々しいのかもしれないけど、私の感想は逆。すごいよ、いいよって言ってあげたい」
ちょっとねたましいなって、思っちゃうくらい。
そう口にする彼女の表情を直視したくなくて、俺もそっと、幕張の夜に目を戻す。
確かに、今の由比ヶ浜の姿は痛々しいかもしれない。俺も思うところがないわけじゃない。
けれどそれ以上に、別の衝撃を受けていた。海老名さんとの会話で、今さら気付かされた。
きっと由比ヶ浜結衣は、一歩、先に進んだのだ。俺がグズグズと、目玉と一緒に根性まで腐らせている間に。
俺が感じているのは、痛ましさだけじゃない。腹の底に居座っているのは、もっと卑しくてみっともない感情だ。子供の頃、風邪をひいて休んだ日、静かな昼間に一人ベッドで横になった時のあの気持ち――ああ、笑ってしまうような感情だ。
俺は、置いて行かれたような気になっている。
なにを勝手なことを。
変わらないと。上辺だけの成長や変化なんか認めないと言って、でも失いたくなくて、あの部室に本物を求めて――その挙句、欺瞞と打算と、優柔不断に陥ったのは、どこの誰だ? その結果、どうなった?
答えはひどくシンプルだ。俺たちはバラバラになった。本物を求めた筈の俺は、自分たちで拠り所を壊して、離れ離れになってしまった。自業自得。それ以外の何物でもない。
――それでも。
バカバカしい事に、こんなザマになってなお、俺は、あの時間をただの欺瞞とは呼びたくなかった。無意味な馴れ合いでしかなかったとは、死んでも認めたくない。何度思い返してみても、あの部室で過ごした時間は、記憶の中で、穏やかなパステル調の色彩とともに思い出される。破綻の痛みも、後悔の苦味も、あの眺めを灰色の過去に貶めることは出来なかった。
だから、誇るべきことの筈だ。心からの願いと挑戦の結果であるのならば、たとえ悲しく苦しい結末であったとしても、俺はこの結果を、今の由比ヶ浜を、誇りをもって受け入れていい筈だった。
こんなだから。
つくづく、比企谷八幡は、救えない。