彼女の始まりは、中学校の卒業式だったのだという。
卒業式後、閑散とした廊下。手にしたカッターで同級生の男子を斬りつけ重傷を負わせた彼女は、その傷口にストローを差した。そうして、
『チウ』
そのままストローで、彼の血を吸い上げたのだと。
その時の顔があまりに恍惚としていておぞましかったのだと、目撃者は語った。
血溜まりの中に倒れる少年。その傍らに跪く少女。静寂の中でチウチウと音が流れる。焦点の揺れる目はぼうっと上を向き、吊り上げた口角のせいで頬は歪んでいた。
(……どんな思い、だったんだろう)
彼女は、トガヒミコは──ぼろぼろと涙を流しながら、頬を真っ赤に染めて、笑っていたらしい。
今わたしの目の前に現れた彼女もまた、ニコニコ嬉しそうに笑っているけれど、その心情はまるで読めない。ましてや、こんな状況にあっては。
「何のために、ここに。目的は何?」
「んー? ふふ、会いたかったら来ちゃいました!」
「……ふざけているの」
「ふざけてなんて! 本心なのに!」
ここはヒーロー仮免試験の場だ。仮免を目指す数多のヒーロー候補生の他に、公安の目もある。生徒を引率してきたプロヒーローの先生方も観客席にいるのだから、そんな衆目の中に自ら飛び込んでくるなんて、正気の沙汰とは思えない。
(……、そうだ、ホークスもいる。いてくれる)
そう思い至ったわたしは、背中の【翼】を広げた。自分の身を覆うように周囲に2割、残りの8割をトガヒミコに差し向ける。形状変化で鈍器と化した羽根が、彼女に向かって射出される。
「わきゃあっ! もうっ、いきなりですねぇ」
「動かないで。……何のつもりでこの多古場に来たのかは知らないけれど、姿を見せたからには捕縛させてもらう。トガヒミコ」
彼女は“個性”とはまた違った“技術”で、非常に軽い身のこなしと隠密能力を誇るのだと、公安による記録で知った。数多の警察やヒーローから2年も逃げおおせているぐらいだから、わたしの小手調べ程度の羽根が当たるはずがない。
8割は目眩まし。本命は、わたしの周囲に展開させた2割の羽根の内の1枚。その1枚がわたしの耳朶に触れる。会長から貰ったピアス型の通信機がONになった。
これでわたしの会話が公安に伝わる。そうして公安の人たちに、目良さんに、ホークスに、トガヒミコがここにいることを伝えるのがわたしの仕事だ。
(後は、彼女を捕らえる包囲網が整うまで、何とかこの場に引き付けて持ちこたえていれば、──)
ふと、巡らせていた思考が止まる。整えていたポーカーフェイスが崩れたのは僅かだったはずだけれど、トガヒミコはそれを見逃さなかった。きょとんと目を瞬かせた後、にこりと笑う。
「ああこの人ですか? だいじょぶです、死んでませんよ」
わたしの視線の先に、トガヒミコの背後に、人が倒れていた。うつ伏せになっているから定かではないけれど、恐らく50歳ぐらいの男性。HUCの一員だろうその人は、予め浴びていた血糊の他に、もっと赤黒い血を腹部から滴らせていた。致命傷程ではなくとも、十分に深手だ。一刻も早く治癒しなければと、焦燥に震える手を握り込んだ。
「……わたしにその人を治療させて」
「いいですよ」
……予想に反して、あっさりとトガヒミコは頷いた。色々と脳裏に並び立てていた交渉事を飲み込んで、わたしはしばし呆然とする。
「その代わりに、ネェ、」
そんなわたしに可笑しそうに、嬉しそうに、
「こっち、……私の傍に来てください」
ギャングオルカたちとの戦いが佳境に入っているのか、賑やかな外側とは裏腹に、ここは酷く暗く、静かだ。わたしの息を飲む音が、トガヒミコにも聞こえているかもしれない。こつ、こつ、とゆっくり進み出たわたしの足音が、やけに大きく響いた。
一歩。一歩。彼女の満面の笑みに向かって近付いていく。その足取りに焦れたのか、最後の一歩はトガヒミコが詰めてきた。ぴょこんと飛び付いてきた彼女は、わたしの背中に両腕を回した。
「ンふふ!
ぴょこぴょこ跳び跳ねた彼女のお団子頭が頬を擽る。
嬉しそうな声が弾んで、ぎゅうぎゅうに抱き締められる。
──身動きは、取れない。
「ボロボロだと、もーっとカァイイよ!」
「……ッ!」
抱き締められながら、ナイフを背中に突き立てられた。スーツを突き破り、肉を抉る鋭利な刃物の感触は、燃え上がるような痛みに紛れてよくわからない。それでも何とかうつ伏せの男性を治さなければと、治癒を込めた羽根を飛ばす。複数枚の羽根が彼を包み、ぴくりと、投げ出された指先が動いた気がした。
(……ちゃんと、治せた、かな……)
抱擁とナイフで拘束されたこの状況では、そう祈ることしかできない。
そんな“心配”の感情で気が緩んだのか、突き刺さる斬撃に声が漏れた。せめてもの意地で堪えようと奥歯を噛むけれど、二度三度とナイフを振り下ろされてそれも叶わない。
「う、ッぐ……!」
「声、殺さなくてもいいんですよ?」
「~~っい”、や、だ……っ」
「頑張りやさんですねぇ」
語尾にハートでも浮かびそうなくらい、トガヒミコの声は明るかった。まるで友達と一緒にクレープを食べてきゃいきゃいはしゃいでいるような無邪気さを以て、わたしの背を抉る。
「あの神野の日から、ずっと、ずぅっと思ってたんです」
至近距離から、トガヒミコはわたしの顔を覗き込んだ。
無邪気に夢見る女の子のように、トガヒミコはきらきらと目を輝かせている。恋に恋する乙女のように、そうっと大切そうに声を潜めて、彼女は赤い唇を開いた。
「ボロボロの愛依ちゃんがスキ」
「血塗れの愛依ちゃんがスキ」
「真っ白の肌が、髪が、羽根が、血で赤黒くどろどろになるのが、とぉってもカァイイ」
この暗い瓦礫の中にあって、その目はまるで三日月のように、にんまりと弧を描いて輝いた。
「私、血の匂いがする人が好きなんです。だから好きになると、もっともーっと好きになって、好きになりたくて、
こんな状況で、こんなことをしながら、こんなことを宣う彼女のことがわからなかった。トガヒミコが自分のことを話せば話すほど、彼女の思いがわからなくなる。
「……大切な人には、傷ついてほしくない」
ホークス。目良さん。幼い時からわたしの傍にいてくれた人たち。梅雨ちゃんに常闇くん……雄英に入学してできた初めての友だち。頼もしい先生たちも、いつもわたしを見守ってくれていた。
そんな大切な人たちが脳裏に浮かぶ。彼らを思えば、ふわりとあたたかな気持ちになる。
「傷を負ってほしくない。病気にもならないで、元気に楽しく、幸せに笑っていてほしい。……大好き、だから」
だからわたしは、わたしには、トガヒミコがわからない。
「あなたは、違うの?」
「あなた
──言葉を失うわたしに対し、トガヒミコは不思議そうに首を傾げた。心底、不思議そうに。
「どうして私ばかり“違う”って言うんでしょうねぇ? いっつもいっつも。違うのはお互い様なのに」
“違うのはお互い様”。……人を傷つけておいて、人を殺しておいて何を今さらと糾弾するのは簡単だ。“あなたは間違っている”と、突き放すだけならきっと誰にでもできる。むしろこの“個性”社会に生きる人間ならば、トガヒミコの言葉に耳を貸すべきではない。
「チウ」
「ッ、や……!」
露にされた肩口にナイフが突き刺さる。血が溢れるそこにトガヒミコは口をつけた。焼けつくような痛みと、じゅるじゅると血が吸われていく不快感に頭が可笑しくなりそうだ。ぐらぐら、ぐらぐら。目眩がする。
「……は、ッ」
「痛い?」
揺れる世界の中、耳元でトガヒミコが囁く。耳を、貸してはいけない。揺れてはいけない。
「……でも愛依ちゃん、死なないの、うれしいです」
揺らいではいけないと、わかっている。
彼女の
それでも、何故か。何故か、
……彼女には嘘が無いように思えてしまう。
「私が大好きになる人、最後はいっつも死んじゃうの」
どうしてそんなに、寂しそうな声をしているの。
「でも愛依ちゃんは、ずっと、ずーっと死なないで、ボロボロでいてくれます!」
どうしてそんなに、嬉しそうに笑うの?
「……わたし、を、」
傷つけたいけれど、大好き。
大好きな人だから、傷つけたい。
わたしには理解しがたいことが、彼女にとっての
「……わたしを殺したいわけでは、ないんだね」
「? 当たり前です」
トガヒミコは頷いた。迷う素振りも、何かを押し隠そうとする素振りもない。話す声に淀みは無く、……嘘の気配は、感じられない。
「……当たり、前……」
当たり前。当然。普通。
そうした言葉は、こんなにも不確かなものだっただろうか。ぐらぐら、ぐらぐら。信じていた足元がぐらついて、崩れ落ちていきそうな感覚を覚える。虚空に放り出されてしまう、そんな幻覚の中で、──すいと、わたしの前を行く赤い羽根が見えた。
「だって私は愛依ちゃんのこと大好きですもん。このまま持って帰っちゃいたいくらい!」
──そうだ。わたしの、やるべきことは。
「……わたしを連れていって、どうするの。
「役に立つとかはどうでもいいのです。だってトガが、愛依ちゃんと一緒にいたいだけなので」
トガヒミコを捕縛するための包囲網の完成を、彼女を引き留めながら持ちこたえていれば、
けれど、今、この場で。
(そうすればきっと、わたしは役立てる)
剥き出しの肩口にナイフが突き立てられ、ぐじゅりと捻られる。内側の肉を抉られる痛みに、歯をきつく噛みながら悲鳴を殺した。悲鳴も、痛みも、傷も、今はもう
「ッい”、……っい、一緒にいたいって、どうして、」
「“どうして”? トガはただ、カァイイ友達を、もっといっぱいカァイクしたいだけです」
「……じゃあ、わたしが、あなたと行けば、……他の人を、傷付けない?」
息を飲め。恐怖を押し殺した顔をしろ。
今のわたしは痛みをおして、人のため
“わざと
そうすれば、そうして
「……わたしが大人しくあなたに着いて行けば、士傑の、……あなたが血を吸って変身していた女の人の居場所を、教えてくれる?」
そうすれば、きっと。
このナイフはホークスには届かない。
「──駄目よ、そんなの」
突然、声がした。この場にいるはずのない声が。
え、と目を瞬かせると同時に、視界がぶれる。わたしを抱き締めていたトガヒミコが何かに弾き飛ばされて、地面に尻餅をつく。呆然とそれを眺めていたわたしは、
何故か透明だったその髪が、ゆっくり色を取り戻していく。緑がかった黒髪が揺れるのが、見えた。
「……つゆ、ちゃ……?」
わたしの呼び掛けに、梅雨ちゃんはトガヒミコを見据えたまま表情を動かさない。けれどわたしの肩を抱く手に、微かに力が込められた。
「ワーっ、梅雨ちゃん! お友達の梅雨ちゃんだ! カァイイカァイイねぇ!」
「“やめて”と言ったはずよ」
恐らく梅雨ちゃんの舌に弾き飛ばされたのだろうトガヒミコは、攻撃されたのも何のその、喜色満面の笑みで身体を起こした。そのまま飛び跳ねて来そうな彼女を、梅雨ちゃんの低い声が制する。
「“梅雨ちゃん”と呼ぶのも、──私のお友達を傷つけるのも」
そう言い放つと同時に、梅雨ちゃんの舌が真っ直ぐトガヒミコに向かう。まるで鞭のような速さと鋭さを以てトガに迫るけれど、彼女はうっすらと笑いながらそれをかわし、距離をとり、低い体勢で構えながら唇の端を持ち上げた。
「うふふ、やっぱり梅雨ちゃんもカァイイ! ねぇね、梅雨ちゃんも愛依ちゃんと一緒に来ませんか?」
「結構よ」
「エー」
梅雨ちゃんの冷静な眼差しと、トガの不満そうな眼差しが錯綜する。ほんの少し、息を飲むような沈黙が流れて、梅雨ちゃんは再び舌を伸ばすべく口を開いた。
対するトガヒミコは、つと視線を反らし──ぽつり呟く。
「あれま」
驚いたような、意外そうなその呟きの意図を尋ねるより早く、わたしたちの視界を
ただでさえ倒壊しそうだったビルが容赦なく燃やされる。圧倒的な熱量に焼けそうな喉を庇いつつ、必死になって羽根を飛ばした。まだ意識を失ったままの男性を瓦礫から遠ざけながら、視線を周囲に巡らせる。
(まさか、荼毘まで来てるなんて……!)
この蒼い炎は間違いなく彼の“個性”だろう。居場所を掴まなければと羽根を舞わすけれど、ごうごうと燃え盛る炎に阻まれて叶わない。
「あーあ」
そんな時、蒼い炎の向こうに影が揺らいだ。それはトガヒミコのものに違いないのに、瞬きの内にそのシルエットが
「“終わり”、ですって。ザンネンです」
トガヒミコのものではないその声で、トガヒミコは不満を溢す。しかしそれもつかの間、彼女はにこっと破顔した。士傑の制帽の鍔を軽く摘まんで、ひらりと手を振ってみせる。
「じゃあね愛依ちゃん、梅雨ちゃん、バイバイです! また会おうね!」
「、待っ……」
黒いボディースーツを纏った身体が、軽やかに踵を返す。その背中に手を伸ばした。
彼女を逃がしてはいけない。今この時が好機なんだ。
トガヒミコを捕まえれば、
その牙がみんなを──ホークスを傷付けることだけは──絶対に駄目だ!
「待って……!」
だから待って、お願い。逃げるならせめて、
わたしも、連れていって──
「駄目よ」
伸ばした手を、後ろからぎゅっと掴まれ、下ろされた。思わず振り返った先で、梅雨ちゃんが真っ直ぐわたしを見つめている。
「いけないわ、愛依ちゃん」
「梅雨ちゃん、でも……!」
「駄目」
ふるりと首を横に振って、梅雨ちゃんはじっと、わたしを見つめた。
「……駄目よ」
その目に、声に、懇願の色が滲んでいる。それがわかってわたしは何と言っていいのかわからず、言葉を飲み込んだ。
数瞬、沈黙するわたしたちの上から、不穏な物音が降ってくる。燃え落ちた瓦礫が迫ってくるのを仰ぎ見て、わたしは咄嗟に羽根を飛ばした。炎の塊に対し、この羽根がどれほど役立つかはわからない。それでも腕の中の梅雨ちゃんだけは、と、彼女を抱き締めて衝撃に備えた。
その時だった。
「──
カッ──と、閃光が弾ける。一拍置いて凄まじい轟音が空気を揺らした。耳鳴りを唾を飲み込んでやり過ごし、わたしは強すぎる光を腕で庇いながら見上げた。
「何ボケーッとしとんだボケ!! 逃げろや!!」
両の掌を空に向けて、強烈な【爆破】で以て瓦礫の雨を吹き飛ばしてみせた爆豪くんは、目尻を鋭く吊り上げて叫んだ。その頬に擦り傷程度はあるものの、目立った怪我は無いようだ。
「ば、くごう、くん」
「空中!」
「常闇くん、も……」
……よかった。駆けつけて来てくれた常闇くんにも、梅雨ちゃんにも、大きな怪我は無いみたいで、ほっと安堵で頬が緩む。トガヒミコを捕らえられなかったのは痛いけれど、みんなが無事ならまずはいい。
そんなわたしとは裏腹に、常闇くんの表情は険しかった。苦しげに目を細め、眉間に皺を寄せている。彼の視線はわたしに、……わたしの背中に向けられていた。
「空中、出血が激しい。一刻も早く手当てを……!」
「え。あ、だ、大丈夫……」
「ッ、何が“大丈夫”なものか!!」
「っ?」
爆豪くんならいざ知らず、常闇くんが声を荒げるのは珍しくて、思わず肩を跳ねさせる。その理由を考えてしばらく、ひとつ思い至ったわたしは苦笑を浮かべた。
「本当に、大丈夫だよ。──
「──、」
「常闇くん?」
常闇くんはハッと目を見開いた後、固まった。わたしの背中や肩口はトガヒミコの攻撃によって血塗れになっているから、余計な心配をさせてしまったのかもしれない。わたしのヒーロースーツが白を基調としているから尚更、赤黒い色が際立ってしまっている。
でも、もう“大丈夫”。心配する必要はない。
服は確かにズタボロだけれど、その下の肌はもうすっかり元通りだからと、わたしは言葉を重ねた。
「あの、ごめんなさい。こんな格好じゃ誤解させちゃうのも無理ないよね。でも本当に……」
「“大丈夫”、ってか?」
押し黙ったままの常闇くんの隣から、爆豪くんが進み出る。彼はいつもの不機嫌そうな顔に、何か、複雑そうな感情を混ぜ込んだ目をして、引き曲がった口許を開く。
「……爆豪くん?」
「……なんでテメェは、ポニーテールに創らせた通信機を使わなかった」
二次試験開始直後、わたしは各地にバラけたみんなと連絡を取り合うため、八百万さんに通信機を創ってもらうよう依頼した。インカム型のそれは、確かにまだ、わたしの耳元に装着されている。爆豪くんの言う通りそのインカムを使えば、みんなに助けを求めることができただろう。
それをしなかったのは──理由を問われ、それは、と口ごもるわたしを、爆豪くんの鋭い目が射る。
「“他の奴を巻き込みたくなかった”か? 笑わせやがる」
「っち、違うよ、その、……ビルが倒壊しそうで、人が集まると逆に危険で、」
「言い訳なんざ要らねーんだわ」
多分彼は今、わたしに怒っている。いつもの彼なら怒鳴り散らしているはずなのに、何故か今は、驚くほど静かに、淡々と、わたしを見据えている。
そうして彼は、わたしに言い放つ。
「自殺の真似事がしたきゃ、ヒーローになんざなるな」
一瞬、時が止まったかのようだった。
そんな錯覚から我に返って──爆豪くんの言葉の意味を咀嚼して──わたしはカッと、顔を赤くして叫んだ。
「じ、さつ、って……そんなんじゃない!!」
頬が熱い。頭が、胸が熱い。燃え上がる感情が怒りと焦燥なのだと、どこか他人事のように理解していた。熱に突き動かされるように、わたしは爆豪くんに食って掛かる。
「わたし、そんなんじゃない、そんなつもりない……!」
「ハッ、どっからどう見てもそうじゃねェか」
「違う! ……わたしは、これが一番正しいと思っただけ」
羽根が、ざわつく周囲の声を拾う。それがわたしの心に一匙の冷静さをもたらした。
(この会話は、公安に、……目良さんに聞かれている)
だからしゃんとしないとと、努めて声を落ち着ける。握り締めた拳が震えているのには、気付かないふりをして。
「あの場には、負傷したHUCの人が倒れていた。トガヒミコが吸血して変身していた、あの士傑の女の人の所在もわからなかったし、……彼らの安否を確認するためにも、不用意には動けなかった」
なるべく冷静に、淡々と、経緯を説明する。
みんなにわかってもらいたかった。
わたしは別に、死にたいと思っていたわけじゃない。
ただ、傷付いた誰かを救けたかった。みんなの役に立ちたかった。そう思って行動しただけ。
目的を果たすために、ただ、天秤を掲げただけだ。
「……何よりわたしの“個性”は、【治癒】。あの程度の怪我なら、すぐに、何の後遺症もなく治せる」
わたしのすぐ治る傷と、救うべき男性の命。
わたしのすぐ消える痛みと、
2つの“大切”を天秤の両皿に乗せただけ。
──どちらを選ぶべきかなんて、決まりきっている。
「多少の傷は、何も問題、ないよ」
「……そうかよ」
だからわたしは間違っていないと、そう語気を強めれば、爆豪くんは眉間の皺を険しくして吐き捨てた。これで問答は終わりかなと、そっとわたしは詰めていた息を溢した。
「……本当にテメェが、問題ねーって思うんなら、」
その息を、ひゅっと飲み込む。
爆豪くんの灼眼が再び、わたしを射抜いていた。
「それを、そっくりそのまま、
「……? 後ろ、って、……」
困惑のまま、言われるままに振り返る。ゆっくりと移ろう視界に、わたしは
「──つゆ、ちゃん?」
梅雨ちゃんはひとり、立ち尽くしていた。丸く大きな目も、静かな表情も、引き結ばれた口許もいつもと変わらない。
ただ、ひとつ。
「え、……え? なんで、梅雨ちゃん……」
梅雨ちゃんは、泣いていた。大きな目からぽろぽろと大粒の涙を溢して、わたしを見ていた。思わず駆け寄って彼女の頬を指先で拭うと、梅雨ちゃんは顔をくしゃりと歪めて、より大きな嗚咽を漏らした。
「……っ」
「や、うそ、なんで……やだ、」
梅雨ちゃんはいつも冷静で、穏やかで。そのポーカーフェイスが崩れることはあまり見たことがなかった。ましてやこんな、顔をくしゃくしゃにして、泣くなんて……。
「つ、つゆちゃ、梅雨ちゃん……泣かないで……」
どうすればいいかわからないまま、わたしは梅雨ちゃんを抱き締めた。自分より少し背の低い梅雨ちゃんの頭を肩口に抱き寄せて、おずおずと背中を撫でる。腕の中の梅雨ちゃんは顔を上げない。
しとしと、ほろほろ。胸元にやわく、雨が降る。
「……ごめんなさいね、愛依ちゃん」
「な、なんで、梅雨ちゃんが、謝るの……」
「私は、あなたの言う正しさを否定できない」
わたしの背中に回された梅雨ちゃんの腕に、力がこもる。
「“個性”を正しく活かして、人々を救う。時には身を呈する必要もあるわ──それがヒーローなんだって、わかってる。わかっては、いるのよ。でも、」
時々嗚咽で声を震わせながら、梅雨ちゃんはそう言った。
言って、ようやく顔を上げる。
「──それでも私は、愛依ちゃんが傷付くのは、嫌よ」
間近で見つめてくる梅雨ちゃんの目は、涙をめいっぱいに湛えて、輝いていた。しとしと、ほろほろ。梅雨ちゃんの頬を伝って溢れ落ちる涙は、まるで光の中に降り注ぐ雨のように綺麗だった。
……綺麗だと、感じてしまった。
わたしは、その涙を、──嬉しい、と。
「……っそん、な、……わたし、っ……」
わたしはなんて、浅ましい人間なのだろう。羞恥と申し訳なさで顔を上げていられない。そうして俯くわたしを、梅雨ちゃんは抱え込むように抱き締めてくれた。とん、とん、と。鼓動と同じリズムで、柔らかく背中を叩いてくれる。
「っ、や、ぅ、……うぅう……っ」
そのあたたかな衝撃が、わたしの涙腺を打ち砕く。
泣くなんておかしい。泣くな、泣き止め、と必死に目元に力を入れても、全然言うことを聞いてくれない。泣きたくない。嫌だ、嫌だ、だって──わたしが泣く権利なんてない。
神野で失態を犯したわたしは、もっと頑張らないといけない。もっともっと頑張って、強いヒーローになって、みんなを救えるようになりたい。あの人を守れるようなヒーローに、ならなければいけないの。
だから痛いのだって平気。傷付くのも問題ない。
それでみんなが救えるなら、それでいいって思ってる。それが“正しい”って、信じてる。
(なのに、……なのに、どうして……っ)
どうしてわたしは、梅雨ちゃんの涙に喜んでいる。
“あなたに傷付いてほしくない”と、そう言ってくれる人がいることを──どうしてこんなにも、嬉しく思ってしまうの。
「~~っつ、ゆ”ちゃ……」
「……ええ」
「、っく……ぅ、う……っ」
「いいの。……いいのよ、愛依ちゃん」
わからない。トガヒミコの言う“違い”も“普通”も。わたしが思う正しさも、感じる嬉しさも、全部全部ぐちゃぐちゃだ。
ぐちゃぐちゃな心のまま、わたしはただ、みっともなく梅雨ちゃんに泣きつくしかできないでいた。
74.少女、わからない。
トガちゃんのお蔭で(比較的)(当社比)早めに更新できました。やはりこう爆発的な魅力を持つキャラはいいですね。めちゃくちゃ助かりました。原作でトガちゃんが語った“普通”が個人的にすごく衝撃的だったので、いつか絶対オリ主と問答してほしいと思っていた部分が書けてホクホクです。
爆発的といえば爆豪くんにも二次試験ではお世話になりました。轟くんと夜嵐くんの修羅場に喝を入れつつオリ主に斬り込むという重要な役目を担ってくれました。かっちゃんの身も蓋もない舌鋒の鋭さに助けられています……。
なんか思った以上に長くなってしまいましたが、そろそろ仮免試験編が終わりに差し掛かってきました。あと乙女視点回の後に公安組視点回を書いてフィニッシュ予定です。
こんなにグダグダ更新の遅い弊ssを読んでくださり、本当にありがとうございます。皆様の閲覧、お気に入り登録、感想、評価等々にいつも命を繋いでいます……!次回もよろしければ、また読んでくだされば幸いです。