天才がゲシュタルト崩壊!! by及川   作:こうやあおい

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05話:及川徹の勘違い

『一対一でウシワカに勝てるヤツなんかうちにはいねえよ! けど、バレーはコートに6人だべや!?』

『相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!』

 

 ──あの言葉に、急に視界が晴れた気がした。

 6人で強い方が強い。その言葉はまるで魔法のようで、一瞬にして俄然無敵な気分になった。

 まるで魔法にでもかけられたような気分。あくまで「気分」になった……、そんな些細な引っかかりには気付けず、ただただ視界が晴れて全てが吹っ切れた。

 6人ならばきっと負けない。怪童・ウシワカだろうが天才一年だろうが、だ。そう……天才一年は、あいつは、自分、いや自分たちにとって「敵」。

 それでいいんだ。──と及川は無意識のうちに理解した。

 天才はやっぱりキライだけど。でも、敵は目下あの二人。だから……とちょっとだけユカの姿が過ぎった。

 

 

 季節は5月も中旬が近づいてきた。

 

「及川せんぱーい!」

「及川さーん!」

 

 ユカは校庭にて後輩と思しき女生徒に呼び止められ、笑顔で対応する及川を見かけて少し目を見開いた。

 ここ最近、以前のように及川が笑っている姿を見かけることが多くなった。

 精神的に持ち直したということだろうか。

 なんにせよ、良かったかな。と思いつつもユカにとって及川は「顔見知り」以上の存在ではなく、普段通りの生活をするだけだ。

 ユカにとって、今年度に入ってから少し気になることがあった。昼休みに校庭で一人でバレーの練習をしている一年生と思しき少年のことだ。

 5月も中旬の昼休み、その日もユカは校庭の隅でその少年を見かけた。相も変わらず一人で楽しそうにボール遊びをしている様子だったが、いま現在は及川の機嫌も良さそうだし体育館に行けばいいのにな、との思いから何となくユカは通り過ぎずに渡り廊下からその少年の方を見ていた。

「あ……!」

 そうしてしばし見ていると、ヒュ、と吹いた風のせいでボールが流れたのか少年の手から零れ、ユカの方に転がってきてユカはしゃがんでそのボールを手に取った。

「あざっす!」

 顔をあげると、駆け寄ってきた少年がはにかみながらそう言った。大きくて切れ長の涼しげな目元は、幼さのせいで猫みたいに愛嬌があった。彼のさらさらの黒髪のように瞳まで真っ直ぐに黒い。

 どうぞ、と渡そうとしたユカだったが、少年がふと別方向に視線を奪われているのに気づいてユカは首を捻る。

 視線を追うと、その先には野良猫と思しき小さな猫がいて、ああ、と察してユカは笑った。

「可愛いね」

「……ッス」

 少年は小さく頷き、目をキラキラさせてそっと野良猫に近づいていった。が、しゃがみ込んでゆっくりと手を伸ばそうとしたところで猫の方が怯えたように毛を逆立てて走って逃げてしまい、がっくりと肩を落とした少年がさすがに気の毒でユカも彼の隣にしゃがみ込んだ。

「きっとびっくりしちゃったんだね」

 話しかければ少年は、む、とまるで唇をアヒルのように尖らせた。拗ねたような表情に幼さが混じってなんとも可愛らしいのは新入生だからだろうか。

「俺、嫌われてるんです」

「え……」

「いっつも、逃げられてかわされる……。ぜんぜんわけわかんねえ」

 少年は少しだけ辛そうに眉を寄せて、え、とユカは目を見張った。そんなに猫に逃げられているのが悲しいのだろうか? と思案していると、少年が手を差し出してきたためハッとしてユカはボールを渡し、彼はぺこりと頭をさげて行ってしまった。

 機会があればそのうち岩泉にでも、一年生は昼休みに体育館使用禁止なのか否か訊ねてみようか。などと思いつつユカは美術室に向かった。

 

 美術部の活動というのは基本的には多岐に渡る。

 ユカは一貫してコンクール出品作品の制作に時間をアテていたし、そもそも北川第一の美術部自体がそう活動熱心でないため、多岐に渡る、と言っても実際に実行しているかは甚だ疑問であったが。それでも共同作業は出来うる限り手伝っていた。

 が──。いま現在、一部の部員で少々面倒なことで盛り上がっていて、放課後は部活中に本格的にキャンバスを立てて筆を走らせていたユカは流れてきた会話に少しだけ頬を引きつらせた。

 それは、中総体に臨む運動部の応援ポスターを作ろうというものだった。

 北川第一はそんなにスポーツに秀でた中学校ではない。例外的に男子バレー部が伝統的に強いというのみだ。

 けれどもそんなバレー部ですら、全校生徒体勢で試合会場に応援に駆けつけているかというとそうでもない。が、今年に限っては違うかもしれない。なにせあの及川が主将を務める最後の大会でもあるからだ。だからだろうか? 彼女たちの「応援ポスター」のターゲットは、当然のように男子バレー部のようだ。

 どうも話の内容を聞いていると、彼女たち自身が手持ち無沙汰なのと、純粋にバレー部を応援したいというのと、及川と話してみたいという動機によるものらしい。特に新一年生には及川徹という存在がひどく眩しく映っているようだ。

「ねえ、ユカちゃんどう思う?」

「えッ──!?」

 急に話をふられてユカの腕がしなり、間違って筆を滑らせる所を寸ででこらえてホッと胸を撫で下ろす。

「えー……と、応援ポスターの話、だよね? いいんじゃないかな」

「バレー部の顧問に話通せばいいかなー」

「及川くんに聞いてみたらどうかな」

 たぶん二つ返事するんじゃないか、とまでは言わずに言ってみれば、下級生から黄色い悲鳴があがった。

「話しかけちゃって大丈夫なのかなー」

「だよねー放課後は部活だしー、休み時間とか?」

「えー、緊張するー」

 とはいえ及川の事で女生徒が騒ぐのは今さらでもあるため、ユカはそのまま作業に戻りつつ何となく話は耳に入れていた。

「ユカちゃん、OK出たら描いてくれる?」

「え!? えー……それは、人物画はちょっと……。構図くらいなら……」

「えー、私たちで上手く描けるかなー」

 話を耳に入れつつ、そういえば、とふと気づく。ユカ自身、及川が試合をしている所は一度も見たことがない。

 及川が敵視する牛島もどんな選手か少し気になる。が、たぶん、きっと見ることはないのだろうな。と、その日もギリギリまで居残りを続けて学校を出る頃にはすっかり夜が更けていた。

 今日も体育館は明かりがついている。どうやら今日は及川がラストかな、とユカはそのまま通り過ぎようと思った足を止めた。

 部活中にバレー部の話が出たせいか、少し様子が気になって体育館へと足を向けてみた。

 真冬とは違って開きっぱなしのドアから中を伺えば、相変わらずサーブ練習に明け暮れる及川がいて、ふ、とユカは笑った。

 調子も良さそうだ。一年の頃の彼のサーブはコースアウトの確率も高かったが、いまは格段に決まる率があがっている。

 よくよく見れば、背も伸びたし一年生の頃よりはずいぶんとがっしりしてきた。2年も経ったんだから当然と言えば当然かな。と、懐かしくそのまま見ていると、気配でも伝ってしまったのだろうか? ふいに及川が振り返って、ユカがしまったと思った時には彼は目を見開いて少しだけ後ずさっていた。

「──わっ!? なにやってんの!?」

 しまった。と再度思う。ユカとしてはバツが悪いことこの上ない。

「特に……なにも……」

「じゃあなんでそこにいんのさ!? ていうかユカちゃんいつも無言だよね!? 声かけてよ声!」

 声をかけるほどの事ではない。とか、そもそも練習中に声をかけて邪魔したくない。とか、本当に意味があって来たわけではない。とかぐるぐる考えているうちになぜか及川はツカツカとこちらに歩いてきてユカは目を瞬かせた。

「あの……」

「見たいなら堂々と中入って見ていきなよ。ユカちゃんって好きなんだよね? 俺のサーブ」

「え……!?」

「だっていつも見てるし、俺のこと」

「え……、え……!?」

 もしかして自分は毎日のようにここに来ていたと思われているのだろうか? とんだ誤解をされている。どうしよう、と答えあぐねて困惑するも、彼はなぜか機嫌良さそうに笑っている。怒っているわけでも咎めているわけでもなさそうだ。その反応に多少ホッとしたしたせいか、ユカはつい今しがた考えていたことを口にしてしまった。

「あ……でも、及川くん、すっごく上達したよね。一年生の頃のサーブより、今のほうがずっと素敵」

 ──しまった、と思ったときには及川はどこか試すように笑っていた。

「ほらね、やっぱ好きなんじゃん」

 けらけらと笑う彼は、やはり普段女生徒に向けているような愛想のいい笑顔とは違っていたが、ユカは少々面食らった。彼は気分屋の気があるのだろうか? 今までの事を思い出しても、自分は及川には突っかかられた経験の方が遙かに多い。これほど機嫌良く向こうから話しかけてきたのは初めてのことだ。

「ん、どうかした?」

「あ……その。私、なんか及川くんには嫌われちゃってるのかな、って思ってたから」

 むしろ嫌われるほど接点もないと言った方が正しかったが。言えば、及川はキョトンとしたような表情を晒した。

「天才は嫌いだけどね」

「え……?」

「だってムカつくじゃん。天才とかって」

 さも当然のように言われ、さすがにユカは唇を結んだ。「天才」とやらが誰のことかは知らなかったが、及川はその言葉をたびたび自分に向けていた。つまり、その括りに、少なくとも及川の中では自分も入っているということだ。

「そっか……。なんかゴメンね、邪魔しちゃって」

「え……?」

「もう二度と放課後にここに来ないし、及川くんにも話しかけないから、安心して」

 及川徹がどういう人間か理解できるほど深い付き合いはない。けれどもこれ以上は彼と関わらない方がいい気がしてくるりと背を向ければ、なぜか背後からは焦ったような声が漏れてきた。

「え、ちょ、ちょっと待ってよ。なんでそんな話になんのさ!?」

「だって、及川くんがいま──」

「天才は嫌いって言ったけど、ユカちゃんが嫌いだとは言ってない!」

「は……?」

 さすがにユカは訳が分からず顔を歪めた。

「色々なんか吹っ切れたっていうか! そりゃ、天才はいまもヤだけど、それとこれとはまた別で……。そうだ、俺もうあがるし一緒に帰ろ?」

 及川の言い分は全く解せなかったが、ユカは何となく悟った。及川は、きっとたぶんかなりややこしく面倒な性格をしているのだろう、と。ユカ自身、やや面倒に感じてやはりこれ以上関わらないうちに帰ろう、とそっと半歩後退した所で、体育館には及川とは違う声が響いた。

「及川さん!」

 瞬間、及川の頬がピクッ、としなったのがユカの目にはっきりと映った。が、一瞬だけ浮かべた嫌そうな顔が嘘だったかのように、及川は普段にコート外で見せているような機械的な笑みを浮かべた。

「なに、トビオちゃん。まだ残ってたの?」

 振り返った及川の目線をユカも追うと、視界にいつも校庭の隅で練習をしている例の少年が映って、あ、と目を見開いた。

「はい。今日は宿題がいっぱい出てて、さっきまで金田一たちとやってました」

「そ。で、なんで金田一たちと帰んなかったの」

「練習しようと思って、あの、及川さん。サーブ教えてください!」

 ほわ、とユカは思わず及川が「トビオちゃん」と呼んだ少年に目を奪われた。まるで全身で及川に憧れていると訴えているかのようだ。普段、女生徒に囲まれる及川しか見ていなかったが、よくよく考えれば及川は主将で優秀な選手らしいし、後輩から慕われているのも当然だろう。

 が、及川は軽い調子で少年にこう言い放った。

「んー、悪いんだけど及川さん今日はもう上がるんだよね。行こ、ユカちゃん」

「え……!?」

 笑みを崩さないまま及川がこちらを向き直り、いきなり話をふられたユカは面食らった。見やると少年は猫に逃げられた時のように、む、と唇を尖らせている。

「え、と……。わ、私は一人で帰るから……あの子に付き合ってあげたら? せっかくああ言ってるんだし……」

「なに言ってんの。そもそももう下校時刻でしょ」

「え……でも及川くん、もうちょと遅くまで残ってることけっこうあるのに」

「それはそれ! だいたい飛雄だってさっさと帰さなきゃ飛雄のお母ちゃん心配するよ!? 俺、主将だし監督責任が──」

「あ、俺、そこは平気です」

「お前は黙ってな」

 ユカは一連の会話を聞きつつ脳裏に疑問符を抱いた。及川はあの少年と練習をしたくないのだろうか? とはいえ、一年生をはやく下校させた方がいいというのは確かにもっともであるし。と過ぎらせつつユカは思った。一つ確実な事は、バレー部の事情にあまり巻き込まれたくない、という事だ。

「と、とにかく……私は先に帰るね。その子と一緒に帰ってあげて」

「え、ちょっ──」

 じゃあまたね、と取りあえず笑みを浮かべて告げ、くるりと体育館に背を向けて足早にその場を去った。

 むろんその後、及川とあの少年がどうしたかなどユカは知るよしもなく──。ただ、素直に微笑ましいと思った。あの少年もそうだが、ああやって慕われている及川を、だ。

 思えば、後輩にしろ同級生にしろ「教えて欲しい」なんて聞かれた覚えは一度もない。

 用事ならよく頼まれるが。──と、それから数日後。どうやらバレー部の顧問及び及川に応援ポスターの承諾を得てきたらしい部員たちを前にしてユカは頬を引きつらせた。

「どんなの描けばいいかなー?」

「好きなように描いていいんじゃないかな……」

「えー、でも校内にもたくさん貼るんだし、配ったりもするし、かっこよくしたいよー!」

「そもそも、私、バレー部あんまり知らないし……」

 暗に、図案から何から描いて欲しいと言われてユカは少し肩を竦めた。実際、バレー部のレギュラーで知っている人間はせいぜい岩泉と及川だ。それにしたって岩泉がバレーをしている姿は見たこともないし、及川がサーブ練習している後ろ姿くらいしか脳内には情報がない。

「ダイジョウブ! 昨日、みんなで練習見学に行ってきてさー、ほらコレ!」

 言いながら部員の一人がメモやら撮ってきたと思しき写真やらを見せてくれた。ユカ自身、昨日はサッカー部のスケッチに赴いていて部活の時間は美術室にいなかったため、そんなことになっていたとは知るよしもない。

 目を瞬かせつつレギュラーのルックス等々の説明を受けて、やれ及川がどれだけ格好良かったかを説明してくれる声を聞いてユカは肩を落とした。

「この前も言ったけど……。私、人物画って好きじゃなくて。構図考えるだけでいいかな?」

「えー、そんなに上手いのにー?」

「スケッチはするし、もちろん描けるけど……。せっかくみんなで作るんだから、私が描いたら意味がない気もするし……」

 少し苦笑いを混ぜつつ、ユカは考えた。彼女らの目的は及川と話すことと、純粋にバレー部の応援、ということで。作業そのものにはあまり重点を置いていないのかもしれない。もしかしたら技術的な不安もあるのだろう。

 んー、と悩みつつ、ちらりと部員の方を見やる。

「選手の顔とかって描かなくてもいいんじゃないかな? 例えば、影絵みたいな感じで……」

 バレーボールは6人制。守備専門のリベロというポジションを入れるとレギュラーメンバーは7人らしいが、ユカは取りあえず分かりやすく6人をそれぞれ配置して背格好の個性を出しつつポーズの指定と色指定、背景案などを描き込んで部員らに手渡した。

「あ、いいかもー!」

「うん、これなら私たちでも描けるかも!」

「ユカちゃん、あとで修正してくれる?」

「うん、もちろん」

 取りあえず提案を気に入ってもらえたようでホッと息を吐きつつ、お互いそれぞれの作業に戻る。

 

 それから数日間、美術部の大多数はバレー部の練習見学に行った。むろん、バレー部の顧問を始め及川も承諾していることである。

 及川にとっては誰に練習を見学されようが些末な問題だった。部の活動であれファン活動であれ常に誰か、特に女の子に見られるのは慣れているし、何の問題もない。問題があるとしたら──。と、アップも終えてサーブ練習も終えて一息ついているところにさっそく近づいてきた気配を感じ取って、歪みそうになる顔に無理やりに笑みを浮かべて構えた。

「及川さん! サーブトスのコツを──」

「え、なに? 及川さんの好物はなにかって?」

「いえ、あの──」

「せっかくだから教えてあげよう。牛乳パン! けっこう意外って言われるんだよねー」

 振り返ってピースサインを決めれば、話しかけてきた人物──影山は、さすがにイラッとしたように顔を強ばらせた。

「そうですか、分かりました。俺の好物はポークカレーです。温卵つきだともっと嬉しいです」

「そっか。別に聞いてないけどね」

「じゃああの、サーブトスのコツを──」

「いやだね、ばーかばーか! しつこいんだよ飛雄は!」

 なんで将来の敵を自ら鍛えなきゃなんないのさ。と大人げなくベロを出したところで岩泉が後ろから声を投げてきた。

「及川、一年に絡むんじゃねえ」

 最初に絡んできたのはあっちなのだが。との反論はさすがにやめて、及川はプイッと影山に背を向けた。

 なぜこう毎回毎回、懲りずに聞きに来るのだろう? 影山だって主将相手に毎回玉砕するのは心理的に負担ではないのだろうか? それとも、天才はそんな部分すら鈍感なのか。と、及川はため息をひとつ吐いた。

 ──同じポジションの後輩。普通なら自分が直接指導しなければならない人間、なのは分かっているが監督からも別に指示されていないし。自分は夏でここを去る人間だし。何より今の自分は影山を気にしている暇などないのだ。影山の天性の才能に敵わないと思うからこそ、せめて軽くあしらうくらいしか平静を保つ道がない。これしかバランスを取る方法がないのだと思う。岩泉も言っていたではないか。6人ならば天才一年にも負けない、と。いずれ彼と戦うことがあれば、きっちり6人で叩き潰してやる。と思い巡らせて及川は、ふ、と息を吐いた。さすがにそれはまだ先のことだ。が、もう既に自分の中で影山は「後輩」ではなくはっきりと「敵」のポジションにいる。

 と、理解する頭に少し矛盾が混ざるのも及川は気づいていた。「及川さん」と自分を呼ぶ影山が、どんな表情をしているか──なんて。ずっとずっと自分の背中ばかり見ていて、その視線が痛くて鬱陶しくてたまらない。今すぐ視界から姿を消してくれて、二度と自分を見据えるあの視線を感じないで済めばきっと心底安堵するはずだ。なのに、実際にそうなったときに酷く自分は動揺するような気がして、及川はその矛盾をあえて無意識のうちに心の奥の奥へと押しやっていた。

 ともかく、どのみちいまは後輩にあまり構っている暇はない。中総体の宮城県大会まであと二ヶ月。勝ち上がって行かなければ、全国には進めない。

 そのままスパイク練習のためのトス上げに入って一段落ついた所で休憩に入り、ドリンクを手にとって、ふぅ、と息を吐いた。

 何となく目線を上にあげれば、二階のギャラリーにいる美術部員が目に入って「あれ?」と及川は自分と同様にドリンクを取りに来た岩泉の方を見やった。

「ユカちゃん、来てないね」

「あ……? ああ、美術部の話か」

 岩泉もぐるりとギャラリーを見渡してから腰に手を当て、こちらに視線を流してくる。

「良かったじゃねえか」

「え……?」

「お前、アイツのこと苦手なんだろ?」

「え? 何ソレ。別にそんなことないけど?」

 いきなり何を言うんだ、と言えば岩泉は驚いたように目を丸めたあと、解せない、というような表情を晒した。──なんだろう、先日のユカといいこの反応。もしかして岩泉がユカに自分がユカを嫌っているとでも伝えたのだろうか? いや、まさか。

 あ。でも。そういえば、と思い返す。ユカの名前を覚えたきっかけは、やたら校内の授賞式等で名前を挙げられ表彰されているからであった。かなりの難易度の賞を幼少時からバンバン取っていたらしく、その才能を讃えるような場面も何度も目にした。──ああ、嫌だな、天才って。と、時おり彼女と白鳥沢の牛島がダブってみえて。

 でも、その「才能」とやらに興味があったのも事実で。我ながらめんどくさいな、と及川は小さく唸った。おかげで愛想良く笑顔で対応なんてできずに過ごして、もはや今さらどうにも修正できなくて、でも、なんとなくそれでいい気がして。

 彼女がバレー選手だったら、ぜったい仲良くはできなかっただろうな。と、及川は自分の感情がいくつもの矛盾で形取られているのを感じ取った。まるで、影山に向かうそれと同じように。

 しかし沈思している暇などあるはずもなく、自ら休憩終了を宣言してコートへと戻る。

 そうして今日も居残り練習をいつも通りこなすわけだが。──なぜ帰らないのだろうか。と背中に視線を感じて及川は小さく舌打ちをした。

「トビオちゃーん、練習しないならもう帰りな?」

 しばし我慢していたが耐えかねて、努めて笑顔で視線の主の方を向けば、その主・影山は、むぅ、と唇を尖らせた。

「見てるだけです」

「帰れ、気が散る」

「じゃあ──」

「教えないよ、いま忙しいし」

 言い捨てて、及川はボール籠から新たなボールを手に取った。──ああ嫌だ、と思う。サーブはおろか、隙があれば影山はこちらの一挙手一投足を盗むようにして見ている。レシーブ、スパイク、ブロック、影山の方が勝っているだろうトスでさえ。全てだ。

 きっと彼はその有り余る才能で、教えずともいずれ自分の技などコピーしてしまうだろう。冗談じゃない、と投げ上げたボールを気持ちのままに叩き打った。小さく影山が「すげぇ」と呟いた声が伝った。

 自分はセッターだが、サーブは自分の持つ最高にして最大の武器だ。まだ遊び程度でバレーボールに触っていた頃、テレビでジャンプサーブが決まった場面を見て強烈に憧れた。なんてカッコイイんだろう。自分もあれをやりたい。そう思った日から毎日毎日見よう見まねで練習を続けた。

 そうして何年も何年もかけて磨き上げてきたのだ。急に現れた天才に、血の滲むような努力をして得たものを奪われたくはない。

 ──遠いあの日に覚えた「憧れ」。カッコ良くて自分もできるようになりたいと純粋に思った気持ち。影山がかつての自分と同じ目で自分を見ているなんて、考えなくても分かっている。けれども、彼はきっと自分の何倍もの早さであっという間に自分を越えていくだろう。自分は所詮、天才の踏み台になる程度でしかないのなら、彼の養分になどなりたくない。

 ああ、嫌だ。飛雄がいるだけで、こうも簡単に心が乱されてしまう。笑わないと。得意技じゃないか。笑って、いつものようにあしらえばいい。

 祈るように思いながら、ひたすら及川は気持ちをボールにぶつけた。

 そうして続けているうちにいつの間にかボール籠の中が空になっており、荒い息を吐きながら呼吸を整える。

「飛雄……?」

 そういえば、とふと気づいた。影山の気配を感じない。帰ったのだろうか? と視線を巡らせると、彼は教えを請うことを諦めたのか「練習しないなら帰れ」という言葉を正面から受け取ったのか、隣のコートに入ってトスの練習をしていた。

 どうやら狙った位置にトスでボールを落とすという遊びなのか練習なのかよく分からない練習をしているようで、床に無造作に並べられたバレーボールを器用にバレーボールで弾いていく様が目に映って、つ、と及川は息を呑んだ。

 まるで精巧な機械だ。どうやったらあんなトスをあげられるのだろう? 目を見張る頬に汗が幾重にも伝っていく。

「飛雄……お前、やっぱ天才だよ……」

 口元が歪んだのが分かった。──あの手を欲しいと願うことは、そんなに間違っているのだろうか?

 掻き消すように、岩泉に言われた言葉を思い浮かべた。

『相手がウシワカだろうが天才一年だろうが、6人で強い方が強いんだろうが、このボゲが!!』

 そうだ。仮にこの先の未来に彼に追い抜かれたとしても、それはイコールチームの負けを意味するわけじゃない。

 6人で強い方が強い。そう思えば何でも出来るような気がして不思議と落ち着いた。大丈夫だ。笑うのは得意技。いつものように笑えばいい。そうして今は、中総体予選を勝ち抜くことだけを考えていればいいのだ。

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