東方理想郷 ~ Unknowable Games.   作:まこと13

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第31話 : 遊戯者

 

 

 

 

 その昔、一人の悪い鬼がいたそうだ。

 幻想郷で最も強い力を持つと言われる種族であり、その中でも飛び抜けて高い能力を持ったその鬼は、誰よりも強い自尊心を持っていた。

 全てを力で解決しようとする暴力の権化とも言うべき存在として、誰からも恐れられていた。

 スペルカードルールなどという遊びで人間の巫女にたった一度ルール上の敗北を喫しようとも、本当の実力では自分こそが、鬼こそが最強の種族なのだという自負に一切の陰りはなかった。

 だからこそ、鬼よりも強い種族であると知人に評価されていた一人の少女の存在が許せなかった。

 スペルカードルールで何度負けてもヘラヘラと笑っているその少女を、今度はルールなど関係なく、力でねじ伏せようという思いが膨らんでいった。

 

 だが、少女はその鬼の実際の力など気にも留めていなかった。

 いつものような弾幕ごっこの最中に突然ルールを無視して襲いかかったその鬼を、少女は赤子の手をひねるかのように蹂躙した。

 ちょっとした遊びのような感覚で、鬼の心を壊してしまった。

 恐怖に震え、顔を上げることすらできなくなった鬼を、少女は敵として認識することすらなかった。

 普段の表情からは想像もできないほど冷めた目でその鬼を見ながら、少女が言い放ったのは一言だけ。

 

「今日、ここでは何も起こらなかったし、貴方は何も見なかった。 それだけ、わかった?」

 

 そう言った次の瞬間、少女はまた元の笑顔を作り直して、地面に腰を下ろしながら鬼に手を差し出した。

 声すら出せなかった鬼は、ただ静かに頷いて手をとることしかできなかった。

 鬼は、その時初めて知った。

 今まで自分が虐げてきた者たちの気持ちを。

 思うように身体を動かすことすらできなくなる、恐怖という感情を。

 本能が逆らうことを拒絶する、絶対的な力の差というものを。

 

「姫様!!」

 

 そこに、一人の女性が走ってくる。

 その視界には、呆然と立ちつくす鬼が、尻餅をついた少女と握手している姿が映っていた。

 泥にまみれたまま敗者のような体勢で見上げる少女は、笑顔で。

 無傷のまま勝者のような体勢で見下ろす鬼は、引き攣ったような顔で。

 

「いやー、また負けちゃったわ。 やっぱり貴方強いわね、萃香」

「あ、ああ」

 

 その鬼の表情を見た瞬間、聡明な彼女はそこで何があったのかすぐに悟った。

 そこにはもう、鬼の四天王と呼ばれ、自信に溢れた強い目をした鬼の姿はなかった。

 そこにあったのは、捕食される側の立場に立たされて震えている、弱者の姿だけだった。

 

 その日、誰もが恐れる暴虐的な鬼の四天王としての『伊吹萃香』は死んだ―――

 

 

 それは、彼女が今まで狂わせてきた無数の物語の内の一つだった。

 永遠の苦悩の中を生かされることとなった、3人の蓬莱人。

 人生をかけて手に入るはずのない秘宝を求め続けた、人の世の有力者たち。

 恐らく彼女が覚えているのは、この1000年や2000年の間の、そんな出来事だけだろう。

 だが、それはほんの一部に過ぎない。

 それを、彼女はもう思い出して振り返ることすらない。

 彼女にとってそれは、永遠の退屈を紛らわすためのただの日常の一コマに過ぎなかったのだ。

 

 彼女は全てを持っていた。

 美貌も、力も、才能も、知能も、財も、地位も、時間さえも、欠けているものは何一つ無いと言っていいほどに。

 だが、同時にそれが彼女の最大の不幸だった。

 その気になれば自分が何もかもを簡単に手に入れることのできる世界に、面白さを感じることはできなくなってしまった。

 

 そんな中で唯一彼女を魅了したのは、自分の思い通りに進めることのできない『ゲーム』の世界だった。

 

 ある日それを手にした彼女は、夢中になった。

 数えきれないほどの時間を、それに費やしてきた。

 弱く冴えない、何も持たない主人公たち。

 それでも、その人生のひとつひとつは、彼女が決して味わうことのできない輝きを放っていた。

 多種多様な光を帯びた数々の結末は、物語の中を自分とは違うコマを動かして進むという、物事の一つの楽しみ方を彼女に知らしめた。

 そして、存在する僅かなゲームの全てを終わらせてしまった彼女は、次は自ら考案した新たなゲームの賽子を振ってしまった。

 

 それは、それぞれの思惑を巡って幾多の種族が憎み合い、協力し合い、その果てに何が起こるか誰も予測できない不可知遊戯。

 彼女はそれに、登場人物としては介入しない。

 ゲーム盤の外側から、自らの仕掛けたその爆弾が作動するのを、ゲームが始まるのを待ち続けるだけ。

 難しいことなどない、ただ選択肢を選ぶかのように現実を進めていく。

 そして、その選択の果てにどんな世界が広がるのかだけを楽しみにしながら、彼女は眺めている。

 

 ――私はただ、ゲーム開始の狼煙を上げるだけ。

 

 全てを破滅に導く永遠の狂気を、始まりの刻まで導くか否か。

 元凶の全てを収拾してしまった厄神の存在を、始まりの刻まで導くか否か。

 

 ――私はただ、登場人物を選ぶだけ。

 

 倒れて動けなくなった巫女を治し、再びゲームに戻すか否か。

 迷い憔悴しきった式神に力を与え、再びゲームに戻すか否か。

 

 ――私はただ、進行の妨げになる因子を排除するだけ。

 

 何の前触れもなく運命を無秩序に変化させ得る、あまりに興醒めな能力を持つ吸血鬼に、ゲームから外れてもらうか否か。

 幻想郷を誰よりも愛するが故に、始まる前に全てを空虚に終わらせかねない妖怪の賢者に、ゲームから外れてもらうか否か。

 

 

  ――そして――

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第31話 : 遊戯者

 

 

 

 

 

 

 初めて出会うタイプの心の形を前に、さとりは動けなかった。

 どういう反応をすべきかもわからなかった。

 それでも、さとりは会話の主導権を握ろうと、冷静さを装いながら口を開く。

 

「……なるほど。 それは、私も随分と買いかぶられたものね」

「いいえ、貴方は私の予想よりもずっと優秀だったわ」

 

 軽口を叩きながらも、さとりは輝夜のほんの微かな心の呼吸にまで神経を集中させ、その思考の全てを読み取ろうとする。

 だが、集中せずとも今の輝夜の思考はさとりには簡単に見えていた。

 口に出した通り、輝夜は本当にさとりが自分のもとに来ると思ってなどいなかった、それだけは揺るぎない事実ではあった。

 それでも、素直にそれを信じることなどできなかった。

 ゆさぶりをかけて、更なる奥底まで輝夜の思考を読み取ろうとしていく。

 

「別に私は、貴方を疑ってここに来た訳じゃないわ。 ただ、この異変の核になる要素を持ったフランドール・スカーレットの封印を解いた時、貴方の能力と似た力を感じたから少し気になっただけよ。 あの暴虐の鬼の心を壊した貴方の、時間膨張の能力とね」

「へぇ、あの子の封印を解いたのね。 それがどんな意味を持つのか、貴方は理解してるのかしら」

「そんなこと、私には関係ないわ。 それよりも――」

 

 第三の瞳を向け続けて会話の主導権を握っているはずのさとりは、それでも表情に陰りがあった。

 輝夜の心から読み取れるのは、この異変の真相。

 だが、そんな情報以上にさとりの目を引いたのは……

 

「……貴方には、私に対して思うことは何もないの?」

「あら、貴方は他人の評価を気にするような妖怪なのかしら」

「いいえ。 だけど……」

 

 目の前にいる、霊夢とそう変わらない程度の年齢に見えるはずの輝夜は、それでも雰囲気だけは1000年以上の時を生きてきた妖怪よりも遥かに静かで厳かなものを感じさせた。

 そして、その心の底は、生きているとは思えないほどあまりに無機質だった。

 何も読み取れない訳ではない、むしろ第三の目で輝夜から得られる情報量は他の者とは比較にできないほど多いくらいである。

 幻想郷で今、何が起こっているのか。

 過去に、何が起こっていたのか。

 そういった重大な情報の数々が、何の苦も無く、辞書を引いているかのように事細かに流れ込んでくる。

 だが、そこからは輝夜の感情を、生命の息吹きというものを感じとることはできなかった。

 さとりには、レミリアの「絶望の感情」が見えていた。

 アリスにも、「作られた感情」の裏に、霞がかった本当の感情があることを知っていた。

 こいしにすらも、読み取れないだけで、「閉ざされた感情」が心の奥底に眠っていることがわかっていた。

 それにもかかわらず、輝夜からは全く何も感じられなかった。

 輝夜から向けられているのは最初も今も全く変わらない、真実を知り得る唯一の因子であるさとりに、この『ゲーム』から外れてもらうつもりだという淡々とした未来の結果だけ。

 その結果に、輝夜の感情はほんの僅かすらも介入してはいなかった。

 心に何一つとして綻びを見つけられないのならば、さとりが真に主導権を得ることはできない。

 だからこそ、さとりは輝夜の心の隙を僅かにでも掴むために、わざわざフランの情報を出してゆさぶりをかけた。

 だが、表向きの言葉だけ取り繕いながらも、輝夜の感情に一切の変化はなかった。

 さとりが現れたことに対する驚きも、フランを解放したことへの反応すらも、実際には何一つとして存在しない。

 そこからはただ、疑いようのない事実関係が止めどなく流れ込んでくるだけだった。

 

 だが、その事実情報の中にたった一つだけ、際立ってさとりの目を惹くものがあった。

 本を読むかのように淡々と情報が流れてくる中で、それでもその奥深くでほつれて渦巻いている、とある『計画』の名称。

 さとりは、それへの興味を拭い去ることができなかった。

 

「貴方、その『嫦…」

「はい、そこまで」

「っぁ”っ!?」

 

 だが、その深層心理を読もうと集中したさとりは、次の瞬間倒れこんだ。

 さとりを襲ったのは、生きる者全ての記憶が同時に流れ込んできたかのような感覚。

 脳の処理能力が明らかに追いついていない、情報の奔流に脳細胞が壊されていくかのような頭痛。

 そして何より、苦痛のみが凝縮されたかのような生理的嫌悪が、容赦なくさとりの中で暴走していた。

 

「はっ、はっ……うっ」

「ほら、それでまだ意識があること自体が異常なのよ。 でもまぁ、これに懲りたら今後はあまり人のプライバシーに踏み込まないことね」

 

 輝夜はそう言って見下ろすが、さとりにはほとんど聞こえていなかった。

 ただ、目を見開いたまま全身が汗だくになり、肩で行う息に混じって何度も嘔吐していた。

 

 さとりを苦しめたのは、輝夜の持つ『須臾を操る能力』。

 1000兆分の1秒という限りなく短い時を操る、つまりは1秒間に約3000万年もの歴史を詰め込むことを可能とする能力である。

 いや、この場合の須臾はただの比喩で1000兆分の1などという限界などなく、有限の時間の中に無数の歴史を詰め込むことで、時を無限に圧縮できる力と言った方が正しいのだろう。

 1時間以上かかる藍との契約を一瞬で終わらせたのも、完治に1週間以上かかるとされた霊夢を一瞬で治癒させたのも、実はその能力によるものだった。

 そして今回、輝夜はさとりに心を読まれる一瞬に、1年分の歴史を詰め込んだ。

 それも、自らが月で不老不死という禁忌を犯したために受けることとなった、身も凍るような拷問の記憶をである。

 さとりの能力はただ心を読むだけではない、集中すればその記憶を自ら体験するかのごとく鮮明に知ることもできる。

 そんな苦痛の記憶を圧縮して一度に読まされたのならば、普通はそれだけで精神が崩壊するのに十分なのだ。

 

「そう、ね……私も、二度とこんな感覚は味わいたくはないわ」

 

 そう言って、さとりはフラフラの足取りでゆっくりと起き上がりながら、すぐに第三の目を輝夜から背けた。

 その時、さとりは生まれて初めて心の底から恐怖した。

 だが、さとりを恐怖させたのはその能力でも、たった今味わった苦悩の体験でもなかった。

 

 ――こいつ、イカレてるわ。

 

 輝夜のその能力は、瞬時にさとりに苦痛を与えることのできる類のものではなかった。

 須臾の時間を集めて自分だけが得た1年間という単位の中を確かに自分自身が進むことで、さとりにその記憶を読ませたに過ぎない。

 輝夜はさとりに自らの記憶を読ませるたった一瞬のためだけに、自身のトラウマともいえる苦悩の体験を自らの時間軸の中で丸1年間、微動だにせず思い起こしてきた。

 つまり今ここにいる輝夜は、平然とした表情を浮かべながらも、さとりと会って1分足らずの時間の中で既に1年以上もの間、自らの心的外傷を深く想起し続けてきたのだ。

 永遠の時を経てきた輝夜にとって1年という時間はあまりにも短いが、せいぜい数百年程度しか生きていないさとりにとっては、そんなことのためにこれほど長い時を自らトラウマの中に投じること自体が理解できなかった。

 

「……ふふっ」

 

 だが、そんな理解不能な相手を前に、それでもさとりは堪えきれずに笑った。

 恐怖ゆえの笑みではない。

 それは輝夜の怪訝な目を気にも留めていないかのような、完全に自分の中だけで完結した笑みだった。

 

「随分と嬉しそうな……いえ、愉しそうな顔ね」

「ああ、やっぱりわかるかしら? これから先の心躍る展開を考えたら、堪え切れなくてね」

「……そう。 だから、貴方は危険なのよ」

 

 第三の目を背けているその状況になって初めて、さとりは輝夜の確かな感情の起伏を垣間見た気がした。

 それは他の者がさとりに向ける嫌悪という感情とは少し違う、単純な苛立ち。

 それに気づかないフリをしながら、さとりは輝夜に背を向ける。

 

「それじゃあ、私は大人しく帰らせてもらうことにするわ。 ちょっと用事ができたからね」

「残念だけど、そういう訳にはいかないわ。 貴方をここから逃がすのは、私にとっても少し不都合だから」

「それは困ったわね、何とか多めに見てもらえない?」

「無理な相談ね。 どうしても行くというのなら、私を斃してここから逃げてみなさい」

 

 輝夜は、ただ静かにそう言い放った。

 別に、さとりは輝夜に回り込まれている訳ではない。

 戦わずとも、暗闇の中でこの竹林に身を隠せば、よほどのことがなければ逃げきれるはず。

 更に言えば、ここに来る前に用意してきた切り札を切ったのなら、たとえ目の前にいるのが勇儀クラスの相手であってもどうにかなるはずなのだ。

 あらゆる要素が、さとりを前に進ませるよう答えを導いているはずだった。

 それでも、さとりは一歩も動けなかった。

 静かに向けられた眼差しが、さとりを縛り付けるようにその背を刺していたから。

 振り向かなくとも、輝夜の眼差しに確かな敵意が混じり、そこに命の危機を感じていたから。

 こんなところで、意味もなくリスクを負う必要はない。

 だから、さとりは一つため息をつきながら、一切の敵意を消して言った。

 

「見くびらないでほしいわね。 これでも一部では地底の頭脳だとかまで呼ばれてるのよ? ハッタリでどうにかできる相手かの判断くらいできるわ」

 

 永遠にも思える苦痛の記憶を再び読まされることを考えると、易々と心を読むこともできない。

 自分自身で想起することに何の躊躇いもないトラウマを呼び起こしたところで意味がない。

 自分の持つ2つの能力が輝夜に全く通じないことは、さとりは既に理解していた。

 だが、何がとは言わずとも、さとりが逃げなかった理由は恐らくそれだけではない。

 ただ単純に、数百年の時を数多くの敵に囲まれて生きてきたさとりだからこそ、危険という概念そのものに本能的に敏感だったのだ。

 さとりは両手を上げて、抵抗の意志がないことをアピールする。

 アリスにとった行動とは違う、完全な降伏。

 そんな体勢のまま、さとりは輝夜に要請する。

 

「私は貴方に降伏する。 これ以上思考を読む気も、危害を加える気も、貴方の邪魔をする気も全くないわ。 だから、ここから帰らせてくれないかしら」

「私に、貴方を逃がすことのメリットがあると思う?」

「……そうね。 だったら、見逃してくれるのなら貴方の望みを叶えてあげるわ。 最後に少しだけ見えた、貴方の本当の望みを、ね」

 

 だが、さとりもまた、そこで何もできずに終わるほど無能ではない。

 ついさっき得た、さとりにとってのもう一つの切り札。

 輝夜から第三の目を背ける直前、つまりはあの精神攻撃を受けている最中。

 その時に読み取った僅かな感情は、まさに異変の核心に迫る情報と言っても過言ではなかった。

 

「私の、本当の望み?」

「最初は機械か何かじゃないかと思うような感情しか読めなかったけど……貴方もやっぱり心ある生き物なのよ。 1年もずっと同じ記憶だけを想起してれば、心の中に少しぐらい別の、本音が混じったとしても仕方ないわ」

「それが、異常だと言ってるのよ。 あの記憶を一度に凝縮して体験したのなら、普通はそんなことにまで頭が回らないわ」

 

 自分が抱えているそれは、体験してしまえばどんな者でも精神を崩壊させるに足る記憶であるはずだった。

 精神攻撃に弱い妖怪が、そんな悪夢に耐えられるはずがない。

 ましてや、その隙を窺う余裕などあるはずがない。

 にもかかわらず、それを平然と交渉材料にしてくるさとりを前に、輝夜の表情が微かに歪んだ。

 たとえ第三の目を向けていなくとも、さとりがそんな綻びを見逃すはずがなかった。

 

「あら、本当はそれを私に読まれることまで計算ずくだったのではなくて?」

 

 輝夜の弱みに付け込むかのように、さとりはその心の奥深くまで侵入していく。

 そして、さとりは少し挑発するように余裕の笑みを浮かべようとする。

 

「……さあね。 だけど、貴方よりも少しばかり永きを生きた者として、一つだけ忠告してあげる」

「何かしら……ぇ?」

 

 だが、それはさとりのミスだった。

 それは、主導権を得るのではなく、琴線に触れてしまう挑発だった。

 その笑みを浮かべる余裕すらないまま、さとりの足は力を失い、受け身をとることすらできずに尻餅をついて倒れ込む。

 輝夜の笑みが消えるとともに、突如として辺りが静まり返った。

 それはさっきまで向けられていた敵意とは違う、純粋な殺意。

 勇儀が本気になった時のように、命の危機を感じて弾けるように逃げ出していくのではない。

 微かに鳴いていた虫たちが、飛び立つことも呼吸をすることすらもできずに固まっていた。

 そこで感じるのは命の危機ではない。

 言うなれば自らの命への諦念、残された僅かな命を少しでも味わおうとする本能。

 確実な死を予感して走馬灯を見る瞬間というのはこういう時なのだろうと、その場に生きる者全てが否応なしに理解させられていた。

 そして輝夜は、腰を抜かして動けなくなったさとりを見下すでもない、まるで景色の一部程度にしか思っていないような冷たい眼差しで見ながら、独り言のように言う。

 

「度を過ぎた好奇心は、身を滅ぼすことになるわ」

 

「―――――」

 

 

  『 破滅 ―Scarlet― 』

 

 

 同時に、死が溢れた。

 突然のことで何が起こったか誰も理解することができないまま、微かな声すらも響くことはなかった。

 大気の裂け目が刃となって突き刺さっていく。

 温度という概念さえも無視して、辺りの空間そのものを分解していく。

 無慈悲なほど永続的に続くそれは、分子の欠片すらも細かく砕いて無限のエネルギーを一点に凝縮させる。

 それは、いかに強靭な肉体を持っていようとも、決して死から逃れられないことが一目瞭然の圧倒的破壊だった。

 

「……やりすぎ、じゃないかしら」

 

 そして、生きたままその殺戮を見る者は一人しかいなかった。

 だが、そこにいるのは輝夜ではなく、さとりだった。

 

 それは、とっさの判断だった。

 まだ何もされていなくとも、反射的に全ての終焉を悟ったが故の反撃。

 さとりの背中は冷や汗でびっしょりと濡れていた。

 だが、その汗は一向に止まる気配はない。

 目の前にいた相手が蒸発しただろう今では、それが何に対する汗なのかはわからない。

 暑さからなのか、疲れからなのか。

 

 それとも、自分でも気付かない内に迫っている、不可避の死への焦り故にか――

 

「今のも、貴方が持つ能力なのかしら」

 

 無限の破壊を続けているはずの空間が突如として爆ぜ、中から声が響いた。

 たった今、灰の欠片すらも残さず消滅したはずの輝夜が、何事もなかったかのようにそこに立っていた。

 それが、輝夜が蓬莱の薬を飲んで得た不死の力だった。

 どれほどの死をつきつけられようとも、再び蘇る力。

 更に厄介なのは、輝夜の持つ『須臾を操る能力』を使えば、死んだことすら誰も知覚できないほど短い時間での復活もできることである。

 

 だが、さとりほどの者が、この状況でただ呆けているはずがない。

 輝夜の再生を予想していたと言わんばかりに、さとりは気付かれないほど自然に再び第三の目を向けていた。

 そこでさとりは、さっきまで終始冷静さを失うことのなかった輝夜が初めて浮かべた、確かな驚愕の感情を読み取る。

 その心に僅かに生じた隙を、見逃しはしない。

 

「想起――『天網蜘網捕蝶の法』」

 

 すると、いつの間にか輝夜の全身を絡め取るように、光の網が辺りに張り巡らされていた。

 

「そう……そういう力ね」

 

 さとりが使ったのは、相手のトラウマを想起する能力。

 その心が僅かに乱れた隙に抉り取った、輝夜の記憶に眠る最も大きな力を擬似的に自らのものとして呼び起こす力。

 世界を光の網が覆い、輝夜の身体と思考を絡め取っていく。

 それは、須臾の間に瞬く光が記憶を無限にフラッシュバックさせ続けることで思考を永遠の走馬灯に縛りつけ、相手の身体だけでなく抗う意志すらも永久に無力化する、八意思兼神の奥義。

 さとりはそれを放ちながら輝夜から距離をとり、既に暗闇の中に紛れていた。

 

 

   『 創生 ―Verdure― 』

 

 

 同時に、世界は緑一色に覆われる。

 動けない輝夜の周囲で、突如として現れた木々の枝が、爆発したように全てを押しのけて鋭く伸びていく。

 そこから生えるように現れるのは、生きているかのように動き出す魔物たちの姿。

 身体と精神を同時に囚われている輝夜に向かって、無から創造されていく無限の生命が次々と襲い掛かって…

 

「がっ、はっ……!?」

「なるほど、これは私のミスね。 貴方がこれほどの力を持っているだなんて思っていなかったわ」

 

 だが、それは唐突に世界を染めた色彩に、あっけなく掻き消されていった。

 瞬きをする間すらもなく、輝夜は遥か遠くに逃げていたはずのさとりの正面に立っていた。

 灼熱の突風とともに魔物の群れも、辺りにあった竹林さえも跡形もなく塵に還っている。

 そして、灼熱地獄の熱にさえ慣れつつあったさとりの背はいつの間にか焼け爛れて倒れ込み、その表情は苦痛に歪んでいた。

 引き攣った顔で膝をついていたさとりの目の前にあったのは、まるで今の戦闘など存在しなかったかのように無傷のまま虹色の玉をつけた枝を構えている輝夜の姿。

 そこで何が起こっていたのかはわからない。

 それでも、輝夜の目には最初はそれほどなかったはずのさとりへの警戒の色が、深く刻まれていた。

 そんな光景を目の前にしたさとりは、それでもその痛みさえも感じさせないような軽いため息をついて、やれやれと両手を上げる。

 

「それはこっちのセリフよ。 今のでダメなら、もう私になす術はないわ」

「それもブラフでしょう? もう貴方を侮ったりはしないわ」

 

 そう言って、輝夜はさとりに向かって手を伸ばす。

 だが、さとりはそれを見て笑いながら、

 

「そう。 ……でもね、そんなおしゃべりをすること自体、侮ってるっていうのよ」

「何?」

 

 

    『 幻惑 ―Indigo― 』

 

 

 輝夜が手を伸ばす前に、さとりは消えていた。

 いや、消えたというよりもその姿容が歪み、代わりに一人の妖怪を形取っていった。

 それを、輝夜は少しだけ見開いた目で見て、それでもまた冷静に返す。

 

「……そういうこと。 私が相手にしていたのは、最初から古明地さとりではなかったのね」

「いいえ。 途中までは確かに、あいつがあんたの相手をしてたわ。 相手の心を読むような嫌らしい魔法は、私は使えないからね」

「そう。 ……で、貴方は一体何者なのかしら」

「あら、魔理沙と一緒の時に会ってるから、別に初めましてって訳じゃないでしょ?」

 

 いつの間にかさとりの代わりにそこにいたのは、アリスだった。

 特に脅威を感じさせるほどの力を持たない、一人の妖怪の姿。

 ただ、あえて一つだけいつもと違う部分を挙げるとすれば、その手に持っている大きな本を縛っていた鎖が、今は外れていることだけだった。

 

「違うわ。 私が聞いているのは、貴方が今「模している」人形使いのアリス・マーガトロイドのことじゃない。 その裏で禁忌のグリモワールを使いこなす貴方が何者かと聞いてるのよ」

 

 アリスは口を閉ざす。

 不快な何かを見るような、冷たい目をして。

 やがて、アリスは何かを切り替えたように、

 

「……あ-、やっぱり知ってるのね」

 

 一つ溜め息をついて、気怠そうに輝夜に向き直った。

 

 かつて、魔神が使っていたという七色のグリモワール。

 たった一つで世界を恐怖に突き落とすことさえできる、禁断の魔道書。

 それを使いこなせば、世界の理を超える七つの力を操ることができるという。

 『赤』はエネルギーという理を無視して全てを塵と化す、破滅の力。

 『緑』は生命という理を無から生み出す、創生の力。

 『藍』は叡智の理を司って万物の認識や思考を支配する、幻惑の力。

 それらは本来であれば一つ一つが一介の妖怪には使いこなせるはずのない、神に等しき力のはずだった。

 

「でも、私から言わせてもらうと、そのグリモワールの魔法を平然と受け切るあんたの方が異常なのよ」

「あら。 私はただ、貴方が手加減してくれたおかげで無事なようなものよ」

「……そう」

 

 アリスは表情を変えないまま、心の中で舌打ちする。

 確かに、アリスは手加減をした。

 だが、それは輝夜の身を案じてのことではない。

 強すぎる力は、使った者に相応の対価を強いるものである。

 ましてや、それが禁呪と呼ばれるものであるのなら、その副作用は計り知れない。

 アリスは輝夜が不死であることを、全力で殺しても無駄であることを知っているが故に、様子見程度にしかグリモワールを使わなかっただけなのだ。

 

 だが、手加減した魔法は通用しないどころか、ブラフにすらもならない。

 そして、手加減したことだけではなく、何度も使えないことも恐らく既に見破られている。

 

「じゃあ、私も少しだけ本気を出してみようかしら」

 

 それでも、アリスが持つ本は禍々しく光って、

 

 

    『 未知 ―Violet― 』

 

 

 同時に、色の欠落した空間の亀裂に辺り一帯が覆われていった。

 その狭間から溢れ出すのは、現実の理を外れた存在の、未知の力。

 観測され得ない暗黒物質と暗黒エネルギーによって構成された異世界。

 突如として幻想郷から外れた異空間に囚われた輝夜は、それでも冷静に、淡々とアリスに問うた。

 

「……どうして」

「何?」

「どうして、貴方はそこまでして彼女を助けるの?」

「助ける? 誰をよ」

「とぼけなくてもいいわ、古明地さとりをよ。 私の前に出て禁呪を使う危険を冒してまで彼女を助ける理由が、貴方にあるの?」

 

 アリスは、今まで決して自分が表舞台に出ようとはしなかった。

 表向きは道化のような振る舞いを続け、一部を除きその正体を知られることすらなかった。

 それは、輝夜さえも例外ではない。

 にもかかわらず、わざわざ自分が危険に晒されてまでアリス自らここに来た理由を、輝夜は理解できなかった。

 

「あいつ以上に興味を引けるものでもない限り、あんたはあいつを追うでしょ。 そして、追えばあんたは簡単に止められる」

「そうね。 でも多分、貴方は彼女のこと嫌いでしょ?」

「ええ、大嫌いよ」

「でしょうね。 でも、そんな風に言うのに、どうして命を懸けてまで彼女を助けようとするのかを聞いてるのよ」

「……別に、さっきまでそんな理由なんてなかったわ。 多分あいつの本質は幻想郷一の「嫌われ者」なんかじゃない、この世で一番「危険」な奴だからね」

「へぇ、貴方も随分と彼女を買ってるのね」

「敵として、だけどね」

 

 心を読める覚妖怪。

 嫌われ者として知られるその能力も、ただ心が読めるだけで幻想郷一と呼ばれるほどに嫌われることなどない。

 心を読まれることを気にしない者など、勇儀を筆頭としてこの世にいくらでもいるからだ。

 にもかかわらず、そういう風に認識されているのは、さとり自身の行動そのものに大きな要因がある。

 さとりはあえて嫌われ危険視されるように、自分がそういう存在だと認識されるように、自ら積極的に動いてきただけ。

 さとりは自分の目的のためならば、誰もが恐れる孤独を恐れず、どれほど多くを敵に回すことも厭わず冷徹に動くことができるのだ。

 それは、アリスにとっては最も扱い辛い……いや、本能的に最も苦手とする相手だった。

 

「だから正直言うと、むしろ私は少し前まではあいつを利用した後に罠に嵌めてやろうくらいに思ってたわよ」

「だったら…」

「でも、強いて一つだけ。 私があいつを助けた理由を挙げるとしたら――」

 

 だが、輝夜を見るアリスの目は、突然白けたように冷たくなって、

 

「あんたの心が……あんたの思い描いたシナリオが、つまらなかったからよ」

「何?」

「少なくとも、あんたよりはあいつを生かした方が面白くしてくれそうだと思えるくらいにはね」

 

 そして、2人の姿はそのまま異世界に飲み込まれて幻想郷から消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は進み、かつて妖怪の山だった場所。

 さとりとルーミアの戦いは、既に終盤へと突入していた。

 ……いや、そもそもが戦いになってすらいなかった。

 

「随分と、舐めた真似をしてくれたもんだな」

 

 ルーミアの目に映っていたはずの心的外傷は、それでも直接ルーミアに大きなダメージを与えることはできなかった。

 そこにいた映姫の姿は、さとりがルーミアの心から想起させていた幻影。

 ルーミアがその事実に気づくまで、それほど時間はかからなかった。

 

「あら、そんなに安心してていいの?」

「はあ?」

「何もわかっていない貴方に一つ教えてあげる。 今のは、ただの忠告。 彼女は……閻魔は今、貴方の能力に飲み込まれることなく幻想郷にいるわ。 取り返しのつかない後悔に自責の念、貴方の大好きな負の感情に支配された彼女がね」

「……それも、ハッタリだろ? お前の何の意味も無い言動はもう聞き飽きたんだよ」

 

 そこにあるのは、既にボロボロの姿でルーミアに捕えられて虚空に磔にされたさとりの姿。

 自らの用意していたハッタリが潰されたのならば、もはやさとりにルーミアを止める手段は皆無だった。

 

「本当に、意味が無いって言いきれる? そのハッタリのおかげでわかったこともあるのよ」

「……何だよ」

「貴方「自身」が恐れる心的外傷と、貴方の中にある「何か」が恐れる心的外傷は別物だってことよ」

 

 だが、対抗手段があるようには見えないさとりは、それでもルーミアを見て笑っていた。

 それを、ルーミアは理解できなかった。

 どう考えても勝ち目のない戦いにたった一人で挑み、ほんの僅かだけ戦況を引っ掻き回しながらも結局は何もできなかったさとり。

 いや、むしろそれはルーミアに利するものだったとさえ言えるほどに、さとりの行動には何の意味もなかった。

 にもかかわらず、さとりはレミリアのように無理に笑っているのではない、自分の今の状況を本当に愉しんでいるかのような笑みを浮かべていた。

 

「だから、何だ? たとえ何かを知ったとして、この状況でお前に一体何ができる」

「……」

「理解できないんだよ、お前の行動は」

 

 ルーミアは溜め息をついた。

 明らかに自らの理解の外にあるさとりを前に、苛立ちを抑えきれなかった。

 

「闇に染まる訳でもなく、レミリアを絶望に墜として私に利を与えながらも、私に仇名す。 お前は私の敵か、味方か? お前の本当の目的は、一体何だ?」

「……ふふっ」

 

 さとりは、思わず声に出して笑った。

 ルーミアの陳腐な質問を嘲るように、愉快そうに笑った。

 

「私の目的、目的……ねぇ。 そんなの、私がやりたいようにしただけに決まってるじゃない」

「答えになってないな。 お前は…」

「私が貴方の敵か、味方か? あはは、そんな見方しかできないから、貴方はつまらないのよ」

「何?」

 

 さとりは完全に勝敗の決したこの状況でなお、ルーミアを恐れてなどいない。

 ただ、ルーミアを小馬鹿にするように言う。

 

「もしかして、私が世界への復讐心から貴方に協力してると思った? それとも実は、私が誰かを救うために孤独に戦ってるだなんて、崇高な目的でも持ってると思った?」

「だったら、お前は一体何なんだよ」

「だから、言ったでしょ? 私はただ、気分的に私がやりたいことをしただけ。 本当に、それ以外の理由は無いのよ」

「……私には理解できないな」

「それはそうでしょうね。 私の本心なんてものは、お燐やお空も……妹のこいしですらも誤解してるでしょうから」

 

 そう告げたさとりは、とある記憶を自らの内に想起する。

 今日さとりが思い描いた、一つの未来。

 自ら震えるほどの愉悦を感じた、その運命は……

 

「地底の頭脳だの最大の不穏分子だのと、みんな揃って一体何を勘違いしてるかは知らないけどね。 実際の私は、ただ自分の人生を楽しみたいだけの誰よりも普通の妖怪よ。 嫌われようが、誰にも認められなかろうが、それでもただ自己満足に生きるだけのひどくちっぽけで矮小な妖怪なのよ」

「はあ? じゃあ、お前は…」

「そうね、別に世界を救った英雄になりたい訳でもないし、なりたくない訳でもない。 今の私は―――『運命』なんて面白いものを見つけてはしゃいでるだけの、ただの子供みたいなものよ」

 

 今日まで、さとりに大した目的はなかった。

 レミリアに会い、その心を読むまで、さとりは輝夜に会うつもりもルーミアと対峙するつもりもなかった。

 興味本位で闇の力に接触し、その場のノリで魔理沙たちを異変の核に誘い、気が向いたから特に意味もなく地上に出てしまった。

 ただ何となく、面白そうだったから。

 深遠な理由があるように思える言動とは裏腹に、実際のさとりの行動原理はそれだけの、はずだった。

 その、あまりに魅力的な玩具を、見つけるまでは。

 

「知ってる? あの子が最後に見た運命を。 泣き叫んで闇に消えていった憐れな吸血鬼が、最後に抱いていた絶望を」

「……さあな」

「幻想郷の崩壊と、そこから始まっていく世界の滅亡……つまりは、貴方の完全なる勝利よ」

 

 それが、この世界に決められた最後の運命だった。

 もう決して避けられない、世界の終焉。

 だが、それを口にするさとりは、かつてないほどの笑みを浮かべていた。

 

「やはり、お前はこの世界が憎いのか。 この世界の終わりが、そんなに嬉しいのか」

「ふふっ。 どうでもいいのよ、そんな些細なことは」

「些細なこと……だと?」

「そうよ。 大事なのはね、あの吸血鬼が消えた今、その運命を唯一知ってるのが……世界の終焉を変えられるのが、私だけって事実よ」

 

 運命を変える力とは、即ち運命を知る力に他ならない。

 幻想郷の、世界の終焉の運命を変えうるのは、その運命を「知っている」者、つまり今はさとりとルーミアだけなのだ。

 ならば、もしここからその運命が変わることが、この世界が救われることがあったのなら、それは即ち―――

 

「じゃあお前は、始めから世界を救うために…」

「はぁ……何で、貴方はこんなに面白いものをそんな狭い視野でしか見られないのかしら」

「面白い?」

「だって今、世界の全てが私の手の平の上にあるのよ。 暗く淀んだ絶望も、明るく輝く未来も、私の一存で自由に創り変えられるのよ」

 

 さとりはまるで無邪気な子供のように、ルーミアに期待する目を向けて言う。

 

「想像してもみて? 誰にも期待なんてされていない私の怠慢のせいで、全ての夢や希望が潰えていく」

 

 その口角が、上がる。

 

「疫病神の私の気まぐれで、明日の食事を笑顔で楽しんでいられる」

 

 耐え切れずにこみ上げてきた笑みで、その身体が震える。

 

「嫌われ者の私のおかげで、くだらない友情ごっこや愛情ごっこに現をぬかせる」

 

 そして、さとりは一度、天を仰ぐように見上げてから、

 

「ねえ――――」

 

 ただ、寒気のするような愉悦を浮かべた表情を向けて、言った。

 

「それって、素敵なことだと思わない?」

 

 かつてないほどの不気味な笑みを前に、ルーミアは言葉も出なかった。

 あらゆる闇を見てきた自分でも理解し難い……いや、理解しようとも思えない、さとりの狂気。

 世界を救った、滅ぼしたなどという結果にすら全く興味が無い。

 誰もが今感じている幸せが、実は誰よりも嫌われ者であるはずのさとりのおかげで存在する、あるいはさとりのせいで喪失したという確かな「事実」だけを、誰に知らせることもなく自らの内だけで完結させる愉悦。

 全ての喜びも悲しみも、何もかもをただ滑稽な戯曲に創り変えて眺めるだけの、ちょっとした戯れ。

 そんな自己満足のために周到に策を練り、自分の命も世界すらも軽んじた、あまりに理解から外れた妖怪を前に、

 

「……ははは。 私が言うのも何だが……歪んでるよ、お前」

「あら、それって貴方流の誉め言葉のつもり?」

「違えよ」

 

 もう、ルーミアはそれを目の前に置いておくこと自体が気持ち悪く、耐えられなかった。

 無限の闇も希望の光すらも、全てを平等に無意味なものに還してしまいそうな、狂気などという言葉ではとても表しきれないその歪みは、希望なんてものより遥かに危険な、ルーミアの天敵。

 一度でもそんなものを仲間に引き入れようとした自分の愚かさに恐怖しながら、ルーミアはさとりを闇で飲み込まないまま躊躇なく殺そうとして、

 

「―――さとり様っ!!」

「っ!?」

 

 突如として、辺りを怨霊たちが取り囲んでいった。

 怨霊の暴走とともに闇の力の制御を僅かに奪われたルーミアの上空に、天を光に染め上げるほどに眩い太陽が発生して、

 

「焔星『十凶星』」

 

 巨大な太陽は、そのまま落下した。

 それと同時に響いてきた声は、冷淡だった。

 それを操る空の目には、いつもの無邪気な色の光などない。

 なぜなら、さとりが傷つけられている姿が、その目に入ってしまったから。

 抑えきれない殺気を向けたまま、空はルーミアに向かって容赦なくその力を振う。

 あまりに突然の強大な力の登場に、とっさにそれを飲み込みながら、空に僅かに注意を向けようとしたルーミアの懐に、

 

「……せよ」

 

 地の底から這いあがったような気配が、その喉元へと迫っていた。

 

「お姉ちゃんを、放せよ」

「っ―――!?」

 

 直前まで、気付くことはできなかった。

 それでも、悪寒を感じたルーミアがとっさに避けたのは、感情の感じられないはずの殺気。

 だが、さとりにも読むことのできなかったはずの心は、誰もが見た瞬間に感じる。

 そこにあるのは、苦悩の末にやっと完全な制御を手にしつつあった『無意識を操る能力』さえも掻き消して感情を剥き出しにしてしまうほどの、かつてない憎悪。

 閉じたはずの第三の瞳を、睨み殺すように見開いてルーミアに向けているこいしの姿だった。

 

「……よう、生きてるか? さとり」

 

 そして、軽い口調で言いながらも、そこに存在する誰よりも強大な力と殺気を纏った勇儀の姿。

 それらが、一斉にルーミアを取り囲んで構えていた。

 

「ちっ。 次から次へと……」

「……ふふっ」

 

 それを前にしたさとりが静かに浮かべていたのは、恍惚とした笑み。

 だが、それは自分を助けに来た仲間たちを見て浮かべた、安堵の笑みではない。

 その瞬間を、その人生の最期の華を愉しむかのように、さとりは誰にも気づかれぬほど静かに、その奥深くに眠る闇の侵食を自らの意思で進める。

 その身体は、一瞬で大半が漆黒に染まっていた。

 

「ごめんね、みんな……やられちゃったわ」

「なっ……!?」

 

 それを見て一番驚いていたのは、ルーミアだった。

 ルーミアはもう、さとりを闇の感染者として飲み込むつもりはなかった。

 あまりに危険なその異物を、完全に拒絶するつもりでいた。

 だが、さとりはいつの間にか内に秘めた負の感情を……いや、闇の能力そのものさえも自らコントロールするが如く簡単に、深すぎる闇に染まっていた。

 

「お姉ちゃん!?」

「さとり様っ、そんな、待ってよ! 私が今…」

「来ないでっ!!」

 

 そんな、茶番とでも言うべきシナリオを、さとりは心の中で失笑しながら進める。

 さとりはさっきのやり取りを通じて、ルーミアにとって自分という存在が明らかな異物であることを理解した。

 ならば、その自分がこのまま完全に闇に染まれば、この運命の行く先はどうなるのだろうか。

 ルーミアの力が更に強大化されて簡単に幻想郷を飲み込んでいくのか、あるいは異質化した力がまた違う未来を創り出すのか、そもそも自分という存在が一体どうなってしまうのか。

 どんな結末が待っているのかは、全くわからない。

 さとりは、どんな未来を望む訳でもなく、ただ興味本位で自らの命を蔑ろにした。

 

 だが、さとりは別にそこで死にたいなどと思っている訳ではない。

 恐らくはいずれ自分を助けに来るだろう、ペットたちと妹の到着を待っていた。

 そして、仮に幻想郷が救われる未来が来たのならこいし達が何かうまいことやって結果的に自分を救出してくれればなぁ、などという適当な保険をついでに思考の隅に置いてはいたが、実はそれすらもどうでもいい。

 ただ、悲しみに歪むだろうその表情が、この運命の果ての景色にもたらす影響だけに期待しながら……

 

「後は頼んだわよ、みん、な…」

 

 さとりは、闇に飲まれた。

 完全に沈む直前に、その笑みで表情が崩れるのを我慢できないまま。

 

 今頃、勇儀はさとりを助けるために真っ先にルーミアへと突っ込み、お燐はこの状況でも焦燥を押し殺して冷静にさとりを助けるために最善の方法を模索しているのだろう。

 そして、空は泣き叫び、こいしの心は制御できないほどに暴走しているのだろう。

 誰もがただ怒りのままに、ルーミアに立ち向かっているのだろう。

 さとりが自分からこんな選択をしたことなど誰一人として知らないまま殺意に支配される、狂った喜劇の中で。

 

「……いや。 一人、気付いてたか」

 

 さとりが最後に思い浮かべたのは、恐らく初めて自分を理解していただろう相手のこと。

 その歪んだ思考を理解していただろう、一人の魔法使いのこと。

 

 

  ――私はこういう奴が一番嫌いなのよ。

 

 

 だが、地底でそう吐き捨てた相手のことを、逆にさとりも理解していた。

 たとえ第三の目で心を読まなくとも、本能的にわかっていた。

 それを、互いに知り得た理由は―――

 

「知ってる? 同族嫌悪っていうのよ、それ」

 

 そう、最後に呟いたさとりは、静かに闇の中に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「終わり、かしらね」

 

 宇宙空間に囲まれた砂漠のような、異次元の狭間。

 現実の光景とはかけ離れた殺風景な世界で、輝夜は一人立っていた。

 その足元には、無残に散らばった魔物の屍が、地を覆い尽くすほどに積み上がっている。

 それでも、その中でただ一人、レミリアと大差ないほど小さな金髪の少女が、全身を得体の知れない何かに浸食されて膝をつきながらもグリモワールを片手に未だ輝夜の前に立ちはだかっていた。

 

「……そうね。 私にはもう、あんたに対抗するような力は残ってないわ」

「だったら、もう諦めてこの魔法を解いたら? 今も貴方の身体を蝕んでるんでしょ」

「それは、お断りね」

 

 その小さな妖怪こそが、アリスの本当の姿だった。

 元々は人間でありながらも、禁忌のグリモワールに手を染めて妖怪と化し、それを使って魔界を影から操っていた狂気の天才魔法使い。

 魔理沙たちが今まで見ていたのは、本来成長するはずだった自分の姿を模した人形に自らの精神を込めた仮初の姿に過ぎなかった。

 

 そして今、アリスはその「人形」で出せる力の限界を超えて本気を出すために自らの本体を戦場に晒した。

 それでもなお輝夜を打ち負かすには至らなかったが、既に勝敗の決した戦場で、アリスは輝夜を異空間に閉じ込める『紫』色の魔法だけは解かなかった。

 その禁呪の浸食を、命を張って未だに耐え続けていた。

 

「でも、私がここで貴方を殺せばこの魔法は解けるでしょ。 その前に諦めた方が、賢明じゃない?」

「嫌よ。 私はまだ、あんたの答えに納得してないもの」

「私の答え?」

「ええ。 この異変に対するあんたの向き合い方が、気に入らないのよ」

 

 輝夜が立つのは、あくまで第三者の視点。

 自分が異変に直接介入することなく、その結果を幻想郷の住人の力に任せるだけの、一種の無関心。

 それが輝夜が決めた、自分のいるべき場所だった。

 

「私が関わって、一体何があるの? ただ異変をつまらなくするだけじゃなくて?」

「ええ、そうかもね。 自分が直接介入すれば、いろいろとパワーバランスが崩れるとわかってるから」

「そうよ」

「……ただそういう風に、あんたは自分に言い訳してるだけよね」

「何?」

 

 怪訝な目を向けた輝夜に、アリスは一つ息を吐いて答える。

 

「私も昔、そう思ってたことがあったからね。 だからこそ若輩の私にも一つだけ、あんたに教えてあげられることがあるわ」

 

 かつての自分が、そうだったから。

 輝夜の抱える歪みを、恐らくはこの世で自分だけが理解できるのだから。

 だから、アリスはガクガクに痙攣している足で、再び立ち上がる。

 その手に持った本は、七色の光を放ちながらアリスを包み込んでいく。

 

 

      『 ―Iridescent― 』

 

 

 そして、アリスは自らの手の内にある全ての色を同時に開放して、

 

「最後まで傍観者でいることほど、つまらない結末の迎え方はないってことをね!」

 

 全ての魔力を解き放ち、自分でも何が起こるかわからない『虹』色の魔法に身を委ねて、アリスは輝夜に立ち向かう。

 辺りを覆う異空間すらも歪ませるほどに、得体の知れない力を宿したアリスの姿は輝夜と交錯し――――

 

「……そう。 じゃあ、少しくらいは肝に銘じておくわ」

 

 次の瞬間には、あっけなく地に伏して声も出せないまま動かなくなっていた。

 

 その一瞬に何が起こったか知覚することもできないまま、辺りに飛び散った七色の光だけが僅かに辺りの異空間を照らしてすぐに消えた。

 力の源を失い、地面を埋め尽くしていた魔物の屍の山が消滅し、そこには倒れて動かなくなった小さなアリスと、それを静かに見下ろす輝夜の姿しか残ってはいない。

 崩れゆこうとする異次元世界の中で、輝夜は自分と渡り合ったアリスの最期を、惜しむこともなかった。

 ただ、少しだけその最後の言葉を反芻するように、

 

「つまらない、か」

 

 消えることなく呪いのように鳴り響くアリスの言葉は、輝夜の中に留まり続ける。

 不思議とそれに反発しようとは思わない。

 それを奥底に宿した自分の中の何かが、ほんの少しだけ動いたように感じていた。

 

「それに、私の本当の望み……ねぇ」

 

 輝夜は、さとりが放ったその言葉を思い出す。

 そして、自分が今いる場所を見回す。

 そこは何もない砂漠、星一つない、誰もいない真っ暗な闇に閉ざされた世界。

 まさに滅びた世界。 他に何一つ余計な雑音の混じることなき、ルーミアに敗北した幻想郷の末路を映したものとさえ思えた。 

 そして、その世界の綻びがどこに繋がっているのかも気付いた輝夜は、微かな笑みを浮かべて、

 

「なるほどね。 これが目的だったのだとしたら、私も貴方の掌の上で踊らされていただけの道化師に過ぎなかったってことなのかしら」

 

 足元に這いつくばって動かなくなったアリスに向かって、そう呟いた。

 当然ながら、返事は無い。

 それでも、もう忘れ去りそうになるほどに矮小なその妖怪が込めた、最後の力への敬意を払うかのように、

 

「まぁいいわ。 だったら、少しだけ貴方の目論見どおりに進めてあげる」

 

 そう言って、輝夜は辺りを囲う異次元空間に干渉する。

 アリスの力が途絶えたならばあと数秒で消えるはずの、その空間。

 その気になれば、簡単に外に出ることもできるはずの、その空間。

 輝夜は自らの『永遠を操る能力』を使ってその空間の寿命を延ばし、あえて自分がその中に取り残されるよう細工する。

 

「さぁて、貴方の見ていた未来の先には、一体何があるのかしら」

 

 そして、輝夜はその世界へのもう一人の招待者を待ちながら、閉ざされた空なき闇を見上げていた。

 

 





 だいぶ長くなりましたが、これで中編は終わりとなります。
 次回、後編予告に続きます。


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