天才がゲシュタルト崩壊!! by及川   作:こうやあおい

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01話:及川徹という少年

 及川徹という人物に対して初めて抱いた感情は、間違いなくプラスのものだった。

 それが過ちだったのか否か、まだ答えは出ていない。

 

 

 

 ──2007年。

 栗原ユカは、地元の小学校から北川第一中学校へと進学した。

 父の仕事の都合で東京から仙台へと越してきて、既に数年の月日は流れている。それでもまだ、ここは仮の住処のような気がしてならない。

 きっとハッキリと自覚しているせいもあるだろう。自分は長く、ここには留まらないと。

 ──などと否が応でも自覚せざるを得ないのは、毎日のように一人で美術室に籠もってスケッチブックやキャンバス相手に格闘を繰り広げているからだろう。

 

 物心が付いた時から、時間が許す限り絵の練習に時間を費やしてきた。そのことを、努力をしている。と思うことは特にない。時間が許す限り描いていたい。という思いはユカにとっては確認するまでもなく自然のことであった。

 

 中学に上がってからというもの、公立とはいえ美術室はあるし、場所だって確保できる。その嬉しさで時間を忘れて描き続けた。

 そんなこともあり、美術室を出る頃には熱心な運動部でさえ帰宅した後という事が多く、いつも一人だ。

 が。時おり、下校中に体育館の電気が煌々とついているのを目にすることがあった。

 最初は気が付かなかった。気が付いたあとは、バスケ部あたりが残っているのだろう、などと考えた。

 そしてある日──、今日ばかりは自分が最終下校者だろうと感じるほどに遅くなった日。予想に反して体育館の電気がついていて、ふとユカは足を止めた。

 なぜ足を止めたのかはよく分からない。あまりに予想外で、電気の消し忘れかと感じたのかもしれない。が、ふいに足を向けた先の体育館のドアから中を窺って、ユカは少しだけ目を見開いた。

 コートには無数のボールが散らばり、体育館をたった一人の少年が独り占めしてサーブ練習に明け暮れていたのだ。

 バレー部か、と張られたバレーネットを見て思った。試合前なのかな、と熱心な少年の後ろ姿を見て思いつつその日は踵を返した。

 まさか。今まで何度も見た「自分より遅い下校者」が全てバレー部だった、ということはないだろう。

 という思いから、ユカは時おり、帰り際に明かりのついた体育館にふらりと立ち寄ることがあった。

 ──また、あの子か。と、予想に反して毎回同じ少年で。

 その少年が、”及川徹”という名だと知ったのはもっとあとの事だ。

 ユカにとっては、名前も知らない、とびきり練習熱心なバレー部の男の子。それが及川に感じた第一印象の全てだった。

 

 

 それから、一年ほどが経った。

 夏休み目前のその日は、東北では類を見ない真夏日だった。

「わ……!」

 美術室を出たユカは、蒸すような暑さに顔をしかめるよりも前に驚きの声をあげた。

 生まれ故郷である東京の灼けたアスファルトが作り出す不快な熱気さえ彷彿とさせるほどの暑さだ。

 今夜は熱帯夜かな、と校庭を歩きながらさっそく滲んできた汗を感じつつハッとした。目線の先の体育館から明かりが漏れている。

 まさか。こんな暑い日まで残っているのだろうか、彼は。と、空調などもちろん効いていないはずの体育館を見やってユカは少しばかり気を揉んだ。

 もはや「誰が残っているか」とか「消し忘れかな」などは思わない。それは既に分かっている。が……、足を向けて少し開いている体育館のドアから中を見やって、さすがにユカは瞠目した。

 むっと熱気の広がる蒸し風呂状態の体育館で、後ろ姿からもハッキリ分かるほど汗だくで肩を揺らす及川がいて。──いつもの事ながら、と他人事ながらに肩を竦める。

 自分でさえ喉が渇いて、ともすれば暑さで倒れそうなほどだというのに。見たところサイドドリンクもないし、大丈夫なのだろうか。

 と、僅かばかり案ずる気持ちが沸いてきた。もしも脱水症状でも起こして倒れても、もはや助けられる人間はすぐには現れないだろう。──校門を出てすぐの所に自販機がある。自分も喉が渇いたし、スポーツドリンクでも差し入れよう、とユカは校門の外の自販機に向かった。

 しかしながら、自販機の前でユカは「んー」と唸った。スポーツ選手が必要としている水分量など正確には分からない。あれだけ汗だくで一本で足りるのだろうか、との思いから結局3本購入して両手で抱えた。自分の分は帰りに買えばいいだろう。

 少し急ごう。倒れられていたらちょっと困るし。と再び足早に学内に戻ってユカはハッとする。──及川と話したことは一度もないのだ。

 自分は「及川徹がそこにいる」という事実を知っているが、向こうからすれば自分は名も知らない同級生である。と意識して少し躊躇した。

 とはいえ、特に他意もないし、「お疲れさま」で大丈夫かなと考えていると、不意にヒュッと人影のようなものがユカの前を横切った。

「おう、栗原か? こんな遅くまで何やってんだ」

 僅かに目を見開いた栗原の耳に見知った声が届いて、ユカは目線を声の方へ向けた。すれば短髪の少年が立っていて、あ、となお目を丸める。

「岩泉くん……。岩泉くんこそどうしたの?」

 こんな遅くに、と続けて言葉を向けた相手の名は岩泉一。そう親しく話したことはないが、クラスメイトである。

「あー、俺は部室で過去の対戦表とか調べてたらすっかり遅くなっちまってな。ついでにオーバーワーク気味のバカを回収して帰る所だ」

 そうして岩泉は体育館の方へ目配せし、あれ、とユカは瞬きした。

「岩泉くん、バレー部だっけ……?」

 すると、ああ、と岩泉が頷き、ユカはちょうどよかったとばかりに抱えていたペットボトルを岩泉へと差し出した。そして反射的に受け取ってくれた岩泉にこう告げる。

「及川くんなんだけど、熱中症とか脱水症になっちゃうんじゃないかって心配してたの。そのドリンク渡してあげて」

「は……ッ!?」

 ちょうど良かった、とまさに渡りに船で用事の済んだユカはその場を立ち去ろうとした。が、予想外に後ろから岩泉に呼び止められてしまう。

「待てって。お前、一人で帰んのかよ?」

「え……、うん」

「もう暗えぞ」

「そうだけど……」

「どうせ方向同じだし一緒に帰るべ。及川にもすぐ準備させるからちょっと待ってろ」

「え……!? え、べ、別に大丈夫だよ」

 いつものことだし、と言うも「そんな急ぎの用があるのか?」と突っ込まれて固辞する理由もなかったユカは、じゃあ、と岩泉の言葉に従った。

「おい、及川! 帰るぞ! とっととストレッチやれ!!」

 そうして体育館のドアを勢いよく開けるなり彼はそう言い放ち、ユカは少々面食らう。いきなりこの言い方は、かなり横柄なのではと感じたからだ。

「あれー、岩ちゃん。残ってたんだ?」

 すれば、ボールを突く音が途絶えて軽い調子のそんな声が体育館に響いた。察するに岩泉の態度は横柄ではなく日常の事なのだろう。次いでバレーボールシューズが床を擦る音と共に弾んだ声も響いた。

「うわ、岩ちゃんいいもの持ってんじゃん! なに、俺に差し入れ?」

「は?」

「俺、チョー喉渇いてたんだよね! さっすが岩ちゃんやっぱり俺たち大親友だね!」

「おめーとは親友どころか友達になった覚えすらねえ」

「なにそれヒドイ!!!」

 突然コントのような掛け合いが始まり、後ろで聞いていたユカは面食らうも、かえって面倒が省けた、程度に及川の言い分を感じた。ドリンクは岩泉からの差し入れと思ってもらった方がややこしくならないためだ。

 それより。予想外に明るい子なのかな。と及川の言動に面食らっていると、岩泉の手からペットボトルを受け取った及川にあろう事か岩泉がこう言い放った。

「つーか、それ俺じゃなくてコイツの差し入れだぞ」

 な? と懇切丁寧にこちらを振り返って言われ、え、とユカは固まる。

 え、と岩泉を挟んだ先の及川も固まった気配が伝った。おそらく、彼はいま初めて後ろにいた自分の存在に気づいたはずだ。

 気まずい、とユカが感じた刹那。

「ああ……美術部の……」

 そんな声が聞こえて、え、とユカは及川が自分を知っていたらしきこと驚いた。彼の声がやや乾いていた事には気づけず、ともかくこれ幸いとばかりに無理やり笑みを浮かべてみせる。

「あの、体育館の電気がついてたから覗いてみたら及川くんがいて……。暑いし、喉渇いてるかなって思って」

「そっか、わざわざありがと。そういえば、話すの初めてだね?」

「え……。う、うん」

 すれば及川もニコッと人懐っこそうな笑みを浮かべ、彼は岩泉に目線を向けた。

「岩ちゃん、仲良かったっけ?」

「あ? クラスメイトだ。たまたま体育館の前で会った」

「ふーん。ていうか3本もあるんだし、一人一本ずつね」

 ハイ、と及川が残りのドリンクを岩泉ともユカともしれず差し出して岩泉は眉をやや釣り上げた。

「なに我が物顔で配ってやがんだ。持ってきたの栗原だろうが」

「え……ッ、え……い、いいよ、その、もともと及川くんにって思ってたから。喉、渇いてるみたいだし」

「せっかく3人で3本あるんだから、分けたほうがすっきりするじゃん」

 ね? と念を押されてユカはたじろいだものの受け取った。岩泉も受け取っている。確かにこの状況では分けた方が及川も気持ちの面で過ごしやすいのかもしれない。

「あ、ありがとう」

「お前……、買ったの自分だろ」

 思わず礼を言えば及川が小さく吹き出し、岩泉が肩を竦めた気配が伝った。

 それはそうだが、と思いつつもいたたまれなくて少し頬を染める。

 悪ぃな、と岩泉が断ってからペットボトルを開け、ユカも喉が渇いていたのは確かなため自身もペットボトルをあけて口を付けた。

 そうして及川はその場に座ってストレッチを開始した。岩泉の忠告通り、あがるという事だろう。

 何だか妙なことになった。と、やや居心地の悪さを感じつつ体育館を見渡してハッとする。

「あ……、ボール片づけようか?」

 コートに散らばった無数のバレーボールを見やってそう言えば、2人揃ってこちらを振り向いた。

「及川がやるからほっとけ」

「なんで岩ちゃんが勝手に返事してんの!?」

「おめーが散らかしたんだからおめーで処理しろや。小学生でも分かることだろーが」

「でも……、遅くなっちゃうし。及川くんがストレッチしてる間に片づけちゃった方が効率いいから」

 ともかくこの場でジッとしているよりはやることがあったほうが助かる。と、ユカは靴を脱いで体育館にあがった。

「ごめん。ありがと助かる」

 すれば及川がこちらを見上げてきて、ユカは笑みを浮かべようとした目を少しだけ見開いた。

 及川の顔をちゃんと見たのはこれが初めての事かもしれない。体育館の照明を受けた瞳はどこかココア色のような甘さを感じさせて、随分と綺麗な目をしているな、と過ぎらせつつユカは笑った。

 おそらくは岩泉も元からそうするつもりだったのだろう。ユカ同様にボールを拾って籠に戻すという作業をはじめた。

 ユカはボールを手に取りつつ、体育の時間以外で触れたのは初めてかもしれないと思う。2種類のボール。どちらもトリコロールでカラフルだ。

「ボール、2種類あるけど、これって色違い?」

「いや。ボールによって回転かかりやすいとか飛びやすいとか特性がかなり違う」

「そうなの?」

「年度によって公式試合でどっち使うか変わるし、練習試合なんかでどっち使われるか分かんねーし、練習じゃ両方使うぞ」

「そ、そうなんだ……。大変だね」

「まあ統一してくれた方が楽は楽だな」

 ボールを拾い集めながら岩泉の声を聞きつつ、ユカは自分自身の手で二種類のボールの手触りを確かめた。ボールによって跳び方や回転が変化するということは。使いこなして使い分ける技術が必要なのか。と、脳裏に何度も見たことあるサーブに明け暮れる後ろ姿を過ぎらせて、ふ、と息を吐いた。

「校門のところで待っててやるから、とっとと着がえて来いよ」

「ほーい」

 無事に片づけも終わり、体育館を閉めて告げた岩泉に及川は手を振って着がえるために部室へと戻っていった。

 ユカと岩泉はそのまますっかり暮れた校庭を歩いて校門の方へと向かう。

「岩泉くんって及川くんと仲がいいんだね」

 何とはなしにユカが言えば、一瞬、岩泉は言葉に詰まって眉間に皺を刻んだ。

「──まあ。小学校でクラブチームに入る前から知ってっからな。腐れ縁だな」

「そ、そうなんだ……」

 なぜそんな不本意そうな顔をするのだろう、と疑問に感じているとさらに岩泉は肩を竦めた。

「休み時間とかも、あのボゲしょっちゅうウチのクラス来てんだろ」

「え……、そうだっけ?」

「なんだ、覚えてねーのか」

 すれば岩泉は意外そうな顔をしたのちに少し肩を揺らした。

 が、覚えてない、というよりは。たぶん自分が休み時間に教室にいないせいだろうな、などと考えていると足音が近づいてきた。及川だろう。

「お待たせ!」

「よし、帰るべ」

 そうして3人並んで学校を出て、ユカは「なぜこんな事に」と多少なりとも過ぎらせた。どうしてもクラスメイトで見知っているぶん岩泉の方が話しやすいが、そうも言っていられない。

「2人とも、こんな遅くまで残って熱心だね」

「あ? ああ、まあもうすぐ県総体が始まるからな」

「2人とも試合に出るの?」

「ああ。俺はウィングスパイカーで及川はセッターな」

「セッター……って、トスをあげる人のこと、だよね?」

 言えば岩泉が頷き、ユカは首を捻った。

「及川くんいつもサーブの練習してるから、もっとこう……攻撃する側の人なのかと思ってた」

 すれば2人が揃って歩みを止め、揃ってこちらに目線をくれてユカはハッとした。

「あ……! その、私、だいたいいつもこの時間に帰ってるから、その……体育館が明るいときって残ってるのいつも及川くんだし……その」

 当の及川が驚いたように目を丸めたのがいたたまれず少しだけ視線を逸らす。が、意外にも岩泉はこう言った。

「サーブはリベロ以外の全員でローテ回すからポジション関係ねーべ」

「そ、そう……」

「ま、コイツでけぇから、セッターなのが意外といや意外か」

 岩泉が反応したのは別の部分だったらしく、ユカはホッと胸を撫で下ろした。が。当の及川本人が岩泉の言い分に噛みつき始めた。

「意外ってなに意外って。俺のベストポジションって誰がどう見てもセッターだよね!? まあスパイクもレシーブもサーブも岩ちゃんより上手いけどさ!」

「よし分かった。そこまで言うならおめー明日からスパイカーやれや」

「そしたら誰がセッターすんのさ?」

「安心しろ。先輩がちゃんとやってくれる。ああ、1年にやらせてみるってのもイイ手かもな。監督に相談してみるわ」

「ちょっとナニ言ってんの! 正セッター譲れるわけないじゃん! 岩ちゃんだって俺からのトスで打ちたいでしょ!?」

「打ちやすいトスで打ちたいんであって、おめーからのトスかどうかはまったく関係ねえ」

「ヒドッ! さすがに酷くない!?」

 もしかしてこの手の言い合いは日常茶飯事なのだろうか? 岩泉はともかくも、及川の性格に関してなんの認識もなかったとはいえ、やや意外だな。と思いつつ自分の家に連なる曲がり角が見えてきて、あ、とユカは瞬きをした。2人とは小学校が違う。学区の関係上、一緒の道なのは突き当たりまでのはずだ。

「じゃあ、私の家あっちだから。また明日ね」

 そして突き当たり直前で2人に声をかけ、背を向けようとした途端。ユカは岩泉に呼び止められてしまった。

「俺、送ってくわ。暗えしな」

「え……!? い、いいよそんな」

「俺の家、及川んちよりは隣の学区寄りだしそう遠くねえ。気にすんな」

「で、でも」

「及川、おめーはいつも通り一人で帰れ。じゃあな」

 そうして有無を言わさず言い放ち、けっこう仕切りたがりなのかな、とユカはあっけに取られつつも感じる。及川は一瞬だけ目を見開いていたが、すぐにヘラッと笑って手を振った。

「はいはーい。明日の朝練、遅れないでよ。じゃあね2人とも」

 何とはなしに去っていく及川の大きな背中を眺めていると岩泉に行こうと促され、ユカも及川に背を向けて歩き始める。

「な、なんかゴメンね。わざわざ送ってもらっちゃって」

「まあちょっと遠回り程度だし気にすんな。及川のが近かったらアイツに行かせたんだが……元はと言えばあいつのせいだしな」

「う、うーん……」

 ユカとしては下校時刻自体はいつもよりやや遅い程度で気になるほどではないのだが。ここまで言ってくれている以上はもはや好意を素直に受け取るほかないだろう。

「バレー部って確かいつも県の優勝候補だよね。2人ともまだ2年生なのにレギュラーみたいだし、凄いね」

「ああ。まあ俺たちは割と早くからバレーやってたからな。及川はそれなりに体格に恵まれてるし、センスもあるからここ数年ですげー上手くなってんな」

 そっか、とバレーの話を続けつつ思う。及川の場合、知る限り一番熱心な部員のようだし上手くなるのも当然だろう。

「県大会で優勝したら、その次って東北大会?」

「いや、ブロック大会はナシでそのまま全国だな」

「大会は夏休みに入ってから?」

 聞いてみれば、岩泉は頷いた。そして大会の結果を問わず夏休みも練習三昧の日々だという。そっか、と相づちを打っていると自宅が見えてきてユカは改めて岩泉の方へ向き直った。

「私の家、ここなの。わざわざ送ってくれてありがとう」

「おう。じゃあな」

「気を付けてね。また明日」

 岩泉に手を振ってから、ユカは自宅の門をくぐってホッと息を吐いた。及川はもとより、岩泉とこれほど長く話したのも初めてのことだ。気を遣わせて悪かったかな、と再度感じつつ「ただいま」と家に入れば案の定遅いと母親から小言を貰って謝りつつユカは自室への階段をあがった。

 

 バレー部は元より、室内競技はユカにとってあまり身近なものではなかった。

 デッサン練習のため、室外の、サッカー部やテニス部などは見学することも多かったが、室内に籠もっている運動部を見る機会はそうそうない。

 公立校ゆえに北川第一は運動部がずば抜けて強いというわけでもなく、その中で県内屈指の強豪であるバレー部は異色と言えば異色ではあるが。と、バレー部の功績を見知っているのは始業式などの式典の際によく表彰されているからだ。

 ユカにとっては、それだけのことで。

 けれども、あの日以来、体育館以外でも「及川徹」が存在している事を少しだけ認識するようになった。

 意識してみれば彼は目立つ生徒のようで、校庭や廊下で女生徒に捕まっているのを幾度か目にした。

 一度、岩泉を訪ねてきたのか、昼休みに入った直後に自分と入れ違いで反対側のドアから教室に入っていくのを目にした事もある。

 ──彼はとても綺麗な顔をしている。及川に対する第二の情報はそれだ。それ故だろうか? 及川を、ユカはとても機械的に感じていた。よく笑っているのを見かけた。けれども、「屈託のない」笑顔からはほど遠いように思った。

 ユカ自身の知っている及川は、いつも後ろ姿で、肩で息をしていて。その彼と、コート外の彼がどうしても結びつかない。

 けれどもそれさえも追及するほどのことではなく、2年次の一学期はそのまま夏休みとなった。

 

 夏の長期休暇は、ユカはおおよそ東京で過ごす予定を入れていた。

 祖父母宅から夏期集中型の絵画レッスンやフランス語のレッスンに通うためだ。

 仙台に越してくるとき、家族と共に随分と悩んだものだ。東京に留まるか、仙台に家族と共に行くかを、だ。

 悩んだ末、家族と共にいることを選んだ。そう遠くない未来、いずれ別れるのだからなにも小学生のうちに家族と共に過ごす時間を終わらせる事はないと両親が決断し、ユカ自身も従う他はなかった。

 その分、やるべき事がよりハッキリした。仙台行きを選んだことがマイナスになるような事にはしない。──という気負いもあった。

 

 七月下旬。上京予定日の朝。

 ユカは何とはなしに新聞に目を通していた。そうしてごく小さな記事を目に留めて、少しだけ目を見開いた。

 

 "白鳥沢学園・準決勝で優勝候補の北川第一中学を敗り決勝へ!"

 

 そんな見出しだった。県総体のバレー大会の記事だ。──怪童・牛島若利を迎えて一気に県内トップへ躍り出た白鳥沢学園は、2セットを連取して危なげなく決勝進出を決めた。総合力の高さに定評のある北川第一を全く寄せ付けず、今年も全国大会への出場に期待がかかっている。という短い文章と共に牛島と思しき選手のスパイクシーンの写真が掲載されていた。

 そうなんだ、と少しだけユカは肩を落とした。岩泉はもとより、脳裏に及川の後ろ姿が過ぎった。あんなに練習してたのに……、と少しだけ同情する。及川がどのレベルの選手なのかは知らない。けれども、少なくとも、彼がどれほど練習熱心であるかは自分が一番と言っていいほどに知っている。

 とはいえ。気にしたところでどうにもならないか、とユカは新聞を閉じて荷物を持って家を出た。

 東京の夏は例年通り猛暑だ。噎せるようなアスファルトの焼け付く匂い。雑多に行き交う人々。それでも東京は、物理的に仙台より便利だ。少なくともユカのいま望んでいるものが得られる。

 朝から晩まで絵に語学にと明け暮れ、あっという間に二学期が迫ってユカは夏休みの最終週に仙台に戻った。

 残っていた夏休みの宿題を仕上げ、宿題の一つである美術の課題も仕上げようと学校に出向いたのは始業式三日前の午後。

 美術部は夏の活動は自由参加で決められた予定はなく基本的に参加している部員はいないため、おそらく美術室は無人だろう。

 さすがに夏休みと言えど、最終週の午後とくれば運動部も既に部活を終えているようだ。と人気のない校庭を歩いていると、ふと数人のジャージ姿の男子生徒が正面から歩いてきた。青に白のジャージ。男子バレー部だ。

「あいつ、毎日毎日よーやるよなァ」

「新キャプテンになって張り切ってるんじゃないすか」

 すれ違いざまにそんな声が聞こえた。たぶん及川の事だろうな、と察した。──そうか、三年生が引退してキャプテンになったのか。と理解するも、ユカは美術室に向かった。

 案の定誰もおらず、夏休み序盤にある程度仕上げて準備室に置いておいた夏休みの課題・名画の模写を仕上げて帰る頃にはすっかり陽が落ちていた。

 そうして──、ふと体育館を見やるとまだ電気がついていて、さすがにユカは足を止めた。

 まだ及川は居残っているのだろうか? これは岩泉の言うところのオーバーワークではないのか。

 いや、さすがに今日こそはただの電気の消し忘れでは。と、気にかかったゆえにユカはその足を体育館に向けた。

 そうしてひょいと中を窺ってユカは目を見開いた。相も変わらずサーブ練習に明け暮れているらしき後ろ姿は間違いなく及川で。しかも、今日の彼はなぜかユニフォームを着ていた。「1」の番号がいかにも主将らしくユカは思わず頬を緩めたが、打っては肩で息をしている様子に肩を竦めてしまう。

 とはいえ、そろそろ終わりにしてはどうか、とズバッと言えるほど親しいわけでもないし。と、ぼんやりとボールを手に取っては投げ上げ、ジャンプして打つという作業を見つめた。もうこんな姿を一年以上前から知っているが、改めて見比べれば目に見えて上達している。やはり常日頃の鍛錬の成果かな……と思いつつ何とはなしに視線を体育館に巡らせていると、突如として声が響いた。

「──うわぁッ!?」

 え、とユカもギョッとして声のした方を向けば、後ろを振り返ったらしき及川が瞠目してこちらを注視しており。一瞬にして気まずい空気が流れる。

「ちょっと……なにしてんの。びっくりするんだけど」

「え……と、その、体育館の電気がついてたから消し忘れかなって思って」

「ふーん……」

「ご、ごめんね邪魔しちゃって。じゃあ」

 かくなる上はさっさと立ち去ろう。と踵を返そうとすれば、意外にも及川はユカを呼び止めてきた。

「ちょっと待って! ねえ、ちょっと聞きたいことあるんだけどさ」

「え……?」

 すれば及川はどこか色のない表情でこちらへ歩いてきて、ユカも立ち止まらざるを得ない。

 ごく間近まで迫れば、やはり背が高い。既に170後半はあるだろうという長身にユカは少しだけおののいた。

「な、なに……?」

「手、見して」

「え……!?」

 手……? と反射的に右手を出すと、及川は何を思ったのかグイッとユカの右手を引っ張ってまじまじと掌を見やるような仕草を見せた。

「な……なに……?」

「へえ……”天才”の手ってこうなってんだ。ふーん……」

「え……!?」

 天才? と何を言っているか分からず見上げると、及川はどこか遠い目をして肩を竦めた。

「だって……有名じゃん、美術部の栗原ユカちゃん。あんまり君ばっかり表彰されてるからちょっと調べたら、”コンクール荒らし”なんて呼ばれてるんだって?」

 え、とユカは瞬きをした。──そう言えば、と及川と初めて話した日、彼が自分のことを知っているような風だったことを思い出した。なるほど、自分がバレー部を強豪だと知っていたように彼も同じような理屈で自分を知ったのだろう。

 が──なぜこうも憎々しげなのだろうか? そういえば、今にして思えば、及川は一度も自分に他の女生徒に見せるような笑みを見せていない。気がする。いまだって、およそ彼が常日頃女生徒に向けている態度とは思えない。

「あ……あの……」

 何か気に障ることを無意識にやってしまったのだろうか。と様子を窺うと、及川は少しだけ眉を寄せた。

「別に普通だよね。天才の手って、もっと特別な何かがあるんじゃないかって思ってたけど……じゃあ何が違うってんだろ」

「な、なんのこと……? 天才、って」

「ま、バレーと絵じゃ違うかもしんないけどさ」

 そう言われて、ユカはピンと来た。彼は自分に突っかかっているわけでなく、他の誰かを思い浮かべて言っているのだ。と。が──及川のことなど何も知らないユカにとって及川の言葉の意味を解釈するのは不可能に近く、知る限りの少ない情報を脳裏で照らし合わせて、一つだけ思い当たって口にしてみた。

「あ……もしかして、白鳥沢学園の牛島くん、のこと?」

 とたん、及川の瞳に鋭さが増して睨むようにこちらを見据えてくる。

「え、なに、ユカちゃんウシワカ野郎と知り合い?」

「え……!? え、と……新聞で読んだの。その、うちの準決勝の相手だったって。牛島くんのことを凄く褒めてた記事だったから、なんとなく覚えてて」

 すると、なんだ、と言いたげに及川は肩を落とす。

「そ。ま、仕方ないよね。ウシワカの力は圧倒的だし。けどアイツはスパイカーだからね。スパイクの神にでも愛されてんだろうと思うしかないよ。けど……」

 憎々しげに言い下したあと、及川は少し目を伏せて再びユカの手に視線を落としてきた。

「もし、天才の手ってのがあるなら……、天才セッターの手も、どこか特別なのかなって思ったんだけど……。別に違いなんてないよね」

「天才……セッター……」

「いつでも、どこにでも精密にトスをあげられる手。俺は……そんな技術、持ってないし」

「及川くん……」

「ま、この世に存在してるかどうかも分かんないけどさ。そんな特殊な才能持ったヤツなんて」

 言って、及川はユカの手をようやく解放した。そうして再びユカに背を向け、ボール籠の中からボールを手にとってユカはさすがにハッとした。

「及川くん、まだ続けるの? 今日って朝から練習だったんだよね……?」

 思わず言ってしまえば、及川は一度ボールを突いたあとに呆れたような顔でこちらを振り返った。

「ユカちゃんがそれ言う? 人のこと言えんの?」

 言い返されて、う、とユカは言葉に詰まる。──そうだ、基本的にこの時間に顔を合わせられるという意味では、自分たちは同類でもあるのだ。

「で、でも──」

「あと数十本打ったら上がるから」

 反論しようとすれば遮るように固い声で言い返され、ユカはそこで言葉を止めた。元々無理に止めようとも思ってはおらず、そっか、と頷く。

 そうして挨拶だけを及川の背に投げ、ユカは体育館に背を向けた。

 たぶんキャプテン就任で張り切っているのと、白鳥沢に負けた悔しさとが入り交じっての練習時間の延長なのだろうが。身体壊さないといいんだけど、と思いつつふと自身の右手に目を落とした。

 「天才」などと自分自身で思ったことは一度もないが──。及川はその言葉の先に見ている人間──牛島若利──がいるのだろう。

 けれども、岩泉は及川をセンスのある選手だと評していたし。分からないな、とユカは一つ息を吐いた。

 一つ分かったことは。及川の自分に向ける顔は、普段に学校生活で見せる顔と違っているということだ。

 何か気に障る事でもしたのかな……と再度浮かべつつ、ユカは帰路を足早に自宅へ向けて歩いていった。

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