ビニールの包装をむしり取り、端のほうから一口かじる。
焼きそばパンは、いつにも増して味気ない。ソースが薄いモソッとした焼きそばと、柔らかいだけが取り柄のクチャッとしたパン。紙粘土でも食っているみたいだ。口の中で、二、三回咀嚼してから、コーヒー牛乳で強引に流し込む。それから、大きく息を吐いた。
昼に入る頃には、天気は上り坂に入っていた。見上げる空は、青々と冴えている。朝の仄暗さはどこかに行ってしまったように、今は雲も薄く、誰かがうっかりミルクをこぼしてしまったような、細い筋雲が数本、南から北に向かって伸びているだけだ。
今週いっぱいは花曇りだそうなので、これも一時的なものだろう。だが晴れは晴れだ。
春の晴天の下、特別棟のテニスコート脇の定位置――ベストプレイスで食べるパンは、それなりに美味い。美味かったはずだ。それが今、こうも味気ないのは、俺の心理状態が原因だろう。疑いの余地なく。
入学式はつつがなく終わり、そして気付けば、午前の授業も終わって、昼休みに入っていた。その間の記憶はほとんどない。あの体育館に、魂を置いてきてしまったように。
教室に戻った時、由比ヶ浜はどんな顔をしていたのだろう。確かめるのが怖くて、彼女の方を向けなかった。
自分にあきれるしかない。妹の入学式の日に、何をやっているのだ。
それとも入学式という行事が、よくよく俺に厄縁があるのか。
あの二年前の日も、ろくでもない入学式だった。
たかだか十七年しか生きてはいないが、人生において怪我といえる怪我を初めて経験したのはあの時だ。体が自由にならない状態というのを、知った。それまで当たり前に出来ていた事が出来なくなる。与えられているという自覚もなく、無意識に使っていた能力が、失われる。
肉体と精神には優劣などないと、あの時に身をもって知った気がする。
ただ歩くというだけの事が困難になると、俺は足元に、常に不安や心細さを覚えるようになった。背後からの気配をオドオドと気にして、トイレや売店に行くのにも腰が重くなった。病院の廊下で、誰かから危害を加えられる心配をしていたわけじゃない。単に急いでる人をかわせないとか、邪魔になるかもとか、その程度の些細なストレスだ。些細ではあるが、不愉快な。それが毎日。それを避けようと、病室に籠ってなるべく出歩かないようにすると、それはそれで気が塞いでくる。四方数平方メートルの空間に意識が閉じ込められると、今度は精神が窒息を起こすのだ。
ストレスのおかげで、1週間くらい後、見舞いに来た小町から『目つきがゾンビからギガゾンビにランクアップした気がする』と評された。後で病室の鏡をのぞいてみると、本当に陰険な爺さんにも似た目つきになっていて、自分で驚いたのを覚えている。
肉体と精神には、優劣などない。
今は、体に故障を抱えているわけじゃない。ただ、今までどうやって学校生活をやり過ごしていたのか、思い出せなくなっている。廊下の曲がり角を曲がった時、ふと見知った顔を認めてしまったら。――その想像は、ヒビの入った足が、時折思い出したように脳に痛みを送り込んでくるのにも似て、俺をきりきり舞いさせてくる。校内そこいら中が腫れ物だらけで、うっかり知っている目と視線が合うだけで、激痛に飛び上がりそうだ。
無論、全ては自業自得なのだけれど。
楽しくもない物思いにふけってるうちに、気が付くと手の中からパンが消えていた。同じくカラになっていた紙パックを握りつぶして、ゴミ袋に纏める。
食い終わってしまった。どうしようか。
教室に戻れば、由比ヶ浜と顔を合わせるかもしれない。――思ってから、同じクラスなんだから当たり前だろうと自嘲する。さすがにもう、時間も経っているし、彼女の反応を気にしなくてもいいだろうが……。
対面するのが嫌なら、逃げ回るしかない。いつまでも、いつまでも。
不可能な希望。いつまでも逃げ回るつもりなら、いっそこの学校から姿を消すしかない。
不甲斐なさに、何度目かのため息が漏れる。
――そのとき、ポンっと、固い音が耳に飛び込んできた。
顔を上げると、テニスコートの端で、体操着姿の男子生徒が、ラケットを手に壁打ちをしていた。戸塚……ではない。体格がはっきりと違う。
周りを見回すと、他に生徒の姿はないのに気づいた。戸塚も、他のテニス部員も。
新年度になって間もなく、しかも俺たちは三年だ。みんな、色々と忙しいのかもしれない。テニス部もそうだろう。ならあそこの男子は、単に暇つぶしで打ってるだけか。
まじまじと見つめ、そして息をのんだ。
「葉山……」
長身に、程よく筋肉のついた、あのスマートな体格。どうして気付かなかったのだろう。
目を凝らすと、肉体の躍動に合わせて、頭部が陽の光で煌めくのが見えた。西洋の御伽噺に登場する騎士のような、黄金に輝く髪。
白皙の横顔は、しかし傷の痛みに耐えるように、固く食いしばられている。壁を睨みつけるその瞳は、暗く鋭い。
それにしても、まさか全く気付かないとは。
理由は分かっている。独りでコートの隅で壁打ちなんて、葉山隼人にこれほど似合わない行動もない。これっぽっちも予想していなかったから、目が姿を拾っていても、脳がその情報を正しく噛み砕かなかったのだ。
改めて周りを見回すが、やはり近くに誰かの荷物が置いてあるなんて事もない。戸部達の気配も、三浦らの姿も見当たらず、つまり本当に独りだ。
そんなことがあり得るのか?
あの、葉山隼人が?
戸惑うまま、彼の姿を見続ける。フォームは美しく、跳ねる四肢はしなやかで、やはりこんな時もあいつは葉山隼人で、しかしその動きに、少し荒々しさが滲んでいる気がして、俺はなぜだか、首の辺りに息苦しさが戻ってきているのを感じる。
ふと、葉山が顔を上げ、目が合った。
壁打ちが中断され、トン、トンと、ボールが打ち捨てられたように地面に転がる。
真空のような一瞬が、コートを横切る。
やがて葉山はばつの悪そうな苦笑を浮かべると、こちらに近付いてきた。
「よお、昼も一人なのかい」
「そーだよ。悪ぃかよ……」
「はは、いや、これはこれで、気楽で良さそうだと思っただけさ。気を悪くしないでくれ」
近寄ってきて、しかし無論、俺の隣に腰を下ろすようなこともなく、葉山は俺から、人ひとり分の間を空けた場所で、腕組みをして、足を止めた。
二人並んで、今までこいつがいた、無人のコートを眺める。
礼儀として、俺からも尋ね返した。
「そういうお前も、今日は一人、か?」
「ああ。皆いろいろある。新しいクラスに馴染む時間も必要だろうし」
そういうこいつ自身は、当然のように新しいクラスでも中心の座を得ている。なにせ他ならぬ俺の、斜め前の席が、こいつを中心としたリア充どもの社交場だ。新学期二日目にして、早くも俺は、白鳥の湖に迷い込んだカラスになった気分だった。
間近でこいつの姿を見ていると、こいつの処世術が上手いというよりも、むしろ場の方が、葉山隼人という人間の形に合わせて、それにぴったりの隙間を作ろうとしているのではないかと思えてくる。良い悪いは置いておいて、スター人種の宿命みたいなものだ。戸部たちは、この一年、葉山に付いていくのも大変かもしれない。
「――しかしまあ、珍しいな。テニスの壁打ちなんて」
「午前の体育、体操だけだったろ。ちょっともの足りなかったから、ついそのまま、ね」
確かに午前最後の授業は体育だった。新年度早々ということで、厚木による講義……というか説教と、軽い体操だけで終わりで、ブチブチ文句を言ってる連中も何人かいたが。
「運動したいんなら、それこそお得意のサッカーとか、他にも色々あるだろうに」
「腕を使った全身運動がしたい気分だった……と、そういう事にしておいてくれ」
苦笑いを浮かべて、葉山は弁解する。その先をあえて追及する気にはなれなかった。
俺という人間は、結局のところ、陰キャだ。鬱屈が溜まってきたらスポーツで解消する、という健全な思考には、頭が向かない。仮に向いても、やる気までは伴わない。
それでも、今はこいつの気持ちが分かってしまうような気がして、それが少し、面白くない。
風が頬を撫でた。海から陸に向かっていた流れが、反転し、逆しまへ変わり始める。この場所でだけ感じられる風の移ろい。今日という日の、折り返し地点を過ぎた合図。俺は何度も何度も、この場所でこれを感じてきた。感じて、ただ無邪気に、その感触を楽しむだけだった。
俺がそれを感じてきた分だけ、幾つもの『今日』が、後ろへと流れていったのだろう。
「比企谷、良かったら俺の相手をしてくれるか?」
だしぬけに。
たった今、ふと思いついた――そんな調子で、葉山が口にした。
あるいは、本当にそうだったのかもしれない。
「あー……いや、悪ぃけど、飯食った後はあんま動きたくねえんだ、俺」
「はは、そうか。悪いな、気にしないでくれ」
会話が途切れ、そのまま数秒が経過する。葉山は壁打ちを再開するでもなく、俺の傍で、誰もいないコートを見つめ続ける。古びたポールに、端の少し破れたネット。舗装の綻びだした地面。見えるものといえばそれくらいだ。こいつには何か、他に見えている物があるんだろうか。もしもあるとしたら、それは想像とか記憶とか呼ばれるものだ。この時間、この空間に属するものではあり得ない。
「……言いたい事があるんなら、はっきり言ってくれ」
自分の口から出たのに、知らない男の声みたいだった。
葉山が、はっと息をのむ。一拍遅れて視線が険しくなり、俺はそれに引き込まれるように、地面に着いていた手を、拳のかたちに握っていた。
「今、君に言うべき事はないよ。つまり、改まって話すべき事は、という事だけど」
「そんな風には見えなかったけどな」
「本当だ。……そもそも俺には、口を出す資格なんて無いんだ。とっくの昔に」
――またそれか。
そう、思ってしまう。
胸の奥から、灰を吹き払った熾火のように、熱く、赤々と燃えるものが目覚め始める。でも、俺にとってもこれは余計なものでしかない。ありったけの理性と言葉を、灰のように降らせて、鎮めにかかり――それでも、燻ぶる火の粉のような思考が、唇の隙間から漏れてしまう。
「お前さ、いつまでそれ、続けるつもりなの?」
葉山は少しだけ痛そうに、ピクリと眉をしかめた。
「……いつまでもなにもないよ。過去は、どこまでいっても過去だ。俺は、それを受け入れ続ける」
その言いざまが、ひどく癇に障る。
いつまでも癒える事のない古傷を、何度も何度も、自分の指でほじくり返し、新しい血を滲みださせる。そんな、苦痛を確認するためだけにあるような行い。
なぜ、と思う。
今さらどうしようもないというなら、なぜこの学校に来た。総武高校を遠慮して、都心の進学校に通う事だって出来ただろうに。
一生消えない、烙印のような後悔。
羨ましいとさえ思った。あの時は。
だが。
「俺に勝手に託すなって、言ったろ」
「ああ。それは済まない。けど俺も言ったはずだよ。君のするべき事は、そんな事じゃないって」
剣戟のように、視線が空中で切り結び、鍔迫り合いにもつれ込む。
数合の押し合い。
やがて先に目を逸らしたのは、やはり俺だった。
自分の愚かしさ、みっともなさに、ため息が出そうになる。俺には、こいつといがみ合う理由なんか、どこにも無いのだ。いまとなっては。
「……お前が満足できる結末とやらが、どこに落ちているのかは、俺の知った事じゃない。というか、本当に知らないしな」
本当に分からないのだ。あるいはもう。
カラの拳を、くっと握りしめる。爪が掌に食い込むくらい、痛く。
「比企谷、君は、」
言いかけ、言葉が途切れる。葉山の目から力が失われ、視線がそのまま下へ下へと落ちていく。諦めるように。目の前にいる俺を、見限るように。
別に、その事には何も感じなかった。
もともと俺は、誰かの信用を背負って立つような奴じゃない。信託の言葉はただ鬱陶しく、期待の視線は煩わしい。それどころか、相手が腹の底で何を企んでいるのかばかり気にするような性分だ。同意もなく、一方的に押し付けられた期待なんて、ただただ迷惑でしかない。
この男はきっと、そういった一方的な期待を全部飲み込み、背負い込んで、ここまで来たのだろうけど。
「すまんな」
弾かれたように、葉山が顔を上げた。突然殴り付けられたように頬が歪んで、見ている俺の方が痛みを覚えるような表情をしている。
「結局、俺も間違えたんだわ」
口にして、しかしその言葉は、すとんと胸に落ち着いた。そうだ。俺もついに、青春の間違いとやらを、犯してしまっていたのだ。気付くのが――否、認めるのが、遅すぎたけど。
言葉も動きもない。葉山は、特大のヘヴィブローを鳩尾に食らったように、ふらと突っ立って、あえぐように俺を見ている。
やがて、「いや」と苦しげな息が漏れた。
「比企谷、君は何一つ間違っていなかった。きっとね」
その言葉は、まるで慰めみたいで、けれどもちろん、そんなものを、葉山隼人が比企谷八幡に与える筈もなくて。
「ただ……正しい答えだけじゃ皆が幸せになるのは難しい、それだけの話なんだ」
しばらく、時が止まったようだった。
やがて言葉もなく、葉山が背を向ける。
遠ざかる足音を聞きながら、俺はもう一度、空を見上げた。
青い空には、もう雲の影も見えない。さっきまで漂っていた筋雲はどこかに吹き流されて、ただ柔らかな春の光だけが広がっている。
ため息すらも出てこない。どこまでも落ちていきそうな沈黙。
俺はしばらく、その虚無感をじっくりと味わっていた。