【依存】から始まるヒーローアカデミア   作:さかなのねごと

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60.少女、縋った。

 

▽前回の簡単なあらすじ

・林間合宿で誘拐されAFO(オールフォーワン)と2人で会話。

・オリ主の“個性”が【治癒】でもなく【翼】でもなく【依存】だと見破られる。

・オリ主の過去を垣間見たAFO(オールフォーワン)が「(ヴィラン)にならないか?」と勧誘。

・オリ主断る。

・今から“話し合い”(拷問)が開始されそう。

 

▽今回の注意点

 今回は拷問表現はありませんが幼少オリ主(3歳女児)への虐待表現があります(性的虐待はありません)。苦手な方はご注意ください。次回の始めに簡単なあらすじを置いておきます。

 

 


 

 

 わたしの“個性”は【依存】。わたしと心を通わせた相手の“個性”を奪う。心を通わせる、なんてこの上なく曖昧で精神的な事柄なのだけれど、確かなことがひとつある。

 心が繋がるには、人と過ごす時間が必要だということ。

 誰かと過ごした記憶から想いが生まれるということ。

 

 だから、なのか。こういう“個性”だからか。

 ……わたしはあの人たちとの記憶を、鮮明に覚えている。

 

 

 

 

愛依(あい)、ほら、見て』

 

 小さなわたしは抱っこされていたから、お母さんの声がすぐそばで聞こえていた。ふわりと優しくて、あったかくて、誇らしそうな声。

 

『お父さん、頑張ってるよ』

 

 お母さんに言われて見上げると、ビルの屋上で暴れている(ヴィラン)と、それと戦うヒーローの姿があった。ヒーローは青空と同じ色のマントを靡かせて、(ヴィラン)の放つ銃弾にも果敢に立ち向かっている。怪我なんてなんのその、頬に赤いひとすじの線を走らせながら、一気に距離を詰めた。そうして(ヴィラン)を背負い投げ。衝撃に気を失った(ヴィラン)に安堵したのか、その勢いのままたたらを踏む。

 

『おわっ、とっとっと……!』

 

『! 危ない!』

 

 わっ、とビル下で見守っていた人々がざわめく。その多くの目が見開いて、それから柔らかに丸くなった。バランスを崩したヒーローは屋上のフェンスに掴まって、何とか落下を免れていた。

 はは、と照れ笑いが小さく零れる。青いマントがふわりとはためく。

 

『いやあ、ご心配お掛けして、お恥ずかしい……』

 

 その瞬間、わあっと歓声がその場を染め上げた。同時に笑い声も上がったけれど、それはとても、あたたかな。

 

『あはは、なんだそれ!』

『気を付けろよなあ!』

『なーんか格好つかないよなあ、相変わらず』

 

『いやほんと、返す言葉もないなあ……』

 

 へにゃりと下がる眉は、人によっては情けなく映るのかもしれない。けれど、

 

『おおい、怪我、大丈夫かぁ!?』

『あっ、それは平気ですよ。もう完治してます!』

『さっすが、不滅のヒーロー!』

 

 【自己再生】──自分の治癒能力を活性化させる“個性”。それを存分に活かし、身を呈して民衆を守る。ちょっとおっちょこちょいで、格好つかないこともあって、それでも誰よりみんなを守ろうと必死で。

 

『ありがとう! ヒーロー!』

『! どういたしまして!』

 

 誰かを守れた時に、とっても嬉しそうに笑っていた。

 

『……ふふ。すごいでしょ、お父さん』

『うん! おとうさん、かっこいい!』

 

 そんなお父さんが大好きだった。そんなお父さんのことが大好きなお母さんのことも大好きで。だからわたしは大きく頷いて、声を弾ませた。

 

 

 そう、大好きだったの。

 お父さんもお母さんも、大好きだった。

 

 

『おかあさーんっ』

『あらま、愛依。どうしたの?』

『うふふー』

 

 あの日。エプロンをつけて台所に立つお母さんに抱きついて、わたしはぐりぐりと頬を寄せた。そんなわたしの頭を撫でて、お母さんは笑う。

 

『今日はいつもより甘えたさんだ』

『きょ、きょうだけだもんっ』

『ふふ、そうだね。今日で愛依は3歳のお姉さんになるんだもんね?』

『うん!』

 

 その日はわたしの3歳の誕生日だった。3月のはじめの頃。冬の気配がほんのりと緩まって暖かくなってきた頃。ベッドから飛び起きた瞬間からわたしは浮き足立っていて、ずっとそわそわしていた。

 だって今日はわたしの誕生日。待ちに待った誕生日!

 お母さんは昼過ぎから夜ご飯のためのご馳走作りを始めていて、キッチンからは絶えずいい匂いがしていた。わたしの大好きだったハンバーグと、ホワイトシチューと、ポテトサラダ。お部屋で遊んでいなさいと言われたけれど、心がわくわくしてじっとしていられなくて、何度も顔を見せに行ったわたしにお母さんは柔らかく苦笑していた。しょうがないなあと、サラダに入れる用の林檎の切れ端をわたしの口に放り込む。しゃくっと口内で弾ける甘酸っぱさに、わたしはふにゃりと笑って、お母さんも頬を緩ませていた。

 

『愛依、お誕生日楽しみにしてたもんね』

『うん! だって、だって、おいしいのいーっぱいだし、うれしいのもいーっぱいなの!』

『幼稚園のこと?』

『そう! たくさんのおともだちいるんでしょう? わたしもはやくいきたいなあ』

『あともうちょっとだよ。4月になったらね』

『しがつ?』

『そう。桜が咲いたら、だよ』

『! うんっ』

 

 お母さんが作ってくれるたくさんのご馳走に、楽しみにしていた入園への期待を膨らませて、わたしは胸がいっぱいだった。胸の中が喜びとか嬉しさとか、そういうもので満たされていた。

 

『んー……お母さんも愛依が幼稚園に行くの嬉しいけど、寂しくもあるかな』

『えっ!? どうして!?』

 

 だから、お母さんが寂しいなんて思っていることにびっくりして、目を丸くした。おろおろするわたしを宥めるように、お母さんはわたしの白い髪を撫でる。お母さんのものとお揃いの、白い髪。

 

『お母さんは愛依のことが大好きだから、ずうっと一緒にいたいなって、思っただけだよ』

 

 お母さんは赤い目を微笑ませて、そんなことを言った。

 白い髪に赤い目、白い肌。所謂アルビノと呼ばれる特徴を持つ彼女だけれど、これは生まれつきのものではなく、“個性”の副作用だったらしい。【譲渡】──自分のものを他者に与える、それがお母さんの“個性”だった。体内を流れる血液や生命エネルギーを怪我人に与えることができたから、お母さんは結婚するまで医療スタッフとして働いていたのだという。何かを誰かに与える度に自分の色素を失うという副作用もあったけれど、それでもお母さんは誰かの命を救うために与え続けた。優しい、人だった。

 

『わたしっ、わたしもおかあさんのことだいすきだもん! ずっと、ずうっといっしょだもん!』

 

 だからぎゅうっと抱き着いた。わたしはここにいるって、ここにいたいんだって、そう伝わるように。

 そんなわたしに、お母さんは床に膝をついて抱き返してくれた。とんとん、と背中を撫でて、髪を撫でて。柔らかく包み込んでくれる体温と甘い匂い。大丈夫だよ、と響く声。

 

『ごめんね、そうだね、大丈夫。……ずっと一緒だよ』

『うん……!』

 

 今にして、思えば。

 わたしもお母さんも、嘘をついていたんだなあ。

 

『……さて! そろそろハンバーグ焼こうかな。お父さんも帰ってくる頃だし』

『おとうさん、けぇきかってきてくれるかな?』

『おっちょこちょいな人だけど、それは心配しなくていいよ。お父さんも愛依の誕生日、お祝いしたがっていたもの』

『えへへー!』

 

 たのしみだなあとわたしは笑って、そうだねとお母さんも笑って。じゅうじゅう焼けるハンバーグの音を背景に、夜が、近付いてくる。

 

『ただいまぁ』

『! おとうさん、おかえりなさぁい!』

『おっと! はは、ただいま愛依』

 

 駆け寄って飛びついたわたしを受け止めて、くるりと1回転。ぎゅうっと抱き締めて、抱き上げてくれた。お父さんはわたしと同じ青色の目で、にかっと笑う。

 

『玄関で待ってたのか? 寒くなかった?』

『へいき! あのねあのね、ここ、ぽかぽかしてるの』

『胸が?』

『うん!』

『楽しみで?』

『たのしみで!』

 

 そうかあ、と笑う。へにゃりと眉を下げて。そんなお父さんに抱っこされたまま、わたしは玄関から廊下を抜けて、リビングへ入った。ダイニングテーブルにはご馳走が並んでいて、お母さんがお帰りなさいと微笑んでいた。

 

『愛依、ほら』

『! うわあ……!』

 

 テーブルの真ん中は空いていて、そこにようやく今日の主役が鎮座した。白い箱から取り出されたのは、白いクリームで覆われた丸いケーキ。上には球状にカットされた色とりどりのフルーツが乗っていて、まるで……

 

『きらきらして、ほうせきみたい! すごいすごい! すてき!』

 

 そう、宝石みたいって、はしゃいだ。目をきらきらさせて、お父さんの腕の中で身体を揺らして。

 AFO(オールフォーワン)はきっと、この場面を見たんだ。

 この先を、見たんだ。

 

『美味しそうだろー? 綺麗だろー? 愛依にぴったりだって思って買ってきたんだ』

『ふふ、そうだね。よかったね、愛依』

『うん! うん……っ!』

 

 蝋燭が3本ケーキに飾られて、その先に火が灯った。リビングの電灯は消されて、蝋燭の灯りがふわりと浮かび上がる。チョコレートでできたプレートに書かれた文字がきらめいた。

 ──【あいちゃん おたんじょうび おめでとう】

 

『3歳のお誕生日、おめでとうな、愛依。大好きだよ!』

『うん、お母さんも大好き。……生まれてきてくれて、ありがとうね』

 

 だいすき。その言葉に、胸がぽかぽかしていた。さっきは『たのしみで!』って言ったけれど、きっとそれだけじゃない。それだけじゃなかった。

 嬉しかった。じんわりと胸に広がるこの熱が幸せだって、初めてわかった気がした。“生まれてきてくれてありがとう”って、ただ生きていることを望まれることが、どんなに、どんなに……。

 

『……ありがとう、おとうさん、おかあさん、』

 

 わたし、嬉しかったの。幸せだったの。

 

『──わたしも、だいすき!』

 

 大好き、だったの。

 

 

 

『うわっ、ちっち、』

『わ、大丈夫? あなた』

『だーいじょうぶ』

 

 抱っこしたわたしに蝋燭の火を吹き消させようと、お父さんは身体を屈めた拍子に軽く火傷をしたらしい。そんな高温でもなく、本当に軽い火傷。

 

『こんなの、すぐ治せるし』

 

 だから、何でもないことのように笑っていた。

 ……その笑みが崩れるのは、早かった。

 

『……あれ?』

『どうしたの?』

『おとうさん……?』

 

『……“個性”が、』

 

 “個性”が、使えない。

 震えた声でそう呟いた。その瞬間、リビングに痛いほどの沈黙が広がる。

 

『え? そ、そんな、どうして……?』

『わからない、いくら使おうって思ってもまったく……』

 

 お父さんとお母さんが怖い顔をして話し合うのを見ながら、わたしは胸元を握り締めていた。張り詰めた空気が痛い。ばくばくと跳ねる心臓が痛い。口の中が乾いて、ごくり、唾を飲み込んだ。

 

『おとう、さん……』

 

 こんなにも何もかも痛いのは、きっと、お父さんが傷ついたからだと思った。お母さんが心配して、笑えていないからだと思った。だから、だから……治してあげたかった。そうしたらみんな喜ぶだろうって思ったの。痛い顔をしないでほしいって、ただそれだけだった。

 だから、わたしは。

 お父さんの指先を手にとって、包んだ。

 

『、愛依……ごめんな。ケーキ食べよう、か……』

 

 痛いの痛いの、飛んでいけって。心の中で唱えた。

 いつかお父さんが、お母さんがしてくれたように。

 

『え……』

 

 黙り込んだわたしを心配してくれたのだろう。へにゃりと眉を下げて何とか笑顔を浮かべてみせた。そのお父さんの笑顔が強張って、消えて、青い目が見開かれる。その様をじっと見ていた。幼いわたしは、期待を込めて。

 

『指、……治ってる』

『……! よかっ、』

 

 “よかった”。“これでもう全部大丈夫”。

 この一瞬は、本気でそう思っていた。

 

『違う! 俺は“個性”を使ってない!』

 

 だから、叩きつけられたような叫び声に、ただ身をすくませることしかできなかった。信じられないような顔で治った指先を見つめるお父さんに、お母さんははっとして駆け寄る。【譲渡】を使う時のように手を翳してしばらくして、その赤い目を歪めた。

 

『……私も“個性”が使えなくなってる……!』

『お、おとうさ、……おかあさん……?』

 

 どうしたの、と手を伸ばして──弾かれた。

 ばちっと乾いた音。じんじんと疼く痛み。……それよりずっと、叩かれたという事実が痛くて、わたしは声を震わせた。

 

『い、たい……っおとうさん、なんで……?』

『……あ、……』

 

 涙を滲ませるわたしを見る、お父さんの目が揺らいだ。

 心配、後悔、焦り、……それを飲み込むくらいの、怒り。

 

『……、……治せるだろう、それぐらい』

『え……?』

『俺の“個性”を、愛依が、持ってるなら……』

 

 わたしに伸び掛けていた手が、握られて。その拳がダイニングテーブルに叩き付けられる。

 

『治せるだろう、……治せよ、早く!』

『ひ……っ!』

 

 叩き付けられた拳。その衝撃。罵声。ケーキに乗せられていたフルーツがぼたりと落ちた。目の前にある何もかもが怖くて怖くて、わたしは言われるままに自分の手を握った。無我夢中だった。胸にあるのは恐怖と混乱だけ。

 それでもわたしの手は治った。……治ってしまった。

 恐る恐る開いて見せたわたしの手に、お父さんとお母さん、2人の眦が吊り上げる。

 

『治った……やっぱり愛依、おまえが俺の“個性”を盗ったのか!』

『とる……!? わ、わたし、しらな……っ』

『お父さんの“個性”は自分の怪我を治すもの。誰かを治すことはできない』

 

 お父さんに詰め寄られて必死に首を横に振るわたしに、お母さんが近付いてきた。彼女は、わたしの肩に手を置く。

 

『……私の【譲渡】と合わせて使わない限り、できない』

 

 目線を合わせて、視線を合わせる。その眼差しは見たこともないくらい、冷たかった。ぞっと背筋に悪寒が走る。身体の震えが止まらない。

 

『わ、わたし、でも、ほんとにわからない……っ』

『愛依の“個性”、まだ発現してなかったね』

 

 尚も言い募るわたしを黙らせるためだったのだろうか。肩に置かれた手に力が籠った。そうしてお母さんは言葉を放つ。

 

『愛依の“個性”は、誰かの“個性”を奪うものなんだよ。

 ……その“個性”で、私とお父さんの“個性”を奪ったの』

 

『……っ』

 

 違う、と言いたかった。そんなつもりなかったのだと言いたかった。わたしはただ、2人に笑顔になってほしくて……だいすき、なのに、言えなかった。

 絶句するわたしにお父さんが背を向けた。その後ろ姿が離れていくのを見て、わたしはキッズチェアーの上から手を伸ばす。

 

『お、とうさん、どこに、』

『触るな!!』

 

 振り向きざまに横薙ぎにされた拳が、わたしの頬を捉えて椅子ごと薙ぎ倒した。床に投げ出されて、衝撃に息が詰まる。ずきずき痛む身体をゆっくりと起こして、涙の膜越しにお父さんを見上げた。

 くしゃりと顔を歪めた、お父さんがそこにいた。

 

『おまえがいるから、おまえの“個性”がそんなだから……っ』

 

 怒り、怒り、怒り。でもその目の奥に罪悪感があった。

 だから、わかった。

 

『だから俺は、俺じゃなくなる!』

 

 お父さんは、こう(・・)なりたくてなったんじゃないって。

 わたしのせい、なんだって。

 

『あなた……!? あなた、待って!』

 

 足早に部屋を出ていったお父さんを追って、お母さんも駆け出した。バタバタと遠ざかる足音を、わたしはただ聞いていた。わたしを殴った時に一緒に落ちたのだろうか、甘いジュースの入っていたカップが割れて床に散らばっている。ガラスの破片がきらきら輝いて、甘い匂いが広がっていく。その様をぼんやりと、静かな部屋でひとり、ただ、見ていた。

 

『……いたい……』

 

 頬や身体の傷なんて、すぐに治った。治ってしまった。

 

『……い、たい、いたいぃ……っ』

 

 そんなことより心の奥が、ずっとずっと、痛かった。

 

 

 

 

 わたしの“個性”は【依存】。わたしと心を通わせた相手の“個性”を奪う。心を通わせる、なんてこの上なく曖昧で精神的な事柄なのだけれど、確かなことがひとつある。

 心が繋がるには、人と過ごす時間が必要だということ。

 誰かと過ごした記憶から想いが生まれるということ。

 

 だから、なのか。こういう“個性”だからか。

 ……わたしはあの人たちとの記憶を、鮮明に覚えている。

 

 

 

 

 どさどさ、と乱暴にゴミ袋に捨てられる“それ”を、わたしはじっと見つめていた。それを疎んじたのだろう、お母さんの声が冷ややかな氷柱のように突き刺さった。

 

『なに。捨てられるの、嫌なの』

 

 わたしは答えられなかった。口を開けば泣いてしまいそうだったから。だからただ、宝物のトートバッグが、昨日の誕生日に食べられなかったご馳走と一緒くたになってゴミになっていくのを見ていた。

 柔らかな黄色に、たんぽぽのアップリケがついたそのトートバッグは、いつか幼稚園に通うためにとお母さんが作ってくれたものだった。来月に控えた入園を、いつかのわたしはトートバッグを抱き締めながら待ち望んでいた。けれど、

 

『幼稚園なんて行けるわけないでしょう。あなた、また誰かの“個性”を奪うかもしれないものね』

 

 せせら笑うお母さんの声に、わたしは黙って俯いた。ハンバーグの冷えた肉汁に、ケーキのぐちゃぐちゃになったクリーム。それらがトートバッグを汚していく。

 

『……なあに、その顔。お母さん、間違ったこと言ってる?』

『……、いって、ない……』

 

 そう、言っていない。お母さんの言葉は正しい(・・・)

 間違ってるのは、悪いのは、わたし。

 

『ごめんな、さい、ごめんなさい、おかあさん……』

 

 ひぐ、と、涙と一緒に嗚咽が零れる。いつかのお母さんはわたしが泣いた時、仕方ないなあと柔らかに苦笑して、それから抱き締めてくれた。大丈夫、だから泣かないのって、励ましてくれた。

 

『……うるさいなあ、』

 

 そんなお母さんはもう、いつか(・・・)に消えてしまったのだ。

 

『泣くなら声を出さないで。近所迷惑でしょう』

 

 わたしの方を見ることすらせず、吐き捨てられた。それにまた涙が溢れてしまったけれど、わたしは必死に口を覆った。嗚咽を押し殺す。何だかそれは、息を止める仕草に似ていた。

 

 

 

 振り上げられた拳。ぎゅっと目を瞑って身構えた瞬間、おでこの辺りに衝撃。かっと熱を持つ痛みばかり感じて、床に倒されたことも、背中を打ったことも、どこか他人事のように感じていた。

 

『ああ、くそ、くそ……ッ』

 

 ぎちぎちと握られる拳から、肉を痛め付ける音がしている。……お父さんも痛いだろうなって、そんなことをぼんやり思っていた。

 

『また駄目だった……そりゃそうだよな、“個性”を無くした元ヒーローなんて、どこも雇ってくれるわけない』

『あなた、』

 

 お母さんは心配そうに目を伏せて、お父さんに寄り添った。それから、わたしに視線を投げる。

 

『……あなたのせいで、お父さんはヒーローを辞めなくちゃいけなくなったんだよ。そのこと、わかってる?』

『……わ、わかって、る……』

 

『わかってるなら、どうして腕で頭を庇うの?』

 

 お母さんの声や目から温度が無くなって、もう随分経つ。

 

『立ちなさい』

『え……?』

『気をつけをして、じっとしていなさい』

 

 早く、と促されて、わたしは震える足で立ち上がった。お父さんの傍から離れて、お母さんがわたしの前に歩み寄る。その手には濡れた雑巾が握られていた。

 

『動いちゃ駄目だよ』

 

 ヒュッと空気を切る音が、わたしに叩き付けられる。それは1回だけじゃなく、2回、3回と続けられた。思わず腕で顔を庇おうとしたけれど、ぐっと耐える。“気をつけ”の姿勢で、ぐっと手を握り締めた。俯いても怒られたから、前を向いたまま。お母さんが無表情でわたしをぶつ姿を、ただ見ていた。

 

『……っぅ、』

『どうして泣くの。あなたが悪いのに』

 

 お母さんは不思議そうに首を傾げた。白い髪がさらりと流れる。

 

『あなたが悪いことをしたから、躾をしているだけ』

 

 そうでしょう、と尋ねられて、わたしは答えられなかった。嗚咽を噛み殺すことに必死だった。

 

『……そうだな』

 

 返答があったのはお父さんからだった。ふらりとこちらに歩いてくる、その俯きがちの顔に、薄い笑いが浮かんでいた。

 

『“個性”を使って他人に危害を加える……まるで(ヴィラン)だな』

 

 ……ああ、だから、お父さん(ヒーロー)たちにやっつけられるのかなって、妙な納得を覚えた。

 その納得は諦念という名前で、わたしの中にゆっくりと広がっていった。頬を張り飛ばされても、お腹を蹴飛ばされても、痛みは遠くなっていった。ただ心が、すかすかになっていく。

 

 

 

 心がすかすかになってもお腹は空くんだなって、初めて知った。

 お父さんとお母さんが連れたって家を出ていって、どれぐらい経ったのか。何も食べるものがなくて、お腹の音すら鳴らなくなって。床に寝そべっていたわたしは蹴り飛ばされて意識を取り戻した。

 

『邪魔なんだけど。こんなとこで寝ないで』

 

 久しぶりに聞くお母さんの声に、かさかさの唇を動かした。声の出し方を、本当に久しぶりに思い出した。

 

『……か、ぁ、さ……』

『なに。……ああ、お腹が空いたの?』

『っ……』

『へぇ、』

 

 起き上がることすらできないまま、必死に首を動かした。そんなわたしを見下ろして、お母さんは呟くように言う。温度の無い声で。

 

『悪いことしかしてないのに、お腹は空くんだね』

 

 侮蔑や嫌悪すら、あの時の彼女にはあまり無かったのかもしれない。温度も色もなく、真っ透明で冷たい。そんな人になってしまった。

 お母さんが投げて寄越した菓子パンに、わたしは飛びついた。包装を無茶苦茶に破いて、両手でかぶりつく。

 

『汚い。犬みたいに食べて、そんなに美味しいの?』

『……っ』

『ねえ』

『……お、おい、し……っ』

 

 嘘だった。味なんてなにひとつわからなかった。もうずっと前から、“美味しい”も“あったかい”も、わたしには無かったから。それなのにわたしの身体は久し振りの食べ物を喜んでいて、噎せながらも食べるのを止めようとしなかった。

 そんなわたしとお母さんに対し、お父さんはこちらに視線をやることすらなく、テレビをぼんやり見つめていた。そこでニュースキャスターが、痛ましい顔で痛ましい事件を読み上げていた。

 

《本日未明、マンションの4階にあるベランダから幼児が転落し、病院に搬送されましたが死亡が確認されました》

 

 死亡、という言葉の意味を、当時のわたしはぼんやりとしか知らなかった。けれど、

 

『……。』

 

 無言のまま、お父さんの視線がベランダに行って、それからわたしに移った。彼は、何も言っていない。それでもその眼差しの意味がわかった気がした。

 死ぬ(・・)ということの意味が、わかった気がして。

 

『……おと、さ……』

 

 もう枯れ果てたと思っていた涙が、流れた。ひやりと冷たい空気に晒されて、わたしの熱を奪った。

 

 

 

 この時のわたしはずっと部屋の中にいて、テレビも見られないまま日々を過ごしていたから知らなかったけれど、わたしの3歳の誕生日から幾つもの日々が過ぎていた。

 季節は巡り、桜はとうに散っていた。

 花びらの代わりに雪が降っていた。

 ──クリスマスが、やってこようとしていた。

 

 

 

『……は、ぁ……っ』

 

 シャンシャンと、どこからか陽気なベルの音がする。それを他人事のように聞きながら、わたしはがちがちと歯を震わせていた。せめてこんな日ぐらいは姿を見せないでと、ベランダに放り出されてからどれぐらい経っただろう。見上げる空は夕方の橙から真っ黒に染まっていた。吐き出す息が、白く濁る。

 

『さむい、なぁ……』

 

 薄っぺらいパジャマだけでは、この12月の寒空は厳しすぎた。身体を縮めて抱き締めて、ぶるぶる震えて耐え凌ごうとしたけれど、そんなわたしを嘲笑うように、空から雪が降ってきたのだ。

 

『わあっ、ホワイトクリスマスだねえ!』

 

 どこからか、そんな明るい声が聞こえた。姿は見えないから、マンションの下の道路を歩いている人のものかもしれないし、幻聴だったのかもしれない。だって去年のわたしも、同じようなことを言ってはしゃいでいたもの。今のわたしとは、別人のように。

 

『おなか、すいた、なあ……』

 

 お腹も、心も、空っぽだった。

 ご馳走もケーキもプレゼントも、一緒にいてくれる人だって、今のわたしにはなんにも、無かった。

 

『……っさみし、ぃ、なぁ……』

 

 思わず視線が移った。施錠されたガラス戸。カーテンの隙間から見えたお父さんとお母さんは、ソファーに寄り添って眠っていた。わたしの位置からでは横顔しか見えなかったけれど、とても安らいで見えて。わたしははっと息を飲む。

 2人ともあったかそうで、……幸せそうだった。

 

(わたしが、いなければ、)

 

 わたしさえ、いなければ、

 わたしが“個性”を奪っていなければ、

 きっと2人は今もこうして、幸せだったんだろうなぁ。

 

『……ぁ、あ……っ』

 

 わかってしまった。

 お母さんの言う通り、わたしが悪かったのだと。

 わかってしまった。

 お父さんの言う通り、わたしは(ヴィラン)なのだと。

 

 わかって、しまったの。……わたし、わたしは、

 

『わたし……いないほうが、よかった、なぁ……っ』

 

 嗚咽は押し殺す。“近所迷惑”、だから。

 雪が舞い散る冬の夜空に、微かな、本当に微かな泣き声が落ちる。このベランダは7階にあって、わたしは座り込んでいて、たとえヒーローだってわたしがここにいることに気づくことはできなかっただろう。

 こんな小さな泣き声を辿って、誰かが救けに来るなんて、

 

『──あの、』

 

 そんなこと、思いもしなかったのに。

 

『だい、じょうぶ?』

『……っ!?』

 

 知らない声が間近で聞こえて、わたしはバッと顔を上げた。夢かと思ったの。また幻聴かと思ったのに、その声の主はわたしの目の前に、確かに立っていた。

 藤黄色の、ふわふわした髪の男の子だった。その子の背中には真っ赤な羽根が生えていて、それでこのベランダまで飛んできたのかな、なんて、混乱した頭で考えた。そんなわたしを、男の子は静かな目で見つめている。

 

『……ねえ、こんなとこにいたら、風邪引くよ』

『……』

『……俺と一緒に、あったかいとこ、行こ』

『だめ』

 

 ふるりと首を横に振る。ほとんど無意識だった。こうしなければならないと、刷り込まれたみたいに。

 

『……おとうさんと、おかあさんに、おこられる……』

 

 そうして頑なに俯いて、胸元を握り締める。黙り込むわたしに、男の子も躊躇うように沈黙した。何か(・・)を抱き締めるようにお腹の辺りの服を両手でぎゅっと握っている。そうして、

 

『……駄目だよ』

 

 何か(・・)に力を貰ったような、そんな目で、わたしを見た。彼の手が服から離れてわたしの頬に伸びる。

 ──またぶたれる、と身構えたけれど、衝撃も痛みもやってこなかった。触れたのは、柔らかな体温。

 

『……こんなに、冷えとる』

 

 男の子の手は、あたたかかった。痛いぐらいに。

 今まで寒くて痛かったのだと、思い出させるぐらいに。

 

『俺は、……俺は、』

 

 男の子は慎重に、懸命に言葉を選んでいた。そんなゆっくりとした言葉は雫に似ていて、ひとつひとつ、ゆっくりと、わたしの中に落ちていく。

 

『俺は、きみが、こんなとこでひとりでいるなんて、嫌だ』

 

 ゆっくりと、落ちて、波紋のように広がっていく。

 

『きみに──生きてて、ほしい』

 

 言の葉が胸の中で燃えた。そう錯覚させるぐらい、男の子の言葉がわたしの心を揺さぶった。

 だって、だって、そうだろう。ずっと言われてきたんだ。

 わたしのせいだって。わたしが悪いんだって。

 言われてなくても、思われていた。

 ……わたしは、いない方が、って、

 

『おいで』

 

 なのに男の子は、離れていかない。わたしの目の前に片膝をついて、目線を合わせて、手を差し伸べた。

 

『……っわ、たし、』

 

 それは、まるで、

 

『わたし、いっしょにいて、いいの……?』

 

 わたしを丸ごと、許してくれるみたいで。

 

『──うん』

 

 ……ああ、わたし、わたし、またつけ込んだ。この人の頷きに、肯定に、優しさに、つけ込んでしまった。本当ならわたしから離れていかなきゃいけなかった。この人の手を、取ってはいけなかったのに。

 

『大丈夫、……大丈夫だから、』

 

 でも、ずっと、ずっと、寒くて痛かったの。

 悲しかったの。寂しかった、の。

 

『一緒にあったかいとこ、行こ』

 

 ──一緒にいたいって、思ってしまったの。

 

『……っ、う、ん……!』

 

 手と手が繋がって、そのままぎゅっと、抱き締められて。それからふわりと浮遊感に包まれた。足がベランダから離れていく。……飛んでる。びっくりして手足をばたつかせようとしたけれど、その前に耳元で声がした。

 

『大丈夫、』

 

 大丈夫、傍にいるから、大丈夫だよと。

 わたしの身体が震える度に、繰り返してくれた。わたしはそれにほっと息を吐く。そうして目を瞬かせた。

 

 雪のちらつく夜空に、赤い羽根が鮮明に翻る。それがあまりに眩しくて、まるで、太陽を見つけたかのようで。

 

(……あ、あ、)

 

 冷えきっていた心に、じんわりと火が灯る。

 これがわたしと、……後に“ホークス”となる少年との出会いだった。

 

 

60.少女、縋った。

 

 


 

癒月(ゆづき) 快青(かいせい)

 オリ主の父親。【自己再生】の“個性”を持ちヒーローをしていた。“人助けができる自分”を誇りに思い、そんな状況に依存していた。

 

癒月(ゆづき) (ゆずる)

 オリ主の母親。旧姓は献城(けんじょう)。【譲渡】の“個性”を活かして医療スタッフとして働いていた時、快青に出会い、結婚するに至る。大なり小なり依存体質なオリ主一家の中で群を抜いて依存体質。快青にベタぼれで、心の底から依存していた。

 

 今回はオリ主一家のお話でした。小さい子が痛い思いをしたりひもじい思いをしたりするのは個人的にドドドドド地雷なのですが、オリ主がホークスに依存する過程を書くためには必要かと思いまして書きました。書きたかったところではあるんですがしんどかったですね……。

 次回もオリ主過去編が続きます。10歳ホークスに救われた3歳オリ主がどんな道を辿るのか、また読んでいただければ幸いです。

 

 最後になりましたが閲覧及びお気に入り登録、評価などなど、本当にありがとうございます!皆様のおかげでこのssは何とか続いていけています。本当に感謝の念に絶えません。次回も頑張って書きます!


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