いよいよこの作品におけるメインヒロインの登場が近づいてまいりました!
え? シーデー? メロペー?
何を言っとるんだチミたちは(真顔)
それでは、どうぞ!
鍛冶を司る神ヘファイストスは、激怒した。
事の次第はこうだ。
鍛冶神ヘファイストスは母にして大神の妻たるヘラの命令により、オリオンという狩人の
専用武具を拵えたことがある。職人気質で頑固一徹な彼は、生半可な相手に武具を鋳造する
タイプではない。自分の認めた者にしか力を貸さない、ある意味では信頼できる性格だ。
そんな鍛冶神は、オリオンという男の性格と行動をいたく気に入り、権能を大いに振るって
専用の神器を二つも鋳造し、直接手渡している。これ以来、狩人は彼のお気に入りとなった。
さて。今日もあの狩人はワシのこさえた神器を使っておるかのぅ。
などと考えながら空を眺めていると、大神からの伝令を通達する役割を持つヘルメス神が
鍛冶場に降臨してきた。何事かとしかめっ面で出迎えた彼に、伝令神が率直に伝えた。
「ヘラ様やポセイドン様が目をかけてるオリオンってガキ、目を潰されたみたいだよ」
「何だと!?」
胸倉に掴みかからん勢いで取り乱すヘファイストス。それを半歩下がって避けるヘルメス。
烈火の如き怒りを見せる鍛冶神に、伝令神は冷や汗を一つ垂らしながら話を続ける。
「落ち着きなってヘファイストス、結果だけ伝えた私が悪かったから。話を聞いてくれ」
「………さっさと話さんかい。場合によっちゃワシの鎚が明後日の方へ吹き飛ぶぞ」
「怖いこと言うなぁ。神鉄を加工する神器級の鎚なんかで叩かれたら無事じゃ済まない」
「自慢の脚へし折られたくなきゃ、とっとと喋らんか。それが役目じゃろうが」
「…随分な熱の入れようだね。いいよ、本題に移ろう。まずは――」
白熱化する鎚を担いで凄む鍛冶神に気圧され、飄々とした態度の裏で焦りつつ伝令神は語る。
狩人オリオンはとある島で、空に大穴を穿つ偉業を成し遂げたこと。
それをきっかけに島の王族の娘に気に入られ、求愛されていたこと。
娘の父から結婚条件として難題を出されたが、苦も無く成したこと。
だが、オリオンに婚姻を結ぶ気はなく、結婚を一度断っていたこと。
けれどその夜に娘に迫られ、逆上した父が彼の目を焼き潰したこと。
つらつらと謳うように伝えたヘルメスは、ヘファイストスの怒りが治まらないことに気付く。
「どうしたんだい、ヘファイストス?」
「そのキオスんとこの阿呆、デュオニソスのガキじゃったか?」
「そうだけど?」
「美味い酒を貰っとる借りがある……顔面凹ますだけで許したるわい」
「それって許されてないんじゃない?」
ヘファイストスは我慢の効かない性分である。お気に入りの若造が落ち度もないのに目を
焼かれ潰されたと聞いて、黙っていられるはずもない。鼻息を荒げる鍛冶神は鬼神の如く。
そんな状態のヘファイストスを見やる伝令神は、これ以上は危険だと判断して話題を変える。
「いや、まぁ。放っておいていいと思うよ私は」
「よう言ったわクソ坊主。じっとしとれ、まずお前の首根っこ叩き折ってやろう」
「冗談の通じない爺だなぁ! 安心しなよ。今オリオンはポセイドン様とゼウス様の神託で
オケアノスへ向かっている。そこでヘリオスに焼かれた眼を癒してもらうんだってさ」
「………それを先に言わんか、阿呆」
以上が、事の一部始終である。
ヘルメス神が仕事に戻るといって鍛冶場から立ち去ってしばらく。
ヘファイストスはどうしてもオリオンの様子が気がかりで、遠見の魔術を扱える神に頼んで
オリオンの現状をがっつり覗き見ることにした。神だから人のプライベートとか関係ない。
ちょうどオリオンが目を癒してもらった直後のようで、何故かヘリオス神の妹であるエオスが
一緒にいることに首を傾げつつも、ちゃんと神託通りに目が治って何よりだと一安心する。
これで仕事に戻れると遠見を終えようとしたが、そこで彼は厳つい隻眼を見開いた。
「…なんじゃオリオンの奴。海を走って何処へ行く?」
オリオンは海神ポセイドンの実子。海を渡る権能があっても不思議ではない。
ヘファイストスが驚愕したのはそこではない。脇目もふらず海を疾走するオリオンの様子が
どこか不自然に思えたのである。彼と直接会っている鍛冶神だから気付けた違和感だ。
鍛冶神の知るいつもの彼であれば、自分の目を癒したヘリオスに感謝を捧げるために
何らかの行いを取るだろう。仮にそれをエオスに託したとしても、すぐさま背を向けるか。
否である。あの狩人は義に厚い男。よほどの事情でもない限り……そこでふと思い立つ。
「―――まさか、デュオニソスの倅に復讐でもするつもりか?」
有り得ない話ではない。むしろ、このギリシャじゃ『
それどころか、倍返し案件も星の数ほどにある世界観だ。可能性は十二分に有り得る。
「うぅむ。いかん、いかんぞオリオン。お前はそんな小物ではあるまい」
ヘファイストスは唸る。鍛冶神の知るオリオンは、怒りのままに暴力を振るうような、
何処にでもいるギリシャの男などではない。世界を見渡しても霞のように見当たらぬ男。
高潔にして清廉。されど無双の武を宿し、無智の対極たる深い知慧を誇る絶世の豪傑。
そんな男が、我を忘れ復讐に駆られるなど。ありきたりな行動をとるのだろうか。
「……いや、しかし。己の目を理不尽に焼かれたとあれば、狂いもするか」
一度入れ込めば女以上に惚れっぽい鍛冶の神、ここで痛恨のアイデアロール成功。
オリオンはもう頭に血が上り、クレタ島の王へ復讐を果たすこと以外を忘れたのだと
思い込んでしまったヘファイストス。嘆かわしい、そう思わずにはいられなかった。
あわれオリオン。日頃の行いが良いばかりに悪い結果ばっかり返ってきてしまう。
「オケアノスからキオスの島までは……オリオンの足で三か月足らず、ってとこか。
うし。あいつにゃ復讐なんてありきたりな事ぁ似合わんじゃろう。手ぇ貸すかね」
気に入っている人物が過ちを犯すことを見過ごせない。ナンテイイハナシナンダロウ。
復讐はオリオンの為にならないとヘファイストスは考え、重い腰を上げ鍛冶場を出る。
こうして鍛冶の神は、オリオンの手を汚させないために、キオス島へ降臨する。
オリオンが島へ到着するまでの三か月未満で、キオス島の王の住まう屋敷の地下に
秘密の部屋を構築した。そこに王と事の発端である娘を嫌々ながら匿ってやったのだ。
このヘファイストスの温情が、オリオンの運命を定められた道筋へ誘ってしまう。
オリオンは海を疾駆する。遥かオケアノスの海を両脚で駆け、一路キオス島へ向かっている。
オケアノスの岬にて太陽神ヘリオスが騎乗する銀の馬車が放つ光を浴び、焼き潰された
眼を完全に癒したオリオンは、当然ながら彼の神と眼前に降臨した暁の女神エオスへと
感謝を捧げようとした。ところが、エオスがそれを拒み、代わりに彼の話を聞き出した。
生誕地やこれまでに何をしてきたのか。好物や趣味、女の好みなどそれはもう根掘り葉掘り。
女神エオスの唐突な話題に混乱しつつも、女神からの問いかけに答えない選択肢はない。
オリオンは聞かれるがまま、自分の生い立ちや今に至るまでの経緯を包み隠さず話した。
そして眼のことに触れた後、女神エオスはわずかな間沈黙したが、すぐにこう語った。
「それならばオリオン。すぐにその何とかという王のもとへ帰参し、誤解を解くがいい。
ちゃんとポセイドンとゼウスの神託に従って目を癒したことを伝え忘れるなよ?」
他ならぬギリシャの神が下したお告げ、それはもはや神託である。
神々を信奉し崇拝しているオリオンは、神託を授けられたのであれば実行に移すのみ。
だが、それはそれとしても、疑問に思わないわけではない。
「その、お告げはありがたくお受けしますが、何故…?」
「なぜ、とは?」
「いえ…目を潰された私が、目を癒して舞い戻ればオイノピオーン王も驚くばかりか、
いらぬ不安を抱かせてしまうことでしょう。それは私の望むところではありません」
「ふむ…?」
「それに………いえ、何でもありません。女神エオス、神託をお受けいたします」
疑問を口にしてみたはいいものの、それはオリオン個人の問題からくる疑問ばかりであり、
エオスという神の視点からは到底知り得ぬことばかりである。少なくとも狩人はそう考える。
しかし、オリオンが会話している相手は誰か。そう、人知を超えた超常存在・神である。
卓越した
それこそが神。それこそがギリシャを、人々を支配する大いなる存在たる、彼女らだ。
そこに前代未聞の致命的
(オリオンはオイノピオーンとその娘に何かしらの負い目を感じているみたいだね。
誠実な人柄は好ましいよ。でも、結局アンタはそういうの背負っちまう性分だろ?)
彼女は見抜いていた。オリオンという人間の善性を。彼の行いが起こす事の顛末を。
だから―――。
(利用しない手はないじゃないか。オリオン。アンタには悪いけど、アンタと人間たちの
繋がりを断たせてもらうよ。だってそうじゃないと、アタイのものにならないじゃんか)
止まらない。止められない。エオスはもはや、女神としての役割より一人の男を選んだ。
さて。そんな女神の策謀も知らず、オリオンはエオスに促されるまま海を走っている。
女神からの神託は、目が癒えたことをクレタ島の王へ伝える事。そして彼個人としては
眼を潰されたことを恨んではおらず、娘のメロペーとの間に誤解を生じさせたことを
謝罪するつもりでいた。若干の悪寒で背筋を震わせながら、輝かしい海を見つめ駆ける。
そうして、来た時よりも数日早く道…海路を戻っていき、二か月と三週間を過ぎた頃。
「はぁ…はぁ……着いた」
オリオンはまたも海を渡り、己にとって悲劇を起こしたキオス島へと戻ってきた。
彼にとって海を駆ける道のりは往路より困難が少なかった。なにせ視力が回復しているうえ、
瞳を閉じて意識を集中させればどんな遠方の音も聞き逃さない聴力まで得ているのだから。
そんな狩人は海から浜辺へあがり、狩りで得た獲物で腹を満たしてから身だしなみを整える。
一度ひどい目に遭ったとはいえど、相手は王族。復讐をしに来たわけではないのだから、
やはり礼を失さぬように心がけるのは当然と判断したためだ。マメな男オリオンである。
しかしオリオンはキオス島上陸後、以前と明らかに雰囲気が違っている街並みに困惑する。
「……喧騒が聞こえない。あれほど賑やかで陽気な人々のいる街が静まり返っている」
訝しむ彼は、島の森や川に変化がない事を狩人の直感で感じとり、他に何か原因があると
考えた。だとしても、朝から晩まで宴をして騒ぐ島民の声一つ聞こえてこないというのは
明らかな異常に他ならない。緊張に肌をひりつかせながら、オリオンは街へ踏み込む。
そこで彼は見た―――島民の活気が消えた理由を。
「な……なんだ、これは? どうなっている!?」
視力を取り戻したオリオンが見たもの。それは、島民の鼻から上を覆う薄白の結晶体。
店屋の主人にも、老いた婦人にも、無邪気な子供たちも、一切の例外なくあったもの。
かつて訪れた際には見なかったもの。視界を物理的に阻害するソレに狩人は驚愕した。
遠目から見れば、何らかの祭事で島民らが顔の上半分を隠す仮面のようにも、見えなくない。
だが実際は違う。ソレは島民たちの瞼の内側まで入り込んで凝固した結晶で出来ている。
眼球は傷つき、渇き、もはや視覚器官としての役割を果たす機会は永劫有り得ない。
そんな状態の者が、街中至る所にいるのだ。流石の彼でも未知の状況に恐怖した。
驚きのあまりに硬直していたが、勇気を振り絞って近くにいた者に声をかける。
「あ……その、もし。そこなご婦人」
「え? あぁ、はい。旅の御方、でしょうか? すみません。この通り、何も見えず…」
「いえ、あの……以前この島を訪れた際には、こんな様子ではなかったはずでは?」
「……そう、です。かつて島は活気に満ちていました。けれど半年ほど前でしょうか。
海から流れる潮風を浴びた島民は皆、目の中で潮が結晶化するという病に侵されてしまい、
元の生活に戻ることが叶わなくなってしまったのです。誰もが暗い世界に囚われて…」
水の入った甕を抱えて女性は語った。このキオス島に突如起こった、疫病の話を。
しかし、オリオンは女性の話を聞いて愕然とした。この異常事態の発生源に心当たりが
あったからだ。彼は「そうあってほしくない」という微かな願いを抱き、さらに尋ねる。
「半年前、というと……島の空に大穴が開いた頃でしょうか」
「ああ! あの光景をご存知なのですね! 私もあの時、窓から眺めておりました。
麗しくも屈強な旅人が、メロペー姫の憂慮をお祓しすべく曇天に穴を穿った光景を。
思えば確かに、姫がかの旅人と御婚姻されるという話が島中に伝わったあたりから、
島民の目が塩で潰れる病が流行りだしたような……いえ、気のせいでしょう」
女性の話で、オリオンは疑惑を確信に変える。
島民の目から光を奪ったのは、他でもない―――父にして海神ポセイドンであると。
膝から崩れ落ちそうになるのをどうにか堪える狩人。女性はそんな彼の身を案じる。
「せっかく訪ねてくださったのは喜ばしいことですが、この島に長く滞在されるのは
お勧めできません。この病が貴方の身を蝕むやもしれませんもの。目が見えないという
苦痛を伝染させるのは誰も望まぬこと。さ、どうぞ島より出立なさってくださいな」
「……………そう、させてもらう。感謝する、ご婦人」
相手が見えていないと知っていても、オリオンは深々と頭を下げて感謝を告げた。
女性は口元しか見えないがうっすらと微笑み、水の入った甕を抱えて歩き去っていった。
オリオンは聡明である。先程の女性の話と自らの境遇を重ね合わせ、このクレタ島に
起こった突然の奇病の正体が、父たるポセイドンの与えた神罰によるものと見抜いた。
(神罰は不要であると訴えたはずだ…! 我が父よ、何故こんな惨いことを…!)
狩人には分からない。大津波でもって島ごと消し去ろうとしたポセイドンを諫めてから、
神託に従いオケアノスへ向かった彼には分からない。狩人の父はギリシャの神格であり、
大神ゼウスの兄にして、大いなる権能を有する存在。人の視点で測りえぬ者である。
絶対的支配層たる彼らが一度でも「神罰を下す」と決定した以上、それは行われるのだ。
形を変えようと、規模に差異はあれど、必ずだ。神々の威光にかけて実行される。
そのあたりを知らなかったオリオンの甘さ。親を信じる純粋さが招いた悲劇だった。
「………すまない、すまない…! 許してくれ……!」
あれほど賑わった街並みからは人の姿は消え、寂れた道の真ん中で狩人は慟哭する。
全ての発端は、自分だった。そう悟ったオリオンはもう、耐え切れないほど絶望した。
どこから間違えてしまったのだろう。頭を抱え、涙をこぼさずにはいられなかった。
海神ポセイドンを諫めようとしたからだろうか。否。そうしなければ島は今頃、海の底だ。
メロペー姫の求婚を承諾しなかったからだろうか。否。自分にはシーデーという妻がいる。
オイノピオーン王の課した条件を呑んだからか。否。放っておけば島民に被害が及ぶ。
自分が、自分が「美しさとは罪であるのか」と尋ねようとして島を訪れたからか。
「俺はなんということを……」
島に暮らす人々から光を奪ったのは、自分だった。
いずれ伴侶を得て幸せになるはずだった姫を狂気に堕としたのは、自分だった。
賢王だったオイノピオーンを激怒させてしまったのは、自分だった。
クレタ島に起こった悲劇の根幹は自分であったと悟り、自責と後悔の念に苛まれる。
「あぁ、ああああ……!」
海神の実子にして、絶世の美貌を持つ屈強な狩人。誰もが彼をそう讃え、憧れる。
どんな猛獣だって仕留める狩りの腕を持ち、どんな人にだって敬意を払う高潔な男。
さながら、伝説になぞらえた物語のような生涯を送るであろう、無双の英雄。
だが、彼はただの人だ。人間だ。
英雄ではなく、豪傑でもなく、勇士でも、戦士でもない。
自らが招いた災厄が及ぼした最悪の結果に耐え切れない、ただのちっぽけな人間だった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
かつて島を震わせた痛苦の咆哮の再来を思わせる、心砕けた慟哭が轟いた。
そこは、たった二人しか存在を知らない、秘密の地下室。
キオス島の王であるオイノピオーンとその娘メロペーだけが知る、屋敷の地下に造られた
現代風にいうシェルターのような避難場所である。
鍛冶神ヘファイストスの温情と厚意によって造られたこの地下室に一月ほど前から籠っている
オイノピオーン王とメロペー姫。食料や水の貯蔵も万全なこの場で、二人は生きていた。
事の発端は半年前。オイノピオーンが旅の狩人にしてメロペーの想い人であるオリオンの目を
焼き潰して海へ放り捨てたことから始まった。あれがキオス島を襲う悲劇の原点だった。
海が急激に荒れた日から、潮風に乗って運ばれた微細な塩が島民の目の中で結晶化する
謎の奇病が発生。瞬く間に被害は広がり、ものの数週間で王を含めた島民全てが盲目となる。
あれから街の喧騒はすっかり鳴りを潜め、誰もが暗黒の世界で生きる為に酒を断った。
しかし王とその娘だけは、奇病の正体が神による罰であると正しく理解していた。
視界を奪われてからというもの、メロペーは日がな一日オリオンを想って泣き続けている。
既に凝固した塩の結晶のせいで眼球すら動かせない状態であるのに、涙を流し悲嘆に暮れる。
すすり泣く声に交じり、時折オリオンへの謝罪の言葉も聞こえてくる。
オイノピオーンはあの後、己以上に錯乱してしまった愛娘から事情を聞き出し後悔した。
あの夜に起こった出来事はメロペーの仕組んだことであり、オリオンに非はなかったこと。
彼は初めから自らの積年の悩みを解決したかっただけで、好色に染まったわけではなく、
むしろ王族たる娘の経歴に傷がつかないように配慮してくれていたことまで、何もかも。
父王は懺悔した。目を潰した狩人に。神罰の為に光を奪われた島民に、そして娘に。
眼が見えないとはこうも恐ろしい事か。目を潰した狩人と同じ状態に陥って痛感した彼は、
泣きながら虚空へ謝り続けるメロペーを放置した。誰が彼女の邪魔などできようか、と。
そんな折、どこからか悲痛な叫び声が響いてきたような気がして、顔を上げた。
「今のは……気のせいか?」
地上から届いた声に聞き覚えがあるようなオイノピオーンは、誰の声だったかを記憶から
思い起こそうとするが、どうにも顔が浮かばない。少し考えても分からなかったのできっと
気のせいだったのだろうと思うことにした。けれど横にいるメロペーは違った。
泣き崩れていたメロペーは聞こえてきた声にハッと顔を上げ、直後に確信へ至る。
「――オリオン、さま?」
間違えるはずもない。彼女が半年間、毎日想い続けていた男の声を聴き間違えるものか。
それまで悲壮に身を窶し、ろくに食事もとらないでいたはずのメロペーが両手を伸ばして
ふらふらと歩きだそうとする。オイノピオーンはそれを止めようとするが、止まらない。
老いてこそいるが成人男性の腕力に変わりはない。だがそれをものともせずに歩みを進め、
メロペーは地下室から地上の屋敷へ戻る階段に手で触れる。耳に意識の全てを集中させて、
音の聞こえる方向を脳内に思い描く。神の血が四分の一ほど受け継がれているにしても、
彼女は人の身。ただの娘でしかない彼女には、居場所を突き止めるほどの力はない。
「オリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさまオリオンさま」
特別な技能などは何一つない娘子の身なれど、燃え盛るような恋慕の熱を抱く女である。
執念。ただそれだけが、通常であれば有り得ぬと一笑される不可能を実現可能にしていた。
簡単に折れてしまいそうな細腕で這うように階段を上り、口内の水分が蒸発しきって乾いた唇が
切れて赤い筋を描いても、意にも介さず一人の男の名を呼び続ける。
目が見えようと見えまいと、メロペーにとっては些事であった。
彼女にとっては、己の傍にオリオンがいること。オリオンの傍らに己が在ることが肝心。
それさえ果たせるのなら、視力だろうが聴力だろうが、四肢の欠損すら問題視しない。
純粋に、どこまでも純粋に、望んで狂気の深淵へ埋没していく。それが女の執念だ。
そして――そんな彼女のような存在を象徴するかのような女神が、ギリシャにはいた。
『……哀れ。なんとも憐れなものだ。我が狂気が蝕む余地すら残っておらぬとは』
鼓膜ではなく脳内に直接響くような女の声。初めて聞くのに、何故か知っている声色。
メロペーは狩人一色に汚染されかけていた思考の残滓で、声の正体に気付き思わず呟く。
「………女神ヘラ、さま?」
『いかにも。妾こそ、いと高きオリュンポスの最高神ゼウスの妻にして神々の女王なり。
デュオニソスの孫娘よ。混沌すら凌駕するほどの狂気を滾々と湧かすその昏き心、
まさかあの狩人…オリオンに向けているのではあるまいな?』
メロペーの前に降臨したのは、かつてオリオンの妻を冥府へ落とした女神ヘラだった。
女神ヘラは冷静さを保ちつつ錯乱している女の前に現れ、神でありながら恐れを抱かずには
いられないほどの狂気の向かう先が、自分を諫めた狩人ではないかと彼女に尋ねてきた。
これに驚いたのはメロペーである。なにせ、神の孫という恵まれた生まれであっても、
まさか最高神ゼウスの妻である女神ヘラと直接言葉を交える機会があることなど、一生に一度
あるわけもないと考えていたからだ。そんな彼女はヘラの言葉に細々と枯れた声で返す。
「……オリオンさまが、この島にまた、来てくださったのですね」
『問うておるのは妾よ。答えよ人間。その感情ごと腐敗したような思考でオリオンめの元へ
向かうつもりかえ? そうであるならば控えよ。貴様如きにアレは些か過ぎよう』
「………オリオンさま。ああ、オリオンさま。きっと会えると信じておりました」
『この娘…ああ、なるほど。ポセイドンも酷なことをする。目が正常であろうがなかろうが、
しかし、メロペーの言葉は決して女神ヘラへの返答ではなく、単なる自己完結だった。
女神ヘラはすぐに娘の本質を見抜き、ポセイドンの下した神罰がこの娘にとってどれほどの
重荷にもなってはいないことを察する。自分だけの世界に初めから閉じこもっているのだ。
外を見るのではなく、自分が見たいものだけを映す。それだけの為に彼女の目は機能した。
同じ女としての視点を持つヘラだからこそ気付けた、メロペーという女の破綻。
狂気を司る権能を有する女神であっても、これほどの狂気を内包する人間など信じ難い。
さて。女神が降臨したとあっても這う姿勢で歩みを進めるメロペー。
そんな彼女の様子を見下ろす女神ヘラは、先の気付きもあって、嘆息の後に口を開く。
『娘。貴様には如何な重罰も役不足であろう。狂気とは即ち、認識を作り変えるもの故な。
ただの責め句ではもはや足りぬとみた。であれば、相応しい罰を用意してやらねば』
女神ヘラはある目的のために彼女の前に降臨した。五年近く前、妻を奪われてなお復讐を
心に誓うでもなく、むしろ妻を奪った神を諫めるような言動を貫いた生粋の高潔さをもつ男。
そんな男が、狂い果てた娘とその親によって両目を焼かれ潰されたと聞き、流石のヘラも
無関心ではいられなかったのだ。事の顛末こそ伝令神が語っていたが、当の本人たちからの
話を聞くべきだ。かつて「人の言葉に踊らされるな」と諫められたヘラはそう考えた。
その為に女神ヘラは降臨した。けれど事実は、混沌より混沌とした狂気によるものだった。
愛憎は複雑に絡み合ったのが原因であっても、そこに全てを破滅させる狂気があるなら
話は違ってくる。状況を正しく把握した女神ヘラは、這いずる娘に神託を下すことにした。
おそらくその神託は、メロペーという女にとって最大級の痛苦となるだろうと確信して。
『神託である。心して聞くがよい。デュオニソスの息子オイノピオーンが娘メロペーよ。
貴様はこれよりヘカテーを信奉し、かの神より魔術を学ぶがいい。ともすればその才が
花開き、
「……‼」
ヘラの告げた言葉に、指先の爪が剥がれかけても進もうとしていたメロペーの手が止まる。
効果あり、と。塩の結晶で物理的に目が見えていない娘の前で、女神はくつくつと嗤う。
『妾の言葉は以上だ。では精々、勤勉に励むがよいぞ……見たいものでもあるなら、な』
わなわなと切れた唇を震わせて動きを止めたメロペーに、ヘラは一方的に話を打ち切り、
彼女の前から姿を消した。神託として扱った助言を出すだけ出して、後のことはヘカテーに
丸投げする予定だったのだ。天上の世界に舞い戻った女神は、邪悪な微笑を湛える。
『……ヘカテー。後は任せるぞ。よくよく育て、千里を視通す眼を授けてやるがいい。
くくっ。一生を捧げ得た千里眼が、
あの娘、どれほど狂気に満ちるものか。望んで底なしの沼に入り込む愚か者だからな』
神々の集う玉座にて、女神ヘラは冷酷な声色でひとりごちる。
自らが認めた男を破滅させかけた女を、この女神ヘラが許してやるはずもないのだ。
それどころか一度でも希望をチラつかせ、それを目前で消し去ることに愉悦を覚える
そんな女神の神託を受け、メロペーがどうなるか。神の視点からすれば想像は容易だろう。
千里眼とは、文字通り世界を視通す異能。過去・現在・未来のいずれかを視る超常の能力。
ある古代の王は、遥か先の未来を視通し、全てを己の思うがままに成そうとした。
ある夢魔の男は、世界の
そして、そう遠くない未来に、過去の出来事を現実のように見抜く者が現れる。
その者はやがて伝承として世界に、歴史に、人々の記憶の間に紡がれる存在となった。
皮と骨だけのような外見をした、白い仮面で顔の上半分を覆い隠した青白い肌の老婆は、
どこからかふらりと現れ、か細い声で「此処にいた」と呟くと姿を消してしまうという。
古くはギリシャの各地で言い伝えられた民間伝承で、妖精の一種だろうとされている。
やがて世界から神が、魔術が消え、星の裏側から裏側まで繋がるようになった現代において。
古代の伝承にあった謎の老婆の存在は、ある種の「ホラー伝説」として度々扱われた。
恐怖、好奇心、探求心。後の人々に様々な印象を与えてきた彼女は、その在り方を大きく
歪められて世界に刻まれてしまう。これもまた、人理という薄氷の性質故だろうか。
こうして、オリオンという狩人の伝説において、キオス島の出番はなくなった。
狩人が目を治してから島に戻り、それからこの島は、島民は、王と娘がどうなったのか。
オリオンの一生を綴った英雄譚の中でさえ、どこにも記されていない「その後」の話。
それを知っているのは、知っていたのは、神々だけなのかもしれない。
【悲報】:女神ヘラ、最大級の失態をやらかす。
神のクォーターで魔術の適性がある程度あって恋に恋する乙女で狂気属性のメンヘラ地雷女が、英霊の座になんか登録されるわけないだろいい加減にしろ!
って言いたいのはオリオンなんだよなぁ。
また時間を見つけてお話書きます。
応援してくださる皆様の為に頑張りますので、
これからも見守っていてください!
ご意見ご感想、並びに質問や批評も大歓迎です!
私の書き方について
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読みやすいからこのままで!
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読みにくいから変えてくれ!
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特に気にならない