みんみんじわじわと蝉の鳴き声が窓を隔てた向こう側から聞こえてくる。きっと外は変わらず暑いだろうなと、小さく息を吐きながらわたしは廊下を歩いていた。今日は日曜日。授業はないからか電灯はついていない。少しだけ薄暗い長い廊下に、こつこつと足音が響く。
オールマイト、リカバリーガールと今後の計画を立て、部屋を後にして。次は体育館だと足を向けたその時だった。
「──オイ、」
夏の午後の眩しい日差し。じゅわじゅわ歌う蝉の声。……そうした明るさ賑やかさとは裏腹に、その声は低く地を這うようだった。
「……爆豪くん?」
静かに、赤い赤い灼眼が、睨み上げるようにこちらを見据えている。“どうしたの”と問い掛けたわたしに沈黙を返し、彼は足を踏み出した。一歩、一歩。距離が詰まる。目の前に立った彼は、わたしを見下ろし、口を開いた。
「オールマイトと、何話してた」
ひゅ、と息を呑む音が、彼に聞こえていなければいい。そう祈りながら、わたしは平静を装った。
「何をって……お昼をご一緒してただけだよ」
「リカバリーガールと一緒にか?」
「そうだよ。お二人は元から仲がいいもの」
「それだけか」
──違ェだろ、と睨め付けてくる目は、端からわたしに問い掛けてなどいなかった。自分の中に確信を得ようと、わたしの言葉を引き出そうとしている。
「オールマイトの身体はどうなんだ」
「……、そんなプライベートなこと、ぺらぺら話すわけがないよね」
「じゃあそういう話があったってのは確かなんか」
「、爆豪くん」
「視線、揺らいでンなァ?」
ハ、と馬鹿にしてきそうな場面なのに、その表情はひとつも動かない。微動だに、しない。彼は笑わず、ただ静かに燃える灼眼でわたしを見据えている。ひりつくような熱と緊張感に、眉を寄せた。
「……何をそんなに、知りたいの」
彼は──わたしの言葉の向こうに、オールマイトを見据えている。
「あなたにとってオールマイトは、何なの?」
彼は、爆豪くんは答えなかった。その代わりほんの少し目をすがめる。それが何故だか、……痛みを堪えているように、わたしの目には映ったのだ。
「……てめェ、仮免試験の時に言ってたろ。I・アイランドの事件でデヴィット・シールドが話してたって」
──オールマイトの身体が悲鳴を上げている。
──オールマイトの“個性”因子が衰えている。
『……お前たちは知らないだろうが、彼の“個性”は消えかかっている。だが私の装置があれば、彼の“個性”を元に戻せる……いや、それ以上の力を彼に与えることができる。
No.1ヒーローが、平和の象徴が、再び光を取り戻すことができるんだ!!』
まさかそんなはずないと。そんなことがあってたまるかと。目を背けていたデヴィット博士の叫び。……そうだ、彼は言っていた。わたしたちに、訴えていた。
──オールマイトの“個性”が消えかかっている、と。
「“個性”は身体能力のひとつ。筋肉と同じで使えば使うほど強くなる。……そこらのモブ共ならともかく、オールマイトはヒーロー活動で“個性”を使ってたはずだ。それなのに“個性”が衰える、だ?」
爆豪くんはいやに静かに語り出した。普段の彼とは雰囲気のまるきり違う声色。淡々と話す彼の、その雰囲気に圧倒されて、……上手く言葉が、出てこない。
「明らか不自然だろーが。普通じゃねェ」
「……普通ではない何かの力が、働いている?」
わたしの言葉を聞いて、爆豪くんは僅かに顎を引いて俯いた。それは頷く仕草に似ていたけれど、違うかもしれない。
暗がりに沈む赤色の目は、こことは違うどこか──いつかの、誰かを見ていた。
「……オールマイトが静岡県に来てからしばらくして、デクは“個性”を発現させた。
オールマイトに似た、【超パワー】の“個性”だ」
──その瞬間、氷をひとすじ飲み込んだような、そんな感覚に襲われた。じゅわじゅわ鳴いていたはずの蝉の歌は遠く、ひやりとした汗が滲む。
「……それ、は」
「……てめェなら、わかんだろ」
もしかして、と浮かんだ考えはとてつもないもので、わたしはゆるゆると首を横に振った。まさか、信じられない、そんなこと──そうして目を逸らすことを、爆豪くんは許さない。ドン、とわたしの隣の壁を蹴りつけて、わたしの視線を縫い付ける。
「神野の事件は散々報道された。
「……爆豪くんはその報道を信じてるの?」
「普段はマスコミなんざ盲信しねェが、脳無とかいうカス共の“個性”複数持ちから考えて信憑性は高ぇ。それにテメーも話を聞いたろ、神野で……オールマイトとボスヤローは面識があった」
“個性”の移動は現実に可能である。
オールマイトと
デヴィット博士が訴えていたオールマイトの“個性”の衰え──そして、
「……オールマイトと会って、無個性のデクが変わって、何もなかったハズのあいつが【超パワー】の“個性”を発現して、……入れ替わるようにオールマイトは“
──緑谷くんの“個性”の発現。
「なァ、空中。……オールマイトと、何話してた」
再び問い掛けられて、わたしは声を失った。爆豪くんが並び立てた幾つもの話が、点と点を結んでひとつのかたちとなっていく。そのかたちの、途方もない大きさに、……わたしは息を飲むしかできなかったのだ。
「……、わたしは何も、知らないよ」
「それで誤魔化せるとでも思ってンのか」
「何を言われても、変わらない。わたしは何も知らなかった、……気づけなかった」
ふ、と笑って、俯いていた顔を上げる。
「……一番真相に近づいているのは、きっと爆豪くんだよ」
そんなわたしの真意を見定めるように目を細めていたけれど、暫くして爆豪くんは小さく鼻を鳴らして踵を返した。ポケットに手を突っ込んで、背中を丸めて。その後ろ姿が廊下の向こうに消えていくのを、わたしは胸元を握り締めながら見送った。
「……、」
「……緑谷くん」
『どうしてこんな……、……“個性”が体に、合ってない?』
あれは、雄英に入学して初めての戦闘訓練を受けた放課後。訓練中に大怪我を負った緑谷くんを保健室に運び、リカバリーガールと治癒していた時のこと。彼の骨は砕け、血管は千切れ、……その力の掛かり方はどう見ても
『あんたの見立て通り、緑谷の体に“個性”が馴染んでいないんだろうさ。緑谷は去年突発的に“個性”が発現したと聞いているからね』
『去年……? それは、レアケースですね』
あの時は、そう会話したけれど。
元々彼の身体に眠っていた“個性”が発現したのではなく、去年──オールマイトが静岡近辺に活動拠点を移したその時に、“個性”を譲渡されたとしたら。それがオールマイトという、トップヒーローの“個性”だったとしたら。あの凄まじい【超パワー】にも、制御が効かずに身体を酷使してしまったことにも、説明がつく。
『リカバリーガール?』
『……本当に、難儀な子だね』
そしてあの時、リカバリーガールが浮かべていた苦慮の表情にも、繋がっていく。
彼女はオールマイトととも親しい。彼に向けて気安く飛ぶお叱りは、気心の知れた仲だという証拠。……思い返してみるとそれだけじゃない。体育祭の昼休み、スタジアムの臨時保健室にて待機していたところに、訪ねてきた男性がいた。
『リカバリーガール! 少々よろしいです、か……?』
『…………、……え……?』
忙しなくドアを開けて入ってきた
『……あの、すみません、リカバリーガールは2年か3年ステージの方へ詰めているんです。この1年ステージはわたしが補助員として担当していて……』
『あ、ああ! そう、そうだったね! いやはや失礼した!』
『いえ、そんな。……あの、もしリカバリーガールに御用でしたら連絡しましょうか?』
『いやそれには及ばないよ! ごめん! 失礼したね!』
そうして慌ただしく部屋を後にした
でも彼はその姿でリカバリーガールに会いに来た。つまりリカバリーガールは、オールマイトとのその姿を、真実を知っていたということだ。
オールマイト。緑谷くん。リカバリーガール。……“個性”の移動。
デヴィット博士が「消失してしまう」と恐れていた平和の象徴の“個性”は、今──
『今のままじゃ、ダメなんだ』
今朝の笑顔を思い出す。
『……もっと、強くならないと』
その眼差しだけ、どこか凄みを帯びて見えた。
“もっと強くなりたいの、わたしもなんだ。同じ気持ちだね、頑張ろうね”。そんな言葉さえ掛けられなかった。
彼はわたしなんかより、とても、とても、重いものを背負っている。
その覚悟の大きさに、痛ましさに、──怖じ気づいてしまったのだ、わたしは。
「愛依ちゃん、……愛依ちゃん?」
「!」
とんとん肩を叩かれて、はっと我に返る。体育館の入り口。石造りの階段に腰かけていたわたしは隣の梅雨ちゃんに笑いかけた。考えることは多いけれど、……それでも今、みんなの前で暗い顔をしたいわけじゃないから。
「ごめんなさい、ぼうっとしてたみたい」
「やっぱり、疲れてるんじゃないかしら」
「そうそう! だって朝からずっと訓練し通しやろ?」
「え? いや、……」
これぐらい何ともない、と言いかけて飲み込んだ。公安のビルにいた頃はほぼ四六時中訓練と勉強を受け続けていたから、……むしろ暇な時間ができると何したらいいかわからなくなる。
「ホントにね☆ 何をそんなに焦っているんだか☆」
「焦ってるとかではないんだけど……そうだね」
もうちょっと休憩しようかな、と誤魔化すように笑って、お茶子ちゃんから手渡されたペットボトルに口を付ける。ひんやりとした水が喉を通っていくたび、身体に籠っていた熱が優しく冷まされていく気がした。
昼御飯の後に爆豪くんと別れてから体育館にやって来たわたしは、約束していたみんなと必殺技の開発・練習に取り組んでいた。タオルで汗を拭いふーっと息を吐くお茶子ちゃん。少し乱れた髪を櫛で梳かす梅雨ちゃん。コンパクトミラーで自分の髪をセットし直している青山くん。そして、
「! ……えっ?」
くんっ、と羽根を引っ張られる感覚にそちらを振り向けば、くりくりとした黒い目と目が合う。
「ああ、こら、ダメだよ……!」
「くるるっ」
「そ、そんなこと言ってもダメだってば……!」
「だ、大丈夫、気にしてないよ……口田くんの鳩だよね」
そして、口田くん。【生き物ボイス】という生き物と意志疎通できる彼は、さまざまな場面で動物たちに力を貸してもらえるように、何匹か許可を得て寮に動物を連れてきている。わたしの羽根を嘴でつついていたこの子もその中の一羽らしい。
真っ白で丸っこくて、綺麗な鳩だ。口田くんのお叱りやわたしたちの視線は気にした風もなく、マイペースに羽繕いをして、わたしの羽根の中にもぐっていった。
「わっ?」
「同じ色だから仲間やと思っとるんかなぁ」
「可愛いわ。人懐っこいのね」
「う、うん……この子は特に、抱っこされるのが、好きなんだって」
「そうなの?」
口田くんに断って羽根越しにそっと撫でると、その子はひょこっと羽根のカーテンから顔を覗かせた。それからひょこひょこ歩いてわたしの膝の上に乗る。戸惑うわたしの腕にもたれ掛かり、くるる、と目を閉じた。
「わ、あ……!」
「かっかっ可愛~!!」
「本当に抱っこが好きなのね。リラックスしてるみたいだわ」
「つ、梅雨ちゃんお茶子ちゃん、ふかふか、ふかふかしてる……!」
「あら……ふふ、ほんとね。目がきらきらしてるわ」
可愛いわ、と何故かわたしを見ながらそう言った梅雨ちゃんに頷いて、腕の中の鳩を撫でる。ふわっと、もふっと、つるつるふかふかすべすべとした肌触り。首元をかりかり擽ると「くるるるるっ」と心なしか嬉しそうに鳴いてくれた。その声に耳を傾け、口田くんははにかむ。
「ふふ……“なかなかやるじゃない”、だって」
「気位が高そうなコメントだね☆」
「可愛い顔に似合わず……いや逆に合ってるんかな?」
「お嬢さんなのね」
「え、えと……お気に召しましたか?」
「くーるる」
「! ふふ、よかった……!」
今は口田くんの通訳がなくとも、“ええ”と応えてくれたように聞こえて、わたしは安心して笑った。腕の中に収まる温もりと鳴くたびに伝わる振動に、頬がとろとろ蕩けてしまう。嬉しい、という気持ちが背中にまで伝わって、羽根が自ずとぱたぱたはためく。それを見た口田くんはゆっくりと目を瞬かせて、微笑んだ。
「空中さんの羽根は……毛先が、鷹のように広がるんだね」
「え……」
「! あ、その、ごっ、ごめんねいきなり」
「う、ううん違うの。嫌とかじゃなくて、驚いただけで……」
わたしの【翼】は生まれつき備わっていたものじゃない。ホークスから、【依存】で奪ったもの。……その羽根に彼の名残が残っていることが、浅ましくも嬉しくて。
「……あまり羽根のことは意識してなかったけど、そっか……鳥によって羽根の形状や飛び方は違うものね」
心を落ち着けて、笑みを整えて。そうしてわたしが言えば、口田くんはほっとしたように眦を和らげた。
「うん。例えば梟なんかは、風切羽根にぎざぎざした……櫛みたいな切れ込みが入ってるんだ。セレーションっていうんだけど……そこから羽ばたく時、空気が抜けていくから……振動による音が出づらくなるんだ」
「へえ……!」
口田くんの解説に頷いていると、隣からふぅんと相槌を打つ声。そちらを振り返れば、三角座りしながら頬杖をついてこちらを見る、青山くんのきらきらした目と目が合った。
「空中さんってさ、羽根を固くして弾丸にしたりぶん殴ったりしてノン淑女☆してるけど、羽根の形を変えることはできるのかい?」
「羽根の形、を?」
“ノン淑女”と言われたことはとりあえず置いておいて……その発想はなかったなと息をつく。考えてみればホークスの【剛翼】は羽根を自在に操る。それは飛行や射出にとどまらず、形状変化にも及ぶと聞いたことがあった。今までは硬度を上げることで攻撃力を底上げしていたけれど、羽根の形状を変化させることによって、別の鳥の特性を生かした動きもできるようになるかもしれない……!
「うん、やってみるね……! ……切れ込み、風切羽根に切れ込み……」
「えっ唱えとる……いつもはどうやって羽根を固くしとるん?」
「え? ええと……“固くなれ”ってぐっと念じてる感じで……」
「結構精神論なのね」
「理論もクソもないね☆」
「ぐ、ぐうの音も出ない……」
だ、だってホークスも『形状変化?なんか“そうなれ~!”って強く思えばいけるよ』って言ってたし……いやでも今思えば教え方てきとうだな……あの人は努力を怠らない天才肌だから、こんな基礎中の基礎は深く考える間もなくやってのけてしまったのかも……って、駄目だ、思考が逸れてしまった。
深呼吸して、思考をクリアに。
ただひとつ、羽根に集中して──
「! で、できた?」
「うん……! 梟の翼に近くなってるよ……!」
羽根の変化に目を開けると、嬉しそうな口田くんの笑顔が見えた。動物に精通している口田くんの言うことなら確かだろうと、体育館に入り天井近くまで飛び上がってみる。するとすぐにわかった、いつもより羽根をすり抜けていく空気、摩擦の薄れ、……音の、静けさ。
「本当に、羽ばたきの音が減ってる……!」
「ほんまに! さっきの切れ込みで、こんなに違うんやねぇ」
にぱっと笑ってくれたお茶子ちゃんの元に降り立つのにも、ほとんど音を感じさせなかった。その様子は、まるで……
「まるで梟☆ そう……“
「ふふ、うん!」
青山くんはキラめく笑顔でそう言って、わたしも笑顔で頷いた。またひとつ、できることが増えていく。それがどうしたって嬉しかった。
わたしたちのやり取りを見て、お茶子ちゃんも明るい瞳で頷き、よし!と両拳を握る。
「私も必殺技考えな! 機動力はこの前のサポートアイテムでだいぶ向上したし、次は決定力かなぁ」
「決定力……あ、」
「どうかしたの、愛依ちゃん」
「うん。午前中、尾白くんにアドバイスをもらってね……」
脳裏に彼の優しい笑顔を思い浮かべながら、わたしは話す。尾白くんは言ってくれた──攻撃の挙動に乗せる重さが足りないのなら、【翼】という“個性”を駆使して、重力を味方につければいいのではと。
「わたしは【翼】、お茶子ちゃんは【無重力】……どっちの“個性”も上手く使えば、尾白くんの言う重力を味方につけれるんじゃないかな」
「確かに! それでいくと……口田くんの鳩さんもいい感じなんやない!?」
「えっぼ、僕!?」
「そうね。口田ちゃんがお願いして、鳩に動いてもらって……」
そうして3人があれこれ相談し始めるのに微笑んで、ふと気づいた。青山くんは会話に混ざらず、一歩引いたところから彼らのやり取りを見守っている。どうしたんだろう、と疑問に思う気持ちと、ちょうどいい、と思う気持ちとで、わたしは彼に近づいた。
「青山くん、ありがとう」
「何だい? 藪から棒に☆」
「そう聞こえるかもしれないけれど……前から思っていたんだよ」
青山優雅くん。何だか独自の美意識やペースを持っている人で、明るく笑ってるところはよく見るけれど、進んで誰かと関わる印象はなかった。
だから、意外だったのだ。夏休みが終わって寮生活が始まって、わたしが体育館を借りて訓練をするようになった時、一緒に付き合ってくれる人たちの中に彼がいたことが。
「わたしの特訓にたくさん付き合ってくれてるでしょう? 必殺技のアイディアをくれたり、名前を考えてくれたり……」
フランス語に詳しい彼は、わたしの“
「だからやっぱり、ありがとうね」
だからただ、感謝の気持ちを伝えたくて。
──それだけ、だったのに。
「……青山くん?」
青山くんは微笑みのまま、固まった。まるで時が止まったかのように微動だにしない。呼吸さえ詰めているようで、……その緊張感がわたしにまで伝播する。
「……なんだ、そんなこと」
こくりとわたしが喉を鳴らす頃、青山くんはやっとその口を開いた。ゆっくりと口角を持ち上げて、微笑む。
「……わたしにとってはそんなことじゃ、ないよ」
「そう。……僕にとっては違うけれど」
その表情が、声が、目が。……何故だろうか。
どうしようもなく、泣きそうに見えた。
「自己満足にすら、なりはしないのさ。こんなこと」
「……青山、くん?」
羽根でようやく拾えるぐらいの、小さな小さな呟きだった。それは楽しそうに弾むお茶子ちゃんたちの声に掻き消され、じわりと熱を孕む夏の風に浚われる。
こんなに明るい日差しの差す昼の体育館に、友だちと過ごす時間に、それでもそこだけが暗がりのようだった。輝きに満ちているはずの金髪も、碧眼も、……彼自身が暗がりに沈んでいる、ようで。
「あお……」
「なーに沈んじゃってるのさ☆ 空中さん」
「えっ」
「へばっちゃったのかい? もう一度休んできたら?☆」
「だっ……大丈夫、だよ」
「そう? じゃあお先☆」
どうしたの、と問い掛けようとしたわたしを遮るように、青山くんはパチンとウインクをひとつ。
(彼は……わたしの心配を、してくれている?)
もしくは──神野で色々あったわたしに対し、負い目を抱いているのだろうか。林間合宿で爆豪くんとわたしが
(わからない。今は、……そう、何も)
心によぎる暗い予想を振り切って、わたしは、祈るように胸元を握り締めた。
あれからみんなで必殺技をあれこれ考案したり、実際にやってみて改良をしたり、練習したり、……そうしている内に日も随分傾いてきた。汗を拭いながら空を仰いだ梅雨ちゃんが「そろそろ帰りましょうか」と言うのに頷き、寮へと戻ったわたしたち。
入り口を抜けると、ふわりと漂う香りに足を止めた。互いに顔を見合わせて瞬きひとつ。小麦粉と砂糖の、ふんわりと甘い匂い……これは、
「皆さんお帰りなさい! ちょうどよいタイミングでしたわね」
「あら百ちゃん、何だか嬉しそう」
その時、リビングの方から歩いてきた八百万さんがわたしたちを出迎えてくれた。こてんと首を傾げる梅雨ちゃんに対し、“ええ!”と笑う。
「砂藤さんが午後のおやつに、シフォンケーキを焼いてくださいましたの!」
「砂藤くんが?」
「そうそう!」
「そうなんだよー!」
「わわっ?」
八百万さんの後ろからぴょこっと顔を覗かせた芦戸さんと透ちゃんは、弾けるような笑顔でわたしの手を引いた。引っ張られるまま着いていくわたしに、2人は声を弾ませる。
「砂藤くんってさ、“個性”訓練のついでにお菓子作りをよくしてるみたいなんだよね。シフォンケーキも絶品でさ、あんまァくてふんわふんわなの!」
「あんまぁくて、ふんわふんわ……」
「空中も食べよ! 頬っぺた落っこちるから!」
「! ……うん!」
この口ぶりだと、寮に入ってすぐの頃にみんなは砂藤くんのシフォンケーキを食べたことがあるんだろう。でもそれで終わらないで、“空中にも”って、思ってくれたんだ。それがわかるから、どうしたって頬が緩んでしまう。
「皆さん、カップは行き渡りましたか?」
みんなでリビングに集まって、ソファーや椅子に腰掛けて。八百万さんが淹れてくれた紅茶のいい香りに包まれながらシフォンケーキにフォークを刺した。ふわっ、と柔らかな感触に目を丸くしながら、口にいれる。
「! ~~~っ!」
「あらまあ、目がきらきらしてるわ」
「いやでもわかる。めっちゃ美味いよな砂藤のシフォンケーキ」
「むぐ、うん、うん……!」
「おォ……満面の笑み」
「だって本当に甘くてふんわふんわだから……!」
ふわっと雲のように口の中で蕩けたかと思えば、素朴で優しい甘味が広がる。口当たりも軽くて程よい甘さでくどくなく、幾らでも食べられそう!
そう力説すれば砂藤くんは照れたように頭を掻いて、それでも「やっぱ嬉しいもんだなぁ」と笑ってくれた。それにわたしも笑みを返して、もう一度フォークを口に運ぶ。そんな時だった。
「障子ていっつも複製腕から食ってっけど、口からは食わねーの?」
そういえば、と前置きした上鳴くんがそう疑問を投げ掛ける。何でもないような、ごく普通の世間話。けれど障子くんはそれに対し、少しだけ沈黙した。
「……いや、食べられる」
「ああそれ、俺も気になってたんだ。複製腕から食べると……栄養はいってるだろうけど、味覚もちゃんと感じるのか?」
「味覚は然程。まだそこまで精度を上げて複製できないんだ」
「えっじゃあ口から食べた方がいいじゃん!」
“砂藤のケーキの味を味わえねぇのはもったいねーって!”と眉を下げて声を上げる上鳴くんに、ふ、と、障子くんは微かに微笑んだ気がした。
眩しそうに、──遠くのものを見つめるように。
「……そう、だな」
「? 障子く……、」
そうして、障子くんの大きな手が彼のマスクに掛かり、それをずらした。初めて見た彼の素顔、そこにあるものに──わたしもみんなも、小さく息を飲んだ。
「なん、なんだよその傷!? なァ空中、治して……っ」
上鳴くんの悲鳴のような声を背に受けながら、わたしは障子くんに向き直っていた。彼に断り、彼の頬に手を添え、傷口を診る。
大きな口の端から、無理やり引き伸ばされたように続く瘡蓋。塞がっているにも関わらず傷痕が残っているのは、真皮深層にまで傷が及んでしまったから。……それだけ、深い傷を負ったことを意味する。
口の端から、首を一周して、もう反対の口の端まで──まるで首を、斬り落とそうと、するような──
「……これは、古い傷、だね」
「あァ、子どもの頃の傷だ。もう痛まないから問題は、」
「いやいやふざけんな、大有りだろォ!?」
「痛くねーからって問題じゃねーだろが!!」
涙を滲ませながら叫ぶ峰田くんと上鳴くん。2人に同意するように口を結び、じっと、真剣な眼差しで見つめるみんな。彼らの様子を見渡して、障子くんは微かに目を見張った。
「……こんな時に話すべきことでもないと思うが……、」
いつも冷静な彼には珍しい、躊躇うような声の揺れ。移ろう視線がふと、わたしの視線とぶつかる。
彼の鋭い目に、思案の色が浮かぶ。
……それから柔らかに、光が灯る。
「……いや、そうだな。この際話してしまおうか」
無理に聞かなくてもいいからな、とわたしたちに念を押すその声は、穏やかだった。その声のまま、障子くんは、彼の過去について語り出す。
「両親にこの腕はなかった。……酷い村だったよ。人に触れようものなら総出で“血祓い”だ」
「……血祓い」
歴史の授業で学んだことがある。かつて“個性”が世に溢れ、誰も手綱を取れなくなった超常黎明期。ヒトはヒトの規格を無くし、さまざまな“個性”と身体をもって生まれるようになった。そうして、動物や植物、鉱石──ありとあらゆる存在の力を身に宿した人たちを、【異形】と呼ぶようになったとされている。
【異形】。その呼称に込められた意味、歴史……わたしたちは学舎で、公安で、知識として教わり知っている。
……
「村のある子どもに、俺が故あって触れたんだ。……そのことを知った村の大人たちが、この傷をつけた」
「なっ……んで!? 触っただけだろ!?」
「……血祓いとは、異形型“個性”を徹底して排斥する思想のもと行われた、と歴史書には書かれていた」
「……そうね。異形型“個性”の身に流れる血を、流させて、祓う……」
“個性”は、遺伝する。
つまり“個性”とは血に起因する。
そうした考えが飛躍した結果、異形型“個性”は血のせいだと、暴行により血を流させ、穢れを祓おうと──そんな風潮が広まってしまったのだ。
飯田くんに続いて言葉を継いだ梅雨ちゃんは、その大きな目を憂いに伏せる。その背をそっと撫でながら障子くんに視線を戻すと、彼はゆっくり、静かに頷いた。
「常闇や口田ら都会生まれには教科書の中の話かもしれんが、子どもにこんな傷を負わせる地域がまだ残ってるんだ」
「……ゆるせん。そんな奴ら根絶やそ……!」
「それもいいが。……やはり“差異”というものはある」
わたしは、唾を飲み込んだ。驚きを悟られないよう、静かに。
今障子くんは、怒りに震えた芦戸さんの“根絶やそう”という言葉に同意した。淡々と、揺るぎなく、深く──頷いた。
(……怒って、いるんだ)
……落ち着いているように振る舞う障子くんだけれど、その心の底にはずっと、怒りが燃えているのだとわかった。どうして、何故、と問い掛ける疑問。理不尽な差別。悔しさも悲しみも、全てが蟠り、深い“傷”として刻まれている。
「……、オイラ……“タコ”って言った気ィする……!」
誰もが沈黙していたその時だ。ハッと目を見開いた峰田くんがそう口にして、障子くんに駆け寄る。“個性把握テストで……!”と涙を流す峰田くんを、大きな腕が支えた。
「ごめんなァでも気味悪ィとかそんなん考えてねーよ!!」
「いや、峰田。この腕から蛸を連想するのは当然だ」
峰田くんを宥めつつ、障子くんは自分のマグカップに視線を投げ掛ける。ステンレス製のタンブラーには、デフォルメされたタコの絵が描かれていた。
「ヒーロー名【テン
わたしはただ、黙って聞き入っていた。怒りを秘めているはずの障子くんは、傷を抱えているはずの障子くんは、声を荒げることも沈ませることもなかった。
「けれどこの“傷痕”と、“異形”は意味を強制する。だからマスクをしている。俺は、」
静かに、淡々と、穏やかに、
──それでもたくさんの思いを込めて、彼は言う。
「俺は、“復讐者”と思われたくない」
理不尽な迫害を受ければ、怒りが沸き上がるだろう。何故、と世を呪いたくもなるだろう。そうした感情の切っ先を研いで、誰かに向けてもおかしくないだろうに。
(それでも障子くんは、その道を選ばなかった)
障子くんはただそれを、静かな言の葉に変えた。
その静けさはきっと“強さ”に他ならない。そうでなければ何とすればいいのか。少なくとも、悲しい言葉で例えることは、したくなかった。
「……強いのだな」
「嫌なことは山ほどあったし忘れることはない。──でも、」
常闇くんに応えるように、障子くんは話してくれた。かつて住んでいた村のこと。地方の山奥に位置するその村の近くには傾斜の厳しい川が流れていたこと。前日の大雨で増水した川で、溺れる小さな女の子を見つけたこと──
「嫌な思い出を数えるより、……たった、一つでも」
その時障子くんは、手を伸ばした。流れに呑まれそうな石に右手で掴まりながら、左手をめいっぱいに。一度は急流に阻まれ、繋がることなく離れていった小さな手──けれど別の複製腕に腕を継ぎ足し生やすことによってその距離を詰めた。
【複製腕】だったからこそ。
障子くんの、その腕だったからこそ。
女の子を、救い上げることができた。
「この姿でよかった思い出に、縋りたいんだ」
救い上げた女の子は酷く震えていたのだという。急流に呑まれた寒さに、溺れ死にそうだった恐怖に、ぼろぼろ泣いて、……障子くんの複製腕に縋りつき、“ありがとう”と言ったのだと、障子くんは続ける。
いつの間にかその頬には笑みが浮かんでいた。マスク越しではない、初めて見る素顔の笑顔。鋭い目を僅かに緩めて、傷痕の残る口角を持ち上げる。淡い微笑は、けれど確かにあたたかかった。
「……“たった一つ”とかやめて……マジでぇ!!」
そんな障子くんの笑顔に、ぶわっとみんなの目に涙が浮かぶ。彼の思いがもどかしいとか、切ないとか、……あまりに強くて眩しいとか。うまく言葉にできない気持ちが溢れて、涙が堰を切ってしまった。切島くんと芦戸さん、上鳴くんが先陣を切って障子くんの腕の中──ではなく──複製腕の下へ滑り込む。
「これからいっぱいつくろおよお!! もおお!!」
「ぼくらとさあ!! いい思い出をさあ!」
「ぬくいの知ってるの」
3人だけじゃない。目の端に涙を滲ませた口田くん、峰田くん、梅雨ちゃんももう片方の腕の下に入り込んだ。6人の姿がすっぽり隠れるぐらい、障子くんの腕は広くて大きい。……そしてきっと、とってもぬくくて、優しいんだ。
「……うん」
……だって、そうだ。みんなを包み込むように腕を広げる障子くんの眼差しは、どこまでも穏やかだ。
彼はゆっくり、噛み締めるように頷いて、それから口を開く。
「俺は……100年以上続く柵を、一世代でフラットにできるとは思わない」
込み上げるこの思いを、なんて言葉にすればいいのか。だって障子くんの発言は、自分は“差別のない世界を見ることはない”と割り切っているということだ。
どれだけ辛い思いをして、理不尽な過去を乗り越えて、ヒーローになるべく途方もない研鑽を重ねて、ヒーローになって。どれだけたくさんの人を救っても。差別の根絶に向けて動いても。
(……障子くん自身は、差別のない世界に生きられない)
彼が割り切ってしまったことは、きっと事実だ。超常黎明期から今日までの歴史が語るように、人の心による差別と偏見、因習は、すぐに払拭できるわけじゃない。
それでも──“
「だからこそ、先人たちがそうしてきたように、俺も紡いでいきたいんだ」
数多の異形型“個性”を持つヒーローたちが、その“個性”でもって人を救ってきた。
根津校長先生みたいに、“個性”による差別をよしとしない人たちが、“個性”によらない、揺るぎない人権を主張してきた。
公安委員会など政府が、みんながそれぞれの“個性”を受け入れて共に生きていけるようにと、“個性”教育プログラムを広めてきた。
人の心による差別は、簡単には無くならない。
それでも誰かが、諦めずに活動し続けていたから。今の社会と未来がある。
「世界一格好いいヒーローになって、“次”に、いい思い出を」
“次”に。
次の世代に、託して、残す。
“次”を、未来を生きるみんなが、みんなで笑って暮らせるようにと、願いと祈りを込めながら。
「……諦めないんだね、障子くん」
それがどんなに、途方もない道のりか。きっと障子くんはわかっている。
それでも決して、歩みを止めようとしないのだ。
「わたしはそれが、すごいと思う。……強いよ、障子くん。本当に……」
眩しさに目を細めるように、わたしは微笑んだ。何だか胸がいっぱいになってしまって、うまく言葉になりきらない。
それでも障子くんは少しだけその目を見張って、それからふっと微笑んだ。
「……今回この話を打ち明けられたのは、おまえの影響もあるんだ。空中」
「、わたし?」
「気を悪くしないでほしいんだが、……先日みんなの前で自分のことを話しただろう」
「……うん」
神野事件に端を発するA組除籍未遂。それに過去を重ねて怖がって逃げたわたしを、けれどみんなは見捨てず話を聞いてくれた。
わたしが、大切な人の過去の頑張りと明るい未来をぐちゃぐちゃに壊したのだと吐露しても、……“友達よ”と言ってくれた。抱き締めて、くれた。
「……俺もみんなに、知っておいてほしいと……そう思ったんだ」
「うん、……うん」
A組のみんなは、強くて優しい。わたしが心を救ってもらったように、障子くんの心にもきっと、あたたかな光が差したんだ。
すごいなあ、と思うと同じに、憧れた。わたしもみんなみたいになれればと、胸元を握り締める。
「……わたしでよければ、いくらでも、何度だって、話を聞くからね」
「ああ」
「本当だよ。いつだって、どんなことだって」
「ああ、……わかっている」
“ありがとう”、と浮かべてくれたその笑顔は優しかった。……けれど、……だからこそその頬に歪む傷痕に、つきんと痛みが胸に走る。表情を意図的に固めて、わたしは彼を真っ直ぐに見つめ直した。
憐れみなどではなくて、……やりきれない過去も感情も全て抱えて未来に向かう障子くんの強さを尊敬するからこそ、彼の選択肢を増やせたらと思ったから。
「……障子くん。たぶん、わたしは、……あなたのその傷も治すことができる」
「!」
「どう、する? ……障子くんは、どうしたい?」
そう問い掛けると、障子くんははっと見開いた目を伏せて、黙考に沈んだ。その瞳に、複雑な色が揺らいでいる。
「空中、まだ、……考えていてもいいか」
重い沈黙を破って、障子くんは低く、絞り出すような声で言った。
「この傷を残したいわけでは、ないが。……この傷があったからこそ、決意できたこともあるんだ」
「……うん」
「……すまないな、せっかく申し出てくれたのに」
「ううん……! 謝ることなんてないよ。わたしは、あなたの意思を尊重したい」
ずっとこの傷と、そこに宿る思いと過去とを抱えて生きていたんだ。それを急に手放せるほど、障子くんの歩んできた道のりは平坦じゃなかったはず。
「……本当に、いつになってもいいからね」
答えが出すのがいつになっても、それがどんな答えになっても。わたしは障子くんの思いを大切にしたい。
そう声を重ねれば、彼は深く、ゆったりと。……優しい眼差しで頷いてくれた。
そうして障子くんの話が終わり、みんなで少しだけ涙目になりながらもお茶会を再開した。再び口に放り込んだシフォンケーキは甘くて、ふわっとしていて、優しくて。
『美味しいよぉおおお』
『優しいママの味だよぉおおお』
『誰がママだよ』
そんなやり取りをして、可笑しくなって笑い合って。笑みを溢すその輪の中心に障子くんがいるのが嬉しくて、わたしもくすくす笑っていた。
みんなで話して。お風呂に入って。夕御飯も食べて。後片付けをして。そうして“美味しかったね”って笑いながら女子寮に向かう、その途中のことだった。
緑色の癖っ毛が揺れている。男子寮に戻るのだろう緑谷くんの後ろ姿と、彼の隣をずんずん歩いてすれ違う爆豪くんの姿が見えた。すれ違いざま、爆豪くんの口が微かに動く。
「……、爆豪くん?」
「ア゛?」
「が、柄悪いな……何かあったのかなって、気になっただけだよ」
「なんもねーわ」
緑谷くんから離れてこちら側に近づいてきた爆豪くんは、いつも通りの通常運転──と見せかけて、そうではないような気がした。だっていつもならもっと鋭い眼光をこちらに飛ばしてくるし、舌打ちのひとつだってしてくる。
今はどこか粛々と、丁寧に、心を固めて決意をしているような。そんな静けさを感じてしまったのだ。
(……それに、今の声)
ほんの小さな呟きは、この羽根を以てしても全ては拾い上げられなかった。それでも聞こえたことがある。
『てめェの────話だ』
それを聞いた瞬間、緑谷くんの肩はびくりと揺れて、それから微動だにしなかった。
そんな2人のいつも通りとは言えない様子が、昼間の爆豪くんとの会話を思い出させる。オールマイトの失われた“個性”、行き着く場所、リカバリーガールの憂い、緑谷くんの決意の重さ、……その断片を並べて繋いで語った、爆豪くんの低い声。
「……、」
彼らが何をしようとしているのか。何を知っているのか。思って、いるのか。
気にならないと言ったら嘘になる。心配なんてひとつもないなんて言えない。けれどそれ以上に、“
「ねー空中ぁ、何ぼーっとしてんの?」
「! 芦戸さん」
ぽんっ、と肩を優しく叩かれて、振り向きざまに見えた彼女の笑顔に、わたしも頬をほころばせた。“何でもないよ”と気を取り直すと、芦戸さんはふうんと相づちを打って、それからまたぱっと声を輝かせる。
「じゃあさ、今から耳郎の部屋行かない?」
「耳郎さんの?」
「そー! 楽器弾いてもらおうよ。耳が幸せになるんだよー!」
「だから、そんなすごいことじゃないってば、」
芦戸さんと透ちゃんが言うには、ロックが好きな耳郎さんの部屋はギターにドラム、シンセサイザーなどの楽器で溢れているんだとか。耳郎さんは恥ずかしそうにイヤホンジャックを手にしてるけど、きっと彼女の奏でる音は素敵なんだろうなとわかる。聴いてみたいな、と心が浮き立つのと同じに、背中の羽根がぱたりと上を向く。……けれどその羽先はすぐに力を失い元の位置に戻った。しゅんと、萎れるように。
「えと、ごめん、明日提出しなきゃいけないレポートが残ってて、今からやらないといけないんだ」
「えっ!? そんなレポートあったっけ!?」
「ううん違うよ、リカバリーガールからの課題」
「あー……ン~そっかあ、それなら仕方ないね」
「……ごめんね」
「いや謝ることないじゃん! 愛依ちゃん頑張ってんだしさ。偉いよ!」
「わ……っ」
透ちゃんの透明な指先がわたしの髪をかき混ぜるように撫でる。それがくすぐったくて、優しくて、嬉しくて、わたしも肩を震わせて笑ってしまった。そんなわたしの頬につん、とひとつの感触。イヤホンジャク、その線を辿ると、微笑む耳郎さんと目が合った。
「またいつでも来て、空中」
「! うんっ」
そうしてエレベーターを降りていくみんなに手を振って、わたしは5階へ向かう。ごうん、と動いた駆動音の他には何も聞こえない、ひとりきりの小さな部屋。けれど先程の会話が耳の奥でまだ木霊しているようで、頬が緩んで仕方なかった。
──そんな時だった。耳朶を飾るスタッドピアスが音もなく震える。“公安からの秘匿通話”、……小さく息を飲んで動揺を殺して、ピアスに触れた。
「はい、……」
耳元で流れる、氷のように透き通った声。
「……え」
わたしが思わず溢したのは感情の断片だった。それを窘められて、わたしは謝罪を口にする。そうして僅かに乱れる息とともに飲み込んだ。冷や汗でぬかるむ手の内を何とかしたくて、縋るように胸元を掴む。
「……承知しました」
飲み込んで、飲み込んで、
そうして心の揺れを殺した。
自室のデスクの上には、リカバリーガールから借りた医学教本と授業でとったノート、参考書や症例集が所狭しと広がっている。リカバリーガールからの課題は【とある状況下での患者をどう診断し、どう対処するか】をまとめてくるというもの。周辺の状況や患者の状態から考えられる病名、病原、そこから導き出される適切な治療法──自分はどう動くべきか。
(……自分は、どう動くべきか……)
ふと頭をよぎったノイズに、いけないと首を横に振る。こんなのじゃいけない、集中しなくちゃとわかってはいるのに、握り締めたシャープペンシルは上手く動いてくれない。ふーっと息を吐いて、天井を仰ぐ。その時、こんこん、とノックの音が耳に飛び込んできた。
「……? はい」
「愛依ちゃん、私よ。入ってもいいかしら」
「! ……、」
一瞬、躊躇した。迷った。
……けれどやっぱり心は、頷いてしまう。
「……うん、どうぞ」
椅子から立ち上がりざま羽根をひとつ飛ばして、部屋のドアノブを捻る。扉が開いた瞬間、ふわりと甘い匂いがわたしの鼻腔をくすぐった。シフォンケーキとはまた違う、優しくて、甘い匂い……
「! ホットミルクだ」
「前も一緒に飲んだわね、覚えてる?」
「……忘れないよ」
梅雨ちゃんが手にしたお盆には、2人分のマグカップと蜂蜜のボトルが置かれていた。前、……林間合宿を賭けた期末試験のため勉強していた時のこと。ベッドをこっそり抜け出して勉強しているわたしに、あの時も梅雨ちゃんは気づいてくれた。
「また夜更かししてるんじゃないかしらと思って来てみたけれど、予想が当たってしまったわね」
「ご、ごめんなさい……もしかしてうるさかった?」
「いいえちっとも」
「よかった……」
「私としてはよくないのよ、愛依ちゃん」
「え、ええ……?」
あの時も、今だってそうだ。梅雨ちゃんのまあるい目が穏やかにわたしを叱る。
「静かに、黙り込んで、ひとりで無茶しちゃうんだから」
「ご、ごめんね……」
「謝るよりも、今は私に甘やかされてちょうだいね」
「……、う ん」
いつか覚えた喜びと、今込み上げてくる嬉しさとが、胸の中いっぱいに広がる。それがあんまり痛かったから、誤魔化すようにホットミルクに口をつけた。カップから立ち上る湯気に、目頭の熱を溶かしていく。
「……おいしい」
「よかった。蜂蜜もう少し足す?」
「も、もういっぱい入れたよ……!?」
「だってとびきり甘やかさなくちゃ駄目だもの」
「えええ、……もう、大丈夫だってば」
大丈夫、“大丈夫”だよと、ふやける頬をそのままに笑えば、梅雨ちゃんもけろりと喉を鳴らして笑う。……その笑顔を目に焼き付けておこうと、わたしは目を細めた。
「前も、今も……あったかいね」
梅雨ちゃんが部屋のドアをノックしてくれた時、わたしは一瞬、躊躇した。このドアを開けて、梅雨ちゃんの笑顔と声に出会ってしまえば、わたしはもっと、辛くなる気がして。迷ってしまった。
《今度のインターン、職場体験と同じくホークスの元へ行ってもらうわ》
温まる身体とは別のところで、冷ややかな氷の声が反響している。エレベーターの中で聞いた会長の声が、指示が、今もわたしの心を揺らしている。
《そしてそこで、あなたに公安からの任務を課します。
その状況次第では、そのまま──雄英を離れることも視野に入れておきなさい》
(……わたしは何を、勘違いしていたんだろう)
また一緒に訓練しようねって、何気なく交わした約束も。障子くんの返答を“いつになってもいい”と言ったことも。耳郎さんの部屋にまた行けるんだって、今度は楽器の演奏を聴かせてもらいたいなって、そんな未来を思い浮かべて笑っていたことも。
──
「……梅雨ちゃん」
「なあに、愛依ちゃん」
名前を呼ぶことも。
呼んだら優しく、名前を呼び返してくれることも。
“友達なのよ”って、抱き締めてくれたことも──全部奇跡みたいなことなんだって、改めてわかった。いつかはわたしの手から離れていく、きらきらしい星のような記憶。
だからそう、せめて今だけはって、わたしはノックの音に応えたのだ。
「……ありがとうね、梅雨ちゃん」
「あら。ふふ、どういたしまして」
“ごめんね”も“さよなら”も言えなかったから、代わりに万感の思いを込めて“ありがとう”と口にした。小さく笑う梅雨ちゃんの声が甘やかな夜に溶けていく。
いつかこの時を思い出して泣いてしまったとしても、ずっとずっと覚えていたい。覚えていられますようにと、窓から覗く夜の星に願いを掛けた。
84.少女、とある日曜の午後にて。
更新遅くなりました!!!!書きながら「たった一日の日曜日に色々起こりすぎでは?」と思ったのですがインターン編に行く前に色々立てておきたいフラグが多すぎました。そのため今回はいつも以上に詰め込み場面転回が多くて読みづらかったかと思いますが、ここまで目を通していただけて幸いです。本当に皆さまありがとうございます。閲覧、ブクマ、感想等々にいつも元気を頂いております。
次回はオールマイトや最上博士、相澤先生、目良さん等々大人組の視点回を書く予定です。彼らが何を思ってどう動いていたのか、うまいこと書けたらいいな(願望)また読んでいただけたら嬉しいです!ありがとうございました!