東方理想郷 ~ Unknowable Games.   作:まこと13

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中編ノ弐 ~支配~ 
第20話 : 階級社会


 

 守矢神社から遠く離れた森の中。

 早苗はそこで、両手両膝をついた体勢で泣き崩れていた。

 守矢神社の巫女として神奈子と諏訪子を祀ってきた早苗には、2人の力を感じることができる。

 それがついさっき、ほぼ同時に消滅したことに気付いてしまったのだ。

 

「嫌ぁぁ。 神奈子様、諏訪子様、お願いです、応えてくださいよ。 なんで、なんでぇっ……」

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった早苗の顔は、それに加えて地面の泥にまみれて、もう目も当てられない状態だった。

 だが、文はそんな早苗の隣で一人佇みながらも、何一つとして慰めの言葉をかけなかった。

 そして、早苗に背を向けたまま言う。

 

「私はもう行きます。 早苗さんは…」

「っ!!」

 

 文の声は、平淡だった。

 そんな文の冷静な声を聞いた早苗は、激昂するように文の首元に掴みかかった。

 

「なんで、逃げたんですか……?」

 

 文は何も答えない。

 ボロボロの服を纏い、流しすぎた涙で目を赤く腫らした早苗は、声を荒らげて文を捲し立てる。

 

「あの状況で、なんでそんな風に逃げられたんですかっ!?」

「……」

「いいですよね……関係ないから、射命丸さんには神奈子様のことも諏訪子様のこともどうでもいいんですよね。 だけど……だけど私には大切な――っ!!」

 

 その途中、パンッと乾いた音が響き、早苗の声が遮られる。

 頬を叩かれて尻餅をつくように倒れた早苗は、逆に文に掴みかかられていた。

 

「……泣きたいのがっ」

「射命丸さん……?」

「泣きたいのが、自分だけだなんて思わないでください!!」

「あ……」

 

 早苗はそう言われてようやく、あの場でやられたのが神奈子と諏訪子だけではなかったことを思い出す。

 文も、目の前で椛が消えていく所を見てしまった。

 親友が伸ばしかけたその手が、文のことを巻き込まないようにと自ら闇の中に崩れ落ちていった様を目に焼きつけてしまっていた。

 ほとんどの天狗仲間たちが消され、萃香が消され、椛が消された文には、もう何も残されていなかった。

 この異変で、誰よりも辛い思いをしている一人であるはずなのだ。

 

「……今、泣き言を吐いていてもしょうがありません」

 

 それでも文は前を向き続けていた。

 それが、文の強さだった。

 1000年以上も生きる妖怪の、決して折れぬ心の強さだった。

 だが、年齢としては普通の高校生と変わらない早苗が、簡単にそんな強さを持てるわけがなかった。

 早苗はただ一人、何も言えないまま呆然とそこに座り込んでいるだけだった。

 そんな早苗に向かって、文は一冊に纏められた資料を投げ渡す。

 

「……これは?」

「彼岸から持ち帰った、ここ5日分の幻想郷の死者名簿です。 さっきのスペルカード戦の後に、私がまとめておいた分です」

 

 なぜ今それを渡されたのかはわからないが、早苗は霞む視界の中でその名簿をめくっていく。

 しかし、無言のままおよそ数十ページに渡るそれをペラペラとめくっていくうちに、早苗の表情が少し怪しむようなものに変わっていく。

 

「これ……全部じゃないですよね? 日程が抜けてるとか、人間の分だけとか」

「いえ、それで全部です」

「そんなはずないじゃないですか。 だって、ここには紫さんの名前どころか天狗の方たちの名前すら一つも……っ!!」

 

 早苗が、そこまで言って固まる。

 小町と会った時に、その可能性は僅かにあると思っていた。

 それを今までずっと忘れていた。

 

「そうです。 この異変による犠牲者の名前は、恐らくそこには載っていません。 私の勝手な想像ですが……あの黒い何かに飲み込まれた人が、死ぬこともなく中に閉じ込められているのかもしれません」

「ってことは……」

「ええ。 椛や洩矢様たちも、紫さんや天狗たちも、もしかしたら萃香さんや閻魔様すらもまだ生きているという希望はあります」

 

 だが、それはあくまで希望的観測に過ぎなかった。

 それがほんの僅かな可能性に過ぎないことを、文もよくわかっていた。

 それでも、今はそれを信じて進むしかなかった。

 

「だから、こんなところで泣いているような無駄な時間はありません。 私は一刻も早く異変の解決に向かいます」

 

 文は既に一人立ち上がっていた。

 だが、異変解決に向かうなどと簡単に言った文に、現状を知らない早苗は少しだけ怪訝な表情を浮かべて聞く。

 

「……待ってください。 今まで射命丸さんが私に話したことは、射命丸さんが知ってる全てではありませんよね」

「そうですね」

「だったら、あの時守矢神社で一体何が起こっていたのか、私にも教えてくれませんか?」

「ええ、いいでしょう」

 

 神奈子たちすらいない今、もう早苗に現状を隠す必要はなかった。

 文は、自分の知ることをできる限り手短にまとめて早苗に伝える。

 紫や映姫が封印した邪悪の要素の一つが、恐らくはルーミアの中に封印されていただろうこと。

 チルノがその邪悪の原動力となる闇の支柱として既に十分な力を完成させていただろうこと。

 そして、それらを科学の力を用いて消滅させようとしていたこと。

 

「ですが、なぜか計画は上手くいかなかったようです。 計画通りに進んでいたのなら、守矢神社内に設置した装置の作動中に神社付近でルーミアさんを……消滅、させれば、それで終わりだったはずなんです」

 

 消滅という言葉を使うのに少しためらった文だったが、それを聞いた早苗は何かを耐えるように拳を強く握りしめてはいたものの、反発しようとはしなかった。

 自分一人の感情に振り回されている場合ではないことくらいは、早苗にもわかっていたからだ。

 

「それなのにチルノさんの暴走は止まらず、恐らくその邪悪の力であろうあの黒い何かが復活してしまいました」

「なぜ、そんなことが……」

「紫さんの計算に狂いがあるとは思えませんし、八坂様たちや藍さんが失敗するとは考え辛いですから……考えられるとすれば河童たち技術開発チームのミスか、あるいはその邪悪が未知の技術にも対応できるほどの力を持っていたか。 いずれにしろ、私にははっきりとした理由はわかりません」

 

 文は何かしら新たな指針を見出すためにそう言ってはみたものの、そのどちらの予測も考え辛いものだった。

 10人編成の河童の開発チームの中で、たった1人でもシステム異常に気付いたのならばそれを修復させることは可能であり、それが計画そのものを完全に失敗させてしまうほど顕著なものならば藍が気付いてもおかしくはない。

 そして、科学技術というものは多くの天才の知恵が世代を超えて受け継がれて初めて発達するものであり、数百年前の科学を知らぬ時代の存在が現代の発達した技術を自ら解くことは、たとえ紫のような賢者であっても不可能に近い。

 だが、そんなことは言っている文自身が一番よくわかっていた。

 

「だから、私は現状を確認するために藍さんや河童たちと合流してきます。 早苗さんはどうしますか?」

「私は……」

 

 早苗は目を閉じたまま、しばらく動かなかった。

 神奈子たちのことを引きずっているのではない。

 その頭にはいろいろな思考が巡っていた。

 今、自分がすべきこと。

 したいこと。

 約束を、したこと。

 

「……ごめんなさい、射命丸さん」

「そう、ですか」

 

 そう答えた早苗を、文は責めたりはしない。

 紫や神奈子たちですら敗れたこの異変は、明らかに当初の予測を逸脱した異常事態だからだ。

 妖怪より遥かに脆く、スペルカードが無ければ十分に才覚を発揮できない人間である早苗に、この異変に立ち向かうのを強要することはできない。

 だから、文はそのまま一人で飛び立とうとして、

 

「私は、異変を解決すると言いました」

「え?」

 

 早苗が独り言のように発したその声に、呼び止められていた。

 

「なのに、私ならできるって言ってくれた萃香さんの期待に何も応られなかった。 チルノさんたちに、あんなに悲しそうな顔をさせてしまいました」

「早苗さん……」

「……だから、すみません。 私は射命丸さんと一緒には行けません。 私には、やらなければいけないことがあるので」

 

 そう言って早苗は文から視線を背ける。

 早苗はこの異変から逃げようとしていたのではなかった。

 早苗の目は、チルノがいるであろう守矢神社の方をまっすぐに見据えていた。

 それは、早苗が自分一人でこの異変に立ち向かおうという決意表明だった。

 

「……わかりました。 なら、ここでお別れです」

 

 早苗がここで逃げる訳がないことくらい、本当は文にはわかっていた。

 そして、感情に流されて自分も早苗と一緒に行こうなどと、甘えたことを言うつもりもなかった。

 

「はい。 射命丸さんも、頑張ってくださいね」

「ええ……健闘を祈ります!」

 

 それだけ言い残して、文は飛び立つ。

 文も早苗も、振り返らなかった。

 ただ、文は少しだけ嬉しそうな、それでも寂しそうな顔をしていた。

 文は、この場面なら早苗は絶対に自分を頼ってくると思っていた。

 いや、むしろ自分と一緒に来てほしいと思っていた。

 文は早苗の成長を喜ぶと同時に、自分でも気づかないほどに早苗を強く頼りにしていたのだ。

 そんな複雑な気持ちを抱えながら、文は河童の住処へと超スピードで突き進んだ。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第20話 : 階級社会

 

 

 

 

 

 風よりも速く、音よりも速く、文はひたすら真っ直ぐ飛んでいた。

 河童の住処までの距離はそう遠くはない。

 文の速度なら、ほんの1,2分もあれば辿り着くはずだった。

 だが、河童たちが必ずしも都合よく住処にいる訳ではない。

 いくら速く動けようとも、この広い山の中でたった一人で河童たちを見つけることは容易ではないのだ。

 

「……椛が、いてくれたらな」

 

 ふと呟いていたその思考を、文は必死で振り払う。

 どれだけ早苗の前では強がっていても、その寂しさが消え去ることはない。

 もう、文を助けてくれる人は誰もいないのだから。

 

 ――いつ以来かな、この感覚。

 

 だが、それで文が挫けてしまうことはなかった。

 その感覚に、少しだけ覚えがあるからだ。

 一人でいることに、特段の違和感はないからだ。

 何かを思い出すように、文の視線が冷たく鋭く変化していく。

 

「……っと、いけないいけない。 まったく、こんな時に何を考えてるんだ私はっ!」

 

 文は首を振って、一人おどけるように笑いながらそう言った。

 沈んだ気分を奮い立たせるように、文は自分の両頬を叩いて気合を入れる。

 

「ん? ……あれは?」

 

 そして、幸か不幸か、気合を入れるために足を止めた文の視界に、それは偶然入ってきた。

 

「助けっ、助けて…」

「許してくださいっ」

 

 何かから必死に逃げているその2人に、文は少しだけ見覚えがあった。

 今回の技術開発チームの一員である河童たち。

 文が今探している、その相手だった。

 だが、文はその偶然に感謝するとともに焦っていた。

 今まさに、それが危機的な状況に晒されているからだ。

 

「これは……マズいっ!!」

 

 河童たちが助けを求めながら逃げている以上、何らかの敵がそこに現れたことは明らかだった。

 文は、河童たちの元へ全速力で急降下する。

 だが、とっさに飛び出してしまった文だったが、その河童たちを追っているのが誰かによって、文の取るべき行動は変わる。

 追っているのがただの感染者ならいいが、それが支柱やルーミア本人だとしたら文一人でどうにかできるはずがなく、誰かの協力が必要不可欠となる。

 文はそれを冷静に判断する必要があったが、今回の計画で使われた技術を担っているはずの河童が消されてしまえば異変の収束が困難になるため、ここで迷ってるわけにはいかなかった。

 覚悟を決めて、河童たちを追っていた一つの影の前に立ちふさがる。

 

「終わりよ」

「助…げふっ!?」

「やめ…」

「そこまでよ!! ……って、え?」

 

 文は河童たちを追っていたそいつの足を、受け止める。

 そこにいたのは意外な人物だった。

 逃げていた河童の片方を蹴り飛ばし、そのままもう一人の河童を踏みつけようとしていたのは、

 

「はたて?」

「……何だ、あんたか」

 

 文と同じ烏天狗の、姫海棠はたてだった。

 はたては止められた足を素早く引き、怯えたように地面を這いつくばって逃げようとする河童を追おうとするが、その道を文が塞ぐ。

 

「待って、何してんのはたて! なんで、こんなこと…」

「邪魔しないでくれる? あと2匹で終わりなんだから」

「え?」

 

 はたては、抑揚のない声でそう言った。

 文ははたてが何を言っているのか一瞬理解できなかったが、よく目を凝らして見ると周囲の山林がところどころ荒れていることがわかった。

 それはただ荒れているのではない。

 見るも無残な、虐殺の跡。

 倒れた河童たちが、荒れた地と一緒に転がっていたのだ。

 それに気づいた文が、顔を引きつらせて身構える。

 

「まさかはたて、あんたも既に感染して……!?」

「感染? 何言ってるのよ」

「え?」

「こいつらは山の秩序を乱した。 だから始末した。 ただそれだけのことでしょ?」

「――――っ」

 

 はたては、当然のことのように淡々とそう言った。

 それを、文は少しだけ予想していた。

 はたては闇の力に感染してなどいない。

 元々、こういう奴だということを知っていた。

 

 天狗社会には、二つの勢力があった。

 幻想郷の様々な種族と比較的友好的で、今回の件でも守矢神社に協力的だった、文や椛のような穏健派。

 直接鬼から妖怪の山を継いだ上層部と繋がりが大きく、妖怪の上位種としてのプライドや排他的で支配的な思想を持つ、はたてのような強硬派。

 それは後者の方が勢力的に大きく、妖怪の山は今まで強硬派を中心とした排他的な社会として成り立ってきたのだ。

 そして、その強硬派の中でもはたては有名な存在だった。

 身内を売り、上層の顔色を窺いながら弱者を甚振り脅し、どんな汚い手も平然と使ってのし上がってきた烏天狗。

 卑怯者の姫海棠という蔑称で知られる彼女は、強硬派の中であってもその評判は最悪だった。

 

「……秩序を乱した? はたてはこの子たちが何をしたのか知ってるの? 今、何が起こってるかわかってるの!?」

「ええ。 今の状況がこいつらの失態によるものだってことくらいはわかるわ」

 

 確かに、計画が失敗したからこそ守矢神社は壊滅し、邪悪が復活するに至った。

 今の状況の原因の一端が、この河童たちにあるとも言えるかもしれない。

 だが、文ははたてのやり方を否定するように言う。

 

「……確かに、そうなのかもしれない。 でも、それならこの子たちにまず何があったのかを聞いて異変の収集に努めるべきでしょ!?」

「いいえ。 そういう時は、まずは自分の失態を身体にわからせてやるのが先よ」

「違う! 本当にその子たちが悪いのか、ちゃんと見極めてから…」

 

 そう、言いかけた文の身体は次の瞬間硬直する。

 

「黙りなさい。 口が過ぎるわよ、射命丸文」

 

 はたてが睨むような視線を向けながら、冷たい口調で言ったからだ。

 文はその先を言うのをやめようと思ってやめた訳ではない。

 1000年を生きてきた本能が、反射的に文を思いとどまらせたのだ。

 

「これが、報いよ」

「っ!! 待っ……」

 

 はたてが文の横をすり抜けて、逃げようとする河童を追う。

 文はその気になれば、はたてを止めることもできるはずだった。

 だが、文の脳裏を過ぎった記憶が、その反応を鈍らせた。

 

「お願い、助け…かはっ!?」

「あ……」

 

 そして、はたてがそのまま倒れた河童を背中から踏み抜くと、河童は血を吐いて痙攣しながら動かなくなった。

 だが、その河童の姿を見て少しだけ声を漏らした文は、それでもただそこから目を逸らしていることしかできなかった。

 階級社会の妖怪の山において、上の命令に逆らった者の末路を嫌というほどに知っていたからだ。

 はたての階級が、文よりも上だからだ。

 文は、やるせない思いで呟くように言う。

 

「……どうしてそんな風になっちゃったのさ、はたて」

「さて。 これで、あと一匹ね」

「ねえ、答えてよ! 昔のはたては…」

「うるさいわ。 口のきき方がなってないわよ」

 

 文が叫ぶように言うが、はたてが文に向ける視線は冷たかった。

 一瞬だけ文を見下すように一瞥したはたては、すぐに興味を失ったように視線を逸らし、既に死にかけの河童の足を片手で持ち上げて回収する。

 

「用が無いなら、もう消えてくれない? あんたの顔なんて、見ていて気持ちのいいものじゃないわ」

 

 瀕死の河童をまるでゴミをつまみ上げるかのように持ち上げたはたてを前に、それでも文は殴り掛かろうとする気持ちを必死に抑える。

 ここで冷静になって自分が助けなければ、恐らくあの河童に未来はないだろうことくらいはわかっていたからだ。

 文は感情を心の奥に押し殺し、ゆっくりと膝をついて言う。

 

「……用なら、あります。 私は、その河童たちに聞かなくてはいけないことがあるので」

「っ……」

「お願いします。 その子たちの後処理は……私にお任せください」

 

 その時はたての表情にあったのは、静かな怒りの色だった。

 はたてに向かって服従の体勢で頭を下げてそう言う文に向けた、確かな蔑みの目だった。

 

「……勝手にしなさい」

 

 そう言って、はたてはその手に持った河童を文に向かって投げつける。

 

「ありがとう、ございます」

「私はね……あんたの、そういうところが一番嫌いなのよ」

「え……?」

「チッ」

 

 はたては、露骨に舌打ちしながら歩き出す。

 はたての言葉が意に介さない文だったが、その目線が外れると同時に飛び回り、倒れた河童たちを集めて寝かせた。

 視認できる範囲にいるのなら、幻想郷最速と言われる文が河童たちを全て回収するのに時間はかからなかった。

 幸いにも、9人とも命に別状は無さそうだった。

 

「よかった、まだ息がある…! もう少し我慢してください、今手当を…」

「なんでですか」

「……え?」

 

 だが、必死に止血や応急処置を試みる文の耳に、掠れたその声はあまりにも弱弱しく聞こえてきた。

 倒れた河童の一人が、涙を流しながら声を振り絞るように言う。

 

「なんで、私たちばっかりこんな目に遭わなきゃいけないんですか」

「それは……」

「私たちはただ言われたとおりにやっただけなのに。 なのにどうして……どうしてっ!!」

「……」

 

 文は、何も言えなかった。

 妖怪の山に鬼がいた頃の、自分と同じ境遇の河童たち。

 力が無いばかりに支配され、自由も、まともに生きることすらもままならない現状。

 だが、そんな光景を見るのを、文も慣れてしまっていた。

 自分がその対象に入っていないのを、ただ安心していることしかできなかった。

 

「っ……」

 

 だが、その河童たちの痛々しい姿を見て、遂に文にも我慢の限界が来る。

 なぜ、こんな状況でこの子たちはこれほどまでに虐げられなければいけないのか。

 この1000年以上の間、文には全く理解できなかった。

 歯を食いしばりながら、その目にはただ憤りだけが湧き上がっていた。

 そして、文はその場でゆっくりと立ち上がって言う。

 

「待ちなさい」

 

 返事はなかった。

 それは、下の階級からの命令口調という許されざる行為であるはずだが、はたては振り返りすらしない。

 ただ、文の声が聞こえていないかのように遠くを見据えながら言った。

 

「……見つけたわ、最後の一匹」

「待ちなさいって言ってるでしょ、はた…」

 

 だが、はたてに食って掛かろうとした文の身は、それに気付いた瞬間硬直した。

 遥か遠くに微かに見えるのは、文もよく知っている一人の河童。

 技術開発チームの主任技術師にして幻想郷一の技術者と言われた河童、河城にとりの姿だった。

 だが、それは文の知っているものとは明らかに違った。

 暗闇に溶け込んだ闇に、禍々しい雰囲気。

 そして、文たちの存在に気付いたのか、強大になりすぎた力とともに光の無いその目がゆっくりと向けられて、

 

「伏せて、はたて!!」

「何……っ!?」

 

 文がはたての頭を地に叩き付けると同時に、その頭上を何かの刃が通過していった。

 河童たちも、倒れて動けなくなっていたことが幸いした。

 辺りの山林は腰ほどの高さで一閃され、バランスを失った木々が一気に崩れていく。

 だが、それで終わりはしないことを文は知っていた。

 

「何、すんのよ…」

「はたて、あんたは逃げて! 自分で動けるでしょ、早く!!」

 

 それだけ言って、文はすぐにその場を飛び立った。

 焦った態度の文とは対照に、特段の危機を感じていないはたてはゆっくりと立ち上がるが、

 

「何よ、一体何が――」

 

 その目の前では、にとりが既にその手を振りかざしていた。

 道端のゴミを掃除するかのごとく無感情な表情で、にとりはその手に水の力を集わせる。

 そして、辺りの景色から吸い上げられた水流が弾丸となって、はたての腹部を弾き飛ばした。

 

「―――――――っ」

 

 とっさに直撃を避けたはずのはたては、それでも言葉を発することすらできない。

 辺りの切り株を自らの身体で抉りながら、地面を跳ねるように数百メートル先まで転がっていった。

 自分がなぜそんな状況になっているかすらもわからないまま、はたては全身の骨を砕かれて、気付くと倒れ込んでいた。

 

「く、ぁっ、ぁが……」

「はたて!? しっかりして!」

 

 風の力を操って倒れた河童たちを守っていた文がはたての姿に気付いたのか、すぐに駆け寄る。

 幸いにも天狗の丈夫な身体のおかげで生きてはいたものの、腹に風穴があくほどのダメージを負ったはたては動けなかった。

 

「ぁぐっ、何、なのよ、あいつ……」

「多分、あれは闇の支柱。 感染者の中でもずば抜けた力を持ってる、はず」

「支柱……?」

 

 文も支柱の話は聞いていたものの、実際に見たのはチルノが初めてだった。

 そのチルノからも早々に逃げてきてしまったが、それが諏訪子すらも仕留めたことを知っていた文は、にとりの脅威も早々に察知することができた。

 だが、神奈子たちからそれなりの信頼を得ていた文はその存在を知っていたが、支柱の存在はごく少数の者にしか知られてはいなかったため、はたてにはその脅威がそもそもわからなかったのだ。

 はたては、その気になれば少し動くくらいの余力はあったものの、そんな相手に立ち向かえるような状況ではない。

 そして、視線の先には、無情にもこちらに向かって再びその手を向けているにとりの姿があった。

 

「……はっ。 悪運尽きたってところかしらね」

 

 だが、そう言ったはたては、それでもまだ諦めてはいなかった。

 震えるその両足に力をこめて、無理矢理に立ち上がろうとするが、文ははたてを止めるように一歩前に出て言った。

 

「……はたては逃げて。 それと、この子たちをお願い」

「え?」

「お願いっ!!」

 

 文は、たった今まで誰がその河童たちを傷つけていたのかすら忘れたかのようにそう言って構える。

 そして、一度大きく深呼吸をして、自らを奮い立たせるように呟いた。

 

 

「――『幻想風靡』――」

 

 同時に、文の姿が消える。

 それは同じ烏天狗のはたての目にすらも捉えられなかった。

 辺り一帯に吹いた暴風は、その中心にあるはずの影を目に映さないほどに疾く、にとりを囲むように飛び回った。

 

 ――よし、これなら…!

 

 文は、チルノほどの脅威をにとりから感じてはいなかった。

 にとりが、文の速度に全く反応できていないからだ。

 幻想郷で並ぶ者がいないはずの、圧倒的な速さ。

 河童がその速度に反応できるはずがない。

 自分が恐れる鬼ですらもその速度にはついていけないことを、文は知っていた。

 文はにとりの近くを通り過ぎる際に無数の風の刃を浴びせていく。

 殺すつもりで放ってはない。

 文は辺りを暴風の網で埋め尽くし、にとりの全身を絡め取って無力化しにかかっていた。

 そして、仕上げにそのままにとりを縛りつけようと近づいた文を、

 

「―――――ぁっ」

 

 かつてないほどの悪寒が襲った。

 鬼のもとで何度も命の危機にさらされてきた文だからこそ、瞬時に理解した。

 コンマ1秒後の自分が既に死んでいるビジョンが、文には明確に浮かんでいた。

 

 文は弾丸のようににとりに向かってまっすぐに飛んでいた軌道を、無理矢理に曲げてその死から逃れる。

 その時点では、逃げるという選択肢はあくまで直感に過ぎないものだった。

 だが、自分の僅か横を過ぎていくにとりの目を見た文は、身も凍るような恐怖を確信した。

 真っ暗で、何も見えてすらいないようにしか見えないその瞳に、確かに自分の姿が映っているのが見えたからだ。

 幻想郷最速を自負していたはずの自分を、確かににとりがその暗く淀んだ目で追うように、はっきりと捉えていたからだ。

 

 そう。 にとりは、文の速度に反応できていない訳ではなかった。

 周囲を飛ぶ蚊に大して注意を向けないのと同じように、その攻撃を歯牙にもかけていないだけだった。

 そして今、にとりが鬱陶しくなった羽虫を潰そうとするが如く視線を向けただけで、文はその力量差を嫌というほどに感じ取らされたのだ。

 

 ――無理っ! 絶対無理っ!!

 

 にとりの傍を飛んでいたほんの僅かな飛翔だけで、文は自分が数百年も老けたように感じていた。

 肺が破れているかのような息切れを起こし、心臓の音しか聞こえないほどに頭は真っ白だった。

 鬼を目の前にした時ですら感じなかった明確な死のイメージは、今のにとりと戦うという選択肢を一瞬で文の中から排除し、逃亡の一択だけが思考を支配していた。

 文はそのまま空の彼方へと飛んでいく。

 決して振り返ることなく、ほんの少しも速度を落とすことはなかった。

 にとりの周囲に張り巡らせた風の網など、一本の蜘蛛の糸で猛獣の進撃を止めようとするかのように無意味なものであることがわかっていたからだ。

 だから、文はにとりの力が及ばないくらい可能な限り遠くへ遠くへと逃げ、遂に雲の中に身を隠すことに成功したが、

 

「ここまで、来れば……え?」

 

 その周囲は、いつの間にかどす黒い色に染められた雲に覆われていた。

 隙間なく帯電していく雷雲が、文を逃がさないように勢力を増していく。

 

「マズいっ!?」

 

 文は自身を囲む雲から逃げるようにその隙間を飛んでいく。

 その姿を隠せるが故に一見逃げ道として最適に見える雲の中だが、相手が今のにとりではむしろ最悪の道となっていた。

 水蒸気によって形作られた雲が、にとりの『水を操る能力』で勢力を増し、普通の天候ではあり得ないほどに電子を帯びていく。

 それは、音速の数百倍の速さで獲物を捕らえる雷の檻。

 幻想郷最速と呼ばれた文でさえも止まって見えるほどの、最速の追撃者だった。

 

「助けて、誰かっ誰か……」

 

 文は頭が真っ白になったまま必死に飛び回る。

 だが、その思考の空白は、焦りではなく徐々に寂しさが埋めていった。

 必死に助けを求める文には、もう誰も助けてくれる人はいないからだ。

 天狗仲間たちはもういない。

 神奈子や諏訪子や紫のような頼れる上司ももういない。

 椛や萃香のような友人も、もういない。

 たった一人生き残った早苗すらも、もう傍にはいない。

 どれだけ泣き叫ぼうとも、文には誰一人として残されてはいなかった。

 そして……

 

  ――お願い、助け……かはっ!?

 少し前に目にしたその記憶が、文の心を埋めていた。

 

「……いや、もういいのかな」

 

 そう呟いて、文は次第に減速していく。

 辛うじて雲の隙間を逃げ続けていた文の周囲を、蚊が一匹入り込む隙間がないほどに雷雲が一瞬で囲い込んでいた。

 だが、そんな絶体絶命の文の表情を支配していたのは、恐怖ではなかった。

 

 ――私は、あまりに多くを見捨てて長く生き過ぎた。 なら、これが河童たちを見捨てて生き永らえた私への報いなのかな。

 

 文は、観念したように目を瞑る。

 その周囲を囲う雷は次第に増幅され、文を取り囲むように電気の球と化していった。

 それが放たれた時、文の命は一瞬で果てるだろう。

 その雲は、文の力ではもう抗いようがないほどに勢力を増していた。

 

 ――だから、もういい。 どうせ、私にはもう何も……

 

「っ!!」

 

 だが、そう思いかけた文の耳に、突如として爆音が響き渡った。

 大地から数千メートル上空にいるはずの文に届くほどの、あり得ない爆音。

 文は、それに聞き覚えがあった。

 それが聞こえた瞬間、既に諦めていた文の身体が本能的に何かに怯えるように震え出す。

 

「まさか、これは……!?」

 

 そこに、もう一度同じ音が響く。

 あまりに巨大すぎる何かが大地に衝突したような、爆音。

 空を飛んでいてなお、大地に揺れが発生しているだろうことを文は感じ取る。

 そして、文は知っていた。

 その音が更に大きく、もう一度だけこの世界に鳴り響くことを。

 

 大地の震えは、大気にも伝わるかのように世界を揺らす。

 地震の予兆のように震える大気が、これから起こる惨劇に備えるよう警笛を鳴らす。

 その音がまだ文に届かなくとも、空中に舞った木々の残骸や岩が既に散っている姿が容易に想像できた。

 文はただ反射的に、周囲の雷雲に目もくれずに大地に向かって風の障壁を構える。

 

 そして――

 

「―――――――――――」

 

 ただ単純な「空圧」が、大地から真っ直ぐ駆け上るように大気を分解し、真空と化した衝撃波を天に届けた。

 上空数百メートル、数千メートル、いや、一万メートルを超えてなお衰えないそれは、雷雲の檻のみならず風の壁ごと文の全身を消し飛ばすかのように貫いた。

 自身へのダメージを最小限に抑えたはずの文は、それでも朦朧とする意識の中でゆっくりと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……やっぱり、何も変わってないか」

 

 はたては、飛んで行った文を見ながら吐き捨てるようにそう言った。

 まるでこれから自分がにとりに立ち向かうような口調で飛び立ったくせに、次の瞬間には怯えるように逃げた文に落胆していた。

 それが仕方ないことだというのは、はたてにもわかっていた。

 遠くから見据える自分ですらも、にとりの周囲に確かに死地を見たのだから。

 だが、それでもはたての目は失望の色を隠せなかった。

 

 今の文の周りは、遠目からもわかるほどに異常な量の雷雲が覆っている。

 それが誰かの力によるものであることくらい、一目でわかる。

 放っておけば文が死ぬだろうことくらいわかるが、はたてはもはや興味を抱いてはいなかった。

 にとりの目が文に向いている今なら逃げることもできるだろうが、それでもはたては脱力したままその場を動かなかった。

 

「……こんな終わり方、か。 なんてつまらない…」

「つまらないだぁ? そう思うのなら、お前が自分で変えてみたらどうだ?」

「え?」

 

 だがその時、はたてはゆっくりと歩いてくる気配に気づいた。

 それに伴って自分の鼓動が速くなっていくのを感じる。

 

「貴方は、まさか……」

「ったく、相変わらず逃げ足だけは一級品だな。 あの頃と何も変わっちゃいない」

「っ……!!」

 

 はたては、少しだけ不愉快な視線を投げかける。

 まるで、自分と同じような失望の視線を文に向けるそいつに反感を抱いたかのように。

 

「まあいいか。 これは……ちょっと、遠いか?」

「え?」

「ま、大丈夫だろ」

 

 そいつは、そんなはたてに目も向けずに一人そう言って、おもむろに一歩だけ前に出た。

 そしてその拳を構え、足を振り上げると、

 

「―――――っ!!」

 

 鼓膜が破れるのではないかというほどの轟音とともに、気付くとはたての身体は空高く舞い上がっていた。

 はたてだけではない、河童も、岩も、周囲にある全てが衝撃で空に放り出されるように舞っていた。

 周囲の景色が、巨大な地震の震源地のように縦に揺れている。

 だが、はたての目を奪ったのは揺れる世界ではない。

 足元には巨大な隕石が落ちたのではないかと思うほどのクレーターができ、その前後では地殻変動を起こしたように大地が盛り上がり、空へと向けた高台が作り上げられていた。

 

「――四天王奥義――」

 

 そして、次の一歩を踏み出す。

 その一歩は、加速。

 後方に盛り上がった大地を蹴り崩して加速し、今度は世界を横に揺らして地形を塗り替える。

 前方の高台の頂点に向かって加速する右手は、強く握りしめられすぎて朱く腫れ上がっている。

 そして、その三歩目が大地に着く寸前、

 

「『 三 歩 必 殺 』」

 

 その宣言が聞こえたのは、声を発した本人だけだった。

 超新星爆発のごとく辺り一帯を消し飛ばして暴走した拳圧は、あらゆる方角に暴風と爆音を生み出した。

 自身の横や後方にあった全てを余波だけで紙切れのように吹き飛ばし、前方にある全てを何も存在しなかったかのように塵と化す。

 そのまま真っ直ぐに伸びた衝撃波は、大きく膨れ上がった雷雲さえ欠片一つ残さないほどに掻き消して天への道を繋いでいた。

 そして、嵐のような暴力が過ぎ去った後に残るのは、まるで長い戦争を終えた地のように荒れ果ててしまった世界だけだった。

 

 ――これが、伝説の……

 

 はたては噂でしか聞いたことのないそれを初めて目の前にして、身の震えを止めることができなかった。

 一歩で景色ごと硬直させ、望む世界に塗り替える。

 二歩でその世界ごと破壊して、時を置き去りにする。

 三歩でその破壊に標的ごと巻き込んで、全てを滅する。

 それが三歩必殺。

 かつて幻想郷最強の暴力と恐れられた鬼の四天王、星熊勇儀の全力だった。

 

「あ、ヤバっ。 やりすぎたかな……」

 

 核兵器とすら渡り合えるのではないかという技を出した勇儀は、その震源地ともいうべき場所で頬を掻きながら苦笑していた。

 そして、慌てて周囲を見回すと、既にボロボロのはずのはたてが腰を抜かしながらも9匹の河童たちを物のように無造作に、それでも守るように自分の後ろに移動させていた。

 

「ははっ、すまないねえ。 ちょいといきなり過ぎたか」

「いえ。 ご協力、感謝します」

「はあ? ……何故私がお前に協力しなきゃならない?」

「え?」

「私はただ、獲物を狩りに来ただけさ。 だから、お前が何を勘違いしているのかは知らないが、とりあえず――」

 

 勇儀が目を向けた先には、にとりの姿があった。

 自身の力を遥か遠方から掻き消されたにとりは、勇儀に確かな敵意を向けていた。

 だが、敵意を向けられているはずの勇儀は、なぜか楽しそうに笑っていた。

 

「アレは、私に任せてくれないかい?」

「それは…っ!!」

「いいから、任せな」

「ま、待ってください! あいつの始末は、私が…」

 

 だが、次の瞬間はたての本能が警告を発した。

 それは、そこにいてはいけない、それに逆らってはいけないという拒絶反応だった。

 

「邪魔だ、ってのがわからないのか?」

「っ――――」

 

 勇儀に睨まれたはたては反論の一つもできなかった。

 ただ、何かを耐えるように唇を噛みながら、河童たちを両手に抱えてその場から一目散に逃げ出した。

 それは、結果的には今のにとりを目の前にすることの危険からはたてや河童たちを遠ざける正しい判断だったかもしれない。

 だが、勇儀は別にはたてや河童たちを気遣ったわけではなかった。

 勇儀の目には、既にはたての姿など映っていない。

 まるで目の前にごちそうが並んでいる肉食獣のように、にとりに向かってその目は見開かれている。

 

「――さあ、楽しい祭りの始まりだ――」

 

 そして、勇儀が愉悦の表情でそう言うと同時に、にとりが動いた。

 突如として現れて隙間なく視界を埋め尽くした水の弾丸が全てを貫いて、貫いて、貫いて、跡形も残さぬほどに景色に無限の穴を開けて空へと還っていく。

 そこに残っているのは、僅かに一つの影。

 

「はっ。 それじゃ、ヌルいんだよ!!」

 

 その影に向かった弾丸は逆風によって速度を奪われ、ただの水滴となって大地に落ちる。

 文ですら操れるかわからないほどの強風を、勇儀はあろうことか拳圧だけで創り出していた。

 そのまま大地を蹴った勇儀は、吸血鬼を思わせるかのようなスピードで距離を詰めていく。

 僅かに威力の残っていた弾丸も、皮膚という名の鎧に弾かれるようにただの水飛沫と化していった。

 

「シャッ!!」

 

 そして、勇儀はその拳を振り抜く。

 にとりを守るように現れた水の壁が、勇儀の拳で変形して簡単に飛び散る。

 それでもなお威力の落ちない拳は、そのまま正面の大地を塵に変えて巨大な穴を空けた。

 

 だが、そんな状況でなお、にとりは顔色一つ変えずにそれを避けて飛び上がっていた。

 それに合わせるように勇儀が目線を上げた先にあったのは、霧に覆われた世界。

 既ににとりの姿が見えないほど水蒸気が充満した空間に、限りなく薄く研がれた無数の水の剣が浮かんでいた。

 あらゆるものを切り裂く、最高の切れ味を誇る刃。

 それを前にした勇儀は、子供のように笑った。

 

「いいねぇ……ゾクゾクしてきたよ」

 

 勇儀は、その拳に力を纏う。

 それは霊力や魔力のような特殊な力ではない。

 単純に、強く拳を握りしめただけである。

 それでも、上空へと跳びながら硬度を増したその拳を振りかざすと、その空圧で刃の先端がひしゃげてただの水飛沫へと変わっていく。

 

「だが、こいつで終わりだ!」

 

 そして、再びその拳を振りかぶった勇儀の目線の先には、既ににとりの姿があった。

 恐らく最後の一口となるであろう御馳走を楽しもうとするかのように、勇儀はその決着を確信していた。

 どれほどの力を持った相手だろうと、次で終わりだということを知っていた。

 

「あ?」

 

 だが、それでは終わらなかった。

 勇儀が目の前に突き出した拳圧は確かに大気を切り裂いていたが、にとりの前に突如として現れた闇の盾に、勇儀の腕の肘から先が飲み込まれて消えていた。

 

「……ははっ」

 

 それでも、勇儀は笑っていた。

 それに合わせるように全身から溢れだした「気」が、辺りを揺らすように膨れ上がって飲み込まれた勇儀の腕に集まる。

 

「しゃらくせえええええええ!!」

「――――――っ!?」

 

 そして、地を揺らす掛け声とともに勇儀がその腕を振ると、勇儀の腕を飲み込んでいたはずの闇が爆ぜて飛び散り、そのまま拳が油断したにとりの体を直撃していた。

 強く圧縮され過ぎたその衝撃波で辺りの景色は殺風景なほどに消え去り、辺りにはもう何も残らなかった。

 そこにはただ、戦いの後とは思えないほどに疲れの見えない勇儀が、一人名残惜しそうに立っているだけだった。

 

 腕力、硬度、速度。

 その全てが幻想郷の頂点に立てるほどの、異常な身体能力。

 それが、勇儀の強さだった。

 勇儀には能力というものが存在しない。

 『怪力乱神を持つ程度の能力』というのは、実は勇儀の持つ特殊な能力などではない。

 それは、自身の右に出る者などいない計測不能な力と、その腕一本で世界を揺るがすこともできるという絶対の自信を表すための、ただの言葉遊びに過ぎない。

 能力も技術も小細工も、全てを拳の一振りで一蹴する。

 そんな、幻想郷最強の種族と呼ばれるに相応しい力を勇儀は自負しているのだ。

 

 だが、その圧倒的すぎる力は、次第に勇儀から本気で戦うという選択肢を奪っていった。

 勇儀には、戦いの最中であっても、相手の攻撃から逃げるという選択肢はほとんどない。

 たとえ相手が何をしようとも、ただまっすぐ前に進み、拳を突き出すだけの戦闘スタイルで、それでも勝ち続けることができるからだ。

 魔理沙や霊夢と勝負をした時でさえも、実は勇儀は全く本気になってなどいなかった。

 どんな相手だろうと、自分が全力になれば対等な戦いになること自体が皆無に等しいため、手加減をしながらいかに戦いを楽しむかという傲慢な思考に根底から支えられ続けてきたのだ。

 

 それ故に、勇儀にはこの状況では致命的な欠点があった。

 

「……さーて、もうお終いかな」

 

 勇儀はもう、にとりの末路に目を向けてすらいなかった。

 最後の瞬間、闇の力の防御に慢心したのか、にとりはほぼ無防備だった。

 自分が本気で突き出した拳を、そんな状態でくらった者が原形を留めているはずがないことを勇儀は知っていた。

 勇儀はにとりが消し飛んだだろう方向に背を向けて次の戦場へと歩き出そうとする。

 それが、この状況における勇儀の致命的な欠点だった。

 自分と並ぶ者がいなかったが故の、退屈、慢心。

 

 そして、命の危機への疎さ――――

 

「……ほう?」

 

 勇儀は、誰かが背後から迫る気配を感じて振り返る。

 たとえ粉微塵にならなかったとしても、少なくとも山の麓くらいまでは吹き飛ぶはずの拳打を受けたにとりは、既に勇儀が目視できるほどの距離にいた。

 さらに言えば、勇儀の全力をその身に受けたとは思えないほどに、にとりの負傷は微々たるものだった。

 その異常事態ともいうべき状況で、勇儀はにとりを歓迎するように笑っていた。

 

「ははっ、面白い! だったら……あれ?」

 

 そう言って軽く腕を回そうとした勇儀は、異変に気付く。

 闇に飲まれてダメージを負ったのではない。

 水の力で切り裂かれたのでもない。

 ただ、ついさっきまで確かににとりを殴り飛ばしていたはずの自らの腕を、上げることができなかった。

 その腕が自分のものではないと感じるほどの、圧倒的な違和感があった。

 

 

   ――動スルコトヲ、禁ズ――

 

 

 そして、突如としてにとりがその身に纏った闇が溢れんばかりに増幅していく。

 そこにあるのは、にとりという一個体が抱える嘆きだけでは説明できないほどの、異常な負の記憶。

 全ての怨霊を引き受けたかのように止まることのない無限の負の連鎖。

 その威圧感は、今まで目の前にしていたにとりの比ではなかった。

 

「あん? 一体何、が――――っ!?」

 

 怪訝な表情のまま無防備な体勢でいる勇儀の前に、目にも止まらぬ速度で踏み込んだにとりは、いつの間にか片手で絞めるように勇儀の首を掴んでいた。

 その巨体を、にとりはそのまま軽々と持ち上げる。

 慌ててそれを振りほどこうとする勇儀だったが、

 

 

   ――抗スルコトヲ、禁ズ――

 

 

「な、にっ……」

 

 その身体は、硬直したように動かなかった。

 指一本動かすこともできないまま、刃すらも通さない勇儀の鋼の皮膚に次第ににとりの指が食い込んでいく。

 それを弾き返そうにも、首の筋肉に力を入れることすらできない。

 流石の勇儀も首を引き千切られるほどの圧力を前に、その顔色が青ざめていく。

 そんな勇儀の目に、それをただ冷たい目で見据えるにとりの姿が、半分闇に隠れながらも少しだけ入った。

 

「なっ……!? どう、して、お前が……」

 

 そして、何かに気付いたように辛うじて勇儀がそう口にするのとほぼ同時に、

 

 

   ――生スルコトヲ、禁ズ――

 

 

 戦いは、終わった。

 

 

 

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