もしも、オリオンがクソ真面目な堅物だったら   作:萃夢想天

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どうも皆様、萃夢想天です。

前回の最後でもチラッと言いましたが、
この作品を書き終えて、さらに並行して執筆中の異聞帯作品も書き終えることが出来たら、
またこの作品のようなifものを書こうか悩んでおります。

後書きにアンケートを乗せるので、
ご意見を頂けるとありがたいです。


それでは本編、どうぞ!





そして、夜が明ける…アルテミスとの邂逅

 

 

 

 

 

クレタ島からそれほど離れてはいない沖合にある、無人の名もなき小島。

そこには現在、海神ポセイドンが実子たる狩人オリオンと、月女神アルテミスの二人が

誰の目を憚ることなく暮らしていた。

 

と言っても、実質的に島で暮らしているのはオリオンのみである。

アルテミスはこれでも女神。それも、ギリシャの夜を彩る月を司る大神格だ。

同じく月に関係する女神セレーネに仕事を丸投げすることもできなくはないが、

あんまり任せきりにすると自身の神格を彼女に奪い取られかねないという危惧がある。

 

だからアルテミスはオリオンが眠るわずかな時間だけ天界に戻り、セレーネと仕事の

役割分担の話し合いをこなしていた。元からワガママで自由奔放なアルテミスの気質を

理解しているセレーネは、今回の一件もアルテミスの気分の問題だろうと追及しなかった。

 

そして、気兼ねなくオリオンと二人きりの時間を作ることに成功したアルテミスは、

父のゼウスや兄のアポロンの目を盗んでは下界に下り、狩人とのひと時を愉しんでいた。

 

だが、それに気付かぬアポロンではない。

 

彼は太陽神にしてアルテミスの双子の兄。天より世界を見渡すことが叶う太陽の化身。

アポロンは自身と同じく太陽の神を務めるヘリオスの妹がご執心だったはずの狩人が、

今度は自分の妹と親しくなっているという事実を察知し、密かに盗み見ていたのだ。

 

 

「………マズいな。うん、これは良くない」

 

 

天上の世から座して見下ろすアポロンは呟く。その口ぶりから、妹の身を案じている

ようにも思えるが、実際は違う。彼の思考にあるのは、オリオンの危険性についてだ。

 

神という超常存在は、この地球という星のいかなる生命体による攻撃も寄せ付けない。

文明レベルが違い過ぎるし、せいぜいが鉄や銅程度の硬度しかない武器を振るわれても

防御する必要性すら無いほどに生命としての規模が異なる。

 

事実上の無敵と言える。けれど、それは決して「死なない」ということではない。

 

神は殺せる。神は死ぬ。そして、神を殺す方法は数こそ少ないが確かに存在する。

この地球上にある物質でもそれは叶う。けれど、物理的に殺される可能性は低い。

では、アポロンの危惧する神の死とは何か。その答えは、アルテミスが証明している。

 

 

「……人間という知的生命体が有する、複雑怪奇な『感情』という精神構築システム。

 これは人間から人間へと伝播する。つまり、生命から生命へと、感染し得るものだ」

 

 

ギリシャにおける神とは超常存在であり、人間による崇拝と信仰によって神格は保たれる。

良くも悪くも、人間側に依存した共生関係にあるのだ。神々と人間は、互いが互いを生かす。

 

だが、もしも。人間が崇拝を忘れたら。あるいは、神よりも上回ると驕り高ぶったら。

神格は揺らぐ。大神や十二神と呼ばれる特級神格クラスは、さほど影響は出ないだろう。

しかしそれ以外の神格、最も良い例として暁の女神エオスなどの影響力の小さい神格は、

ほぼ間違いなく神としての地位が脅かされる。場合によっては、神から零落しかねない。

 

それは事実上の「死」と言える。アポロンが恐れる神の死とは、神格の零落なのだ。

 

 

「人自身ですら感情は御し得ていない。手に余るほど強大なエネルギーを秘めている。

 それほどのものが神に感染してしまった場合、どうなるか。いや、言うまでもない」

 

 

人間の世界を睨みつけるように独り言を呟くアポロンは、誰より人間を恐れていた。

感情という数値化できないアンロジカルなシステムを個々人が有し、状況の変化により

それらの規模は変動し、あるいは変質する。厄介なことにこれは感染して肥大化する。

 

恐ろしいウイルスだとアポロンは唾棄する。人間の性が神の絶対性を崩壊させ得ることに。

 

 

「……アルテミス。その男は危険だ。義母(ヘラ)様の神格すら変化させるような化け物だぞ」

 

 

アポロンは知っている。オリオンという半神半人は既に、多くの神の神格に影響を及ぼして

いる事実を。それらが今のところ神格の零落に至っていないというだけで、放っておけば

大惨事を引き起こす可能性だって捨てきれない。神としての視座から太陽神は演算する。

 

 

「危険だ、あまりにも危険だよ。オリオン、君は()()()()()()()()なのだから」

 

 

よってアポロンは、この時点でオリオンの抹殺を決定した。

 

生かしてはおけない。あの男は、オリュンポスを壊滅させる遠因になりかねない存在だと。

そう確信するアポロン。主神ゼウスの兄にあたる海神ポセイドンにこの殺害計画が漏れたら

ただでは済まないだろう。だが、覚悟の上だ。神の絶対性を守る為の、必要な行いである。

 

自身の正当性を主張できるだけの材料もある。そう考え、アポロンは権能を起動させようと

意識を神集中させようとしたその瞬間。アポロンの背後に、音もなく一人の男が出現する。

 

 

「やめろアポロン。彼への手出しは許さんぞ」

 

「……これはこれは。同じ太陽神の君に、久しぶり、というのはおかしいかな?」

 

 

それまでの鋭い敵意を即座にかき消して対応するアポロンだったが、掴みどころのない

口調で話しかけたつもりが、かえって相手を刺激してしまうこととなる。

 

 

「これは忠告だ、アポロン。海神ポセイドンが子、オリオンに手を出す非道は見過ごせぬ」

 

「………意外だな。君はむしろあの人間を嫌ってると思ってたがね、ヘリオス?」

 

 

アポロンの後頭部に掌を向けて警告を発していたのは、同じ太陽神のヘリオスだった。

明確な敵対行動を取るヘリオスに、おどけた態度で両手を挙げたままで尋ねるアポロン。

そんなアポロンに、ヘリオスは普段の朴訥さとはかけ離れた真剣な面持ちで答える。

 

 

「それは、我が妹エオスの事があるからか? だとするならば俺はこう返そう。

 ……侮るなよアポロン。貴様とは違い、俺は真に妹を慮るからこそ彼を助けるのだ」

 

「矛盾してないかい? あの人間は君の妹の心を随分と手酷く傷つけたそうじゃないか」

 

「否定はしない。だがな、心挫けたオリオンの弱さにつけこんだエオスにも非はある。

 それに、彼は妹の心を傷つけこそすれ、裏切りはしなかった。あの子はあの子のまま、

 空に戻ることを自ら決めたんだ。あれは、別れだ。それも、最悪の形ではない別れだ」

 

「本当に意外だぜヘリオス。妹を甘やかすだけの兄貴かと思ったら大間違いだな」

 

「言ったろアポロン。()()()()()()とな」

 

 

安い挑発だとアポロンは悟る。彼は自分の事を、妹の事を考えない兄貴だと暗に

揶揄してきているのだ。わざわざそれに乗ってやる理由も無い。言わせておけばいい。

腐ってもショタコンでも神というところか。後ろ暗い方面でシビアな性質であるアポロンは

手を挙げた姿勢のまま、顔だけ振り向いて無表情のヘリオスを見上げる。

 

 

「……分かった、分かったよ。彼に手出しはしない」

 

 

わざとらしく溜めを作ってから、絞り出すように答えたアポロンをヘリオスは睨む。

神の中でも特に食えない存在と認識している相手の言葉を、安易に信じてやるほど

ヘリオスは愚かではない。それでも、ひとまずこの場で動きを封じたという成果に

満足した彼は、掌に収束していたエネルギーを四散させ、アポロンに背を見せる。

 

 

「その言葉、忘れるなよアポロン」

 

「それこそ君に返すぜヘリオス。君、誰に向かってモノを言ってるんだ?」

 

「…………」

 

 

最後のやり取りの中、アポロンは初めて殺意を込めた視線でヘリオスを射抜く。

飄々とした態度ばかり見せていた彼の剣呑な様子に、流石のヘリオスも息を詰まらせる。

 

こうして、人間の知らない場所で、神々は神々の思惑で動いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬が終わり、新たな命の芽吹きが見られる春の幕開けが近い頃。

狩人オリオン、23歳。視力を奪われるメロペーの事件から、二年の月日が過ぎていた。

 

彼の住まう場所は、アルテミスと二人きりになれる名もなき小島。

其処に移ってから他の人間との交流を絶ってしまったのかというと、それは否だ。

無人島で手に入らぬ物が必要になった時などは、近くのクレタ島へでかけることもあり、

そこでは勇ましい青年に成長した鍛冶師ケーダリオンとの喜ばしい再会の一幕もあった。

 

懐かしさに胸躍らせたオリオンはケーダリオンとの旧交を温めるべく、男二人の密やかな

宴を催したりもした。そこで狩人は、自身の二振りの神器をまた見せることを条件に、

暁の女神を讃える神殿をこの島に建設するよう頼み込み、鍛冶師はこれを快諾する。

 

思い出話に花を咲かせた彼らは変わらぬ友情を誓い、島にオリオンが来た日には必ず

会って話す機会を設けたという。なお、それに嫉妬した白銀の美女が、日が昇る前に

オリオンを何処かへ連れ去ってしまうのだが、それは此処で語るべきことではない。

 

さても。とにかくオリオンは、アルテミスと二人きりの時間を平和に過ごしていた。

 

 

「……アルテミス様」

 

「ん? なぁに、オリオン?」

 

 

この長くもあり短くもある歳月を共に過ごしてきた二人。特にオリオンの方は、

アルテミスを前にしても謎の体調不良に苛まれることは無くなっていた。

 

と言うのも、オリオンは数か月に一度、必要なものを集めにクレタ島へ出かけることが

あった。その折、思わぬ再会を果たした鍛冶師ケーダリオンに自らの異常を吐露していた。

 

ある女性を前にすると、動悸が激しくなる。呼吸が乱れる。汗ばむ。胸の奥が苦しくなる。

こういった症状に聞き覚えはないだろうか、と。至極真剣な表情で尋ねたことがあった。

それを聞いたケーダリオンは破顔し、ひとしきり笑い転げた後、問いに答えた。

 

 

『オリオンの旦那、それはつまり―――恋患い、ってヤツっスよ!』

 

 

青年の一言で、オリオンは視界がパァッと開かれたような心地になった。

それからだ。彼が自らの内に芽生えた恋心を自覚してから、体調不良にならなくなったのは。

 

以降、オリオンはアルテミスに愛の告白をしたという事実もあってか、親しみを以って

彼女と接するようになっていた。相手が女神だから不敬だ、という考えはとうに捨てた。

なにせ、そのお相手であるアルテミス本人から、許可をもらっているのだから。

 

これまでの日々を軽く振り返り、今もこうして傍らに寄り添う彼女と目を合わせる。

 

 

「ひとつ、伺いたいのですが」

 

「なになに?」

 

 

オリオンから聞きたいことがあると言われ、興味津々に頷くアルテミス。

天真爛漫な乙女の如き反応を得た狩人は、大きく間をおいてから意を決して尋ねた。

 

 

「美しいということは、罪でありましょうか?」

 

 

それは、オリオンが七年もの間、抱え続けてきた()()()であり、かつての慚愧である。

オリオンが成人を迎えたあの日。今生を共にすると誓ったはずの妻シーデーは、

美しさを理由に神々の女王ヘラが冥府へ連行していった。彼は今でも妻を案じていた。

 

あの日以来、彼は問い続けてきた。美しいから、我が妻は冥府へ縛られねばならないのか。

美しさとは、それほどの罪になるのか。では、美しいとは、そもそもどういうことなのか。

 

頭を悩ませ続けてきた彼は、ここにきてようやくアルテミスへ尋ねる決心をしたのだ。

ヘラと同じ女神としての視座を持つ彼女なら、きっと長年の悩みを払拭してくれるはず。

そう信じてやまなかったオリオンは、直後に告げられたアルテミスの言葉に愕然とする。

 

 

「美しいのが罪? そんなわけないじゃない。どうしたの急に?」

 

「……え?」

 

 

何でもないように答えるアルテミスの様子に、作為的な意図は感じられない。

オリオンは混乱した。七年間、我が妻は美しさという罪で冥府に幽閉されてしまったと

信じてやまなかったからだ。けれど、その前提が崩された。狩人の心はかき乱された。

 

望んだ答えが返ってこなかった、というのがありありと見てとれるオリオンに驚いた

アルテミスは、冷静に言葉を続ける。

 

 

「どうして美しさと罪が結びつくのかしら?」

 

「そ、それは…」

 

「話してよオリオン。わたし、貴方の話をちゃんと聞きたいわ」

 

 

身体を寄せ、上目遣いでこちらを覗き込んでくる女神を、狩人は突き離せなかった。

大々的にかつての出来事を語ることは即ち、妻の冥府幽閉を公言することと同義。

自分ではなく、妻の名誉に傷がつくことを忌避するオリオンはこれまで妻の身に起こった

悲劇を余人に聞かせることはしなかった。(なお神に関わる者には大体周知の出来事)

 

しかし、他ならぬアルテミスの頼みは断れない。折れたオリオンはつらつらと語る。

 

妻とは同じ村で育った仲である事。村長の血縁で縁談を組まれ、それを承諾した事。

夫婦の誓いを立てた時、女神ヘラが降臨して妻となったばかりの女を連れ去った事。

 

当時の様子を語り尽くしたオリオンは、アルテミスの反応を窺う。

そのアルテミスはというと、なんとも興が乗らなそうな、冷めた反応をしていた。

これにはオリオンも驚きを隠せなかった。彼が口を挟もうとするが、それより早く

アルテミスが狩人に尋ね返す。

 

 

「オリオンはさぁ、そのシーデーって女が美しいから冥府送りにされたって思ってる?」

 

「…思うも何も、そうではないのですか?」

 

「え、うそ。ホントに言ってるの?」

 

「え、ええ…?」

 

 

詰問されているような空気に、返事が吃音気味になってしまうオリオン。

彼の反応など気に掛けることもなく、大きな溜息を吐いた月女神は核心に触れる。

 

 

「じゃあ聞くけど。ねぇオリオン、わたしって美しいかな?」

 

「なっ、いや、あの……それは、はい。とても、美しいです」

 

「うふふ、ありがと。じゃあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「――――ぇ」

 

 

以前にも軽く触れたが、改めてここでオリオンの勘違いについて語ろう。

 

オリオンの妻シーデーは、オリオンを夫にできた嬉しさのあまり、自らの美しさは

主神ゼウスが妻たるヘラにすら勝ると豪語した。これがいけなかったのだ。

女神ヘラは己の美しさを侮辱されたと怒り、それ故にシーデーを冥府へ連れ去った。

 

ところがオリオンにとって美しさとは分類に等しく、明確な線引きが出来なかった為、

ヘラが何に対し怒りを露わにしたのか本当に理解できていなかった。これが真実である。

 

さて。ここでアルテミスは、オリオンの勘違いに気付き、それを指摘した。

 

シーデーが美しいから冥府へ連行されたと考えるなら、たった今お前自身が美しいと

認めた月女神である私はどうなるのか。結果は、どうもならない。暗にそう告げたのだ。

 

 

「……………………」

 

 

それを瞬時に理解したからこそ、オリオンの混乱はますます深まってしまう。

彼は長年、妻を失う原因はその美しさにあると信じていたというのに、前提が違うと知った。

脳内をぐるぐると自問自答が駆け巡る。俯き無言になる彼に、女神は続けた。

 

 

「答えなさい、オリオン。わたしと、妻のシーデー。どちらの方が、美しいの?」

 

 

厳格な神としての側面を強く押し出しながらの問いかけは、結果的に功を奏する。

加えて、これもアルテミスの思惑とは異なる後押しだが、アルテミス自身の口から

尋ねられた質問だからこそ、オリオンはようやく己の過ちに、間違いに気が付いた。

 

オリオンは妻を愛している。それは、彼がシーデーを妻にすると決めたからだ。

言いたいことが分かるだろうか。つまり、両者の間に、愛は存在していないのである。

一方的に愛を誓う。愛すると決めたから愛する。言い方は悪いが、事務的な愛情だ。

 

あくまで長老が組んだ縁談で定められた夫婦。シーデーの思惑はどうであれ、

オリオン自身にしてみれば、この時に妻となるのはシーデー以外でも問題なかった。

彼は、妻を愛する。この妻とは、シーデーでなければならない理由が、無い。

 

 

「わ、わた……おれ、は」

 

 

そう。オリオンは初めから、シーデーという女に愛などと呼べる感情を抱いていなかった。

ただ彼女が己の妻となると定められたから、彼女の夫となる以上、愛さねばならなかった。

妻であるシーデーを愛したのではない。妻という立場にいる者を愛しただけだったのだ。

 

相手は誰でもよかった。相手を見たことなど一度もなかった。これがオリオンの過ち。

 

そんな男が、愛の何を語れるというのか。美しさをどう捉えることが出来たか。

美しさは等しい分類だから、彼にとっては比較の対象足り得ない? そりゃそうだろう。

熱狂するほどの美を、心酔するほどの愛を、当時の彼は知りもしなかったのだから。

 

 

「おれは、おれは……!」

 

 

愕然とする。妻を生涯愛するとした誓いは、ただただ空虚なものだと思い知らされた。

なにが妻。なにが生涯の愛。自分は結局、よく知りもしない女に形だけの愛を口にした

だけだった。女の事を知ろうとしなかった男が、都合よく愛という単語を嘯いただけ。

 

あまりの愚鈍さに、オリオンは自分を殴り飛ばしてやりたい気持ちに駆られる。

傲慢此処に極まれり。最低最悪の男だ、俺は。心に浮かんだ女神の問いへの答えが、

自身の卑しさを証明しているようで情けなさに涙する。隣にいる女神から目をそらす。

 

それでも、アルテミスはオリオンを見つめ、尋ねる。

 

 

「答えて、オリオン。貴方がより美しいと思うのは、わたし? それとも妻?」

 

 

アルテミスの問いを残酷と受け取るかどうかは、受け取る側に一任するとしよう。

この場においての聞き手とはオリオンに限定されるが。はたして、彼は小さく答える。

 

 

「―――貴女様、です

 

 

掠れるような、虫の羽音より小さな彼の言葉は、しかしアルテミスに届いていた。

 

これも結果論でしかないが、オリオンはアルテミスという初恋を経験したからこそ、

どちらの方がより良いか、という無粋な比較を体感として理解できるようになっていた。

 

一目惚れした麗しの月女神か、共に育ってきただけで特に感慨も抱けぬ妻か。

より優れたる美を持つのはどちらであるか。明確に答えるよう強制されていたとはいえ、

その判断はオリオンに委ねられている。先の言葉が、彼の内にある美の優劣を証明した。

 

その答えに満足したのか、アルテミスは満面の笑みになり上機嫌に言葉を紡ぐ。

 

 

「そういうことよオリオン! 貴方は私と妻を美しさの天秤にかけ、量ったの。

 そして天秤を私に傾けた。ということは、妻は私ほど美しくはないということよね」

 

「…………………」

 

「答えなくてもいいわ。聞いてオリオン。大事なのは、この比較による優劣なの。

 貴方の妻は美しいからではなく、女神ヘラと美貌の優劣を競おうとした不敬によって

 冥府へ連れていかれた。分かる? 女神よりも、と驕った妻の傲慢をヘラは怒ったのよ」

 

 

目から鱗、とはまさにこの事であろう。(なおこの言葉が生まれるのは十数世紀後)

 

これまでオリオンを悩ませた命題とも言える問いは、蓋を開けてみれば何のことはない。

本当にただの傲慢であった。彼の妻シーデーが、神にも勝る美しさだと己を誇示した故の

悲劇だと、七年の月日を経てようやく気付けた。オリオンはもう口を開けるしかない。

 

そんな狩人の長い長い勘違いに終止符を打った女神は、やけに誇らしげに胸を張る。

 

 

「さてと……それじゃオリオン? 貴方の妻より美しい者が目の前にいるのだけど、

 また愛の言葉を囁かなくていいのかしら? 二度目の生なんて言わずとも今生の愛を

 頂戴したいです~、みたいな。そーゆーの、聞きたいんだけどな~?」

 

 

手を腰に当て、幼稚な言動とは裏腹に熟した女体の丸みを強調する仕草を取るアルテミス。

一年近くの月日が経過しようと、未だ女神の記憶に新しい、世にも斬新な告白を促すような

物言いをする。駄々甘愛され系女神の名に恥じぬ悪童ムーブに、狩人も恥辱を感じた。

 

 

「アレはっ! いえ、本心でこそありましたが、そう面と向かって言ってくださるな…!」

 

「何言ってるの! 男が女に愛を告げるのに、面と向かい合わなくちゃ意味ないじゃない!」

 

「そういうことではなく!」

 

 

恥の上塗りを阻止せんと語調を強めるオリオンに対し、余裕を感じさせるアルテミスの口論は、

聞く者があれば口から砂糖を吐き出すほど粘着質な甘さに溢れかえっていたことだろう。

 

不毛なやり取りを繰り返して数十分。二人は舌戦の矛を収め、ひとまず落ち着いて語り直す。

 

 

「はぁ……はぁ……と、とにかく。我が身の積年の過ち、正していただき感謝の言葉もない。

 改めて月女神アルテミス様に、より一層の畏敬の念を抱きました」

 

「ちーがーうー! わたしが欲しいのはそーゆーのじゃないのよ!」

 

 

場を持ち直したいオリオンと、そういった空気を一切読まないアルテミスの衝突。

独特の雰囲気で周囲を包み込んでしまうせいか、猛獣魔獣の類も甘ったるい気配を察知して

二人の傍へは近寄らない。そしてここは無人の小島。誰一人として止められる者はいない。

 

オリオンは敬意を払いながらも女神相手に物怖じすることなく話せるようになり、

アルテミスもまた小さなことで癇癪を起こし唯一の人間に迷惑をかけることはなくなった。

第三者の目線が無いので分かり辛いが、それぞれ互いに成長してはいるのだった。

 

そう。人は神に、神は人に。歩み寄り、近付きつつあった。良くも悪くも。

 

 

「はぁ…。まぁいいわ。それよりもオリオン、ちょっと供をしなさい」

 

「供、ですか? 御付きの妖精(ニンフ)などは…?」

 

「え、あ、ダメよ。だってあの子たち、隙あらばあなたに会おうとしだすし…」

 

「???」

 

「その話はいいの! いいから、一緒に来て!」

 

 

アルテミスはオリオンを半ば無理やり引き摺るようにして、森を歩み出ていく。

しばらく歩いて二人が辿り着いたのは、小島の端。波が止めどなく寄せる砂浜だ。

 

ざく、ざく。細やかな砂を踏みしめ歩く男女を、ギリシャの夜空に舞う星々が彩る。

淡い白光が降り注ぐ波打ち際にまでやって来た二人は、無言のまま腰を下ろす。

ざざん、ざざん。寄せては返す波の音が、二人の間に流れる沈黙の長さを物語る。

 

やがて静けさに耐えかねてか、またもアルテミスの方から口を開いてきた。

 

 

「……ねぇ、オリオン。さっきはあなたの質問に答えてあげたでしょ?」

 

「え、ええ。はい。そうですが、それが…?」

 

「じゃあ、今度はこっちが聞く番ね」

 

 

オリオンの真横に手をつきながら座るアルテミスが、顔だけを彼に向け尋ねる。

 

 

「ねぇ、あなたって―――永遠に興味はあるかしら?」

 

「…永遠、ですか」

 

 

風と、さざ波と、虫の唱。密やかな静謐の中で、女神と狩人の話し声だけが聞こえる。

髪をかき上げ、アルテミスはオリオンの呟くような反芻に肯定の意を示す。

 

 

「そ、永遠。永久、永劫、久遠。どう受け取ってもいいけど、要は終わりなき時間ね」

 

「我が身がその永遠に関心を抱くかどうか。貴女様はそう仰っているので?」

 

「永遠に続くもの。永劫に終わらぬもの。久遠に拡がるもの。永久に閉ざされぬもの。

 どれも等しく不変という言葉で表せるわ。そしてこれらは、神にも人にも重要視される。

 けれどこの世界は有限と定められたものが多過ぎる。そうは思わない、オリオン?」

 

「………人間が永遠とは程遠いことは、理解しているつもりです」

 

 

女神からの問いに、狩人は真摯に答える。これも神が人を試す類の問いかけではないかと

勘繰りもしたが、彼は既に狩りの腕と忍耐を以って隣に座る女神に認められている身だ。

今更、何を以って己を謀るというのか。疑念を捨て、言葉を額面通りに受け止めている。

 

ふふ、と微笑み、アルテミスはオリオンの顔を見つめながら話す。

 

 

「そういう意味で言ったんじゃなくてね。人も、獣も、この世界も、いずれは終わる。

 有限だから。終わりがあるから。永遠では、ないから。等しく滅ぶ運命にあるの」

 

「………その通りかと」

 

「でも、わたしは嫌いだな。そういうの。お別れって、辛くて悲しい現象(もの)でしょう?

 わざわざそんな思いをしなくたっていい。ただでさえ有限の容量(いのち)に負荷をかける必要なんて

 ないじゃない。人は死ぬ。いつか死ぬ。死ぬ度に別れる。こんなの、あんまりよ」

 

 

眉を八の字に変え、沈痛な面持ちになって呟いたアルテミス。

オリオンはその横顔を盗み見て、彼女が本心でそう語っているのだと察する。

 

 

「だからね、オリオン。わたしは、あなたに、永遠を得てほしいの」

 

「……我が身に?」

 

 

だからこそ、続けて紡がれた彼女の言葉に、狩人は耳を疑った。

事もあろうに女神が、オリュンポス十二神に数えられる特級の神格が、海神の血を引いて

いるとはいえ、戦士でも王でもない、ただの狩人たる自分に永遠を得ることを求めた。

 

女神の話の流れを汲むに、彼女は人が人である以上避け得ぬ命の終わりを嘆いている。

それはオリオンにも平等に訪れるもの。人として生を受けた以上、定められた命の終末。

これを回避したいと、暗に告げたのだ。月を司る夜空の神が、ただ一人の人間を案じたと。

 

湧き起こるのは、無上の歓喜。胸の奥で高鳴る喜悦。そして、一抹の不安。

 

己が生まれて初めて恋心を抱いた相手が、身を案じている。生の終わりを嘆いてくれる。

喜ばないわけがない。だがそれは、アルテミスという神を、己一人に縛り付けていることと

同義である。オリオンは神を貴ぶ。神の役割を理解している。故に、心配でならない。

 

 

(まさに驕り高ぶった考えだが、アルテミス様を意のままにできたとして……その先は?)

 

 

彼には分からない。神でない彼には、その最悪の想像の先を、予測することはできなかった。

確かに一度は、彼女に愛を告白した。今生には妻がいて、命ある限り愛する誓いを立てた為に、

貴女を想うことは許されない。だからこそ、二度目の生を得た時は、この愛を捧げたいと。

 

予想外にも月女神は、この申し出を是とした。「月が綺麗だったから」と上機嫌な表情で。

そこからは同じ島の中で約一年の時を共にしたことから、好意も通じていると知覚している。

故に彼は迷う。アルテミスの問いに、永遠を得てほしいという願いに、どう答えるべきか。

 

ざざん、ざざん。波が砂浜を際限なく塗り直す様を眺め、重々しくオリオンは返答した。

 

 

「……失礼を承知で答えます。我が身は、永遠に能う資格はない」

 

「資格なんて要らないわよ。わたしがあなたに永遠であってほしいと願うだけで」

 

「ですから。貴女様にそう思っていただけるだけの格が、我が身には無いのです」

 

 

並の男を平気で見下ろす上背を窮屈に縮め、オリオンは陰鬱な表情を隠すように膝を曲げる。

巨木のような腕で膝を抱え、泡立つ波打ち際を見つめる。ひどく、小さな背中に見えた。

 

 

「……知ってのとおり、我が身には妻があります。されど、彼女に誓いし愛は虚構でした。

 偽りの愛情、空虚な誓い。一度として妻を、シーデーを見てやれなかった愚昧なのです」

 

「その話はいま、関係ないじゃない」

 

「いいえ。我が身は、月女神たる貴女様の恩寵を授かるに足る器にはございません。

 妻は冥府へ幽閉され、得るものの無い放浪の中では無垢なる姫を狂気に駆り立てた挙句に、

 島に住まう民草に神罰を招いてしまった。きっと我が身が背負うは、この世全ての悪なのです」

 

「そんなこと!」

 

「こればかりは、何処の何方であっても、否定は叶いません。これこそ我が身の罪業。

 犯した過ち。背負うべき咎。悍ましき悪辣を撒き散らす災厄の権化、それこそが我が身」

 

 

言えば言うほどオリオンは卑屈に埋没していく。実際、自分を嘲るのは存外に快かった。

そうだ、己は罪人なのだ。ただの村娘であった女は死より惨い世界へ連れ去られ、

誰にでも愛されたはずの姫君を混沌の坩堝へ突き落としたうえに視界さえも奪った。

 

許されていいはずがない。女神の寵愛など賜れる身の上ではない。それほどに罪深い。

世の全てを慈しむような月光の下で、子守唄のような潮騒の傍で、海神の子は蹲る。

そして、それをすぐ隣で見つめていた月女神は、自罰的な狩人の言葉に耳を傾けていた。

 

まるで、燃えるような愛を誓った恋人同士ではなく、素直になれない子と母のような。

 

処女神という地位を獲得したアルテミスには、自らの子を抱くという経験がない。

けれど、なんとなく想像は出来た。苦悩する息子を傍らで励ます母とは、こんな心地かと。

 

 

「オリオン」

 

 

ゼウスの姉に当たる女神ヘスティア。冥府神の妻となった女神ペルセポネ。主神が妻ヘラ。

あるいは大地の母たるガイアすらも及ばぬほどの母性を湛えた表情で、月女神は名を呼ぶ。

 

耳下を震わす美声に、投げやりに視線を向けた狩人は、静かに瞠目する。

 

 

『――汝、己が罪を赦せ(ミオ・ミンタカ)汝、己が過ちを正せ(ミオ・アルニラム)汝、己が悪を贖え(ミオ・アルニタク)

 

 

この世の何物にも勝さる美貌が、柔らかな微笑みで自分を、世界でただ一人を見つめていた。

その時、女神が何らかの言葉を発したのだが、賢人に比肩しうる知啓を有するオリオンすら

解せぬ謎の言語であった。どこか感情の抜け落ちた声色で放たれたソレに、首を傾げる狩人。

 

 

「あ、アルテミス様…?」

 

「………ふふ。なんでもなーい」

 

 

ところが、数瞬の後には、普段通りのアルテミスに戻っていた。オリオンは更に首を捻る。

そんな彼の様子がおかしかったのか、くすくすと声を殺して笑った女神は、明るく語った。

 

 

「貴方が自分をどう思っているかなんて、関係ない。わたしが、貴方に生きてほしいと。

 ただそう願っているだけ。愚かにして矮小なる、人の子に向けて。女神たるわたしが」

 

「そ、それほどまでに貴女様が」

 

「口答え禁止っ! …アルテミスは、オリオンというかけがえのない者と、共に永遠を

 分かち合いたいの。いつまでもいつまでも永遠に、こうして隣に在ってほしい」

 

「………アルテミス、さま」

 

「ええ、ええ。本当にただそれだけの、ほんのささやかな願いなのです」

 

 

目と目が合う。人の世界では有り得ない、完成された美が、真っ直ぐに己を見つめている。

女神は本気だ。本気でそうあれと願っているのだ。狩人はここで、ようやく理解が及んだ。

 

自分は誤魔化していた。資格がないとか、罪深いだとか、理由をつけて避けていただけで。

オリオンは膝を抱える両手に力を籠める。ぎゅぅ、とせせこましく丸めた背中が更に縮まる。

直向きな言葉を、一切の隔たりなく、遮られることなく告げられたことで狩人は自覚できた。

 

 

(怖い……恐ろしい…)

 

 

月女神は己の愛の告白を、受け入れてくれている。次の生どころか、今生からでも自分と

添い遂げようと暗に言ってきているのだから。それが分かったからこそ、彼は怯えていた。

 

 

(この御方が、ギリシャの夜空を彩る月が、俺だけのものになる……()()()()()()()()()()‼)

 

 

ああ、哀れオリオン。誰よりも恋多き、誰よりも愛されし男。彼は、愛を知らないのだ。

 

初めて「愛したい」と思える相手が出来たからこそ、彼の心は恐怖に震えている。

自然の中で価値観を磨き、良き人々に恵まれた彼は、知らず知らずに己に蓋をしていた。

品行方正、清廉潔白。常に誰かの為であれ。ならばそれは、自らの欲を殺す事である。

 

愛したい、という思いは傲慢だ。自分ではない何者かを己の色に染め上げる行為なのだから。

愛されたい、という思いは強欲だ。自分以外の何物でも己の元へ縛り付ける行為なのだから。

 

 

彼の伝説をここまで見てきた諸君。思い出してほしい。彼の伝説のその始まりを。

 

彼は育った村の長から、成人祝いに妻を娶るよう勧められた。その妻こそがシーデーだ。

アルテミスとの問答でオリオンがシーデー個人に何の感慨も抱いていないと明らかにされた

今、改めて尋ねたい。この問こそが、オリオンという狩人の根幹に関わるもの故に。

 

彼はシーデーを愛していない。妻という立場に収まった者を愛すると誓った。

言ってしまえばその程度の思いしかない相手の為に、()()()()()()()()()()()()()

 

夫として妻を守る。これは当然のことだが、オリオンはシーデーの夫となって一日も経過

していないというのに、ギリシャを統べる主神の妻たるヘラに、反抗できるだろうか。

普通なら否だとの一言で済ませられる。しかし、ここで彼の出自が大きく関わってくる。

 

そう。彼は只人に非ず。()()()()()()()()()()()()、神の血を引く半神半人である。

 

温和に成長したオリオンの普段の様子からは、神に連なる者特有の傲慢さは感じられない。

隠しているわけではない。自然と一体になる狩人になった彼は、驕る意味を知らないのだ。

しかし、それでも彼は神の血を継いでいる。彼が無意識に蓋をしていたのは、この部分。

 

即ち―――「異常なまでの独占欲」にある。

 

ヘラが起こした悲劇の日、シーデーは彼の妻となった。彼だけのものとなっていたのだ。

彼の中に眠る神の血が、それまで無意識の底に沈めていた我欲を呼び覚ましてしまった。

執着心。独占欲。誰にも渡さないと言い切るほどに、彼の内には欲望の火種があった。

 

 

だから、オリオンは恐れた。アルテミスが自らの愛に応えてくれる、という事態を。

彼女が自ら、己だけのものになると告げることを。その結果、我欲が再び目覚めることを

彼は何より恐れたのだ。人として当たり前の欲は、彼には大きすぎる感情だった為に。

 

 

「…………」

 

 

俯き、返答しようとしないオリオン。そんな彼に、アルテミスは語り掛ける。

 

 

「怖がらないで、オリオン。貴方の内にあるその感情のうねりは、当然のものだから」

 

「っ!」

 

 

そっとオリオンの肩に手を置き、身体をゆっくり預ける。女体のしなやかさ、温もりが直に

伝わってくる。あれほど想い焦がれた相手と肌が触れ合っているのに、狩人は動かない。

不敬だ不遜だ、と考える余裕もない。微動だにしない彼に、月女神は穏やかに告げる。

 

 

「さっき、あなたにおまじないをかけたのよ。勇気が出るおまじない」

 

「…?」

 

「負けないで。折れないで。貴方の心は初めから、貴方だけのものなんだから」

 

 

慈母の如き面相の女神の言葉は、オリオンの迷い子のような精神を優しく包み込む。

太い腕をゆっくりと抱き締めたアルテミスは、整った美しい顔を彼の二の腕に預ける。

 

途端、独り震えるだけだったオリオンの瞳から、ぽつりと大粒の涙が零れ落ちる。

それはだんだんと増えていき、しばらくすると滂沱の滝となって砂浜を湿らせた。

 

 

「わ、我が身は、わがみ、には……!」

 

「いいんだよ、オリオン。ここにいるのは私だけ。世界に、貴方と、私だけだよ」

 

 

泣いた。膝を抱えたまま、女神に心を抱き留められ、安心を曝け出して涙した。

 

 

「お、おれは、俺は! 貴女を愛してしまった…! 愛さずにいられなかった!」

 

「うん、うん。嬉しいわ」

 

「でもそれは駄目なんだ! 愛しちゃいけない! だって、だって…!」

 

「…だって?」

 

「……っ! 貴女は女神だ! ギリシャの夜を照らす月だ! そのように尊き御身を、

 俺だけのものにしてしまっていいはずがない! 俺だけを照らす光に、しては、いけない…」

 

 

嬉しい。嬉しい。これ以上の喜びは無い。あの月女神を、自分の愛で染め上げられるなんて。

しかし、オリオンはそれを赦せない。人ならば当たり前の、愛する行為を許容できない。

自分だけのものにしてしまう、という行為を悪徳とする以上。彼は自分を愛せないのだ。

 

心に溜まっていた鬱憤を吐き出し尽したオリオンに、アルテミスは再び尋ねる。

 

 

「どうしていけないの?」

 

「……えっ?」

 

「どうして、誰かを愛してはいけないの?」

 

 

泣き止まない幼子をあやす懐の広い母親のような、柔らかく優しい声色で女神は語る。

 

 

「愛は尊いもの。恋は儚いもの。そして、どちらも等しく終わるもの。永遠ではないわ。

 いずれ無くなってしまうものなのだから、無くなるまで大事に持っておくべきじゃない

 かしら? 愛って、貴方が思うほど一方的なものなのかしら? ねぇ、どう思う?」

 

「そ、それは…」

 

「ふふふ。ごめんね、意地悪な質問よね。じゃあ、意地悪ついでに、もう一つ」

 

 

狩人の腕に絡めていた両腕を放し、顔を上げた彼の眼を真っ直ぐ見つめ、月女神は告げた。

 

 

「愛せないというなら、それでいい。代わりに、私と共に永遠を生きてちょうだい」

 

 

普段のお転婆な仕草や、ふざけた物言いではない。彼女は、本気で彼に言っている。

自分を愛するか、はたまた愛されるか。どちらも選べないなら、愛もなく共に在れという。

狩人の心は、眼前に広がる海原とは正反対に、大荒れ模様となっていた。

 

それでも、と。オリオンはアルテミスの言葉を無視できない。蔑ろにはしない。

彼女のおまじないとやらの影響か、今日の己は随分口が軽いようだ。勢いに任せ、彼は答える。

 

 

「……出来ない」

 

 

彼の絞り出すような返答に、アルテミスは慌てる様子もなく平静に理由を問う。

 

 

「どうして?」

 

「……人は、生ある限り変わっていく。肉体的であれ精神的であれ、日を追うごとにどこかが

 変化していっている。その変化によって、見る景色が変わる。得られる実感が形を変える。

 永遠とは変わらない在り方。人が人であるためには、変わり続けなければならないのです」

 

「ふーん………でも、死は怖いでしょう? 老いは醜いでしょう? 有限では避けられない、

 いつかやってくる終わり。貴方は怯えないの? 自分が無くなることに恐怖しないの?」

 

 

夜空の星が爛々と輝くその下で。女神と狩人の問答は続く。

 

 

「永劫不変の存在。それは即ち、貴女と同じ神の領域へ至る事。人の身が神へ近付くことは

 あってはならないことです。人は、生まれ、育み、老い、死ぬるからこそ人なのです」

 

「永久の存在になれば、神に至れば、貴方の抱く恐怖は無くなると言っても?」

 

「……命の終わりとは、生という軛の解放に等しい。()()()()()()()()()()()

 生も老いも苦しいもの。やがてそれらが死によって終わる、その解放こそ救いでもある」

 

「………悲しいけど、死という最期を喜べるなんて、それが人間ということなの?」

 

「俺にも何を以って人が人足り得るのか、解りはしないが」

 

 

もはや世界には今、二人しか存在していない。そう思えるほどの静寂が辺りを包む。

 

 

「私には理解でき(わから)ないわ」

 

「…貴女には貴女の、俺には俺の在り方がある。それでいいじゃないか」

 

「そういうものかしら。永遠の美、永久の命。そういうものに惹かれない?

 その肉体も、その魂も。貴方が今日まで紡いできた意思の全てが、無に帰すのに?」

 

「……永遠でない事を嘆くかもしれない。永久でない事を悔やむかもしれない。

 でも、それは少なくとも今じゃない。俺は今、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「変化の先が、今よりもっと劣悪で、悲劇に満ちていたとしても?」

 

「………だとしても、それすらも変えればいい。よりよいものになるまで、ひたすらに」

 

「繰り返すの? さらに良いものを目指して、それこそ永遠に?」

 

「…! はは、そうだな。ああ、人は永遠に、未来を目指して変えていく。変わっていく」

 

 

どれほどの時を語らい合ったか。既に月の光を飲み込むほどの暁が、東の空を焼いている。

星々の光が、白む空に吸い込まれていく様を見上げ、新たな一日の始まりを感じる二人。

 

大きく息を吸い、立ち上がったオリオンは、水平線を朱に染める陽を指さし、言い放つ。

 

 

「見てくれ我が女神。陽が昇る。絶えず変化しているぞ。目まぐるしく、一瞬一瞬が」

 

「………ふふ。そうね。変わらないものの中に、変わっていくものもあるのね」

 

 

狩人に続いて立ち上がった女神は、隣に立つ彼の空いた掌にそっと両手を重ねる。

ゆっくりと彼女を見下ろす彼。もう、その視線に迷いも恐れも見られなかった。

 

新しい変化の始まりを二人で見つめながら、アルテミスは小声で呟く。

 

 

「―――私も、変われるかな」

 

 

彼女の言葉は、かつてオリオンが危惧したもの。神格に影響を及ぼしかねない一大事。

不変であろうとする神の中では異質とも呼べる、アルテミスの心境の()()

不安げにこちらを見上げるアルテミスに、本来なら否定の言葉を伝えねばならない。

 

神は不変だ。永久の象徴だ。変われるはずがない。変わっていいはずがない。

 

しかし、ああ、哀れオリオン。今の彼にはもう、その選択肢はあり得ない。

何故なら。そう、何故なら――人は、変わっていく生き物なのだから。

 

 

「変われるとも」

 

 

彼の言葉に、月女神は驚く。神を敬い尊ぶ狩人から飛び出たとは思えない言葉だから。

そして、何より待ち望んで、けれど聞くことは無いと諦めかけていた彼の本心だったから。

 

日の出が二人を照らす。アルテミスは、生まれ変わったような気分になった。

 

 

「そっか、そうね。貴方が言うなら変われる気がする」

 

「出来るさ」

 

「ふふふ……それじゃあ早速!」

 

 

オリオンの強い励ましに後押しされたか。アルテミスはふわり、と宙に浮いて狩人の

正面に移動する。突然の行動に面食らう彼の表情を愛おしむように、女神は手を添えた。

 

そして、女神としてギリシャに君臨して以来、誰も触れたことのない唇をそっと捧げた。

 

 

「んっ………好きよ、オリオン。大好きっ!」

 

 

かくして、オリオンという狩人の伝説は、神話へと至る。

 

彼を彩る恋愛譚の、最終章の幕が上がる。

 

あるいは……オリオンという男の生涯の、幕が下りる時が近付いていた。

 

 

後世に残された書物に曰く。

 

三ツ星(トライスター)のオリオン】と呼ばれることとなる日の、前日の逢瀬であった。

 

 

 

 

 








いかがだったでしょうか。

詰め込み過ぎて長くなったのは御許しを。
こうでもしないと終わりませなんだので。


さて、いよいよ次回。最終回でございます。
このあとは何を書こうかしら。そこんところを
アンケートでお尋ねしたいと思っております。


それでは次回をお楽しみに!


ご意見ご感想、並びに質問や批評などお気軽にどうぞ!



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