この作品と並行して書いているオリ異聞帯作品を
進めたりしながら話の構成をちょこちょこ変えて
いたら、こんなに間が空いてしまいました。
さて、いよいよメインヒロインさんの登場によって
物語が大きく動き出すことになるでしょう。
どうか最後までお付き合いくださいませ。
それでは、どうぞ!
「うつくしい……」
思わず呟いてしまうオリオン。言葉にせずにはいられなかった。
狩人オリオンは夜空を仰ぐ。そこに、彼の心を奪う存在がいる。
「……? なに? さっきからジロジロ見て?」
肌で感じられるほど濃密な神聖なる気配を放つ、美しく麗しい女性。
先程彼女自身が名乗ったことから、女神であることに疑いの余地はない。
オリオンは困惑していた。自らの鼓動の音が不自然に早まるのを自覚したからだ。
他にも体温が急上昇し、喉奥がカラカラと渇き、視線が一点に絞られる。
どれも未体験のことばかり。どうしたらいいのか分からないでいた。
「あ、いえ……その、あ……」
結果、主神に愛されし月女神の不機嫌そうな問いにもうまく答えられない。
神の理不尽を嘆きながらも決して恨まず憎まない、清廉潔白にして敬虔な彼らしくない
態度を取ってしまう。しどろもどろな口調に、直視せず右往左往する瞳が彼の内面を
言葉にせずとも物語っていると言えよう。
この私が聞いているのに答えないとは何事か。そう考えるアルテミスは声を荒げる。
「だいたい、いつまでそうして突っ立ってるつもりなの? それに小声でブツブツと
ワケ分かんないったら! 喋るんならもっとハキハキと喋りなさいよ!」
「えっ…? あ、はいっ…!」
自身が司る月の明かりを背に受けながら、アルテミスはオリオンを叱咤する。
幼さが際立つ甲高い声と指さしに我を取り戻した狩人は、今の今まで自分が茫然としつつ
棒立ちになっていたことに気付き、遅きに喫したが慌てて片膝をついて頭を下げた。
神を前にした人間としてあるべき姿勢を見て平常心に戻ったアルテミスは、誇らしげに胸を張る。
「ふふん! そうそう、それでいいのよ!」
怒ったり喜んだり、本当に目の前にいるのが人知を超越せし神の一柱なのだろうか。
人間以上に人間らしい様をみせるアルテミスに、遅れて頭を垂れたオリオンは困惑する。
満足げに腕を組んでしきりに頷く月女神だったが、ここであることに気付く。
「……あれ? あたしったらどうしてクレタ島まで来たんだっけ?」
ガクリ、と跪きながら肩を落とすオリオン。立っていたら転倒は確実だった。
嘘だろと思いたくもなるが、この女神なんとここにやってきた理由を忘却したらしい。
うんうんと唸りながら思い出そうと頭を捻る女神に、狩人は片膝をついたまま口を開く。
「いと尊き月女神アルテミス様。貴女様は先程、我が身を罰する為にやってこられたと」
「ん? そーだっけ? でもホントはエオスに用があったような…そうじゃないような」
「エオス様に?」
今度はオリオンが頭を捻る番だった。
先程、唐突に現れた月女神は確かに、オリオンを罰するべくやって来たと口にしていた。
だが次は、オリオンが世話になった暁の女神エオスに何かしらの要件があったという。
では先の口上はいったい何だったのか。思考を巡らすオリオンをよそにアルテミスが叫ぶ。
「あーー! エオスいないじゃない! 空も明るくなってきてるし! んもーー!」
「あ、アルテミス様…?」
「もう、バカバカバカ! アンタのせいだからね!」
理不尽ここに極まれり。何もしていないのに自分のせいにされるとは。
神を敬い尊ぶオリオンだが、流石に目の前の女性が本当に女神なのか疑い出す。
空の彼方からやって来たところは目視していたが、その後の言動に一貫性が見られない。
彼の知る神とは、良くも悪くも一本気が通っている。悪く言えば融通が利かない。
一度「こうだ」と言えばその通りに事を起こす。結果がどうなろうとお構いなしにだ。
その鋼鉄の如き精神性を理解している狩人だからこそ、アルテミスの様子に混乱したのだ。
あまりに自由奔放が過ぎる、と。
「はぁぁ……もういいわ。用事も忘れちゃったし、エオスもいないし。もう帰る」
「あ、あの? 月女神アルテミス様?」
「うるさーーい! 帰るったら帰るの! じゃあね!」
取り付く島もないとはまさにこの事。
好き放題言い散らかして、アルテミスは白みだした東の空に背を向けて飛び去った。
独り取り残されたオリオンは、ただ茫然と片膝をついたまま空を見上げ続けた。
あくる日の夜。
結局、オリオンはクレタ島を出立することを止めて留まることにした。
身体的な問題があったというわけではない。暁の女神エオスの要求を呑んだわけでもない。
むしろかの女神とまた話したいと考えていたのだが、彼女は島に戻っては来なかった。
悲劇的な事実に膝を屈し、泥のように絶望していた時とは違い、今は目的を確立している。
進むべき道を見出した以上、ひた走るのみである。けれど狩人の足は島から踏み出せない。
彼自身の意志ではない。あくまで無意識に、彼は待っていた。
何を? 無論。昨夜に出会った、あの麗しい女神をだ。
「…………はぁ」
オリオンは思い出す。満天の星空の中に浮かぶ、淡い月明かりのような白磁の女神を。
そしてまた、堪えきれずに息を吐く。島の端から一歩も動かず、これを繰り返していた。
月女神アルテミス。主神ゼウスが子にして、太陽を司る神アポロンと兄妹の関係を持つ。
オリュンポス十二神に数えられる特級の神格。そんな存在が突如として眼前に降り立つ。
あまりに現実味がない出来事に出くわしたからか、物事を冷静に考えることが出来ない。
ふわふわと思考が遅滞し、肉体の動作は鈍化する。朝から晩まで彼女の事を思い浮かべる。
そしてまた、狩人は砂浜で独り息を吐いた。
「はぁ……いったい何をしてるんだ俺は」
オリオンは自らの旅に課した誓いがあるはずだ、と己を鼓舞する。
そうだ。己は、妻が何故冥府へ幽閉されねばならなかったのか、探求せねばならない。
美しいということは、それだけで罪足り得るのか否か。確かめなければいけないのだ。
加えて新たに課した義務がある。我が父ポセイドンがキオス島の民草に振り撒いた厄災を
どうにかして解かなければ。永遠に暗闇に閉ざされて生きることを強いられた無辜の民を
思えば、こんなところで油を売っている場合ではない。頭では正しく理解できている。
だというのに、一向に足が進まない。まるで、誰かを待っているかのように。
「…馬鹿げている。俺には使命があるのだ。生涯をかけて成し得ねばならぬ使命が」
珍しく、オリオンは悪態を吐く。常に清廉潔白で自他へ誠実な、彼らしからぬ言動だ。
これは生来の気質であり、育ったボイオティアの環境と彼を取り巻く人々の影響もまた
大きかった。王族の子として生まれながらも愛されず、捨てられた過去こそあったが、
彼の性格が曲がらず折れず腐ることなく真っ直ぐになれたのも、縁に恵まれたからだ。
しかし今、彼の心は重く沈んでいる最中。理由は皆目見当もつかぬときた。
ざざん、と波が押しては引いてゆく様子をぼんやりと眺め、時だけが過ぎてゆく。
そうしてふと、何気なく空を見上げる。昨日と変わらぬ満天の星空と、少しだけ欠けた月。
狩人は無心で手を伸ばす。淡く青白い光を放つ、神々の領域に浮かぶ夜空の象徴に。
「なにしてるの?」
突然、背後から声をかけられる。
慌てて振り向いたオリオンは、声の主を目視した途端に心臓が飛び跳ねる錯覚を覚えた。
「おわぁっ!? あ、ああ、アルテミス様…!?」
「そだよー。月女神のアルテミスちゃんここに参上! で、なにしてたの?」
「いや、特に理由などはなく、あの…」
「???」
また、まただ。オリオンは早鐘のように波打つ己の鼓動に、何故と首を傾げる。
月女神アルテミス。昨夜に出会ったばかりだが、その姿は鮮明に記憶に刻まれていた。
寸分違わぬ出で立ちに本人であると判断したオリオン。けれどその口調は安定しない。
普段の力のこもった堂々たる物言いは鳴りを潜め、しどろもどろに口を開いては閉ざす。
自分でも何をしているのか分からないまま、またしても押し黙って俯いてしまった。
態度が急変するオリオンの様子を見ていたアルテミスは、顔を近付け再度尋ねる。
「ねー、ねー? どうして空に手を伸ばしてたの?」
「お、お戯れを……我が身の行動など歯牙にかける必要もありませぬ」
「ふぅん。まぁいっか」
興味を失ったのか納得したのか、アルテミスは追及を止めて顔を離す。
人の領域を超えた美貌に迫られて顔を赤くしていたが、自覚は無いオリオン。
既に狩人の身体は自分の意志を介さずに片膝をつく姿勢に移行している。
神を敬う姿勢を整えているオリオンに、アルテミスはわずかに興味を抱いた。
昨夜とは打って変わってジロジロと狩人の姿を見つめる月女神。
当然、彼女の視線に気づかないオリオンではない。けれど咎められるはずもない。
バクンバクンと血流を加速させる鼓動を感じながら、オリオンはじっと耐えた。
どれだけ無言の時間が流れただろうか。だが、またしても唐突に沈黙は破られる。
「って、あーーー! なんかぼんやり光ってるって思ったらやっぱりソレ!」
「ん?」
「服の下に隠しても無駄なんだから! あの子たちの輝く飾り羽!」
「あ、ああ。これは貴女様の侍女たるプレイアデス七姉妹から頂いたもので」
「そんなわけないでしょ! 私の神殿から出る時には鳩になるよう命じて…あれ?
まさか、あんたがオリオン? あの子たちが話してたエオスのお気に入りの?」
オリオンを指さし、アルテミスは急に憤慨して掴みかかろうとしてきた。
膝をついた姿勢のまま、一昨日の夜に譲り受けたものだと主張したオリオンの言葉を
聞いていたかどうか。アルテミスはここにきて目の前の狩人をようやく認識した。
オリオンとしてもまた、眼前の女神の口から自分の名が出てきたことに驚いていいやら
喜んでいいやら分からず、悶々とした感情を胸のうちに抱くばかり。
そんな狩人の様子など露ほども気にかけないまま、アルテミスはつらつらと話し続ける。
「ってことは……その羽根をあの子たちがオリオンという狩人に譲り渡したという話も
本当だったのね。最初は石を投げられたって聞いてたけど、その後は傷を治すのに
尽力してくれたらしいし…。でもでも、わたしのかわいいニンフたちを……うぅん」
納得したように頷いたかと思えば、爪を噛みながらきぃきぃと憤慨してみせたり。
いちいち情緒の変動が激しいアルテミスに、傅いたままのオリオンは戦々恐々としていた。
神の下す如何なる命令・罰則にも、ギリシャの民は従わねばならない。暗黙の了解だ。
大いなる存在である神から下された意思は、恩恵を授けもするし厄災を招きもする。
オリオンの知る神は、いずれも厳格にして荘厳。超常存在としての風格を伴っていた。
けれどアルテミスはいささか異なるようだと自分の中で認識している。
(人間と変わらぬ心情の動き……それこそ気分で厄災を招かれかねない)
癇癪でも起こされたらどうなるか。神の気まぐれで身を滅ぼされるなど勘弁願いたい。
オリオンはただ黙して伏し、恐ろしい嵐が立ち去るのを待つように無言を貫いた。
ざぷざぷ、と波が砂浜に押し寄せる音だけがこだまする。
あーでもないこーでもないと唸っていた月女神が、ようやく結論を出したようだ。
頭を押さえていた手を放し、豊満な肢体を躍らせるように動かし、狩人の正面に立つ。
「んー、やっぱりわたしのかわいいニンフをいじめたのに、何にも御咎めが無いんじゃ
女神としての沽券に関わるのよね。でも、あの子たちのお願いを無碍にも出来ないし」
「………如何なる沙汰も、謹んで受けます」
「あらそう? それじゃ、こーいうのはどう?」
巌のような巨躯を縮めている狩人の頬に両手を添え、自身を見上げるよう誘導する月女神。
白銀の長髪を浜辺になびく風に踊らせる美しい彼女を見つめたオリオンは、視線を逸らせば
いいやら一心に見つめていいやら分からず、焦点を定めずに右往左往させるばかり。
不敬だ不遜だのと誹りを受けるかもしれない、などと考えられるほどの精神的余裕は今の
オリオンには存在しない。彼はただ、目の前に中腰で立ち両手で自らの頬へ触れている絶世の
美女のことしか頭にない。熱に浮かされたような呆けた表情のまま、ゴクリと生唾を呑む。
そして、アルテミスの瑞々しい唇から、女神の言葉が放たれる。
「わたしと、狩りで勝負しない?」
時を駆け、現代。
オリオンという狩人の伝説において、月女神アルテミスとの出逢いを経て以降は、
人間との交流がほとんど記されていない。文献によっては全く人と出会うことがない。
それはいったい何故なのか。その答えは、後世にも伝わる彼の伝説にある一幕にあった。
狩人オリオンは月女神アルテミスと出逢い、その美貌に心奪われ心酔した。
彼は女神の心を射止める為に、ありとあらゆる勝負を女神に持ち掛け続けた。
ある時は知を以って神を御し得ると嘯き、賢人ですら舌を巻くような叡智を伝えた。
ある時は文明を以って神に迫ると豪語し、職人も唸るほど精細な髪飾りを造り与えた。
等々、文献によって内容は異なるものの、狩人オリオンはアルテミスの気を引くことに
必死になっていたことだけは同じように記されている。真実かどうかはさておいて、だが。
そしてついに、オリオンの人生を、その後の伝説の幕開けを決定づける日が訪れる。
時を遡り、ギリシャの神代。
ギリシャの最東端に位置するクレタ島から、さほど離れてはいない場所に浮かぶ小島。
人が住むには適していない環境に、猛獣魔獣が暮らす巣窟。名前すらこの時代では
つけられていない無名の小島で、一人の狩人と
狩人の名は、オリオン。海神ポセイドンを父とする、剛力無双を誇る半神半人。
女神の名は、アルテミス。大神ゼウスを父とする、月と狩猟を司りし夜空の神。
二人は何者も介在する余地のないこの世界の片隅で、日々を面白おかしく過ごしていた。
今日もまた日の高いうちから、オリオンとアルテミスは狩りの腕前を競っていた。
「あっははははは! オリオンすごーい! 負けないんだから!」
「ぬぅっ…! 流石は狩りを人に伝授したとされし女神、なんという腕だ…!」
無邪気な幼子のような笑い声をあげながら神鉄で鍛えられし弓矢を放つアルテミスに、
自らが引きちぎった青銅に神鉄を混ぜ合わせた合金で鍛造された強弓を引き絞るオリオン。
朗らかに笑いつつ適当に矢を番え、引き、放つだけで次々と獲物を仕留めていく女神に対し、
額に汗を滲ませ顔をやや強張らせて獲物を追いかけ穿ち抜く狩人は、改めて彼我の差を知る。
なにせ、相手は狩猟を司る女神だ。こと狩りという行いにおいて勝てる見込みはない。
それでも、オリオンは懸命に強弓と棍棒を使い狩りをしてみせる。
「今日は大鷲を10羽、先に狩った方の勝ちよ! わたしはあと4……3羽!」
「なんであらぬ方向を見ながら放った矢が当たるんだ…!? これも権能とやらか、えぇい‼」
「あははは! 頑張れオリオン! はぁい、あと2羽~!」
「ぐぅぅ! まだ、まだだ! まだ負けてはいない! まだぁっ‼」
アルテミスは白銀の弓に神鉄の矢を番え、放つだけ。すると矢が生きているかのように
獲物を追いかけていき、空を舞っていた大鷲の頭部を凄まじい勢いで貫いていく。
暁の女神エオスとその兄たる太陽神ヘリオスの光によって回復した彼の眼は、超常的な視力を
与えたようで、遥か空の彼方で撃ち落とされていく獲物の姿がハッキリと見てとれていた。
このままでは負ける。なんとしても勝たなくては。
元来、オリオンという男は物事の勝敗にさほど執着しない人間であった。
彼は出自の事情故か、やろうと思えば大抵のことは不自由なくこなせるし、狩りに至っては
ギリシャに遍在するあらゆる狩人を超えるものであるという確固たる自信を胸に秘めていた。
傲慢ではなく、自尊心でもない。ただ、「そうだろうな」という直感に等しい思い。
己を超えうる人間などいないだろうという、正しく半神半人として人を凌駕する性能差を
把握できていたからである。そんな彼だからこそ、他者と競うことの喜びに気付かなかった。
それが今ではどうか。
「あらぁ~? どうしたのかしら? ペース落ちてるわよ?」
「ふぅー……ふぅー………ま、まだ、だ…」
呼吸は乱れ、汗は滝のように流れ出る。肉体は疲労で重く感じ、想像通りに動かぬ様に
苛立ちすら覚える。巨木のような膝に手を置き、荒い息を吐きながら空を見上げる狩人。
日が傾きだす蒼穹の空が視界いっぱいに広がっている。と、そこに白磁の糸が溶け込む。
「むふふ~。どうする? 降参する? しちゃう?」
それは月女神アルテミスの髪だった。ふわりと風になびく長髪が、空に浮かぶ雲を思わせる。
また一瞬、彼女の姿に呆けていたことを誤魔化すように頭を振り、赤くなった顔で吠えた。
「するものか! 我が身は海神ポセイドンを父とするボイオティアの狩人、オリオンなれば‼」
「あらそう。けど、わたしあと1羽だから。手加減なんて期待しないでね~」
「え、あ、ちょ待っ」
「あー! 最後の1羽見ぃつけた!」
言うが早いか、アルテミスは弓に矢を番え放つ。呆気に取られたオリオンは見ているばかり。
矢は寸分違わず獲物である大鷲を見事に貫き、10羽を射抜いたアルテミスの勝利が確定した。
「やったー! わたしの勝ちー!」
「う、ぐっ……また負けたか…」
がっくりと膝を折るオリオン。肩で息をする、という言葉が似合うほど彼は疲弊していた。
ぜぇぜぇと息を吐く狩人を見下ろす月女神は、朱に染まりだす空を仰ぎ、再び視線を落とす。
汗だくで手を地につけたオリオンのもとまで近付くと、ウキウキ気分のまま語り掛ける。
「もうそろそろ夜になるわ。その前に、ちょっと休憩したら狩りの成果発表しましょ!」
「……貴女の勝利に変わりはありますまい」
「あー。良くないんだぁ、そーやっていじけるの。女神であるわたしがやるといったら
やるの! やーるーのー! いいでしょオリオン?」
「……我が身に貴女様の御言葉を覆す術は無し」
唇を尖らせ、そっぽを向いてぶっきらぼうに応えるオリオンに優しく微笑みかける月女神。
彼女は撃ち落とした大鷲を携えて、無人の森へと入っていく。狩人はその後ろ姿を目だけで
追ってから、どう、と仰向けに転がった。分厚い筋肉の山を上下させ、肺に空気を送り込む。
先も言ったがこのオリオン、勝負事を楽しむ
勝負にのめりこむこともなく、酔うこともなく。誰かと優劣を決める行いに価値を見出せない。
今までのオリオンはそういうスタンスで生きていた。それ自体に問題があったわけでもない。
これまで彼にとって対等かそれ以上と思える相手がいなかった。それだけの話なのだ。
しかし、その前提は覆された。オリオンの狩りの腕を超える者が、神が、いるのだから。
無論、それだけではない。
「……はぁ」
もはや癖になりつつある溜息を無意識に溢し、悩まし気な目で暮れだした空を仰ぐ。
オリオンという男の胸の内では、アルテミスの存在が日増しに膨れ上がっていた。
クレタ島にて初めて出逢ったあの日の夜から、彼の心を掴んで離さないかのように
四六時中かの女神の事を考えてしまう。あの髪を、あの顔を、あの肢体を、あの声を。
想起する度に顔を真っ赤に染め上げ、「恐れ多い事だ」と頭を振って冷静さを保つ。
だが心という蝋燭に一度灯った小さな焔は、時を経ても消えることは無かった。
「アルテミス様、か……」
邂逅時、オリオンはアルテミスから裁きを下される一歩手前という状況だった。
彼女の侍女であるプレイアデス七姉妹の末妹へ(鳩の姿をしていて気付かなかったとはいえ)
石を投げ気絶させてしまっている。神の所有物に手を出した時点でアウト判定なのだ。
しかし彼の予想に反して、怒り心頭だったはずのアルテミスは神罰を下すことはなかった。
暁の女神エオスとの間に何らかの用事があったようだが、狩人にはついぞ分からない。
そしてひとまずは事なきを得た。けれど翌日の夜、女神は再び姿を現したのである。
月女神アルテミスはこの時、オリオンに告げた。「わたしと、狩りで勝負しない?」と。
それからどれほどの月日が過ぎたのか、女神との日々に明け暮れていた彼にとっては
光の速さで過ぎていった時間だろう。実際は、約一か月ほど経過しているのだが。
オリオンはアルテミスと二人きりで、名もなき小島にて狩りの勝負を続けている。
あの日の宣告以来、彼らは島全体の生態系を乱さぬ程度に狩猟の腕を競い合った。
挑めど挑めど、相手は狩猟を司る女神であり、結果は先もご覧のとおり。
こうした日々を送る狩人は、ただただ充足した気持ちで満ち溢れていた。
「あぁ、久方ぶりだ。こうして狩りを、生きることを愉しんだのは…」
暗くなっていく空を仰向けのまま眺めていたオリオンは、茂みの奥からこちらに向かい
進んでくる存在に気付いた。この島は無人であり、いま暮らしている者は二人だけだ。
「あら? オリオンってば寝ちゃったの?」
「…いえ。ただ、こうして広大なる星空を眺めていただけです」
「ふーん」
考えるまでもないことだが、姿を現したのは月女神アルテミスである。
彼の意表を突こうとしたのか、はたまた別の理由か。仰向けの狩人の顔を覗き込む女神。
常人など寄せつけもせぬ美貌が暗がりの中から迫り、オリオンは頬を赤くしながら顔を
背けつつ答えた。尋ねた女神は返ってきた言葉にさほど興味も示さず空返事だ。
ゆっくりと体を起こすオリオン。上半身だけ起こした彼は、あるものを目にする。
「アルテミス様、つかぬことを窺いますが……ソレは?」
「ん? あ、コレ? よくぞ聞いてくれたわね!」
女神が手にするもの。それは一見すると、動物の毛皮や大鳥の羽根を使って作られた衣服の
ようにも見える。両手で抱えるようにして持たれたソレは、彼女の首から下を隠してしまう
ほどには大きいもののようだ。首を傾げる狩人に、月女神は「えへへ」と微笑み、答える。
「じゃじゃーん! コレは今までの狩りの成果で作った、アルテミス特製の衣装なのです!」
「アルテミス様が、手ずからこれほどの物を…」
「そーだよ! コレね、オリオンへのご褒美に造ったの! だから、あげちゃう!」
「…………は?」
ずいっ、と突き出された獣の素材で作られた装束に、目が点になってしまうオリオン。
いきなりのことで理解が追い付いていないのがありありと見えるほどだ。
そんな彼を置いてけぼりにして、アルテミスはニコニコ笑顔のまま話を続ける。
「あの夜から今日まで、あなたはわたしと一緒にこの無人の島で過ごしてきました。
その間、一日たりと狩りでの勝負を投げうったりはしなかったでしょ?」
「え、ええ。ですがそれと褒美とはどういう…」
「わたしね、狩猟を司る女神として、このギリシャに住まう動物たちのことはかなり
手広く把握しているわ。雌熊に哀れな捨て子の母となるよう仕向けたりするくらいは
出来ちゃうの。けど、それとは正反対の狩りを司る以上、動物の死を容認しなくては
いけないでしょ? 生かすことも殺すことも、どちらもわたしがしなきゃいけない」
「…………」
「わたしにとって狩りとは義務でしかなかったの。
けれどそんなわたしの常識を、貴方が変えてくれた。この一か月と11日、貴方と狩りの
腕を競うという日々は、わたしに大きな変化をもたらしたの。すっごい事よこれ」
おどけたような口調で話してみせるアルテミス。一方、ただ聞かされているだけの狩人は
彼女の言葉に耳を疑ってばかりだった。けれど、それも仕方のない事と言える。
アルテミスは言った。「定められた在り方を変えてくれた」と。確かにそう言っていた。
オリオンは知っている。神とは己の体面を、体裁を、格というものを重視している事を。
それは単に自尊心の高さからくるものではなく、自らの存在を維持し続ける為に不可欠で
あるからだという理由も、承知している。その為に、己が妻は奪われたのだから。
神は変革を厭う。自らの存在意義の大幅な変更を嫌う。まして外部干渉など以ての外だ。
いまアルテミスが口にしたのは、まさにその部分。超常存在たる神より圧倒的に下等である
はずの人間によって、神としての存在の根幹を、在り方の変化を認めたことだ。
あってはならない事とオリオンは正しく認識している。彼は神を敬虔に敬うが故に。
そんな彼だからこそ、アルテミスの言葉の本当の意味を察し、危惧を抱いたのだ。
よって、狩人たる彼がすべきは女神の言葉の否定であり、人の弱さの再定義である。
ただ冷静に「人にそんな力はない」「貴女が自発的に変わっただけ」と告げるだけ。
それだけで事は済むはず。だというのに、彼は一向にそうした言葉を口にする気配がない。
そう。彼は言えなかった。自分が神という存在の意義を崩壊させ得る可能性を持つ事を。
思考を彼女のことでいっぱいに埋め尽くしてしまう今の彼は、決して言えないのだ。
「だから、コレはご褒美なの。あの夜からずっと、わたしと狩りの勝負をし続けた
あなたへ。ただ夜空の彼方から眺め続けるだけだった世界に、わたしを引き込んだ
ただの人間であるあなたに。月女神アルテミスが、この衣を授けます…なんちゃって」
恥ずかしそうに表情を崩す。そんな仕草はまるで、ただの人間の乙女のようで。
この言葉にオリオンは心拍の加速がピークを迎え、急上昇する体温で全身を朱に染めた。
自然と息が乱れる。額から、手から、汗が噴き出る。目の奥がじーんと熱を帯びていく。
これまで体験した事のない肉体機能の異常に、狩人は何度目かになる疑問を抱く。
この気持ちは、何だろうか。飛び跳ねるようで、まとわりつくようで。
この気持ちは、何だろうか。晴れやかなようで、澱んでいるようで。
言語化できない不可思議な感覚に苛まれる彼は、ただ茫然と褒美とやらを受け取る。
ふぁさ…と毛皮や羽毛の手触りを感じたことで意識を取り戻した狩人は、ひたすらに
頭を低くして目の前の女神に心から感謝を捧げる。それしか思いつかなかった。
手製の装束を渡したアルテミスは、いじらしそうにオリオンを見つめ、呟く。
「せっかく造ったのに、着ないの?」
「………ぁ、あ、はい! 直ちに!」
もう気が動転して何が何やら。慌てふためくオリオンの心情など知る由もない女神は、
「よろしい」と満足げに頷いて着替えを促す。狩人はいただいた召し物を持って樹の裏に
向かい、女神の眼を汚さないよう無意識下の配慮をしたうえでいそいそと着替えた。
しばらくして草葉の中から姿を見せた狩人。天性の肉体を包む獣の衣は絶妙に似合っている。
巌の如き強靭なる身体と、あらゆる者を魅了してやまない絶世の美貌を兼ね備えし男。
さりとて粗野でも野蛮でも非ず。その心は清廉にして、理知と武を併せ持つ天下無双。
多くの伝説を後世に残すギリシャの『三ツ星』の名に相応しい、堂々たる出で立ちとなった。
彼の広々とした肩から垂れ下がるように身体を覆う獣の装束。それを固定する為であろう
紐は、硬い蔓を撚り合わせた原始的なものではなく、素材を加工して作られた人工物。
長さも太さも均一に調整が施された黒い帯には、アルテミスが夜空からギリシャの世界へと
下りてきた際に持ち込んだ「星の欠片」と呼ばれる高純度の神鉄を研磨して作った宝玉が。
横に三つ並んだそれは、それぞれが独特な光彩を放っている。
女神からの贈り物ということで恐縮してしまうオリオン。そんな彼にアルテミスが一言。
「よく似合ってるわ! やっぱり、あなたの為に造ってよかった!」
この時。オリオンの中で超新星にも等しい衝撃が生まれ、全身を駆け巡っていた。
言葉では言い表せない、勢いを持った感情の波が、己の心を押し流そうとしている。
大きな体に不釣り合いなほどきれいに収まっていた心が、形を歪に変えられてしまう。
もはや彼は正常な思考を保てなくなりつつあった。半分無意識状態と言ってもいい。
そんな状態に陥ってしまった彼は、手を伸ばせば届く距離にいる神秘の塊に対し、
膝をつくことすらできなかった。
神を敬う。これまで通りの自分のスタンスを貫き通す。鋼鉄の意志でこれを曲げなければ、
オリオンは今頃も冷静な思考を持ちながら真摯に片膝をついて女神に祈りを捧げていただろう。
いまとなってはそんな仮定などに意味はない。あるのは、残された伝説だけである。
オリオンは、この時、明確に己の心がアルテミスを求めているのだと自覚したのだ。
並々ならぬ美貌に骨抜きにされたか、彼女の口から語られた境遇にシンパシーを感じたか。
あるいは、神の定義を書き換えることが出来ると確信に至ったからこそ打った大博打なのか。
真偽は誰にも分らない。しかしこの時、この場所で、オリオンはアルテミスに告げたのだ。
「――め、女神アルテミスっ!」
「なぁに? オリオン?」
一度、言葉を区切る。言っていいのか、という逡巡がわずかな葛藤として彼の心を苛む。
しかし、もう止まらない。彼は誰に何と言われようと止められなくなってしまっていた。
紅潮した頬を隠そうともしないまま、オリオンはアルテミスを見つめ、口を開く。
「わ、我が身には既に妻がいる。シーデーという名をした、鮮やかな赤髪の娘だ。
そんな彼女と今生で見えることは、ない。冥府の奥底へ幽閉されてしまったのだから」
「……ふーん、そうなんだ。それで? オリオンはどうしたいの?」
「妻を取り戻すことは叶わぬ。しかし、彼女を生ある限り愛すると我が身は誓いを立てた」
「………そう。で?」
「故に、どうか月女神アルテミス様! 我が身が生を全うし、魂が死して肉体を離れてなお
滅びることなく再び現世に戻ったなら! 新たなる生における我が愛を受け取ってほしい!」
興奮冷めることなく矢継ぎ早にオリオンは口にした。
要するに彼が言っているのは、『今生は既に愛する人がいるので、貴女を愛してはいけない。
なので、死んだ後、魂が輪廻転生を果たして再び人間として生まれた暁には、その時こそ自分の
愛を受け取ってほしい』ということ。クソほど遠回りなプロポーズの言葉といってもいい。
これに驚いたのはアルテミス。オリオンの突然の告白にでもあるが、その内容に衝撃を受けた。
ギリシャ世界において。命は神によって与えられ、生きて、死ぬ。死後の魂は冥界に運ばれ、
そこで冥界を統べる神ハデスの沙汰を待つ。そしてここからが重要なポイントである。
古代ギリシャという
死後はハデスによって魂の選別が行われ、良き魂と見なされた者は、そのまま死者の町へ案内
されて何不自由なく平和に暮らすことが出来るようになる。冥界=地獄ではないので注意。
これに対し悪しき魂と判断された者は、ハデスの権限により冥界で拷問に等しい苦行を
強いられることとなる。労働だけなら可愛い方で、死後の世界で死を強要されることも
別段珍しくはなかった。よって、ギリシャにおける死生観には、輪廻転生の概念は無い。
一応、蘇ることはできる。冥界は地下で地続きなので、物理的に上がれば出られる。
恐ろしい門番や死を司るハデス神の従僕から逃れながらの断崖絶壁ツアーを制覇できれば、
の話になるが。しかしそれはあくまで蘇生。魂自体が同一で別存在に昇華される扱いになる
輪廻転生とは大きく異なっている。これはギリシャに生きる人や神にとって、常識だ。
なのにオリオンは、まるで輪廻転生がシステムとして存在するかのように語ってみせた。
実のところこの時の彼は、初恋の相手であるアルテミスがプレゼントをくれたことへの
喜びや自分にだけ見せた人間らしい表情・仕草に、やられてしまっていたのだ。
そのため、冷静な判断が下せる精神状態ではなかった、ということを条件に加えておく。
話が長くなったが、つまるところ、何が言いたかったのかというと。
「…………………」
アルテミスは
彼女は自由奔放な人間的情緒あふれる神にみえても、その根幹は他の神々と同じである。
故に、どこまでも
(理解不能。魂の連続性を証明する方法は存在しない。結論、ただの戯言)
そう、戯言。単なる妄言。愚かな妄想でしかない。彼女という神は結論付ける。
しかし、ああ、なんということか。
彼は、オリオンは、神という絶対性を破壊する変数である。
彼の目前に居るのは冷徹で高潔な神ではない。人の如き情緒あふれる、神という乙女だ。
彼女の内に生じた、無秩序な思考ルーチンが、先に定められた結論に揺らぎを付加する。
(―――だけど。だけど、もしも本当に、このオリオンの魂が死してなお損なわれず)
無意味な仮定。無価値な前提。再度思考する必要性は皆無。しかし月女神は思考する。
(別の形を与えられ……いえ、生まれ変わってでもわたしに逢いに来てくれたら)
演算が始まる。空虚で曖昧で、論理的には行う必要のないシミュレートなのは変わらない。
けれどもアルテミスはそれを止めない。たった今、狩人の口から告げられた言葉をしかと
組み込んだうえで再計算を実行した。いくつものエラーを無視した先に待つ解答。
それを知りたいが為だけに、アルテミスは思考に没頭した。数十秒の後、彼女は確信した。
(―――それって、とっても素敵なことだわ)
月女神の唇が、かけた三日月のような弧を描く。
ああ、哀れオリオン。
こうして、海神の血を継いで生まれたる狩人の運命は、此処に定められた。
肉体に剛力を。
精神に冷徹を。
天下無双と讃えられし夜空の『三ツ星』伝説の、最終章が幕を開ける。
いかがだったでしょうか!
もう色々な事が起こり過ぎて……時間が足りないよう。
仕事も大変になって来てるのに、異聞帯もifオリオンも
どっちも書きたい……うう、どうしたらいいの。
そんな飽和状態の私に
「シグルドってカッコいいけど伝説そんなだよな」
とかポロッと言ってくる友人は間違いなく外道。
わざわざifシグルドの構想を練るためにウィキやらを
探し回る羽目になったじゃないかバカ野郎!
FGOの次回イベント楽しみですね!(ヤケクソ)
ご意見ご感想、並びに質問や批評などお気軽にどうぞ!