「図書館とは別に図書室があるなんて……盲点でした」
夏のお休みを終え、学園に戻ってきてしばらくが過ぎた頃のこと。
私はシリウス会長に教えていただいた「東棟の図書室」へと向かっていた。学園が拡大され、図書館が作られた結果、あまり利用する人のいなくなった古い図書室。そこにはマニアックすぎると判断された本や、教員の方がなるべく近くに置いておきたいと判断した本、卒業生が置いていった本などが収められているという。
中には図書館ではお目にかかれない本もあるということで、私としては目から鱗が落ちる思いだった。
「一体どんな本に出会えるのでしょう……?」
うきうきしながら廊下を歩き、件の図書室の扉を開くと――中には埃っぽい空気の中に、一定の湿気を吸い込んだ本の匂いが充満していた。
「ああ……っ」
埃っぽさは余計ではあるが、本のたくさんある部屋特有の空気は大好きだ。
危ない薬を服用したようにトリップしつつ、私は扉を閉じて奥へと進んだ。
メイド達には居場所を伝えてあるので、適当な時間になったら呼びに来てくれるはず。
それまではこの部屋で思う存分、時間の許す限り読書ができる。
「ここは天国でしょうか……」
図書館には遠く及ばない規模ではあるものの、この図書室にもかなりの蔵書があることがわかる。
一応、窓を開けて換気をした後、本棚の端からタイトルを眺めていく。
そうしていると――ある時、何かがきらりと輝いた気がした。
「? この本……?」
輝いたのは一冊の本だった。
タイトルは『欲望という名の物語』。
物語とあるからには読み物なのだろう。欲張ったせいで破滅した者を描いた寓話? それとも、強欲な主人公が己の欲望を叶えていく物語だろうか。
首を傾げた後、私はその本をそっと引き出した。
「きっと、これも何かの縁でしょう」
図書室自体が古いはずなのに、その本はまるで最近作られたように真新しかった。
保存状態が良かったのか、それとも最近の卒業生が置いていったのか。
最近の本だとすると私や図書館の司書さんのアンテナに引っかかっていてもいい気がするのだが……。
「読めばわかりますね」
定期的に掃除はされているのか、テーブルと椅子は綺麗だったので、腰を落ち着けてから本を開く。
直後。
視界を眩い光が覆い尽くしたかと思うと、私は光にかき消されるように意識を失ってしまった。
◇ ◇ ◇
気がつくと、そこは図書館だった。
否。
図書館といっても、学園の付属図書館ではない。
あの有名な王立図書館だろうかとも思ったが、おそらく違うだろう。だって、この図書館には「果てがない」ように思える。
左右には背の高い本棚があり、びっしりと本が並んでいる。
前後に見えるのも本、本、そして本。
天井は見えるが壁は見当たらず、窓の類もない。にもかかわらず、辺りには静謐な空気が満ちている。
少なくとも、さっきまでいた図書室でないことだけは間違いなかった。
「……あの本の中に吸い込まれた、ということでしょうか」
事実から推測するとそういうことになる。
前世の世界であればそんなこと「ファンタジーやメルヘンでもあるまいし」で一笑に伏すところだが、この世界には魔法が存在する。
どんな不思議な出来事が起こったとしてもおかしくはない。
「欲望という名の物語」
あの本のタイトルはそうなっていた。
どうやら、「物語」の主人公は私自身であるらしい。きっと、読んだ者の望む光景を描き出す魔法の本――あるいは呪いの本だったのだろう。
だとすると、私はこの「本の世界」に囚われてしまったことになるが、
「……ああ」
呟きが図書館に木霊する。
「一冊の本が、こんなにたくさんの本に変わるなんて!」
最高だ。
本の目的が私の欲望を叶えることである以上、私は本を読むしかない。だって、私の願いが「本を読みたい」以外にあるはずがないのだから。
「仕方ありませんね。……ここから出る方法を探すためにも、知識を得ることは無駄ではありませんし」
手がかりがない以上は向こうの思惑に乗るしかない。
誰もいない世界で虚空に言い訳をしつつ、手近な本棚から本を抜きだした。
ソフィア・アスカルトとしては椅子に腰かけずに読書をする、などということはついぞなかったが、前世ではそんなことは日常茶飯事だった。
幸い床には柔らかな絨毯が敷かれていて、お尻が痛くなることもなさそうなので、私はドレスの裾を手で撫でつけるとその場に座り込んだ。
◇ ◇ ◇
それからどのくらいの時間が経っただろう。
陽光が射しこまず、時計もないこの世界では時間の感覚は曖昧だった。
どれだけ本を読み続けてもお腹が空くこともなかったので、私はただひたすらに本を読み続けた。一冊読み終われば次の本を引き出し、それも終わればまた次の本を。
ここの本棚に収められている本は、どれも「欲に囚われた者の生涯」を描いたものだった。
生まれた時、あるいは幼少期から始まり、欲しいものを手に入れたいと焦がれる期間を経て、実際に手に入れた絶頂の時間へと至る。
どの物語も「そして彼(あるいは彼女)は幸せに暮らしました」で終わる物語だ。
下級の貴族に生まれ、富と名声を求め続けた少年。
恋人を上級貴族に奪われるも、あの手この手で奪い返して幸せになった少女。
使用人達に摂取を制限された甘味を思う存分食べることを望んだ少女。
もしかするとそれらは『欲望という名の物語』が虜にしてきた犠牲者たちの物語だったのかもしれない。
あまりにもリアルで、あまりにも詳細で、だからこそ目が離せず、私は次から次へと「続き」を求めた。
――もっと、もっと。
犠牲者になった人々は可哀想だと思う。
だが、だからこそ、せめて私くらいは彼らの生涯を知り、記憶しなければ。
だから、もっと、もっと、もっと。
「……あれ?」
そうしてある時、私はふっと現実に引き戻された。
「白紙……」
わくわくしながら手に取り、開いた本が白紙だったのだ。
二ページ目、三ページ目をめくってみても同じ。
指が走るに任せて最後のページまで確認した私は、喪失感と落胆、若干の憤りを胸に呟いた。
「どうして」
どうして続きがないんだろう。
この世界は私の望みを叶えてくれるはずなのに。本棚にはまだまだたくさん、いくらでも本が残っているのに、何故、物語が枯渇してしまったのか。
おかしい、これでは話が違う。
思った途端、まるで急き立てられるように、膝の上に載っている白紙の本に、文字が浮かび上がった。
――なんだ、あるじゃないか。
私は上機嫌になって、最初からページをめくり始める。
今度の物語はこれまでのものとは違っていた。
竜退治の冒険譚だったり、悲恋の物語だったり、明確な主人公のいない群像劇だったり。
まるで即興で書かれているように先の読めない展開に心躍らせながら、私は次から次へと「次の物語」を求めて――。
「え……?」
ある時。
ふと顔を上げると、
まるで、自分の負けだとでも言うかのように。
消滅していく本の数々を見つめて、私はいつになく大きな声を出した。
「ひどいです……! まだ読んでいない本がたくさんあるのに……!」
◇ ◇ ◇
気がつくと、私はあの図書室の床に倒れていた。
学園での世話役として連れてきた二人のメイド、それからカタリナ様やメアリ様、マリアさん、更にはジオルド様達までが私の顔を覗き込んでいて、私が目を覚ましたのを見ると、ほっと息を吐いた。
「あの、私は一体……?」
「夕食の時間をお伝えしに図書室へ来たところ、ソフィア様の姿がなく、本だけが落ちていたのです」
「あの本は古の魔法の本だそうでして……ソフィア様は本に囚われたのではないかと」
私が本をほっぽりだしてどこかに行くわけがない、ならば、本に囚われたに違いない、と大騒ぎになったらしい。
「ソフィアー! 良かったー! 心配したのよ!?」
「本当ですわ。……本が好きなのは結構ですけれど、程々にしてくださいませ」
「良かったです。ソフィア様。夕食の時間は終わってしまいましたので、せめて私の作ったお菓子をお召し上がりください」
みんなが優しく言ってくれるのを見て、聞いて、感じて、私はふっと微笑んだ。
「申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけして」
安堵からか、和やかな雰囲気に包まれた図書室の中で、ひっそりと『欲望という名の物語』がぼろぼろと崩れ去っていった。