理解されなくてもいい。
同情もいらない。
ただ、そこにアナタがいてさえくれれば、何も――。
アナタだって、同じ気持ちだったはず。
なのに――
「――思うんだ。あの人なら、きっと、この関係を理解して、守ってくれるんじゃないかって……。だからさ――」
どうして――どうしてそんな事を言うの……?
どうして、あの男なんかの事を信用するの……?
どうして――……
「どうしてなのよ……? 鈴谷……」
『不死鳥たちの航跡』
「事情を聴く前に、言いたいことがある……」
執務室に招かれた鈴谷は、何やら申し訳なさそうに小さくなっていた。
「どうしてお前らがいるんだよ?」
その後ろ、真剣な表情で座っているのは、夕張と明石であった。
「どうもこうも、気になるじゃない。鈴谷さんがどうして、貴方の事を好きになったんだろうって。いつの間にそんな関係に?」
明石も同じなのか、何度も頷いていた。
「……お前らも同じなのか? 大淀、鳳翔……」
そう言ってやると、少しだけ開いていた入口のドアが大きく開き、観念したように二隻が顔を出した。
「こうも大勢いては、鈴谷が話しにくいだろう……。全員出ていけ……」
そうは言っても、夕張と明石だけは、根を張ったかのように動かなかった。
こういう時、武蔵がいてくれれば、こいつらを引っぺがして、連れて行ってくれるのだがな……。
そんな事を思っていると、山城がやってきて、夕張だけを引っぺがしていった。
「悪いな、山城」
山城は何か返すわけでも無く、無言のまま去って行った。
「さて……?」
明石に目を向ける。
「わ、分かりましたよ……。でも……どうして気になるのか……少しは察してくださいね……?」
明石は舌を出して見せると、部屋を出ていった。
透かさず、部屋の扉に鍵をかける。
その瞬間、鈴谷がビクッと反応を見せていた。
「別に、襲いやしないよ」
今の反応……。
「それで……? 何があった? よもや本気だという訳でもなかろうに……」
「うん……。ごめんなさい……。つい……カッとなって……」
鈴谷とこうしてちゃんと話をするのは、初めての事であった。
何隻も島から出しているのに、まだまともに会話すらしたことがない艦娘がいるとは。
「なにやら熊野と揉めていたようだが……」
そう言ってやると、鈴谷は黙り込んでしまった。
熊野……。
いつも鈴谷と一緒に居て、俺に敵意むき出しだった奴だ。
初期の大和や武蔵ほどではないにしろ、どこか、ゴミを見るような――そんな目をしていた。
「熊野と喧嘩でもしたのか?」
いつまでも黙っているので、誘導するように訊いてやる。
正直、鈴谷についてはよく分かっていない。
吹雪さんのノートにも、明るい性格で――程度の情報しかなかったし、親父と仲が良かった訳でもなさそうだった。
「……日を改めてもいいぜ。気持ちの整理も必要だろ」
そう言ってやると、鈴谷は顔を上げ、やっと俺を見た。
「……話してくれるか?」
鈴谷は頷くと、ポツリポツリと話し始めた。
翌朝。
俺は家で、大和から受け取ったノートを見ていた。
『庭に、ウメの花が咲いておりました』
大和からは、以上であった。
庭に、ウメの花……か……。
これは一体、何を指しているのだろうか……。
縁側に座り、庭に目を向ける。
確かに、ウメの花は咲いているようだが……。
「庭に……ウメの花……」
ウメの花言葉には、確か、忠実だとか高潔だとか、そんな意味があったような……。
……いや、そこまで深い意味がある訳ではないのかもしれない。
何も書くことがなく、ただ、見た風景を書いただけで――。
「司令官」
声の方を向いてみると、敷波がこちらを覗き込んでいた。
「おう、おはよう。どうした? こんな朝早くから……?」
「おはよ。ちょっと、散歩でもと思ってさ。司令官は何しているの?」
「ん……あぁ、なんでも。散歩だな。分かった。着替えてくるから、ちょっと待ってろ」
「うん」
ノートを仕舞い、着替えに向かう。
文通の返事は、とりあえず後で考えよう。
昨日の事もあって、一旦落ち着きたいしな。
海辺に出ると、敷波はそっと、俺の手を握って来た。
「どうした? 散歩に誘ってくるなんて」
「うん……。最近さ……司令官、なんだか忙しそうだったじゃん? なかなかこうして、二人で一緒に過ごせなかったからさ……」
ミトンに包まれる敷波の手は、それでもやはり小さく感じた。
「フッ、やけに素直じゃないか。前は、察してくれとでも言うように頬を膨らませていたのに」
赤くなった頬を突いてやると、敷波はムッとした表情を見せた。
「面倒くさい女だと思われたくないし……。そういう駆け引きが出来るほど、アタシは大人じゃないからさ……」
「へぇ……」
以前は夕張のように――しかし、これまた夕張のように、何やら悟ったようだな。
「艦娘は成長しないと聞いていたが、どうやらその考えも改めなければいけないらしい」
「元からこういう感じだったのかもよ?」
「それはないな」
そう言ってやると、敷波はそっぽを向いてしまった。
こういうところは、まだまだ子供っぽいのだがな。
『雪風は、大人ですよ?』
成長……か……。
「司令官?」
「ん、なんでもない。それにしても、そうか……。大人になってしまったのなら、こうして手を繋ぐのも、何だかこっぱずかしくなってくるな……」
そう言って手をはなそうとすると、敷波はより一層強い力で、握りなおした。
「そういうのも効かないから。アタシは響ちゃんみたいに、簡単に離れたりはしないから」
為て遣ったり、という表情の敷波に、俺は思わず笑ってしまった。
「参りました」
「んふふ~」
どれくらい歩いただろうか。
会話に夢中で、あまり来たことがない場所まで来てしまった。
「こっちの方は、来たことが無かったな」
「夏によく来る場所なんだ。ほら、あそこ、入り江みたいになっているでしょ? あそこなら、水着でいても外からは見られないんだ」
なるほど。
出向した人間がいないとはいえ、一応監視はされているしな。
「夏になったら、ここもにぎやかになるわけか」
「その前に、司令官が全員、島から出してしまうかもしれないけどね」
「そうだといいのだがな」
敷波は手を離すと、岩場にちょこんと座った。
俺も、同じように。
「司令官、今度は鈴谷さんを攻略するの?」
「攻略ってお前……」
「攻略じゃん。鈴谷さん、司令官と結婚するとか言ってたけど……いつの間に仲良くなったの……?」
「いや……」
どう説明するべきか……。
この事は、当分、俺と鈴谷だけの秘密にしておきたいのだがな……。
そうでなければ……。
「なんか……ずっと俺の事が好きだったみたいだ。一目惚れだったとかなんとか……」
「ふぅん……」
何やら疑いの目を向ける敷波。
だが、すぐに視線を海に向けた。
「まあ、いいけどさ……。それにしても司令官……本当にモテるよね……。案外、島の外に恋人の一人や二人、いるんじゃないの……?」
「いたらここには居ないさ」
「でも、これからは分からないじゃん。陸奥さんも鹿島さんも、外にいる訳だし……」
俺はそれに、何も言えなかった。
「アタシもさ……島を出てもいいとは思っているんだよ……?」
「え?」
「でも……出る時は……司令官と一緒がいいんだ……。アタシはあの時、『司令官』と一緒に、島を出ることが出来なかったから……」
親父の事か……。
「そういやお前は、親父と仲良くなれなかったんだったな」
「正確には、素直になれなかっただけ……。でも、今はそうじゃない……。アタシは今、こうして、大好きな人の隣にいる……。昔のアタシじゃない……」
敷波は俺を、じっと見つめた。
「アタシ……司令官が大好きだよ……」
それは、親父に言う筈の言葉だった。
だが、そうではないとでも言うように、敷波はもう一度、言った。
「司令官が大好き……。貴方が……大好き……」
「敷波……」
敷波は岩場からとんでみせると、少し寂しそうに笑って見せた。
「安心して。これは恋じゃないから。恋だとしても、アタシに司令官はもったいないよ」
俺が足りない男であったのなら、敷波はどう答えていたのだろうか。
「……そうか」
俺は、そう言うしかなかった。
「でも――」
敷波は近づくと、赤くなった鼻先を、俺の鼻先に、ちょんとくっつけた。
「アタシの勇気に……ご褒美をちょうだい……?」
そして、軽くキスをすると、今度は顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
俺は唖然として、何も言えなかった。
永い沈黙が続く。
「……何か言ってよ」
「いや……そうだな……」
俺は鼻先を掻いてから、敷波と同じような、少し寂しい笑顔を見せて、言った。
「俺がもっと足りない男であったのなら――そう思ってしまったよ」
それが正解の答えだったかは分からないが、敷波はどこか、嬉しいとも恥ずかしいともとれるような、微笑みを見せていた。
敷波と共に寮へと向かう。
その道中、気が付いたことがあった。
「ん……」
「どうしたの、司令官?」
「いや、あんなところにサザンカなんて咲いていたかなと」
「あぁ、うん。昔、誰かが植えたんだ。誰だったか、もう忘れちゃったけど……。この島には、外から持ち込まれた植物がたくさんあるんだよ。管理が難しくて、枯れちゃったのもあるけど……。司令官の家にも、ウメが植えられているでしょ?」
ウメ……。
「あ、あぁ……」
「アタシ、初めて見たんだ。ウメの花。ほら、司令官の家って、入ったことなかったからさ」
初めて見た……?
「ちょっと待て……。ウメの木って、俺の家にしかないのか?」
「うん。そうだよ。サザンカもあそこだけだし」
『庭に、ウメの花が咲いておりました』
なるほど……そういうことか……。
いや……意味は分かっても、真意は分からないのだが……。
とにかく……なるほど……。
「悪い、敷波。先に寮へ行っててくれ。ちょっと用事を思い出した」
「え? あ、し、司令官!?」
俺は家に戻り、筆を執った。
しかし……。
「…………」
意味が分かった今、返事を書けると思っていたのだが……。
「だからなんだってんだ……?」
ウメが咲いていた。
ウメは、俺の家にしか咲かない。
つまり、大和が俺の家に来ていたという事なのだが……。
「何故、わざわざそんな事を書いたんだ……?」
俺は、ウメの木が見える縁側に座った。
つまり、大和はこの場所でウメを見ていたという事だと思うのだが……。
「ウメの花……ウメの花……」
目を瞑り、大和がここに座っている状況を想像した。
俺がいない間に、ここに来ていたのだろうか。
そして、ウメの木を見つけ、花が咲いていることに気が付いて……。
俺は目を開け、ウメの木に近づいた。
大和もきっと、こうしてウメの木に近づき、花を見たはずだ。
『アタシ、初めて見たんだ。ウメの花』
大和も同じだったのだろうか。
「…………」
もしかして……。
「……なるほどな。そういうことか……」
大和がどうして、俺に無言でノートを渡したのか。
そして、どうしてウメの花が咲いたなどと書いたのか。
もし、俺の考えが間違いでなければ……。
寮に入ると、皆は既に、食堂に集まっているようであった。
「直接は渡せないよな……」
俺は大和の部屋へ行き、大和に分かるよう、ノートを置いてやった。
「お前の真意がそうであるのなら、きっと、分かってくれるはずだ……」
「提督!」
食堂に入り、声をかけて来たのは、鈴谷であった。
「待ってたよ! こっちこっち! 鈴谷の隣!」
鈴谷の隣には、俺の食事が配膳されていた。
「なんだってお前なんぞの隣に……」
「いいじゃん! 提督と一緒に食べたいし! ね?」
そう言うと、鈴谷は俺の手を取り、隣に座らせた。
その光景に、誰もが皆、驚いた表情を見せていた。
ただ一隻を除いて……。
「え、えーっと……。皆さん、集まりましたね……。それでは、いただきます」
疎らな「いただきます」と共に、重たい視線が、俺たちを貫いた。
朝食は、いつもの明るい雰囲気とは打って変わり、何やら静かに行われていた。
というのも……。
「提督って、目玉焼きには醤油派?」
「あぁ、そうだが……」
「鈴谷も一緒! めっちゃ気が合うじゃん!」
「んな小さなことで……」
皆、俺と鈴谷の会話に、聞き耳を立てているようであった。
「あ、提督、それ食べないの? 鈴谷が貰ってあげる」
「あ、お前……! それは最後に食べようと……!」
「あれ? 提督って、最後に食べたいもの食べる系? ごめんごめん。はい、鈴谷の食べかけだけど……」
「んなもんいるか!」
俺はチラリと、熊野の方を見た。
熊野はこちらを気にもせず――いや、却って気になっているようにも見えた。
まあ、いずれにせよだ。
お前の反応がどうであれ、外堀は勝手に埋まっていくぞ。
「お二人とも、随分仲が良さそうね」
ほら来た……。
「どこが良さそうなんだ……」
「良さそうじゃない。いつの間に仲良くなったの?」
そう言うと、夕張はチラリと鈴谷を見た。
「夕張さん、鈴谷たちの邪魔しないでくんない? ここは鈴谷と提督だけのラブラブ空間なんですけど?」
「ラブラブ空間って……お前……」
「別にいいじゃない。ね? 提督?」
「どっちでも構わん……」
すると、予想通り、夕張はドカッと座って見せた。
山城に慰められていた頃であれば、こんな事はしないはずだったが、やはりというか、本当に――。
「まあいいけど。鈴谷たちの邪魔、しないでよね?」
「邪魔はしないわ。私はただ、知りたいだけよ。どうして急に、鈴谷さんが提督に懐いているのか、ってことをね。寮に迎えるかどうかの投票だって、鈴谷さんは反対に入れていたはずでしょう?」
「うわ……。そんな昔のことまで引っ張り出すんだ……。ラブ・ストーリーは突然にって言うじゃん。鈴谷はただ、提督のかっこよさに目覚めただけ。そんだけ。理由は分かったっしょ? だったら、さっさと行ってよ」
「この人の『どの部分』がかっこいいと?」
険悪な雰囲気の二隻。
こうなると分かっていたとはいえ、ここまで空気が悪くなるとはな……。
「お二人とも! そこまでです!」
止めに入ったのは、鳳翔であった。
「そんなに大きな声で喧嘩をなされては、皆さんの迷惑です! 提督だって、困っているじゃありませんか!」
まあ、困ってはいたが……。
それは、鳳翔の言う意味とは別の意味で、なのだがな……。
「鈴谷はただ、提督との食事を楽しんでいただけだし……」
「そうかもしれませんが、少し騒ぎ過ぎです……。夕張さんも、食事中に席を移動するなんて、はしたないですよ……?」
夕張はムッとした表情を見せたが、すぐに謝り、元の席へと戻っていった。
「提督も、黙っていないで、少しは注意してくださいね……?」
「注意して聞くような奴らじゃないだろ。騒がしくさせたのは申し訳ないが、これも一種の交流だ。大目に見てくれるとありがたいぜ」
そう言ってやると、今度は鳳翔がムッとした表情を見せた。
せっかく助けてやったのに、といった具合か。
「流石提督! 懐が四次元ポケット並みにでかいじゃん!」
「それは『でかい』で表現していいものなのか?」
結局、鈴谷は最後まで騒がしかった。
「じゃあね! 提督!」
鈴谷は俺にウィンクして見せると、俺の反応を待った。
「あぁ、じゃあな。永遠にな」
俺は困ったとでも言うように、右眉を掻いて見せると、鈴谷は嬉しそうにして、食堂を後にした。
「さて……」
待ち受けていたのは、夕張と明石、鳳翔であった。
「どういうことか、説明してくれるわよね?」
「どういうこと、というのは?」
「昨日の事よ。鈴谷さんと、何を話したの?」
鈴谷に煽られ、ムキになっているのか、夕張はやたらと突っかかって来た。
普段のこいつなら、こんなにムキになることはせず、もうちょっと冷静に様子を見ることが出来たはずなのだろうがな。
吹っ切れた分、落ち込む前の性格が出てしまっているな。
明石辺りが……と思っていたが、こいつはこいつで……。
「別に、これといって。そもそも、どうしてお前たちに話さなきゃいけないんだ?」
これには鳳翔が反論した。
「このままでは、また同じことが起きます。夕張さんでなくとも、他の方も気になっていることですから、はっきりさせた方がよいかと……」
明石はやはり、何度も頷くだけであった。
お前の意見は無いのか……。
しかし、ここで何も言わないのも、少し変かもしれないな……。
ちょっとは真実を教えてやろう。
「……昨日、あいつと話したのは、熊野との喧嘩の件だ。お前らも知っての通り、熊野と鈴谷は喧嘩をしていた。原因は、鈴谷が俺の事を好きだと言ったせいだとかなんとか」
まあ、これは嘘ではない。
喧嘩の原因は、どうやら俺にあったらしい。
「それで、意地になった鈴谷が、俺と結婚すると叫んだ。それで、鈴谷は吹っ切れたようで、俺へのアピールを抑え無くなったらしい。好きになった理由はよく分からん」
まあ、納得しないだろうな。
しかし、これでこいつらが本当の事を訊く理由は無くなった。
――が、念には念を入れておくか。
「迷惑しているように見えるかもしれないが、これはこれで一つの交流方法だと思っている。あいつの真意が知りたいんだ。迷惑をかけるが、邪魔はしないでほしい」
そう言われ、明石と鳳翔は一歩引いたように見えた。
あとは……。
「……そう。納得はしていないけれど、まあ分かったわ。じゃあ、私も協力する。邪魔しない程度に」
夕張は引かない姿勢を見せた。
――あぁ、分かっていたさ。
そう来ることはな。
だからこそ――いや、少し気は引けるが――それでも、俺は悪役になるぜ。
「ダメだ。お前は邪魔にしかならない。現に、交流の邪魔をしただろう」
「それは、理由を知らなかったからで……」
「また、同じことを繰り返すのか?」
俺は厳しい目で、夕張を睨んだ。
夕張は一瞬、悲しそうな表情を見せたが、すぐに俺を睨み返した。
「言ったはずよ……。もう、突き放しても無駄だって……」
「……そうかよ」
俺は席を立ち、三隻を一顧だにすることなく、食堂を出ていった。
執務室に行くと、大淀が座っていた。
「お疲れ様です」
「あぁ。何か用事か?」
「いえ。一難去ってまた一難、だと思いまして」
そう言うと、大淀はコーヒーを淹れてくれた。
「悪いな」
「いえ。それよりも、また大変な事をなさっていますね」
大淀の細い目が、俺を見つめていた。
「なにが言いたい?」
「鈴谷さんの件ですよ。何か、あるのでしょう?」
俺が答えないでいると、大淀はクスリと笑って見せた。
「言わなくてもいいです。『今回は』そういう事なのでしょうから」
吸い込まれそうなほど綺麗な瞳の中に、どこか弱弱しい俺が映っていた。
「貴方が悪役でも、私は貴方の味方ですから」
コーヒーの香りが、部屋中を包み込んでゆく。
落ち着くようで――しかし、どこか忙しないようで――。
「悪役なんだぜ……。お前もしっかり、演じたらどうなんだ……?」
「だとしたら、大淀も悪役側がいいのです」
俺はとうとう参ってしまい、思わず笑ってしまった。
「お前が怖いよ」
「なのに、笑っているのですね」
「怖すぎて笑ってしまう事、あるだろう?」
「私には、安心したように見えましたけれど」
「……そうかよ」
コーヒーを飲み干し、カップを置いた。
「悪役でも、私にとっては役得なんですよ」
「それには動揺しないぜ」
「あら、残念」
俺と大淀は、思わず笑ってしまっていた。
「いつも悪いな……。大淀」
「いえ。これが私の仕事ですから」
夕張達に対する罪悪感が、少しだけ、薄れた気がした。
それから数日間、鈴谷は隙あらば、俺に突っかかるようになっていた。
「提督ー! 鈴谷とゲームしよう?」
「またか? まあ、いいぜ」
日に日に、満更でもなさそうな態度をとるようになって行く俺に、誰かがポツリと零した。
「司令官と鈴谷さん、最近仲いいわよね。もしかして、このまま鈴谷さんが……?」
それを聞いていた夕張が、俺たちにわざと聞こえるような大きな声で、反論していた。
「それはどうかしら? 提督って優しいから、鈴谷さんの相手をしてあげているだけじゃない? 何か策略でもあるのよ。例えば、熊野さんとの交流の為に、まずは鈴谷さんから攻略している……とか」
中々鋭い所を突くな。
ま、ここは無視だな。
「……あの武蔵さんを島から出しちゃうほどだもの。とんだペテン師だわ。ね、そうよね?」
無視に腹を立てたのか、ついに声をかける夕張。
本当、懲りない奴だよな。
何か言ってやろうと考えていると、鈴谷が先に口を開いた。
「鈴谷はそれでもいいよ。提督がペテン師だろうが、鈴谷を利用しようが、それは全部、鈴谷たちの未来の為にやっていることだもん。提督はそうは言わないだろうけれど、鈴谷は分かっているから」
鈴谷はゲーム画面から目を離さず、そう言った。
今まで口にしていた俺への評価とは違い、どこか、真に迫るものがあった。
「ふぅん……。そう……。短い付き合いなのに、よく知っているのね。その人の事……」
「時間は関係なくない? 要するに、提督の事を信じることが出来るかどうかっしょ。そういう意味では、夕張さんは提督の事、信じられていないんじゃない?」
夕張の嫌味に、棘のある返しをする鈴谷。
俺はただただ、感心することしかできなかった。
「……そうね。そうかもしれないわね……」
夕張は席を立つと、どこかへ行ってしまった。
駆逐艦たちは、ただならぬ空気に困惑しているようであった。
「……ごめん。ちょっち言い過ぎたかも……」
鈴谷がボソッと言う。
「いや……あいつにはいい薬だと思う。悪いな……。こんな役目をさせてしまって……」
「ううん……。こっちの台詞だよ……」
それから俺たちは、駆逐艦を安心させるため、皆でゲームをやることになった。
夕食直前、俺は山城に呼び止められた。
「どうした?」
「ちょっと……私の部屋で話さない……?」
山城がこう言ってくるなんて、珍しい事であった。
まさか、夕張の件だろうか……。
「あぁ……。構わんぜ……」
山城の部屋は、やはりじめっとしていて、それでいて暗かった。
「なんか、暗くねぇか? 他の部屋と同じ照明器具のはずなのに……」
「そうかしら……」
山城はやはり、端っこで小さくなっていた。
「それで? お前から話したいことがあるだなんて、珍しい事もあったもんだな」
「そうね……」
「……夕張の件か?」
山城は何も言わず、ただ首を横に振った。
「違うのか?」
てっきり、夕張の事だと思っていたが……。
そうじゃないとしたら、マジで分からん。
色々と思考を巡らせていると、山城がポツリと言った。
「貴方……鈴谷の事が好きなの……?」
「え?」
山城は目も合わせず、ただ俯いていた。
鈴谷の事が好きかどうか……?
「……だとして、なんだってんだ?」
試すように言ってやる。
すると、山城は顔を上げ、俺をじっと見つめた。
「もしそうなら……二人を応援したいと思ったのよ……」
「応援って……」
どうしてそんな事を……。
いや、そもそも……。
「お前は夕張を応援していたんじゃないのか?」
「そのつもりだったのだけれど……貴方が鈴谷の方がいいと言うのなら、あの子に諦めるよう、言ってあげてもいいわ……」
話が全く見えない。
……いや。
「つまり、こう言いたいのか? 俺が鈴谷を好きだと言ったら、夕張を傷つけてしまうことになるだろうから、慰め役を買って出てやると……?」
山城は首を横に振った。
いや……否定されると、ますます分からんのだが……。
「夕張の気持ちはどうでもいいのよ……。ただ、貴方が鈴谷とどうなりたいのかって事よ……」
「いや……。そうだとしても、意味が分からな過ぎて不気味なんだが……。どうして急にそんな事を言いだすんだ?」
山城は何も言わなかった。
こいつは今まで、夕張の為にやっていたんじゃないのか……?
「とにかく、気味が悪い……。俺にどういう気持があろうとも、お前の協力なんぞいらねぇよ……」
俺は立ち上がり、早々に部屋を後にした。
山城は呼び止めることもせず、ただ端っこで小さくなっているようであった。
山城の部屋を後にし、食堂へと向かう。
ふと、大和に目が行った。
あれから、大和からの返事はない。
俺の読みが間違っていたのか、それとも――。
「ん……」
今度は、奥の席に目を向ける。
鈴谷はまだ、こちらには気が付いていないようであった。
そろそろいいだろう……。
「鈴谷!」
その呼びかけに、皆、一斉に俺を見ていた。
「――! 提督!」
「よう。呼びかけが無いから、居ないのかと思ったぜ」
皆の視線を受けながら、鈴谷の元へと向かう。
「提督から呼びかけてもらえるなんて、思ってもみなかったよ。鈴谷がいないと思って、寂しくなっちゃったとか?」
「まぁ……そんなところだ」
そんな事で話していると、誰かが急に、机を強く叩いた。
「うぉ!?」
食堂は、一気に静かになった。
机を叩いた本人は、体を震わせ、ゆっくりと立ち上がった。
「熊野……」
熊野は凄い剣幕でこちらへ向かってくると、鈴谷の胸倉を掴み、睨み付けた。
「いい加減にしなさい……! わたくしへの当て付けのつもりなのでしょうけれど……そんなものが、いつまでも通用するとでも……!?」
鈴谷は動揺していたが、すぐに表情を切り替え、熊野の手を払ってみせた。
「何、そんなに怒ってんの……? 鈴谷はただ、提督と会話していただけじゃん」
「そうしていれば、わたくしが折れるとでも……? この男に嫉妬して、島を出る決意をするとでも……? わたくしはそんなこと、絶対にしませんわ……!」
強く睨む熊野に対し、鈴谷はかなり冷静であった。
「……確かに、最初はそうしようとも思っていたよ。でも、熊野はそれでも折れないじゃん……。だから、鈴谷、もう諦めたんだ……」
「諦めた……?」
「熊野を好きでいる事……」
それに、熊野は鼻で笑って見せた。
「本当だよ……。鈴谷……別に男の人が嫌いなんじゃない……。女の人が好きだという訳でもない……。ただ、熊野だったから好きだったの……」
皆がざわつく。
やはり、この二隻の関係の事を、誰も――。
「鈴谷は……島の外に出たいと思っている……。そこに熊野が居たらって……そう思ってた……。でも、熊野がそうしたくないというのなら、鈴谷は熊野を諦める……。それくらいの覚悟は……ある……」
本気だという事が伝わっているのか、熊野は何も返せないでいるようであった。
「提督の事が好きなのは本当だよ……。最初は、熊野の気を引くために利用しようと思ってた……。でもね……接して行く内に、本当に好きになっちゃったの……」
そう言うと、鈴谷は俺を見た。
その表情が、なんとも真に迫っていて、俺は思わずドキッとしてしまった。
「鈴谷……」
「熊野……。ここまで言っても、熊野は何も言ってくれないんだね……」
そう言われ、熊野は俯いてしまった。
「いいんだよ。それが熊野の答えだもんね。鈴谷、これでやっと前に進めるよ」
鈴谷はニコッと笑って見せると、熊野を横切り、俺の前に立った。
「提督……」
鈴谷はじっと俺を見つめると、頬を赤く染め、言った。
「貴方の事が好きです。鈴谷と一緒に……島を出てくれませんか……?」
皆、息を呑んで、俺の答えを待っていた。
熊野はただ俯くだけで、何も言うことはなかった。
熊野……それが、お前の答えなんだな……。
「……本気なんだな」
「……うん」
「……分かった」
再び、皆が息を呑む。
今度は、「ヒュッ」という音と共に。
「……俺も、そろそろ限界だと思っていたんだ。武蔵を島から出して……これ以上は無いと思っていた」
どこかで、誰かの「嘘でしょ……?」という声が聞こえた。
「お前と一緒に島を出る。好きかどうかは、まだよく分からないけれど……。この数日、お前と一緒に居て、今までにないほど、楽しんでいる自分がいた。お前がいないと、寂しいと思うこともあった」
「それは恋だよ」
鈴谷が俺を抱きしめる。
駆逐艦たちが、歓声を上げる。
「ちょっと待ちなさいよ……」
声を上げたのは、夕張であった。
「そうやって、また私たちを騙すつもりなの……?」
どうやら、俺に言っているようであった。
「熊野さん……。貴女、提督に騙されているわ……。この人がこのまま島を出るなんて、ありえない……! 全ての艦娘を人化しないまま、島を出るなんてことは絶対にしないはず……!」
何を熱くなっているのかは知らないが、そこじゃねぇんだよ……夕張……。
だが、これは好機だ。
「んな事は、熊野もよく分かっているよ。そうだろ?」
熊野は何も言わなかった。
夕張は、何が何だかよく分からないといった表情をしていた。
「確かに、お前の言う通りだよ。俺と鈴谷は、熊野をその気にさせるよう、ここ数日、仲を演じていた」
鈴谷が不安そうに、俺を見ていた。
「大丈夫だ……」
小声でそう言ってやると、鈴谷は小さく頷いた。
皆がざわつく。
「知らない奴が多いだろうが、鈴谷と熊野は、互いに恋い慕う仲であった。だが、島を出る決意をした鈴谷と、島に残りたい熊野とで意見が割れ、喧嘩になった。鈴谷は、何とか熊野をその気にさせられないかと、俺に相談をした。そして俺は、熊野をその気にさせようと、鈴谷との仲を演じたのだ」
夕張は、ほら、とでも言うように、ムッとした表情を見せていた。
「だが、誤算があった。それは、鈴谷が本気で俺を好きになったという事だ。そして俺も、将来、こいつと一緒に居れたらと……本気で思ったことだ」
夕張が何かを言おうと口を開いたのと同時に、俺は言葉をかぶせた。
「だから俺は、今度は鈴谷を騙そうと思った。一緒に島を出る、などとは言ったが、それは一緒に出るというだけで、この島に戻らないという意味ではない……と。俺にはまだ、やることがある。それは、全ての艦娘を人化させること……。それだけは、必ず果たさなければと、本気で思っている」
俺は鈴谷を見た。
「確かに、お前の事は好きだ。だが、俺にはやることがある。お前を騙そうとしたことは謝る……。だが、俺は必ず、全ての艦娘を人化して帰る。だから、それまで待っていてほしい……」
「提督……」
鈴谷は頷くと、もう一度、俺を抱きしめた。
「うん……待つよ……。鈴谷、いつまでも待って見せる……」
「あぁ……ありがとう、鈴谷……」
夕張は熊野に近づき、その肩を揺らし、説得を始めた。
「熊野さん! 貴女はそれでいい訳!? どうして何も言わないのよ!?」
熊野は何も言わず、ただ俯くだけであった。
「ねぇってば……!」
「やめなさい、夕張……」
声をかけたのは、山城であった。
「山城さん……」
「ここまで言われて何も返せないのなら……それがその子の答えなのよ……」
「でも……!」
「……貴女がそこまでムキになるのは、その子の為じゃない。貴女自身の為でしょう……?」
図星だったのか、夕張の手は、熊野の肩からするりと落ちていった。
山城は俺を見た。
「山城……」
「あなた達が幸せになるのは結構なことよ……。でも……貴方がこのまま島に残ることは……いい選択だとは思えない……」
「え……?」
「人化していった艦娘達は、誰のモノでもない貴方に魅かれて島を出ていったのよ……。鈴谷のモノになるというのなら……もう貴方について行く者はいなくなる……」
山城の目は、どこか冷たく、それでいて鋭かった。
「俺が誰かのモノになれば、俺に艦娘を人化させる力は無くなると……?」
「えぇ、そう言っているのよ」
確かにそうかもしれない。
だが、今はそんな事、どうでもいい。
どうして山城が、そんな事を言い始めるのかが分からなかった。
俺に味方をするような事を言っていたのにもかかわらず、だ……。
「……まあ、それは後々結果が出てくることだ。それが本当なら、その時は別の方法でも考えるさ……」
「……そう」
そう言うと、山城は食堂を出ていってしまった。
残された夕張は、俺をキッと睨み付けると、同じように食堂を出て行ってしまった。
「……大淀、あいつらに食事を持っていってやって欲しい」
「は、はい!」
ここで鳳翔を指名しなかったのは、俺の弱さであった。
それが出来たのなら、俺は――。
重い空気が、食堂を包み込む。
その時であった。
「いただきます……」
その声と共に、食事に手を付け始めたのは、大和であった。
「大和……」
大和はただ、静かに食事を摂っていた。
それに倣うように、皆も静かに食事を始めた。
「……俺たちも食べよう」
「う、うん……」
「熊野……」
「…………」
「お前も、席に戻れ……。ここで食いたくないというのなら、あとで部屋に食事を持っていくぜ……」
熊野は何も言わず、自分の席へと戻り、食事を始めた。
「提督……」
「……悪い、鈴谷」
「ううん……。これが、熊野の答えだって言うのなら、鈴谷は、もういいよ……。ありがとう、提督……」
「あぁ……」
静かな食堂には、食器を叩く音だけが響いていた。
夕食後、熊野が俺の元へとやって来た。
「熊野……」
「……貴方にお話があります。少々お時間……宜しいでしょうか……?」
俺は鈴谷を見た。
鈴谷は不安そうに、熊野を見ていた。
「出来れば、貴方と二人でお話ししたいのです……。大丈夫……。変な事は考えておりませんわ……」
変な事、ってのは……。
鈴谷は俺に頷くと、一歩離れて見せた。
「……分かった。聞かれたくないような話なら、場所を変えようか?」
熊野は頷くと、「では、外で……」と言って、部屋へと戻っていった。
「提督……」
「……大丈夫だ。必ず説得してみせるさ」
「……うん。でも、無理はしないでね……」
「あぁ」
心配そうにする鈴谷を尻目に、俺と熊野は寮を後にした。
熊野は、とても暖かそうで、それでいて高級感のあるコートを羽織っていた。
「それも貰い物か?」
俺の問いに、熊野は少し驚いた表情を見せた後、小さく「えぇ」と答えた。
「いつでしたか……島の外にいる元艦娘達が、送ってくれたものですわ……」
「なるほど……。だからか、似合っているのは」
熊野は、小さく会釈して見せた。
おそらく、熊野も分かっているのだろう。
この会話が、お互いを信頼したという、儀式であることを。
「そこに座るか」
「えぇ」
俺たちは、海辺の流木に座り、しばらく海を眺めていた。
熊野は、どう切り出そうかと、様子を窺っているようであった。
仕方がない……。
「……俺の同期にも、同性が好きだという奴がいてな」
熊野は俺を見ると、言葉を待った。
「そいつは男なのだが、自分が同性愛者だという事を、誰にも打ち明けられずにいたようでな。俺も、そいつが打ち明けてくるまで、全く気が付かないでいたんだ」
「…………」
「打ち明けるのが怖かったのだと、そいつは言っていた。自分が同性愛者だという事が周りに知れて、いじめにあった過去があったらしい」
熊野は俯くと、ポツリと零した。
「やはり……今でもあるのですわね……。そういったいじめが……」
「昔に比べたら、今はもっと理解のある社会にはなっているがな。そういった関係を認める制度もあるし」
「そのようですわね……。しかし、まだセクシャルマイノリティ(性的少数者)だなんて言われるほどですわ……」
冷たい風が、俺たちの間を抜けていった。
「……それでも、そんな自分が好きで、そんな自分を認めたくて、そいつは皆に打ち明けたんだぜ。勇気ある行動だと思わないか?」
熊野は何も言わず、ただ俯くだけであった。
「聞いたよ……。昔、この島に来た男に、鈴谷を取られそうになった話……」
「…………」
「酷い男だったようだな……。立場を利用し、好き放題して――そして、鈴谷に惚れた……」
熊野は目を瞑り、拳を強く握っていた。
「鈴谷は、皆を守るため、男の機嫌を損なわないように振る舞っていたが、それを良いように男が受け取り、鈴谷を娶ろうとした。お前は鈴谷を守ろうと、男に立ち向かった。そして、男はお前と鈴谷の関係を知った」
『お前ら、そういう関係かよ!?』
『同性愛なんて、認められるわけがねぇだろ!』
『男は女と、女は男と結ばれる。それが、人間様の社会なんだよ!』
「それからだな……。お前が、人間を受け入れないようになったのは……」
熊野は目を開けると、俯きながら、言った。
「人間の世界がそうであるのなら……わたくしたちは……今のままでいいと思いました……。この島に居れば、艦娘で居られる……。人間でなければ、わたくしたちの関係は続けられる……。理解されなくてもいい……。同情もいらない……。ただ、そこに鈴谷がいてさえくれれば、何も――……」
「……鈴谷も同じだった。いや……同じはずだったんだな……」
「……鈴谷から言われたのですわ。あの人なら――貴方なら、わたくしたちの関係を理解し、守ってくれるのではないかと……」
熊野は顔を上げると、俺を睨み付けた。
「わたくしは……裏切られたと思いました……。どうして鈴谷は貴方なんかに、と……。理解も同情も、わたくしたちには必要ないはずだったのに……! どうして……!」
強く握られた拳が、小さく震えていた。
「鈴谷は……お前と島の外に出たがっていた……。それは、お前との関係を、皆に認めて欲しかったからだ……。自分の気持ちを……自分自身で認めたかったんだ……」
「……分かっています。でも……わたくしは……」
拳が、ゆっくりとほどけて行く。
「……怖い」
「…………」
「怖いのです……。あの男の目が……今でも……わたくしは……」
共感は出来なかった。
熊野にとっては、かなりの恐怖であったのだろう。
俺が当たり前のように過ごしている社会は、こいつにとって――。
共感なんて、出来るわけがない。
「お前たちを守ってやるだなんて、そんな安い言葉を信用するほど、お前の気持ちは軽くないと分かっている。だが、鈴谷も戦う決意を持ったんだ。ただ守られるだけじゃなく、戦うことが出来るんだって、あいつは証明したんだ。お前も分かっているんだろう……? 鈴谷がああまでしてお前に訴えたかったのは、そういう事なんだって……」
真意は分からない。
だが、鈴谷が俺に頼ったのは――俺を好きであると熊野に偽ったのは、熊野にも戦う勇気を持ってもらいたかったからであろう。
単純に嫉妬させるだけでは足りないと、鈴谷が一番よく分かっていたはずなのだから――。
「それでも……わたくしは選べなかった……。鈴谷との……未来を……」
「まだ間に合うはずだ。鈴谷も、それを望んでいる……」
「いいえ……。あの子にはもう、別の未来が見えていますわ……。わたくしの居ない……未来が……」
「そんなこと――」
「――だったら、鈴谷のあの気持ちは、嘘だとおっしゃるの!?」
熊野は俺を睨み付けた後、ぽろぽろと涙を流した。
「鈴谷の気持ち……?」
「あの子は……本気で貴方の事が好きになったのよ……!」
永い沈黙が続く。
その間も、熊野の涙は止めどなくあふれていた。
「鈴谷が……本気で俺の事を……?」
熊野が頷く。
「……そう見えるだけだろう。あいつは、本気でお前の事を……」
「……もしそうなら、あの子はわたくしをどうやってでも説得したはずですわ。けれど、あの子はそうしなかった……」
「……それだけで決めつけるのか? お前はただ、そうやって理由をつけて、逃げているだけじゃないのか? 鈴谷が俺の事を本気で好きになる訳ないだろ……」
今度は首を横に振る熊野。
「あの子の事は、わたくしが一番、よく分かっていますわ……。あの子の目は――貴方に向けられた目は、本気でした……。だからこそ……わたくしは何も言えなかったのです……」
俺は思わず立ち上がって、叫んだ。
「ふざけるな……! そうやって言い訳ばかり並べやがって……! 本当に鈴谷は、お前を置いて行ってしまうかもしれないんだぞ! お前はそれでいいのかよ!?」
熊野は涙を拭くと、俺を真っすぐ見つめた。
「お話ししたいことというのは、その事ですわ……。鈴谷はもう……貴方との未来を見ています……。だからこそ……貴方には、鈴谷を幸せにして欲しいのです……」
熊野は立ち上がると、頭を下げた。
「お願いします……。どうか……わたくしの代わりに……あの子を幸せにしてあげてくださいまし……」
俺は、理解できなかった。
鈴谷が本気で俺を……?
そんな馬鹿な事があるか……。
「……鈴谷の気持ちを確かめずに、諦めるとでも言うのか?」
「確かめずとも……分かりますわ……」
「どうだか……。お前は何も分かっていない……。現に、お前が信じていた鈴谷は、お前とは違う考えを持っていた……。それでもなお、理解していると……?」
熊野は顔を上げると、伏し目がちに言った。
「それならそれでいいのですわ……。しかし、鈴谷の気持ちは本物……。それは確かですわ……」
こいつ……。
「……仮にそうだとしても、そんな事で諦めるのかよ? あと一歩踏み出すだけで、未来は変えられるというのに……」
熊野は深く目を瞑ると、拳を強く握って見せた。
「わたくしだって……本当はそうしたいですわ……。でも……鈴谷は貴方を選んだ……! その事実は変わらない……! その事実が……わたくしには耐えられない……!」
熊野の目から、再び涙があふれる。
「……分かった。なら、こうしよう……。あいつが本当に俺の事が好きだというのなら、それを確かめるために、俺が二人っきりになって、本心を訊いてやる……。お前はそれを、隠れてきいていればいい……」
熊野は涙を拭くと、小さく頷いた。
「分かりましたわ……。ですが……それを最後にしてくださいまし……。わたくしはもう……これ以上、傷つきたくない……」
「……あぁ。もちろん、最後にしてやる……。お前が決意できないというのなら、あいつの口から言わせてやる……。そうすれば、お前も勇気を持てるな……?」
「……えぇ」
どこか自信が無さそうな返事であった。
だが、これでいい……。
「鈴谷とは、明日の夜にでも、この場所で話そうと思う……。もしその前に、気が変わったというのなら、言ってくれ……」
「……分かりましたわ」
そう言うと、熊野は寮の方へと歩き出した。
「熊野……」
熊野は足だけを止め、振り向きはしなかった。
「お前がどう思おうとも、俺はお前の味方だからな……」
熊野は反応することなく、再び寮の方へと歩き、去って行った。
「…………」
『あの子は……本気で貴方の事が好きになったのよ……!』
熊野の事を諦めたというのなら、そういう選択もあるかもしれない……。
だが……。
「そんな事はありえない……。鈴谷は……まだ熊野を諦めていないはずだ……」
そう思うのなら、口に出さなくても良かったはずだ。
なのに、こうして言ってしまうのは――そして、最悪のケースを恐れているのは、何故だろうか……。
「…………」
翌日。
艦娘達はどこか、俺たちに対して余所余所しい態度をとっていた。
いや、或いは、様子を窺っているというような――。
「仕方がありませんよ。あれだけの騒ぎになったのです。邪魔も出来ませんし、ただ見守るほかないのでしょうから」
大淀の目は、早く解決してくれとでも言うように、どこか呆れた様子を見せていた。
その日の夜。
作戦会議と称し、俺は鈴谷を呼び出した。
「じゃあ、先に行っているね」
準備があると嘘をつき、先に鈴谷を行かせ、俺は熊野に目配せをした。
熊野は頷くと、部屋へと戻っていった。
昨日と同じで、準備があるのだろう。
「さて……」
何故か緊張している自分がいる。
もし、熊野の言う通りであったのなら、俺は一体どうしたらいいのだろうか……。
答えが分からぬまま、俺は時間を見て、鈴谷の元へと向かった。
月の綺麗な夜であった。
「鈴谷」
「あ、提督! 遅いよー」
「あぁ、悪い。ちょっと仕事が残っていて、大淀に叱られていたんだ」
嘘であったが、鈴谷はそれを信じた様子で、労いの言葉をいくつかかけてくれた。
「……さて、熊野の事だが」
鈴谷は真剣な表情で、俺の言葉を待っていた。
俺の視界に熊野は見えないが、ちゃんといるよな……?
「昨日、熊野と話した……。熊野はどうやら、お前が本気で俺を好きだと信じているようで、どうか鈴谷を幸せにして欲しいと言われた……」
鈴谷は残念そうに俯いてしまった。
「だが……裏を返せば、お前が熊野に本気だと伝えれば、熊野の気持ちは変わるかもしれないという事だ。あいつはまだ、お前の事が好きなんだ。あの時は、お前が俺に本気だと思ったから、お前の幸せを願ったから、何も言えなかったんだ。だから――」
「――つまり、熊野は諦めたって事でしょ?」
「え……?」
鈴谷は顔を上げると、俺をじっと見つめた。
「鈴谷が本気で提督の事を好きだったとしても――熊野が鈴谷の事、本気で好きだったら、諦めないはずでしょ……?」
「いや……だから……」
「熊野は、どうして提督に勝てないって思ったの……? なんで諦めちゃったの……?」
問うように言ってはいるが、鈴谷は答えを知っているようであった。
「つまり……そういう事だよ……。熊野にとって鈴谷は……その程度だったって事でしょ……?」
俺はもう一度、鈴谷の後ろを確認した。
熊野の姿は見えない。
だが、もし今の言葉を聞かれていたら……。
「……熊野はお前の言葉を待っているんだ。あいつは今……弱っているんだ……。判断が鈍っているだけなんだよ……」
「……鈴谷は、もう散々言ったよ。提督を好きだって言う前にも、何度も何度も……気持ちは伝えたもん……。それでもダメだったから、提督に頼ったんだよ……?」
クソ……マズイな……。
このままじゃ……。
「……分かった。なら、作戦を変えよう。今度は、俺とお前の仲が悪くなって行くよう、徐々に――……」
言葉を切ったのは――いや、切らざるを得なかったのは――。
「す、鈴谷……?」
俺を抱きしめる鈴谷。
心臓の音が、伝わってくるほどに。
「もう……いいの……。熊野の事は……。熊野は……鈴谷の事を諦めた……。だから……鈴谷も別の道をいかなきゃいけない……。そうじゃないと……熊野も鈴谷も……苦しむだけだから……」
「別の……道……?」
鈴谷は俺に向き合うと、頬を赤く染め、言った。
「昨日言ったこと……全部本当だよ……」
「え……?」
「鈴谷……提督の事……本気で好きになっちゃったの……。本気で貴方と……未来を進みたいって思っちゃったの……」
まるで、時が止まったかのようであった。
熊野の言ったことを想定していなかったわけじゃない。
だが、こうして実際に起こってしまうと、俺は、何も出来ずにいた。
「この数日……提督と過ごして、本当に楽しかったし……この人は、本気で鈴谷の事を想ってくれているんだって、気が付いたの……。この人だったら……本当に鈴谷の事……大切に想ってくれるんじゃないかなって……。だから……」
鈴谷はもう一度、俺を抱きしめた。
「熊野を諦めたからだなんて……都合のいい話かもしれないけれど……。鈴谷は……それでも鈴谷は……」
「鈴谷……」
「提督……」
鈴谷の顔が、徐々に近づいてゆく。
「お、おい……」
「お願い……。鈴谷を……受け入れてください……」
鼻先が当たる。
鈴谷は恥ずかしそうに顔を傾けると――。
「――……」
唇が触れそうになった瞬間、鈴谷は動きを止めた。
そして、驚いたような表情を見せた後、ゆっくりと俺から離れていった。
「…………」
状況が整理できず、俺はただただ唖然としていた。
「……ごめん、提督」
「え……?」
「鈴谷……やっぱり熊野の事が好き……! やっぱり……熊野と一緒に居たい……! 諦めたくない……!」
急な心変わり。
いざとなって、本当の気持ちに向き合うことが出来た……という事なのだろうか……?
状況はよく分からないが――困惑しているが、とにかく――。
「そ……そうか……」
「ごめんね……提督……。本当に……ごめんなさい……」
謝る鈴谷。
これじゃあ、俺がフラれたみたいだ……。
「い、いや……。そう決意してくれて、俺も嬉しいよ。そうと決まれば、もう一度作戦会議だ」
「……うん」
熊野は、今の言葉を聞いてくれていただろうか。
それとも――。
翌日。
寮に向かってみると、皆が輪になって、何かを見ているようであった。
「どうした?」
「あ……」
どこか、同情するような瞳で俺を見つめる駆逐艦たち。
輪の中心に目を向けてみると――。
「……なるほどな」
熊野と鈴谷が、お互いを抱きしめていた。
どうやら、どちらかが気持ちを伝えたらしい。
「やれやれ……」
紆余曲折はあったが、何とか解決して良かった。
結局、何が決め手になったのかはよく分からないが、まあ、とにかく、一件落着ってところか。
「司令官……」
駆逐艦たちが俺を囲った。
「ん、どうした?」
「あのね……。気を落としちゃ駄目よ……? 司令官にも、きっと素敵な人が出来るはずだからね……?」
「そうですよ、ご主人様。なんなら、漣なんていかが? なんちって☆」
「……あぁ、ありがとう」
どうやら、俺が鈴谷にフラれたと、駆逐艦たちは思い込んでいるようであった。
その後、鈴谷と熊野は、俺に礼を言って来た。
どちらも、俺が二隻の関係を修復しようと、奮闘していたことを分かってくれていたようであった。
「いや、お前たちのお互いを想う気持が強かった結果だ。良かったな、熊野、鈴谷」
「うん……。ありがとう……提督……」
「本当にありがとうございました……。色々と酷い事を言ってしまい、申し訳ございませんでした……。貴方の仰る通り、鈴谷に気持ちをぶつけて良かったですわ……」
どうやら、熊野の方から気持ちを伝えたようであった。
という事は、やはりあの場所で、熊野は鈴谷の気持ちを聞いていたのか。
そして、俺よりも自分を選んでくれた鈴谷に対し、熊野も決意した……といったところかな。
「これからどうするんだ?」
「うん……。熊野と話し合ったんだけど……。鈴谷たち、島を出るよ」
俺は、熊野を見た。
「まだ、怖い気持ちはありますわ……。でも……貴方が守ってくれるのでしょう……?」
そう言うと、熊野は微笑んで見せた。
「……あぁ! 任せておけ! 必ずお前たちを守って見せるさ」
「心強いですわ。ね、鈴谷」
「うん!」
二隻は、互いに手を取ると、顔を見合わせ、幸せそうな表情を見せていた。
鈴谷と熊野が島を出る事を発表し、寮ではやはり、話し合いが行われることになった。
例の如く、俺は家で待機だ。
「さて……」
「私を利用したのね……」
声の主は、言わずもがな……。
「お前の望む通り、協力してもらっただけだぜ」
夕張は、俺を睨みつけていた。
「明石や鳳翔、大淀にしても、やはりそういう事だったのかと、信じてくれていたようだったぜ。勝手に熱くなっていたのは、お前だけだ」
山城も何かおかしかったが、まあ、とりあえずおいておこう……。
「最初からこうなるって……分かっていたわけ……? 鈴谷さんと貴方の関係を、より強固なものにみせるために、私に嫉妬させたってわけ……?」
「いや……? 嫉妬というか、何かしら言ってくるのは……まあ、お前ではないかとは思っていた。しかし、俺の想定以上に、お前が勝手に熱くなったものだから、成り行きに任せてみただけだ。そしたら、お前がどんどんヒートアップして、手が付けられない状況になっただけだ。利用したわけじゃない。流れに乗っただけだ」
「同じことよ……! 最初からその気だったのなら……言ってくれれば、私だって……!」
「もっと上手く振る舞えたと……? もっと、今回の件に貢献できたと……?」
夕張は、何も言わなかった。
「鈴谷の挑発に乗ったのはお前だし、そもそも先に仕掛けたのはお前だろう。何をそんなに熱くなっている? 何をそんなに怒っている? 少しは冷静に状況を見られるようになったのかと思えば、どうしたんだよ、お前」
夕張は俯くと、座り込み、膝を抱えた。
「だって……」
「…………」
「だって……「突き放したって無駄だ」って言ったけど……。それにしたって……貴方は私を……そんなにしなくてもいいじゃないって程に……突き放すんだもん……」
夕張は、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「――……!」
俺は思わず、目を背けてしまった。
「そんなに冷たくすることないじゃない……。私だって……そんなに強くなった訳じゃないのよ……? 少しだけ不器用なだけじゃない……。なのに……邪魔だなんて言わないでよ……」
夕張はただ、鈴谷に嫉妬した訳ではない。
役に立ちたいと思っただけで、それが余計な事になってしまっただけで――。
俺はそれを利用し、焚き付けて――。
夕張は、引くに引けなくなって――。
「……っ!」
そんな事は、分かっていた。
分かっていて、俺は――。
でも――。
「……泣くなよっ!」
そう言っても、夕張は泣き止まなかった。
「お前が泣いてしまったら……俺は……何も出来なくなる……」
夕張は涙を拭くと、俺の言葉を待った。
「お前が泣かないから……俺は進めたんだ……。お前が強くあるから……俺を恨むから……俺はそこに立てた……。悪役になれたんだ……」
「…………」
「だから……泣かないでくれ……。頼む……」
俺の拳が小さく震えているのに、夕張は気が付いたようであった。
そして、立ち上がると、その拳をそっと、両手で包み込んだ。
「……私は……貴方の役に立てていたの? 私は……貴方の邪魔じゃなかったの……?」
俺は何も言えなかった。
だが、夕張は分かってくれたのか、そっと、俺の背中を抱きしめた。
「……ごめん。私……ずっと自分の事ばかり考えていた……。そうよね……。貴方は……そういう人じゃないわ……。そんなに……強い人じゃなかった……」
「……やめろ」
「やめない……。私……貴方が好きだから……。貴方の事……もっと知りたいから……。なのに……貴方の気持ちを理解してあげられなかった……。ごめんね……」
俺は、必死で耐えていたが、思わず涙を流してしまった。
そして、やがて限界を迎えると、泣き崩れてしまった。
「提督……」
「ごめん……。ごめん……夕張……。俺……俺は……!」
泣き崩れた俺を、夕張はそっと、包み込むように抱きしめた。
「ううん……。私の為に泣いてくれて……嬉しいよ……。それだけで……私……」
俺が泣き止むまでの間、夕張はずっと、俺を抱きしめてくれていた。
大淀や、周りの皆が理解してくれていたからこそ、流さずに済んだ涙が、本人を目の前にして、止めどなくあふれていた。
どれくらい泣いただろうか。
いつの間にか夕張も泣いていたようで、お互いに目を真っ赤にさせていた。
「くそ……思わず泣いてしまった……」
「いいじゃない、たまには……。私は、逆に安心したわ……」
本当に泣きたいのは――俺以上に泣きたいのは、夕張のはずなのだ。
なのに、俺はどうしてこんなにも……。
「……本当は分かっているのよ。貴方を諦めれば、貴方は苦しまずに済むって……」
「…………」
「でもね……。出来なかった……。ほら、私って不器用だから……。こういう方法しか……思いつかないって言うか……やっちゃうって言うかさ……。諦めさせたい気持ちは分かるけど……私の気持ちも、分かって欲しいの……」
「……分かっているさ。でも……俺もお前と同じ……不器用な人間なんだ……。突き放すことでしか……悪人であることでしか……お前の気持ちに向き合えない……。自分の信念を……貫き通すことが出来ないんだ……」
「うん……。知っている……。それが、貴方の優しさだってことも……」
俺は何も言えなかった。
「お互い……不器用同士……手を取ることは出来ないのかな……?」
「……どうすればいいだろうか?」
「え……?」
俺は、夕張を見つめた。
まるで、救いを求めるように――。
夕張は再び、泣きそうな表情を見せた。
「……そうね。一緒に……考えてみない……?」
そして、涙を流すと、言った。
「パートナー……として……。私を……頼ってみない……?」
俺が頷くのと同時に、夕張は声を上げて泣いた。
俺はただ、その体を抱きしめる事しかできなかった。
夕張は強い。
それは確かだ。
だがそれは、俺がこいつを信じてやっているからだ。
そして、それを信じるこいつが居たからだ。
熊野に偉そうなことを言っていたのにもかかわらず――夕張の事を分かっていたはずなのに、俺は、こいつを信じ切れず、ただ突き放してしまったのだ。
こいつが強いからじゃない。
俺が弱いから、突き放してしまったのだ。
「ありがとう……夕張……。これから……よろしくな……」
夕張は頷くと、やっと笑顔を見せてくれた。
あぁ、そうか……。
俺は、こいつを――。
数日後。
熊野と鈴谷、そして俺は、船で本土を目指していた。
「誰も鈴谷たちについてこなかったね」
「まあ、仕方がないだろう。逆に、一緒に島を出たいという方が、珍しいのだろうし」
「そうかもしれないけどさ……」
結局、鈴谷と熊野以外、島を出ようとする者はいなかった。
「別に構いませんわ。すぐにでも、連れてきてくれるのでしょうから。ね、提督」
そう言うと、二隻はニコッと笑ってくれた。
「あぁ、もちろんだ。またすぐに賑やかになるよ」
「頼んだよ、提督。鈴谷たちの事も、守ってよね」
「あぁ」
そんな事を話している内に、船は本土に着いたようで、大きな警笛と共に、エンジンが唸りを上げていた。
工廠では、やはり山風が待っていた。
「鈴谷さん、熊野さん。お久しぶりです」
その姿に、二隻とも大変驚いていた。
特に、熊野はかなり驚いたようで、本当に山風であるのか、クイズを出して確かめていた。
「提督」
鈴谷が小さい声で、俺を呼んだ。
「ん、なんだ?」
「これ……後で読んで……」
そう言うと、鈴谷は俺に、封筒を渡した。
「これは……?」
「必ず一人で読んでね?」
「え?」
「鈴谷、何をしていますの? 行きますわよ」
「あ、はーい。じゃあ、行くね、提督」
「あ、おい!」
鈴谷は手を振りながら、バスへと乗り込んでいった。
バスを見送り、封筒の中身を確認すると、どうやらそれは、手紙のようであった。
「手紙か。中々粋な事をするじゃないか」
感謝の言葉でも書いてあるのかと思ったが、その内容に、俺は驚愕した。
『提督へ
これから書くことは、鈴谷と提督だけの秘密にしておいてください。
実はね、鈴谷、本当に提督の事が好きでした。
あの時、作戦会議をした時、提督にキスをしようとしたでしょ?
あの時ね、鈴谷、見ちゃったんだ。
熊野が、鈴谷たちの話を、木陰で聞いていたのを……。
だから鈴谷、熊野の事が好きだって、叫んだの。
熊野はまだ、鈴谷の事を諦めていないのかもしれないと思って……。
もし、あの時、熊野があそこに居なかったら、鈴谷は、本当に提督とキスをしていたよ。
本当は、言わないでおこうと思ったのだけれど、これから熊野と歩むには、この気持ちに整理をつけたいって思ったから……。
ごめんね、提督。
でもこれで、鈴谷は前に進めます。
熊野と一緒に、未来を歩めます。
本当に、ありがとう。
提督――
――大好きだよ。
鈴谷より』
鈴谷が本気で俺に惚れていたという事実は、正直、そこまで驚くことではなかった。
俺が驚愕したのは、熊野の事であった。
「熊野がいたことに……気が付いた……? 鈴谷が……?」
熊野は、鈴谷の本当の気持ちを知りたがっていたはずだ。
だとしたら、見つかるようなヘマをするだろうか?
あの時、俺の視界に、熊野はいなかった。
キスをしようという時に気が付いたということは、熊野は俺の後ろに居たという事……。
どうして、そんな位置にいたのか……。
「そんなの……一つしかないだろ……!」
熊野は、あえて鈴谷に姿を見せたのだ。
そして、鈴谷に『言わせた』のだ。
俺を諦め、熊野を選ぶよう『決意させた』のだ。
「フッ……ハハハ……」
『怖すぎて笑ってしまう事、あるだろう?』
「本当……恐ろしいぜ……。熊野……」
『鈴谷は貴方を選んだ……! その事実は変わらない……! その事実が……わたくしには耐えられない……!』
確かに、お前はそう言っていたもんな。
しかし、それにしたって……。
「ペテン師め……。いや……ギャンブラーか……?」
再び笑みが零れる。
零れてしまう。
何が『怖い』だ。
何が『諦める』だ。
もしかしてお前は、最初から俺たちを――?
「よう、慎二。お疲れさん。聞いたか? 武蔵たちが人化して……って、どうしたんだ? ニヤニヤ笑って……」
「鈴木……」
「それ、手紙か? なんだ? ラブレターでも貰ったか?」
「……ちょうど良かった。お前、ライター持っているか?」
「ん? あぁ……まあ、持っているけど……。なんだ? お前も吸うようになったか?」
俺は、鈴木からライターを受けとり、手紙を燃やした。
「な……!? 何やってんだお前!?」
手紙は、風の力もあり、すぐに燃え、灰になって海へと溶けていった。
「おいおい……」
「なあ、鈴木……。女ってのは……怖いもんだな……」
「あ? 何だよ今更?」
「いや……」
鈴谷と熊野……。
お前たちは、お互いに秘密を抱えながら、今後も生きていくんだな……。
……いや、その決意を持ったんだな。
「皮肉なもんだぜ……。その秘密が強ければ強いほど……結束もまた、強まるのだからな……」
「は? 何言ってんだお前?」
俺には、そんな秘密、抱え続けることは出来ない。
あんな紙切れが――すぐに燃えてしまうような紙切れ一枚が、あんなにも重いと思う事は、これまでも――そして、これからもないだろうよ……。
「……今日のお前、なんだか変だぜ? 疲れてんのか? コーヒー奢ってやるからよ、ちょっとは休め。んで、仕事の事は忘れろ」
「あぁ……そうさせてもらうよ」
ふと、海を眺めた。
燃えて灰になったであろう手紙が、海に溶け、広がって行くのを感じ、俺は思わず、身震いしてしまった。
「どうした?」
「いや……。そういえば、武蔵たちが人化したと言っていたな」
「あぁ。今はあそこの棟にいるぜ。後で会いに行ってやれよ」
「あぁ」
俺は再び、海を見た。
だがそこには、ただただ穏やかな波が立つ、平凡な海が広がっているだけであった。
残り――20隻
――続く