まだ眠らぬ帝都の夜はゆっくりと更けていく。成り行きでノスリの居酒屋巡りに付き合わされたはいいものの、誘った本人はすでに意識も混濁し、時折わけの分からぬ寝言をつぶやくばかり。いつの間にかやってきた彼女の弟に任せて、俺は二軒目で飲み直そうかと思った矢先のことだった。
「おや、姉上を置いて行くとは殿方の風上にも置けないですね」
「生憎、勝手に飲み潰れたやつの面倒を見るほど、甲斐性は良くないんでな」
「そうですか、しかし一人酒とはまた寂しいものですね」
「好きに言ってろ。後は任せたぞ」
オウギはいつもの無表情を崩すことはないが、それでも最近声色からうっすらとその感情の起伏を感じ取れるようになった気がする。もちろんそれが思い違いという可能性もあるが、今のオウギは間違いなく逃げ出そうとする俺に妙な興味を抱いている。こうなってしまっては厄介だ。
眠りこける姉を起こそうとしていた弟の姿はどこへやら。店を出るとオウギがいつの間にか後ろに付いてきていた。あの姉上一筋な男が一体どういう風の吹き回しだろうかと聞こうとしたが、構ってしまっては思うつぼだ。
「……一体どういうつもりだ」
「おや、今日はハクさんに付き合うつもりだったのですが」
「あれはどうしたんだ、あのままにしておくわけにも行かないだろ」
「すでに手配はしましたから、ご心配なく」
その抜かりなさが憎らしい。程なくしてやってきたいくつかの黒い影を見て、おおよそ何が起きたかは把握できた。この男の追尾を巻くほどの技術がないことは、他ならぬ俺がよく知っている。仕方ない、ひとり酒と行こうかと思ったがこれはこれで悪くない。
ふらりと立ち寄った店は、繁華街から少し外れていることもあってか、人はまばらだった。しかし店構え自体は比較的しっかりとしたもので、お品書きも庶民である我々にちょうどよいものが並んでいる。
「なるほど、ハクさんはこういう店が好み……と」
「偶然見つけただけだぞ。別に行きつけというわけではないからな」
手拭きを持ってきた店主らしき男にいくつか注文する。オウギの希望を聞こうとしたが、すべておまかせと言った様子で何も言わないものだから、適当に好きそうなものを見繕って頼んでおいた。
「おや、これは」
「どうした」
「これは……中々珍しいものを取り揃えた店ですね」
やってきた酒に一口つけたところで、オウギの表情が一変する。口角をほんの少し上げ、目元が下がったその様子は親しい相手でも無ければ気付け無いほどだった。とはいえ普段こんなにわかりやすい反応を示す男ではないだけに、その変化に戸惑いを覚えつつも次の言葉を待つ。
「帝都でこのような新鮮な酒に出会うとは、ちょっと意外でした」
「そうか、どれ……っと」
徳利に注ぎ、まずは口に含む。しっかりとした酒精の香りの中にやってくるさらりとした甘み、そして口に残るねっとりとした蜜のような感触。後味は何かの発酵食品のような、濃密な粘り気すら感じるほどの旨味がやってきた。確かにこれはオウギの言う、珍しい酒に違いなかった。
すかさず口の中に魚の油漬けを含む。口の中に残る味と、魚の深い味わいが混ざり合って心地よい。低級な酒だと酒魚の味に負けてすぐに味が感じられなくなるものもあるが、邪魔しない程度に主張を残すその味わいは値段に見合わぬほどの高級感があった。
「うん、旨いな」
「以前父上が祝い事に出した酒がありましたが、それに近いものを感じますね」
彼らの家について、以前少しだけ話を聞いたきりだったことを思い出したが、今は些末なことだ。むしろこの酒を堪能している彼の様子のほうが珍しい。俺の目の前にあった酒菜を器用につまみ、そしてすぐ口に放り込む。普段はいつの間にか食べ終わっているものだから、オウギの食べている様子をまじまじと見るのは初めての経験のように思えた。
「どうしました、そう見られると魚も喉を通らなくなってしまいますよ」
「ああいや、そういうつもりじゃないんだが」
しばらく酒と魚が織りなす協奏曲に舌鼓を打つオウギを眺め、俺もまた別の銘柄を頼む。今度は先程とは趣が違うよう、匂いは先程のものよりは弱めだな。口の中にそっと含むと、喉の奥へと滑り込んでいくような滑らかさを覚えた。
「オウギ、せっかくだしこっちもどうだ」
「ハクさんからの献杯とあれば」
そっと猪口を差し出す彼になみなみと注いで返す。口に含んでそのまま一息に飲み干す勢いの良い飲みっぷりは実に見ていて心地よい。あの野郎共の飲みであっても自らの調子を崩さず、淡々と飲む彼にしては珍しい。
「こちらは……香りは抑えめですが飲み心地が素晴らしいですね。こういうのには淡白な味わいのものがよく合います」
「俺もちょっと頂戴するぞ」
彼の器から少し拝借し、口の中に放り込む。主張しすぎない酒というのもあってか、他の酒では味が負けてしまいそうな酒菜であってもその旨味を引き立ててくれる。口の中に残る採れたての果実を思わせるような香りが、体の奥から抜けていく感触は実に心地よかった。
「これなんてどうですか、併せてみるのも悪くないかと」
「……旨い。こんな路地に良い店があるとは思ってなかったが、これは絶妙だな」
乾いた猪口にまた酒を注ぐ。トクトクと注がれるその音すら、調和を完全なものにしてくれる。都会の喧騒から少し離れた、隠れ家のようなこの居酒屋なら、こうして二人ひたすら酒の味を楽しむことができるというものだ。
普段ならこの辺りでお終いにするところだが、せっかくの機会を逃すまいともう一杯と欲が出る。オウギも同意見なのか、その目を一層細めてお品書きを睨んでいた。お互い思い思いの酒と酒菜を頼み、次なる味を楽しみに待つ。
「おや、濁り酒ですか。ハクさんもまた物好きですね。故郷では偶に出回る程度でしたが」
彼の言う故郷というのがどこなのか、ついぞ聞いたことがなかった。ノスリがお家再興なんて言っているところを聞くに、そういう一族の出なのは間違いないだろう。ただどこの事を指すか、聞こうとしても話を誤魔化されしまっていた。
「そういえば、お前の故郷ってどの辺りなんだ」
「珍しい事を聞きますね。そんなに気になりますか」
「いや、無理に聞き出そうってわけじゃないんだが、さっきから酒の話でよく出てきたからな」
少し思索してみせてから、オウギが先程来た酒に口をつける。少し潤してから、静かに口を開き始めた。
「かつてはその地域では珍しく、帝から位を賜っていたと父上からは聞きました。ただ、詳しいことはまだ幼かったので」
そう言う彼の手が少し乱れ、手にした徳利の水面が荒れるのを見逃さなかった。一切の動揺を見せないような彼がそんな様子を見せるものだから、これ以上聞くのはやめておこう。
「そうか、ノスリがよくお家再興なんて言うから、ある程度は知られた一族なのかと思ってな」
「確かに地域では有力者の方だったことは間違いないですが、いまはただのご隠居ですよ。それとも、ハクさんは姉上を娶るつもりですか」
「バカを言うな、突然やってきた男にいきなり娘をやるような親がどこにいる」
「はて、それはどうですかね」
意味ありげに微笑む彼を無視して、俺が頼んだ酒を煽る。濁ったその見た目に違わぬ、濃厚で舌に絡みつく味わい。今日の締めにぴったりな、しっかりした味わいのするその酒に舌鼓を打つ。
「お気に召しましたか」
「確かに旨い。今日の締めにぴったりだ」
俺の杯が乾くのに合わせて、オウギがまた酒を注ぐ。ゆっくり更ける夜の闇の中、男たちの宴はもう少し続いた。