元医者のアラサー女が銀魂世界にトリップして、元の世界に帰るまでの話 作:匿名希望くん
いつもの昼下がりのことだった。
晴天。
8月の太陽光が、冷房で冷えきった肌をじんわりと焦がす。
しまった。
日焼け止めを塗るのを忘れたな。
1日の大半を室内で過ごしていると、どうにも季節を忘れがちだ。
なるべく紫外線を浴びないように顔をふせ、長年愛用している少々くたびれた長財布を片手に高層マンションが入り混じるオフィス街を足早に抜ける。
以前から目をつけていた定食屋は、職場から約徒歩10分のところにあり、お昼休みの間に訪れるには少々距離があった。
そのため、お昼始まりのチャイムと共に長財布をひっ掴み、エレベーターを待つ時間も惜しんで階段を駆け下り、恥ずかしくない程度の早歩きでサラリーマン達を追い越して急いでいるのである。
アラサーにあるまじき安月給のせいであまり贅沢はできない。
普段は弁当を用意して社員食堂で食べるのが日課だ。
しかし、今朝は寝坊してしまい、そんな余裕はなかった。
どうせランチ代がかかるならと、久々に贅沢な食事で疲れた心身を癒そうと考えたのである。
肩凝り。
頭痛。
主に寝不足。
私は疲れていた。
なぜか最近よく見る不思議な夢のせいで、碌に寝た気がしない。
只でさえ短い睡眠時間の中、ギリギリの休息で生きてきたのだ。
若い頃と違って寝不足がモロに体調に直結してくる。
肉だ。
これはもう贅沢に肉を食して、元気を取り戻すしかない。
完全に寝不足の目をシパシパさせて、片道1時間ちょっとの通勤電車に揺られながら、今日はもう肉しかないと決めていた。
私の腹は、朝からすっかりステーキ腹になっていたのである。
毎日12時間程度仕事に拘束されていると、自然と息抜きは限られ、食に収束していくのは仕方ないことだと思う。
だからこそ、ランチ限定10食1500円の和牛ステーキ定食を逃すわけにはいかないのだ。
決意を新たに、パンプスのヒールで刻むリズムをもう少し早めようと意気込んだ時だった。
突然、爆音といえる高音が鼓膜をぶん殴った。
反射的に両耳を手の平で抑えるが、脳をつんざく音は少しも手を緩めない。
「くっ……」
モスキート音。
たしか猫除けでよく使われる音に似ている。
ただし音量はそれの比ではない。
まだモスキート音が聞こえる年齢だと喜ぶべきだろうか。
音の矢が脳を貫き、肌は一斉に泡立ち、視界にチカチカと青い光が瞬く。
私は堪らずギュッと目を瞑り、その場に座り込んだ。
なんだこれは。耳鳴りってレベルじゃない。
両耳からスライディングで滑り込んだ毒は、脳を侵し、視神経を侵し、血液を介して全身に巡る。
先程から必死に耐えていた吐瀉物を、放そうと諦めた時。
奏者が指揮者の結びに合わせるようにピタリと騒音が止まった。
嵐のように去っていった音風。
完全に聴覚が壊れたのだろうか。
恐る恐る両手を耳元から離してみる。
「うぐぇッ……」
踏みつけられた牛蛙のような呻き声が聞こえる。
どうやら私の耳は無事らしい。
むしろ音声器官の方が問題ではないかと、私は眉をしかめた。
突然倒れ込んで、のたうち回り、極め付けに無様な鳴き声を上げてしまった。
やばい。めちゃくちゃ恥ずかしい。
気まずすぎて小島よしおポーズから顔を上げられない。
これでまだ体調が悪ければ、それなりの格好も付こうが、みるみると元気になってしまったからタチが悪い。
先刻の吐瀉物はどこに吸収されていったのだろう。
人体は不思議に満ちているなぁと軽く現実逃避してみる。
しかし、時間は私の味方をしない。
ご親切な誰かに声をかけられて恥ずかしい思いをする前に、サッサと退散しよう。
となれば、現在の体勢を鑑みると、クラウチングからのスタートダッシュしかないな。
速やかにこの場を去ることが出来るし、何より和牛ステーキ定食にまだ間に合うかもしれない。
最も合理的な選択だ。
先ほどの尋常じゃない体調不良は気になるが、きっと大丈夫だ。
肉を食べれば治るはずだ。
もし本格的に倒れるにしても、和牛ステーキを食べてからにする。
決意を新たに、スタートダッシュに備えてモゾモゾとセットを整える。
おっと、前方確認を怠っては事故になりかねないな。
そう思い至り、チラと薄眼を開けて前方を確認してみると、一寸先は闇だった。
いえ、私の人生ではなく。
闇。
目の前にあるはずの両手すら見えない。
完全な暗闇に、自分が本当に目を開けているかすら分からない。
突然の出来事にパニックに陥りそうになる自分を叱咤する。
と、とにかく落ち着くんだ。
少なくともクラウンチングスタート決めてる場合じゃないことは分かった。
和牛ステーキも一旦置いておこう。
一つ、大きく深呼吸をしてから決める。
よし、病院に行こう。
病院に行くためには、助けを呼ばないとな。
助けを呼ぶためには、現状を正しく認識しないとな。
よーし、落ち着いてるぞ。
身の安全を確認するため、慌てて自分の顔を弄る。
震える手は、頬を滑り鼻の凹凸を確かめ、瞼に到達した。
なるほど、どうやら目は開けているらしい。
その場で立ち上がり、ボディタッチよろしく、あちこちをポンポンと叩く。
とりあえず身体に目立った外傷も異常もなさそうだ。
ほうっと胸をなでおろし、浅くなった呼吸を整えるように努める。
大丈夫だ、私は生きている。
五体満足、結構なことじゃないか。
今のところ命に別状はないはずだと、心臓に言い聞かせる。
となると、失明だろうか。
聴覚に続き、視覚もおかしくなるなんて私の身体は一体どうなってしまったんだろう。
荒い息遣いと乱れた鼓動が身体に反響する。
何も見えない状態で道の真ん中にいるのは危険だ。
とにかく隅によって安全を確保してから、助けを呼ぼう。
たしかすぐ右手に建物があったはずだ。
右手はお箸を持つほうだぞ。
暗闇に慄きながら、両手を前に突き出してソロリソロリと慎重に寄っていく。
2〜3m移動すると、トンっと指先にザラリとした感触。
よし、ミッションクリアだ。なかなか順調だぞ。よくやった。頑張った。
お目当のものを見つけたとホッと胸をなで下ろす。
夜勤明けのぬくい布団並みの安心感だ。
普段は目に入るだけで職場が近いと鬱を感じるが、この瞬間だけありがとう成金住んでる高層マンションの壁……。
心理的に何かに縋りたかったのだろう。
愛しの恋人に寄り添うようにマンションの壁にピッタリと張り付く。
すると、特有の古ぼけた臭いが鼻をついた。
ん?なんだこの臭い……。
ふと違和感を感じ、壁に鼻先をつけてフンフンと嗅いでみる。
カビ臭い……?
古い家特有のカビ臭さ。
今度は、おそるおそる手のひらで壁面を撫でる。
ざらりとした感触。
ベタベタと触る範囲を広げ、記憶のあらゆる物と照合していき、思い至る。
「これは、木……?」
いや、この辺りはコンクリートジャングルだ。
私の知る限り木造の建物はない。
自分で出したAnswerを即否定する。
視覚情報は、全感覚の約80%を占めている。
その視覚情報が遮断されたことにより、情報を補う為、他の感覚が一斉に活動を始めた。
ほつれた糸のように周囲の異変が紐解かれる。
なぜ誰も声をかけてこないのだろう。
いくら東京人が他人に無関心と言っても、目の前で倒れたら誰かしら駆け寄るはずだ。
話し声、着信音、車、信号機。
普段なら当たり前にあるはずの喧騒が消えている。
いくらなんでも静かすぎる。
冷たい風がひゅるりと音を立てて通り、耳たぶを凍らせる。
……寒い?
いつのまにか冷え切った身体を抱きしめる。
待て待て。いまは8月だ。真夏だぞ。
そもそもさっきまで太陽はカンカン照りで、紫外線に参っていたじゃないか。
寒さからか、それとも緊張からか、身体がガタガタと震え出す。
かじかんだ手を温めようと、ハァーっと息を吹きかけた。
指の隙間から白い息が漏れ、ハッとする。
まじまじと両手を見つめると、ぼんわりと輪郭が縁取られた。
なんてことはない。
明るいところから急に暗いところに来たから何も見えなかったのだ。
目が慣れ始め、情景がおぼろげながら見えてくる。
先ほどよりはずっとマシになった暗がりの正体を暴こうと、周囲にじっと目を凝らした時だった。
まるで私の仕草に合わせるように金色の光がすうっと周囲を照らす。
目を凝らすまでもなく、舞台の幕が上がるかのように情景が浮かび上がった。
足元に転がる空き缶。
不法投棄らしき粗大ゴミ。
その痕跡を辿ると少し先にゴミ置き場がある。
誰も回収に来ないのだろうか、ゴミ箱はゴミで溢れ返り、最早その用途を果たしていない。
お世辞にも綺麗とは言い難いこの道は、私が知る道よりもずっと狭かった。
両脇には昔ながらの日本家屋が立ち並び、古ぼけた木肌を晒している。
およそ路地裏と言うに相応しい道に、私の影だけが生き物のように黒々と蠢いて伸びている。
ご丁寧に照らしてくれた金色の光源を追って、私はゆっくりと後ろを振り返る。
探すまでもなく、光の正体は空に君臨していた。
丸々と真っ黄色な身体で、空の高みにドデンと座している。
爛々と輝くそれは、本日食べ損ねたステーキ定食の付け合わせで添えられる卵の黄身を連想させた。
一瞬にして太陽から月にクロスチェンジした空模様を眺め、私は呟いた。
「心療内科かな」
診療科が決まった。