ー最終選別当日
朝食を終えて準備を行なっていった桜乃の耳に聞き慣れた声が響く。
「桜乃、入っても大丈夫ですか?」
「カナエさん、大丈夫ですよ」
戸を開け部屋に入ったカナエは桜乃の前まで歩き、腰を落としす。カナエにはいつもの笑顔では無く、神妙な面持ちだった。
「いよいよですね」
「…はい」
「この半年で桜乃は本当に成長しました、今更多くを言う必要はないでしょう。なので今ここで桜乃に伝える事は一つです」
カナエは一呼吸置き桜乃の目を見つめる。
「司波桜乃、必ず生きて帰ってきなさい。私はここで死ぬようなやわな鍛錬をしたつもりはありません」
その言葉に桜乃の高揚感が高まる。
「私は冬芽小春、胡蝶カナエ、胡蝶しのぶの弟子です。こんな所で立ち止まる訳にはいきません。何があっても必ず生きて帰ってきます」
それを聞いてカナエは一度大きく頷とそこにはいつものカナエがいた。
「桜乃、これを。私としのぶからよ」
そう言って差し出されたカナエの手には羽織が乗っていた。桜色の生地の上に朱華色、深紅、浅緋、3種の色の桜が舞っている、まさに息を呑む美しさだった。
「これ私が貰ってもいいんですか!?」
「もちろんよ、桜乃の為に作ったんだから」
「ありがとうございます! 着るのが勿体無い…」
「せっかく作ったんだもの、着てくれないと悲しいわ」
早く早くとカナエに促され羽織に腕を通す。
「うん!良く似合ってるわ桜乃、やっぱりもとが良いのね」
目を輝かせそう言うカナエに桜乃は顔が暑くなるのを感じる。
「カナエさん程ではないです」
「あらあら、口まで上手くなったのね」
そんないつもの会話に桜乃の緊張はいつしか解けていた。
「姉さん、そろそろ」
いつの間にか部屋の前に立っていたしのぶがそう言うとカナエは頷き桜乃を立たせる。
「桜乃なら大丈夫、頑張りなさい」
「はい!」
桜乃は頷き返事をする。
「桜乃、これ」
「しのぶさん、これは?」
「藤の花の香り袋、お守りよ。私から一本取ったんだもの、心配はしてないけど必ず帰ってきなさい」
「はい!ありがとうございます! 」
桜乃は一度深呼吸をする。
「カナエさん、しのぶさん、行ってきます」
「「いってらっしゃい」」
桜乃はもう一度大きく頷くと胡蝶姉妹に見送られ蝶屋敷を後にした。
鬼は藤の花を嫌う。鬼を知る者なら皆が知っているだろ。
その地で今宵、鬼殺隊候補生による命を掛けた最終選別が行われようとしていた。
(こんなにいるんだ…)
桜乃が藤襲山に着いた時には既に20人ほどの人が集まっていた。流石に鬼殺隊候補生と言った所だろうか、皆が皆普通では無い雰囲気を放っている。
暫くすると白と黒の髪が対照的な日本人形のような2人の子供が現れた。
「皆さま、今宵は最終選別にお集まりくださってありがとうございます。この藤襲山には鬼滅の剣士様方が生け捕りにした鬼が閉じ込めてあり外に出ることは出来ません」
「山の麓から中腹にかけて鬼共の嫌う藤の花が一年中狂い咲いてるからでございます」
「しかしここから先には藤の花は咲いておりませんから鬼共がおります。この中で七日間生き抜く」
「それが最終選別の合格条件でございます。では行ってらっしゃいませ」
2人が見事な連携でそう言い終えると一気に周りの空気が張り詰める。桜乃は懐に入れた手鏡を握り深く呼吸をすると藤襲山の深部へ入っていった。
最終選別開始から四半刻ほど経っただろうか、桜乃はすっかり一人になっていた。喉の渇きを感じ水場を探していた桜乃は背後に嫌な気配を感じ、剣を構える。
「オンナひとりか、俺はついてるなぁ」
灰色の肌に上下2本ずつの牙。黒目が極端に小さく頭からは3本の角が生えている。間違いない鬼だ。
「人間のにくぅぅぅぅ」
鬼は牙を剥き出しにし、飛びかかる様に桜乃に迫る。
ーーー桜の呼吸 弐の型 "
鬼の攻撃を右に避け放たれた横への一閃は見事に鬼の頸を捉える。直後鬼の身体が跡形もなく消え去った。
「いける、戦える」
もう守られるだけじゃないんだ、大切な人の為に戦える、鍛錬は無駄じゃなかった。そんな思いに泣きそうになるがぐっと我慢する。泣くのは全部終わってからだ。
桜乃はその後も鬼を狩り続け擦り傷さえ負う事なく六日目の夜を迎えた。
終わったらシュークリームをお腹いっぱい食べるんだ。こんなに頑張ったんだもん、それ位の贅沢許されるよね。あまりの危なげなさにそんな事を考えていた桜乃に緊張が走る。
「ーーッ!」
何かが腐った様な匂いが鼻にまとわりつく。同時に今までの鬼とは比べものにならない気配を感じる。
「近い」
気配のする方へ足を走らせる。吸い込まれる様に鬼の元へ辿り着いた桜乃はその光景に目を丸くする。
(何、コイツは…)
目前に立つ鬼はもはや人の型を成していなかった。7尺はあろう上背に巨木の様な身体の至る場所から無数に腕が生えている。
「また俺のエサが来たか、お前はこいつの次に殺してやる」
手鬼の近くに少女がへたり込んでいた、腰を抜かしたのだろうかまともに動けない様だ。
鬼の手が少女へと伸びる。
ーーー桜の呼吸 壱の型 "
桜の呼吸最速の剣技。目にも留まらぬ速さで繰り出された一閃は鬼の腕を真っ二つにした。
「大丈夫!?」
少女から返答はない、桜乃の言葉が耳に入っていない様だった。相当な恐怖だったのだろう。
(大丈夫、あの時とは違う。私は戦える)
桜乃は剣を構え直す。
「そんなに死にたいなら殺してやる。今年は俺の可愛い狐が居なくてイライラしてたんだ」
鬼の手が多方向から迫る。
ーーー桜の呼吸 参の型 "
高速で繰り出される7連の突き、桜乃は全ての攻撃をいなす。
(手数だけだ、動きは目で追える)
落ち着けと自身に言い聞かせ桜乃は集中を高め、迫る腕を切り伏せる。
桜乃は確実に強くなっていた。並の鬼殺隊候補生なら簡単に殺されるであろう手鬼の縦横無尽の攻撃をいなし続ける。
だが、切っても切っても再生する手に加えて中距離からの攻撃。少女を守りながらでは頸を切る事は叶わない。
無尽蔵の体力を持つ鬼に対し有限の人間、長期戦になればなるほど不利となる事は明白だ。桜乃は次第に息が苦しくなる。
「だいぶ息が上がってきたな、そんな足手まといを庇うからだ」
手鬼はクスクスと笑う、もはや勝利は目前だと言わんばかりに。
"終わりが見えない"その思いに桜乃の身体は重くなる。
「くそっ」
左から2本、右から3本、上から2本手鬼の攻撃が迫る。
ーーー桜の呼吸 伍の型 "
移動しながらの回転切りで全ての腕を切りふせる、だが焦りから無理に鬼の頸を狙った桜乃は背後に迫るもう一本の手への反応が遅れる。
(しまった…)
背後から手鬼の一撃が迫る。
桜乃は反射的に目を閉じた。
…いつまで経っても衝撃がこない。ゆっくり目を開けると先程まで怯えていた少女が刀を抜いて立っていた。目の前には巨大な腕が転がっている。
「すみません、迷惑をかけました。行ってください、あなた一人なら逃げられるはずです」
そう言った少女だが身体が酷く震えている。そりゃそうだ、さっきまで腰を抜かしてたんだから。桜乃にはそんな少女を放って逃げる事など出来なかった。
「余計なことを」
手鬼が苛立ちをあらわにし攻撃を仕掛ける。
上、右、左から迫る手鬼の手を切り伏せると桜乃は少女の隣まで後退する。
「大丈夫、動けるなら一緒に逃げられる。私があの鬼の注意を引くから貴方はこれを」
桜乃は紫色の袋を少女に渡す。
「これは?」
「中に藤の花の粉末が入ってる、鬼の周りに散布して。あいつに効果あるかは分からないけど試す価値はあると思う」
「なら、なら私が囮に」
再び手鬼の攻撃が迫る。
「時間が無い、任せたから」
もう何本めかも分からない手鬼の腕を手を切り伏せ接近する。
肺が筋が悲鳴をあげていたが桜乃に先程までの焦りは無い。桜乃は確信していた、これで終わりだと。これが最後の攻防だと。
何本もの腕を切り伏せ、残る腕を縫う様に手鬼の懐に入った桜乃に全方向からの攻撃が迫る。
だがそれが桜乃に届く事は無かった。
「アァアアアアア」
藤の花の香りが鼻腔をくすぐる。
(しのぶさん、助かりました)
戦いの最中、自身に迫るもう一人の少女に手鬼は気が付かなかった。桜乃への警戒心はもちろんあっただろう、だが最大の要因は手鬼の油断だった。
腰を抜かしへたり込んでた女だ、そんな奴に何が出来る。腕を一本切られたのが何だ、今もガタガタ身体を震わせ怯えているただの足手まといだ。そんな気持ちが手鬼の油断を誘い少女への警戒を怠った。
手鬼が後退り、苦しむ様にもがいてる隙に桜乃は少女の手を引きその場を後にした。
十五分程走り続けたところで拓けた場所に出る。
「ここまで来れば大丈夫かな。ごめん、ちょっとだけ休憩」
限界だった桜乃はそこで仰向けに寝転がった。
「大丈夫ですか?」
「明日筋肉痛かも」
桜乃は泣き出しそうな顔で尋ねる少女を見て冗談っぽい笑顔で答える。
桜乃の意外な答えに少女の顔が少し緩んだ。
「貴方は、ほんとに優しいんですね。私の様な腰抜けを助けて頂きありがとうございました。この恩は忘れません。」
「…優しくなんて無いよ。私はただ、後悔したく無かっただけ。…もう何も出来ないのは嫌なんだ」
桜乃は一瞬寂しそうな顔を見せるが直ぐにいつもの調子に戻る。
「あと、貴方は腰抜けなんかじゃ無いよ。あの時鬼の腕を切ってくれて無かったらやられてたのは私だった。それに本当に貴方が腰抜けなら鬼滅隊に入ろうなんて思わないと思うよ?ここまで生き残ったんだもん、自分の事認めてあげてもいいじゃないかな?」
その言葉に少女の瞳から涙が溢れる。肩を震わせ泣く少女の背を桜乃は優しく撫でてやる。
「少しは落ち着いた?」
「はい、また情けないところを見せてしまいました」
良かった。と答えると桜乃はいかにも嬉しそうな顔で少女の後方を指差した。
「ねぇねぇ、あれ」
少女は不思議そうにして振り返り、その光景に目を丸くする。
「綺麗、ですね」
「うん、そうだね」
最終選別の終わりを告げる朝日が登り始めていた。