東方理想郷 ~ Unknowable Games. 作:まこと13
多少の表現違いはありますが基本的には内容自体は変えていないので、これまで読んでくれた方も特に読み直す必要はありません。
東方理想郷 ~ Unknowable Games.
第23話 : 目覚め
「力業『大江山颪』!」
大地が飛び散った。
開戦と同時に足元を踏み飛ばした勇儀は、衝撃で浮き上がった山ごと辺りの景色そのものを掴んで放り投げる。
飛翔するその岩盤に合わせるように乗った文は、地を蹴るが如くそこから飛び立つ。
最強の遠投に最速の飛翔を掛け合わせたその速度は、土煙の中から一瞬で文を遥か上空へ飛ばしていた。
「『サブタレイニアンサン』!!」
そして、宙に舞った山というあまりに巨大な塊の裏で、それでも隠しきれないほどに溢れ出した太陽の光は、月光が遮られた世界を眩しく染め上げる。
「――『無双風神』――」
そんな光の世界に自らの影というものを残さぬほど疾く、それは天から降り注ぐ雷光の如く飛び立つ。
その連携に、一切の手加減はなかった。
足場を失っている内に、全てを飲み込む嵐のように辺りを覆い尽くす崩山の塊。
そこを襲う、前方の最大出力と上方の最速。
初撃から、全員が全力の一手のはずだった。
だが、みとりはそれを止めるための能力を使うことも……いや、目を向けることすらもなかった。
「はあ!?」
「あれっ……なんで!?」
「っ、ぐっ!?」
嵐のように不規則に降る山は、偶然にもみとりのいる場所だけを避けるかのように弾道が外れていく。
暴走しかけた太陽エネルギーは、偶然にも数百年に一度の休止期を迎えたかのように小さく萎む。
飛翔の速度を遮るかのように、偶然にもみとりへと続く軌道の全てを塞ぐほどに崩山の塊が集中していく。
それは普通ではあり得ないほどの、偶然の重なりだった。
だが、それは100回やって100回起こるほど必然の出来事だった。
因果律にまで刻み込まれた「みとりの敗北の禁止」という法則は、数億、数兆、数京分の1を下回るほどの確率すらも当然のように起こしていく。
そして、まるでスローモーションになった世界を歩くかのように簡単に3人の包囲網から外れたみとりは、その背に不自然に生えた翼を、広げた。
そこまでは、視認できた。
次の瞬間、世界は暴風に覆われていた。
その暴風はただの移動。 質量をもつ物体が最速の飛翔をしたために発生したただの風圧。
だが、その風に煽られて僅かに瞬きをした後の視界には、もうみとりはいなかった。
気付いた時には、みとりは移動したことも悟られないほど瞬時に文の背後をとっていた。
それを遠巻きに見ていたお燐が、とっさに叫ぶ。
「伏せなっ!」
だが、「音」などという遅い伝達手段が届くはずがなかった。
辛うじて文の命を救ったのは、怨霊と思考をリンクさせたお燐からの電気信号だった。
いざという時のためにお燐が文の背に貼りつけていた怨霊が、弾けるようにみとりの視界を塞いだのだ。
お燐はそれでみとりが一歩でも退いてくれることを期待したが、みとりの纏ったエネルギーは近づいただけで怨霊など存在しなかったかのように無に還す。
自分の本来の役割をそっちのけで放ったお燐の切り札は、コンマ一秒に満たない時間しか稼げずに潰えた。
だが、それほどの時間がありながら何もできないほど文は凡庸ではない。
反射的に身を屈め、振り返りざまに次の一手は実行されていた。
――竜巻『天孫降臨の道しるべ』――
自分が次にとる戦術を、他の3人に伝えるためのスペル詠唱。
それを、今の状況で言葉に出す余裕はなかった。
だが、それでも勇儀だけは文の微かな動きから次の一手を予測して即座に動き出す。
文が放ったのは、自分とみとりを囲う大きな竜巻。
それと同時に、文はみとりと交差するように飛び立つ。
みとりも、文を追うように即座に飛び立つ。
文と今のみとりの速度の差は歴然だった。
それでも、交差して飛び立ったが故にみとりに必要な「振り返る」という動作が、2人のスタートの早さに大きな差をもたらしていた。
元々の距離の差などすぐに詰まっていくが、竜巻の内外を通過する際に起こる一瞬の視界の遮断と軌道の変化が、その度に2人の距離を離しては再び縮めてを繰りかえす。
竜巻の中と外を行き来しつつ縦横無尽に飛びながら、文はその時を待っていた。
そして、まさに文の背にみとりの手が届く寸前……文は竜巻の風速を急激に上げてその中に突入し、一瞬みとりの視界から消えたかと思うと逆側へと飛んでいた。
自分が張り巡らせた竜巻の中でその流れにうまく乗った文とは違い、竜巻の中での方向転換はみとりへ僅かな負担を強いる。
その、たった一瞬の静止時間。
その一瞬に飛び出していたのは、その竜巻の螺旋軌道に乗るように加速し、腕を振りかぶった勇儀だった。
「止まりやがれ、みとりッ!!」
文はただ逃げようとしていたのではない。
みとりの注意を引き付けつつ、その本命を悟らせないように距離をとり、タイミングを見計らっていたのだ。
文が飛んで行った方向の真横、つまりは竜巻の中で急ブレーキをかけたみとりの真横に飛び出した勇儀は、まだ自分に気付いていないだろうみとりに向かってその全力を風に乗せる。
そして、その拳を振り抜く刹那、
「え……?」
勇儀は目を疑った。
気付くと、視線の先にあったのはみとりの姿ではなかった。
そこにあったのは、自分が振り抜いた拳を正面からがっしりと掴んで不敵に笑う、鬼の頂点である鬼神の姿だった。
――何故、鬼神様がここに?
だが、冷静にもう一度視線の先を見据えると、それが見間違いであったことに気付く。
そこにあったのは、自分とまっすぐ拳をぶつけあって互角に火花を散らす、かつての宿敵である萃香の姿だった。
いや、それも違う。 勝てるはずの相手からすらも無様に逃げ続ける、情けない文の姿だった。
そして、その文の姿がいつの間にか、一人寂しく暗闇に佇み、虚ろな目で自分を見てくるみとりの姿に変わっていたことに気付いた瞬間――
「逸れろっ!!」
「なっ……」
文は竜巻の流れを変えることで勇儀の軌道を逸らして下方に叩き付け、振り抜かれた勇儀の拳は深く沈みこんだはずの大地をそれでも砕いていた。
「射命丸! 何を、して…」
勇儀は文を責めるように視線を上げる。
その視線の先では、本来ならば勇儀がいたはずの場所に向かって、みとりが振り返りざまに斬るような蹴りを放っていた。
その衝撃で辺りを覆う竜巻が真空波と化して消滅し、切断された空間は悲鳴を上げるように歪んでいく。
そして、あまりに大きな歪みに耐え切れずに生じた空間の狭間から、微かに見えた巨大な鉄の塊が折れて塵と化す。
その光景は束の間の夢だったかのように、次の瞬間には消失していた。
文たちは言葉を失った。
まだ幻想郷にはない、未だ幻想入りしていないはずの外の世界。
それが見えたという事実は、みとりのたった一度の蹴りで幻想の理が一瞬とはいえ崩され、外の世界すらも破壊したことを意味していた。
たとえ起こらなかったとしても、もし2人の攻撃が交わっていた場合の未来は、見えていた。
いや、危機察知能力の高い文だからこそ、それが見える前から気付いたのだ。
文がとっさに勇儀の軌道を逸らしていなければ、既に星熊勇儀という存在が世界から完全に消え去っていただろうことを。
「……潮時、か」
お燐がそう呟いた。
だが、まだ開戦から10秒と経っていない。
みとりから怨霊を引き剥がし終わるには、まだ早すぎるはずだった。
お燐は、その作業を終えていたのではない。
既に、この作戦の継続を諦めていたのである。
みとりが未だ掠り傷一つ負っていないにもかかわらず、生まれて初めて走馬灯というものを、世界の理をも破壊する力を目の当たりにして呆然としている勇儀に気付き、完全に戦意を喪失していたのだ。
お燐にはもはや、異変を解決することや、勇儀を死なせないことなどに思考を割く余裕はなかった。
この状況でいかにして自分が、空が助かるかということに思考をシフトさせる。
それはつまり、みとりを助けるための手段が、もう機能していないことを意味していた。
――『死灰復燃』――
辺りに残る怨霊の残照が集束し、視界を包んでいく。
みとりの天敵である、負の感情を食らう怨霊で自分や空の前を壁のように覆うことで、みとりの標的から外れようとしたのだ。
そして、我に返って再び核の力を集わせ始めていた空に向かって叫ぶ。
「逃げるよ、お空!」
「え? でも、お燐!!」
お燐には冷静に空を説得する余裕が、いや、反抗する空の言葉を聞き入れる余裕すらもなかった。
ただ感情のままに叫ぶことしかできなかった。
「いいから早く!!」
「……嫌だ」
だが、空がそれに納得する訳がなかった。
危なければ文や勇儀を見捨てて逃げていいと言われてはいたものの、空も身を賭してでもみとりを助けたいと思っていたから。
空は自らの内のエネルギーを絶やすことなく燃やし続ける。
「私は、絶対にみとりさんを助けるんだ!」
「お空っ!!」
「鴉符『八咫烏ダイブ』っ!!」
次第に熱を帯びていく核の暴走は、辺りを熱帯に変えてなお留まることはない。
空は再びその力を身に纏い、みとりに向かって飛翔する。
――あれは……マズいっ!!
だが、それは悪手だった。
そんな出来合いの力では、とても今のみとりに太刀打ちすることはできない。
その選択が無駄に命を散らす一手であることは、文には瞬時にわかった。
空を失う訳にはいかない。
いや、誰か一人でも欠けさせる訳にはいかない。
そう思った文は、空が速度に乗り切る前に止めようと全速力で飛ぶ。
「危ないっ!!」
熱く膨れ上がった空のエネルギーに触れた文の手は、風の鎧を纏ってなお深刻なほどに焼け爛れる。
それでも、空の速度をものともせずに回り込んでいたみとりの前から、文は間一髪で空を押しのけていた。
だが、その判断は遅すぎた。
突き飛ばされた空の視界に次の瞬間映ったのは、飛び散った一面の血の色。
空は辛うじて助かったが、そこで終わり。
身を挺してみとりから空を助けた文の命は、そこで潰えるはずだった。
だが、空の目に映った血濡れの文は、それでも無事だった。
その色は、文から発されたものではなかった。
「え?」
「よかった……」
文は目の前で起きているそれを理解できずに、ただ呆然と声を漏らした。
文を庇うように立ち塞がった一人の烏天狗から飛び散った何かが、その視界を埋めていた。
そして、無情にもみとりがその手をもう一振りすると同時に、
「はた、て……?」
「やっぱり、文さんは…」
文の無事な姿を見て安堵の笑顔を浮かべかけたはたての姿が、空間の歪みとともに蒸発するように消滅した。
誰一人として動けなかった。
そのあまりに凄惨な光景に、言葉を発することすらできなかった。
「あ、ぁぁぁあああああ”あ”あ”あ”っ!?」
その沈黙を破ったのは、文の悲痛な叫びだった。
はたてが、死んだ。
それは萃香や椛を失った時のように、僅かでも縋りつける可能性が残っている出来事ではない。
闇に飲まれたのでもなく、文の目の前で肉片も残らぬほど木端微塵に消し飛んでしまったのだ。
はたてが吸血鬼のような再生能力や特殊な力を持っている訳でもなければ、消し飛んだのが偽物の身代わりである訳でもない。
それを否定し得るものなど、何もない。
いくら泣き叫ぼうとも、それが現実だった。
――なんではたてがっ。 嫌だ何でっ、どうしてっ!!
文を支配していたのは、後悔。
自分がこんな選択をしなければ。
いや、それだけじゃない。
恐らく作戦が失敗するだろうことは、薄々わかっていたことだった。
みとりが起きた瞬間に感じた悪寒は、この作戦の無謀さを認識する最後のチャンスだった。
それにもかかわらず、退き際を誤ってしまった。
今の自分なら何にだって立ち向かえるのだと、驕ってしまった。
諦めたくない、などという根拠もない希望に縋っていなければ。
そうすればこんなことにはならなかったという、取り返しのつかない後悔の念があるだけだった。
「逃げなっ!!」
そんな文の目に入ったのは、お燐が最後の力を振り絞ってみとりを囲うように召喚した怨霊たちだった。
それは、現実を受け入れられず狼狽する文と、ただ呆然と立ち尽くす空を逃がす隙をつくるための、お燐のとっさの行動。
だが、文はそこから動かなかった。
「あ……」
「何やってんだい、早く…」
動けなかったのではない。
あることに気付いて、動かなかったのだ。
――……そっか。 そういう、運命か。
文の視界を埋めるのは、お燐が召喚した怨霊の壁。
そこには、お燐が焦って怨霊を動かしてしまったが故に、みとりから引き剥がすことに成功した一部の怨霊が混じってしまっていた。
それは本来なら後は消滅させるだけの、闇の力の残照。
だが、それに気づいた文は…
――もう、いい。 私はもう、自分の未来なんていらない。
――私には、もう何もないから。
突然、自ら怨霊に向かって手を伸ばした。
「っ!? 待って、お姉さん何を……」
だが、お燐がそれを止める間もなかった。
その目から溢れる涙を拭うことすらなく、文はそこにある怨霊たちをその手で握りつぶすように自らの内に取り込む。
――だけど最後に、はたての想いだけは私が成し遂げてみせるから――
そして、世界はどす黒く染まった。
文を襲うのは、思考を奪い、その存在自体を乗っ取ろうとする怨霊の侵食。
何もかもを黒く塗りつぶし、闇に染めようとする邪悪の力。
自らの全てを奪われるような、耐えがたい感覚が文を蝕んでいるはずだった。
だが、文はそれを自然と受け入れていた。
文には元々、闇の力の素質があった。
その根底を支配しているのは、虚無。
かつては孤独の極地を越えて生きてきた文だからこそ、いや、再び希望を得ていたからこそ、その反動は大きかった。
そこにあるのは、信じる全てを失い、最後に残されていたたった一つの心の支えさえも失い、心が空っぽに潰れていく無感情。
それは無感情であるが故に、全ての闇を受け入れる。
そして、その果てに辿り着く、一つの結末。
≪――お前は、何を嘆く――≫
≪――何を、憎む――≫
その感情は、文を深い闇に導いていく。
取り込んだ当初は、ただ目的のために利用しようと考えていた闇の力。
だが、それは簡単に制御できるような甘い力ではなかった。
その気がなくとも極限の中で曲解されていく負の連鎖に、文の全てが侵食されていく。
「私は、お前に……」
「待て、射命丸!! お前は…っ」
「マズいよ、逃げなっ!!」
そんな文に向かって、再びみとりがその力を開放する。
それに気づいたお燐が叫ぶが、その声はもう届かない。
だが、それが放たれる瞬間――
「……この、世界に」
言葉が届くより遥か前に、文は消えた。
消滅させられたのではない。
今のみとりの目にすら映らない漆黒の塊は、いつの間にか空高く世界を見渡していた。
そして……
――復讐を――
それは、完成した。
支配された無感情は、虚構の隙間を埋めるように刹那的な嘆きと憎悪を積み上げ、文の力を変容させる。
――破滅を――
そして、世界は巨大な竜巻に断ち切られる。
視界を真っ二つに割った風は、そのまま分断された大地の位相を更にずらすかのように、地球という星そのものを分解しながら沈み込ませて勢いを増していく。
やがて誰の目にも映らないその姿は大気そのものと同化し、残像さえも残さぬほどに加速して全てを覆いこむ。
その速度は今のみとりさえも超えて……いや、速度などという概念では測れないほど、存在が世界に溶け込んでいった。
――ならば、それを超える力を――
すると、その文の速度さえも超えられるように、法則が再びみとりの身体を変容させる。
だが、それは既に河童の、個として生きる者の耐えうる限界を遥かに超越していた。
鬼という、力の頂点に位置する種族の四天王を超える腕力。
太陽神という、最強のエネルギーを持つ存在を超える破壊力。
その身体の限界を超えて命を削り、一時的に成した力。
だが、そこに加わるのは闇の力を纏った大天狗の、最速を遥かに超えた概念。
それは本来が飛ぶ種族ではない河童の身体構造で耐えられるものではなかった。
その身に宿し得る力の最大容量を超えたみとりは、無理矢理に強大化される変化に耐え切れず、先に精神が自壊するように苦しみ始める。
そんなみとりに向かって、文は容赦なくその力を放つ。
「―――■■■■■■■!?」
みとりが声にならない声を上げる。
それは大気の流れ全てを、みとりの体内の空気さえも沸騰させ暴走させていく竜巻の力。
内側と外側から全てを引き裂く、絶対の破壊だった。
だが、みとりを死に誘う力を発し続けるほどに、みとりを敗北へと導こうとする文の身体は、相反する法則に殺されるかのように崩れ落ちていく。
それでも、まるで自らの存在そのものに興味がないと言わんばかりに、文が止まることはなかった。
「っ!? 待て、射命丸! そんなことしたら…」
文が、死ぬ。
みとりが、死ぬ。
焦ってそう言いかけて、勇儀は言い留まった。
たった今、目の前で親友を殺された文に、自分は何を言おうとしているのか。
自分の身を案じろなどという腑抜けた物言いを、それでもみとりを助けろなどという残酷な物言いを、今の文にしようというのか。
だが、そんな考えが浮かんでほんの一瞬だけ躊躇った勇儀の目に入ったのは、明らかに現状に苦しんでいる文の姿だった。
その足は今、肉眼ではっきりと認識できるほどに止まっていた。
文はじっとその力をみとりに向けながらも、涙を噛み殺しながら唸るような声を上げていた。
「……ちっ。 あの、バカ!!」
勇儀は、そう吐き捨てて拳を握りしめる。
かつてはただの弱虫だった文が、今は自分さえも遥かに超える力を得てそこに君臨している。
だが、それでも勇儀にはわかっていた。
たとえどれだけ力を得ようとも、その根底が完全に変わることなどないのだと。
文が、誰かを傷つけようと望んではいないことを。
たとえ何を奪われようとも、自らの身が滅ぼうとも、それでも文が本心ではみとりを、にとりを助けようと望んでいることを。
「目ェ覚ましやがれ、射命丸!!」
そして、勇儀は空高く地を蹴る。
あまりに次元の違う力を前に、その行動を抑止しようとする自らの本能など関係ない。
それは、その後のことなど考えていない、退くつもりなど全くない特攻だった。
だが、無我夢中で勇儀が伸ばしかけた手は、
「――近づくな、勇儀っ!!」
唐突に眩しく光った世界に遮られる。
気付くと、勇儀が伸ばした手は反射的に引っ込められ、文から距離をとっていた。
「なっ……これ、は」
その光と同時に勇儀の耳に届いた声は、なぜか文の口から発されていた。
それでも、勇儀は今自分を襲っている感覚に、覚えがあった。
自分の意志とは関係なく通される、絶対の禁止命令。
それを信じることができなかった。
そんな勇儀の目に飛び込んできたのは、さっきまで文に身体を引き裂かれようとしていたみとりの姿……ではなかった。
そこからは既に闇の力など感じられない。
そこにいるのは特段の力など持たない、一人の河童。
気を失い、力なく地に落ちていこうとするにとりの姿だった。
「燐!」
「――っ!!」
お燐のことをそう呼んだのは、文だった。
とっさのことにもかかわらず、お燐は何を求められているかを瞬時に察したかのように、落下しかけたにとりの身体をギリギリのところで受け止めていた。
だが、その声を発した文は、正気に戻っていた訳ではない。
口ではそう言いながらも、振り上げられた文の手からは天空をかき混ぜるように広がった巨大な竜巻が渦巻いている。
その力が更に強大化されるに伴って、文の身体はひび割れて崩れ落ちていく。
それは、いわば捨て身の破壊。
その命を犠牲にして全てを滅ぼそうとする力の暴走。
だが、文はあまりに巨大な力を前に苦悶の表情を浮かべながら、
「――自壊を、禁ずる――」
自らそう呟くとともに文の身体の崩壊は減速し、その姿は自然と大気に溶けていった。
まるでその精神が何かに乗っ取られたかのように、文の言動と行動は相反していた。
それでも、世界一つを消し飛ばさんほどの暴風は空高く昇り続け、天空を染め上げる。
そんな中、現状を理解しきれずに唖然としている勇儀たちに向かって、どこからともなく声が降ってくる。
「勇儀、空っ! ボーっとしてんな、お前たちで何とかしろ」
「ま、待て!? お前は…」
「まさか、みとりさん…」
「口答え禁止!」
「んっ!?」
すると、空の口が何かに縫い付けられるように閉ざされる。
「言いたいことがあるなら後で聞く! だから…」
瞬間、その声は奇声のような叫びに断ち切られる。
天より高く昇って宇宙の無空にまで届いた風は、やがて星々の流れに干渉し、星一つを荒野に変える大気の断層と化す。
文の存在が大気に溶け込み、そのまま世界を滅ぼす天災となって降り注ぐ。
だが、それは今までの文の速度を前にしていた者の目には、あまりにゆっくりと映った。
巨大すぎる隕石の落下が遅く見えるように、あまりに大きな力の前では、もはや速度など感じられなかった。
闇の力を得た文が自らの全てを犠牲にして放っただろう破滅への導きは、まざに絶対神の所業とでも言うべき絶望。
勇儀も空もお燐も、自分という一個体のちっぽけさを、無力さを、一目で刻み込まれるように理解した。
「だから…今は、こいつを止めてやってくれ!!」
それでも、最後に虚空から降り注ぐように響き渡ったその声は確かに勇儀と空を信じていた。
まるで竜巻の中心に二匹の蟻を放り込むかのように無謀な選択を、本気で主張して消えていった。
その声とともに、空は我に返ったように遥か天空に消えた文を探す。
その脳裏に浮かぶのは、親友を失った文が嘆く姿。
たとえ会って間もなくとも、それでもみとりを助けるために一緒に戦った友が、一人もがき苦しむ姿だった。
「……手伝って、お燐」
「え?」
「私は逃げない。 今度は、私があの人を助けるんだ!!」
空を支配していたのは、絶望ではなかった。
みとりの声が聞こえたから。
既に諦めかけていた作戦に、僅かながらも希望が見えたから。
たとえどれほどの困難だろうと、それを成し得る可能性を見出せたから。
「……はぁ。 ま、どっちにしろダメならここで死ぬんだ。 なら、あたいはあんたに賭けるよ、お空」
「うん! ありがと、お燐!!」
ならば、きっと文を助けることだってできるのだろう。
友達を信じると、助けると誓った空の決意は、消えることなく更に燃え盛っていく。
お燐と勇儀が、そしてみとりまでいるのなら、きっと何だってできると信じていた。
空の目は、お燐の諦めの色を光に染めんばかりに、強く輝いていた。
だが、その一方で勇儀の顔色は優れなかった。
空のように一時の希望に縋れるほどの余裕はなかった。
今勇儀が直面しているのは、本来ならば何よりも勇儀が求め続けてきたはずの、絶対なる強者との戦い。
それでも、今の勇儀に楽しげな表情はなかった。
――アレは、無理だ。
勇儀には、わかっていた。
遥か上空から降ってくるその力が、自分の手に負えるものではないことを。
空の全力さえも、あっけなく掻き消してしまうものであることを。
勇儀の脳裏にあるのは、限界を悟った冷静な思考。
たとえ自分が幻想郷最強などと呼ばれていることの自覚があろうとも、それでも知っていたから。
自分たちに決して超えることのできない世界があるという諦めが、その記憶に刻まれていたから。
『……ちょいと弱気が過ぎないかい? 怪力乱神』
「っ―――!?」
だが、そんな勇儀に向かって響いたのは、一つの声。
幻聴か。
聞き違えか。
それでも、聞こえてきたその声は、文の声色ではなかった。
今ここにいないはずの声の、小馬鹿にしたような口調だった。
「……萃香、か?」
勇儀の声に、返事はなかった。
もう、逃げ場などないのだから。
お喋りする余裕があるのなら、その前に実行してみせろと。
まるで勇儀にそう叱咤するかのように、その声はもう聞こえてくることはなかった。
だが、それは確かに勇儀の心の奥深くを揺るがすほどに響き渡った。
冷静な思考を、吹き飛ばした。
きっかけになったのは、今の勇儀を形成させる最も大きな要因の一つであったその声。
――そうだ。 私は今まで、一体何を忘れていた。
何より、忘れかけていた一つの単語。
勇儀の奥に眠っていた何かが暴れ出すかのように、辺りに殺気が溢れていく。
――私は一体、今まで何をしていた?
そして、突如として世界は静寂に包まれた。
いや、膨れ上がった竜巻が悲鳴を上げ、あまりに大きな騒音が辺りを覆っているはずだった。
それでも、極限まで研ぎ澄まされた勇儀の感覚は、静寂に包まれていると思えるほど静かに、自らに問うた。
◆
――いつからだ。 私が逃げるようになったのは。
戦いからではない。
ただ強くあるという決意。
貫き通せなかったその信念から逃げるようになったのは。
鬼符『怪力乱神』。
何故それが自分の初手に、遊びになってしまったのか。
誰にも測り知れない力、誰にも届き得ぬ絶対の力。
いつからそれが、ただの言葉遊びであるなどと言うようになったのか。
臆病な烏天狗を、導けなかった時か。
病んだ河童の魂を、救えなかった時か。
死した宿敵の雪辱を、果たせなかった時か。
――嗚呼。 なんと見苦しき言い訳か。
誰かのせいなどではない。
本当はただ最初から、自分が逃げていただけだった。
その昔、鬼神に打ち負けた時。
鬼の四天王などという称号を与えられ、退治されることすらなく生かされた屈辱。
かつて、閻魔に屈服させられた時。
実力者の選別などという名目で土をつけられ、死を選ぶ自由すらなく旧地獄の管理を一任された恥辱。
それらを受け入れてしまった時、勇儀の中の『鬼』は死んだのだ。
それでも、勇儀の胸には消えることなき決意だけが宿る。
いつか鬼神様を超える。
いつか閻魔様を超える。
そんな、鬼としての名目に縋り付こうとするかのような、見せかけの決意が形成されていく。
――嗚呼。 なんと浅ましき決意か。
敗北を、強者との戦いを求めるなどと言いながら、本当は自分の中の鬼が完全に否定されることを恐れていただけだった。
好戦的な振る舞いと、負けを負けと認める潔さは、自分が鬼としての矜持を捨てていないと信じ込むための、不安の裏返し。
周囲の目を、そして自分自身の信念を騙し続けるための強がり。
そんな偽りの決意を抱えたまま、何もできずにどれだけの時間を無駄に浪費したのか。
それでも、勇儀は長い年月をかけて一つの力を身に付けた。
格上さえも打ち負かす、最強の技を手にした。
一歩で景色ごと硬直させ、望む世界に塗り替える。
二歩でその世界ごと破壊して、時を置き去りにする。
三歩でその破壊に標的ごと巻き込んで、全てを滅する。
四天王奥義『三歩必殺』という、絶対破壊のジョーカー。
勇儀はそれを会得した時、遂にその2人を超えられる力を得たのではないかと、思った。
――嗚呼。 なんと貧弱な思考か。
何が、三歩。
世界。
時。
全て。
それは弱さの証。
一歩において勝てぬと認め、みっともなく足掻いた小細工に過ぎない。
――なんて、醜い。
――情けない。
――憐れな。
――死ね。
――死んでしまえ。
――そんな下劣な半生など、消えてしまえ。
かつて勝てなかった相手を倒すためという決意。
誰よりも強くあり続けるという決意そのものが、ただの逃避。
勇儀が真に求めてきたのは、そんなものではない。
誰かと比べて得る強者の称号などではなかったのだから。
それは、何かに突き動かされるような強さなどではない。
ただこうあるべきと、自ら貫き通した者。
そうして初めてその上の高みを、その先を見据えられる。
それにもかかわらず、目の前の目的に囚われて自分の生き様すらも忘れてしまった。
過去の敗北に囚われて、自分の中に勝手に限界を作ってしまっていた。
ただの鬼である自分では、鬼神という頂点には敵わないという常識に。
ただの鬼である自分では、閻魔という絶対者の決定は覆せないという法則に。
――そんな見せかけの概念に勝てないだなんて、私はいつから思うようになったんだ?
決して誰も抗うことのできない、人知を超えた不可思議の境地。
それでも、それを打ち砕ける。
いや、そんな不可能だからこそ、砕く。
――それこそが『語られる怪力乱神』、星熊勇儀という『鬼』の生き様ではなかったのか――
◆
「……滑稽だな」
「え?」
暫くの無言のまま拳を固めて微動だにしなかった勇儀から放たれた、突然の一言。
その言葉が勇儀自身に向けられたものであるなどと、誰も思わなかっただろう。
それは空を、必死にそのサポートしていたお燐を戸惑わせた。
2人は勇儀に向けて一斉に怪訝な目を向ける。
「あれっ……!?」
「どうした、お空?」
「どうしよう、制御が、あれっ、何でっ!?」
勇儀に一瞬気をとられてしまった空が、慌てて自分の力を制御しようとする。
その両手に集めていたのは、遥か天空から降る風を止めようとして集めた、自らの出し得る最大出力。
爆符『ペタフレア』。
実際にギガフレアの100万倍の威力という訳ではないが、その上の単位を飛ばしてでも表現すべき、最高の危険性。
それが今まさに、空の手の中で制御しきれなくなっていた。
「ま、まずいよっ!? このままじゃ…」
お燐は狼狽えるように言う。
それが、本当に世界を破壊しかねない力の暴走だからだ。
このままでは、その嵐が届く前に空の力で幻想郷が滅ぶと言っても過言ではないのだ。
だが、そんな異常事態を気にかけてすらいないかのように、勇儀はゆっくりと口を開く。
「下がれ」
それが制御できないのは、空のせいではなかった。
静かに響き渡った、地獄から湧き上がったようなその一言は、生きとし生ける全ての身に悪寒をもたらす。
目を開くことすらなく、勇儀は心を鎮めたままその場を支配する。
――ラストスペル――
同時に、辺りに走る螺旋状の亀裂。
そこにあるのは、吸い込まれていくかのような感覚。
ある地点にある物質やエネルギーが消失すれば、均一化しようと自然と別の地点から流入しようとする当然の法則。
普通に考えればわかる、普通の出来事のはずだった。
「なっ……」
「何っ、これ!?」
ただ、目の前で起きているそれは、とても現実と信じられるものではなかった。
勇儀の周囲にある全てが、吸い込まれるように凝縮されていく。
空が集めて融合させた核の力さえも、まるでブラックホールに飲み込まれて無に圧縮されているが如く縮んでいく。
強く圧縮した拳の中に一つの世界を閉じ込めんばかりに、何もかもが勇儀に向かって萃まっていく。
それは天空より遥か高く降ってくる無空の風さえも引き寄せんばかりに、世界を書き換えていった。
そして、勇儀は独白するかのように呟く。
「……返事はいらない」
「え?」
「私はこれから、鬼の四天王という名を返上して一匹の野生の『鬼』として生きていく」
それは勇儀の決意を乗せた言霊。
特定の誰かに向けた言葉ではない。
世界の全てに向けた宣言。
今までの自分自身との決別の合図。
「何をするかなんて決めちゃいないけどな。 だけど、それでも――」
勇儀は開眼し、上空を貫くように捉える。
幻想郷の滅亡は、既に数秒前まで迫っていた。
誰にも止められない力の暴走は、星々の一切を視認させないほどに天を覆い尽くしている。
誰もが絶望に震え、諦めざるを得ない光景だけが、全ての思考を支配していた。
だが、それでも勇儀には見えていた。
何が見えたか、などという答えは誰にもわからない。
ただ、それが当然のことであるかのように塗り替えられた景色の軌道が、全てを押しのけて真っ直ぐ続くような錯覚とともに、
「『― ― ― ―』!!」
言葉が消失した。
勇儀の拳の一振りで発生した、爆音などという表現ではとうてい表せない現実の崩壊が脳裏を駆け巡っていく。
世界の終焉をもたらす、不可避の破壊。
存在を理解することすらできない、不可識の破壊。
それは余波だけで何もかもを滅ぼす、究極の力同士の衝突だった。
だが、ぶつかり合った片方はただの「力」ではなかった。
誰一人として疑うことのなかった絶対の強さ。
その奥深くで、数百年も渦巻き続けてきた歪み。
それは幻想の理に溶け込んで、勇儀の内に眠っていた力を呼び覚ました。
どれだけ強大な相手でも関係ない。
自分が全ての一歩先であるという絶対性。
誰もが認める最強故に、不可能さえもたった一人成し遂げかねないという幻想。
強大な相手だからこそ、打ち砕ける訳がないという相手だからこそ、それを超える不可思議。
現実となって現れたそれは、法則さえも掻き消して天空に静寂をもたらしていた。
「―――――――」
そこには、衝突の余波すらもない。
絶句した地上の生物たちは、驚きつつも声を出すことすらできない。
何事もなかったかのように消えていく力は宙に溶け込み、静寂の空から現れた一つの影を際立たせる。
勇儀は、その光景に目を向けることすらない。
ただ、まるでそれが当然の出来事であるかのように右手を振り上げ、五体を投げ出して落ちてきた文を受け止めて世界に言葉を戻した。
「――それでも、私はここからもう一度『私』を始めることにするよ」
勇儀が何と声を発したかなど、誰の耳にも響くことはない。
何が起こっていたかなど、誰にも理解することはできない。
だが、確かにその束の間の歪みの消えた世界にはそれを滅ぼす破壊など影も形もなく、戦いの終焉があるだけだった。
ただ一つ、その瞬間に全ての記憶に刻まれた、新たな伝説だけが残る。
真っ白に消えていった奇跡の中心に君臨する、その背中。
誰が言い始めるでもなく、誰もが自然とそう呼ぶ絶対の証。
その姿はまさに、人知を超えた『怪力乱神』―――
◆
――最初は、ただの憧れだった。
魔が差したという訳でもない。
その烏天狗は、自らの意志でもってただの木端妖怪を守ろうとして、上層に刃向ってしまった。
それは、本来ならば妖怪の山においては許されざる愚行。
だが、厳罰や処刑は免れないその行為は、突然現れた一人の烏天狗によって一蹴された。
「文句があるのなら、私にどうぞ」
怒り狂う上層の天狗たちをたった一人で当然のように打ち伏せて事務的な口調でそう言った彼女は、か弱き烏天狗に向けられていたはずの怒りの全てを無理矢理に自分に向けさせていた。
そして、その罰も罵詈雑言の一切も、全てを淡々と引き受けてなお凛として立つ姿は、あまりに眩しすぎた。
誰よりも強く、それでも誰よりも優しくある、一つの奇跡。
名を名乗ることすらなく、多くの者は自分が彼女に救われたことに気づくことすらなく、数えきれないほどの同胞を救い続けた一人の烏天狗。
だが、彼女は本当はそんな大層な存在ではなかった。
誰かを救おうなどと思ってはいない。
ただ自分というものを持っていないだけだった。
慣れているから。
天狗の横暴など児戯に等しき暴虐の中で育った自分なら、その程度のことは死ぬことも壊れることもなく平然と受け流せるから。
それはただ、無意味な争いを治めるための、最も簡単で効率的な方法の自己犠牲に過ぎなかった。
誰に虐げられたのか、誰を助けたのか、彼女はそれすらも覚えていないだろう。
だが、それでも一部の救われた者の心には確かに残り続ける。
憧れと、その存在の危うさを気がかりにして。
無自覚に、そして着実に敵を増やしていった彼女への風当たりは、日に日に強くなっていった。
邪魔な存在であると目の敵にされ、意味もなく虐げられていく日々に、それでも彼女は凛として何も変わらなかった。
だが、彼女に向けられ続けるのは、見ている方からすれば痛々しいほどに辛辣な扱いであった。
彼女の心が、いずれ来る限界へと刻一刻と迫っているのが明らかだった。
――だったら、今度は私がその助けになろう。
その心が、いつか壊れてしまう前に。
一緒に笑っていられる幸せというものを、彼女と分かち合いたい。
時にはその喜びを共有して。
時にはその苦しみを共有して。
いつかその背中に追い付ける日まで、支え続けようと。
そして、そんな日が来たのなら、いつも傍で笑っていようと誓った。
――ほら。 私そういうガラじゃないし、それに私は今が十分に楽しいからさ。
だけど、彼女は変わってしまった。
自分の幸せを見つけると、今度は周りが見えなくなってしまった。
誰もを救える道を手の届く距離にまで控えながらも、それでも目の前の小さな幸福に縛られるようになった。
だが、実際はそれこそが彼女の本当の姿だった。
誰よりも争いを嫌う臆病な烏天狗は、自分の心と引き換えに恐怖を捨てていただけに過ぎなかったのだ。
そして、自分の心を取り戻した彼女は、その笑顔と引き換えにその強さを捨ててしまっただけなのだ。
――だったら、今度は私が代わりに強くなろう。
だけど、別にそれでもよかった。
それで彼女が笑い続けてくれるのならば、喜んで代わりに汚れ仕事を引き受けようと思えた。
たとえその結果、彼女に嫌われようとも。
たとえ彼女の隣に、自分の居場所がなくなろうとも。
本当は優しき彼女が再び心を捨てて犠牲にならなくて済むように、たとえ彼女を貶めてでも、今度は自分が一人で耐え続けようと思えた。
だが、その決意を最後まで貫き通すことはできなかった。
――あんたにはそれができるのに! どうしてよ!?
ずっと一人で耐え続けることなんて、できなかった。
誰もが彼女のように、一人で成し遂げられるほど強くはないから。
誰もが彼女のように、強い心を持ち続けられる訳じゃないから。
だから、本当は気付いてほしかった。
やっと笑えるようになった彼女が、それでもあの時みたいにまた助けてくれるのだと、信じたかった。
――私はね……あんたの、そういうところが一番嫌いなのよ。
その優しさを心の奥に押し殺すようになってしまった彼女に、ただそんな罵詈雑言を吐くことしかできなかったけれど。
本当は、助けてほしくて。
それでも、彼女には幸せになってほしくて。
そんな自分勝手な葛藤に、気付いてほしくて。
だけど、彼女はもう一度手を差し伸べてくれた。
あの頃のような強さと優しさを兼ね備えた目で、こんな自分をもう一度信じてくれた。
この残酷な世界でも前を向いて歩いて行ける、希望の光を灯してくれた。
――だからこそ、私はもう一度、貴方のために生きると誓おう。
――そして、私は今度こそ、貴方とともに生きると誓おう。
一緒に立ち向かうことができるのなら、もう何も怖いものなどないから。
もう、その苦しみを一人で抱え込まないし、抱え込ませない。
たとえどれだけ辛い困難があっても、振り向かずに一緒に前だけを向いて進んでいこう。
――いつか文さんと一緒に、皆で笑っていられる幸せな世界を掴める、その日まで――
◆
「……はたて」
「ぁ……」
自分が呟いたその言葉で目を覚ました時、最初に目に入ったのは空の姿だった。
文が起きて一瞬だけ喜色を浮かべかけた空の表情は、それが聞こえた途端に曇る。
「はたて」と呼ばれた天狗の末路を、知っていたからだ。
いくら忘れっぽくとも、そう簡単に拭える記憶ではなかった。
「目ぇ覚めたか、射命丸」
「……ええ。 おかげさまで」
青ざめた顔の空の前に出て、勇儀は文に問う。
その声に答える文の目に、光はなかった。
もう闇の力に支配されてはいないが、その時の記憶はおぼろげにはあった。
闇に支配され、みとりを、この世界ごと破壊しようと暴走したこと。
命すらも投げ打ったはずの自分の全てを、恐らくは勇儀に一蹴されただろうこと。
だが、記憶があるだけだった。
そこから何も感じることはない。
生きているのが奇跡と言っていい生還を果たしたはずの文は、それでも涙すら流すことはなかった。
「無事に、終わったよ。 私も、お空も、お燐も戻れた。 お前のおかげでな」
「そうですか」
「にとりって言ったか。 あの河童も無事だ、お前のおかげで」
「そうですか」
「……あと、お前が聞きたいことはあるか」
「ありません」
全ての反応は無感情に、そして即座にされた。
お燐に抱えられながらも未だ意識の戻らないにとりについて、何も触れなかった。
いや、あえて勇儀が触れなかったみとりのことについて、確認すらしなかった。
文が一番気になっていたこと。
その結末が、聞かなくてもわかっていたからだ。
その最期を目の前で見たのだから。
ならば、あとのことはどうでもよかった。
――いや。 どうでもよくなんてない。
――この先、やることなんていくらでもある。
――異変を、終わらせる。
――この山を、変える。
――……いや、それだけか。
たとえはたてがいなくても、それを継ぐという決意は消える訳ではないのだから。
それを成し遂げるためだけに、残りの人生を使うと決めたのだから。
だから、その他のことに何ら興味はなかった。
ただ、それを成し遂げるために邪魔になる自分の心が、完全に死に逝くのを座して待つだけだった。
そんな文に、空が耐えきれなくなって叫びながら頭を下げる。
「あ、あのっ!! ごめんなさい、私の、せいで……」
だが、その言葉は徐々に弱弱しくなっていった。
文はそれに、何事もなかったかのように淡々と返す。
「いいんですよ、もう」
「っ!! よくないっ!!」
「……」
「だって、だってわだじが、あんなっ、がっでなごど、じだげでばっ、」
空は喋れば喋るほどに、自分がわからなくなっていった。
自分が勝手に飛び出したことを、謝ろうと思っていた。
はたてを失った文を、慰めようと思っていた。
そして、自分を助けてくれた文とはたてに、ありがとうと言いたかった。
なのに、言葉が続かない。
文には何一つとして響かない。
ただ自分の情けなさが浮かぶばかりで、その声は何一つ届かない。
そこにあるのは、一人で壁に向かって懺悔しているだけに思えるかのような虚しさだけだった。
そして、文はまるでそんな空の様子が目に入っていないかのように一人立ち上がって言う。
「では、私はもう行きます」
「え?」
「異変は、まだ終わってませんから。 すみませんが、貴方たちへの報酬はそれが終わってからでもいいですか?」
「―――っ」
文のその淡々とした受け答えは、空を極限まで追い詰めた。
泣きじゃくって、自分のことを罵ってくれればよかった。
力いっぱい、殴ってほしかった。
それで文の気が晴れるのなら、何でもよかった。
だが、文は涙などとうに枯れ果てていた。
空を怒っている訳でも、みとりを恨んでいる訳でも、自分に対して憤っている訳でもない。
そんなことを考えるような余計な感情は、邪魔にしかならないから。
これからは目的のために心を捨て、昔のように一人で黙々と生きるだけと決めたのだから。
だから、いくら泣いたところで文の心が動くことなどもうない、ただそれだけのことだった。
だが、そう言って一人飛び立とうとした文に向かって、「忘れ物」とでも言う程度の軽さで勇儀が聞く。
「手を、貸そうか」
「ええ。 それでは、闇の力の感染者を止めてあげてください。 この周辺にはもういないでしょうが、恐らくまだ幻想郷中にいますから」
文は振り返らずに答える。
その返事も、即座に出てきた。
一切の迷いも躊躇いもないその言動は、まるで既に昔の文に戻ったかのようであった。
「幻想郷中、か。 そいつは大変だな。 だったらもっと手がいるよなあ。 お空にお燐に、みとりとその妹も……」
だが、勇儀はほくそ笑むような表情を微かに浮かべながら、
「それと、こいつも」
「え?」
事実関係の確認。
ただそれだけのために視線を戻した文の思考は、止まった。
その目を疑った。
「どう、して……」
いつの間にか勇儀が支えるように抱えていた一人の烏天狗は、寝ぼけ眼で辺りを見回す。
したり顔の勇儀をよそに、文はフラフラの足取りで駆け寄る。
ただその一点だけを見続けて。
次第に足早になるのを止めることはできずに。
「あれ? 私は…」
その声に向かって、文は飛びつくように遮る。
その目はもう、何も見ていなかった。
「え? ちょ、ちょっと!? いきなり何を…」
突然のことで戸惑う彼女に、文は返事すらもできない。
今はただ何もかもを忘れて、その確かな温もりを感じていたかった。
それが幻想でないことを確かめるように。
それが確かにここにいる証を、自らの身に刻みこむように。
枯れ切ったはずの涙は止まることなく、周囲の視線さえも気になることはない。
文はその荒れ果てた地で、失くしたはずの親友の身体をただ力いっぱい抱きしめる――