「――あははっ! マジ? 優美子ってば、凄すぎだよ」
『笑うなしっ! あいつらが悪いんじゃん、影に隠れてネチネチやってばっかでさ』
思わず笑い声を立てると、スマートフォンの向こうで、うがーっと不機嫌なぼやきが加速する。
『だいたい、やり方がしょーワル過ぎ! 教室の隅で固まって、聞こえよがしに前のことブチブチ言うとか、マジでウザすぎ。ありえない』
「そりゃそうだけど。ふふっ、新しいクラスでも、もうボスっていうか、お母さんみたいな感じになってるね」
『ちょ、おかーさんとか言うなし! あーしはただ、陰湿でネチネチしたのが嫌いなだけだっつーの!』
電話口の声は、ぷくーって音が聞こえてきそうなくらい、ふくれっツラをしてるけれど、語尾の響きはどこか優しげで、あたしはすごく安心する。優美子と同じクラスになれた人たちは、幸せだ。この子がいるクラスなら、あんまりひどいイジメみたいなのとか、起きにくいだろうから。
そんなふうに思って、けれどすぐに、去年の秋頃の光景が、胸の奥からポコッと浮かんできた。教室で独り、自分の席で丸くなっていたあの人の背中が思い出されて、顔の筋肉から笑いが消えていくのを自覚する。
記憶って、厄介なお邪魔虫だ。ときどき不意打ち気味に、嫌な過去がクルっと戻ってきて、通り過ぎざまに頬をはたいていく。優美子の話に出てきたあの子は可哀そうだと思うけど、なにもイジメっ子だけが意地悪をするわけじゃない。
『……結衣?』
「あ、ごめんごめん。新学期の初日で疲れたのかな? ちょっとぼーっとしちゃった」
『……ねえ結衣、あーし、あんたの事情にあんまり首を突っ込むのも悪いとは思ってるけどさ……あんまり酷いようなら、さ』
「大丈夫だよ。優美子が思ってるみたいな事じゃないから」
そうだ。これは、それ以前の話。
もしもこの話で悪い人間がいるとしたら、それはきっと、あたしだ。
『……ま、結衣がそう言うんなら、今はそういうことにしとくよ』
「うん、ありがとね」
そう言った直後、スマホがメールの着信を告げる音を鳴らした。
なんだろ、と思う。友達からの連絡なら、大抵LINEだし。もしかして迷惑メール?
『じゃ、そろそろあーし、風呂入ってくっから。おやす』
「お休み、また学校でね」
通話を終え、ふぅっと息を吐く。相変わらず、優美子とのお喋りは楽しいけれど、こないだ会ってから、ちょっとだけ、間に緊張感が籠るようになった。仕方ない事ではあるけれど、やっぱりちょっとだけ、キツいかなって思っちゃう時もあるし、寂しいし――ああ、弱気になるな、あたし。自分で始めたことなんだから。
「……さてと、えーっと――姫菜?」
メールを確認すると、差出人は、もう一人の友人だった。もちろん友達は他にもいるけれど、あたしにとって本当に親しい間柄というのは、そう何人もいない。
けれど珍しい。普段のやり取りなら、それこそLINEで済ませているのに。長い話なのかな?
メールを開いてみる。《はろはろー》と可愛いデコ文字付きの挨拶が目に入り、クスっと笑いが漏れた。指先でスクロールさせると、この数日の出来事についての話が流れていく。昨日、中野のなんとかっていうマンガのお店に行ったけど良い物がなかった。今朝のお弁当の卵焼きは自分でも会心の出来だった。今日から新しい塾に行き始めた――。
《そうそう、そこでね、なんとヒキタニくんと一緒だったんだよー!》。
その一文が目に入り、指が止まった。
《偶然、同じ塾だったんだよ。もー奇遇すぎて、ハヤハチ妄想が止まらなくて、授業中はy馬ましでしたよぐへへh》
いつもの調子の文章が続いて、ちょっと気が抜ける。というか、そこで彼についての言及は終わっていた。――うん、五行ぐらいに渡って隼人くんやとべっちとの、その、アレな想像を書き殴ってるのは、無視しちゃっていいよね……。
スマホを机の上において、ちょっと目を閉じる。色んな思いが頭の中をぐるぐる回る。
姫菜がわざわざメールでこの事を知らせてきたのに、ちょっとだけ、モヤッとしてしまう。あ、でもホッとしてもいるのかも。リアルタイムでこの話をやり取りしてたら、きっと言葉に詰まってただろうから。ああ、LINEを使わなかったのは、だからなのかな。
気遣いなのか何なのか、よく分からない友人の振る舞いに、小さいため息が漏れる。頭が良くて、お洒落で、なんかヘンな趣味を持ってて――それがあたしの知る海老名姫菜だけど、それだけじゃないのも、まあなんとなく――女子なら当然のように――分かっている。いや、最近になって分かり始めたというべきかな。
きっかけは修学旅行――あたしにとってひどく痛くて苦しくて、でもだからこそ、ある意味でとても大切な思い出。
あたしたちの転機になった出来事だけど、あれ以来、あたしは姫菜の事も注意して見るようになったと思う。あの後の姫菜の様子に、ちょっと違和感を覚えるようになったから。
時々、ほんとにたまに、とべっちとの間の空気が、凍ったみたいに固くなったり。あたしやヒッキーを見る目に、なにか不思議な靄みたいなのが見え隠れするようになったり。悪い感情を向けられているわけじゃないけど――なんだろう、あの目は。なにか落ち着かない気持ちになる。
目を開いて、もう一度、スマホを手に取る。
ヒッキーと会ったんなら、あたしの話もしたのかな。どんな言葉が飛び出したのか――想像するのが怖い。あの人があたしを、どんな風に評したのか。朝のやり取りを思い出して、動悸が速くなる。ああ、本当に、普段は想像力が足りないのに、余計なことを考える時だけ、あたしの頭は勝手に走り出す。自分の想像に、先回りされて傷つけられそうになって、反射的に胸元を押さえた。
バカみたい。自分勝手にもほどがある。全部、全部あたしのせいなのに。
大切なものを台無しにしてしまって、それでもまだ、日々は続いていく。あたしは明日も学校に行かなきゃいけない。いずれは受験だってしなきゃいけない。この日々の向こうに希望があるのかは分からない。もしかしたら無いのかも。
もしかしたら、なんて。
そんな言葉を期待するのも、もう難しいのかな。
もしも、もしも一つだけ、願いが叶うなら。
せめて、もう一度。
それはきっと、あまりに頼りなくて、儚くて――希望というよりも、ただの夢でしかないけれど。
ただの夢でも、日々を生きていく助けになるのなら、あたしはそのために頑張れる。
だから、もっとちゃんとしないと。
もっと、踏ん張らないと。
目を閉じる。今度は意識を集中させる。
真っ暗な視界に、優美子とも姫菜とも違う、もう一人の友達の姿を思い起こす。
約束は、まだ生きている。はず。
――よし。
それじゃ、まず返信だ。なんて言って、姫菜に訊いてみよう。
すんっと勝手に鳴りだした鼻を擦りながら、あたしはメールの文面を考え始めた。