天才がゲシュタルト崩壊!! by及川   作:こうやあおい

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20話:及川徹と”コート上の王様”

 インターハイ予選で、他校の1年生が噂していた。

 ──北川第一男子バレー部の”コート上の王様”。影山はいま、宮城中学バレー界でそんなあざなで呼ばれているらしい。

 

 ──なんて誉れ高い。

 

 単純にそう思った。

 影山の作り出す神がかったトス回しがコート上を支配して、きっと鮮やかにブロックを剥いで誰も手がつけられず──人々はその才能にひれ伏して言うのだ。彼が王だ、と。

 及川は影山の異名を聞いたとき、真っ先にそう感じた。

 自分の後ろをずっと付いて回っていた、憎悪と羨望と嫌悪の対象で、そしてたぶん、認めたくはないが、カワイイ後輩。天才・影山飛雄。

 影山に出会ったあの日から──彼のトスを見て落雷に打たれたような感覚に陥り、足掻いても足掻いても勝てない才能の差に打ちのめされたように思った日から既に二年以上が経っている。あの頃はまだ幼いだけだった後輩も、きっと逞しく成長していることだろう。

 きっとたぶん、自分がベストセッター賞を取ったとき以上に──、と思うと胸のつっかえが酷くなるような焦燥感が襲って、及川は寝付けない布団の中で無理やりに寝返りを打った。

 いや、自分だってこの2年間遊んでいたわけではない。少なくとも、いくら影山が王様と呼ばれていようがいまの自分だったらきっと影山には負けない。

 ──いつか対戦する時がもしも来ることがあっても、自分は絶対に影山には負けない。

 二つ年下の直属の後輩にずっとそう言い続けていた中学時代。来年、彼がどの高校に進むのかは分からないが、いずれ本当に戦うこともあるかもしれない。でも。

 

『及川さんいるなら、俺も青城考えます』

 

 彼は本当に青葉城西にあがってくるのだろうか……?

 自分のあとを追って……?

 影山に限らず北川第一時代の後輩は何人も青葉城西に入学してくるだろう。驚くことではない。

 でも──。来年こそは自分が正セッターだし、現時点でいくら王様だろうが天才だろうが影山に負けるとは思っていない。が、もしも正セッターの座を追われたら?

 もしも影山が青葉城西にあがってきたら、自分は北川第一時代を繰り返してしまうのだろうか?

 彼はまた自分のあとを付いて回るのだろうか。及川さん。及川さん。と、どれほど振り払っても追いかけてきた、あの2年前のように。

「……っ」

 ゴチャゴチャと複雑な感情が押し寄せて、寝付けない及川は更なる寝返りを打った。

 いけない、と思う。想像だけでどんどん自分の中で影山の影が大きくなっていくかのようだ。

「飛雄……」

 このままでは自分自身のためにも良くない。北川第一は自分の出身校でもあるし、この時期はだいたい監督やコーチもスカウトのためか中学の公式試合も見に行っているし。中総体は夏休みに入ってすぐであるし、そうなれば時間が取れる。きっと自分の後輩らは最低でも準決勝にはあがってくるだろう。──行ってみるか、と決意して及川は今度こそ眠れるよう祈りながら瞳を閉じた。

 

 

 ──7月は第5週、火曜日。

 

 宮城県中総体バレーボール大会最終日。

 及川の予想通り、青葉城西バレー部は監督不在で午前中は自主練習となっていた。それでも及川は早朝に練習をこなしてから、岩泉を伴って最終日の試合会場に赴いた。

 会場ロビーには結果が張り出されている。既に準決勝が済み、決勝までのインターバルのようだ。

「お、北一決勝に残ってんぞ。あいつらなかなかやるじゃねえか」

 内心、影山がどう成長しているか気になって仕方ない及川自身と違い、岩泉は単純に母校と自身の後輩たちの行方が気になっている様子だ。

「相手は光仙学園か……。白鳥沢もいねえし、あいつら全国行けるといいな!」

「そだね。でも俺たちも行けなかったのに飛雄たちが行くってのもなんかちょっと腹たつ」

「ハァ!? 後輩の応援しろよクソ及川! おめー主将だったろうが!」

「そうだけど! でも、なんで俺が飛雄の応援なんてしなきゃなんないのさ……」

 ぶつぶつ言っていると、おかんむりだった様子の岩泉は呆れたような表情に変えてそれ以降は何も言わなくなった。──岩泉は、影山の名を出せば後輩だった彼にいくら敵愾心を抱いても自分を咎めない。それが居心地がいいようで悪いようで、でも自分はきっとそれに救われていて。でも、その事が正しいのかはわからない。と考え込みそうになったところで思考を振り切って階段先の観客席入り口ドアを見上げた。

 影山のプレイを見るのも、彼に会うのすらも久々だ、とドアをくぐるとパッと明るい空間に聞き慣れた懐かしい応援の声が聞こえてきた。

 

「北一! 北一! 北一! 北一!」

 

 隣で岩泉が、おお、と懐かしそうな声を漏らしている。

 反対エリアの応援席には見慣れた真っ青な生地に「必勝」と書かれた横断幕が下げられており、相も変わらず大多数の部員が声援をコートに送ってきた。

「試合、これからみたいだな」

 岩泉が身を乗り出すように北一ベンチ側の最前列に移動してコートを覗き込んで言った。声をかけたら驚かせるだろうか。などとやや興奮気味に彼はかつての後輩を見つけて嬉しそうにしている。

 その側で及川は「2」の背番号を付けた選手をじっと見据えた。

 ──なんだ、主将じゃないのか。

 ──ちょっと待った。おがりすぎじゃないの飛雄。中三の時の俺よりでかくないか?

 無言でそんな感想が浮かんだ。主将マークのない番号をつけたその選手は紛れもない、影山飛雄だ。2年前よりだいぶあどけなさが抜けた代わりに、小柄だった彼の背は想像より遥かに伸びていた。

 コート上の王様。彼はどんなセッターに育っているのだろう? 技術は、うん、今も申し分ない。表情がちょっと硬いかな? そんな顔して、ちゃんとチームメイトとコミュニケーション取れてんのか?

 アップを見守りながら、そんな言葉と共に違和感が過ぎった。

 あれだけ嬉しそうにボールに触るヤツだったのに。元々、笑顔を他人に振りまくようなタイプではなかったのは確かだ。でも、バレーが好きでたまらないと全身で訴えるように綻んだ顔でボールに触れる影山は、その才能ゆえに自分を苛立たせ憔悴させると同時に、やはり微笑ましくもあった。

 だというのに、まるで。──と、僅かに及川の脳裏に既視感が過ぎった。そして試合が始まるとだんだんとその違和感が強くなり、第一セットの中盤。相手が勢いづいて点差を付けられ、影山のあげた速すぎるトスにミドルブロッカーが追いつけなかったところで既視感が確信に変わった。

 

「速攻はもっと速く入ってこいって言ってるだろう!?」

 

 焦燥を露わにする影山に、ミドルブロッカ──―及川にとっても後輩にあたる金田一勇太郎が「わるい」と謝っていたのが見えた。

 違和感の正体はコレだ、と及川は少しだけ眉を寄せた。──北川第一にいたころ、一度も白鳥沢に、牛島若利に勝てずに焦りばかりが募っていた。どんどんと強くなった焦りはついに自分から笑うことさえ忘れさせ、まったく周りが見えなくなってしまった。

 あの時の自分に影山はそっくりだ。と、気づいて手すりを無意識のうちに強く握りしめていた。

 ──お前は本当に、どこまで俺を追ってくるんだろうね……。

 見事なまでに自分の来た道をトレースする影山に、及川は焦りや恐怖と共にある種の奇妙さを抱いた。

 バレーに対する情熱も、勝ちに対する貪欲さも、当たり前の事を当たり前のように自分たちは共有している。

 けれども、自分と影山は違う。自分には少なくとも、岩泉がいた。コートで戦っているのは自分だけではないと当たり前の事を思い出させてくれた。

 そして影山と自分は違う。彼には自分にはない才能という名の天性の贈り物がある。その突出した才能に周りは追いつけず、彼はなぜ周りが自分と同じように出来ないのか理解できない。なぜなら彼は、自分を微塵も「天才」などとは思っていないのだから。

 と、及川はスッと目を細めてやや冷めた視線をコートに送った。

 ──飛雄、お前は天才だ。お前みたいにピンポイントのトスを上げられる人間を、俺は他に知らない。でも、金田一はお前の望む速攻に付いてこれていない。もっと金田一のやりやすいトスをあげて攻撃に繋ぐことも出来るんじゃないのか。

 とはいえブロックを振り切るのはセッターの重要な役目の一つである。相手を振りきろうと速いトスをあげてはミスを繰り返して苛立ちを募らせている様子の影山をジッと及川は見下ろした。

 北川第一のアタッカー達が、自分の後輩達がレベルが低いということは決してない。むしろかなりハイレベルだ。しかし、影山の望んでいる能力を有しているかといえば残念ながらまだまだである。だからこそ影山はセッターとしてちゃんとチームメイトの能力を見極め、それを最大限に引き出すよう努めるべきなのだが、本人はそこに気づいてさえいない様子だ。

 なぜ自分のトスに追いつけない? なぜもっと跳ばない? 勝ちたいのならこのトスに合わせて打てばいいだろう。

 きっとそんな事でも頭の中で考えているのだろう。なぜならおそらく、自分の脳裏に描いているイメージのスパイクを影山自身だったらやれるのだろうから。とも過ぎらせて及川はキュッと唇を結んだ。

 あのトス──。金田一ではなく自分だったら。アタッカーとしての自分ならあのトスもちゃんと打ってやれるかもしれない。と考えてしまって及川は眉をきつく寄せた。

 影山の才能は、きっとこんな場所に留まる程度のものではないのだろう。でも、それ故に彼はセッターとしての基本を理解できていない。冷静にコートを見渡して、ブロックを振り切る精密なトスがあげられるのに──と、相手のセットポイントが近づいてきて及川は小さくうなり声を漏らした。

 次第に北川第一の雰囲気が緊迫して悪くなっていくのが手に取るように分かった。負けているという焦りが影山のトス回しを加速させ、アタッカーが追いつけず、そして自滅していっている。

 ──お前は一人で何とかしようとしすぎだ、飛雄。

 もっと速く動け、もっと高く跳べと憤る影山を見下ろして及川は心の中で呟いた。

 相手が強いからこその焦り。ブロックを振り切らなければならないというセッターとしての焦り。どれも手に取るように分かる。そのせいで、チームメイト達の事が、アタッカー達のことが見えなくなっていることも分かる、と考える先に迫り来た相手のセットポイントで一つの「事件」が起こった。

 影山はバックトスをあげた。が、その先でアタッカー達は跳ぶことを拒絶したのだ。無情にも空中を舞ったボールはコートに落ち、北川第一は自殺点同様のポイントを相手に与えて1セット目を放棄した。

 隣で岩泉が憤っている声が聞こえた。当然だ。これを勝てば全国という場面で、しかも相手のセットポイントという重要場面を戦わずに打つことを拒絶したのだ。いかなる理由があろうとも正当化できることではない。

 けれども──。トスミスを重ねてチームメイトと諍いを起こした結果、トスの拒絶を招いた影山は目の前の失点よりも自身のトスを拒否されたという現実に愕然とし、打ち拉がれたように見えた。

 勝ちたい、という気持ちが先走った結果、チームメイトが彼についていくことを拒絶するなど考えてもみなかったのだろう。

 監督が影山に交代を促すのが見えた。影山は愕然としたままベンチに戻り、タオルを被ってうなだれた。──まるで練習試合でベンチに下げられ、影山と交代することになった時の自分のように。

 

 ──コート上の王様。

 

 なんて誉れ高い異名だと思った。彼の才能ならその名にふさわしいプレイヤーに育っていると思っていた。そんな誇らしい名を与えられた彼を羨ましいとさえ感じた。

 けれども、意味が違っていたのだ。

 孤独で、独裁的な「王様」。むろんその意味の中に彼自身の揺るぎない技術の高さが含まれているのは確かだろう。けれども、そのあざなの意味するところは皮肉だ。

 ──お前は一人で何とかしようとしすぎだ、飛雄。

 かつて自分が辿った道を辿る後輩を見下ろして、及川はもう一度心の中で呟いた。

 第二セットも相手校有利で試合は進んでいる。当然だろう。影山が周りが見えなくなるほどに焦りを募らせた相手なのだ。控えセッターでどうにかできる相手ではない。

 結局、北川第一はそのまま追いつけずにストレートで敗戦し、自分たちの代からの定位置でもある準優勝に収まって今年も全国への道は閉ざされた。

 ずっと顔をあげられないでいる影山を見つつ、及川はコートに背を向けた。岩泉にしても数ヶ月しか関わっていない後輩に声をかけるつもりはなかったらしく、そのまま2人で会場をあとにした。

「……ま、惜しかったよな……、一応決勝までは勝ち上がってるし、まあまあなんじゃねえの」

「そうだね……」

「金田一とか順調にでかくなってるし、あいつウチに上がったら速攻レギュラーかもな」

「かもね。いま金田一くらいでかい選手うちにいないし」

 どことなく芯のない声で話す岩泉に、及川もどこか空返事を返していく。空気が微妙なのは岩泉にしても後輩達のトス拒絶を目の当たりにしたショックがあるからだろう。

 飛雄のヤツ、おバカに育っちゃってほんとバカだよね。などといつもの自分の悪態が出ないのも不審に思っているのかもしれない。が、生憎とそういう気分ではない。

 及川さん。及川さん。と、自分のあとをついてきていた影山の声が先ほどからずっと脳裏に響いている。拒否しても拒否しても、少しでも相手をすると嬉しそうに頬を緩めていた、憎らしくてあどけなかった頃の後輩の姿。あの頃、もしも主将としてセッターとして彼に何かを伝えていたら──。そしたら、あんな結果にはならなかったのではないか、などとうっかり過ぎらせてしまって小さく舌打ちをした。

 将来、確実に脅威になると分かっている人間をなぜ自らの手で育てなければならないのか。と、良い先輩・良き主将でいることを放棄したのは他ならぬ自分だ。そもそも彼らの指導はすぐに引退する自分たちの仕事ではなかったし、監督に指示されたこともない。

 自分はあくまでもう卒業してしまった人間で、いまの北川第一の問題は彼ら自身が解決すべきことであって自分には関係はない。

 だというのに。──ああ、イヤだ、と思う。後味の悪い、言ってしまえば最悪の試合だった。きっと岩泉も感じていることは同じだろう。だから妙な沈黙が続いてしまうのだ。

 そのまま及川は午後からの練習に出て、出たら出たで花巻たちから「試合どうだったよ?」などと聞かれたものだから適当に「負けちゃったよー、残念」等々と誤魔化して、練習後はいつも通り居残った。

 いつも通りというよりは、一人になりたかったが正解かな。と、及川はボールを持ってセッターポジションに立った。──今日見た影山のトス。良いトスだってあった。思い出して真似てみても、やっぱり自分はああは出来ない。と、ふわりとトスを上げてみて脳内の影山のトスとズレたボールの軌道を目で追って、く、と眉を寄せる。

 こういうとき、どうしようもない影山との才能の差を感じて腹立たしいというのに。でも。と及川はボールを拾い上げて、今度は速めのバックトスを打ち上げた。そうして振り返った先に、誰もいなかったのだ。今日の影山は。

 もしもトスをあげた先のスパイカーが自分の意志で跳ぶことを拒否したら。自分のあげたボールの先に誰もいなかったとしたら。きっとそれは心底恐ろしいことなのだろうな。と、まだ昼間の試合を引きずっている自分にも苛立ってくる。

 ──飛雄、お前いったいどうしちゃったの。

 次から次へと浮かび上がってくるモヤモヤを振り払えないまま、及川は居残り練習を早めに切り上げて学校をあとにした。

 さすがに早めとは言っても夏休み。バスの中は自分一人だけだ。と、仙台駅で地下鉄に乗り換え、そのまま最寄り駅の一つ手前で降りると住宅街を無言で歩きつつ携帯を取りだして電話帳を開いた。

 メールはしょっちゅう送っているが、電話はあんまりしたことないっけ。と、過ぎらせつつ発信ボタンを押して耳に当てる。

「もしもし……?」

 しばらく待ったあとに相手が出て声が聞こえ、及川は少しだけ口元を緩めた。

「や。ユカちゃん、いま家? 話して平気?」

「え……うん、そうだけど。どうしたの……?」

 電話の相手、ユカは自分からの電話がやや珍しいのか不思議そうな声が漏れてきて、及川は「うん……」と少し言葉を濁しつつも目を伏せた。

「今日さ……、北一の試合観てきたんだよね」

「え……、バレーの?」

「うん。今日が中総体の最終日でさ、ウチは決勝まで勝ち上がってたからそれでね」

「へえ、凄いね……! やっぱりウチの男子バレー部って強いんだね」

「うん、まあ……結局負けちゃってたけどね」

 言えば、そっか、とユカは少し残念そうな声で言った。彼女にとっても北川第一は出身校。残念な気持ちは畑違いといえどあるのだろう。

「負けは残念ではあるんだけどサ……。肝心の試合なんだけどさ」

「うん……?」

「最悪だった……」

 ボソッ、と岩泉にもこぼせなかった事を率直に言えば「え」とユカが戸惑った気配が伝った。

「え……、な、なにかあったの……?」

「飛雄がさ、コート上の王様って呼ばれてるって話……前にしたよね?」

「うん」

「あいつ、上手くなってたよ。個人としてはね。2年前の俺より上手いかはともかく、技術的には圧倒的に抜けてた。ま、それは昔からだけど。けど……」

 けど……? と続きを促したユカにどう言えばいいか惑って眉を寄せる。別にいま、影山に対して悪態を吐きたいわけではない。ただ、自分が思っていた「王様」の意味と影山に付けられたあだ名の意味は違っていて。それで──と考え込んでいると、視線の先にユカの家が見えてきて、及川は無意識に二階側の窓を見上げた。

「ユカちゃん、いま家なんだよね?」

「うん」

「俺、いまユカちゃんちの前にいるんだけど」

「え──ッ!?」

 すれば驚いたような声が聞こえて数秒。ガラッ、と窓を引く音と共にユカが玄関側に面している窓から顔を出して、及川は小さく手を振った。

「な、なにしてるの……!?」

「んー……? さぁ、なにしてんだろうね。ちょっとユカちゃんと話したいな、って思ってさ」

 窓からと携帯からと聞こえてくる声にやや弱々しくそう返せば、少し戸惑ったような息が漏れてきたが「ちょっと待ってて」という声と共に携帯が切れ、しばらくして玄関のドアが開いた音が聞こえてユカが門の扉から姿を現した。

「及川くん……!」

「ごめんね、いきなり」

「ううん、いいけど……。いま部活帰り?」

 ユカはジャージ姿の自分を見て言い、及川も頷いて肯定した。そして少し壁際に移動して壁にもたれ掛かればユカは心配そうにこちらを見上げてきた。

「あの……、試合、最悪だったって……なにかあったの? もしかして、誰か怪我とか……」

「ううん、そういうんじゃないんだけど……」

 及川はゆっくりと腰に手をあてて小さく息を吐いた。試合は第一セットの中盤から劣勢だったこと。影山がトスミスを重ねていたこと。そして第一セットの最後に北川第一の選手達はポイントを放棄して第一セットを落としたこと。それに伴って影山がベンチに下げられ、ますます不利となった第二セットも落としてストレートで負けたこと。淡々と及川は見てきた事実だけを話した。

「最悪、だよね……。飛雄の自己中トスも最悪だけど、全国のかかった決勝の相手セットポイントでトス無視とかさ。まさか俺の後輩達が、あんな試合するなんてさ……。コート上の王様なんて、ただの皮肉じゃんって」

 そうして胸につっかえていた気持ちを混ぜると、黙って聞いていたユカは少しだけこちらから視線をそらした。

「私は……試合を観てないし、バレーも詳しくないから何とも言えないけど……。あの影山くんが……なんて、ちょっと信じられない。影山くん以外の部員も知らないし、影山くんがチームでどういう存在だったかも分からないけど」

「飛雄は単に一人で何とかしようとしすぎなだけだよ。あいつ……天才だから勝手に周りを置き去りにしてくんだろうね。金田一たちは、後輩たちは飛雄の進む速さで歩いていけない、だってあいつ天才なんだから。けど、飛雄にはそれが理解できない」

「でも……」

「飛雄の方が金田一たちに合わせなきゃなんないんだよ。そもそもそれがセッターの仕事なんだし。まったくおバカな方向に突っ走っちゃってサ、あんなヤツを脅威に思ってた自分がバカらしくなってくるよまったく」

「及川くん……!」

「けど……! トス無視は、胸が悪い。どんな理由があっても、だよ」

 自分が引退したあとの北川第一のバレー部がどんな雰囲気であったのかは知りようがない。彼らにも色々と深い事情とやらがあるのかもしれない。けれどもソレを表面化させるには、決勝の相手側セットポイントというタイミングは悪すぎた。

 影山が思ったようには脅威の選手に育っていなかった事はむしろ喜ばしいはずだというのに、まったく胸が空くような思いがしないのはそのせいだろう。

「それは……私じゃなくて、影山くんとか、金田一くんたちに言ってあげればいいんじゃないかな……」

 すると、ユカが戸惑いがちに肩を竦めて「う」と及川はリアルに顔を顰めた。

「だって! それって敵に塩送る行為になりそうなんだもん……!」

「いま、敵じゃなくて後輩たちって言ったのに」

「も、元だよ元」

「北一のバレー部ってけっこう青城に入ってくるんだよね? 影山くん、及川くんがいるなら青城に行くとかって言ってたし、他の後輩だって入ってくるならまた同じチームになるのに……」

「と、飛雄が俺の後輩であることと飛雄が俺の敵だってことは俺の中で矛盾なく成立してるからいいの!」

 我ながらむちゃくちゃな事を言っている、と自覚していると案の定目の前のユカも呆れたような表情を晒していて、及川は居心地が悪いままに視線を泳がせて咳払いをした。

 けれども、そうだ。彼らは、もしかしたら影山も、あのまま全員が青葉城西に入ってくる可能性もあるのだ。別にそれは構わない。今日の影山を観れば、自分が現役のうちに正セッターの座を彼に追われることはないと言い切れる。視界に常に居座られることは鬱陶しいが、焦る必要は全くない。

「あいつら、ほんとにウチに来るかな……? 飛雄だって、あんな諍い起こした連中とまた3年も同じチームとかイヤなんじゃないの」

「分からないけど……、ウチには及川くんがいるから、影山くんは来たいんじゃないかな」

 前にそう言ってたし。とユカが繋げて及川は、む、と顔を顰めつつも頬を掻いた。

「ま、飛雄はともかく……。金田一たちが入ってきたら、俺はアイツらもトスを上げるんだから無視なんてふざけた真似はぜったいにさせない。無視したくなるような思いもさせない。あんなイヤな試合だって二度とさせないよ」

 そうして、自分でもハッとするほど「これが言いたかったのだ」という思いが口から出て、及川は自分で驚いて思わずユカの顔を見やった。するとユカは薄く笑って頷き、うわ、と及川は慌てて顔を明後日の方向にあげた。

「ま、まあ……飛雄は凹んじゃってるだろうから、バレー続けられるか分かんないけどね!」

「そんな……、練習熱心な子だったから、きっと大丈夫だよ」

「そうやってユカちゃんはすぐ飛雄の味方するー」

 そうしておどけるようにして不機嫌を気取って頬を膨らませてみれば、ユカは困ったように苦笑いを漏らした。

 飛雄はきっと大丈夫。なんて、アイツがこんな事で凹んで勝手に自滅してくれるようなヤツなら自分は最初から脅威を抱いていない。腹は立つが、どうせ既にケロッとしていつも通り練習でもしていることだろう。分かっていても、ユカがそう言ったことで不思議とどこかホッとした。ああホント、我ながら自分自身が一番厄介、と自身に呆れつつも及川は小さく笑う。

「ありがとユカちゃん。話したらなんかすっきりしたよ、うん」

「そっか、良かった」

「ごめんね、急に、しかも夜に来ちゃってさ」

「ううん。岩泉くんには話しにくい事……だったんだよね? 北一出身で影山くんのこと知ってるの、他は私くらいだもんね」

「え……、あ、うん。そう、だね」

 ──なんか違う気がするけど。まあいっか。いや、良くないけど。と、しばし葛藤するもどうしようもなくて、ハハハ、と及川は肩を落とした。

「じゃあ俺、帰るね」

「うん、気を付けてね」

「ん。じゃ、またね」

 バイバイ、と手を振ってユカが門の内側に入ったのを見届けつつ手を下ろして及川はハッとした。

 やっぱり良くない気がする。と、しばし立ち止まるも明日以降考えよう、と結局はユカの家に背を向けた。と、同時に再びハッとする。

 そうだ。この時期、ユカは決まって東京に行くのだ。自分がベストセッター賞を取ったときだってユカは東京にいたではないか。むしろ今日会えたのはラッキーだったのでは、と焦りつつ携帯を取りだしてメールを送ってみた。夏の予定を聞くためだ。すると案の定、東京に行くという返事が来て及川は痺れをきらしてさっきのいまだというのにユカに電話を入れた。

「あ、もしもしユカちゃん? 東京っていつから行くの?」

「え……、あ、明日の夜からだけど」

「じゃ、明日のお昼はまだいるんだよね? ね、じゃあ明日会える?」

「え……!? え、でも……及川くん、部活は?」

 ──しまった。そうだった。焦ってすっかり失念していた、とあまりのうかつさに勝手に拳が震えてくる。

「ど、どうかしたの? なにか大事な用事……?」

「……ううん何でもない。……じゃ、また新学期だね……」

 おやすみ、と力なく携帯を切って、ハァ、とため息を吐いた。

 別に何を話したいというわけでもないが。でも、なぜ今日は真っ先にユカのところへ向かったのだろう?

 ユカだって自分の嫌いな「天才」の一人で、近づけば傷つく事もあると分かっているのに。

『お前、あいつのこと苦手じゃねえのか……』

 分かってるのに。それ以上にもっと色々な別の感情を得られることの方が多くて、そして自分でもなぜなのかよく分からない。

 何が面倒かって、結局やっぱり自分自身だよな。と一つため息を吐いて、目まぐるしかった今日という日を終えるべく及川は一人暮れきった道を生温い風に吹かれながら自宅へ向けて歩いていった。


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