嫌いになればなるほど、それについて詳しくなってゆくことがある。
『ゴキブリの味は、エビに似ている』だとか『ゴキブリは頭が無くても、およそ1週間生きられる』のような、知りたくない、絶対に知らなくていいことまで、知ってしまう。
あいつもそうだった。
ゴキブリの様にどこにでも居て、ゴキブリの様に忙しなく動いて、ゴキブリの様に死んでいった、あいつのことも――。
「俺を信じて、ついてきてほしい」
差し出された手を私は――。
『不死鳥たちの航跡』
大井は速足で俺に近づくと、胸倉を掴んだ。
「ふざけんな……! あんた……何勝手な事を言ってんのよ……!」
「大井……」
「正義面して……私を庇ったつもり……!? 気持ち悪いのよ……!」
捲し立てる大井。
何故、そこまで熱くなっているのか、俺には――いや、皆も分かっていないようであった。
「……勝手な事をして悪かった。だが、これで良かったんだ。お前も、俺が出て行くことになって、嬉しいんじゃないのか?」
大井は何やら複雑そうな表情を見せると、俺を突き放した。
「……そうね。清々するわ……。でも……やっぱりムカつく……! あんたなんかに庇ってもらって……この先もこの島で生きて行くなんて……!」
「だったらどうするというのかな?」
上官が出て来て、大井に詰め寄った。
「せっかく雨宮が庇ってくれているんだ。それなのにわざわざ出てくるとは。君がかわりに島を出てくれるとでも?」
大井は答えない。
――いや、或いは答えられなかったのだろう。
「黙って見送ればいいものを……ここにこうして来たという事は、何か後ろめたい事でもあったのではないかね?」
「……違う。私は、ただこいつが勝手な事をしたから……」
「それを怒りに来たという訳かね。もう会う事のない男に。自分が連れ去られてしまうかもしれないリスクを背負って」
上官が何を言いたいのか、俺には分からなかった。
だが、大井は何か感じ取ったようで、上官を睨み付けていた。
「……まあいい。君が島を出ないというのなら、このまま雨宮を連れて行く。有難迷惑だと思うのは勝手だが、そんなことはすぐに忘れてしまう事だ。気にすることはないよ」
そう言って、上官は大井の肩をポンと叩いた。
「雨宮、せかっく大井が来てくれたんだ。お別れを言うくらいは許そうじゃないか」
上官は俺を大井の前に立たせると、一歩下がった。
お別れか……。
「大井……」
「…………」
「……余計なお世話かも知れないが、一言だけ言わせてくれ」
「…………」
「自分を信じてやれ。お前が何を苦しんでいるのかは分からないが、それを救ってやりたいと思っている奴は、たくさんいるはずなんだ。その救ってやりたいと思っている奴を信用するには、まずはお前がお前自身に向き合わなければいけない」
「…………」
「一人で戦うよりも、誰かと一緒の方がいい。俺はこの島で、それを学んだ。きっと、お前もそう思う日が来ると信じている。そうでなくても、俺がそうだったと、覚えてくれたら嬉しいよ」
そう笑ってやっても、大井は何も言わなかった。
俺は上官に向いた。
「ありがとうございました……」
「……もういいのかね?」
「えぇ……」
歩き出すと、再び皆が声をあげた。
だが、俺は振り返ることが出来なかった。
振り返る資格が無かった。
「色々とご迷惑をおかけしました……。私の力不足でした……」
「そうだね。だが……惜しいところまではいったのではないかな……」
「え……?」
上官は再び大井を見た。
「本当にいいのかね?」
その問いに、大井はただ俯いて見せた。
「……君の気持ちは手に取るように分かるよ。雨宮の言う通り、自分に素直になったらどうなのかね……?」
大井は答えない。
「私はね、君のような艦娘を多く見て来た。間違った選択をしてしまい、今なお後悔している艦娘をね……」
唐突な上官の態度に、俺は困惑していた。
一体、何を言って……。
「君もその一隻になってしまうのかな。君だって、なんとなく、そう思っているのではないのかね……?」
上官の目は、追及するものではなく、どこか悲しそうなものであった。
「……船が出るまではまだ時間がある。せめて、後悔しない様に、雨宮にぶつけてみたらどうだろう? 自分の気持ちを……」
大井は深く目を瞑ると、何か決意したかのように、顔をあげた。
そして、俺をじっと見つめると、背を向け、歩き始めた。
「大井……」
「行ってやれ、雨宮」
「え……?」
「追いかけるんだ。大井は、自分に向き合う決意が出来たようだ。最後だ、ちゃんと応えて来い」
そう言うと、上官は俺の背中を押した。
「上官……どうして……」
「そんな事を聞いている暇があるのかね? 船の準備が出来たら、すぐに出発する。時間はないよ」
そう言うと、上官は船へと向かっていった。
「雨宮さん……」
「大淀……」
「行ってください……。早く……」
「あ、あぁ……」
大淀に促され、俺は大井の後を追いかけた。
途中、振り返ってみると、皆が俺を見ている中で、大淀だけは、船をじっと見つめていた。
大井が向かったのは、風力発電機のある『あの場所』のようであった。
かつて、北上と大井が決別した場所だ。
「何かと縁のある場所だな……」
山を登り切り、例の大きな岩の方へ行くと、案の定、大井が座って待っていた。
「大井……」
「……何しに来たのよ」
付いて来いと言わんばかりだったのに――いや、俺の勘違いだったか……。
「すまない……。てっきり、付いて来いと言っているものだと思ってな……」
「そんな事、言ってないわよ……」
「だよな……」
永い沈黙が続く。
せっかく上官が時間をくれたんだ。
何か言わなくては……。
「大井、その――」
「――いつまでそんなところで突っ立ってるのよ……」
大井は、帰れ、とでも言うように、俺の言葉を切った。
折れかけていた心は、今ので完全にポキリと音を立てて逝った。
「……悪い。もう行くよ……。邪魔して悪かったな……」
そう言って立ち去ろうとすると、大井はそれを止めた。
「どこに行くのよ……」
「え……?」
「時間がないんでしょ……。座ったら……?」
大井は遠くの景色に目を向けながら、隣を空けてくれた。
さっきの台詞は、「帰れ」ではなく、「突っ立ってないで、座ったら?」という事だったのか……。
「あ、あぁ……」
「ったく……どんくさいったら……」
隣に座る。
鹿島の時もそうだったが、ここで誰かと座る時は、何故か緊張していることが多い気がする。
「…………」
「…………」
再び、永い沈黙が続く。
俺はただ、大井の言葉を待っていた。
「……どうしてよ?」
「え……?」
「どうして……私を庇おうとしたのよ……。悪いのは……私なのに……」
そう言うと、大井は膝を抱えた。
夕張と同じように。
「いや……悪いのは俺だ……。もっと上手くやれると思っていたし、こんなことになるなんて、思ってもみなかった……」
「それでも……発端は私じゃない……。あんたにあんなことをしなければ……」
打って変わって、大井は急に、自分の非を認め始めた。
「……どうした急に?」
その問いかけに、大井は何も答えなかった。
「……こんなことを言うのも、何だか変に思うかもしれないが、俺は嬉しかったんだぜ」
「嬉しかった……?」
「あぁ……。どんな形であれ、お前が俺に向いてくれたことがさ。暴力は良くなかったかもしれないが……」
「……暴行されて、喜んでいたって訳?」
「言い方……。まあでも……そういうことになるのかな……」
「……確かに、変に思うわ。普通、そんなこと……思わないもの……」
「そうかな……」
「そうよ……」
大井とこうして話せているってのは、新鮮……な、はずだったが、俺はどこか――そうだ、夕張と話しているような、そんな日常的な――面倒くさいような――でも、どこか心地よいような、そんな気持ちになっていた。
「でも……あんたと似たような事を言っていた奴が……昔、いてね……」
「佐久間肇か……?」
大井は、驚いた表情を見せた。
「佐久間肇は……俺の親父だ……」
そしてさらに、より一層、驚いた表情を見せた。
「……顔が似ているとは思っていたけれど」
「言動も似ているだろ。意識はしていなくとも、似てしまうようでな。よく言われるんだ」
普通、冗談だ嘘だと言いそうなもんだが、大井は疑う素振りも見せなかった。
「そう……。そうなのね……」
「……お前は佐久間肇を嫌っていると言っていたが、本当にそうなのか?」
大井は俯くと、黙り込んでしまった。
「何があった……。佐久間肇と……。奴の何が……お前をそこまで変えてしまったんだ……?」
大井はしばらく黙り込んだままであったが、やがて顔をあげると、ゆっくりと語り始めた。
私は、あいつの事が嫌いだった。
「佐久間肇だ。よろしくな」
この島を出る気なんてなかったし、あいつでなくとも、私は人というものが嫌いだった。
「新しい提督、なーんか変な人だったねー」
「そうですか? 私には、どいつもこいつも同じように見えますけど……」
「大井っちは相変わらずだねー。そんなに人が憎い?」
「憎いというか……ムカつくんですよ……。戦ったのは私達で、今の平和をつくったのも私達……。なのに、人間ときたら、まるで自分たちの功績だと言わんばかりに偉そうにして……」
「まあ、そうかもしれないけどさ。あたしたちは兵器な訳じゃん? 人間でない以上、仕方ないよー」
北上さんはそう言っていたけれど、私の意見は違った。
私達が兵器であることは間違いないけれど、こうして自我はあるわけだし、人と同じものを食べ、『生きている』って思っていたから。
人間は嫌いだけれど、私は自分の事を『人間』だって、そう思っていた。
佐久間肇は、北上さんの言う通り、少し変な人間だった。
自分に好意的な艦娘よりも、むしろ、自分を嫌ってくるような艦娘にばかり、手を差し伸べる様な人だった。
「霞、隣いいか? 座るところなくて、困っているんだよ」
「はぁ? 何処がよ? 席ならたくさん空いてるじゃない」
「察しが悪いな。お前と一緒に飯を食いたいって言っているんだよ」
「……だったら、最初からそう言ったら?」
「恥ずかしくてな……。ほら、俺って人見知りだろ?」
「どこが人見知りよ……。まあ……別に拒む理由も無いし……勝手にしたら……?」
「おう、ありがとう」
私ですら、霞には手を焼いていたというのに、あいつは易々とその殻を破っていた。
「やり手だねぇ、提督は」
「……ただのたらしですよ。霞はああいうのに弱いだけです」
「それを見抜いたのがやり手だって話だよー。大井っちは、本当に提督の事が嫌いなんだねぇ」
正直、認めてはいた。
今までの人間とは違うって。
でも、それ以上でもそれ以下でも無かった。
海軍としての実力は認めても、人であることに変わりはなかったから。
やがて、手のかかる艦娘達は、皆、佐久間肇の餌食になっていった。
私のところに来るのも時間の問題だって思っていたけれど、私が避けているのもあってか、交流を持ちかけてくることはなかった。
「阿武隈のやつ、あんなに人の事を怖がっていたのに、今では提督に夢中になってるよ。女の顔してる」
「そうですか……」
「大井っちもさ、実は気になってるんじゃないの? 提督の事」
「はい? どうして私がそんなこと……」
「いやね? 提督が来て、かれこれ三年くらい経ってるけどさ、未だに大井っちに話しかけようとしないじゃん? 流石の大井っちも、その事を意識しているんじゃないかなって。どうして私にはーってさ」
確かに、思ってはいた。
けれど、私も避けているわけだし、そもそもどうでも良かったから、深く考えないようにしていた。
「あたしが思うにさ、提督はわざと大井っちに話しかけていないんじゃないかって、思うんだよね」
「わざとですか?」
「そう。あえて大井っちに話しかけないことによって、どうして自分にだけ話しかけないんだろうって、意識させるためにさ」
そう言われて、ハッとした。
なるほど、あいつならやりかねない……。
現に、私はそう思っていた訳だし。
「そこんとこどうなのよー? 大井っちー」
「……別に、どうでもいい事です。それよりも、北上さんの方こそ、随分、あいつにご執心のように見えますけど?」
「お菓子くれるしねー。いい人だよ、提督は」
「お菓子くれるなら誰でもいいんですか……」
あいつの目論見が、北上さんの言う通りならば、私は既に、その術中にハマっていることになる。
それを否定したくて、あいつをより一層避けてみたり、存在自体を認識しないように振る舞ったりしてみたけれど、そうすればそうするほどに、逆に意識しなければいけなくなって――気が付くと私は、無意識のうちに、佐久間肇の事を考えるようになっていた。
そんなことが続き、佐久間肇が島に来て五年が経過した頃、私も気が変になっていたのでしょうね。
逆に、佐久間肇に私を意識させようって、思い始めていたの。
――自分でも、変なことを言っているってことくらい、分かっているわ。
でも、当時の私は、それほどに追い詰められていたのよ。
どうにかして、佐久間肇を私の頭の中から追い出したい一心だったのよ。
……本当、今思えば、バカな事をたくさんやったわ。
意識させる為に、わざとあいつの視界に映るように振る舞ったり、薄着でうろついてみたり、夜中に偶然を装って鉢合わせてみたり……本当、ばっかみたい……。
結局……いろいろやってはみたのだけれど、あいつは相変わらずで――私に話しかけることはしなかった。
ただ私が馬鹿をやっただけ。
笑っちゃうでしょ……?
それから色々考えて、私が導き出した答えは、『一人になる』という事だった。
いくら寮の中で佐久間肇を避け続けても、結局、誰かしら奴の話題を出すから、私は嫌でもそいつの事を考えなければいけなくなる。
だったら、誰もいない――誰にも見つからない場所で、出来るだけ一人で居ようと思ったのよ。
そうすればきっと、奴の事を考えずに済むって……。
そうして見つけたのが、『この場所』だったの。
「こんな所、あったのね……」
当時はまだ、風力発電機なんてなくて、この大きな岩だけが転がっている、何もない場所だったの。
ここへ来る道だって、今みたいには続いて無くて、草木をかき分けて進まなければいけないほどだったから、誰にも発見できるはずがなかった。
「ふぅ……」
潮風がとても気持ち良くてね。
風と、ウミネコの鳴き声くらいしか、ここにはなかった。
「綺麗……」
船が通るたびに、その航跡がキラキラと光っていた。
その光景を見ているだけで、私の心は――佐久間肇の事なんて、入る隙間も無いくらい――満たされていった。
私だけのサンクチュアリ……のはずだった。
「大井……?」
『この場所』を見つけてから数日とも経たないうちに、佐久間肇に発見された。
――いえ、あとから聞いた話だと、先に見つけたのはあいつの方だったらしいけれど。
「どうしてあんたがここに……」
「こっちの台詞だ。ここは、俺がたまに休憩しに来る場所だぜ」
最悪。
よりにもよって、こいつに見つかるなんて……。
「……あっそ」
また、一人になれる場所を探さないと。
そう思って、立ち去ろうとした時だった。
「待てよ大井」
「……なによ?」
「せっかく来たんだ。少し、話でもしないか?」
「はぁ……? 普通に嫌……」
「そんなこと言わずにさ。頼むよ」
私は嫌な顔を見せたけれど、本当言うと、悪い気はしなかった。
愚かな行動だったとはいえ、一度でも意識させようとしていた相手が、今まさに、私に交流を求めてきているのだもの。
「あんたなんかと話すことなんてないわ……」
「いや、あるだろう。ほら、北上の事とか、駆逐艦の事とか、この場所の事とかさ」
「なにそれ……。北上さんの話題はともかく、どうでもいい事ばっかじゃない……」
「じゃあ、北上の事を話そうぜ。ほら、突っ立ってないで、座ったらどうなんだ?」
「絶対に嫌……」
そんなに嫌なら、すぐにでも去ればいいものを……。
そこを指摘しなかったのは、きっと、あいつなりの気遣いだったのだと思う。
……本当、気持ち悪い。
「そうか……。そこまで嫌なら仕方ない……。諦めるよ」
そういって、あいつは岩の上に寝ころんだ。
「ここに来ると、色々忘れられるんだよな。お前もその口か?」
私は答えなかった。
……去ることもしなかったけれど。
「……しばらく寝させてもらうぜ。引き留めて悪かったな」
ものの数分で、寝息が聞こえて来た。
相当眠かったのか、はたまた、ただ眠りにつくのが早いだけなのか……。
「……あほくさ」
それは、佐久間肇に対して言ったものではなくて、そんな事を考えている自分に対してだった。
それからというもの、『この場所』に来る度に、あいつはここに居た。
「よう」
私は、佐久間肇が居ないものだとして、少し離れた場所にレジャーシートを敷いて、座ることにした。
……別に、ここに来たのは、奴と話す為じゃない。
この場所は私のものだという主張をする為……。
抗議をする為……。
…………。
…………。
…………。
なんて、最初は自分に、そう言い聞かせていたけれど、本当は違った。
「そういや、最近、北上がさ――」
「…………」
「それで、島風が――」
「…………」
「おーい、聞いてるか?」
「…………」
「……参ったな。もう話題がない。今日のところは帰るぜ。次会った時には、お前が思わず反応するような話題を持ってきてやる。覚悟しておけよ、大井」
ここに居れば、あいつは私と交流しようとする。
優越感に浸れたのよ。
ざまあないわってね。
あいつは必死に私と交流しようとするけれど、私は絶対に振り向かない。
あいつが私にしてきたことを今度は私がやる番だって。
そう思ったのよ。
……あんたが言いたいことは分かる。
当時の私は、本当に馬鹿だったのよ……。
そんなことがしばらく続いたのだけれど、ある日を境に、あいつは顔を出さなくなった。
そう……山城さんを部屋から引っ張り出した日から……だったかしら……。
「おう、山城。元気にしてるか?」
「……逆に、元気に見えますか?」
「部屋に引きこもっていた時よりかは、元気に見えるぜ。少し明るく見える」
「はぁ……そうですか……」
山城さんを部屋から出すのは、凄く苦労したみたいで――それを成し遂げたあいつは、山城さんに夢中だったみたい。
「明日は外に出てみないか? 陽の光を浴びれば、きっと元気になるぜ」
「はぁ……普通に嫌です……」
「そんなこと言わずにさ」
山城さんも山城さんで、あいつの事を嫌がるものだから――余計に火が付いたみたいね。
「提督、とうとう山城さんまで出しちゃったねぇ」
「…………」
かくして、私のサンクチュアリに平穏が訪れた訳だけれど……。
「…………」
――別に、寂しいとか、そういうんじゃないの。
何て言うか……ここにいる意味が無くなったというか……。
何のためにここに来ていているのか、よく分からなくなっちゃって……。
「あほらしい……」
ここで一人になっても、考えるのはあいつの事ばかりだった。
これじゃあ、本末転倒。
寮に戻って、北上さんとの楽しい時間で、あいつの事を忘れようとも思ったけれど、寮にはあいつがいるし、何よりも――。
そこまで言うと、大井は急にイライラしだした。
「大井……?」
「はぁ……ムカつく……! あぁもう……! 本当……! 最悪よ……!」
そう独り言のようにつぶやくと、しばらく黙り込んでしまった。
俺は何も言わず、ただ大井が続けるのを待った。
「はぁ……ごめんなさい……。取り乱したわ……」
「いや……」
「続けるわね……」
そう……。
そうだわ……。
私は、イラついていたのよ。
また、あいつの事に悩まされているって。
それなのにあいつは……。
再び黙り込む大井。
何かを考える様に、目を瞑っている。
或いは、何かに耐えているようにも――。
「大丈夫か……?」
そう言ってやると、大井は大きくため息をついて見せた。
「大丈夫じゃないわよ……。なんか……もう……考えたくない事まで考えちゃって……」
「……すまない」
「……どうしてあんたが謝るのよ?」
「いや……思い出したくないこともあるのだろうと思って……。それを俺が……無理に話させようとしてしまったから……」
普段の俺なら、こんなことは言わなかっただろうと思う。
だが、今の俺は――。
そんな俺に、大井は呆れる様な表情を見せた。
「馬鹿……違うわよ……。私が勝手に話しているだけだし……。そもそも、あんたが心配しているような事じゃないから……」
そう言って、大井は顔を背けた。
「……慰めてくれたのか?」
「そんなんじゃないわよ……。ただ……あんたの落ち込んでる顔が気持ち悪かっただけよ……」
退屈そうに頬杖をつく大井。
「……そうか」
永い沈黙が続く。
「……気づいちゃったのよ」
「え……?」
「気づいちゃったのよ……。あいつが……佐久間肇が、私じゃなくて、山城さんとの交流に夢中になっている……。その事に、苛立ちを覚えてしまっていたんだって……」
そう言う大井の横顔は、どこか――。
なるほど。
大井が黙り込んでしまった意味が――イライラし出した意味が、ようやく分かった。
「寮に戻らなかったのは、佐久間肇が山城に構っている姿を見たくなかったから……という事か……」
大井は何も言わなかった。
「そうか……」
「本当は……あの時から気づいていたのかもしれない……。でも、認めてこなかった……。認めたくなかった……」
「佐久間肇の事が嫌いだったから……」
大井は小さく頷くと、話を戻す様に、一呼吸置いた。
そんな苛立ちを、私は『人間への憎悪』というかたちに変えていった。
憎悪を増すことによって、『佐久間肇』という『個人』を否定し、『人間』という大きな括りの一つとして認識しようと考えたのよ。
幸い、人間を恨んでいる艦娘は多かったし、そのグループに交ざることによって、憎悪はさらに増していった。
人間への憎悪が完成に近づいた頃、『この場所』に突如、あいつが現れた。
「よう」
「……何しにきたのよ?」
以前とは違い、憎悪全開で向かうことが出来た。
それが無かったら、きっと私は――。
「永い事、ここに来れてなかったと思ってさ」
そう言うと、あいつは私の隣に座った。
「ちょっと……! 何勝手に座ってんのよ!?」
「別にいいだろ。ここは誰の場所でもないんだ」
「……ッチ」
私は立ち上がり、去ろうとした。
「あ、待ってくれ。大井」
今度ばかりは待たなかった。
もう振り回されない。
私の決意は、それほどに固まっていた。
するとあいつは、何を考えているのか、私の手を取って、強引に引き留めようとしたの。
「ちょ……! あんた何を考えて……!」
その表情に、私は思わず固まってしまった。
「頼む……大井……」
まるで、助けを求めるかのような――とにかく、今まで見たこともないほどに弱弱しい表情だった。
「無視しててもらって構わない……。少しだけ……俺の話を聞いてくれないか……?」
今更何の話を聞けと言うのか。
「嫌よ……。気持ち悪い……」
掴まれた手を振りほどくと、佐久間肇は小さく「そうか……」と項垂れた。
その姿がとても情けなくて――。
「話なら……山城さんにでも聞いて貰ったらいいじゃない……」
なんて、思わずアドバイスなんかしちゃったのよ。
そんな事をしてしまうくらい、哀れに思えちゃったのよ。
「お前がいいんだ……。俺の事をなんとも思っていない、お前がいい……」
ただ話を聞いて欲しい。
交流などではなく、ただ、自分のことを聞いて欲しい。
「頼む……」
懇願してくることもそうだったけれど、自分の事を進んで話そうとするなんて、今まで一度だってなかったし、聞いたことも無かった。
『提督に色々聞いてもさ、なーんかはぐらかされちゃうんだよねぇ』
むしろ、自分の事を話したがらないことで有名だったから――。
「あんた……一体どうしたっていうのよ……?」
思わず聞いてしまった。
心配……というよりも、単純に好奇心だった。
佐久間肇の事は嫌いだけれど、嫌いなものほど、知りたくなる時ってあるじゃない?
そんな感じよ……。
別に、他意はないわ……。
「聞いてくれるか……?」
私は返事をしなかった。
けれど、それが答えだって、あいつは分かっていたみたい。
「ありがとう、大井……」
私は何も言わず、ただあいつの言葉を待つことにした。
「実は……『とある事情』があってさ……この島を出るかどうか……迷っていてな……」
『とある事情』について気になったけれど、何よりも、島を出ようとしている事実に、驚いていた。
「俺は今まで、艦娘の『人化』を成し遂げることが、『為』になることだと思っていた。俺が出来る唯一の事だと思っていた。けれど、そうじゃないのかもしれないと思うことがあってな……」
こいつは一体、なんの話をしているのか。
「この仕事だって、最近は上手くいっていないし、もう俺に出来ることはないんじゃないかって、思い始めていたところだ……」
確かに、その頃のあいつは、上手くいっていない様に見えた。
山城さんだって、部屋を出てから何も変わっていないし、寮の皆も、佐久間肇に好意を寄せ過ぎて、島を出る気配すら見せていなかった。
「お前だったら、島を出てしまったらいいと思うかもしれない。けれど……本当にそうすることが正しいのか、俺には分からなくて――」
何が引っかかって島を出れないのか、あいつは語らなかった。
おそらく、『とある事情』とやらに何かあるのだろうけれど、それを語らないところを見ると、言っていた『無視してても構わない。話を聞いて欲しい』というのは、本当の事なのだろうと思った。
「――そんな話だ。こんな弱音……あいつらには聞かせられなかったんだ……。それでも、やっぱり、誰かに聞いて欲しかった。誰かに話すことによって、俺の考えも見えてくるだろうと思ったんだ……」
私にだけは話せた。
私なら、どうでもいい事だと流してくれるから。
「わざわざ呼び止めたのに、こんな話で悪かった……。少しだけ、自分の気持ちが見えた気がするよ」
そう弱弱しく笑う姿に、私は――。
「本当よ……。何よ……そんな馬鹿みたいな話……」
「はは……すまん……」
「……まだ、やらなきゃいけないことがたくさんあるじゃない」
「え……?」
「あんたは……それを疎かにして、この島を出ようって訳……? 何を悩んでいるのかは知らないけれど……中途半端で終わらせるのは……どうかと思うわ……」
自分でも、何を言っているんだって思った。
けれど、何だか分からないけれど――。
「あんたの事は嫌いだけれど……あんたに救われた艦娘だってたくさんいるし、それを待っている奴だって、まだいるはずよ……。それを見捨てて、あんたは去って行くというわけ……?」
別に、引き留めようとして言った訳じゃない……。
ただ、ムカついただけで……。
…………。
…………。
…………。
ううん……違う……。
そう自分に、言い聞かせていただけ……。
本当は、本当に救われたかったのは――。
「…………」
けれど、それは言えなかった。
「大井……」
「…………」
「……ありがとう」
それが、なんのお礼だったのかは分からない。
ただあいつは、この島に残ることを決めたみたいで、翌日には、いつもの調子を取り戻していた。
それから時々、あいつは『この場所』に現れては、私に自分の話を聞かせた。
私も、何を律儀に聞いているんだって思うかもしれないけれど――悪い気はしていなかったのよ。
別に、することも無かったし――いえ、本当は、楽だったのよ。
人間への憎悪を持つグループと話しているよりも、あいつの話を聞いている時の方が、気持ちが楽になれた。
その理由は分からないけれど――ううん、本当は分かっているのだけれど、認めたくなかったし、今もそう思ってる。
そんな気持ちに隙が出来たのか、私は思わず、この島に残る理由を話すことになったのよ。
どういう流れだったかは、未だに思い出せないけれど……。
「怖い……?」
「えぇ……恥ずかしい話だけれど……怖いのよ……。私なんかが、人間の社会に馴染めるかどうかって……」
「……意外だな。お前なら、何とでもなりそうなものだが……」
「私は戦いしかしてこなかったし、見ての通りの性格だから……。今こうしていられるのだって、優しい人に恵まれているだけで、私一人じゃ何も出来ないし、きっと誰かを傷つけてしまうって……」
「優しいんだな……」
「臆病なだけよ……。誰かを傷つけるだけじゃなく、私自身も傷ついてしまうから……。体の傷は消えても、心の傷は残り続ける……。今も……ずっと……」
大井は言葉を切ると、俺の方を向いた。
「じゃあ……お前が島に残るのは……」
「えぇ……。私は……恐れているのよ……。人間の社会が怖いの……。死ぬのだって怖いし……なにより……」
「なにより……?」
「独りになるのが……怖いのよ……」
「独りになるのが怖い……か……。北上なんかが、一緒に居てくれそうなもんだがな……」
「一生一緒ってのは無理でしょ……。それに、北上さんもいつか、異性に恋をする日が来るわ。――いえ、もう既に、恋をしているのかもね……」
北上さんは、佐久間肇の事が好きだったのだと思う。
その事に気が付いていたのか、あいつは何も言わず、ただ私の言葉を待つだけだった。
「いつだったか、誰かに言われたの……。外の世界に出れば、きっと私の事を理解してくる人がいるって……。そんな、在るかも分からないものを信じ、島を出るなんて……私には出来ない……。私は……」
そこまで言って、我に返った。
私はどうして、こんな奴にこんな話を……って……。
「……今日はもう帰るわ」
逃げ出す様に去ろうとする私をあいつは止めた。
「……なによ?」
「今の話……お前の事を理解してくれる人がいると信じることが出来れば、お前は島を出るって事か?」
「……どうかしらね」
「もしそうなら……信じてみないか……?」
「え……?」
「要は、お前を理解し、独りにさせない存在が居ればいいって事だろう?」
「まあ……そうなるのかしらね……」
「だったら、俺がその存在になるよ」
そんな、あまりにも馬鹿らしいことを、あいつは真剣な表情で言ってのけた。
「はぁ……? あんた、何を言って……」
「外の世界には必ず、お前を理解してくれる人がいる。そんな人が見つかるまで、俺がその存在になってやる」
「……馬鹿言ってんじゃないわよ。そういう冗談は……本当に嫌い……」
「俺では嫌か……?」
私は何故か、答えに詰まってしまった。
「俺の事が嫌いなのは分かっている……。俺なんかに理解されても、迷惑だって事もな……」
私は何も言えなかった。
「だが、少しの辛抱だ。お前を理解してくれる人は、俺が必ず見つけてみせる。もし見つからなくても、お前を独りになんてしない。約束するよ」
「ちょ、ちょっと……何勝手に盛り上がってるのよ……。私は……別に……」
「だから、大井」
あいつは、私の話なんか耳に入っていないようで――ただ手を差し伸べた。
「俺を信じて、ついてきてほしい」
私は、その手を――。
「掴めなかったんだな……」
大井は小さく頷くと、俯いてしまった。
「そうか……」
「でも……拒絶したわけでも無かったから、あいつは「待っている」って、言ってくれたの……」
言ってくれた……か。
「それからずっと、一人で考え続けた……。最初こそは、絶対にありえないって気持ちの方が勝っていたけれど、日が経てば経つほどに、あいつの気持ちが痛いほど分かってきて――それはあいつも同じようで――……」
大井は言葉を詰まらせると、膝を抱え、そこに顔を埋めた。
「信じたいって思った……。信じてもいい人だって、思った……。だから私は……あの嵐が止んだら……あいつに……あいつの手を……」
それから、大井は黙り込んでしまった。
永い永い沈黙が続く。
「佐久間肇に……裏切られたって訳か……。孤独にされたって訳か……」
大井は何も言わない。
「それが、お前がこの島に残る理由か……。お前が誰も……自分すらも信じなくなった理由か……」
「…………」
「もう二度と、傷つきたくない……。そう言う事だな……?」
大井ほどの艦娘の心を動かすのは、相当な事だろうと思う。
佐久間肇ですら、永い時間をかけ――尚且つ、実力ではないところを見ると――。
そんな奴が負った傷は、おそらく、俺ですら理解できないほどに、深いものなのだろうと思う。
「大井……」
「…………」
「そんなお前が……どうして俺に……そんな話を……?」
大井は深く目を瞑ると、しばらく黙り込んでしまった。
そして、ゆっくりと目を開けると、俺をじっと見つめた。
「あんたは……言ってくれた……」
「え……?」
「あんたの事じゃなく……私自身を信じてくれと……」
その目は、潤んでいた。
「昨日……いえ……今日になるのかしら……。私の部屋の前で、言ってくれたじゃない……」
『俺を信じなくとも、お前はお前自身の事を信じて欲しい……。自分が本当はどうしたいのか……何を苦しんでいるのか……それに向き合って欲しいんだ……』
扉越しに言った、あの言葉か……。
「聞こえていたのか……」
「ずっと、誰かを信じろって……言われてきた……。あいつですら……そう言っていた……。誰かを信じるなんて……私には出来ないって……ずっと否定してきた……。信じた結果……裏切られるのが嫌だったから……」
「…………」
「でも……あんたは違った……。自分の事じゃなくて……私自身を信じろと言ってくれた……。その時、思ったの……。あんたは……私を信じてくれているんだって……。今までの人とは違って、私を信じてくれているのだって……」
俺が、大井を信じる……。
「誰かを信じろって言ってくる奴らは、私の事を信じていなかったんだと思う……。だからこそ、手を差し伸べてやらなきゃいけないんだって、思ったんじゃないかしら……。でも私は……そんな世界が怖いと言っているのに……。誰かに助けられなきゃ生きていけない世界なんて……私が生きて行けるはずがない……。独りになって……死んでゆくだけだわ……」
大井のその気持ちが、俺には少し分からなかった。
俺自身、そんなつもりで言ったわけではないし、おそらく、手を差し伸べてきたやつらも、きっと――。
「あんたにそのつもりはなかったのかもしれない……」
俺は心を読まれた気がして、思わずギョッとした。
「それでも……そうなんだって思いたい自分が居た……。そうであって欲しいと思っている自分が居た……。そうだったら、きっと私は……」
大井の手が、小さく震えていた。
「大井……」
「私は……もう一度……誰かを信じてみたかった……。裏切られるのは怖いけれど……やっぱり……信じてみたかったのよ……」
大井の目から、涙が零れる。
「どんな理由があってもいい……。もう一度……信じることが出来る人に出会いたかった……」
「それが……俺であると……?」
「どんなに私が嫌っていても……あんたは私を信じてくれた……。最後の最後まで……自分を犠牲にしてまでも……信じてくれた……。それが……嬉しかった……」
大粒の涙が、地面を叩く。
その音は、静かなこの場所では、よく響いていた。
「こんなことになったのは……私の所為よ……。もっと……もっと早くから、あんたを信じていれば……もっと早くから……私を信じてあげていれば……」
「大井……」
「ごめんなさい……。ごめんなさい……。うぅぅ……」
大井は泣き続けた。
声こそは大きくなかったが、それでも、彼女の普段の性格からは想像もできないほど、情けない泣き声であった。
泊地の方が騒がしくなっている。
それは、残された時間が、もう少ないことを意味していた。
「……もうそろそろ行かないと」
大井は泣き止んでいたが、あれから一言もしゃべらないでいた。
「大井、最後にお前の事を知れてよかった。その上で、改めて言わせてほしい……」
「…………」
「俺は、お前を信じている。信じているからこそ、この島を出るんだ。そうでなければ、俺はしがみついてでも、この島に残ろうとするだろう」
「…………」
「……ありがとう、大井。お前が俺を信じようとしてくれたこと……本当に嬉しかった……」
「…………」
「じゃあな……。島の外で、お前の事を待っているよ。必ず会いに来てくれると……強くなったお前の姿が見れるって……信じている……」
「…………」
「さようなら、大井……」
俺はあえて、『さようなら』という言葉を選んだ。
『さようなら』は、もう二度と会えないという様な、マイナスな言葉として使われがちだけれど、本来は『左様ならば、また会いましょう』という言葉が短縮されたものなのだ。
大井がその意図を察してくれるかは分からないが、もう一度会える日を願う意味でも、俺はあえて、その言葉を選んだのだった。
泊地に着くと、皆、一斉に俺を見た。
その表情は、俺が一人でいるところを確認すると、絶望の色に染まっていった。
「上官……」
「……駄目だったかね?」
「いえ……大井は大丈夫です……。あいつはこれから、きっと、強くなって行くでしょう……」
聞いているのはそんな事ではない、とでも言うように、上官は困った顔を見せた。
だが、それを承知の上で、俺はあえて、そう言ったのであった。
「準備は済んでいるようですね……」
「あぁ……」
俺は、そのまま船の方へと向かっていった。
引き留めようとする皆の声に、あえて振り向くことはしなかった。
「慎二さん……」
「協力してもらったのに、悪かったな……」
後輩は、なんとも言えない表情で、俺を船に乗せた。
「本当にいいんだね?」
「はい。出してください」
「……分かった」
船は、けたたましい音を立てて、震え始めた。
皆の声をかき消すような、そんな大きな音であった。
やがて、ゆっくりと、船が動き出す。
「…………」
母さん……ごめんな……。
でも……俺、母さんが言っていたこと、ようやく分かった気がするよ。
確かにあの人は、母さんの言う通り、立派な人だったかもしれないって……。
佐久間肇が遺したものは、あまりにも大きくて、戦犯だって言われているのも分かる。
けれど、少なくとも、誰かを本気で救いたいと思っていたことは確かなんだ。
そして――
『実は……『とある事情』があってさ……この島を出るかどうか……迷っていてな……』
『俺は今まで、艦娘の『人化』を成し遂げることが、『為』になることだと思っていた。俺が出来る唯一の事だと思っていた。けれど、そうじゃないのかもしれないと思うことがあってな……』
もしそれが――そうなのだとしたら――。
「待って……!」
船の轟音すらもかき消すような、そんな大きな声であった。
その声に振り返った時――まるで、スローモーションの中に居るかのような、そんな光景であった。
泊地から飛び出してきたであろう何かが、今まさに、俺の目の前に迫っていたのだった。
「ぐぅっ……!?」
俺はそれを受け止めきれず、その勢いのまま、後ろへと吹き飛んでいった。
「慎二さん!?」
「雨宮!」
皆が心配して、俺に駆け寄る。
船も停止し、やがて辺りは静かになった。
「い、いてぇ……。一体……何が……」
起き上がる俺の胸の中に、大井がいた。
「な……!? 大井……!? お前……何して……!?」
大井は俺を見つめると、今にも泣き出しそうな表情を見せた。
「大井……」
「……じゃないわよ」
「え?」
「勝手に……いなくなるんじゃないわよ……! 何がさようならよ……。私は……まだ……」
大井は立ち上がると、上官に向いた。
「私も……島を出る……」
「ほう……」
「……ちょっと待て! 大井、お前、何を言っているんだ……!」
「あんた一人に背負わせたくない……。元はと言えば、私が悪いのだもの……」
「だけどお前……!」
俺の発言を遮るように、上官は大井の前に立った。
「どういう心境の変化なのかな?」
「……どうもこうも無いわ。ただ……」
「ただ?」
大井は深く目を瞑ると、首を横に振った。
「……いえ、いい訳はもうしないわ。私は……」
「…………」
「私は……この人と一緒に居たい……。別れたくないのよ……」
そう言って、大井は俺を見た。
「大井……」
「私は……私を信じてくれる人と、一緒に居たいの……。信じてくれる人と、生きてみたいの……。だから……」
大井の目から、大粒の涙が零れる。
「いかないでよ……! 居なくならないでよ……! やっと信じることが出来る人に出会えたのに……。私を……独りにしないで……!」
大井は俺の手を取ると、そのまま俺の胸に頭を預けた。
「あんたのような人を二度も失いたくないの……。だから……行かないで……。もし外に出るのなら……私も連れて行ってよ……」
震えるその体を、俺はそっと抱きしめてやった。
「……どうした、急に」
「あんたの言う通り……自分を信じてみただけよ……。自分の気持ちに……素直になっただけよ……」
潤む瞳で、俺を見つめる。
先ほど見せた瞳とは違い、それは何とも純粋なものであって――。
「あんたを信じたい……。私を信じてくれるあんたを失いたくない……。だから……」
上官は俺たちの前に立つと、その肩をポンと叩いた。
「上官……」
「それが、君の答えかね。大井」
「えぇ……」
「だがお前……怖いんじゃないのか……? 島の外に出る事が……」
「怖くないわ……。あんたが一緒なら……」
そうは言っても、やはり怖いのか、大井の手は震えていた。
「……そうか」
上官は俺たちを残し、船橋へ向かった。
「悪いが、バックして戻してくれないか?」
「え……?」
船は再び動き出すと、バックし、泊地へと近づいていった。
「上官……?」
「作戦は成功だ」
「え……?」
「この作戦の目的は、君が大井との交流に成功するというところにあった。今まさに、それが果たされたわけじゃないか」
唖然としていると、上官は続けた。
「作戦は成功したから、君を連れ帰る必要はなくなった。だから、島に戻るんだ」
「ちょ……ちょっと……! 一体、どういうことなのよ!?」
大井は涙を拭くと、俺に詰め寄った。
「い、いや……俺にもさっぱりで……」
再び上官に目を向ける。
その顔は、どこか――。
「……あぁ、そういう事か」
「え? どういうことよ!?」
俺は大井を離し、上官に向き合った。
「上官……貴方は、最初からこうなると、分かっていたんですね……」
「…………」
「期限を設け、私を脅したのも、その為ですか……? 私に危機感を持たせるための――全ては演技だったのではないですか……? もしそうなら――」
「――雨宮」
俺の言葉を遮るように、上官は言葉を重ねた。
「君は、今回の作戦が失敗に終わったら、自分一人が責任を負うと言ったね。だが、本当にそれで済むと思っているのかね……?」
上官の鋭い目が、俺を睨み付けた。
上官が何を言いたいのか、俺は理解してしまった。
「私の顔に泥を塗る真似をしたくはないだろう……? いいかね……。今回の作戦は『成功』だ。人間に反抗的だった大井との交流を果たすどころか、島を出たいと言わせた。大変な功績だ。今回の作戦にかかった費用や、その資金を調達するために行った上層部への虚偽報告――それら全てがチャラになるレベルだ。そうだろう……?」
大井もその意味が分かったのか、不安そうに俺の手を握った。
「そう言えば、何か言いかけていたな。何か、言いたいことでもあるのかね?」
俺は思わず、息を呑んだ。
「……いえ、なんでもありません」
「そうか。ならいいんだ」
俺と大井は動くことさえできなかった。
それは後輩たちも同じようで、泊地に停止するまで、船は異様な空気に包まれていた。
船を降りると、皆が駆け寄って来た。
「雨宮さん……大井さん……」
事の顛末を知った大淀は、どこか複雑な表情を見せていた。
海軍の船は、何の合図も無く、突然動き出した。
「上官!」
「私も暇ではないのでね。帰らせてもらうよ」
泊地を離れて行く船に、大淀は叫んだ。
「坂本さん……!」
上官が――坂本上官が振り返る。
「貴方、坂本さんでは……!? 容姿が変わっていたので、気が付きませんでしたが……」
どうして大淀が上官の事を……。
「大淀……」
「坂本さん……まさか貴方……大井さんの為に……」
坂本上官は何も言わず、背を向けてしまった。
その間際に見えた表情は、どこか――。
「早く出してくれ」
「坂本さん……!」
まるで逃げるかのように、船はスピードを上げて、島を離れて行ってしまった。
「坂本さん……」
「大淀、お前、上官を知っているのか……?」
「えぇ……実は……」
大淀が語ろうという時、甲高い――何かを叩くような音が、その場に響き渡った。
音の方を見ると、よろめく大井と、それを睨み付ける夕張が立っていた。
「夕張、お前……何やって……!」
大井は、来るなというように、俺をじっと見つめた。
「貴女がもっと早くに提督を信じていれば……こんなことにはならなかった……!」
「……えぇ、その通りです。夕張さん、貴女に説得された時、私がすぐに彼を信じていれば、きっと結果は変わっていました……。本当にごめんなさい……」
俯く大井。
夕張は胸倉を掴むと、大井を睨んだ。
「散々提督に迷惑をかけておいて……今更行かないでなんて……。自分もついていくだなんて……」
「夕張、大井にも事情があったんだ……。手を放してやれ……」
「貴方も貴方よ……! どうして貴方は……いつも勝手な事ばかり……。貴方がいなくなったら……困る人たちはたくさんいるのよ……
!? なのに……どうして……」
そう言うと、夕張はぽろぽろと涙を流した。
「夕張……」
「私は……提督も大井さんも……こんな形で失いたくないの……。こんな形で……お別れなんてしたくないの……」
夕張は手を放すと、大井の胸に項垂れて、涙を流した。
「夕張さん……」
「夕張……」
大井は夕張をそっと抱きしめると、同じように涙を流した。
「ごめんなさい……。心配かけて……ごめんなさい……」
それにつられてしまったのか、皆も泣き出してしまった。
特に、駆逐艦たちは、大号泣であった。
「大井……」
「うぅぅ……」
「みんな……お前を心配していたんだぜ……。お前は独りで戦っていたつもりなのだろうけれど、お前の力になりたいって奴らは、こんなにも多くいたんだ……。俺を信じてくれたように――こいつらがお前を信じてくれたように、お前も、こいつらの気持ちを信じてやって欲しいんだ……」
「みんな……」
駆逐艦たちが、大井を取り囲んだ。
「ごめんね……。ごめんね……うぅぅ……」
涙する大井に、俺もほろりとやられそうになった。
が、それを阻むように、誰かが俺を強く抱きしめた。
「ぐぇぁ!?」
思わず声が漏れる。
それもそのはずで、俺を抱きしめているのは、武蔵であった。
「む、武蔵……! 苦しい……!」
「提督……!」
俺の声が聞こえないのか、武蔵は強く、より強く、俺を抱きしめる。
「良かった……。本当に良かった……。貴様が居なくなっては……私は……」
「……っ!」
もう声も出ない。
どうやら武蔵は泣いているようであるが、その表情も確認できない。
「…………」
目の前が靄に包まれてゆく。
「む、武蔵さん! 提督が……!」
明石の声が聞こえたのを最後に、俺は――。
「……あれ?」
気が付くと、見慣れた天井がそこにあった。
「…………」
起き上がり、自分が置かれた状況を整理する。
確か俺は――。
「あぁ……なるほど……。失神したわけか……」
時計を見ると、ちょうど昼を過ぎたところであった。
「あ! 提督!」
声の主は、明石であった。
「起きられたんですね。気分はいかがですか?」
「あ、あぁ……大丈夫だ……」
「武蔵さんに絞められて、失神したみたいです」
「そのようだな……」
しかし、抱きしめられるだけで息が出来なくなるなんてのは、マンガの世界の話だと思っていたが、本当にあるもんなんだな……。
「……そういや、大井は?」
「寮に居ます。皆さんに事情を説明しているようでした」
「そうか……。海軍の方はどうだ? あれから船は来ているか?」
「いえ……。ぱったりと来なくなってしまいました。船の航跡も無いですよ」
海軍は本当に撤退していったようだな。
だが、今後、俺は海軍から目をつけられることになるだろう。
再び同じことが起きない様に注意しなければ……。
「提督、お腹、空いていませんか? おにぎり持ってきましたよ」
そういや、朝から何も食べていなかったな……。
「悪い。いただこう」
おにぎりは、少しいびつな形をしていたが、味は悪くなかった。
「美味い」
「良かった。それ、私が握ったんです。味も、提督が好きそうな味付けにしたんですよ」
「そのようだな。俺好みの味だ」
握り飯を頬張る俺の姿を明石はずっと見つめていた。
「どうした?」
「いえ、美味しそうに食べてくれるなぁって。えへへ」
「実際、美味いからな」
そんな事で見つめていた明石だが、その表情は、時間が経つにつれて、暗くなっていった。
「明石?」
そして、突然、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「お、おいおい……。どうした? 大丈夫か?」
「提督……」
「明――」
俺の言葉を遮るかのように、明石はそっと、口づけをした。
「――……」
「明石……」
明石は何も言わず、俺を抱きしめた。
小さく震えるその体に、俺は全てを察した。
そうか……。
そうだよな……。
「……ごめんな、明石。不安にさせてしまって……」
そう言って抱きしめてやると、明石は静かに泣き始めた。
本当なら、もっと大声で泣き出すほど、不安に駆られていたはずなのに――。
「勝手な事をして悪かった……。お前との約束を忘れたつもりはなかったんだ……。ただ……それを守ることが出来るほど、俺が立派じゃなかったんだ……。裏切るようなことをして、ごめんな……明石……」
明石が泣き止むまで、俺はずっと、明石を抱きしめてやった。
明石の抱える不安を包み込むように、そっと――。
寮に戻ると、皆が心配して駆け寄って来た。
「みんな……」
「提督よ……。先ほどは済まなかった……。つい……その……」
「いや、いいんだ。それよりも、聞いたか? 何があったのか……」
「あぁ……大井から事情は聞いている……」
「そうか……」
俺は床に伏せ、土下座をした。
「お前たちの知っての通りだ……。今回の件……すべては俺が仕組んだことだ……。本当に申し訳ない……」
皆が、土下座をやめるように説得する中、大和が出て来て、俺の胸倉を掴み、持ち上げた。
武蔵に負けず劣らず、凄い力だ。
「大和……」
「皆さん! これで分かったでしょう!? この人間は……私たちを危険に追いやった……! いくら綺麗ごとを並べようとも、自分の仕事をこなせれば、私たちを危険に晒してもいいと考えているんですよ……!? こんな人間をこのまま放っておいていいんですか!?」
「よせ大和!」
すかさず、武蔵が止めに入る。
俺は投げ飛ばされ、壁に叩きつけられた。
「提督さん……!」
「いてて……大丈夫だ、鹿島……。危ないから、下がってろ……」
「でも……」
心配する鹿島を遠ざけてくれたのは、大淀であった。
「悪い……大淀……」
「いえ……」
大淀は何も言わず、ただ見守ってくれた。
「武蔵……どうして貴女は、この人間を庇うのよ……!」
「確かに、この男がしたことは、立派なものとは呼べなかったかもしれない……。だが、誰かを救いたいという気持ちから来たものであって、決して悪意があったわけではないのだ。結果として、大井も救われたし、誰も被害を受けていないではないか」
「それは結果論でしょう……? この先も、この男の思うままの行動を許せというわけ……? また同じような事があったら、今度はどうなるか、分かったものではないわ……!」
同じ考えを持っているのか、数隻の艦娘が、不安そうな表情を見せた。
「……大和の言う通りだ。俺が不甲斐無いばかりに、皆を危険に追いやった……。それは事実だ……」
「提督……」
「武蔵、庇ってくれてありがとう。だが、今は大和の思うようにさせてほしい」
「だが……」
「頼む」
武蔵は、ぐっとこらえる様な表情を見せると、そのまま下がっていった。
「みんな、すまなかった……。今回の件で、俺は思い知った……。俺はまだまだ未熟だ……。大井との交流も、もっと上手くいくものだと思っていたし、海軍が素直にいう事を聞いてくれるものだと思っていた……。傲慢であった……」
「少し考えれば分かるはずです! そんな事も分からないなんて、貴方は一体何をしにこの島に来たというのですか!?」
「……返す言葉もない」
大和は俺の前に立つと、睨みつけながら言った。
「この島から出て行ってください……。人間は、そうやって責任を取る生き物でしょう……?」
「……確かにそうだ」
ここで、島を出ることを宣言しても良かった。
だが――。
「…………」
明石が不安そうに俺を見つめていた。
数隻の艦娘も、同じように。
「……悪いが、出ていくことは出来ない」
「はい……?」
「俺が悪かったことは確かだし、出て行けと言われてしまうのも納得している……。だが……」
俺は再び頭を下げた。
「俺にはまだ、やるべきことがあるんだ……。俺にしかできないことがあるって……そう思っている……。だから……まだこの島に居させてほしい……。頼む……」
すかさず、大和が胸倉を掴む。
「ふざけないで……! その考えが傲慢だと言っているんです!」
「傲慢な事は分かっている……。それでも……俺は……」
「この……!」
「やめてください!」
止めに入ってくれたのは、大井であった。
「大井……」
「大井さん……」
「大和さん……その人から手を放してください……」
「でも……!」
「その人だけが悪い訳ではないと、貴女も分かっているはずです……。責めるなら、私も責めてください……」
そう言うと、大井は大和の前に立った。
「……大井さんは悪くないです。全ては、この男が仕組んだことで……!」
「それでも、きっかけは私の暴行です……。大和さん……貴女がその男を責めるのは、ただの私怨からなのではないですか……? 鳳翔さんを……貴女が好きな鳳翔さんをこの男にとられたという、ただの私怨ではないですか……?」
「そ、そんな事……!」
「なら、私も罰してください……。その男だけではなく、私も……」
二隻はしばらく睨み合っていた。
永い静寂が、その場を包む。
「……分かりましたよ」
大和は俺を放した。
「今回は何事も無かったことを考慮して、見逃してあげます……。ですが、次はありませんから……」
そう言って、大和は自室へと戻っていった。
「大井……」
大井は俺を一瞥すると、そのまま部屋へと戻って行ってしまった。
「大井!」
「雨宮さん……」
大淀は俺を止めると、首を横に振った。
「どちらもそっとしておきましょう……。色々あり過ぎたので、今はとりあえず落ち着く時かと……」
「……そうだな。悪い……」
再び、皆に頭を下げた。
「改めて、済まなかった……。俺は、しばらくここには来ないことにする……。お前たちの気持ちの整理もあるだろうからな……」
俺は大淀に目配せをすると、そのまま寮を後にした。
家に着くと、全身の力が一気に抜けて、思わず座り込んでしまった。
「はぁ……」
軽いめまいがする。
同時に、眠気も襲ってくる。
「なんて言うか……疲れたな……」
体の疲れというよりも、精神的に疲弊している。
「…………」
結局俺は、一体何がしたかったんだろうか――。
皆を危険に追いやって、大井の気持ちを知って――それからどうしたかったのだろうか――。
突発的ではなく、もっと計画的にやるべきだったし、自分の立場と言うものを過信し過ぎていた――。
もし上官が、大井と交流するとして、もっといい方法を思いついていただろうか――。
もし、あの時――。
あの時も――。
いや、あの時だって――。
もし――。
もし――。
「もし……」
もし、佐久間肇だったら――。
その日の夕方。
俺の体は高熱を出し、念のため島を出ることになった。
「慎二、てめぇ……その……なんだ……。さっきからぼうっとしているが……大丈夫か……?」
「……あぁ、大丈夫だ。少し……船酔いしただけだ……」
島から伸びていた航跡が、徐々に消えて行く。
風が連れて来た波に溶けて行く。
まるで、そこには最初から、何もなかったとでも言うように、静かな海へと戻って行く。
「…………」
離れ行く島を見つめ、ふと、もう二度と戻れないかもしれないと思ってしまった。
けれど、不思議な事に――明石たちには申し訳ないと思ったが――その方が、あいつらの為になるんじゃないかと、思ってしまう自分もいた。
「本土に戻ったら、少し休めよ。島の艦娘たちも、きっとそれを望んでいる」
それは重さんの慰めであったはずだったが、今の俺には――。
「……そうだな」
船が速度を落とすと、水面に自分の影が現れた。
風が吹き、波が立つ。
揺れる影の口元が、少しだけ、ほんの少しだけ、笑っているように見えた。
――続く