ノスリ、この頃はまだハクに対して強い感情は抱いてなかったとは思うけれど誘われたハクが色んな意味で危ない。
白楼閣への帰り、今日もまたオシュトルに押し付けられた雑用を済ませ通りかかった繁華街。幸いにも今日は依頼主が駄賃を弾んでくれたおかげで少し懐が温かい。ひと勝負、と言いたいところだがそれよりは先に飯だ。行きつけの酒屋というほどではないものの、こういうときに立ち寄る店はいくつか決めている。酒はほどほどに、それでいて飯の旨いところといえば、思い浮かぶ店はたった一つだった。
「いや、まだ勝負できる金はある……ここで折れるのは名折れというもの」
「おい、何してるんだ」
「はっ、負けが込みすぎてハクの幻聴まで聞こえてきたというのか。あいつも賭場では」
「いや現実なんだが」
道の真ん中、いつもの装いで突っ立っているノスリに声をかける。できることなら他人でいてほしかった、なんて言ってもこの様子を見て放置したら後々に響く。無心してくるか、そうでなくても当分は沈んだ顔でいる様しか思い浮かばない。
「丁度いいところに来た、ここは大船に乗ったつもりで」
「お前のは泥舟だ。いいから飯行くぞ」
「ここで折れるは武人の恥、ハクもそれはわかっているだろう」
「戦場じゃあるまいし、いや戦でも戦略的撤退とは言うが」
頭に血が登ったノスリがもう一度賭場へと踏み入れようとしている。当然のことながら、こんな状況でまともな勝ち負けになるわけがない。ちょっと不本意ではあるものの、こういうときは強引にでも引き寄せる釣り餌を投げ入れるに限る。
「今日は一人で飯だから、ついてきたら一杯ぐらい出してやろうと思ってたんだけどな」
「……む、それは本当か」
こういうときだけ地獄耳か。振り向いた彼女はしばらく逡巡した挙げ句、背を向けて歩いていこうとする俺に飛びかかる。いきなりのことに面食らっていたが、それ以上に背中に当たる感触に意識を持っていかれそうになった。
繁華街の雑踏に紛れ、おおよそ痴話喧嘩とでも思われただろうか。気づけばノスリは俺の後ろに張り付いて離れようとしない。当初は痛いような目線を感じていたものの、少し歩くうちにそれはなくなり、またいつもの街へと戻っていった。
「男に二言はないな。ハク」
「そうでもしないと、また素貧々になっていただろ」
「何を……と言いたいところだが、正直に言うと勝負するには少し懐が寒かったのでな。むしろハクが来た分、夕餉が浮いて得だった」
悪びれず言うその様に、一切の裏がないことはわかっている。とはいえ満面の笑みを浮かべるノスリの額を小突きたくなる気持ちがないとは言えなかった。もっとも、そんな邪心もこの笑みを見たらすぐに引いていくというもの。認めたくはないが、男とはそういう生き物だ。
「全く、それじゃいつもの店に行くぞ」
「ハクのお勧めとあっては期待大だな」
暖簾をくぐり、適当な卓に腰掛ける。さほど頻繁に通っているというわけではないが、それでも女将さんはさも常連かのような笑みで迎えてくれた。
「おや、いらっしゃい。今日はがっぼりかい?」
「いつもよりかは、な。できれば肉でおすすめはあるか?」
「それなら、ブルタンタの煮込みが良いよ。新しいクワサも入ったことだし、一緒にどうだい」
そのままでは少し脂っこいブルタンタの肉も、煮込むことで程よく脂が落ち、それでいて柔らかな肉質になる。しかも新しいクワサと聞いては、あふれるよだれを抑えることもできず。ノスリのほうを一瞥すると、彼女もまたお腹の音を鳴らし返事の代わりにする有様だった。
「狩りで仕留めた肉こそ至高だと思っていたが、帝都で育てられた肉というのも悪くないな」
「すっかり都会に染まったか」
「なっ、そんなつもりはない。あくまで己の力で仕留めた猛獣の肉こそ最も美味しいに違いない……多分」
帝……もとい兄貴の技術は多岐にわたる。畜産なんてどこで身につけたんだと言いたくはなるが、帝都やその近郊に広がる牧場で肥育された肉はたしかに上質で、少なからずテコ入れした様子が伺われる。そもそもブルタンタという種自体がその証左だ。
しばらくして器に盛られたブルタンタの煮込みと、杯に溢れんばかりのクワサがやってくる。前にマロと行った酒屋で飲んだそれも恋しいが、爽やかな酒に濃厚な肉の味わい。どちらも捨てがたい魅力を確かに放っていた。
「次はそうだな……ハク、これを頼む」
そう言ってメニューを指差す。すっかり俺の金だからと好きに飲み食いする気になったらしい。まだ魚の種類には明るくないが、川魚だっただろうか。その塩焼きとは中々珍しい。帝都近くにも河が流れているが、この繁華街の近所とあっては清潔さに期待できるわけがない。無論、そんなところで取れた魚は食べられたものではない。
この店の品揃えには一目置いているつもりだったが、とはいえ川魚のような足の早いもの、しかも塩焼き。煮付けや酢締め、あるいは干してあればまだ保存も効くだろうがどうやって持ち込んだのか。
「確かに気になるが……ここまで新鮮さを保つのは難しくないか」
「む、確かにこの帝都近くで流れる川はお世辞にもきれいとは言えないが……」
しばらく考えてみたが、好奇心には抗えない。少ししてやってきた店員に先のメニューを頼み、しばらく待ってみる。その間もお互い箸は止まることなく、ひたすらに煮込みとクワサを流し込むような時間が続いた。
やってきた魚はまるで先刻まで活き活きと動いていたかのような艶を帯びている。そんな魚の表面にこんがりと焼き目がつき、まだカリカリと香ばしい音を響かせていた。眼の前の彼女もよだれが抑えきれないのか、喉を鳴らすような音すら聞こえてくる。
「幼き日に川で採った魚、それを思い出させるな」
「魚釣りまでしてたのか」
「日々食材の調達は私の仕事だったからな。今でも任せろ」
「いや、狩りの獲物を食堂に持ち込んでも驚かれるだけだろ……」
きょとんとした顔でこちらを見てきて、しばらく考えてからポンと手をたたく。何か良いことを思いついたかのような表情を浮かべ、こちらに少し体を乗り出してきた。
「よし、次の休みはハクと狩りに行くとするか」
「どうしてそうなる」
「狩りの後はそのまま野営すれば、新鮮な獲物もすぐ味わえるだろう」
さも名案のように言ってのけるが、俺は同意した記憶なんてない。クオンに言ったところで許可が降りる気がしない。どう断るか、しばらく考えていると先に頼んだ料理が並ぶ。
「これは」
「干物かと思ってたが、生魚から焼いているのか」
身を少しほぐし、箸でつまむ。しっかりと締まった白身はつまんだ後でも崩れることなく、それでいてみずみずしさすら感じさせる。弾力に満ちたそれを口に含むと、激流で育ったことを感じさせる引き締まった身を噛み締められた。
彼女もまた同じように感嘆の声を上げ、皮の下にある弾力のある身をしっかりと噛み締めていた。どこか、悔しさすら感じさせるような表情をしていたのは気の所為だろうか。
「うむ……いやしかし、自分の手で獲った獲物も捨てがたいというもの……」
まだ口に含んだまま、もごもごと話すノスリ。更ける夜に、彼女が何か言おうとした言葉はあえて聞かないことにしておいた。