教室に入るには、少し勇気が要った。
今の由比ヶ浜と顔を合わせるのは、やはり俺には、ちと辛い。向こうだって、あるいはもう、俺とは顔を合わせたくはないかもしれない。俺はつまり、それだけの事をしたのだから。
が、いつまでも廊下に突っ立っているわけにもいかない。
意を決して、中に入る。
ガヤガヤとしたぼやきや、早口のお喋り、甲高い笑い声。昨日に比べれば落ち着いているが、まだ浮ついた空気が抜けていない。新しい顔ぶれになったばかりだし、完全に馴染むのはすこし先になるだろう。
海老名さんの姿はまだない。そしてもう一人、あいつの姿も。
まあ、なくてよかったというべきか。いまは由比ヶ浜だ。
彼女の席は、教室の窓際だった。
もう登校していたようで、机の天板に腰を下ろして、近くの友達とおしゃべりに興じている。当然ながら今日も黒髪のセミロングだ。知らない女子を見ているようで、胸が勝手にざわついた。
ふと目線が合う。形のいい唇に、微かな笑みが浮かんだ。
「ヒッ――じゃなかった、比企谷くん、おはよう」
「ん……おはようさん」
静かな挨拶。
笑顔はある。穏やかな声も。
が、かつての弾けるような明るさに満ちた挨拶とは、ちょっと、でも決定的に違う。あんな風に呼ばれることは、もうないのだろう。無視をされなかっただけでも、上々だ。
「今日から小町ちゃんも入学するんだよね。良かったね、兄弟で仲良く一緒に登校とか、ちょっと羨ましいかも」
「いや、そんなことしねーよ……あいつ、学校では俺と他人で通してるから。廊下ですれ違っても、俺をスルーして隣の奴にだけ挨拶するような感じで」
「他人どころか透明人間じゃん!?」
ていうか、普通に無視です。まあ無視も、ある意味、強いメッセージ性を伴ったコミュニケーションと言えなくもない。まったく、妹のサイレントコミュニケーションには困ってしまう。可愛いんだから。その気持ちをおもんばかって、ちゃんと話しかけたりしないし、五メートル以内にも近寄らないようにしている俺は、兄の鑑であろう。
「相変わらずだなぁ……ヒッ――比企谷くんらしいっても、言えるかもしれないけど」
「あいつ、表向きはパリピだからな。距離を取るのも兄の優しさだ」
呆れたような笑みを向けられる。どこまでも明るい、他愛のない雑談。俺は由比ヶ浜の目を直視しないように気を付けながら、話を続ける。
「でもさ、きっと小町ちゃんも、ホントは堂々と比企谷くんと、一緒にいたいって思ってるんじゃない?」
「いや、高校生にもなって、学校で兄貴と一緒にいたい女子なんていねーだろ……」
「あはは、それもそっか。ともかく、今日から本格的に最後の一年、お互い頑張っていこっ」
「ああ」
それで会話を区切り、俺は自分の席に向かいかけた。
「――あ、そういえば、姫菜と同じ塾なんだって?」
背中から追いかけてきた声に、振り返る。由比ヶ浜は目を細めていて、その視線は心持ち、下を向いていた。
「ん……ああ、その……偶然だけどな。俺も昨日は驚いた」
「そっか。あたしも勉強、頑張んなきゃだし、今からでも塾通おうかな、なんて」
少し気まずそうに、微苦笑を浮かべる。
数秒の空白。
「いやその、あはは、そんな深い意味はないんだけどさっ」
「……おう」
なるべく声のトーンを変えないよう意識しながら、俺は答えた。
「まあそうだな、俺んとこは授業は充実してる。けど、ちょっとハードだぞ。英語の女の先生は、毎回冒頭に宿題のチェックして、やってこなかった奴を前の席に座らせて晒し物にするし、国語の講師は、こっちが集中切らすと、途端にずびしっと当ててくる」
「うわっ……いい先生だけど、厳しい先生だ……」
「まあ、それなりに覚悟が必要だと思うぞ」
ちょっと失礼な言い方かもしれない。だけど由比ヶ浜は、今までが今までだったからな……。俺より一歩先に進んだとしても、急に勉強ができるようになる訳ではない。あの教室のプレッシャーに耐えられるかどうか。こればっかりは本人の覚悟次第だが……。
「分かった。考えてみる」
「おう」
そこで今度こそ会話は終わり。由比ヶ浜は何度かこちらを振り返りながら、友達とのお喋りに戻っていった。
俺も自分の席につき、息を吐く。
胃袋の方に、重しを呑んだようなわだかまりがある。変わってしまったもの、俺が変えてしまったものの重みだ。
けれど大丈夫。砂袋というほどじゃない。鉛のかけらいっこ分といったところか。思ったよりも軽い。
由比ヶ浜が、明るく話しかけてくれたから。
冷たい微笑で通り過ぎる、無表情で離れていく――そんな反応も、あるかもしれないと覚悟していた。
由比ヶ浜が優しい奴で、良かった。
――優しい女の子は嫌いだ――ああ、確かにそうだったんだけど。
カタチばかりの優しさに、ちょっとだけ救われるような、そんな日もある。
HRもそこそこに、入学式だ。
アナウンスに従って、クラスごとに順番に体育館に移動する。
しかし大人数での移動となると、そうそう統制が取れる筈もなく、廊下に出ると、たちまちにぎやかな喧騒が巻き起こる。二年だろうが三年だろうが、これは全然変わらないな。廊下のあちこちでワイワイ、ガヤガヤ、ノタノタ――。お前ら、もうちょっと早く歩こうとか思わないのかよ。
うんざりした気分で行進の列に加わっていると、不意に、ぽんと肩を叩かれた。
振り返ると、そこには――天使さまがご降臨なさっているではありませんか。
「八幡、久しぶり」
にこっと輝くような笑顔を浮かべていたのは、そうもちろん、大天使さまことトツカエルこと、戸塚彩加だ。
春休みの間も練習が忙しくて、床屋に行く暇がなかったのだろうか。色素の薄いサラサラの髪は、最後に見た時より若干伸びて、眉のラインに触る程になっている。南国の空の光を閉じ込めたような澄んだ瞳。ルネサンスの彫刻家が精魂込めて、最上級の大理石に刻んだような、柔らかな頬――。
はぁぁ……これだよ、これこれ。
「おはよう戸塚。久しぶりだけど、今日もやっぱり可愛いな」
「あはは、もう、またそんな冗談ばっかり」
まるで精緻なクリスタルの像が、命を宿して動くようだ。白い顔に浮かんだ、軽やかで甘い微笑み――はぉおおっ。
男の微笑にうっとりするとか、我ながらどうかと思うが、まあ仕方ない。性別を超越した魅力というのは、確かにあるんですよ。今ここに。レオナルド・ダヴィンチが悪弟子のサライに入れ込んでいたという気持ちが、ちょっと分かっちゃう。
「今年もF組だったんだね。僕は隣のE組」
「そっか。惜しいな、一クラス違いか」
くそ、神め。俺と天使の仲をギリギリで引き裂くなんて、血も涙もない奴だ。
内心で毒づいていると、ありがたいことに戸塚も、僕も残念だよと言ってくれる。そうして、少し感傷的な笑顔をみせた。
「いよいよ三年だね。高校生活もこれが最後って思うと、惜しいような寂しいような……複雑な気分だよ」
「ん、まあな。俺も、いよいよ終わりかって思うと、なんかガラにもなく焦ったような気がしてくる」
「ふふ、珍しいね。八幡だったら、もっとデンって構えてるかなって思ったけど」
戸塚が目を細めて言う。
俺自身、きっと紗に構えて、慌てる人間を鼻で笑いながら過ごすんだろうと思っていた。去年の今頃とかは。
今のこうした変化が、良いものなのか悪いものなのかは、よく分からない。まあ、誰かを鼻で笑うような振る舞いをせずに済んだのは、良かったと思う。
戸塚が隣に並ぶ。歩調を合わせて、ゆったり進む人波に付いていく。
「焦りみたいな気持ち、僕もあるよ」
顔を前に向けたまま、戸塚が言った。
「部活もぼちぼち、最後が見えてきたからね。練習の合間に、あと何回コートに立てるんだろう、とかふっと思っちゃう」
「そっか。俺はそういうスポーツな青春送ってきたわけじゃないけど、結構しんどそうだな」
好きなもの、夢中になれるものがあるからこそ、明確にその終わりが近づいてくるというのは、気が重くなる事だろう。
大学でまたテニスを始めればいい、という話じゃない。総武高校でのテニスは、今が最後の時間を迎えようとしているのだ。
廊下の角を曲がりながら、ぼんやりと考える。戸塚には、あと何時間の練習が許されているだろう。その時間でレベルアップができるとしても、どの程度まで行けるだろうか。欠点を何もかも克服するのは無理だし、技術をある程度高められたとしても、今から劇的に強くなるのは難しい。現実は少年漫画じゃないから、必然、目標のリミットも見えてくる。
いや無論、戸塚や運動部員たちのやってる事を見下すつもりなんて毛頭ない。少しでも前へ、一歩でも前へ――その向上心は、多分、俺に最も欠けていて、最も必要な資質だ。
ただどうしても、先が見えてしまっている物事を追い続けるという気力が、俺には薄い。ボッチを続けていると、諦める事ばかりが上手くなってしまう。戸塚と一緒に運動に青春を捧げていれば、あるいは、少しは違った性根になれていたのだろうか。
「……お前が誘ってくれた時に、やっぱりテニス部に入っていれば良かったかな」
階段を下りながら、冗談めかして呟くと、戸塚が目を丸くした。
「急に何を言うの? まあ、僕も八幡と部活出来たら楽しいだろうなって思ったけど」
さすがに今からじゃ、たいして時間はないよ、と苦笑交じりに言う。全くの正論なので、俺は何も言えない。
「それにさ、僕、今は今で良かったと思ってるんだ」
「ははっ、そうか」
「うん。八幡が入ってくれたら楽しくなったと思うけど、僕、きっと八幡にべったり頼っちゃって、部の事とか、自分であんまり考えなかったんじゃないかな」
『――も、何かを変えようと足掻いて――――安易に手を貸すことが――』
「……そんな事はないと思うぞ。戸塚はしっかり者だろ」あと可愛い。
「ふふ、ありがとう。でも八幡が奉仕部にいてくれたから、色んな人と知り合う機会があったんだなとも思うんだ。おかげで楽しかったし、刺激になったよ」
だからこれで良かったんだよ――笑う戸塚の顔は、どこまでも晴れ晴れとしている。
俺は頭を掻きながら、少しだけ目を逸らした。戸塚は制服の着付けも美しい。Yシャツの襟の形の美しさ、しっかりと結ばれたネクタイの清潔さ――ほんの一秒くらいの間、それらに目を遊ばせてから、俺はとびきりの、気持ちの悪い笑顔で向き直る。
「ありがとう戸塚、そんなところも大好きだぞっ」
「あははっ、……あれ?」
朗らかな微笑で何かを言いかけていた戸塚が、何かに驚いたように、明後日の方に視線を飛ばした。俺もそれを、目で追いかける。
俺たちはようやく体育館の入り口をくぐっていた。中はパイプ椅子がきっちりと直線状に並べられ、その6割ほどは、もう生徒で埋まっている。前方に広々とした空席があり、そこが新入生たちの座るスペースだ。小町ちゃん、お兄ちゃんを見つけられるかしら……ドキドキ☆。まあ見つけても絶対無視するだろうけど。
戸塚の視線の先は、ステージの辺りだった。壇上にはスピーチ用に演壇が用意され、マイクの準備でもしているのか、生徒会メンバーが何人か動き回っている。亜麻色の髪――ああ、一色もいるな。なにやらわたわたと動いている。ちょっと雰囲気が固いような気もするが、やはり新入生を迎え入れる立場ともなると、色々と緊張するだろう。
しかし、特段おかしなものは見当たらない。
戸塚に目を戻すと、ちょっと戸惑った顔をしていたが、やがて気を取り直したように言った。
「ん……いや、ごめん、見間違えたみたい」
なになに? お化けでも見たのかしらん。『おぃ、トモダチになろうぅよぉ~』とか言って襲ってくる天邪鬼とか。なんだか親近感がわく妖怪ですねぇ。
はにかみながらも、戸塚は「じゃ、またね」と可愛いく手を振って自分のクラスに向かう。俺も名残を惜しみつつ、自分のクラスの場所に向かい、椅子に腰を下ろした。
体育館には、倦怠と微熱が入り混じった空気が満ちている。後ろから「かったりぃ」だの、「駅前のクレープ屋の、新商品! ヤバウマだって!」だのいう雑談が聞こえてきて、かと思えば、斜め前の席では運動部らしきガタイのいい男子達が、なにやら声を潜めて囁きかわしている。「――平浜中からの新入生に韋駄天てあだ名の奴がいるらしいぞ」「お、有望かよ」――勧誘の相談のようだ。自分たちの引退を控えた時節だろうに、新入部員の獲得を真剣に考えているっぽい。
何かが終わり、何かが始まっていく。
それはきっと、今日この場に限った事ではないのだろうけど。
俺は、何かを新しく始められているのだろうか?
それ以前に、終わらせるべきものを、ちゃんと終わらせているのだろうか?
――前までだったら、こういった思考自体を、俺は忌避していた。
変わる、成長する、終わらせる、始める――耳に心地良い、けれど結局は、今の己の否定にしかならない言葉の一群を、俺はそれこそ蛇蝎の如く忌み嫌っていた。そんなのはリア充どもの――あるいは現実から目をそむける輩の、成功者の、敗北者の――縋り付く、念仏みたいなものだと。
けれど今となっては、それも滑稽な言い訳か――いや、滑稽なだけならまだいい。
『責任がある』なんて、キザったらしい事をのたまいながら、俺は結局、誰に対しても責任を取らなかった。そんな自分を、また明日から、何事もなかったような顔をして続けていく?
想像すると、それはひどくおぞましい。俺の皮をかぶった醜悪な怪物が、俺のようなふりをして、俺の声で不実な言葉をわめき散らす――まるで昔話の天邪鬼のように。
それは、嫌だった。どうしようもなく。
けれど、ではどこに向かって足を踏み出せばいいのだろう?
俺は――。
プツッと、豆が弾けるような音が体育館に響いた。講堂の空気に、ノイズ交じりのザラザラした対流が生まれる。マイクのスイッチが入れられたようだ。
ああ、もう時間か――そんなふうに、のんきに思った。
「――皆さん、ご静粛に」
ざわざわと、草むらの葉擦れのように止まなかった私語が、ふぅっと消えていく。雲間から、さやかに顔をのぞかせた月に、地上の風が吸い上げられていくように。
うなじが、ぞわっと粟立つ。
アナウンスはよく透る冷たい声音で、耳に心地よい響きだった。俺はその声を、知っていた。
尻の下のパイプ椅子が、ぎしっと錆びた軋みを上げる。
「ただいまより、本年度の総武高校、入学式を開催いたします」
演壇――いや下だ、体育館前方の、角のコーナーに設けられたマイクスタンド。
「――え?」
誰かが、間抜けな声を上げる。
俺の前に座っていた男子生徒が、怪訝な表情で振り返る。それで、自分の喉からそれが出たのだと、遅れて気付いた。
だが、ばつの悪さを感じるのも一瞬のこと。俺の意識は前方に吸い寄せられていた。
マイクスタンドの前に立つ、凛とした姿。
早咲きの水仙に似た、ぴんと伸びた背筋に、俺は見覚えが――ありすぎた。
だけど。違う。視覚から入る情報が、致命的に記憶と噛み合わない。
あれは――。
「まずは、新入生の入場となります。厳しい試験を潜り抜けて、本日より一二六名の新たな仲間が、この学び舎に加わる事になりまし「――きのし―ぁ」」
かすれた呟きがマイク越しの美声に混じる。幸い、小さな声だったから、今度は誰も気付かない。よかった。――霞がかった思考の片隅で、そう思う。
マイクを通して、全校生徒にむかって話しかけるその女子生徒は、確かに俺の知っている、あの少女に違いなかった。水仙の立ち姿、雪解けの冷たい清流を思わせる眼差し、朝の雪原を抜けていく風のような声。
ただ。
「どうか皆さん、暖かな拍手と笑顔でお迎えください……それでは、新入生の入場となります」
言って、彼女は一礼する。いったんマイクの前を離れるのだろう。
下げられる頭。短い髪が、耳のそばで微かに揺れる。
――ああ、やっぱ姉妹だな。
場違いに、そんなことを思う。
髪を短く切った雪ノ下雪乃は、彼女の姉によく似ていた。