誰もが寝静まった深夜0時。
宵闇の中、唯一存在を主張する古ぼけた街灯を頼りに、黙々と帰路を進む。
駅から徒歩で20分。それは職場でのミスと予定している明日の作業を反芻しているとあっという間に経過する時間。
日頃の運動不足解消にもなると自らを騙し続け、少しだけふらつく脚をただただ運び続ける。
ほどなくして見えてくるのは吹けば飛びそうな2階建てのボロアパートである。
至る所に錆の見え隠れする古びた階段、その踏みしめる度に硬質な音を立てるステップを24段。コンクリートむき出しで掃除の行き届いていないフロアを、淋しげに佇む墓場の群れを見渡しながら12歩。そうして辿り着くのは表札もなく、汚れの目立つボロ扉。
その扉にあらかじめ用意していた鍵をさし、そして回す。
まるで帰宅を阻んでいるかのような若干の抵抗を力で無理矢理ねじ伏せ、ねばりつく夜の気配を鉄製の扉でシャットアウトして……ようやくため息が漏れ出た。
2K。20平米、築50年。家賃6万8千円の自分の根城に到着である。
玄関から数歩進めば辿り着くこじんまりとした居間は既に明かりが灯されており、そこには奇妙な同居人がTVを見ながらソファで寝そべっていた。
「んー、おふぁえり」
彼女は非常に気の入っていない声で片手を挙げて帰宅した自分を迎えてくれる。
数ヶ月前からこの家でなし崩し的に同棲し始めた彼女は、言っても信じないだろうが――異世界の魔王様である。
特徴的な、片方だけ半ばから折れた牛角に、蛍光灯の光ですら艶やかに反射する黒くさらりとした長い髪。
切れ長の目は白目の代わりに黒一色で、瞳に当たる部分が金色。目鼻の高さと奇跡的な顔のバランスはそれだけで異国、いや異界から来たと言う証左になり得る。
勿論顔だけではない。すらりと長い脚。シミひとつない白い肌。出る所が出て、引っ込むところが引っ込むというモデルすらも羨む体型をした彼女は、こんな平素な空間にはまず以って似つかわしくない絶世の美女であった。
彼女が唯一この安アパートに似つかわしいのは、身につけたジーンズとラフなTシャツ(今日はデフォルメされたドラゴンの顔が大きくプリントされている)と、尚且つその口に咥えている塩せんべいぐらいだろう。
組んでいた長い両足を解いてするりと立ち上がった彼女は、仕事着のままの自分を素通りして冷蔵庫へ向かう。
途端に聞こえてくるがさがさと纏わりつくビニール袋と、ぱちぱちと反発する梱包プラスチック、その二種類の音。
恐らくはスーパーの惣菜を、魔王様は勝手知ったる手付きで電子レンジに放り込んでゆく。
最初は手間取っていた筈のレンジの操作も、その軽快な電子音を聞けば慣れ切っているのだというのがよく分かった。
「……んん? 何突っ立ってんだ。早く着替えてきな」
ぼーっと見ていた所を咎められ、すぐに隣の部屋で汗をじっくりと吸ったスーツから着替え始める。
玄関を空けて彼女の姿を見るたびにどうにも未だに夢なのではないかと思ってしまう。
御伽話のように馬鹿げた、一笑に付されるのが関の山の愚かな妄想。
異世界で勇者に追放された女魔王が自分の家で生活しているなど、そんなの昨今のアニメもラノベも題材にしないだろうに。
「ほら、ビール」
しかし現実問題、魔王様はそこに居る。
着替え終わった自分に待っていたのは、冷えたビールだった。
彼女は投げ渡してきたのとは別に持っていたビール、そのプルタブを手際よく空け。そしてこちらに突き出してきた。
「よし乾杯。料理はもう少し待ってろよな」
かうん、とアルコール缶同士が間抜けな音を立てた後、彼女と示し合わせたかのように一息に煽る。
口の中を満たす苦味、喉を通る時のシュワシュワとした炭酸の感覚が先程の杞憂を洗い流してくれる。
あぁ。こんな苦味しかない筈の液体なのに、最初の一杯だけはどうしてこんなに美味しいのだろうか。
「かっはぁぁ……! あ゛ー……"びーる"ってのはやっぱり良いもんだな、この世界は色々と好きな物が多いが、特にコイツだけは一番好きだ」
背を大げさに仰け反らせて喉越しを楽しむ魔王様、自分よりも遥かに速いスピードで飲み干した彼女は口周りの泡を舌なめずりして拭い取り、我慢出来ないと冷蔵庫からもう一つ取り出し始める。
そしてそんな彼女を尻目に、自分は季節外れのコタツ机の近くに座り込んだ。
彼女は魔王と言うくらいだから異世界ではやんごとない身分の持ち主であった。
故に親や執事にみっちりと礼儀作法を厳しく躾けられていたようだが、この世界に飛ばされてから彼女は一月と経たずして、世俗に慣れ親しんでしまった。
それはこの世界に従える配下も迫る脅威もないというのと、生来の性格が少しがさつである事も理由なのかもしれない。
飾り気のない電子音が居間まで届いたと思えば、ビールを煽りながら取皿やレンチンした惣菜を次々と持ってくる魔王様、あれよあれよと用意されて手伝う暇もなく、何だか申し訳なく感じてしまって
「んじゃ食べるか。今日は肉じゃがと特売コロッケ。で、明太じゃがポテトに刺し身だ」
食卓は気付けば瞬く間に埋め尽くされていた。
陶器製の取皿。余っているコンビニの箸。ビール。七味唐辛子、醤油、ケチャップに、なぜか芋づくしの惣菜達。
若干の偏りこそあるが、レンジで温められた食品から漂う芳しい匂いに、昼から何も食べていなかった腹がぐるると唸りだす。
そして彼女が座り込んだのを見計らい、二人で箸を取り出して手を合わせあった。
いただきます。
「んむんむ」
流れっぱなしのTVから溢れる軽快なBGMと笑い声をバックに、盛り上がりのない夕飯が続く。
こたつ机、自分の座る位置から左斜め前に陣取った彼女は、ソファに背を持たれさせながら肉じゃがをつついている。
では自分は、とコロッケをつまんで自皿によそうと「ん」と彼女がケチャップをよこしてくれるので、頭を下げて受け取る。
魔王にケチャップを取らせるなんて、本当に恐れ多い事をしている自覚がある。
そう思いながら半ば程使ったケチャップを折り曲げて中身を出していると、なぜか彼女の半目がこちらを射止めていた。
「お前さ、まだ他人行儀が抜けないんだな」
金色の瞳に見つめられて言葉を詰まらせ、どうしたものかと考え込めば分かりやすく魔王様は溜息をついた。
視線とは別に彼女の箸が明太ポテトに狙いを定めているのが見える。
「前も言っただろ、ここはオレの城じゃなくてお前の城だ。そしてオレはお前の城に厄介になってる食客……いや、違うな居候だ。オレの身分なんて気にすんなって」
城にしてはこじんまりとしすぎた所である。
それにしても気にするな、と言われて気にしない人はあまり居ない。
小市民である自分には無意識に覇者オーラを振りまく魔王様に気軽に、なんてのは難しい。
「その魔王に料理まで用意させてんのに今更だな」
それはどうしてもそちらがやらせてくれと言うからである。大体が、こんなに遅くまで自分の事を待つ必要はないのだ。魔王様こそ自分の家だと思ってくつろいでいて欲しい。
何度となく繰り返した弁明を、彼女は興味がなさそうに木箸で半分にした明太ポテトを取りながら聞き流し、その瑞々しい桜色の唇を持つ口に放り込んでいく。
「オレは感謝してんだ。魔素がない世界でさ、行く宛がない中、怪我してぶっ倒れそうになったオレを介抱してくれたお前を。世界をたやすく崩壊出来る存在だとも知らずに介抱してさ、真実を知った後も居続けて良いって言うその度量にもな」
真剣な眼差しでこちらに告げてくれるその内容も、また何度となく聞いた内容である。
他ならぬ魔王様のような美女がこんな真摯な発言をしてくるのだ、その気がなくてもドキリとしてしまうのだが、幸いにも彼女が膨らんだ頬をもごもごさせながら喋っているので、何とかなっている。
勿論彼女の言い分は分からなくはない。だがそれで他人行儀が抜けるかと言えば、それはまた別の話である。
「頑固な奴」
魔王様は観念したかのように大げさに肩を落とすと、こちらのビール缶をひょいと掲げて重さを確認。そして粗暴な事にまだ残っていたそれをぐびり、と一息で飲み干して再度キッチンへと向かっていった。
裸足で歩いた時特有のぺたぺたという音に釣られて視線を向ければ、彼女の爬虫類めいた巨大な尻尾が重力に負けじと持ち上げられ、ゆらりゆらりと揺れているのが見えた。
彼女の尻尾は犬や猫のように機微に感情を表現はしない。いつも揺れているか、彼女の角と同じように魔法で隠されているかのどちらかである。
「大体な、オレがこうして遅くまで待ってんのはお前を労うためだ。宿代っつーか、恩義っつーか。それに」
またも冷蔵庫から取り出してきた追加のビール二本。それを手に持つ彼女は一本を自分に手渡してから先程と同じ位置にあぐらをかいて座り込み、もう一度プルタブを開けた。
「飯ってのは一人よりも二人の方が美味いだろ」
一足先に美しい喉を晒してビールを味わう彼女を見て。
確かに。と一言だけ告げて、自分もつられてビールを飲んでゆくのだった。
§ § §
遅めの夕飯を終わらせた時点で、時刻は午前1時を回っていた。
今日はまだ平日である。本来なら朝に備えてそのまま寝るのが正しいのだろうが、流石に娯楽抜きでは味気ない。
故に『午前二時までは娯楽に時間を費やしてよい』と勝手にルールを定めており。魔王様もそんな自分勝手なルールに付き合ってくれている。
「おー」
本日の娯楽もドラマである。
見ているのは死者が生者を襲うという題材の内容。
ロングセラーでシリーズだけは無駄に多いそれは、死者から如何に逃げ延びるか、というよりかは生者同士のいさかいがメインになっているのだが、その辺りも含めて面白く。ここ最近は毎日視聴し続けている。
ただの人間である自分には面白い題材なのだが、はたして魔物なんて見飽きているだろう魔王様は面白いのだろうか、と一度聞いてみたが、幸いにも面白いらしい。
曰く「こんな雑魚っちぃモンスターにわーきゃー言って騒ぐのが馬鹿っぽくていい」とか。どうやら異世界人はゾンビを脅威とも思っていないようだ。
とは言え連日の試聴会も少しだけ落ち着かない部分がある。
二人で見るのは良いのだがいつもいつも、いささか彼女と距離が近いのだ。
小さなソファに詰めて座っているせいでどうにも肌が触れ合ってしまう。
だが彼女はそんな事を全く意に介していないし、ビール片手に映像に夢中になってるのだから、それを言い出す事もできない。
「わははは。人間って馬鹿だなー」
本当にそうだと思う。些細な事ですれ違って、些細な事で感情をぶつけ合う。
そして些細な事が気になって仕方がなくなる……反応こそ十人十色であるが、そんな人間であるならば誰しも思い描く感情は、魔王様にとっては「馬鹿だなー」で済まされてしまうのだろう。
自分にできることは、あまり意識しすぎないように彼女と同じく映像を見てビールを飲むだけである。
「……」
魔王様は、少し仄暗くした部屋でぴかぴかと光る薄い箱を熱心に見つめている。
ただ喉を鳴らす音と、TVの音声だけが満たす空間。
どことなく話すのも億劫になってきた時間の中、先に口火を切ったのは魔王様の方だった。
「お前さ、また"カイシャ"って所で何かあっただろ」
魔王様の顔はモニタに向けられたまま。そして自分の顔もまたモニタに向けられたままである。
こちらが応えずに居ると、こめかみの辺りを硬い物で小突かれた。地味に痛い。どうやら角でやられたらしい。
特にそんな事はない。
きっぱりと答えたのだが、魔王様はその答えが気に食わないらしい。
数回に渡ってコツコツとこめかみを角で攻撃してくると、ようやく顔をコチラに向けてきた。
「オレは
以前にも説明されたが相変わらずピンと来ない理由である。
精神に淀みがあったとしても恐らくそれは疲れのせいではないかと思うのだが、どうやら違うらしい。平常時は青灰色。何かあって沈んでいる時は、ソレこそ漆黒色になるとか。なるほどよく分からない。
「この前一瞬だけ愚痴ってた、"カチョー"って奴のせいか? そいつにまたなじられたのか?」
言われた瞬間、飲んでいたビールが不味くなった気がした。
そしてそんな自分の機微が分かったのだろう。確信を得た彼女は、こちらに更に詰め寄る。
「やっぱそいつ殺しちゃおうぜ。無理する必要ねーって」
あまりにも短絡的過ぎる結論である。
首を全力で横に振ると、彼女の美しい眉根が歪んだ。
「分からん。何で嫌な物を無理してまで我慢する必要があるんだ? オレの世界じゃそんな嫌な奴はすぐに殺してたぞ……あ、もしかしてあれか。お前より強いのか? だったらオレが代わりに殺ってもいいぞ、顔と名前を教えてくれたらそれで済むから」
別に強さを問題視している訳ではない。
そもそもがこの世界では如何にムカついても人を殺してはいけない。そういうルールになっているのだ。
「だからバレなきゃいいんだろ? 魔法がない世界ならオレがやったなんて絶対に気付かねえ。不審死で終わるぞ」
バレなくても駄目である。断固として拒否し続けると。なんだよ、と膝を抱えて不貞腐れ始める魔王様。恐らくは元気のない自分のために何かをしてあげたかったのだろう。
気持ちだけはとても嬉しい。嬉しいが、やはり殺人や暴力に訴えるのだけは駄目なんだ。と改めて伝える。
確かに嫌な気分になる時も多々ある。
心ない言葉に傷つけられ、心身共にヘロヘロになるまで酷使される事も多い。
だけどその対価としてこうして生活が出来ているのだ。
生きてる以上は仕方が無いことだし、また怒られる事に自分に一因が無い事もないのだ。
そこまで説明すると、膝の上に顎を乗せた彼女は何だか納得言っていない顔をしながらこちらをじっと見詰め、「立派なんだかよく分からん」と怪訝そうに呟く。
「謙虚なのは美徳かもだけどさ、もうちょっと素直でもいいんじゃねえかって思うぞ。そーやって仕方ないと割り切って何でもかんでも溜め込む姿勢、オレは理解できん」
魔物達は欲望に対してとても忠実らしい。
そんな魔物を統率する魔王様はその立場故か、曰く魔界一の理性を持つまで成長したと豪語するが、日本生まれの自分とはやはり常識が違うように思える。
「溜め込んで、溜め込んで、ボロボロになるまで溜め込んで……それでどーするつもりなんだ? ずっと吐き出さずにしまいこむのか? そんなの無理だろ。吐き出せよ。発散しろよ。すかっとしろよ」
彼女の重みが自分の左肩に徐々に徐々にかかっていく。
鼻孔に漂う淡く、そしてふわりと甘いシャンプーの香りが更に強まり。
接触した部分からはTシャツ越しでも分かる少し高めの体温と、女性として意識せざるを得ない柔らかな感触を覚える。
視界の半分が彼女の角と黒髪で埋め尽くされ、残る視界を占めるTVモニタには外をゾンビの大群で囲まれた部屋の中で、主人公たちが打開策を練っているのが見えた。
「もっと素直に生きろよ。じゃないとオレが心配になるだろ」
接触した肩を通して伝えられる魔王様の呟きは、自分には余りにも甘美な物。
無意識に伸ばしかけた手を努めて抑えて、これでも素直に生きている方だ、と嘯くと、間近で彼女が振り向いた。
「どこがだよ」
割と好きな物ばっかり食べている。
割とビールを欠かさない日々を送る。
割と娯楽がないと嫌だから睡眠時間削ってまで楽しむ、etc.etc...。
「……」
痛い。
大きな瞳だ。いつも思うがとてもとても綺麗である。
まるで真っ暗な夜に浮かぶ満月のような……いや、形容できない美しさを覚えて仕方がない。
それを口に出して表現する事などまず間違いなく出来ないだろう。何せ自分にはその美しさを表現出来るような学もなく、美辞麗句を連ねるだけで終わってしまうだろうから。
……と、現実逃避をしていても仕様がない。魔王様の無言の攻勢に両手を挙げて降参の意を表明すると少し溜飲を下げたか、彼女は再度こちらに体重を預けてモニタに視線を向け始める。
「んじゃなんか発散しろ」
発散。発散とおっしゃいますか。
「発散つったらやりたい事をやるだけだろ。何かやりたい事ねえのか? 例えばやろうと思っても忙しくて出来なかった事とかさ、あるだろ? オレも付き合ってやるから言ってみろよ」
何か、あるだろうか。
やろうと思ってた事。やりたいと思っていた事。
昔は沢山あった気がする。あんな事をしたい、こんな事をしたいという気持ち。
でも昔の自分にとってはそのどれもが高く、遠い物であったから手を伸ばす事すら諦めてしまっていた。
しかし今は今で手こそ伸びるが脚が進まない。踏めてもせいぜいが二の足だ。
「どんだけ欲がないんだよ……悪魔も匙を投げるぞこりゃ」
呆れられてしまったので頭を高回転させてみる。
まるで古いCPUのファンのように唸り続けてみるのだが……駄目だ。
許しを乞うように視線をちらりと向けると、彼女のジト目がこちらを出迎える。
「オレだったらそうだな。舐めた態度を取った魔物をぶっ飛ばしたり、暇潰しに山を消し飛ばしてみたり。あとアレだな、邪教徒がとんちんかんな願い事してきたら、ぷちっと潰しちゃうとかなー」
予想以上にバイオレンスでとてもではないが参考にならない。
首を左右に振りたくると、お前にやれって言ってるんじゃねえ、とお叱りを受けた。
「まあ、やっぱあれだな。やりたい事ないなら運動か。特訓とか修行とかな」
修行と言われるとピンと来ないが軽運動程度なら出来なくはなさそうだ。が、生来のインドア気質の自分である。運動は少し抵抗があった。
どうにかこうにかして別の発散方法がないかと模索する中、宛もなくTVモニタを見てみれば、劇中では一転して濡れ場めいたシーンに突入しようとしていた。女性が慕情を告げながら男性を組み伏せる展開。見ている側としてとてもとても気まずい。
「……あー、ああいう手もあるな」
どきり、と一際強く心臓が跳ね。発言の真意を伺うために恐る恐る視線を左に向けると、そこにはギラリと輝く犬歯を覗かせた魔王様の嗜虐的な顔がそこにあった。
とても妖艶で、ソレと同時にとても恐ろしく感じて仕方がない。
嫌な予感がしてこちらが制止を発する……その前に、彼女はしなだれかけた体を移動させ、流れるようにこちらの腰に乗っかっていた。
そうすればこちらの視界は魔王様の嬉しそうな顔と、包み込んだ体に合わせてこれでもかと引き伸ばされてたドラゴン顔のTシャツで一杯になってしまう。
「シちゃうか? オレはお前なら全然構わないぞ」
細く、美しく、そして自分のよりも小さなその指先が、こちらの腹部をなぞる。
魔王様は完全に乗り気だ、熱を持つであろう部分に的確に体重を預け。更に狙っているのかいないのか、Tシャツの胸元から深い谷間を見せつけてくる。
アルコールのせいかそれとも雰囲気のせいか。上気して桜色に染まった彼女の顔は、間近で見てしまえば最後、本当に吸い込まれてしまうような魅力があった。
徐々に近づく魔王様の顔。背後で陽気に揺れている鱗のついた立派な尻尾。
彼女の爪がカリカリと小気味良く躰をくすぐって、こちらの理性を的確に剥がしていく。
モニタからは一足先に艷やかな声が漏れ始めており、彼我の距離が0になる――その瞬間、
机の上に放置したスマホが周期的に振動をし始め、机と反発してガチガチガチと耳障りな音を立て始めた。
その音を切っ掛けに冷静さを取り戻した自分は、魔王様の両肩に手を置いて押し返し、ジョギングを始めようと思います。と勢いに乗せて告げた。
当初はきょとんとしていた彼女も、すぐにふてくされた顔をしながら「そりゃ良い案だな」とこちらの提案を褒めてくれた。
「はぁーぁ」
諦めたのか腰に跨るのをやめた彼女は再度隣に乱暴に座り込み、そして先程よりも密着した体勢で体重を預けてくる。
割と乱暴過ぎて角が何度か顔や体に当たったが、そうされても文句は言えないので黙っておく。
どうにか跳ね除けられた事を内心で胸を撫で下ろしながらスマホを手に取って内容を確認すれば、それはただの迷惑メールであったようだ。が、今この時だけは差出人に感謝を贈りたい気分だった。
「自分で言い出した事だぞ。ちゃんとやらないと怒るからな」
不貞腐れて頬を膨らます魔王様はこちらの腕を胸に抱えるようにしてロックしており、その感触に心を揺さぶられながらも無言で頷く。
そしてしばらくの静寂の後、自分の為に色々と腐心してくれる異界の魔王様に感謝の気持ちを伝えた。
「ばーか」
ソファから動けずに居る自分に、彼女の呟きの意味を理解する事は難しく。
垂れ流していたドラマでは例のシーンが既に終わっており、一点変わって新天地へ向かおうとする主人公らの姿が見れたのだった。
現実では魔王様が隣に居ないことに深く深く絶望しました。
悪い、ヤッパ辛えわ……。