もしも、オリオンがクソ真面目な堅物だったら   作:萃夢想天

15 / 35
どうも皆様、続けての投稿です。

なんか感想見てたら「全部やれ」みたいな
コメントがいくつか見られたんですが…?
いえ、御所望とあればやりますがね?
ただ、おっそろしく時間がかかるんだけど
いいんだろうか、という不安を覚えました。

やる気がなかったらアンケートなんて
とってないんで、そういった要望はガンガン
出してもらってOKですんで。


さて。いよいよ狩人の運命の日がやって参りました。
彼の生涯がどのようにして幕切れと至るのか。


それでは、どうぞ!







放尿する者、その魂は綺羅星の如く

 

 

 

 

 

 

――其処は、神々の集う天上の世界。

 

 

ギリシャの人が到達できない場所にあるとされる領域の外れの最果て。全知全能を誇る大神すら

権能が及ばないほどの片隅に、後光が差すほど輝かしい一人の神が舞い降りる。

 

やおらに周囲を見回し、まるで誰にも見られてはならないとでもいうように警戒していた神は、

自分だけがこの場所にいることを再確認したうえで、ぽつりと呟いた。

 

 

「混沌より産まれ、原初に在りし大地母神。神々の母たるガイア、この声を聞き届け賜え」

 

 

神が口にしたのは、ある存在を呼び寄せる為の文言。

 

混沌たるカオス。それ即ち、ギリシャにおける原初神格の根源。あらゆる神の母艦(ぼたい)である。

原初の大地母神。それ即ち、ギリシャにおける天と海を除いた、大地の権能持つ神である。

 

その名は、ガイア。カオスより産まれ、ゼウスなどよりも古くからギリシャに君臨する女神。

ここで古の時代の話をすると長くなるので割愛するが、女神ガイアはある理由からギリシャを

支配していた三つの時代の主神に反旗を翻した経歴がある。

 

ティターン族の生みの親、ウーラノス。その子にしてやがて時の神となる大神クロノス。

そして、現在のギリシャの支配者である主神ゼウス。まぁどいつもこいつも問題児だが。

 

ガイアは「ブサイクだから」というあんまりな理由で冥府送りにされた息子たちを開放すべく

支配者たちに反逆を企てたのだが、いずれも失敗に終わる。しかし、ギリシャ世界にある大地

そのものと言える彼女を失うわけにはいかない為、存在に影響を及ぼすほどの罰は無かった。

 

それほどの存在にコンタクトを取った神とは何者なのか。その答えは、すぐに判明する。

 

 

『……何用じゃ、アポロン』

 

「御機嫌麗しゅう、我らが世界の母君。大地の最果てから眺める世界は如何かな?」

 

『…何用じゃ、と問うておる。用向きが無くば斯様な僻地に足を向ける事もあるまい。

 早う申せ、太陽の子。妾に何ぞ求めるのであろ? 望みは叶える故、疾く去るがいい』

 

「はっはっは。相変わらず話が早くて助かるなぁ。それじゃひとつ、お願いをしよう」

 

 

地の底から響くような厳かなる声が呼んだ名は、ギリシャの太陽を司る神の一柱。

日の出を担うヘリオスと同じく太陽の権能を有した神、アポロンその人であった。

 

そんなアポロンに対し、ガイアはにべもなく冷徹に、一方的に告げるばかり。

取り付く島もない対応とはこの事である。それでも構わないと、アポロンは笑みを湛える。

手間が省けていい。何事も手短が一番だ。そう言いたげな様子で、太陽神は大地母神に望む。

 

 

「―――海神ポセイドンが子、名をオリオンという。その者を、殺したい」

 

 

掴みどころがない、ふわふわと浮いた雰囲気を収めたアポロンは代わりに剣呑な空気を纏う。

仮どころではない正真正銘の神たる身の者が、格上の神の血を継ぐ者を殺めたいと願うとは。

またぞろ、厄介極まる事情があるのだろう。そういった細々しい揉め事に直接関わることは

もうこりごりである。そう考えるからこそ、ガイアはアポロンに事の次第を聞かなかった。

 

静かに頷き、ガイアはアポロンの要求を呑む。

 

 

『良かろう。如何様にして殺す? 天災か? 神罰か?』

 

「……いや。彼の殺害は慎重に、かつ神の介入の疑いを徹底的に排さなきゃならない」

 

『ではどうする?』

 

「貴女に望むのは直接的な殺害ではない。あくまで、オリオンにとっての脅威を創ること。

 その脅威によってオリオンが神の関与に関わらず瀕死に追い込まれること。これだけだ」

 

『………ふむ』

 

 

明日の天気を考えるような穏やかな表情のまま、血も凍る策謀を巡らせる太陽神。

彼にとってオリオンの排除は必須であると同時に、彼自身の権能と格を考慮すれば難しい

ことではない。アポロンは強大な神格だ、ヒト一人を殺すことなど本来なら造作もない。

 

しかし、直接手を下すとなると、妹のアルテミスが黙っていない。

 

月女神たる彼女が日々、オリオンと逢瀬をしていることは把握している。

日増しに距離が縮まっているのも放置しておけない。そろそろ潮時、頃合いになるだろう。

恋仲とまで呼べる関係に発展するであろう二人の間を、自分ないし神が直接引き裂いたと

なれば、最悪の場合アルテミスは神であることを捨て去るかもしれない。

 

それはアポロンの恐れる神格の零落――即ち、「神の死」に他ならないのだ。

 

 

「複雑な事情があってね……で、ガイア? この条件を満たせるかい?」

 

『そうさな……ああ、可能だ。直接的な死の要因を造らず、あくまでオリオンなる者を

 追い詰める程度に留めればよい。この条件を満たす存在や事象を欲しておるのであろ?』

 

「ああ、そういうことだよ」

 

『であれば、如何なる英雄豪傑すらも倒す毒を備えた大蠍を連れ往くがよい』

 

 

声が響いたと思うと、いきなり最果ての大地が小刻みに震えだし、アポロンの降り立つ

地面に幾つものヒビを入れていく。やがて地響きが治まると、広がったヒビ割れの底から

大の大人が三人程度の巨躯をもった蠍が現れる。重さを感じさせる足運びでアポロンの

眼前にやって来た蠍は、青銅の盾すら柔肉のように断ち切れるだろう鋏を振り上げる。

 

それを目の当たりにしたアポロンは、「うーん」と唸り、ガイアに言葉をかけた。

 

 

「確かにコイツはすごそうだが…英雄を殺せる毒を持ってるのはちょっと、ね?」

 

『不満かえ?』

 

「まさか。ただ、その、毒殺はあんまり喜べないのでね」

 

『案ずるな。遅効性の神経毒だ。血の巡りにもよるが、およそ毒を体内に注入しても

 二日は生存できる代物だ。故、三日目にハデスへ目通り叶うことになるであろう』

 

「……いやホント、ハデスには申し訳ないことしてるよねいっつも」

 

 

ぼやきながらも現れた蠍への命令権の移譲を済ませたアポロンは、手短に話を終える。

 

 

「さて。それじゃ私は行くよ。貴女に感謝を、大地母神ガイア」

 

『願わくは其方の望みが叶わんことを。そして、二度と見えることが無きよう』

 

 

アポロンへの言葉だけの祝福と、二度と会うことは無いだろうという予言染みた台詞を

残してガイアの気配は霞のように消えていった。取り残された太陽神は、目の前にいる

巨大な蠍にオリオンという男を襲うように命じ、そのまま天上の世界へと舞い戻った。

 

そして、何食わぬ顔で地上を見下ろす。

 

太陽神の義務として、人々に陽光の恵みを授けながら、裏で血みどろの企てを進める。

 

 

「………これも、オリュンポスの神々の存続の為。悪く思わないでくれ、妹よ」

 

 

誰に聞かせるでもなく呟いたアポロンの表情は、爛々と輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつもと何も変わらない、平穏な一日をオリオンは迎えようとしていた。

 

名もなき島に自力でこさえた小屋の中で目覚め、快眠から起き上がり肉体を覚醒させる。

清流の水で顔や体を洗い、すっきり爽快な気分になった彼は近付いてくる人影に声をかけた。

 

 

「おはよう、我が女神」

 

「ええ。おはようオリオン」

 

 

やって来たのは、オリオンとこの島で半同棲している状態の、月女神アルテミス。

天真爛漫な少女性と成熟した女性らしさ、相反する精神と肉体を両立させうる奇跡の姿を

ただ一人の男の前に晒している彼女は、屈強なオリオンの半裸をまじまじと見つめる。

 

 

「いやん。オリオンってばぁ、そんなに見せつけたいの?」

 

「あ、いや。そういうつもりは毛頭……お見苦しいものを、申し訳ない」

 

「うふふっ。冗談よ。それとも~? 逆に見たいのかしら? わたしのカ・ラ・ダ♡」

 

「………お戯れを」

 

 

腕を組み豊満な胸を持ち上げて妖艶に微笑む女神に、狩人は頬を染めながら顔をそむける。

そんな初心な反応を楽しんだ女神は、オリオンと同じように水で体を清めるべく川へと

入っていく。その身にまとう神聖なる装いを脱ぎながら、当然のように背を向けてこちらを

見ないようにしているオリオンに話しかける。

 

 

「見たかったら見てもいいのよ~? それとも一緒に水浴びする~?」

 

「無茶を言うな!」

 

「え~? わたしはオリオンだったら構わないのに」

 

「こっ……! 冗談にしても(たち)が悪いぞ我が女神!」

 

 

美の女神もかくやと言わんばかりの肢体に水を滴らせ、オリオンを挑発するアルテミス。

森にあるせせらぎで裸になってバツイチ童貞をからかうわがままお姉ちゃん…アリやな!

 

という冗談はさておき。

 

そむけた顔を真っ赤にして怒鳴る狩人に、悪戯が成功した悪童のような笑みで返す。

 

 

「えへへ。でもオリオンなら全部許せちゃうのはホントよ?」

 

「このっ……! 失礼する!」

 

「あっ、や~ん! 待ってオリオン! すぐ済ませるから待ってて~!」

 

 

この場にいる限り揶揄われ続けるだろう。男としては、想い人が処女神である以上、

そうした男女の睦言に関係するネタで弄られることはこっ恥ずかしいうえに気まずい。

アルテミスの可愛らしい静止の声に耳を貸すことなく、ずんずんと歩き去っていく。

 

 

「んもぅ! ちょっと意地悪しただけじゃない」

 

 

頬をぷっくり膨らませて拗ねるアルテミスだが、極上の美貌を有する自分が背後で

生まれたままの姿を惜しげもなく晒しているというのに欲望を滾らせ襲ってこない、

そんな高潔な態度に好感を示していた。実は見てほしかったという気も少しあったが。

 

ともかく、大好きなオリオンに置いて行かれて寂しくなったアルテミスは、すぐさま

水浴びを終えて水滴をふき取り、衣装を再び身にまとい川からあがった。

その時、彼女の内側に突然、ここしばらく聞いていなかった声が響いてきた。

 

 

『――妹よ、妹よ。聞こえているかな?』

 

「…アポロン? 擬体で降臨するでもなく直接通信を飛ばしてくるなんて何事?」

 

 

アルテミスの頭脳体に通信してきたのは、彼女の兄に位置づけされている太陽神。

正反対の天体の権能を有する兄たるアポロンから、いきなり連絡を寄越されるという

事態に少なからず驚きを見せるアルテミスだが、あくまで冷静に対応する。

 

妹である月女神に用件を尋ねられ、太陽神アポロンは普段通りの軽薄さで答える。

 

 

『――最近めっきりこちらに顔を出していないと思ってね』

 

「はぁ? 何それ。そんなのわたしの勝手でしょ? 御父様(ゼウス)ですら何も言ってこないのに

 どうしてあなたにとやかく言われなきゃいけないの? 大した用じゃないなら帰って」

 

『――主神はお前にゲロ甘だから何も言わないのさ。でも、私は言うよ。兄だからね』

 

「えっらそうに! 私の方が先に生まれてるんだからね?」

 

『――それでも私が兄だよ。そんなわけで兄からの忠告だ、すぐ戻りなさいアルテミス』

 

 

素直にアポロンの言葉を聞く気になれないアルテミスだが、最後に真剣な口調で言い放った

言葉にはすぐ言い返すことは出来なかった。それだけの圧を、アポロンから感じたのだ。

 

しかし、彼は今「忠告」と言った。つまり、この言葉に従わねば、何らかの悪い出来事が

この身に振りかかるであろうことは明白。アルテミスはアポロンの態度こそ不愉快に

思っているが、神としては対等な彼の忠告を無視することもまた出来ないと踏んでいた。

 

 

「戻りなさいって……でも、オリオンが」

 

『――その島は無人で、居るのも君やあの男程度では歯牙にもかけぬ猛獣魔獣だろう』

 

「そりゃ安全ではあるでしょうけど、わたしはオリオンと離れたくないのよ…」

 

『――おや。それではアルテミス、君は神としての使命を放棄するのだね?』

 

「っ!? べ、別にそうとは言ってないでしょ!?」

 

『――なら早く来たまえ。セレーネとの会合もしばらくしていなかったろう』

 

 

半ば脅しのようなアポロンの物言いに、焦りながらどこか違和感を覚えるアルテミス。

慇懃無礼で飄々とした態度の分厚い面の皮を被るような男だが、それにしても今回は

妙に様子が変だ。早く戻れと通信を飛ばす癖に、擬体で直接降臨し(おり)て呼びに来ない。

本当に急いでアルテミスを天界へ連れ戻したいなら、強引な手段も取れる擬体の方が

都合がいいだろうに。直接的なのか間接的なのか、曖昧な手段の非効率さに首を傾げる。

 

最近はオリオンが自らの問題に決着をつけたことで自分の気持ちに大変素直になって

きている。それがたまらなく心地よいのだ。そんな状態の彼と一分一秒でも離れるのは

辛く切ない。ずっと愛し合っていたいのに。

 

利己的な思考で埋め尽くされていたアルテミスの思考回路だったが、流石に神の使命を

引き合いに出されては冷静にならざるを得ない。

 

 

「……まぁ。セレーネとの話し合いもここのところすっぽかしてたけど」

 

『――だろうね。彼女、イラついてたよ。神格の高低差は在れど、同じ月を司る者だ。

 ――今後の事も考えれば、きちんと事情を話して関係を維持すべきじゃないかい?』

 

「あなたに言われることじゃないんですけど。んー。でも、それもそうよね」

 

 

同じ月女神の名を持つセレーネとの、仕事の兼ね合いの話も数か月は放置したままだ。

いかに温厚で大らかな気性であるといっても限度はある。むしろ、そういう手合いが

本当に怒った時の方が恐ろしいのだ。それを分かっているアルテミスは憂鬱になった。

 

仕方ないと自分を納得させかけていたアルテミスに、アポロンは更に語りかける。

 

 

『――それもそうだが、本命は違う。お前に戻ってきてほしいのは、頼みがあるからだ』

 

「頼み? あなたが? 珍しいこともあるものね~。それで?」

 

 

アポロンからの頼み、というのはアルテミスのこれまでの長い記録の中でも数える程度

しか存在していない超レアケースである。目を丸くして驚く彼女に、太陽神は告げた。

 

 

『――ヘリオスの様子がおかしい。君には、奴の動向を注意深く探ってほしいんだ』

 

「…は? ヘリオスって、太陽神の? 暁のエオスの兄でしょ? そっちの管轄じゃない」

 

『――だからだよ。()()()()()()()()()()。そのせいで、身動きが取れないんだ』

 

「ふーん。でも、それとわたしが天界の戻るのと、どう関係があるの?」

 

『――忘れたのかい? ヘリオスの妹、エオスは()()()()()()()()()()()()()()?』

 

 

機構の通信部位に届いた信号に、アルテミスは動力源が停止したような衝撃を受ける。

 

エオス。暁の女神エオス。名前は知っているし、そもそも自分がこの地に降り立った

要因を作った女神でもある。あの女神が気紛れに夜を短くしたせいで世界にかなりの

影響を及ぼしたのだ。その理由を突き止めろと兄アポロンに言われたからやって来た。

 

そうだ。思い出した。ここしばらく幸せな思い出にばかり浸っていて忘れかけていたが、

そもそもオリオンはエオスのお気に入りだったのだ。月女神の胸中に邪念が渦巻く。

 

 

「…じゃあ、つまり? ヘリオスはエオスからオリオンを奪ったわたしに報復を?」

 

『――そこを調べてほしいのさ。ただ、実際問題、私は奴に警戒されている』

 

「わたしじゃなくてあなたを? 何故?」

 

『――分かれば苦労はしない。さぁ、今すぐに天界へ来るんだ。いいね?』

 

「……ええ。分かった」

 

 

アルテミスの心中は穏やかではない。兄であるアポロンの身に危険が及んでいるから、

というわけではない。当然だ。いるだけで神経を逆撫でするショタコンなど滅べばいい。

 

彼女の中の優先事項は、言うまでもなくオリオンだ。彼の身の安全を何より優先する。

エオスが、ひいてはヘリオスが彼を害する可能性が、数値上僅かでも存在するのなら。

 

 

「………許してはおけない」

 

 

神としてこの世に存在し、世界の移ろいを星々の彼方より眺めて幾星霜。

月という孤高の天体を内包し、狩猟と狂気の権能を司るオリュンポス十二神が一柱。

そんな彼女が、月女神アルテミスが、はじめて抱いた「恋心」の向かう先。

 

海神ポセイドンが血を引く半神半人。無双の狩人。その名を、オリオン。

 

アルテミスはただ、彼という愛しい人を守る為に、脅威の排除を優先した。

この時。脅威の排除ではなく、文字通りの意味で狩人の保護を優先していれば、

歴史は大きく変わっていたかもしれない。無論、そんなIFに意味など無いのだが。

 

 

「アポロン。天界に戻ったらヘリオスのところへ行けばいいのね?」

 

『――ああ。勿論、すぐにボロは出さないだろうが、根気強く粘るんだよ』

 

「ええ。オリオンに手出しなんてさせるもんですか」

 

 

決意を秘めた表情で、アルテミスは天界へ戻る意思を固める。

 

すぐにでも行動に移そうと思った直後、彼女は足元で何かが煌めくのに気が付いた。

 

 

「これは……あの子たちがオリオンに贈った七枚の飾り羽根?」

 

 

落ちていたのは、オリオンが大事に持っているはずの、強力な霊力が宿る七枚の羽根。

これはアルテミスの侍女であるプレイアデス七姉妹が紆余曲折を経てオリオンへと

託した、一枚一枚が強力な霊力を秘めたるもの。およそ人の世界で形作られぬ神秘。

 

きっと川で水浴びをする為に衣服を脱いだ際、落としてしまったのだろう。

今回の一件が片付いたら彼に返せばいい。そう思ったところで、ふと妙案を思いつく。

 

 

(そうだ! 天界でこの羽根をちゃんとした礼装に仕上げてから返してあげよ!)

 

 

持っているだけでも自然治癒力を高めたり対魔力を底上げする効能は発揮されるが、

それでもきちんと調整・加工を施せば飛躍的に効果を引き上げられるはず。

 

加えて、以前は狩った獲物の毛皮で衣服を繕ったが、彼自身を真に補助する代物は

まだ授けられていない。女神が気に入った相手に贈り物をするのは神界隈じゃ当然。

ならば、と一念発起したアルテミスは、彼にいい手土産ができると心を躍らせた。

 

 

「ふぅ………吾、月女神アルテミスの名の下に。全権限、開譲」

 

 

瞳を閉じ、冷淡に何かを呟いた瞬間。身にまとう雰囲気が劇的に変化――否、回帰する。

 

自身の真体に擬体を疑似接続。経験記録をアップロード。情報を自己検閲。不具合を修正。

無数の自己形成データ内の不要領域をエラーとして確認する。だが、意図的にこれを無視。

バグ改善を強制終了。自我データの変質・崩壊の危険性を示すアラートをオールカット。

 

月女神アルテミスは、愛する男を脅威から守るべく、冷徹な機械(かみ)に戻っていた。

 

 

「………工程、終了。バックアップ保存完了。擬体を霊子化後、転送を開始します」

 

 

感情の一片すら無い、冷たく自動的な言葉を発した女神は、光の束となって消える。

瞬きほどの時間で、彼女はその存在ごと神々の領域へと帰艦していったのだ。

 

くどいようだが、この時。アルテミスがオリオンのそばに残ると選択していれば。

神が人に寄り添うことを真の意味で望んでさえいれば。あるいは人が神を留めれば。

 

あのような悲劇は、起こり得なかっただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……遅いな。もう陽も暮れる」

 

 

名もなき島の小屋にて、無双の狩人オリオンは誰に語るでもなく呟く。

 

彼は水浴びを終えてから久方ぶりに単独での狩りを楽しみ、手頃な獲物を射止めたので

女神に献上しようと思っていた。なのに、肝心の女神の姿が島の何処にも見当たらない。

 

 

「まさか、何かあったのでは!? ……いや、御役目に戻られたと考える方が自然か」

 

 

アルテミスの身に何事か起きたのではと考えかけた彼は、相手が女神であることも踏まえ、

神としての役割を果たしに天上の世界へ帰還したのだろうと思い直す。

ただ、それならそれで自分に言伝もなく行ってしまうのはどうなのだ、と思ったりもした。

 

 

「女神が天上へ帰られたとなると、しばらくは戻らぬかもな…さて、どうするか」

 

 

ここ数か月はアルテミスと常に二人で暮らしていた為、自分ひとりの時間を作れなかった

オリオンは、こういう時に何をしようかと思考を切り替える。

 

これまで通りの暮らしを続け、女神の帰りを待つのも良い。具体的にいつまで、と期間が

定まっていないので、この方針が最も無難だろう。いや、それこそ久方ぶりに己のみと

なったのだから、クレタ島へ足を運び友であるケーダリオンと宴をするのも悪くない。

生涯の友たる彼の都合によっては延期となるかもしれないが、断られはしないだろう。

 

如何にして時間を潰すかと考えていたオリオンは、そこであることに気付く。

 

 

「……ん!? 待て、無い!? どこだ、無いぞ!? あの飾り羽根はどこだ!?」

 

 

既に陽は落ち、空は陰る頃。普段なら身にまとう毛皮の衣服の隙間から淡い光を放つ

プレイアデスたちからの贈り物が、無くなっている。慌てて全身をまさぐり探すが、

やはり七枚の飾り羽根は影も形も見当たらない。冷や汗を流し、彼は思考を巡らせる。

 

 

「待て、待て。落ち着け。よく思い出せ。今日一日の俺の行動を思い出せ…!」

 

 

闇雲に探したところで見つかるはずもなし。冷静さを無理やり取り戻したオリオンは、

自分が何処でどう行動したのかを、記憶を逆行して思い起こす。少なくとも小屋の中で

目覚めた時は持っていた。その後に水浴びをしてから……その時点で所持していたかの

記憶が定かではない。となれば、あの川辺に落としてしまったのやもしれない。

 

 

「この迂闊者め! くそ! 風や川の流れで他の場所へ行っていなければよいが!」

 

 

落とした場所の見当をつけた狩人は、己の不徳を責めるが早いか、即座に駆け出す。

音に聞こえし麗しの女狩人に並び立つほどの俊敏で以って、薄暗い森の中を猛進する。

 

こんな時、失せ物探しの魔術でも習得していればどれほど良かったか、とかつての旅で

学びを得なかったことを後悔したりもした。が、今は意味なく悔やむ暇すら惜しんだ。

 

数分と経たぬ内に件の川辺へ辿り着いた狩人は、星々が瞬きだした仄暗い空の下で、

必死に辺りを見回す。本来なら暗い森の中で落とし物を探すなど至難の業でしかないが、

幸いにも彼が落としたのは妖精(ニンフ)の飾り羽根。淡く光る為、夜の方が見つけやすい。

 

 

「贈り物を失くすなど、あってはならん失態だ! クソぉ、どこだ!?」

 

 

文字通り、草の根を分けてでも探さんとしているオリオンは、皮肉にもこの行動の

おかげで不幸から身を守ることに成功する。

 

 

「―――なんだ? 地の底から、なにか、音が……!?」

 

 

這いつくばるようにして失せ物を探していたからこそ、彼は気付くことが出来た。

大地の下から何かが、真っ直ぐこちらに向かって来ているような、そんな音に。

 

どんどん音が大きくなるにつれ、島全体を揺るがすような地響きが増していく。

並の人間であれば立つ事もままならない状態で、オリオンは狩りの中で培い磨いた

天性の勘の冴えを以ってその場を飛び退いた。瞬間、地面を割いて何かが現れる。

 

 

「……な、んだ? コレは、巨大な、(サソリ)……?」

 

 

オリオンの眼前に姿を見せたのは、彼の身長を大きく上回る程の巨躯を持った蠍。

その全身を紫紺の甲殻で覆い、赤黒い汁を滴らせた尾先の毒針を見せびらかすように

狩人の方へ向けている。肢脚を動かすだけでギシギシと甲殻が擦れ合う音が響く。

 

突然現れた巨大な蠍に、一瞬だが呆気に取られるオリオン。しかし、薄っすらと

煙のような靄を立ち昇らせる毒針の先端が目の前に迫ったのを知覚したその時、

彼は自分が「襲われている」と認識するより早く、肉体が行動に移っていた。

 

 

「――【不敬雪ぐ信念の弓(ディ・クストリアージ・メターニア)】‼ 【不遜砕く敬虔の鎚(クスペラスティータ・エンポディア)】‼」

 

 

身を仰け反ると共に彼が叫ぶは、己が偉業を讃え鍛冶神が造りし二振りの神器の銘。

巨大蠍はオリオンの雄たけびの様な真名解放など意に介することなく、毒針による

攻撃を続けようとする。一度刺突して伸ばした尾を引き戻し、二撃目を放とうとする

その僅かな時の合間に、狩人によって名を告げられし神器が音を裂く速度で飛来した。

 

音を置き去りにして馳せ参じた二振りの神器を、その剛腕で掴み取り瞬時に構える。

強弓に鎚を番え、巨大蠍の尾針が届かぬ距離で引き絞る。ググググ…と神鉄と青銅で

拵えた狩人の弓がしなり悲鳴を上げる。数秒の間にその工程を為し、一気に放つ。

 

 

「名のある神獣の類ではないな! 如何なる神の由縁か存ぜぬが、許されよ!」

 

 

そう口早に告げたオリオン自身、明らかに敵意を持って攻撃してくる眼前の巨大蠍が

神の使いではないことは何となく理解していた。何処かの遣いであれば、唐突な出現

自体はさておいても、何の前触れもなく毒針を突き刺してこようとはしないはずだ。

 

保険的な意味合いで先の口上を述べた狩人は、限界まで引き絞った神器を解放する。

 

 

「―――砕け散れェッ‼‼」

 

 

瞬間。彼の左手から轟音が鳴り響き、それを置き去りに大質量が直進していく。

半神半人の膂力を以って放たれた究極の一射は、突き進む周囲にあるもの総てを

巻き込み破壊していく。さながら、真横を向いた大嵐。風の渦が森を削り崩す。

 

コンマ数秒で標的に着弾。躯すら風圧で圧潰していくであろう一撃を受けたのなら、

やおら巨大な蠍であれ、死は免れない。一射を放ち弓を降ろす狩人はそう思い。

 

そして、目を見開いた。

 

 

「…………なん、だと…!?」

 

 

番えたは神鉄と青銅の弓、放つは神鉄と青銅の鎚。携えるは剛力無双、半神半人の狩人。

 

結果など見るまでもない。放った余波だけで森の一角を吹き飛ばす程の一撃だった。

こんなものをぶつけられれば、およそ自然界の存在であれば形を保つことなど不可能。

 

だというのに、巨大蠍はいまだ健在。どころか、その外殻には傷は一つもない。

 

 

「莫迦、な……」

 

 

己は狩猟司る月女神に認められる腕前を持った超級の狩人。その自負があった。

しかし、現実はどうか。突如出現した巨大蠍に放った一撃は、何の効果も挙げていない。

少なからずオリオンにとって、彼の半生を振り返っても有り得ない事象が起きていた。

 

故に、彼はほんのわずかな合間、自失に陥った。

 

有り得ない。そんなはずは。何かの間違いだ。柄にもなく、そんな考えに囚われる。

傲慢というほどの自惚れは無く、あるのはただ「そうだ」という自尊のみ。

 

だからこそ、この一瞬の隙が、オリオンという男の明暗を分けた。

 

 

ヒュンッ―――ドスッ

 

 

彼が我を取り戻せたのは、皮肉にも痛覚が正常に作用したからである。

こちらを敵と見做した獣の牙より鋭く、猛禽の嘴より硬い、死を予感させる痛み。

 

驚愕から意識を回復したオリオンが見たのは、巨大蠍の尾がこちらへ伸びきった光景。

そして、脇腹から感じるのは、熱く冷ややかな感覚。じわりじわり、と広がる何か。

 

何を意味するものか。ようやく答えに行き着いた彼は、乱心したように身体を捩る。

 

 

「ぬぐぅッ!? う、ぐ、オオォォォオオォォォッ‼‼」

 

 

がむしゃらに動き、身体から毒針を無理やり抜いた彼は、溢れ出る血を塞ぐ間も

惜しむようにその場から駆け出す。彼の目的は、再度の攻撃。確実なる蠍の絶命。

 

十全な時より些か鈍ったものの、それでもギリシャ最高峰の肉体を有する彼は、

その巌の様な巨体からは想像だにしない俊足で森林を駆け、狙撃地点を見出す。

 

 

「此処だ! 来いッ、【不遜砕く敬虔の鎚(クスペラスティータ・エンポディア)】‼」

 

 

真名を告げた途端、独りでに浮かび上がって持ち主の手元へ飛び戻る神鉄の鎚。

ガッシリと握った感触を返す神器を、狩人は再び、もう一振りの神器に番う。

 

すると、今度はオリオンの攻撃を許さぬとばかりに蠍も動き、追いかけてくる。

ズシズシと大地を踏み鳴らし寄ってくる様は、受肉した絶望の如き様相である。

 

痛む脇腹に顔をしかめながらも、今度は先程よりも力を籠め、限界まで引き絞る。

そして、確実に防御されない間合いまで誘き寄せたところで、一射を放った。

 

 

だが。巨大蠍の外殻にオリオンの鎚が触れたと同時に、鎚は勢いを失い落下する。

 

 

「なっ……!? 今のは!?」

 

 

通常では有り得ない現象を目撃した狩人は、その聡明なる頭脳で即座に考える。

その間も、身体は次なる狙撃地点を選び取って向かっている。思考と反射の領域を

同居させた、人間離れした動きをしているという自覚は、彼にはなかったが。

 

そして数瞬の後、オリオンの頭脳はある仮説を立てた。

 

 

「この蠍、何らかの加護を得ているな!? 攻撃から身を護るような概念防御か‼」

 

 

果たして。彼の考察は見事に的を得ていた。蠍は真に神の加護に護られていたのだ。

 

この蠍は大地母神ガイアが産んだ神聖なる魔獣。いやさ、聖魔蟲である。

相反するべき聖と魔の属性を内包することで、蠍は概念的な自己矛盾の飽和を発生

させており、要約すれば「常識が通用しない」性質を獲得してしまっていた。

 

簡単に言ってしまえば、結末の逆転となるだろうか。

 

オリオンの一射はまさしく「一撃必殺」のもの。これを蠍が受けた場合は、

その結末が逆転し「一撃では決して殺されない」、つまり「ダメージを受けない」

状態へ変質していた。反則級の概念に護られているが、まだ秘密がある。

 

大地母神ガイアに生み出された蠍は、母たるガイア、つまるところ大地に触れている

場合に限り、その肉体の絶対性を保証される。例え致命傷でも即座に回復してしまう。

相手が強ければ強いほど倒されにくく、倒したとしても無限に息を吹き返すクソ仕様。

 

まさしく反則という他ないこの蠍を相手に、戦う選択肢を取ることが最悪手だった。

 

 

「如何にして概念防御を突破するか、見極めねば……!」

 

 

流石に無理ゲ―を突き付けられているとは思いもしないオリオンは、その後も

あれこれと策を巡らせて鎚を射出し続けたが、土どころか傷の一つも付けられない。

 

そうしている間にも、蠍の方がオリオンの速度に慣れてきて、着実にダメージを

与えられるようになってきていた。今や狩人の全身は生傷だらけ、血に彩られていない

部分の方が見つけ辛いほどに酷い状態である。呼吸は乱れ、息も絶え絶えだ。

 

狩人と蠍を見下ろす空はとうに昏く、呑気にも星々は爛々と瞬くばかり。

 

 

「ハァ……ハァ……ぅうぁ、ご、ぉおええぇぇぇっ…!?」

 

 

浅く早くなる息を整えようとするも、不意に込み上げた不快感を殺しきれず吐き出す。

頭の中から急速に血液が失われていく感覚に苛まれながら、吐き気を抑えられない。

指先に力が入らず、くらくらと意識も朧になりつつある。黒々しい血液を口から嘔吐

しきったオリオンは、既に蠍の毒が全身に回りきったのだと冷たく悟った。

 

 

(駄目だ、意識も薄れていく……このまま、では………)

 

 

霞んでいく意識を繋ぎ止め、オリオンはここで初めて巨大蠍に対し、背を向ける。

そのまま、フラフラと覚束ない足取りで駆けだす。蠍と接敵した時とは段違いに

鈍り重くなった足で、無数の血痕で森に紅い道を作りながら、ひたすらに進む。

 

逃亡を図ろうとしている狩人を逃す。そんな慈悲など蠍には搭載されていない。

反転して何処かへ去ろうとするオリオンを追い、蠍もまた森を突き進んでいく。

命を懸けた鬼ごっこを楽しむ余裕など両者にはなく、ただ生への執着があった。

 

 

(急げ! いそ、げ……!)

 

 

打ち込まれた毒の影響か、壊死しかけて紫に腫れ上がった脇腹を片手で押さえつつ

森を踏破したオリオン。背後に迫る絶望の具現を引き連れ、彼が向かった先は。

 

ざざん。ざざん。

 

 

「ハァ……ハァ………く、が。ハハ、ハハハ!」

 

 

目の前に広がる、一面の黒い海。絶えず鳴る潮騒が、オリオンの心を奮い立たせる。

島の砂浜に血の滴を零しながら、狩人は気が触れたかのように高らかに哄笑した。

 

そんながら空きの背中に、追いついた蠍の尾針が迫る。毒液が気化した靄を漂わせる

極太の針の先端がオリオンの肉を貫く寸前。狩人は身を躱し、砂浜に突き立てられた

尾へ寄りかかる。そのまま、残された力を振り絞って剛腕で尾を抱き締めた。

 

 

「ぬ、ぐ、ぉぉあああああああぁぁぁッッ‼‼」

 

 

雄叫びと共に自分の三倍ほどの大きさの蠍を、海面へと放り投げる。

バシャァン! と水しぶきをあげて海に落下したのを見やり、オリオンは告げた。

 

 

「ハァ……き、たれ。我が神器……我が手へ、来たれ」

 

 

真名解放、ではなかった。それを行う気力も、暇も、今の彼にはないのだから。

けれど、持ち主の意を余さず汲み取った二振りの神器は、森の奥から音を超えて

飛来する。掴み取った反動でややよろけながら、狩人は眼前の敵を油断なく見た。

 

 

「……ハァ…去らばだ、怪物。我が命、我が誇りに賭け、汝を狩る…」

 

 

ボロボロの肉体に鞭を打ち、強弓に鎚を番え、弦が悲鳴を上げるまで引き絞る。

投げ飛ばされた蠍はひっくり返り、起き上がろうと肢脚をガサガサ蠢かすが、

なかなか起き上がれない。その隙を逃さず、狩人は渾身の一射を放った。

 

 

「――その命、貰い受けるッッ‼‼」

 

 

轟音、射出。音を飛び越えた速度で放たれた神鉄と青銅の鎚が、蠍に着弾する。

躯の集積たる砂浜に在る為、母たるガイアとの接続は断たれ、逆に狩人は海神の加護を

得られる海に近い為に身体能力を向上させていた。その結果は、言うまでもない。

 

あれほど堅牢だった甲殻を紙屑のように破砕し、その内に覆われていた肉を瞬時に

蒸発・崩壊させた一条の大嵐。もはや、蠍が其処に居た名残すら残っていなかった。

 

 

「ハァ……ハァ……あ、ぐぅっ」

 

 

全身全霊を込めた一撃を放った彼は、波押し寄せる浜辺に片膝をつき、苦悶を零す。

 

彼の肉体は限界を迎えつつあった。毒は全身に回り、傷だらけ。血を流し過ぎて

呼吸しても主要臓器に酸素が行き渡り辛くなっている。緩やかに死へ近付いていた。

 

それでも、彼は諦めていない。諦められるはずがなかった。

 

 

「ふぅっ…! うぐっ、あ、あ゛ぁッ! ふぅ……ふぅっ…!」

 

 

一歩、また一歩と足を進める。その先に在るのは、広大な海。父なる海である。

 

オリオンは海神ポセイドンの子。海神の加護を生まれながらに宿している。

その為、海に近ければ近いほど彼の身体機能は向上する効果が働いていた。

これにより、放っておけば死んでいた彼の傷も、少しずつ癒されていった。

 

しかし、打ち込まれた毒は別だ。こればかりは加護のみでの解毒は不可能。

毒を中和ないし解毒しなければ意味がない。半無意識状態で彼は海を歩いていく。

 

 

(痛い……苦しい……辛い…! 死ぬのは、嫌だ……助けて、父さん!)

 

 

瞳から涙を無様に垂れ流し、狩人は心の奥底で偉大なる父へ助けを乞うた。

ギリシャの海統べる海神。偉大なるオリュンポス十二神が一柱。主神ゼウスが兄。

それほどの超常存在が己の父。誇りに思う。そんな存在に、恥を捨て助けを求める。

 

死にたくない。その一心で、彼は夜の闇に染まった海の上を、歩き続けた。

 

海神の加護により小さな傷は塞がっていくものの、毒を癒すことはできない。

そのせいで回復と蝕毒の苦痛の螺旋が狩人を苛む。終わらない苦しみを味わう。

 

茫然と海を歩く彼は、催す吐き気を抑え込み、駆け巡る痛苦を押し殺して進む。

偏に、この悍ましい事態に終止符を打つため。終わらせたいが為だけに。

 

 

「……アルテミス。アルテミス、アルテミス………貴女に、逢いたい」

 

 

譫言のように呟いたそれは、彼の本心。辛苦の現実から目を背ける為の幻想か。

あるいは独りで闇一色の空と海の狭間を進む寂寥を、誰かの存在を想起することで

忘れたかっただけなのか。意識と無意識の中間で歩く彼に、考える余裕はない。

 

進み、進み、進み、進み、進む。

 

そうして、どれだけの時間が経っただろうか。彼は気付いていなかったが、

既に水平線には朝日が昇り、暁が海を朱く焼いていた。新しい一日の始まりである。

 

 

(……………………苦しい)

 

 

晴れやかな空を見上げる気力もなく、目的も半ば見失っている状態で海を往く狩人。

彼の心中にはただ、全身を襲う苦しみから解放されたいという思いしかなかった。

誰でもいい。助けてくれ。この痛苦を終わらせてくれ。この辛苦を止めてくれ。

 

彼はオリオン。半神半人で絶世の美貌と肉体を持ち、清廉なる心と聡明な知を有す。

狩りの腕は女神すら認める領域に在り、まさしく天下無双の名に恥じぬ超人である。

 

しかし、彼は人だ。戦士ではない。勇士でもない。神でもない。ただの、ヒトだ。

 

死は恐ろしい。苦しみから逃れたい。人として当たり前にある感情を抱いている。

怖くないはずがない。立ち向かい続けることは出来ない。それが人の弱さなのだ。

 

 

(…………………………たすけて)

 

 

故に、救いを求める。助けを乞う。己以外に、己より優れたるモノに。

 

即ち、神に。

 

 

(…………………………あるてみす)

 

 

ただ、願うしかない。

 

 

そして、その願いは、最悪の形で以って成就する。

 

 

――――ドスッ

 

 

「…………あ……?」

 

 

弱々しく、掠れかけの声が漏れ出た。だが、それはあまりに遅過ぎた。

 

オリオンは己が胸を見下ろす。血塗れのそこへ眼をやると、あるものが見える。

彼にとっては見覚えがあるもので、そして、自らの胸にあるのは不可解なもの。

独特な意匠と人間の匠に創造不可能な材質。加えて、周囲に誰もいない条件下。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「………ぁ」

 

 

張りつめていた糸が、プツン、と切れたような気がして。

 

オリオンの意識が急速に薄れていく。全身の感覚が失われていく。

気付けば立つことも出来ずに海面にうつ伏せで倒れていた。水の冷たさも感じることは

出来ない。自分は海神の子で、海上を歩ける。だのに、沈んでいく錯覚に陥る。

 

沈む。沈む。沈む。

 

 

「―――――」

 

 

泡のように脆く弾けるぐらいに残された、最期の意識の中で彼は見た。

 

己の肉体が仄暗い海の底へ落ちていく様を。陽光照らす海面が遠ざかる光景を。

 

そして――。

 

白く、しなやかな、細い手が。

 

己の身体を包み込むように抱き上げるのを。

 

 

「――――――」

 

 

ふわふわと、ゆらゆらと。彼に残った僅かな命の灯も燃え尽きる寸前。

 

この世の何より美しい出で立ちをした女が、この世の終わりの様な顔をしているのを。

 

彼は、薄れゆく意識の中で最期に見た。

 

 

「―――――――」

 

 

果たして、その女が何者なのか。

 

何故、泣いているのか。何を叫んでいるのか。

 

分からない。彼には何も、分からない。

 

何も分からぬまま、彼の瞼は緩やかに沈んでいき。

 

 

そして、泡のように、弾け、消えた。

 

 

 

 

 









次回、後日談を以って、ifオリオン本編を完結とさせていただきます。

真の最終話を投稿した時点で前回の投票を締め切りと致しますので、投票されていない方はお早めに。

ま、現状のままでいけば一部三章から書くことになりそうですが。
でもまんま書くのも味が無いので、オリオンが活躍しそうな部分をダイジェスト風味で書く感じになると思います。

しばらくはオリ異聞帯作品の完結に向けて尽力いたしますので、どうかどちらの作品もご愛顧のほど、よろしくお願い致します。


それでは、次回をお楽しみに。


ご意見ご感想、質問や批評などお気軽にどうぞ!

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。