わたしから、私へ
最後に見たのは、ハードカバーの本が無数に降ってくる光景だった。
本があるだけで満たされていた人生。
本に殺されて終わることになろうとは。
何よりも本が好きな女子大生・
二十二歳。
念願だった司書採用が決まった矢先のこと。
死の寸前、彼女は強く願った。
――神様、わたしを生まれ変わらせてください。
神が聞き届けたかは定かではないが、願いは叶った。
◇ ◇ ◇
鳥の囀りが聞こえてくる。
瞼に感じるのは太陽の光だ。
気がつくと、わたしはふかふかのベッドで横になっていた。
――あれ? わたし、死んだはずじゃ……?
ぼんやりとした寝起きの頭で思い返す。
揺れる世界。
自宅の書庫で本を読んでいたわたしは次々降ってくる本に頭を叩かれ、埋められ、空になった本棚が倒れてきたのが駄目押しになって死んだはず。
「じゃあ、これはどういうこと……?」
呟きながら身を起こす。
唇から漏れた声は高く、透き通るように綺麗だった。
わたしの声じゃないみたい。
思っていると、揺れた髪が一房頬を撫でた。
白い長髪。
細くしなやかで、光の加減によっては銀髪にも見えそう。綺麗だけど、
染めた記憶はもちろんない。
慌てて見下ろした身体は子供のように小さかった。手足は細く、肌は白い。わたしの子供の頃とも全然違う。
こうなると、思いだすのは死に際に願ったこと。
「……もしかして、ほんとうに?」
と。
ドアがコンコンとノックされる音。
ベッドから少し離れた入り口の方からだ。わたしがいるのは西洋のお屋敷にありそうな広い部屋。もちろんこれも見覚えはない。
――ないはずなのに、不思議と既視感を覚えるのは何故だろう?
疑問に気を取られたわたしはノックをスルーしてしまう。
そもそもなんと答えるのが正解なのか。
思っているうちにドアが開いて、一人のメイドが入ってきた。
「失礼いたします」
ブラウンの髪と目。
目立つ容姿ではないけれど、明らかに日本人とは違う西洋風の顔立ちの女性。
――彼女はアスカルト家に仕えているメイドで、主にわたしと兄の世話を担当している人だ。
待って。
アスカルト家ってなに? 兄って誰のこと?
ザッピングしてきた知識に動揺するわたしをよそに、メイドはにこりと微笑んで、
「おはようございます、
途端、すとんと腑に落ちた。
記憶が急速に蘇る。
いや、ずっとそこにあったものに今気づいた、と言った方がいいかもしれない。
二つが重なったことで、わたしは、いいえ、
私は、ソフィア・アスカルト。
父は宰相を務めるアスカルト伯爵。
家族は両親、それから一歳年上の兄が一人。
両親譲りの美形であるものの、突然変異によって髪は白、瞳は赤く生まれついた。とても珍しい容姿は羨望ではなく恐怖と侮蔑の対象となっており、「呪われた子」などと呼ばれている。
幸い、家族は深い愛情を注いでくれているが、どこかに出かけるたび、両親に来客があるたびに陰口を叩かれる日々。
蓄積していくストレスはソフィアの心を蝕み、やがてある想いを抱かせた。
逃げだしたい。
悪口を言われるのはもうたくさんだ。
誰かにこの生活を代わって欲しい。
想いが爆発したのは、屋敷に来客があった日の夜。いつにも増して辛い言葉を投げかけられたソフィアは、メイドに気づかれないよう、枕に顔を埋めて泣きはらした。
喉がからからになるまで泣き、気絶するように眠りについた彼女は咳を出して苦しみ――その中で不意に、前世の記憶を思い出した。
地味な黒髪黒目で、社交の煩わしさのない平民の娘。
本須麗乃の生活は、
――
願いは叶えられた。
本須麗乃の記憶が私の心に変化をもたらした。
入れ替わったわけではない。
ソフィアが麗乃を参考にイメージチェンジした、という表現がおそらく正しい。麗乃の意識が強かったのは目覚めてすぐの短い間だけで、記憶が馴染んでからは仕草も言葉遣いも礼儀作法も、ソフィアのものが自然に出てくる。
だから、そう。
「私は、ソフィア・アスカルト」
朝食から自室に戻り、一人呟く。
本当に
あのまま一人で苦しみ続けたら。
人生を変えるような出会いでも無ければ、自殺を考えていたかもしれない。
「少し、思い詰めすぎだったのですね」
今ならばわかる。
悪口を言われる程度、大したことじゃない。多かれ少なかれ誰にでもあることだ。本須麗乃だって「変人」だの「妖怪本スキー」だのと呼ばれたり、全く身に覚えがないのに恋愛関係のトラブルに巻き込まれたりした。
私には優しい家族がいる。
朝食もとても美味しくてお腹いっぱい食べられた。
部屋に戻る際に寄ったお手洗いも綺麗だったし、鏡に映った私は麗乃基準で見れば白髪赤目の美少女だ。アルビノかと思えば身長が低いのと多少病弱なくらいで十分に健康。日中散歩するくらいは全く問題ない。
部屋だって広くて整っている。
勉強用の机にベッド、その他に休憩のためのテーブルと椅子があり、戸棚にはティーセット等々が用意されている。
お茶が飲みたければメイドが淹れてくれるし、着替えだって手伝ってもらえる。
そして、なんといっても、
「本棚!」
部屋には自分用の本棚があった。
本好きが魂レベルで遺伝したのか、私の趣味も麗乃と同じだ。
子供向けの物語が中心だが、語学や数学、博物学の本などもある。もちろん、多くは一度読んだ本だが、今ならもう一度新鮮な気分で読めるだろう。
世を儚む必要なんてどこにもない。
私は笑顔を浮かべて嫌な気持ちを追い出すと、本棚から本を取り出しにかかった。
大人用の本棚なので、足場用の椅子が用意してある。それに乗って背伸びをするとようやく一番上段の本を引き出すことができる。
革の装丁がされた植物紙の本。
文字が手書きなので活版印刷の技術はないのだろうが、製紙技術は進んでいるらしい。子供部屋にこれだけの本が普及していることと、アスカルト家が裕福なことの証明だ。
「ああ、幸せ」
取り出した本を抱きかかえて机に運ぶ。
そんな時、部屋のドアがノックされて、廊下から幼い少年の声が聞こえてきた。
◇ ◇ ◇
「ソフィア。いるかい?」
「はい、お兄様。ただいま参ります」
アスカルト家の長男ニコルには妹がある。
一歳年下の妹・ソフィアは彼にとってかけがえのない大切な存在だ。ソフィアを守るのは自分の役目だと思っていたし、そうできることに幸せさえ感じている。
だから、メイドから「今朝のソフィア様は顔色が優れなかった」と聞いてすぐさま部屋に向かった。
昨日は来客があったから、また何か言われたのではと心配していたのだ。
極力妹の傍を離れないようにしてはいるが、貴族は子供でも周到だ。ニコルに何度も茶を勧めてトイレに立たせたり、世間話を延々と続けたり、陰湿な手で注意を逸らしてまで妹に嫌がらせを仕掛けてくる。
――思い詰めすぎて体調を崩したら。
そう思っていたのだが、部屋のドアから顔を出したソフィアは晴れやかな顔をしていた。
「お兄様? どうされました?」
「いや。顔色が良くないと聞いたから」
「そうでしたの」
ソフィアの口元に小さな笑みが浮かぶ。
ニコルは妹の笑顔が好きだった。花壇の隅に咲いている小さな花のような控えめな微笑みだが、だからこそ、自分だけの宝物を見つけたような幸せな気持ちになる。
けれど、妹が笑顔を見せてくれることは少ない。
だから、嬉しかった。
抱いている本が早く読みたいのかそわそわと視線を送っているあたり、昨日のことを気にしているようには見えない。どうやら大丈夫そうだ。
「ありがとうございます、お兄様」
と、まるでそんな内心を見透かしたかのように、ソフィアが言葉を付け加える。
「私は大丈夫です。お父様もお母様も、お兄様もいますし……それに、本の世界はどこまでも、ずっとずっと広がっているのですから」
「……ソフィア」
にこり。
もう一度微笑んだ妹の表情は、いつもより大人びて見えた。
――妹は変わったのかもしれない。
ニコルはそう思った。
そして、その想いは日に日に強くなり、やがて確信に変わっていくことになる。
妹が自分の手を離れるのは複雑だが、笑顔が多く見られるようになるのは、ニコルにとっても決して悪いことではない。
ふっと笑って告げる。
「本を読むところだったんだろう?」
「あ、はい。ですが、ご用があるのでしたら……」
「いや。もう用は済んだ。それより、一緒に読書をしてもいいかい?」
「あっ……はいっ」
ぱっと表情を輝かせて、ソフィアが頷いた。
それからメイドが昼食の報せを持ってくるまで、妹と一緒に読書をした。
といっても、ニコルは本よりも妹の横顔の方を眺めている方が楽しかったのだが。
五分に一回くらいちらちら見ても、ソフィアが気づくことは全くなかった。彼女は目をきらきらさせながらいつまでも、いつまでもページをめくっていた。
思えばこの日からだった。
妹が今まで以上の集中力を発揮するようになり、メイドをぼやかせるようになったのは。
「最近、ソフィア様がなかなか読書を中断してくださらなくて……」
メイドを困らせるのは考え物かもしれないが、ただまあそれくらい、ソフィアが笑顔でいてくれるなら安いものだ。
そう思ったニコルは、自分からは注意をしなかった。
※補足※
頭打ったカタリナは野猿と化しましたが、ソフィアは性格が呑気になった程度でそこまで変わっていません。
これは『本好き』側の原作設定に倣ったためです。
(マインの性格は元のマインの影響が強い→本作では転生先がソフィアなので性格はあくまでソフィアベース)
マインの前世の麗乃自身、無頓着ではあっても猪突猛進ではなかったようなので、そちらが強く出てもそこまで性格は変わらないのですが。