次回は未定でしたが、ええ。
あまりにこちらの作品の勢いが強く、
ひとまず落ち着くまでこちらの投稿を
しようかと考えを改めました。
それでは、どうぞ!
後世にて多くの人々に涙を流させた【シーデーの悲劇】より、五年の月日が経過。
ボイオティアの片隅にある小さな村落で育った狩人オリオンは、妻を失った悲しみを
忘れられずにいたが、長老の言葉を受けて一人、諸国を巡る旅人となっていた。
本当なら育ったあの村で骨を埋めるつもりだったオリオンだが、結婚当日に妻が神の怒りに
触れて冥府へ堕ちたこともあり、これまでのように村人たちと接することができなくなった。
彼を心配する者がほとんどだったが、女性の中には彼の妻がいなくなったことに喜ぶ者も
いたため、オリオンの心を傷つけぬためにも、と長老が一週間も経たぬ内に送り出した。
長老の心遣いに感謝の意を示したオリオンは、悲しみも癒えないままボイオティアを出国。
宛てもなく近隣諸国や近くの島々を旅し、そこで新たな知識や文化から知慧を獲得する。
もはや並大抵の賢者すら及びもつかぬほど、深い知を携える者へ成長したオリオン21歳。
しかし五年をかけて磨きがかった頭脳をもってしても、かつての疑念は晴れていない。
(我が妻シーデーよ。君はなぜタルタロスへ縛られねばならない……分からないんだ)
五年前の女神ヘラとの邂逅。そこでの問答を幾度となく思い返すも、理解ができない。
どこまでも誠実で真面目な彼にとって、傲慢とは「事実の再確認」とほぼ同義であった。
妻のシーデーは己の美しさを最上であるとして吹聴した。彼はそれを事実と認めている。
ここで価値観にズレが生じていることを、一人の身で彷徨うオリオンには知覚し得ない。
美しさに差があると思っていないのだ。美しさとは「そういうもの」とする漠然とした理解。
どちらがより美しいのか、といった比較がオリオンは分からない。
(…………シーデー。我が妻。冥府に堕ちていようと、君の安寧を祈ろう)
かつて妻となった女に渡した花が咲く季節。心地よい日差しに抱かれる頃になった。
遠い空の向こうを眺め、今日も彼は天上の神々と冥府へ連行された妻への祈りを捧げる。
そんなオリオンは最近立ち寄った島の住民から、ある噂話を耳にしていた。
なんでも、キオス島という島を治める王であるオイノピオーンの娘が、大層美しいらしい。
近頃は、その娘を娶ろうとする屈強な男たちがこぞって島を訪れるほどに有名になったとか。
この話を聞いたオリオンは、五年の歳月を経て解せぬ思いを晴らせるかも、と思い至る。
(会ってみよう。オイノピオーン王の娘とやらに。そして、尋ねてみよう)
―――美しさとは果たして、罪であるのか。
旅の新たな目的を見出したオリオンは、島の港へ趣き一路、小舟でキオス島へ出発した。
キオス島。其処は、ギリシャ神の一角たる酒神ディオニュソスの息子オイノピオーンが治める
交易の盛んな島である。名産は言うまでもなく、父たる酒神から賜る極上の美酒だ。
人の往来が激しく、そこからもたらされる物資の豊かさは、住まう人々を活気づけていた。
「此処がキオス島……なんとも陽気で明るいところではないか」
島の中心で栄える町では飲めや唄えやの騒ぎが絶えず、年中お祭りのような状態だった。
そんな場所へやってきたオリオンは、五年の放浪で学んだ「身なりの整え」を開始する。
この時代、豪華絢爛な衣服や化粧なんてものは王族ぐらいしか嗜む者はいなかった。
それどころか風呂なんてシステムは存在せず、あってもせいぜい川や泉の水を浴びることで
汗を流す程度に清潔感を保っているような者がほとんど。そういう時代だった。
当然、英雄豪傑を名乗らんとするむくつけき男どもは、己の身なりや臭いに無頓着である。
乾いた血や汗は戦いの勲章であり、返り血や泥、埃にまみれた装束など見せびらかす始末。
暴力を振るわれたくないが為、臭いや血痕を我慢して女は男を褒めそやすのが常識。
それを良しとしないのが、このオリオンという男。
見知らぬ土地で更には王族の、それも年頃で未婚の娘に会いに行くのだ。汗や垢の臭いを
そのままで出向くなど許されないだろう。オリオンは島に到着後、すぐ川へ向かった。
清涼なせせらぎを狩人の経験ですぐさま見つけた彼は、透き通った水で体の汚れを落とし、
花の蜜や香草を燻して水に溶かした独自配合の美容液を首筋や脇に塗り、体臭を消した。
さらに「手ぶらで王族に謁見するのも不敬だろう」と考え、良い品を見繕おうと考える。
「ふむ……献上品はオイノピオーン王とその娘で、それぞれ別の物の方がよかろう」
気配りも怠らないオリオンは、その身を清めてからどんな品がよいかと頭を捻り考えた。
己は狩人である。ならば狩人らしく、立派な獲物を仕留めて献上するのが順当だろう。
事実、王の娘を娶ろうとやってきた男たちのほぼ全員が、男らしさをアピールしていた。
それを察することのできたオリオン。であれば、他とは違った物を捧げねばなるまい。
剣や槍といった武具の類を王へ捧げるか? 己は狩人、鍛冶師ではない。不可能だ。
他の追随を許さぬほどの獲物を仕留めるか? 自分ならできる自信がある。可能だ。
けれど、それほどの獲物がまだこの島に残っていればの話だが。可能性は低いと思われる。
生来の気質がクソ真面目な彼にとって、「手土産が
それから陽が沈み、月が昇るまで川のほとりで悩んでいたオリオンは、狙いを切り替えた。
ひとまず王への献上品は忘れ、一番の目的である王の娘への献上品のことを考えよう。
自分は婚姻を結びに来たわけではないので、焦る必要もなし。時間もあることだし。
難しいことをいつまでも考えあぐねても無駄だと割り切り、野宿で一晩を過ごす。
「さて。では王の娘への献上品だが……やはり、花が妥当か?」
暁の女神エオスが夜明けを告げ、エオスの兄にして太陽(主に日の出)の神ヘリオスが朝日を
昇らせる頃、狩人オリオンは起床。寝汗を水で濯ぎ、洗顔もして気分爽快となる。
そのまま川を泳ぐ魚を軽く捕らえて調理。命に感謝して食した後、熟慮を再開した。
オリオンが女性への献上品として真っ先に思い至ったのは、花であった。
正史とは異なるこのオリオン。結婚こそしていても、彼の純潔は依然保たれている。
なにせ結婚式当日に妻がいなくなっているので。いわゆる〝初夜〟も未経験なのだ。
故に女性にアホほどモテる彼ではあるが、女性との浮ついた経験は皆無に等しい。
しかしそんな彼でも、女性はその身を飾る煌びやかな物を好むくらいは知っている。
おまけに天然で堅物な彼だが、男性が誇る勲を女性が求めないことも理解していた。
花。いいな、花。妻にも村の女性にも捧げ、どれも好感触だったと思い返すオリオン。
けれど忘れるなかれこの男。花を渡して喜ばれた、というのは少し事情が違う。
彼は花を手渡すとともに、ひとりひとりへ真摯な思い(告白ではない)をぶつけていた。
ギリシャの女はこれに弱かったのだ。断じて花を渡されて皆が皆喜んでいた訳じゃない。
「この島に咲く花に詳しくないがある程度なら………いや、待てよ?」
コレでいこう! とウキウキ気分になったオリオン。直後に別の可能性に気が付いた。
「よそから来た者がいきなり花なんぞ渡して、すわ毒花か魔術の触媒かと思われぬか?」
己は実に冴えている。危うく無実の罪で処刑されかねなかった、と冷や汗を拭う。
考え過ぎと言われればそれまでだが、「有り得ない」わけではない。可能性としては充分に
有り得るのだから。気分のいい想像ではないが、慎重を期すならば避けるべきだ。
森へ入ろうとする足を止め、再び川辺に腰を下ろして、うんうんと唸るオリオン。
あーでもない、こーでもない。これがいいか、あれがいいか。アイデアが浮かんでは消える。
ついに彼の脳裏からアイデアが出尽くし、五体を投げ出して空を見る。ああ、星が綺麗だ。
「…………もう夜じゃねぇか‼」
深慮へ耽るあまり、とっくに星空が彼を見下ろしていたことに気付いていなかった。
一日中回転させ続けた反動か。やや鈍くなった思考で、のろのろと就寝の支度を整える。
今日も思いつかなかったと嘆息を一つ。もう手頃な獲物でいいのでは? そう思えてきた。
「……いや、ダメだ。王とその娘への献上品だ、血生臭い狩りの品は宜しくない」
配慮も完璧なオリオン。ここでとんでもないフラグを打ち立ててしまったことに、彼はおろか
運命を司る神々たちですら、気付きはしなかった。また一つ、正史と違う可能性を歩む。
翌朝。彼が目を覚ますと、空は曇天の鼠色。雨はまだ降らぬと狩人の感が告げている。
それでもいい天気とは言い難い。ここから天候が崩れ、大雨になるやもしれない。
献上品選びは止めて、今日は町の様子でも眺めるとしよう。良い息抜きにもなるだろうし。
心機一転。昨日と同様に己の身なりに気を配り、清潔を意識して身支度を整えた。
「―――――ん。そうだ、コレを忘れてはいけないな」
町の方角へ歩き出そうとしたオリオンは、大切な物を忘れるところだったと身を翻す。
彼の大きな手が掴み取ったのは、五年の歳月の中で己に馴染むようになった〝神器〟だった。
妻シーデーを取り戻すべく、冥府の鎖を引き千切らんとしたあの日。彼の膂力は確かに鎖へ
亀裂を奔らせた。これに驚いた女神ヘラは、オリオンの高潔さと妻への誠実さにいたく感心、
更には「神ならば人の言葉に踊らされるな(超意訳)」という諫言さえしてみせた男に対して、
ヒビ割れから毀れた鎖の欠片を遣いに銘じて回収させ、それをある神へと押し付けた。
誰あろうその神こそ、ヘラの実子にして鍛冶の神。ヘファイストスである。
容姿が酷く醜いことを理由にヘファイストスを捨てたヘラだが、彼自身を憎んでいるわけでは
ないため、母であることを理由に半ば強制的に鍛造を命じることも少なくはなかった。
今回もそれだろうと呆れていたヘファイストスだが、遣いの言伝を聞いてその片目を丸くする。
「我が母ヘラが、人間の狩人の為に神器を
偽りはないと遣いは頷く。これまでヘファイストスは、多くの神々がそれぞれ気に入った者に
送る武具などを鍛造するよう命じられ、応えてきた。時折は自ら目をかける英雄に武具などを
与えることもあったものの、そうした行為は稀であった。なにせ根が頑固一徹な爺である。
だからこそ、ヘファイストスは関心を示した。女神ヘラが神器を与えようとする人間に。
普段は口数少なく不愛想な彼だが、この時ばかりは遣いから話を聞こうと舌を回した。
神器を与える人間はどんな奴だ? 男か、女か? 英雄ではなく狩人? などなど。
遣いが知り得る全ての話を聞き終えたヘファイストス。その頃にはもう心を決めていた。
「良いだろう。妻の為に冥府の鎖すら砕いてみせたオリオンとやらに、儂が丹精を込めて
鎚を振るってやろうではないか。久方ぶりにやる気が湧いたぞ。ほれ、早よ寄越せ」
言うが早いか、遣いの手から青銅の鎖の欠片を奪い取り、鍛冶神の権能を用いて鎚を振る。
英雄の為の武具は作り慣れていたが、狩人の為の神器となると聊か勝手が違うものだ。
それはそれとして、職人の腕が鳴る。どうせなら神鉄も混ぜてうんと強くしてやろう。
神の理不尽によって己が妻を冥府へ堕とされてなお、神への信仰を失わない稀有な男へ。
ヘファイストスは自身の権能をフル活用し、オリオンの為だけの神器を鍛造してみせた。
その後、遣いに任せず自ら彼の前に降臨。手ずから自信作を二振り、授けたのである。
それこそが、オリオンという狩人を伝説の存在足らしめる一助となった、二つの神器。
青銅と神鉄からなる狩人の弓【
青銅と神鉄からなる狩人の棍棒【
鍛冶神の鍛えた強弓は、矢を番え射つ度に、彼とその妻に課された神への不敬を取り払う。
鍛冶神の鍛えた剛鎚は、振り下ろされる度に、猜疑心などの後ろ暗い不遜を粉々に砕き割る。
いわば彼が心に抱える自責の念を清算させるための道具として、贈られた神器。
勿論、当のオリオンは最初こそ受け取りを拒んだものの、ヘファイストスにまで反意を示す
のは恐れ多いと考えを改め、丁重に授かった。自分専用に誂えた品は、まさに最高。
これまでの狩りが嘘のように簡単なものとなり、流石のオリオンも我を忘れはしゃいだ。
それほどの逸品を川辺に置き去りにしては、ヘファイストス神に二度と顔向けできない。
棍棒を皮袋に、弓を肩掛けした縄へ括り付けたオリオンは、今度こそ町へ出立した。
オイノピオーン王の愛娘。名をメロペーとする彼女は、空模様と同じく鬱屈としていた。
王族の娘として何不自由なく暮らしてきた彼女も適齢。夫を迎え妻として生きる年頃。
それはいい。結婚するのは問題ない。ただ、神の血を引く者とする自負ある彼女には、
どうしても我慢ならないことがあった。それは、結婚を望む男が野蛮なことである。
時代が時代故、力持つ者がよき女を娶る。常識として広く認知されているところでは
あるけれど、一人の女としても王の娘としても、メロペーには耐えられないのだ。
自らの夫となる男が、粗暴で野蛮な者であることなど。嫌で嫌で仕方ない。
「………はぁ」
本日何度目になるか数えるのも億劫なほどの溜息。当人にとっては現状を憂うものでも、
彼女の美しさの虜となっている男どもからしたら、悩ましげな色を見せるようなもの。
誰も彼もがこぞって己の武勇を大仰に語る。ああ、まただ。聞いてもいないのに喧しい。
いっそ耳を塞ぎたくなる気持ちに駆られるが、父王オイノピオーンの面子がある。
自分は夫を迎えねばならず、それならせめて、「この人なら」と思える相手を自分自身で
探さなくては。不快感と焦燥に心を摩耗させながら、臭くて汚いまま群がる男を眺める。
「………あら?」
メロペーの美貌に目が眩んでいる男たち。その彼らを遠巻きに見る、圧巻の偉丈夫がいた。
さながら巨大な岩塊の如き巨躯は、この場にいるどの男よりも大きく強そうに見える。
彫りの深い顔は、自分と同じく神の系譜であろう美貌を讃えており、自然と視線が移る。
身にまとう衣服も素材こそ動物の毛皮が多いものの、血にも泥にも汚れていない。
凛々しく寡黙に佇んでいる見知らぬ男。メロペーの関心は知らずその人へ向いていた。
それでも彼女を囲む男たちは、彼女の意識を自分に向けようと必死にアピールを続ける。
口々に自らを褒めちぎる様はもはや滑稽に映るしかなく、メロペーも意識外へ排した。
物静かにこちらを見ているだけだった男が、こちらの視線に気付いたのか歩み寄ってくる。
熱心にメロペーへ武勇を語り聞かせていた男たちも、小さな山のような男が近づいたことに
気付き、あまりの迫力と精悍さに思わず後退る。人の壁を割るようにして、男がやってきた。
「オイノピオーン王が娘、メロペー姫におかれましては、ご機嫌麗しゅう。
この度は可憐なる御身へ拝謁が叶ったこと、何よりの喜びとしております」
開口一番に口説いてくる男や、「美しいな、よし。俺の妻になれ」と強引に連れ去ろうと
してくる男とは明らかに異なる態度。謙虚な振る舞い。王族への礼節。まさに完璧である。
大の大人すら見下ろす巨体の持ち主が、膝をついて顔を伏せ、臣下の如き拝礼を見せた。
違う。この人は、他の男たちとは違う。酷い悪臭漂うなか、彼の体から仄かに甘い香りが
してきたことにも気付いたメロペー。彼女の興味はもう、眼前の男に向かっていた。
「つきましては姫君へ、献上したい………いえ、お見せしたいものがございます」
「まぁ…それは、楽しみですわ」
続けられた男の言葉に、メロペーは落胆と小さな期待を、同時に胸へ宿らせた。
こういう時、男が自分へ献上品を差し出す場合。大抵が仕留めた獲物がほとんどである。
次点で血や錆のついた武具防具の類。女の身には聊かの興味も湧かない代物ばかりだった。
しかし目の前の彼は、何かを仕留めて持ってきている様子はない。ならば武器か。
腰の皮袋に帯びた棍棒だろうか。それとも背中にぶら下げた弓だろうか。あるいは両方か。
先ほどより少しだけ冷めた視線と声色となったメロペー。彼女を前に男は立ち上がる。
周囲で男のことを睨みつけていた男たちも、改めて彼我における肉体の違いを思い知る。
呆然と眺める周囲の男たちを押しやり、巨漢は背の弓を左手に、腰の棍棒を右手に持つ。
(まさか、重そうな武器を二つ持てるから強い、だなんて言わないでしょうね……)
これから何が起きるのか分からず、稚拙な想像をして気分の悪化を加速させるメロペー。
周りのいた人々も、島では見かけない偉丈夫が何をするのか気になっているようだ。
雑多な喧騒が一人の男へ向けられる。かつて見ない町の様子に、父王も目を向けた。
彼はいったい何をするつもりなのか。見守る人々を意に介さず、男は棍棒を弓に番える。
(えっ、えっ? 棍棒って、弓で放つものだったかしら? 違いますよね? え?)
いくら興味関心がないとはいえ、弓がどういう武器かぐらいは知識として知るメロペー。
自らの知識は男の行いが誤りであると判断しているが、目の前でその誤りが起きている。
そしてそれは他の人々にも同じだったようで、喧騒がさらに音と熱量を増していた。
気付けば町中の人々が、男が何をするのかみつめている。
緊張が伝染する。やがて喧騒は静まり、弓に棍棒を番えた男が次の動きを見せた。
ぐぐぐ、と。弓に張られた弦が軋む音が、離れているメロペーにすら聞こえてくるほど
力が込められているようだ。そのまま男は弓に番えた棍棒を真上に、曇天へと向ける。
低く短く息を吐いた男の横顔を、メロペーの視線は知らず釘づけになっていた。
「オイノピオーン王よ! メロペー姫よ! いざ、ご照覧あれ!」
外見に相応しき威厳に満ちた咆哮が島中に轟く。瞬間、男の手元から〝矢〟が放たれた。
目視では追うこともできない速度で空を駆ける彼の〝矢〟は、瞬く間に曇天へ至る。
そして誰もが口を開けて空を仰ぎ見る中で、一条の黒が濃灰の空に大穴を穿ってみせた。
ゴウッ! という音が耳に届いた頃にはもう、中天に輝く太陽の光が降り注いでいた。
曇り空に穴を開けてみせた男は弓を下ろし、メロペーを振り返って笑みを浮かべる。
「おお、やってみるものだ。姫、これで
「―――え?」
メロペーは己が目をまず疑い、次に耳を疑った。目の前の彼はいま、なんと言ったのか。
曇天から蒼空へ様変わりしたことに仰天する町の人々。彼らの様子も目に入らない。
それほどまでにメロペーは動揺していた。にこやかに笑う男は、今なにをした。
心の雲を晴らせた。確かにそう言っていた。
(ま、まさか、私の憂いを取り払う為に、それだけの為にこんな事を⁉)
見開かれた目は震えていた。誰にも、父にさえも秘していた内心の憂慮を、目の前の彼は
言葉すら交わさぬまま察し得たのみならず、それを消し去る為だけに空を穿ったのか。
もしそれが事実であるとすれば、それは、それはなんて―――――
「ふ、ははは。良かった。空にて輝く太陽のように笑う姫、か。噂に違わぬ美しさだ」
―――――なんて、素敵な御方なのでしょう。
曇天の如く分厚い壁で心を閉ざした姫はもういない。脈動する思いもまた止められない。
ドクン、ドクンと血潮が巡り、頬を赤く染める。口端は緩み、瞳は濡れ、息が乱れる。
未だ唖然と空を見上げる男たちの間をすり抜け、メロペーは天を射抜いた男に尋ねた。
「あ、あのっ! 貴方様の、お、お名前を伺ってもいいですか……?」
現実離れした出来事を目の当たりにしたせいか、呂律の回らない口で男に名を聞く。
メロペーに名を聞かれた美丈夫は、先ほど空へ放った棍棒を片手で軽々と受け止めながら、
熱に浮かされたような瞳で見つめてくる美しき姫に、聞かれた自らの名を答える。
「私はオリオン。ボイオティアの辺境にて狩人をしていた、オリオンという者だ」
常人には成し得ない偉業を果たした彼は、やや気恥ずかしげに己の名前を口にする。
男ならば、己の功績を口にして憚らない。そういうものだという認識をしていたが、
目の前に立つオリオンなる男は、違った。メロペーは男の美声に肩を振るわせ呟く。
「……オリオン、様………あぁ、なんと尊大なるお名前……」
嗚呼、あわれオリオン。一難去ってまた一難。彼の女難は留まるところを知らず。
後世に記された書物に曰く。
【メロペーの狂愛】と呼ばれ、また彼が彼女によって〝目を奪われる〟ことになるとは、
誰であれ夢にも思わなかったであろう。
オリオンという伝説に、また新たな一幕が追加される。
いかがだったでしょうか?
ねぇ、今から晴れるよ!(力づく)
目を奪われる=見惚れるの意。
見惚れるだけで済むかな⁉
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