夜の十九時を少し回ったころ。わたしは緊張の高まりを感じていた。
福岡まではおおよそ十三時間といったところだろうか。ブラックコーヒーの入ったマグカップを片手に、運行表を見つめながらわたしは呟いた。十三時間というのは長いのだろう。なにせ一日の半分以上を費やすのだから。
十三時間は長い。長いに違いないが、いまいちピンとこないというのがわたしの正直な思いだった。
今まで飽きるほど運転してきたバスであっても、ここまで長い行程はまだ経験したことがなかった。二人体制での運転、ということもはじめてのことだった。とどのつまり、十月二十六日の今日この日が、わたしと夜行バスとのはじめての付き合いになるのだ
はじめての夜行バス。一抹の不安と、未知への興奮があった。はたしてどんな夜になるのだろうか。コーヒーをぐっと飲みほした。まだ湯気の残る居眠り対策のコーヒーは、なぜかは分からないがいつもより苦く感じなかった。
夜行バスとわたし
わたしが一般道の乗合バスの運転手を務めていたころは、とにかく時間に追われていたように思う。
上司からは、安全運転を優先するように、という言葉をかけられていたが、それでも時間どおりに運行する――とりわけ日本ではそれが大切なことだと思っていた。
わたしが学生のころ、時間通りにバス停に来てくれるバスが頼もしくて、しかしどこか当たり前のことだなんて思っていた。時折、渋滞や事故で遅れることがあって、ついつい苛立ってしまうこともあった。その憤りは、わたしがバスの運転手という立場になったとき、浅慮で恥ずかしいものへと変わっていた。当時の運転手さんへの申し訳なさが生まれたのだ。
バスの運転手になって、いざわたしが遅延をしてしまったときに、乗客への申し訳なさが浮かんできた。当時のわたしに謝っているような感覚があった。あのときの、顔も知らない運転手さんも同じような気持ちだったのかもしれない。きっとそうだと思えた。
そんなわたしは、夜行バスへと居場所を変えた。
二十時四十分、名古屋のバスセンターを出発した。
一般道の乗り合いバスの運転手だったわたしにとって、乗る人が決まっているというのは馴染みがないことだった。出発の十分ほど前から、待合室で並んでいる人たちの名前を聞いて予約の確認をする作業はなんだか不思議な感じだった。お客さんとはこの夜の一回かぎりの付き合いだけれど、あっさりとそんな風には思えなかった。今夜一緒にバディを組む先輩はどうなのだろうか。後で聞いてみたいと思った。
乗客はまばらだった。空きがちらほらと見えるが、いくつかの乗車場を経て高速道路に入るころには空席はわずかになるだろう。高速道路のインターチェンジの入り口は狭いから、注意が必要だと先輩が言っていたのを思い出した。
なんとか無事に高速に入ってから、夜行バスはとても静かだった。生活音というには小さい物音と、ノイズまじりの無線の音。どちらの車線がすいてる、どこどこで事故が発生している。先にいる仲間のバスからの無線は、一人きりじゃないという頼もしさがあった。ときどき、何を言っているのかまったくわからない報告もあった。低い声でもにょもにょと滑る無線に、わたしは「了解」と嘘をつく。
ずっと同じような道が続いている。口を動かしていれば眠くなりにくいらしい。先輩からそう聞いていたわたしは、前方に視線を向けたままごそごそとガムを取り出し咀嚼し始めた。
ふと、赤い光が目に飛び込んできた。どうやら事故が発生しているようだった。無線ではその連絡は入っていなかったから、わたしはこのことを報告しようと無線へと語り掛けた。もにょもにょとした声しかでなかった。考えるまでもなく、ガムのせいだった。
静かになってはじめて気がついたことがある。どうやら今日は、ちょっと変わった乗客がいるらしい。なにを言っているかはわからなかったけれど、ぼそぼそした声がずっとバスに響いていた。
消灯時間まであと三十分ほど、バスの中に備え付けられたトイレが使用される頻度が増えてきたようだ。一つ、やけに勢いのいい音が響いた。よほど我慢していたのだろうか。代り映えしない道を見ながら、わたしは微妙な顔をしていた。
揺れないように、速度を一定に、バスになめらかに走ってもらうために。いつの間にか交代時間がやってきていた。
こんなに集中したことはなかったかもしれない。仮眠室にある、一畳ほどのベッドで寝転がりながら、わたしは言いようのないここち良さを感じていた。呼吸が落ち着いていく。まぶたがとろんとしてきた。わたしはこの状態に覚えがあった。満ち足りた気持ちが体に広がっていく。
先輩から連絡が来て体を起こす。
すごいと思った。不快な揺れが全くなかったのだ。いつの間にか休憩場所のパーキングエリアについていて、眠りを妨げられたことがなかった。本当に「いつの間にか」だった。バスの停車に気づかないなんて、どれだけスムーズな運転なのだろうか。人間ってすごいんだな、と飛躍した考えをしてしまう。
「どうだ、揺れなかっただろう」
感心しているわたしの顔を見て、先輩はにやりと笑った。してやったり、というような表情だった。「はい」とわたしは顔をほころばせ、短く返事をした。
先輩は、思ったよりも緊張しておらず、あまり疲れた様子も見せないわたしを不思議がった。聞けば、先輩がはじめて夜行バスを運転したときは、とてつもなく疲れたのだという。先輩の先輩も、だったらしい。残念ながら、わたしにはその理由は思いつかなかった。向いてるのかもな、と先輩に続けられて、どこか居心地の悪さを覚える。まったくもって不快感などはなかったが。
バスの外で、わたしは身体にくすぶっている眠気をなくそうとしていた。寒空の下、近づいてきた先輩はわたしに小さな筒のようなものを放り投げてきた。あたたかい缶コーヒーだった。数回のお手玉の末、ようやく安定する。目を丸くして先輩の顔を見る。人好きのする笑みだった。握り締めた缶コーヒーが手の冷たさを奪っていく。
お金を払おうとすると、ぺしっと頭を叩かれた。おごりらしい。まったく、素直じゃないな、とは間違っても口にしない。
ラベルを確認すると、わたしの大嫌いなメーカーのものだった。
この暗さだ、わたしの表情は先輩に見えていないはず。きっと。
まだ飲んでいないのに、わずかに苦みがあった。いただきます、と小さく会釈をしながら告げ、かしゅっとプルタブを押し上げた。ひとなめ。うん、やっぱり。
「うまいか?」
「すごくおいしいです!」
間髪入れずに返事をしていた。先輩は満足そうに笑い、実に美味しそうにコーヒーをすすった。逡巡などなかった。それ以外にわたしは何といえばよかったのだろう。心の中で情けなさを感じながら、わたしはきっとうれしそうな顔をしているんだろうな、とあきれていた。
学生のころ、心理学の先生が言ったことをふと思い出した。人は嘘をつくとき、大げさな修飾を重ねることがある、と。
頭の中で「『すごく』おいしいです」というフレーズが馬鹿みたいに反響した。
バスを再び走らせる。交代を繰り返しながら目的地が近づいていく。
高速道路での最後の休憩所につくと、それまで寝ていた多くの乗客がパーキングエリアのトイレへと吸い込まれていく。
気づけば空はほんのりと明るくなり始めていた。この明るさはどんどん暗闇を塗りつぶしていくのだろう。わたしの脳裏に、急に終わりという感覚が輪郭をあらわしていく。「夜行バスの運転手」という自分の肩書がどうにも薄くなってきているように感じた。まだ目的地についていないのに、夜のように集中できる気がしなかった。明るい方が運転しやすいだろうに、どうして急にこんな思いが浮かんできたのだろう。なぜだか、先輩に聞く気も湧いてこない。
わたしはぼんやりと東の空を眺めていた。漆黒から紺青へ。やがて赤みを帯びて透徹とした青になるのだろうか。わたしは一気に缶コーヒーをあおった。
なにやらすごく不機嫌そうな青年がバスに近寄ってきた。見覚えがある。記憶が確かならば、わたしたちのお客様だ。青年が睨みつけてくる。その剣呑な雰囲気にすこし気圧された。眠れなかったのだろうか。もしや、何か不手際でもしてしまったのだろうか。自然と腰が低くなる。わたしは途端に不安になった。
「あの」
青年が口を開いた。まったくと言っていいほど表情と釣り合わない、穏やかな声だった。「どうかいたしましたか」とわたしは努めてにこやかに尋ねた。
「このバスは、二十時四十分に名古屋のバスターミナルを出発した夜行バスですか?」
「はい、そうです」
青年の表情が和らいだ。青年のまとっていた圧力が緩まり、安堵がにじみ出ている。
「眼鏡を車内に忘れて降りてしまって、バスを見失っちゃって……」
わたしは得心した。そして肩が軽くなった。わたしは穏やかな気持ちで「そうでしたか」と返す。
それから、青年はわたしにお礼を言ってバスへと入っていった。冬の近づく空気の中、心がぽかぽかとしていた。
それから一時間後、最初の降車場についた。ついてしまった。これからバスの中は寂しくなるばかりだろう。
最初にこの夜行バスを後にするのは、眼鏡をかけた青年だった。ありがとうございます、と先に言われてしまう。
「またのご利用をお待ちしています」
バスを降りていく背中にそう告げる。青年はすこしだけ振り返って、小さく会釈をした。つられてわたしも頭を動かした。達成感と嬉しさがあった。
幸せって、こういうことなのだろうか。笑みを浮かべて、バスを発車させた。
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