あの人だけは、違うと思っていた。
「よしよし、潮は可愛いな」
「も、もう! 子ども扱いしないでください!」
「実際、子供だろうに」
「う、潮にだって、大人なところはあります!」
「例えばどんなところだ?」
「む、胸……とか……」
「胸ねぇ……。まあ、大きいようではあるが、それが大人の証明にはならない。もっとこう、陸奥とか大和のような魅力が無いと」
初めてだった。
私の事を子ども扱いする人は。
他の大人たちは、私の事を――その目が怖くて、私はいつも怯えていて――。
だから、初めて提督に会った時、その優しい瞳に――私は恋をしてしまった。
「曙ちゃん……。潮……どうしたら、提督に大人として見られるようになるかな……?」
「さあね……。そのでっかい乳で誘惑してみたら?」
「誘惑……?」
考えたことも無かった。
私の事をそういう目で見る人じゃないって分かっていたし……。
でも……。
「…………」
もし、私が誘惑したら、提督は――。
そして、私の事を意識してもらうのに、それが必要なら――。
ある晩の事だった。
トイレに行こうと、執務室の前を通りかかった時――。
「声……?」
提督の苦しそうな声が聞こえて、私は様子を見ようと、そっと、執務室の扉を開いた。
そこで、提督は――。
「ひゃあ!?」
「な……!? う、潮……!?」
「提……督……。あの……えと……」
提督のソレは、まるで別の生き物のように、脈打っていた。
「ごごご、ごめんなさい! その……提督の声がして……とても苦しそうで……」
思わず目を逸らす。
「い、いや……! 俺の方こそ……鍵をかけていれば良かったものを……!」
ふと、鏡越しに提督の姿を見た。
傍に置かれている本には、大人の女性が裸で載っていて――。
「……提督も、そういう事……するんですね」
男の人に必要な事だって、知ってはいた。
でも、まさか、提督も同じだったなんて……。
「まあ……俺も男だからな……」
提督の気持ちを反映するように――小さくなって――。
『そのでっかい乳で誘惑してみたら?』
『もっとこう、陸奥とか大和のような魅力が無いと』
「お、おい! 潮、何をやって……!」
証明したかった。
潮も大人だって。
それと同時に、提督は違うって――あんな目を、私に向けないって――証明したかった。
「提督……」
矛盾しているって、分かってはいた。
それでも、思いとどまってくれるって、思っていたから――。
「あ……」
私の裸に、提督はしっかりと反応していた。
嬉しかった。
初めて、大人として見られたんだって。
けど――。
「提――」
顔を上げた瞬間、後悔した。
自分の認識が甘かったと、反省した。
荒い息遣い――血走る目――まぎれもない、あの目――。
「提……督……?」
「潮……」
近付く提督。
私は、動くことが出来なかった。
「スマン……。もう……我慢できそうもないんだ……」
「え……」
「お前を穢さないから……」
そう言うと、提督は――。
結局、提督も他の男と同じだった。
自分を慰める事に必死で、私に触れこそしなかったけれど、その目は、他の大人と同じものだった。
その日から、私を見る提督の目の色は変わった。
いつものスキンシップも、揶揄いも――普通の会話すら、しなくなってしまった。
私を避けなければいけないというその態度もまた、他の大人と同じだった。
「…………」
あんなにも大好きだった提督が、今はただの――。
「司令官! あそぼー!」
「あぁ、いいぞ」
「…………」
私にあんなことをしておいて、平気な顔で他の駆逐艦たちと戯れる提督に、私は――。
ある日の晩、私は提督を自室に呼び出した。
「う、潮……。俺に……何の用だ……?」
提督は緊張しているようだった。
それと同時に『期待』もしているようで――その証拠に、提督の――。
私の視線に気が付いて、提督はそっぽを向いてしまった。
「提督……」
「な、なんだ……?」
「あの日から……あの日の夜から……提督は潮の事……避けるようになりましたね……」
「そ……んなことはない……」
「視線が合う事も無いし……スキンシップも――会話だって――」
提督の背中は、とても小さく見えた。
「……提督」
「なんだ……?」
「こっち……向いてください……」
提督がゆっくりと振り返る。
そして、私の姿を見ると――。
「潮っ……! お前……!」
嗚呼、やっぱり――。
「……いいですよ。『また』……しても……」
提督に迷いはなかった。
裸の私を前に、提督も服を脱ぎだして――。
「あっ……!」
「え……」
相当我慢していたのか、下着を脱いだ瞬間、提督は――。
「す、すまない……! 今、拭くものを……!」
慌てふためく提督。
ここで悲鳴を上げれば、この男はもう……。
「あ……」
ふと、自分の体を穢したソレに目を向けた。
その瞬間――。
「うっ……うぉぇ……」
「潮!?」
自分でも、何故嘔吐したのか分からなかった。
ただ、その穢れが体に沁み込んでくる感覚に襲われて――。
「キモチワルイ……」
「え……?」
キモチワルイ……。
キモチワルイキモチワルイキモチワルイキモチワルイ……!
「潮――」
「近づかないで……!」
肌を伝う感覚……ニオイ……温度……。
男の声……視線……存在……。
ここにあるもの全てが、私を不快にさせる。
「キモチワルイキモチワルイキモチワルイ……!」
「う、潮……」
再び吐き気がして、私は思わず蹲った。
そして、やっとのことで『予定通り』悲鳴を上げることができた。
「潮!? どうかして……って、何やってんのよ……!?」
それからの事は、よく覚えていない。
私の作戦通り――思惑通り、提督は島を追い出されて、皆は私に同情するようになった。
これでいい。
あんな目をした提督は――あんな男は、もう――。
「これでもう安心よ……潮……。守ってあげられなくて……ごめんね……」
「…………」
曙ちゃんの言う通り、私は安心していた。
もう二度とあんな思いはしたくなかったし、皆が私を守ってくれると思ったから。
それでも――。
「ひっ……!」
時々、ふとした拍子に、あの時の感覚に襲われるようになっていた。
「潮!? 大丈夫!?」
「曙ちゃん……私……私……!」
そんな私を、皆は献身的に支えてくれた。
私も、それに甘えることにした。
安心できたし、何よりも楽だった。
私が戦わなくても――私が嫌な思いをしなくても、皆が代わりに戦ってくれる。
利用しない手は無かった。
ずっとこのままでいいと思っていた。
なのに――。
「あんたも腹をくくりなさい……! あんたを守ってくれる人は、もうその人間しかいないのよ……!」
こんなことになるなんて……。
雨宮慎二……。
『俺はもっと、大人の女が好みで……』
結局、貴方もあの男と一緒なはず……。
誰も守ってくれないのなら――もう一度同じ事が起これば、きっと皆も――だから――。
「腹をくくる……。もう二度と……こんな思いをしない為にも……」
私の決意に、雪風ちゃんは不気味に笑って見せた。
『不死鳥たちの航跡』
結局、俺が故意に潮の胸を揉んだのかどうかについては、大淀の計らいで不問となった。
「全く……。悪かったな、大淀」
「いえ。あの……本当にやっていないのですよね……?」
「お前まで疑うか……」
「だって、理由が分かりませんから。潮さんが提督の家に居た理由が……」
「俺にだって分からん……」
朝食を摂っている間、皆、俺から距離をおいていた。
「効果絶大だな……」
「私としてはありがたいですけどね。提督と二人っきりで朝食を摂れるなんて、滅多にない事ですから」
俺にしか聞こえないように、大淀は小声でそう言った。
「お前……この状況を楽しんでいないか?」
「さあ、どうでしょうね」
そんな事を話していると、夕張が食事を持って、俺の隣にドカッと座った。
「どうした?」
「いえ? ただ、なんか可哀想だなって思って」
「同情か? 半分、お前のせいでもあるんだぜ……。それに、大淀がいるから、お前の気遣いは無用だ」
そう冷たくあしらってやると、夕張はムッとした表情を見せていた。
「大淀との会話を楽しんでくれていると解釈しても?」
「独りで飯を食っているよりはマシなだけだ」
「揶揄われているのに?」
「ロリコンなんじゃないかと疑われるよりは、な」
そう言って、夕張に目を向ける。
「……何よ。私だって、別に本気でそう思っている訳じゃないわ……」
「どうだかね……」
「だって、大人の女性が好み、なんでしょ……?」
どこかバカにするような言い方であった。
「へぇ、そうなんですか?」
「らしいですよ。なんでも、異性として意識したのは、大人の女性だけだとかなんとか……」
こいつ……。
「大人の女性……ですか……。提督、大淀はどうです? 大人の女性……でしょうか……?」
「知らん……。そもそも、別に俺は、大人の女性が好きだという訳ではない……。雪風やこいつが勝手に言っているだけだ」
「では、どんな女性が?」
俺はそれに、言葉を詰まらせてしまった。
「やっぱりロリコンなんじゃないの? 大人の女性だとか言っているのは、ロリコンを隠す為のカモフラージュだったりして……」
「しつけーな……。まあ……好みかどうかはいいとして……。確かに、お前のようなお子様よりかは、大人の女性の方がマシかもな」
そう言って、飯を口に運んだ時であった。
夕張が急に、机を強く叩いたのだ。
「びっ……くりした……。おい!」
「悪かったわね……。大人の女性じゃなくて……」
「はぁ? お前、何をそんなに怒って――」
「――怒ってない!」
食堂が、静寂に包まれる。
「て、提督……。今のは言い過ぎですよ……」
「言い過ぎって……。突っかかって来たのはこいつだろ……。何を言い返されてムキになってんだ……」
「いいですから……。謝った方がいいですって……」
夕張は俯き、何かに耐えるように拳を握っていた。
「はぁ……。分かったよ……。悪かったな……。お前は大人の女性だよ……。ロリコンの俺が保証してやる」
「提督! ふざけない下さい!」
「だってよ……」
夕張は立ち上がると、そのまま走って食堂を出て行ってしまった。
「あ、夕張さん!」
「なんなんだよあいつ……」
「提督! ちょっとムキになり過ぎですよ……。どうされたのですか……」
「ムキになっていたのはあいつの方だろうが……」
と、口では言ってはみたものの、確かに、自分でもよく分からないが、ちょっとムキになっている自分がいた。
素直に謝ればよかったものを……。
「後でちゃんと謝ってください……」
「……分かっているよ。今は、飯に集中させてくれ……。ったく……」
今だって、追いかけて謝ればいいものを……。
どうしてこう、素直になれないのだろうか……。
昨日までは、あいつに対して優しくしようと決めていたのに……。
いつもいつも、こう、ムキになるあいつに対して、何故俺まで熱くなってしまうのだろうか……。
「…………」
いや、元はと言えば、あいつがロリコンロリコンと突っかかって来たのが悪い訳で――。
そもそも、どうしてわざわざあいつに優しくしなければ――。
確かに、あいつの泣き顔を見るのは辛くて――。
でも、ありゃ一時の感情で――。
「提督?」
「ん?」
「どうしました? 箸、止まっていますよ」
「あぁ……。いや……」
『そんなに冷たくすることないじゃない……。私だって……そんなに強くなった訳じゃないのよ……? 少しだけ不器用なだけじゃない……』
クソ……。
「悪い、大淀……。ちょっと行ってくる……」
「え?」
「夕張のところだよ……。謝ってくる……」
そう言って立ち上がった時であった。
「あ……」
山城が、俺の前に立っていた。
「山城? どうした?」
山城は驚いた表情を見せた後、すぐにいつもの不機嫌そうな顔に戻して見せた。
「あの子に……謝りに行くの……?」
「……あぁ。なんだ? 不満か?」
山城は首を横に振った後、道をあけてくれた。
「もしかして、謝れと説得しに来たのか?」
山城は何も答えなかった。
「……俺が駄目だったら、あいつのこと、頼んだぞ」
山城の返事を待たず、俺は食堂を後にした。
「夕張」
夕張の部屋をノックする。
返事はない。
「……入るぞ」
扉を開け、部屋に入ると、夕張は隅っこで、顔を隠すようにして、膝を抱えていた。
「……何しに来たのよ」
「謝りに来たんだ……。隣、いいか……?」
夕張は小さく頷いた。
依然として、顔は隠されたままだ。
「よっと……。はぁ……」
永い沈黙が続く。
「……さっきは悪かったよ。ムキになり過ぎた……。ごめんな……」
夕張は首を横に振ると、かすれた声で言った。
「謝るのは私の方……。ごめんなさい……」
冷静になった……ようだな……。
「貴方と大淀さんが、仲良さそうに話していて……イライラしちゃったの……」
俺と大淀が話していただけで……。
「でも、それだけじゃないの……。たまにだけど……何でもないはずなのに、イライラする日があって……。今日がその日みたいで……」
イライラする日……か……。
「頭とかお腹が痛くなって……イライラして……。今朝……貴方に話を聞いてもらおうと、家に行ったの……。話をすれば、幾分かイライラも治まると思って……」
「だが、逆にストレスになってしまった……というわけか……」
夕張は頷いた。
「それは……悪かったな……」
「ううん……。謝らないで……。悪いのは全部、私だから……」
より小さくなる夕張。
本当、こいつは……。
「それで?」
「え……?」
「話……何を話そうとしてくれていたんだ?」
夕張は顔を上げると、俺を見た。
泣いていたのか、目が赤くなっている。
「聴かせてくれよ。その話とやらを」
「……もういいわよ。大した話でも無いし……」
「なんだよ。気になるだろ」
「話って言っても、ほとんどが愚痴っていうか……悩みっていうか……」
「それでもいいよ。ほら、聴かせてくれよ」
「……優しいのね。貴方はこんなにも優しいのに……私……うぅぅ……」
とうとう夕張は泣いてしまった。
なんか、心が不安定だな……。
「大丈夫だ……。いっぱい泣いて、すっきりしておけ……」
「うん……。話……聞いてくれる……?」
「あぁ……」
夕張は泣きながら、たくさん話してくれた。
時々、イライラする日が来ること。
その度に、俺に突っかかってしまうこと。
それを後悔し、自己嫌悪に陥ったこと。
なるべく俺に近づかないようにしていたこと。
寂しかったこと。
自分だけ、俺の夢を見れなかったこと――。
「私が夢を見れなかったのは……私が貴方に酷い事をしたからなのかなとか……貴方に嫌われているからだとか……色々考えちゃって……。関係ないって分かってはいるんだけれど……。少しでも……理由が欲しくて……」
「そうか……」
「ただ夢が見れなかっただけなのにね……。笑っちゃうでしょ……?」
「いや……笑わないよ。くだらないとは思うがな」
夕張は黙り込んでしまった。
「そんなに夢の俺に会いたかったのか? 俺はここにいるのに」
「……!」
「夢なんかでじゃなく、現実の俺に絡みに来い。相手をしてやるからさ」
そう言って微笑んで見せると、やっと笑顔を返してくれた。
「でも、面倒くさい顔するんでしょ……?」
「実際、面倒くさいしな。あぁそれと、この前、島を出た時に、話を聞いてきたんだ。夢とヘイズ感染量の関係性についてな」
「ヘイズ?」
俺は、先生から聞いたことを、夕張に話してやった。
「そうだったのね……」
「つまり、ヘイズの感染量によって、夢を見ることがあるらしい」
「じゃあ、私はどうして……」
「あぁ、それは――」
『……あの島で、感染量の少ない艦娘はいますか?』
『いるよ。極端に少ないのが一隻だけね。それは――』
「お前の感染量が、極端に少ないからだ」
「そう……なの……?」
「知らなかったのか?」
「え、えぇ……。あ、でも……確かに、なんか、言われたことがあるような気もするけれど……」
まあ、興味はないよな……。
だから何だって話だし……。
「とにかく、お前が夢を見なかったのは、それが理由だ。だから、俺に突っかかったからだとか、嫌われているだとか、変に悩む必要はないんだぜ」
そう言ってやると、夕張はほっとした表情を見せた。
「そっか……。そうなのね……」
「少しは楽になったか?」
「うん……かなり……。ありがとう……提督……」
「おう。さてと……。そろそろ戻らないとな……」
「あ……待って……」
「ん、どうした?」
「ちょっとだけ……頼みたいことがあるの……」
「おう、なんだ? 言ってみろ」
「ここ……座って……」
言われた通り、座ってやる。
すると、夕張は背を向け、俺の足と足の間に座り、寄り掛かった。
「夕張?」
「あのね……お腹……さすって欲しいの……」
「え? お、お腹?」
「うん……。お腹さするとね……? ちょっと……痛みが和らぐの……」
どういう原理だ……。
しかし、まあ……楽になるというのなら……。
「分かった。こうか?」
腹をさすってやる。
細いなぁ……。
筋肉質というか、痩せていると言うか……。
「もうちょっと……下……。おへその下辺り……」
「ここか?」
「んっ……そこっ……」
さすってやっている間、夕張は借りてきた猫のように大人しかった。
「楽になって来たか?」
「んっ……う……んっ……」
どれほどさすっていただろうか。
「もう……大丈夫……。ありがとう……」
「そうか」
温まったのか、夕張の顔は赤くなっていた。
「じゃあ、そろそろ戻るか?」
「先、戻ってて……。ちょっと、休んでから顔を出すわ……」
「そうか。無理はするなよ」
「うん……」
「じゃあ、お先に」
少し苦しそうにしている夕張を心配しつつ、俺は食堂へと戻った。
朝食を済ませ、執務室で書類仕事をしていると、曙がやって来た。
「曙」
「潮、その気になったみたいね」
「そのようだな」
曙は近くに座ると、机の上の書類を手に取った。
「それで、どうするのよ?」
「どうもしないさ。俺からは何もしないと言ってしまったしな」
「じゃあ……」
「待つさ。潮は俺を本気で追い出そうとしてくるはずだ。そこを返り討ちにする」
「返り討ちにするって……。勝算はあるの?」
「そんなものはない。相手がどう来るのかも分からないしな」
曙はため息をつくと、書類を戻し、机に伏した。
「心配か?」
「別に……。あんたなら出来るって思っているし……」
俺は思わず顔を上げ、曙に目を向けた。
「なに……?」
「いや……。潮の事が心配かどうかって、意味だったのだがな」
曙は顔を真っ赤にして焦りだした。
「違っ……! その……今のは……!」
「随分買ってくれているんだな。俺の事」
曙は目を逸らしながらも、小さく頷いてくれた。
「否定しないんだな」
「そりゃ……そうでしょ……。あんたの親父ですら、ここまでは……」
曙は再び机に伏すと、そっぽを向いてしまった。
まだ恥ずかしいのか、耳は赤くなっていた。
「それでも、やはり心配だったんだろう? 皆から避けられた俺を見て――夕張とのいざこざを見て、心配になって、来てくれたんじゃないのか?」
「そんなんじゃないし……」
「じゃあ、何をしに来たんだ?」
永い沈黙が続く。
「曙」
「……なによ?」
「ありがとな」
そう言って、曙の頭を撫でてやった。
文句の一つでも飛んでくるかと思ったが、曙は何も言わず、ただ撫でられるだけであった。
「さて……。そう心配されては、やはり何もしないって訳にはいかないよな……」
「……どうする気よ?」
「大和と交流する。潮はおそらく、大和が味方でいる限り、自ら動くことはしないだろう。大和が俺の味方なのだと認識すれば……」
「潮から動く……。そして、そこを返り討ちにするって訳ね……。でも、いくらあんたが大和さんとの交流を進めていたとはいえ、今回の件で、もう……」
「そこは問題ないはずだ。大和は全てを分かった上で、潮の味方をしている。間接的に、俺に協力してくれているんだ」
「なにを根拠に……」
「根拠なんてない。だが、きっとそうだ」
曙は呆れたというように、わざとらしくため息をついて見せた。
仕事を終え、部屋を出ると、雪風と鉢合わせた。
「おっと……」
「しれえ!」
相変わらず声がデカいな……。
「ちょうど良かったです! これ、食堂に持って行ってくれませんか?」
そう言うと、雪風は食器を俺に渡した。
「なんだこれ?」
「食器です!」
「いや……食器なのは分かっている……」
「この前、潮さんに食事を持っていった時に、戻し忘れたものです!」
戻し忘れか……。
にしては、綺麗なもんだな……。
「洗ってあるので大丈夫です!」
俺の心を読んだかのように、雪風は元気に答えた。
「では、お願いしますね!」
「あ、おい!」
雪風はそそくさと、どこかへ行ってしまった。
ちょうど良かった……じゃねーよ……。
押し付けやがって……。
「仕方ないな……」
ぶつぶつと文句を言いながら食堂に入ると――。
「ひゃあ……!?」
この声……。
声の方へ視線を向けると、大和の陰に隠れた潮と目が合った。
同時に、鋭い眼光の大和とも――。
「よう」
食器を置き、大和に近づく。
怯える潮を背に、大和は立ちふさがった。
「そう警戒するな。何をしていたんだ?」
大和は答えず、ただ俺を睨むだけであった。
机の上には、色鉛筆やクレヨン、描きかけの絵が置かれていた。
「遊んでやっていたのか」
「……何の御用ですか?」
「いや、ただ食器を置きに来ただけだ。雪風に押し付けられてな」
食器を指してやっても、大和は俺から目を離さなかった。
「だが、ちょうどいい。少し、時間あるか?」
潮が小さくなる。
「……そちらからは手を出さないのでは?」
「あぁ、いや……。勘違いさせて悪いが……俺はお前に言っているんだ。大和」
驚いた表情を見せたのは、潮だけではなく、大和も同じであった。
「ダメかな?」
大和は少し考えた後、再び険しい顔を見せた。
「そういう事……。大和を利用するおつもりですか……?」
やはり、そう考えるか。
だが、ここは正直に答えてやろう。
「無論、そのつもりだ」
大和は再び、驚いた表情を見せた。
「だが、お前だって分かっているはずだ。いつまでも、そうしてやっているわけにはいかないと……」
大和は何も言わなかった。
「これは、お前にも言える事なんだぜ、大和」
「はい……?」
「いつまでも、こうしていがみ合っているつもりか……?」
潮が、困惑した表情で大和を見つめていた。
「お前には、本気で俺にぶつかって来て欲しいんだ。俺を嫌いになるのは、それからでもいいはずだろう?」
大和は目を瞑り、何かを考えているようであった。
「大和……」
永い沈黙が続く。
その沈黙を切ったのは、潮であった。
「や……やめてください……!」
「潮さん……?」
「大和さんが……困っています……!」
怯えたような態度ではあったが、その目には――。
「そうなのか……?」
大和は答えず、ただ目を逸らすだけであった。
「……そうか。まだ……追いついてすらいなかったわけか……」
その言葉の意味を、大和は理解しているはずであった。
「もう二度と……私たちに近づかないでください……!」
「安心しろ。お前には近づかない。だが、大和……お前は別だ……」
「しつこいです……! 大和さん、もう行きましょう……」
潮に手を引かれ、大和は歩き出した。
「大和」
大和が足を止める。
「大和さん……?」
「……俺は、最後の場所から動けないでいる。お前も……同じか……?」
大和は答えなかった。
「い、行きましょう……!」
動けないでいる大和を押しながら、潮たちは食堂を出ていった。
それから消灯時間まで、特に何かが起こるわけでも無く、時間は過ぎていった。
「提督、また寮に泊まったりしないんですか?」
「なんだ、泊って欲しいのか?」
明石はコーヒーを飲みながら、小さく頷いた。
「また、提督の夢が見たいなって……。夢の中だったら、提督は私を愛してくれるじゃないですか?」
「まるで、現実では愛していないような事を言うじゃないか」
「愛しているんですか? 私の事」
「愛しているじゃないか。皆と同じように」
そう言ってやると、明石は拗ねるように寝ころんで見せた。
「ここで寝ちゃおうかな~?」
「おい」
「冗談ですよ。でも、最近、全然構ってくれないじゃないですか……。夕張とか大淀ばかりに構って……」
「そんなことはないと思うがな」
「そんなことありますよ! 私も、夕張みたいに怒っちゃうかもしれませんよ?」
夕張のように……か……。
もしそうなったら、確かに厄介かもしれないな。
だが……。
「お前には無理だろうな。怒る前に、泣くだろ、お前」
そう言ってやると、明石はムッとした表情を見せた。
「じゃあ、今からギャン泣きしますけど?」
「フッ、やめてくれ」
俺の笑顔に、明石は何故か、満足気であった。
「まあ、涙は島を出る時まで取っておけ。構ってやれなくて悪かったな」
そう言って撫でてやると、今度はしおらしくなってしまった。
自分のために頑張ってくれているのに、我が儘言っちゃったなって顔をしているな。
「――とか思っているんじゃないですか?」
「あぁ、思っていた。泣かなくてよかった、ともな」
明石は頭突きをすると、そのままもたれかかり、動かなくなった。
「……もう少しの辛抱だ。今の内に、島の外へ出たらやりたいことでも決めておけ」
「……そんなものは、昔から決まっています」
「そうなのか?」
「えぇ……。でも、今はちょっとだけ違って……」
明石は俺の目をじっと見つめた。
「そのやりたいことの全てに……提督も一緒に居て欲しいって……思っています……」
顔を赤くする明石に、俺は思わずドキッとしてしまった。
どうも惚れやすくていけないな……俺は……。
「夢の続き……」
「え?」
「夢の続きも……期待していますから……」
そう言うと、明石は立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。
「夢の続きって……」
俺は何故か、夢で見た明石の裸体をはっきりと思い出してしまった。
そして、連想ゲームのように、山風や陸奥の裸体が思い浮かんで――。
『雨宮君、本当は我慢してるんじゃないの? あの島でさ、たくさん、誘惑されたんじゃない? その度に、体が熱くなるのを感じたんじゃない?』
秋雲の言葉が、俺を責め立てる。
山風の笑顔も、また――。
家へ帰る前に頭を冷やそうと、海辺に向かった。
「はぁ……」
最近、ああいったような誘惑をされると『反応』してしまう自分がいる。
以前は少なかったように思うが――いや、そもそも、誘惑されることが無かったから――しかし、それにしたって――。
「思春期の中学生か……俺は……」
そんな事を呟きながら、海を眺めていた時であった。
後ろの方で、砂を踏む音がした。
振り返ってみると――。
「――……!」
思わず息を呑む。
月の出ていない夜なはずなのに、そいつだけは、まるで何かに照らされているかのように光って見えた。
長い髪が風に揺れるのと同時に、そいつは足を止めた。
「大和……」
乱れる髪を整えながらも、大和は俺から視線を外さなかった。
永い永い沈黙が続く。
このまま、夜明けを迎えるのではないかと、思うほどに――。
「ど――」
「――ここではないはずです」
言葉が重なる――が、そんな事などお構いなしとでもいうように、大和は続けた。
「大和が漂流物を見つけたのは……あちらです……」
そう言って、指差す大和。
俺は、頭が混乱して、何も言えずにいた。
「……貴方が呼んだのでしょう? 何をそんなに驚いて……」
大和は何かに気が付いたような表情を見せると、深くため息をついて、寮の方へと引き返し始めた。
「え……あ……大和!?」
やっとの事で出た声は、裏返っていた。
「お、俺が呼んだって……どういうことだ……!?」
大和は答えない。
俺が呼んだ……?
いつ……?
『ここではないはずです』
『大和が漂流物を見つけたのは……あちらです……』
さっきの言い方……。
まるで、俺がそこにいるはずだとでもいうような……。
『……俺は、最後の場所から動けないでいる。お前も……同じか……?』
「あ……!」
俺の声に、大和は足を止めた。
「もしかして……あの言葉を受けて……?」
大和は再びため息をついた。
「そういう意味ではなかったのですね……」
「いや……まあ……どうかな……」
単純に、漂流物関連の交流から、進展できていないという意味だったのだがな……。
「けど……そうか……。そういう意味で言ったとしても、お前は来てくれたんだな……。嬉しいよ……」
大和は何も言わなかった。
「……来てくれたって事は、俺と話す気になってくれたってことか?」
「……どうでしょうね」
そうじゃない、と言われなかっただけなのに、俺の心は舞い上がっていた。
「『俺も』勘違いしていいか……? お前に追いついたかもしれないって……。お前の隣に……立てるかもしれないって……」
大和は答えなかった。
永い沈黙が続く。
「……先に行っているぞ」
そう言って、漂流物のあった方へと歩き出す。
砂を踏む足音は、一つだけで――いや……。
「!」
大和は小走りで駆けてくると、俺の隣を歩き出した。
「…………」
言葉も、視線も――気持ちを伝えることは何もしていないはずなのに、大和の気持ちが――それはおそらく、大和も同じなのだろう。
一歩、また一歩と、歩みを進める度に、乱れた足音は、やがて一つになっていった。
漂流物のあった場所に着き、近くにあった流木に座ると、大和も――少し離れてはいたが――座ってくれた。
海はとても静かで、空には紡ぎきれないほどの星が鏤められていた。
「ようやく……同じ景色が見れたな……」
大和は何も言わなかったが、視線は俺と同じ方向を向いていた。
永い沈黙が続く。
それでも、俺の頭の中では、何度も何度も、大和との会話シミュレーションが行われていた。
「……こうしてさ」
大和は、少し驚きながら、視線を俺に向けた。
「こうして、いざ会話をしようと思っても……何も思い浮かばないものだな……」
大和は少し考える様子を見せた後、ゆっくりと口を開いた。
「同じです……」
「え……?」
「貴方に呼び出されたと勘違いして……こうしてここに来るまで……何を話せばいいのか、色々考えていました……」
「…………」
「色々考えて……こうしよう……ああしようって……決めていたのに……。こうやって隣に座ってみると……結局何も言えませんでした……」
大和も同じことを……。
「そうか……。嬉しいよ。そこまで考えてくれていただなんてさ」
今度は顔を背ける大和。
話して数分しか経っていないが、俺の中の大和の印象は、大きく変わっていた。
だからだろうか――。
「前々から気になっていたこと、訊いてもいいか?」
「……はい?」
「鳳翔の事、好きなのか?」
想定していない質問だったのか、大和は唖然とした表情のまま、しばらく固まっていた。
「どうなんだ?」
「……好きか嫌いかで言えば、好きですよ」
「それは、恋愛対象としてか?」
「そ……ういう感情とは……違うかもしれません……」
「でも、他の誰かにとられるのは嫌か?」
大和は黙り込んでしまった。
「悪い、変な事を訊いたかな」
「いえ……。そういう貴方はどうなんです……? 鳳翔さんの事……好き……なんですか……? 異性として……」
「そうだ……と言ったら?」
再び黙り込む大和。
「フッ、聞きたくなかったというのなら、質問しなければ良かっただろうに」
「別に、そんな事は……」
そっぽを向く大和に、俺は思わず笑ってしまった。
「…………」
「悪い。つい、楽しくなってしまってな」
「……そうですか」
何故だか、大和の気持ちが手に取るように分かった。
きっとそれは、大和も同じなのだろう。
だから、俺は――。
「そう言えば――」
どれくらいの時間が経っただろうか。
「――その時の熊野の顔ときたら」
「無理もないでしょうね。大和も、大人になった吹雪さんの写真を見た時、とても驚きましたから」
大和が微笑む。
それは、俺に向けられたものではなかったが、思わずドキッとしてしまった。
「そうか……」
「えぇ……」
吹雪さんを思い出すかのように、目を瞑る大和。
永い沈黙。
だが、気まずくはない。
むしろ、心地よくて――。
「……訊かないのですか?」
「え……?」
「潮さんの事……。大和を……利用するんじゃなかったのですか……?」
目を瞑ったまま、大和はそう問うた。
「……そういえば、そうだったな。すっかり忘れていたよ」
きっと、この言葉の意味を、大和は――。
「なら、訊いたらいいじゃないですか。今……」
冷たい風が、大和の長い髪を揺らした。
乱れた髪を整える手で、その表情は見えないが、おそらくは――。
「潮の事……か……」
「…………」
「……いや、いいよ。やめておく」
「……何故です? こんなチャンス、もうありませんよ……?」
「チャンスはない……か……。なら、尚更だ。もう二度と無いというのなら、今はこの時間を楽しみたい。潮の事ではなく、お前の話が聴きたい」
大和は何も言わなかった。
「……結構恥ずかしい事を言っているんだ。笑ってくれてもいいんじゃないのか?」
「……笑える話であれば、とっくに笑っていますよ」
髪をかき上げる大和。
風はもう止んでいた。
「別に――」
「――気を遣った訳じゃないぜ」
重なる言葉。
「気を遣った訳じゃない……。本心だ……」
重なる視線。
「本心だって……分かるはずだ……。そうだろう……?」
重なる――……。
「……分かりません」
立ち上がる大和。
「分かりません……。貴方は……ただ大和を利用すればよかったのです……。お膳立ては……済んでいたはずです……」
「…………」
「そんな薄っぺらい言葉を……信じろとでも……?」
俺は思わず立ち上がった。
「大和……!」
どうして伝わらないんだ。
「この交流の目的がそういうものだと……分かって言っているんです……。ですから、別にいいんですよ……」
どうして分かってくれないんだ。
「……仮にそれが、お前の本心だとでもいうのなら、俺は悲しいよ」
どうして分かろうとしてくれないんだ。
「……っ! そんな言葉で……大和を騙そうとでも……!?」
どうして――。
「……やっぱり、来るべきではありませんでした。せっかくお膳立てしてあげたのに……! 貴方は――……」
大和が言葉を切ったのも、無理はなかった。
「……すまない」
大和は言葉を失っていた。
これは、策略でもなんでもない。
ただ、自然とあふれ出していたのだ。
「……すまない」
もう一度そう言って、俺はその場を立ち去った。
自分でも、よく分からない。
仮に、大和の言葉に傷ついたとしても――悲しかったとしても――。
「泣く奴があるか……」
止めどなくあふれる涙を拭きながら、足早に家へと帰った。
結局その日は、そのまま眠ってしまった。
怒り、悲しみ――希望からの絶望――色んな感情に支配され、疲れ切っていた。
もういっその事、全てを諦めてしまおうかとも――。
翌朝。
軽くシャワーを浴びると、不思議なことに、憂鬱な気持ちも一緒に洗い流されたのか、気持ちが楽になった。
「ふぅ……」
昨日は、悲しみや怒りに感情が支配されて、冷静に考えることが出来なかったが――。
「どうってことない……。そうさ……。いつも通りに戻っただけだ……」
何をあんなに泣いてしまったのだろうか……。
こんな俺を大和は笑っているだろうか。
それとも――。
食堂に入ると、まだ時間的には早かったのか、数隻の艦娘しかいなかった。
「提督、おはようございます」
「おう、おはよう。鳳翔」
辺りを見渡す。
大和はまだ来ていないようであった。
「今日は隣に座ってくださるのですか?」
鳳翔は、少し嫌味っぽくそう言った。
「隣に座らないと、飯抜きか?」
「あら、その手がありましたね」
そう言うと、鳳翔は楽しげに笑った。
言うようになったよな、こいつも……。
「座るよ。座りますともさ」
そう言って、席に座った時であった。
「大和さん……!」
廊下の方で、潮の叫ぶ声が聞こえた。
その声はだんだんと近づいて行き――やがて二隻は、食堂へ入って来た。
「大和さん! どうして無視するんですか!? どうして!?」
潮が何度も大和に問いかける。
だが、大和はまるで、聞こえないとでもいうように、無視を決め込んでいた。
「大和さん……」
大和は俺を見つけると、ゆっくりと歩み寄って来た。
「大和……」
昨日の事を思い出し、思わず赤面する。
言い訳の一つでもしようと、口を開きかけた時であった。
「おはようございます。……提督」
食堂が、静寂に包まれる。
「……え……あ……お、おは……よう……?」
大和はそのまま、俺の向かいの席に座った。
今度はざわつく食堂内。
後から入って来た艦娘達も、俺と大和が向かい合わせで座っている状況に、動揺を隠せずにいた。
「……そういう事ですか」
潮が、俺を睨み付ける。
そしてそのまま、食堂を出て行ってしまった。
何故かそれについて行く雪風。
あいつ、余計なことをしなければいいが……。
「大和ちゃん……いつの間に提督と……?」
「えぇ。昨日、色々と話しました。そうですよね? 提督」
「え……あ、あぁ……」
鳳翔はとても嬉しそうにしていたが、俺の頭はパニック状態であった。
大和はどうして、潮を無視したのだろうか。
そして、どうして俺を――。
昨日の事があって、どうして――。
朝食は、皆の異様な視線の中で摂ることになった。
「――でも、良かったわ。大和ちゃんが提督と仲良くなれて」
「仲がいい訳ではありませんが……。まあ、悪い人ではないと分かりましたから」
大和の視線が、俺に向けられる。
俺は何も言えず、ただ空になった湯呑に口をつけることしかできなかった。
「提督はいかがです? 大和ちゃんの印象、変わりました?」
気を利かせて訊いてくれたのだろうが、なんとも答えにくい質問だ……。
「そうだな……。特に……変わらないかな……」
「変わらない……ですか……」
「それは、いい方に捉えても?」
大和がそう尋ねると、何故か食堂内は静寂に包まれた。
「……想像に任せるよ」
俺の答えに、皆、気の抜けたため息をついて見せた。
朝食を終え、皆が食堂を去った後も、大和だけは残っていた。
「どういうつもりだ……?」
俺がそう問うと、大和は深くため息をついた。
「何か不満でも……? 貴方の望み通りの結果じゃないですか……」
「そうかもしれないが……。どうして協力してくれたんだ……?」
大和は答えない。
「……同情か?」
「……いいえ」
視線を合わせず、大和はそう答えた。
「……悪かったな」
「はい……?」
「同情させてしまって……。嫌だったろ……? 俺を提督と呼ぶのは……」
大和は答えない。
「無理しなくていい……。皆にも、ちゃんと説明しておくよ……。あれは大和の演技だったのだと……」
「……そんなことをしたら、また潮さんが大和に依存するのでは?」
「それは無いだろう。どんな形であれ、俺に協力したのは事実だ……。そんな相手に再び近づくとは思えない。それに、お前だって、もう協力するつもりはないはずだ。違うか?」
大和は何かを言おうとして、閉口した。
「協力してくれたのには感謝している……。だが……こんな形ではなく、俺は……」
大和は席を立つと、視線も合わせず、さっさと食堂を出て行ってしまった。
「大和……」
執務室に戻り、ぼうっとしていると、鳳翔がコーヒーを持って訪ねて来た。
どうやら大和との会話を聴いていたらしく、慰めに来てくれたようであった。
「まあ、皆さんも、お二人が本当に仲良くなったとは思っていなかったようですが」
「お前もそうだったのか? だとしたら、随分いじわるな質問をしてくれたもんだぜ……」
『提督はいかがです? 大和ちゃんの印象、変わりました?』
「私が質問しなければ、大和ちゃんから質問していたはずです」
「大和から?」
「えぇ。永い付き合いだから分かるのです。大和ちゃんが提督に協力しようと思ったのは、同情なんかではなく、本心から、提督をいい人だと認識したからなんだと思います。『私は貴方をそう思っているのだけれど、貴方はどうなの?』って……。『それは、いい方に捉えても?』と言ったのも、それが理由なのではないでしょうか?」
なるほど……。
だとしたら、俺は――俺の答えは――。
「もしそうなのだとしたら、大和に悪い事をしてしまったな……」
「相変わらず不器用で、鈍感ですね、提督は」
「あぁ……」
コーヒーに口をつける。
「うっ!? こりゃ……」
「砂糖をたくさん入れたんです。駆逐艦たちには好評なんですよ」
「こんなの飲んでんのか、あいつら……。虫歯になっちまうぜ……」
「私たち艦娘は、虫歯とは無縁ですから」
「俺には縁があるんだっ!」
そう言ってやると、鳳翔はにっこりと微笑んで見せた。
なるほど。
どうやら気を遣われたらしい。
「ったく……。せっかく感傷に浸っていたのに……」
「素直に仰ったらどうです?『元気になった。ありがとう』って」
「恩着せがましい奴だな……」
「ちゃんと仰ってください。でないと、大和ちゃんにも言えませんよ。素直な気持ち」
言いたかったのはそういう事だったらしく、鳳翔はどこか、ドヤ顔をしているように見えた。
「……分かったよ。元気になった。ありがとう、鳳翔。愛している」
「――……はい」
仕返しだと笑ってやると、鳳翔は頬を膨らませ、ポカポカと俺を叩いていた。
その後の昼食、夕食ともに、潮が現れることはなかった。
同じように、雪風の姿もない。
「いつの間にか仲良くなったようで、潮ちゃんと食べるのだと……」
あいつ……。
一体、何を考えているのだろうか……。
その日の消灯間際の事であった。
「ったく……なんであんなところに……」
放った紙飛行機が戸棚の上にのってしまったとのことで、俺は雪風に食堂へ呼び出されていた。
「よ……っと! ほら、とれたぞ」
「ありがとうございます!」
「ったく……。こんな時間に紙飛行機で遊ぶもんかね……」
一人で遊んでいたようではあるが……。
紙飛行機で一人……。
「しれえ?」
やはり、何を考えているのか分からん奴だ……。
「……そろそろ消灯時間だ。もう部屋に戻れ」
「はい! では、おやすみなさい! しれえ!」
敬礼すると、雪風は紙飛行機を掲げながら、食堂を出ていった。
「……なんか、怖いぜ」
帰り支度をする為、執務室に戻る。
「さてと……」
明かりをつけた、その時であった。
「――っ!?」
部屋の隅の人影に、俺は声を上げることが出来ないほど驚いてしまった。
「う、潮か……?」
潮は立ち上がると――強調するように、手を後ろに回した。
「お前……なんで裸なんだ……?」
そう問う俺に、潮は答えない。
ただ顔を赤くして、俺をじっと見つめていた。
なんでこいつがここに……。
そして、どうして裸なんだ……。
「……もしかして、ハニートラップかなんかのつもりか?」
そう言ってやると、潮は急に悲鳴を上げた。
……なるほど。
そういうことか……。
「提督? 今の悲鳴は一体……って……!?」
部屋に駆けこんで来た大淀は、言葉を失っていた。
「大淀」
「て、提督……これは一体……!?」
「こ、この人が……潮を……」
潮は怯えるように、体を隠し、蹲った。
「フッ……」
俺はそのまま荷物を持って、部屋を出ようとした。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「なんだ?」
「どういう事か、説明してください!」
「どういうこと……。それは潮が説明してくれるだろうよ。そうだろ?」
潮は答えず、ただ怯えるそぶりを見せるだけであった。
「俺はもう帰るぜ。消灯時間だからな」
「ちょ……!?」
困惑する大淀を尻目に、俺は家路についた。
翌朝。
目を覚ますと、そこには曙の顔があった。
「やっと起きたわね……」
「曙……? どうした……。こんな朝早くから……」
「どうしたもこうしたも無いわ。寮の方、大変なことになっているわよ……」
「大変? あぁ、もしかして、潮のことか?」
「そうよ……。あんた、なにも言い返さずに帰って来たんですって? なんで何も言わなかったのよ? おかげで、皆、潮の話を信じているわ」
「それならそれでいいさ。けど、お前だけは俺を信じてくれているのだろう? だからここに来た。違うか?」
曙は何も言わなかった。
「いずれにせよ、やっと潮が仕掛けて来た。簡単に返り討ちにするのは面白くない」
「面白くないって……。楽しむもんじゃないでしょ!?」
「いや、楽しんだ方がいい。そういう姿勢こそ、潮にとっては面白くないはずだ。あの手のやり方は、俺がどう対応するかによって、結果が変わるもんだ。いつも通りにしていればいいし、何なら楽しんでいる方が、あいつには都合が悪いはずだ」
「そういうこと……。本当、性格悪いわ……。あんた……」
「今からでも、潮につくか?」
曙は何も言わなかった。
「フッ、お前も大概だよ」
そう言ってやると、曙は顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。
寮に着き、食堂に入ると、皆一斉に俺へ視線を向けた。
食事は用意されているが、誰も俺に近づこうとはしない。
「まあ、そうなるよな」
大淀に視線を向けるが、潮の件とは別の何かを疑っているようで、ただ細い目で俺を見るだけであった。
まあ、今回は一人で飯を食うかな。
そう思った時であった。
「ん……」
曙が食事を持って、隣に座った。
「いいのか?」
「何がよ?」
「お前も変な目で見られるぞ」
「別に……。どんな目で見られようとも、困りはしないわ」
平然とする曙。
俺も別に平気だったのだが、こう、優しくされると、何だかホッとするぜ……。
そんな中、潮が食堂にやって来た。
俺と曙の姿を見ると、少し驚いた様子を見せた後、怯えるそぶりを見せた。
皆が心配そうに、潮を見つめる。
「そんなに怖いのなら、お部屋で食べたらいかがです?」
そう言ったのは、大和であった。
「大和ちゃん……!」
「鳳翔さん、潮さんの食事をお部屋にお願いできますか?」
「え……? でも……」
困惑する鳳翔。
そんな鳳翔を尻目に、大和は食事を持って、俺の前の席に座った。
「おはようございます、提督」
「お、おう……。おはよう……」
こいつ……。
雪風といい、大和といい、本当に何を考えているんだ……。
潮は、怯えるそぶりを見せながらも、大和を睨んでいるように見えた。
「私もいいかしら?」
そう言ったのは、夕張であった。
「大和さん、隣いいですか?」
「えぇ、どうぞ」
ドカッと席に座る夕張。
これでいいんでしょ? とでも言いたげに、俺をじっと見つめていた。
「私は納得していませんからね」
そう言って、夕張の隣に座る大淀。
「あ……わ、私も!」
続く明石。
「しょうがないにゃあ……。漣も!」
「お、朧も!」
それから、我も我もと、皆、俺の近くの席に座って行く。
しれっと、山城も――。
「うぅ……」
困惑する鳳翔。
一度、潮に目を向けた後、申し訳なさそうに席を移動していた。
潮は俺を睨み付けた後、食堂を出て行ってしまった。
「潮ちゃん……」
「心配なら、追いかけてもいいんだぜ、鳳翔」
「……そうやって、私をのけ者にするのですね。提督は……」
「そうじゃない。別に、こうしてくれと頼んだわけでも無いしな」
それでもやはり心配なのか、鳳翔は何度も食堂の入口に目を向けていた。
「鳳翔さん! 心配しないでください! 雪風が食事を持っていきます!」
「え? で、でも……」
「大丈夫です! 行ってきます!」
雪風は食事を持って、駆け足で食堂を後にした。
やはりあいつ……何か……。
「雪風ちゃん……」
「心配か?」
「えぇ……あんなに走って……転ばないと良いのですが……」
そっちかよ……。
でも確かに、今はそっちの方が心配だぜ……。
いずれにせよ、皆が今回の件をどう思っているのか(棚ぼたではあったが……)これではっきりした。
あいつもこの結果を受けて、次の手を打ってくるだろう。
「何度でも来いよ……潮……。何度でも受けてやるからな……」
食事を済ませ、執務室に入ると……。
「……フッ、懲りないな」
今度は水着を着て、潮は待っていた。
「こういうの……好きじゃないですか……?」
そう言うと、潮は水着をずらして――露出させた。
「どこで覚えたんだ? そんなの」
潮は答えず、ただ俺の反応を見ているようであった。
「見て欲しいのなら見てやるが、お前は嫌じゃないのか?」
そう言って、俺は潮の体に目を向けた。
確かに、駆逐艦にしては成熟しているように見える。
だが――。
「所詮は子供だな。顔つきも、とてもじゃないが、歴戦を潜り抜けて来たソレとは思えないほどに、幼く見える」
そう言ってやると、潮の表情は一気に険しいものとなった。
「何が目的なのかは知らない。過去を知っているからこそ、どうしてそんな行動が出来るのかも分からない。だが、それが有効ではないことは、お前が一番よく分かっているのではないのか?」
潮は何も言わない。
「まあ、色々試してみろ。もしかしたら、お前の望む結果になるかもしれないぞ。俺も、自分がロリコンではないって事が証明できるし、お互いにwin-winだ」
そう笑ってやると、潮は部屋を出て行ってしまった。
「やれ……」
しかし潮の奴、あんなやり方、一体どこで……。
『見ろ、慎二! この水着をずらすやつ、超エロくないか!? 全裸よりエロいって感じるの、脳がバグってんのかな?』
「フッ……」
鈴木との思い出に、俺は思わずニヤけてしまった。
この場面だけ見たら、潮の体に興奮した奴みたいで、ヤバいかもな。
それから数日間、潮はあの手この手で攻めて来た。
ある時は布団の中に、ある時は着替え中に――風呂、トイレに至るまで、あらゆる場所で自分の体を見せつけて来た。
「最近は、何処に行ってもいるような気がして、ちょっと怖くなってきたんだ」
「だからさっき、押し入れを開けて確認していたのね」
「どうやら覗きもしているようでな。まさか、天井裏とかないよな?」
「流石にないでしょ……」
「……だよな」
と、夕張と会話をしていたその日に、執務室押し入れの天井点検口がずれているのを発見した。
流石に上がらなかったようではあるが……。
「これは……いよいよヤバい領域に来たな……」
そんな事が続いたある日の夜。
流石に万策尽きたのか、普通に服を着た潮が、家で俺を待っていた。
「逆に驚いたよ。服を着ているお前を見る方が、珍しいと思えるまでになっていたから」
潮は、いつもと違い、真剣な表情で座っていた。
「……色々やってどうだった?」
「……貴方、本当に男ですか? 普通、ここまでされたら……」
「お前の事を襲う……か?」
潮は何も言わなかった。
「子供の裸を見たところで、何も感じんよ」
「そうでなくても……」
「そうでなくても?」
「……そうでなくても、男の人は普通……その……するじゃないですか……」
「何を?」
「ですから……じ……自分を慰める事……です……」
潮は顔を真っ赤にさせた。
「慰める……。あぁ……そういう事か……」
言わずもがな、あの行為のことだな。
「この数日間……貴方を見てきました……。でも、一回もしていないし、そういう痕跡もありませんでした……」
そういう痕跡って……。
「今までの男は、していたのか?」
潮は答えなかった。
「……まあいい。しかし、誘惑が駄目であるというのなら、別の方法を考えないとな。それとも、誘惑にこだわる理由でもあるのか?」
そう問うてやると、潮は俯いてしまった。
「……お前、本当に男が苦手なのか?」
「……苦手です。私を穢した存在ですから……。そうでなくとも、男の人の視線は……いつだって……」
初めて本心を吐露したな……。
「俺は男ではないか?」
「え……?」
「男ではないから、こうして話せているのか?」
潮は少し考えた後、驚いたような表情を見せた。
「こうして話せるって事は、俺を不快に思っていない証拠なんじゃないのか?」
「ち、違っ……! そんなことは……」
と、口にはしているが、本人も分かってしまったのだろう。
以前、俺の姿を見て嘔吐していた頃と比べたら、今の状況は――。
「もし仮に、今俺がお前を襲ったとしても、お前の悲鳴は寮には届かない。誰も助けてはくれない。なのにもかかわらず、ここに来た。それは、俺がお前を襲わないという、俺に対する信用があったからだ。違うか?」
潮は何かを言おうとしたが、閉口してしまった。
「万策尽きて、ここに来た理由はなんだ?」
「それは……その……」
「…………」
「……分かりません」
「分からない?」
「どうやっても……貴方は私の思い通りにならなくて……もう……どうしたらいいのか分からなくて……。雪風ちゃんも何も言ってくれなくなっちゃったし……」
雪風……。
やはり、あいつも一枚噛んでいたか……。
「気が付いたら……ここに居て……」
気が付いたら……か……。
「そうか……」
「あの……本当に興味ないのですか……? 潮の体……」
「あぁ、興味ない。もっと大人になれば、分からんがな」
「大人……。潮は……こんな体なのに……。それでも……子供に見えますか……?」
「見えるも何も、子供そのものだろう。そんな奴が、陸奥のようなハニートラップを仕掛けようとしてんだぜ。こりゃもう、微笑ましいだけだ」
潮はムッとした表情を見せた。
「なんだ、大人として見て欲しいのか?」
今度はキョトンとする潮。
忙しい奴だ。
「お前、自分が気づいているのかどうか知らないが、矛盾しているぜ。男を恐れるって事は、自分を大人のように見てほしくないって事だろう? なのに、子供だと言われたらムッとしていやがる」
「それは……貴方の言い方に、悪意があったからで……」
「悪意があるかどうかはさておき、お前は子供だよ。いい意味でも悪い意味でもな」
「いい意味……ですか……」
「例えば、素直なところとかな。追い出そうとしている男の話を、しっかり聴いているところとか」
潮は顔を赤くして、俯いてしまった。
「ほら、恥ずかしいと思っている。子供なのだから、別にいいのだと、反論したらいいのに」
そっぽを向く潮。
そういうところも――いや、大人でもするか。
尤も、夕張や明石――そいつらが、本当に大人であればの話だがな。
「……俺は男だから、お前の負った傷は癒せない。それでも、戦い方は教えてやれると思っている。生きる方法もな」
「生きる方法……」
「あぁ、そうだ。まあ、単純な話なんだ。子供なのに大人の体であるから、変な目で見られるわけで、それが嫌なわけだ」
「…………」
「だったら、いっそのこと、島を出て、本当に大人になってしまったらどうだ?」
俺の提案が、あまりにも間抜けなものだと感じたのか、潮は唖然としたあと、鼻で笑いやがった。
「真面目な話だぜ。それとも、皆がお前を子供としか思えない世界になるまで、待つつもりか?」
「…………」
「お前に世界は変えられない。それは、俺も同じだ。だからこそ、自分が変わらないといけない」
今までの生活が、フラッシュバックする。
本当、変わったよな、俺も……。
「俺はその手助けが出来ると確信している。後は、お前が決意するだけだ」
潮は拳を握り、俯いていた。
「時間が解決するとは言わない……。だが、ずっとここで苦しみ続けるよりは、幾分かマシだと思う……」
「…………」
「潮……」
潮は立ち上がると、そのまま家を出て行ってしまった。
「俺に出来るのは……ここまでだ……」
そう自分に言い聞かせ、その日はそのまま床に就いた。
後は、お前次第だ……。
翌朝。
食堂に入るなり、鳳翔に呼ばれた。
「提督、おはようございます。こちらです」
鳳翔の隣には、大和が座っている。
俺の飯はもう運ばれていて――どうやら鳳翔が気を利かせたらしかった。
「おう、おはよう。鳳翔、大和」
大和はただ、頷くだけであった。
さて、潮は……。
視線を食堂の入口へ向けた時、ちょうど潮がやって来た。
視線が合う。
そして何故か、俺の元へと歩み寄って来た。
「潮ちゃん……」
潮は足を止め、俺を――いや、俺ではない。
俺の後ろ――大和の事を見つめていた。
「……なにか?」
皆、ただならぬ空気を感じたのか、食堂内は静かになった。
「……大和さんは、どうしてこの男の味方をするのですか?」
皆が大和に注目する。
そんな視線もお構いなしに、大和は平然と答えた。
「その答えを、貴女はもう分かっているはずです」
本当にそのようで、潮は俯き、考えるように目を瞑った。
二隻にしか分からない会話に、皆は完全に置いてけぼりとなった。
当事者である俺ですらも……。
「大和も……本当は分かっていました。でも、目を背けて来たし、信じられないと、敵対してきた……。でも……」
大和が俺を見つめる。
「この人は純粋なのだと思います……。大和は、それが本当なのか確かめたくて、ここに居るのです……。貴女だって、そう思ったのだから、この数日、あんなことをしてきたのではないのですか……?」
潮は何も答えない。
大和は続ける。
「大和にはまだ、全てを曝け出すことは出来ません。けれど、貴女は違う。貴女の抱える全てを、この人にぶつけたはずです。その全てを、この人は受け止めてくれたはずです。貴女は……それにどう応えるのですか……?」
よく分からないが、どうやら大和が潮を説得してくれているようだ。
大和の言葉が響いている様子だし、ここは任せてみよう……。
「潮……潮は……」
「潮さん」
声をかけたのは、雪風であった。
「雪風ちゃん……」
「雪風も、しれえは信じられる人だと思います。でも、信じたからと言って、潮さんの問題が解決するわけではありません」
「え……?」
雪風は俺の前に立って、じっと目を見つめた。
「しれえは潮さんに言ったそうです。潮さんが負った傷は癒せないけれど、生きる方法は教えることが出来ると……。それって、結局のところ、自分の事は自分で何とかしなければいけないって事です。しれえは、潮さんが島を出てさえくれればそれでいいと考えています。そうでなかったら、そんな曖昧なことは言わないはずです。しっかりとした――潮さんを守るための――道筋を立てるはずです」
皆、雪風の言動に驚いていた。
俺は、ただただゾッとしていた。
こいつは、一体何がしたいんだ……?
「……自分で何とかしなければいけないのは当然です。この人は、その決意をさせる為に、そう言ったのです……」
大和が反論する。
もう、何が起きているのやら……。
「本当にそうでしょうか? でしたらしれえ、潮さんはどう生きればいいと思いますか? 傷を癒せないと言うのなら、どう克服するというのですか? 痛みを知らないしれえが、何を教えてくれるというのですか?」
俺は言葉に詰まってしまった。
それは、気圧されたからではない。
雪風の言葉が真実だったからだ。
確かに、生きる方法を教えてやるとは言った。
だが、そこに道筋はない。
具体性はない。
結局のところ、俺は心の奥底で、時間が解決してくれるだろうと思っていた。
だからこそ、まずは島を出て、本当の大人になってしまえばいいのだと言った。
尤もらしい言葉を並べ、潮を騙そうとした。
「しれえ?」
俺が答えられないでいると、遠くで誰かが机を叩きながら立ち上がった。
「ちょ……霞!」
霞……?
振り返って見ると、霞がゆっくりと、こちらに近づいてきていた。
「黙って聞いていれば……。あんたたち、揃いも揃って……誰を信じるだの、誰を信じられないだの……。本当、くっだらないったら!」
「か、霞!」
朝潮が飛んでくる。
「黙ってて……。大丈夫だから……」
朝潮はそう言われ、俺の顔色を窺いながら、下がっていった。
曙が出てくるのならまだしも、どうして霞が……。
俺はもう、何も理解できないと悟り、ただ傍観者側に回ることにした。
「これは、この男の問題でも、あんたら二人の問題でもない。これは……潮、あんたの問題でしょう!?」
指差す霞に、潮は何も言えずにいた。
「誰を信じる信じないよりも先に、あんたはあんた自身の事を信じられたわけ?」
「潮が……潮自身を……?」
「そうよ! あんた、本当は何がしたいのよ? この男を追い出せれば、それで満足なわけ? それとも、自分の抱える問題を解決したいの? どっちなのよ?」
潮は黙り込んでしまった。
霞は続ける。
「ほら、これが潮の答えなのよ。大和さんも雪風も、解決策ばかり話すだけで、根本的な部分を見落としている。潮は何も考えてない。どうしたいのかも、何も分からず、ただ足掻いていただけなのよ!」
雪風の表情は分からなかったが、大和は悔やむような表情を見せていた。
「潮……。どうしてこの男が、あんたに何もしなかったのか、分かる?」
「え……?」
「この男が本気を出せば、あんたなんかすぐに島から出せるはずよ……。なのにもかかわらず、ただあんたのくっだらない『足掻き』に付き合っていた。その理由に気が付いていないの?」
その場にいる誰もが、その理由について考えているようであった。
無論、俺も同じく……。
「あんたを信じていたからよ。あんたがどうしたいのか……あんた自身が見つけ、あんた自身が乗り越えられるように、あえてただ見守ることにしたのよ」
潮がハッとした表情を見せた。
皆も同じだった。
アホ面を晒す、俺一人を除いて……。
「自分ですら、自分の事を信じられなかったのに、この男だけは、あんたの事を信じていた……。それでもまだ、あんたはあんた自身の事を信じてあげられないわけ……?」
「…………」
「誰かに訊くのではなく……誰かを信じるのではなく……あんた自身の心に訊いてみなさい……。あんた自身の心を信じなさい……。そうすれば、きっと、どうすればいいのか分かるはずよ……」
潮は自分の胸に手をあて、考えるように目を瞑った。
そして、ゆっくりと目を開けると、俺をじっと見つめた。
「ったく……」
霞は何かを確信したようで、席へと戻っていった。
永い静寂が訪れる。
その間も、潮は俺をじっと見つめていた。
「……とりあえず、座ったらどうだ?」
そう言ってやると、潮は頷き、俺の隣に座った。
これには、流石の大和も驚いていた。
「わ、私! 潮ちゃんのお食事を持ってきますね!」
そう言って、鳳翔は席を立った。
気まずい空気が流れる。
「よいしょ!」
雪風が食事と椅子を持って、俺たちのテーブルに着いた。
「雪風もご一緒いたします! その方が、しれえ的に助かるのでは?」
先ほどの事が無かったらな……。
大和はどこか、居心地の悪そうな顔をしていた。
本当、なんなんだよ……。
この状況は……。
結局、食事中も、このテーブルだけは会話が無かった。
潮と鳳翔はどこか緊張している様子だし、大和は食事に手をつけず、何か考え事をしているようだ。
雪風は呑気に飯を食っている。
「……提督、今日のお味噌汁……いかがです?」
「え?」
「お味……薄くないですか……?」
気を遣ってくれたのか、鳳翔は恐る恐るそう訊いた。
「味……」
んなもん、分からん……。
この緊張感で、味噌汁の味なんぞ……。
「雪風的にはおっけーです!」
お前には訊いていないだろ……。
しかし、まあ……これはいい流れかもしれない……。
「あぁ、俺的にもおっけーだ。大和、お前はどうだ?」
「え……?」
「味噌汁の味だ。おっけーか?」
皆が大和に注目する。
大和は困惑しながらも、味噌汁を口に運んだ。
「どうだ?」
「……おっけー……です」
大和が答えると、皆の視線は、自然と、潮へ向いていた。
「…………」
潮が俯く。
「潮」
俺の問いかけに、潮は顔を上げた。
「お前は……どうだ……?」
食堂が、静寂に包まれる。
潮は、恐る恐る味噌汁に口をつけると、お椀を置いて、小さく言った。
「……おっけー……です」
永い静寂。
雪風も、大和も、鳳翔も、潮も――俺たちは互いに目を合わせると、思わず噴き出してしまった。
「フッ、なんだこりゃ? ははは」
「本当、おかしいですよ。みんなして! うふふ」
「おかしいです! えへへ」
大和と潮も、くすくすと笑っていた。
笑っていないのは、俺達以外の連中だけであった。
「はぁ、馬鹿馬鹿しい……。せっかくの朝食なのに、変に緊張してよ」
「本当ですよ! せっかく美味しく作ったのに……。大和ちゃんも、全然食べてないじゃないの」
「す、すみません! 食べます!」
「潮ちゃんも! そんなに肩に力が入っていたら、美味しく食べられないでしょう?」
「は、はい!」
一気に緊張がほぐれたのか、皆、いつもの調子で食事を始めた。
「ったく……」
何気ない事であったが、緊張が解けて良かった。
それもこれも、鳳翔のお陰だな。
……いや、それと――。
「しれえ?」
「……口についてるぞ」
「え? どこですか? とってください!」
こいつにも感謝だな。
何がしたいのか分からんが、結果として助けになっている。
…………。
もしかして、分かってやっているのか……?
「しれえ! 服にもついちゃいました!」
……そうでもないのか?
朝食後、俺は霞に声をかけた。
「霞!」
霞はゆっくりと振り向くと、一瞬だけ目を合わせ、すぐにそっぽを向いてしまった。
「霞、ありがとな」
「……別に。あんたの為じゃないし……。くっだらない話にイラついてしまっただけよ……」
思えば、霞とちゃんと話をしたのは初めてかもしれない。
「それは……悪かったな……」
「……どうしてあんたが謝るのよ?」
「俺が不甲斐無いから、お前をイラつかせてしまった。何も出来ず、ただ傍観者になっていた。悪かった……」
霞は何も言わず、そのまま食堂を去って行ってしまった。
「司令官」
「朝潮」
「霞、あんなことを言っていますけれど、きっと、司令官が非難されている事が許せなかったのだと思います。普段の霞だったら、ああやって仲裁に入ることはありませんから」
そう言うと、朝潮はニコッと笑って、霞の跡を追っていった。
普段の霞だったら……か……。
「俺はまだ、霞の事、何も知らないんだよな……」
あいつはあいつで、また何を考えているのやら……。
「さて……」
振り返ると、潮が俺をじっと見つめていた。
「どうした?」
恥ずかしいのか、潮はもじもじとするだけで、中々話せずにいた。
「潮さん」
声をかけたのは、大和であった。
「大丈夫です」
それだけ言うと、大和は俺に視線を送った後、食堂を後にした。
「しれえ、雪風の仕事はここまでです」
雪風は潮の背中を押し、食堂を出ていった。
「……俺もお前も、誰かの助け無しには、上手くいかないようだな」
「……そうかもしれませんね」
そう言うと、潮は微笑んで見せた。
「潮の話……聞いてくれますか……?」
「あぁ、聴かせてくれ。お前の気持ちを」
潮はゆっくりと頷くと、自分の事を語り始めた。
過去に起こったこと――。
守られることを覚えてしまったこと――。
俺を追い出そうとしたこと――。
それら全てを――時には涙を流しながら――話してくれた。
「――大和さんの言う通りです。本当は分かっていました……。貴方が……そういう人じゃないって……。でも……確かめたかったのかもしれません……。信じていい人なんだって……確信が欲しかったのかも……」
自分でも、どうしてあんなことをしたのか、よく分かっていなかったわけか。
霞の言った通りだったな……。
「して、お前がどうしたいのかは……見えて来たのか……?」
潮は頷くと、俺の目をじっと見つめ、言った。
「潮は……この苦しみから脱したいです……。貴方に……助けて欲しいです……」
「潮……」
「貴方を信じても……いいですか……? 潮の事……助けてくれますか……? 守って……くれますか……?」
「……あぁ、もちろんだ」
そう言って、俺は手を差し伸べた。
潮は少し驚きながらも、恐る恐る手を伸ばし、弱弱しく俺の手を握った。
「第一段階突破、だな」
「……ですね」
潮は微笑むと、小さく言った。
「――提督」
あれから数日が経った。
潮が心を開いてくれたことで、艦娘達の間にあったピリピリとした空気は無くなっていた。
「おはようございます、提督」
「おう、おはよう潮」
挨拶する潮の後ろには、第七駆逐隊の姿があった。
「今日は目を見て自然な挨拶が出来たわね」
「うん。提督、朝食の後、潮たちと散歩しませんか?」
「お! 潮ちゃん、攻めますなぁ」
「あぁ、構わないよ。じゃあ、朝食の後で」
「朧、お弁当、作ってきますね。潮ちゃんも、一緒に作ろう?」
「うん。では提督、また後で」
「おう」
潮は笑顔を見せると、第七駆逐隊と共にいつもの席へと向かっていった。
「潮ちゃん、提督と自然な感じでお話しできるようになりましたね」
「鳳翔。あぁ、まだまだ課題は多いが……まずは俺に慣れてもらうところから始めなければな」
「大和ちゃんも、見習わなきゃね」
そう言われ、大和は恥ずかしそうに俯いていた。
潮の件が一旦落ち着き、当初大和の考えていた『潮の為の交流』は済んでいるはずなのに、鳳翔のせいなのか分からないが、大和は未だに同じテーブルで食事をしていた。
「提督もですよ? あれから、大和ちゃんとの会話、していませんよね?」
「え? いや……まあ……どうだったかな……」
大和に視線を送る。
以前のように睨むことはしなくなったが、どこか複雑そうな表情を見せるようになっていた。
「でもこれで、提督と交流していない艦娘はいなくなりましたね。霞ちゃんも、なんやかんや言って、提督の味方をしていましたし」
その霞は、俺たちの会話など聞こえていないとでもいうように、退屈そうに頬杖をついていた。
しかし……そうか……。
これで、交流をしたことが無い艦娘は、居なくなったわけだ。
「……とは言え、問題はまだまだ山積みだ」
潮の件も、山城の件も――大和、雪風、霞……そして――。
「響……」
響はこちらをチラリと見ると、フイとそっぽを向いてしまった。
「……今はそれでいいじゃありませんか。確実に進んではいますよ。ね、大和ちゃん」
鳳翔がそう言うと、大和は小さく頷いて見せた。
まあ、そうだよな……。
とりあえず、進んではいるよな……。
「先が思いやられるぜ……」
「何を言っているのですか。貴方のお父さんは、一隻を島から出すのに、一年かかったのですよ? それに比べたら、まだまだ早すぎるくらいなんですから」
言われてみればそうか……。
何故かは分からないが、この島に来て二年以上が経っているような気がする。
それほどまでに濃厚な時を過ごしたという訳なのだろうが……。
その日の昼すぎ。
第七駆逐隊と散歩をし、昼食を済ませた帰りの事であった。
「弁当、美味かったよ」
「それは良かったです。潮ちゃんと、一生懸命作ったんです。ね、潮ちゃん」
「うん」
「そうか。ありがとな、朧、潮」
朧は嬉しそうに笑い、潮もどこか、照れているようであった。
本当、数日前の事が嘘のようだ。
このまま、外に出る決意をしてくれればいいのだが……。
しかし……。
『しれえは、潮さんが島を出てさえくれればそれでいいと考えています。そうでなかったら、そんな曖昧なことは言わないはずです。しっかりとした――潮さんを守るための――道筋を立てるはずです』
結局は、雪風の言う通りなんだよな……。
潮が心を開いてくれるようになったのはいいとしても、問題が解決したわけではない。
大きな一歩ではあるが、まだまだ問題解決には程遠い……。
「なんて顔してんのよ……」
曙がボソッと、俺に言った。
「なにか独りで思い詰めてんのなら……話くらい聞くけど……?」
そう言うと、どこか心配そうな瞳を俺に向けた。
「……いや、別に大丈夫だ。心配してくれてありがとうな」
「別に……そんなんじゃないけど……。これでも一応……あんたには感謝しているんだから……。困ったことがあったら……その……助けてあげたいって言うか……恩返しになればいいと……思ったり……」
言葉を重ねる度に、曙の顔は真っ赤になっていった。
「はにゃ? ぼのたん、どったの? なんか顔真っ赤じゃない?」
「べ、別に……? ちょっと暑いだけよ……」
曙は俺をチラリと見た後、そっぽを向いてしまった。
最近の曙は、いつもあんな感じだ。
ちょっと余所余所しくなったというか……。
大和と同じで、潮の件が落ち着いてしまったものだから、俺とどう接したらいいのか分からないって所だろうか?
「ひゃあ!?」
突如、潮の悲鳴。
「どうした!?」
怯える潮の視線の先――。
「マジかよ……」
今、一番、潮に会わせたくない奴が、そこに立っていた。
「お、よう! 慎二!」
「鈴木……。お前……今日は来る予定じゃないだろ!?」
「あぁ、ちょっと緊急の用事だ。電話も出なかったし、直接来たんだ」
マズい……。
潮が完全に怯えている。
それならまだしも、相手が鈴木となると……。
「なんだぁ? 子守り中だったか?」
鈴木は第七駆逐隊へ目を向けた。
曙は透かさず、潮の前に立って、鈴木を睨んだ。
「そんなに警戒すんな。俺だって、こいつと同じで、この島に来る提督の候補だったんだぜ?」
「おい、鈴木……」
俺は鈴木を駆逐艦から遠ざけた。
「おいおい、なんだよ? 話しかけちゃいけないってか?」
「お前も知っているだろ……。潮は男が苦手なんだ……。最近、やっと俺に心を開いてくれたんだから、余計なことはしてくれるな……」
「別に取って食おうって訳じゃねぇんだぜ? それに、いい機会じゃねぇか。お前以外の男にも慣れた方がいい」
「そうかもしれないが……」
「じゃあ、いいじゃねぇか」
そう言うと、鈴木は俺を退け、駆逐艦へ語り掛けた。
「よう。お前ら第七駆逐隊だろ? 俺は鈴木。お前らの物資を運搬している者だ」
駆逐艦たちは、困惑した表情を見せた。
曙は俺を睨んでいる。
なんとかしろ……って事か……。
「鈴木、もういいだろ……。用事ってなんだよ?」
「あぁ、それは後で話す。とにかく、船に乗ってくれ。本部がお前を呼んでいる」
「本部が俺を?」
「あぁ。しっかし、なんだ、噂に聞いていたほどじゃねぇな」
そう言って、鈴木は潮に目を向けた。
「何が良くて、あんな赤ちゃんみてぇな子供を好きになるのか……分かんねぇな……」
「あ、赤ちゃん……?」
潮は唖然とした表情を見せていた。
「ちょっとあんた……。さっきから何なのよ!? 潮をジロジロ見んじゃないわよ!」
「お、そのキツイ言い方……お前が曙か」
「だったらなによ? 用事があるのなら、さっさと済ませて出て行きなさいよ!」
「そんなに怒んなよ。可愛い顔が台無しだぜ?」
「かわっ……は、はぁ!?」
「心配しなくても、俺はそんな赤ちゃん興味ねぇよ。どっちかって言うと、そっちの……あー……」
鈴木が指差したのは、朧であった。
「お前、朧だっけ?」
「え? は、はい! 朧……です……」
「ああいう方が俺のタイプだな。お前、大人になったら絶対、美人になるぜ。俺が保証する」
「え……あ……はい……! ありがとう……ございます……」
朧はどこか、恥ずかしそうに俯いていた。
そんな顔も出来るんだな……。
「ねぇねぇ! 漣は!? きゅぴぴーん☆」
「あぁ……ねぇな……。なんか……歳食ってもそうしていそうで……」
「辛辣ゥ!」
本来であれば、鈴木を止めなければいけないはずなのに、俺はただ茫然と、そのやり取りを見ていた。
「ちょっとクソ提督! 早くあいつを何とかしなさいよ!」
「え? あ、あぁ……いや……」
これは……もしかしたら……。
「……鈴木」
「ん?」
「お前、潮を赤ちゃんと言ったな。どの辺が赤ちゃんなんだ?」
「ちょ!? なに訊いてんのよ!?」
「いや、赤ちゃんだろ……どう見ても……。顔つきがもう赤ちゃんのそれだよ」
潮に目を向ける。
潮は――ムッとした表情を見せていた。
「潮……赤ちゃんじゃないです……」
「あ?」
「さっきから何なんですか……!? 潮の事……赤ちゃん赤ちゃんって……」
「あ? 何言ってんのか聞こえねぇなぁ? 文句があんのなら、前に出て来いよ。それとも、曙ママに守られねぇと文句も言えねぇのか?」
鈴木が煽る。
「ちょっとあんた……! いい加減に……!」
俺は、曙を止めた。
「なんで止めるのよ!?」
「曙」
曙は俺の表情を確認すると、何かを察したのか、大人しく引き下がった。
「ほら、どうした? ん? お腹でも空いたのかな?」
「……っ!」
潮は鈴木の前に立つと、睨みつけた。
「潮は……赤ちゃんじゃないです……!」
相当ムカついたのだろう。
怯えることも忘れ、怒りの感情に支配されているようであった。
「フッ……なんだよ。ちゃんとできるじゃねぇか」
「はい……?」
「誰にも守られず、初対面の男である俺に、ちゃんと立ち向かえたじゃねぇか」
潮はハッとした表情を見せた。
ようやく我に返った……って所か。
「もしかして、わざと怒らせた……のですか……?」
朧がそう訪ねると、鈴木はニッと笑って見せた。
「怯える女を笑顔にするのが、いい男の仕事だからな」
「いやいやいや……笑顔になってねーから!」
漣がそう突っ込むと、何が面白かったのか、朧のツボにハマったらしく、くすくすと笑い始めた。
「ほら、笑顔に出来ただろ?」
「今のは漣の手柄じゃねー?」
「いや、俺だろ? なぁ? 朧?」
盛り上がる鈴木と二隻。
その光景に、曙は唖然としていた。
「あぁいう奴なんだよ。鈴木ってのは」
しかし……まさか、初対面で潮をやる気にさせるとはな……。
朧と漣は、もう鈴木を受け入れているようだし……。
これはもしかすると……もしかするかもな……。
「で? どうだ? 潮? 男に立ち向かってみた感想は?」
「し……知りません……!」
引くに引けなくなったのか、潮はまだ怒っている態度を見せた。
鈴木もそれを分かっているようで――。
「何をそんなに怒っているんだ? 感情をコントロールできないとか、やっぱり赤ちゃんなのかな?」
「――っ! 曙ちゃん、もう行こう!? こんな男の相手をする必要ないよ!」
そう言って、立ち去ろうとする潮。
「お、逃げんのか? 帰ってママのおっぱいでも吸うってのか?」
潮は振り返り、鈴木を睨み付けると、そのまま寮の方へと帰って行ってしまった。
「ちょ!? 潮!? 待ちなさいよ!?」
慌てて追いかける曙。
「潮ちゃんがあんなに怒るところ、初めて見たかも。鈴木っち、艦娘を怒らせる才能の方があるんじゃねー?」
「かもな。ま、あいつにとって、いい経験になったはずだ。男は怖がるもんじゃなくて、情けなかったり、ムカついたり、呆れるような存在だって、実感できたはずだ」
「確かに。鈴木っちは怖がられるような感じじゃないし、憧れるような存在でもないしにゃー。ね、おぼろん」
そう問われた朧は、鈴木の事をぼうっと見つめていた。
「おぼろん? 朧ちゃん……?」
「え……?」
「いや……鈴木っちって、デリカシーの無い最低な男だよねって話」
「辛辣ゥ……」
「えっと……その……朧は……いいと思う……ます……」
「え?」
「朧は……カッコいいと……思います……。鈴木さん……。えへ……」
恥ずかしそうにする朧に、漣はドン引きしていた。
「やっぱり、いい女にはいい男の良さが分かるって事だな」
「いやいや……ないわー……。おぼろん、ちょっと目洗ってこようか……? 何か悪いもの見えちゃってるから……」
「おい……」
「んじゃ、ご主人様、いってらー。大淀さん達には漣から言っておきまーす。さ、行こう? おぼろん」
「うん……。鈴木さん……また……」
顔を赤くする朧を押しながら、漣は去って行った。
「フッ、どうやら惚れられちまったようだぜ。モテる男ってのはつれーワ」
いつもなら呆れて言葉も出ないものだったが、今回ばかりは感心していた。
「お前……凄いな……。流石はモテ男だぜ」
「あ? 何だよ急に……。気持ちわりぃ……。俺はそういう趣味はないぜ」
「はは、俺もないよ。だが、今は惚れそうだよ」
「……マジで言ってんのか?」
ドン引きする鈴木と共に、俺は船に乗った。
船はゆっくりと、本土を目指していた。
「それで? 本部が俺に何の用事だ? それも、急に呼び出すなんてさ」
「あぁ、用事は二点だ。まず一点は、大井の件だ」
「大井?」
「大井の奴、先日『高等学校卒業程度認定試験』の模擬試験に合格しやがったんだ」
「え!?」
「びっくりだよな。まだ島を出てそんなに経ってねぇのによ。んで、その事もあって、大井に『社会適応試験』の訓練をさせることになった」
『社会適応試験』の訓練……。
普通は『高等学校卒業程度認定試験』の合格をして初めて、受けることが出来る訓練だ。
ただでさえ『高等学校卒業程度認定試験』の合格には、軽巡級で三年以上かかると言われている。
それを、たった数ヶ月で……。
「相当勉強したようだぜ? 本部もそれを評価して『高等学校卒業程度認定試験』の勉強と並行して『社会適応試験』の訓練を実施することを決めたらしい。お前も知っている通り『社会適応試験』の訓練は、訓練用に造られた『セット街』で行われることになる。今回、大井の訓練には、海軍の人間だけではなく、一般人も参加させる予定らしい」
「一般人も?」
「あぁ。より一層、リアル感を出すために……って名目だが、本当の目的は、世間へのアピールだ」
「世間への?」
「今回の訓練は、動画で配信する予定らしい。艦娘の人化に反対する勢力が力をつけていることもあって、マイナスイメージを払拭する目的があるようだ」
「なるほどな……。しかし……海軍の印象操作に大井が利用されるってのは……」
「その点は俺も気に入らねぇ。だが、大井はそれを承知しているらしい」
大井……。
「それが一点目だ。二点目は、その訓練初日に、お前も参加して欲しいって事らしい」
「俺が? 何故?」
「初日の訓練では、まず『セット街』に慣れる必要がある。数名の人間も参加するから、必ず同伴者が必要となるんだ。本来であれば、永い期間を経て、この訓練は実施される。その間、同伴者として適任である人間が見つかるはずなんだ。しかし、この短い期間であるし、大井は……なんつーか……気難しい奴だろ? 同伴者として適任なのは、お前しかいないんだよ」
まあ……この短い期間で、大井の心を開くことが出来る奴なんて、そうそういないだろうとは思うが……。
「それに、大井自身が望んでいるんだ。お前の同伴をな」
「大井が……?」
「本当、艦娘にだけはモテるな。んで、さっきの話だが……。訓練は配信されるって言ったよな? 初日も配信する予定だ。つまり、お前の顔が世間に割れることになる」
「!」
「この意味が分かるよな……? 今、世間では、島に出向しているのは誰なのか、色んな憶測が飛び交っている。海軍の中にも、艦娘の人化に反対する勢力はいるんだ。お前の名前が世間に晒されるのも、時間の問題だろう」
「……その先手を打つ目的で、俺を配信に?」
「そういうこった……。お前を本部に呼び出したのも、その事に同意してもらう必要があったからだ。知っての通り、島へ出向した人間の顔が割れた事例は、いくつかある。そいつらの未来が明るくなかったことも……分かるよな?」
その件については『適性試験』を受ける前に承知している。
だからこそ『死ぬ気』でここにいる。
「……本土へ帰る途中で、意志があるかどうか、訊いて来いと言われた。意志が無いのなら、島へ引き返すように、ともな……」
だから、ゆっくりと進んでいた訳か……。
「そんなの決まっている。さっさと船を本土へ向かわせろ」
「……おう! そう言うと思ったぜ!」
そう言うと、鈴木は船を加速させた。
「俺たちの意志はそんなヤワなもんじゃねぇって、クソ上司に叩きつけてやろうぜぇ!」
『俺たち』……か。
「あぁ! 顔でも裸でも、世間に見せつけてやるぜ!」
「ははは! 男だな慎二! もっとトばすぜ!」
『しれえは、潮さんが島を出てさえくれればそれでいいと考えています。そうでなかったら、そんな曖昧なことは言わないはずです。しっかりとした――潮さんを守るための――道筋を立てるはずです』
そうだよな。
島を出たらおしまい……って訳じゃないもんな。
俺に出来ることは少ないし、島での問題ですら、一人じゃ解決できない。
それでも、大井が前に進むために、俺が――大げさかもしれないが――俺の命が必要だというのなら――。
「かけるべきだよな……。それくらいの覚悟が、俺には必要だったはずだよな……」
雪風の言葉で、見失っていたものが見えた気がする。
もしかして、あいつはこれを分かっていて……。
『雪風は、最後まで、この物語を――いえ……貴方の物語を……見届けたいと思っているんです……。そして、そこに、雪風も一緒に居たいと、思っているんです……』
いずれにせよ、今は出来ることを精一杯やるだけだ。
これで死んでもいい。
全てをやり切ったのだと、思えるように――。
「そろそろだぜ。本当にいいんだな?」
「あぁ!」
俺の決意――いや、俺たちの決意をのせ、船は本土へと近づいて行く。
遠くでは、艦娘の人化に抗議するデモの声が響いていた。
残り――18隻
――続く