最近、思い出すことがある。今から十数年前、技術提携している日本ヒーロー公安委員会からの連絡が始まりだった。
『
丁度、代替わりの頃だったか。会長職に就いたばかりの女傑は、氷のように淡々と、冷静に電話口でそう話した。
『とある少女の“個性”について、調べていただきたいのです』
曰く──とあるヒーローの子どもを縁あって保護したのだが、その子どもが所有する“個性”が特殊らしいという。その“個性”の発動条件がわからず、いつ、誰の“個性”を奪ってしまうかわからないため、他人との接触を絶ち部屋に籠っている、と。
『……それはそれは。随分な案件のようですが、わざわざI・アイランドにいる私を引っ張り出す必要はあるのでしょうかね。日本にも名のある医者や“個性”カウンセラーはいるでしょうに』
『彼女の“個性”の特性を鑑みるに、その実態が公に知られることは避けるべきという結論に達しました。故に、あなたにお話を持ち掛けています』
『秘密裏に、……なるほど、その少女とやらを貴女方の手駒にするつもりか』
『受けてはいただけないと?』
こちらの言葉に揺らぐ気配もなく、即座に切り返してくる。……彼女の要求をこのまま突っぱねることもできた。そうすれば僕はこの面倒そうな電話を切り、自分の研究に戻れたはずだった。
けれど、……けれど。
こういう時は決まって、頭の隅でいつかの声がする。
──たとえ俺の“個性”がしょうもなくても、
──カミさんに“あんたなんてどうせ頭数”って言われても、
──そのおかげでこの街の人がちょっとでも安心して暮らせるなら、それは充分意義のあること!
(……叔父さん)
いつかの声が、今も笑い掛けてくる。……叔父さん本人はもう、写真の中でしか笑えないのに。
『……最上博士』
『そう急くな、……失礼、わかっていますよ』
“個性”【指差し】。探している場所や物、方角などを正確に指し示す。“個性”は遺伝する──彼の甥として生まれた僕も、類似した“個性”を持つに至った。
いつかの声と、僕の“個性”とが、声高に叫ぶのだ。
【
『……依頼は受ける。だがI・アイランドを出国するに当たって、やるべき手続きがあるのはご存じですよね』
『ええ、もちろん。貴方のご協力に感謝します』
そんな通話を終えて、舌打ちを溢し、盛大に溜め息を吐き出し、がしがしと髪をかき混ぜる。それで上手く誘導された苛立ちが帳消しになるわけがなく、……【
そうして僕は重い腰を上げ、手続きに向かった。世界有数の“個性”研究の粋を集めて束ねた学術研究都市I・アイランド。そこに属する科学者とその家族は情報漏えいを防ぐためおいそれと出国を許されない。幾重にも重なる出国手続きは2週間にも及び──
『…………』
そうして公安委員会所属のビルを訪れた僕が監視カメラ越しに見たのは、部屋の隅で膝を抱えて縮こまる、ひとりの女児の姿だった。まだ3、4歳ほどだろうと見えるほど幼く、しかしその頬は痩け、手足は折れそうなほど細い。俯くその顔は暗く、瞳の青は沈んでいた。
『……彼女は3歳の誕生日、“個性”が発現し、意図せず両親の“個性”を奪い我が物としました。そのことを疎んだ両親から虐待を受けていたところを、……我々が保護しました』
目良と名乗ったその男は、眠たげな目を細め、微かに喉を詰まらせながらそう説明した。少女は目が覚めてからも誰かの“個性”を奪うことを酷く怯え、与えられた部屋でひとりきり、閉じ籠ることを選んだのだと。
行くべき道を見失い、足を止めてしまった──
《……こんにちは》
「……!」
少女による“個性”の強奪が、何を以て行われるのか。視覚、聴覚、発言内容、名前……どれが“個性”の発動条件に引っ掛かるのかを探るため、さまざまな状況を設定して調査を行った。
始まりは、マイク越しによる問答だった。変声機によって女のものに変えた声を、少女のいる部屋のスピーカーを通して送り込む。それを聞いた少女はびくりと身体をすくませて、毛布で身体を包み込みながらそろりと声のする方を向いていた。
……酷く、怯えた目だった。
その怯えが、自分を害する何者かに対する威嚇だったなら、幾分かこの気分はマシだったろう。威嚇とは即ち、自分の身を守るため……生きるために行う行為だからだ。
(……この少女は、生きたいと思っているのだろうか)
死への恐怖だけで、生きてはいないか。
それすらも無くなったら、この少女は──
『……あの、』
そんなことを危惧しながら、公安委員会のビルに駐屯し“個性”調査を続けていた日々の最中。東京には珍しい、吹雪の日だったように思う。日中から続いていた雪は夜になっても降り止まず、暗い窓の向こうからガラスに叩きつけられていた。
その音に紛れるような、小さな声がした。それに足を止めた僕の腕を、
『……いきなりすみません。話を、したくて』
静かな声をした少年だった。藤黄色の柔らかな髪と、同じ色の鋭い目と、鮮烈な赤い翼を持った少年。彼は僕を見つめて『最上博士ですよね』と表情を変えず口にし、続ける。
『あの子の“個性”調査は、どんな調子ですか』
『……何故それを知りたがる?』
こんな深夜の公安委員会のビル中枢に出入りする子どもなど、本来ならいないはず。恐らくはこの少年もまた公安に“飼われて”いるのだろう。しかしその目に服従の色はなく、ただ前を見据える強さと賢さが閃いていた。
少年の赤い翼は、さぞや大事に大事に公安に育てられているのだろう。万が一にも“個性”を奪われてはならないと、少女から遠ざけられているだろう。だから僕をこうして、他の公安委員に知られぬように連れてきた。
……その目を見ればわかる。面白半分などではないと。けれどどうしても、言葉として形にしたかった。
『何のために、お前はあの少女を気に掛ける』
少年はその問いに、僅かに顎を引いた。それは頷いたようにも、……覚悟を固め、前を見据えているようにも見えた。
『……あの子に、笑ってほしい』
静かな声が、静かな部屋にひとつ灯る。それは埃だらけの暗い部屋を、目映く照らすような響きだった。
『今はずっと、怖くて悲しいばっかで、きっとあの子は笑えてない。……俺があの子を連れ出したのは、こんなためじゃなか。
あの子を──明るく、照らしてあげたい』
『……そうか、』
そうだな、と頷いて、僕は少年の頭を撫でた。ふわりとした感触に、驚いたような少年の丸い目と視線に居心地が悪くなる。……柄じゃないとわかってはいたが、どうしても、そんな気分だったのだ。
『幾度か“個性”調査を行ったが、マイクによる会話はもちろん、肉声による会話も発動条件ではないことがわかった。
……お前さえよければ、扉越しにはなるだろうが……声を掛けてやってやれ』
『……! ……っはい』
仄かに紅潮した頬は、“自分にもできることがある”と知れた嬉しさからか。頷いた目には光があった。それがあんまり眩しかったから、僕は目を細めていた。
こんな風にあの少女を気に掛ける少年がいるならば、きっと未来は明るい。僕にできるのは、彼女が生きやすくなるように、彼女の“個性”を調べあげることだろう。
この時僕は、そんな風に思っていた。
そんな風に──悠長なことを、思っていた。
『博士、最上博士大変です、あの子が……!!』
目良の常ならん様子に駆けつけた僕が見たのは、医療スタッフに囲まれたベッドの上で苦しげに息をつく、あの少女の姿だった。横向きに眠る彼女の背には、これまでになかった白い翼。……肌を食い破って出てきたのか、背には引き裂かれたような酷い傷跡が走っていた。
『……何故、……』
何故、と呟いたが、答えなどとうに出ていた。
唐突に少女の背から生えてきた翼。彼女の親戚筋のどこを洗ってもそんな“個性”を持つものはいなかった。考えられるのはただひとつ、少女の、“個性”の強奪。
『……先程、少年から話を聞きました。
“自分は機を見て少女に会いに行っていた”と。彼らは扉越しに何度か話して、共に飲み物を飲んで、笑い合っていたそうです』
そうして今日、少女に会いに行った少年は、少女に向かって『ありがとう』と笑いかけた。それに少女が、涙混じりに微笑む気配がして、それからだったそうだ。
扉越しに少女の絶叫が響いた。それに驚いた少年が追いかけた先で、少女はビルの窓から身を投げ出し──自ら命を絶とうとしたのだ。
『……少女がこんなことを言っていたそうです。
“わたしがだいすきになっちゃったから、みんなの“個性”をとっちゃった”、と』
立ち尽くすしかできない僕に、目良はその目を伏せながら話す。少女が、少年の翼を得るに至った経緯。少女の“個性”の発動条件。それは、
『……心……?』
そんな不確かで、人間には制御しようもないものが発動条件だというのか。人が人を好きになるという──恐らく少女にとっては抑えようがない感情が──誰かの“個性”を奪い、自他ともに人生を狂わせるというのか。
『……あの子はこれから、どうなるのでしょうか』
目良は、疲れた目に憂慮を湛えて、ベッドに横たわる少女を見つめた。
『“個性”を奪いたくはないと、誰かとの接触をこれまで以上に絶つようになるでしょう。それではどこにも行けず、何もできない……それどころか、……』
『“こんな自分はいらない”と、また命を擲つかもしれんな』
『! 博士、』
『逸るなよ、目良。可能性の話だ。……僕だってそうあれとは思っちゃいない』
少女は誰かを害そうとなんて、これっぽっちも思っちゃいなかった。ただ生きて、慈しんでくれた両親や寄り添ってくれた少年を“だいすき”になっただけだった。
そんな当たり前の気持ちを抱いただけで、
そんな“個性”を持って生まれたせいで、
ひとりの少女が“死ななくては”と身を投げる?
『──させるものか』
まだ10歳そこらの少年が、懸命に少女の心に寄り添い、命を繋いだのだ。その糸を大人の力不足で千切ってはならない。“頑張ったけど何もできませんでした”なんて、情けなくて言えるものか。
ぎり、と奥歯を決意と共に噛み締める。この痛みを傷として、ずっと覚えていたかった。
それから、少女が治療に専念する傍ら、僕は彼女の“個性”について再度調べ始めた。それまでは発動条件に絞った調査だったが、“個性”の許容量に始まり、“個性”の強奪による
そうしてまず判明させたのは許容量。少女が対象と心を通わせるのが“個性”強奪の条件だが、条件を満たせば限りなく“個性”を奪えるのか?──答えはノー。
この超常社会において忘れがちではあるが、“個性”とは元来ヒトが持つはずのない特殊能力だ。炎の“個性”なら炎耐性、高速移動に関係する“個性”ならスピードに耐え得る身体──といったように、ある程度は成長に伴い生まれ持った“個性”に身体が適応していくものだが、強すぎる“個性”は他者のみならず保持者をも蝕む。
そんな、ヒトの身には余る“個性”という力が、後天的に複数宿る──初めて見た少女は酷く痩せ細っていたが、それは両親からの虐待だけが理由ではなかった。取り込んだ“個性”因子が身体の内側から圧迫し、軽度の多臓器不全を起こしていたのだ。そして今、少年の【翼】を取り込んだ“個性”因子は少女の身体を大きく創り替えている。骨格を歪ませ、肌を破らせ、新たに羽毛を生成し──それは、如何程の負担を少女の身体に強いているのか。
どれ程の痛みに、耐えているのか。
『最上博士、……あの子は、大丈夫でしょうか』
大人びた眼差しに不安の色を湛えて、少年は小さな声でそう問い掛けるものだから。……僕はそれに、虚勢を張った。
『おい、うじうじ俯くな。いつもの大人を見下ろすような生意気な顔はどうした?』
『……でも、』
『心配するな。僕を誰だと思っている?』
口角を吊り上げて、ヒーローでもないのに笑ってみせて。
『“個性”でどうしようもなくなった奴らの、新たな道を科学の力で開くのが、我々発明者の仕事だ』
少年の瞳に映る僕は、我ながら下ッ手くそな笑みを顔に貼りつけていた。こんな真似、とてもじゃないが柄じゃない。今すぐ頭を壁か何かに打ち付けて記憶を消してしまいたいが、……だが僕は努めて笑った。
先程よりほんの僅かに、少年の目に光が射した。
その輝きを消さないために、……虚勢を虚勢のままにしてはおけないと、強く誓った。
──【
(……少女の身体が成長するにつれ、“個性”を我が物とする許容量も増えるだろう。だが……)
新たに得た“個性”はまた、少女の身体を蝕むだろう。
骨格を歪め、肉を裂き、臓器を痛め付け──果ては、その
《……今から君の“個性”を、眠らせる》
“個性”の鎮静化を以て、少女の許容量をこれ以上増やさないようにする。これを公安委員会に提案した際、一部の人間は反対した。『戦力にするにはもっと“個性”を奪い取らせた方がいい』などと宣う輩は、なるほど、きっと身寄りのない少女の命など吹けば飛ぶようなものだとお考えだったのだろう。
しかし僕が噛みつくより先に、ある声が響いた。
『──わかりました』
“鉄の女”。あるいは“氷の女”。冷徹ともされる正鵠無比な判断力と実行力から公安の会長職にまで上り詰めた女傑を、そう揶揄する声もある。
『貴方の判断に委ねます。最上博士』
けれどこの時。凛とした鶴の一声によって場を収めたのは間違いなく彼女だった。それが打算によるものだったのか、情によるものだったのかはわからない。けれどその声があったからこそ、僕は少女の“個性”因子を鎮静化させる手術に漕ぎ着けることが出来たのだ。
《この手術を受ければ、君はもう、誰かの“個性”を奪うことはなくなる》
『……! ほん、とうに?』
《本当に、だ》
『……っ』
【翼】を得たダメージから大分持ち直し、ベッドに上体を起こせるほどに回復した少女に、僕はスピーカー越しにそう伝えた。もう“個性”を奪うことはない──そう聞いた瞬間、少女の青い目は溢れ落ちんばかりに見開かれた。そしてその瞳の空が、たちまち雨を帯びる。
『よ、か……っ、よかった、……』
もうだれも、きずつかなくてすむ。
辿々しい口振りでそう溢した少女は、ただひたすらに安堵しているようだった。ほろほろと頬を伝い落ちる涙は、自分ではない誰かを想って流されたものだと気付いた。
《……君は、怒らないのか?》
『? おこ、る……?』
《君は、……君は、怒っていいんだ。それだけの仕打ちを、受けただろう》
ただ生まれ持った“個性”が発現とともに発動しただけ。
ただ子が、自らを産み育ててくれた両親を慕っただけ。
それだけのことで彼女は酷く嫌われ、責められ、いたぶられて。……身も心も酷く、傷ついただろうに。
『ううん、……ちがい、ます』
なのに少女は、誰かへの恨み言を口にしない。
『おとうさんも、おかあさん、も……とってもやさしい、ひとなんです』
泣きそうなくせに、悲しいくせに、同じくらい幸せそうな顔で笑う。
『……わたしがいたから、わたしが、“こせい”をとっちゃったから。……だから、わたしが、わるいんです』
絶望の向こうに光を見出だす“聖女”。或いは慈悲深き“天使”──そんなわけがない。まだたった4、5歳の少女がそんな境地に辿り着くわけがない。
僕は、人の機微に聡い方じゃないが、それでもこの少女がどこか不自然だということに気付いた。その不自然……
《……君は、》
僕がしたのは、酷い、酷い問い掛けだ。
こんな馬鹿げた問いを投げる僕を、眉をひそめて怒ってくれたらと、そう願っていたんだ。
《……君は、今も、……お父さんとお母さんのこと、すきなのか?》
『……はい』
──ああ、と、僕は声を失い嘆いた。
その空の瞳が曇ってくれたらよかったのに。
その幼い声が揺らいでくれたらよかったのに。
両親の仕打ちに対し、“どうして”と疑問を持ってくれていたら。“ふざけるな”と怒りを覚えていてくれたら。それがほんの少しでもいいから、自分を守るために感情を使ってくれればいいと、思っていたのに。
『……わたし、は、ずっと、だいすきです』
なのに少女は、その幼い顔をふわりとさせて、笑う。そこには少しの怒りも、疑問さえ見つからない。ただただ悲しみと、変わりない愛情があった。
不自然。違和感。──
幼いはずの少女の、およそ幼いとは言いがたい微笑みに、僕の脳裏にはとある仮説が浮かぶ。浮かんで、しまった。
『
公安で行った“個性”調査。その一貫である問答で少女について話した男は、元ヒーローだったという。【自己再生】を活かし、身を呈して民衆を守る。少し格好つかないがいつも一生懸命で、それ故に地域住民に愛されたヒーロー。お人好しで朗らかで、愛妻家であり、……子煩悩だったと。
『あいつのせいで、これまで積み上げてきたものが全部全部全部無に帰した。……なァ、あなたに、この気持ちがわかるか?』
少女の青い目は、父譲りなのだろう。
……同じ色のはずの瞳は、暗く暗く疲れ果て、澱んでいた。
『……いなくなって、せいせいするよ』
『……あの子を、公安に……』
ぼうっとした赤い目は、疲れきっていた。濃い隈が刻まれた肌は、生気を失ったように青白い。“個性”【譲渡】。自らのものを他者に分け与えるというその“個性”を以て、結婚前は医療スタッフとして働いていた女性。
『……そう。そちらで、裁いてくださるのですね』
『……裁く?』
『だって、そうでしょう』
職場や友人から聞き出した話では、いつも真面目で、しっかり者で、……夫や子どもを深く深く、愛していたのだという。
『あの子は夫の人生を滅茶苦茶にした、悪い子です。……あんなに、人のために命を張って、頑張ってきた人が、……どうしてその頑張りを、壊されなければならないのですか』
“個性”の反動で色素が抜け落ちた肌は、どこまでも白い。膝の上で握られたその手は、ぶるぶると震えていた。
『……どうしても、どうしてもどうしてもどうしても、あの子のことが許せずにいるんです。笑ってほしくない、苦しんで、後悔してほしい、ずっと、ずっと……。
……こんな気持ちばかりじゃ、なかったはずなのに』
きつく握り締められた手に、ぽつりとひとすじ、雨が降った。
『あの子をまっすぐ、愛していた。……その気持ちだって、あったはずなのに……』
心を通わせることによる、“個性”の強奪。
“個性”因子の人から人への移動。
朗らかな目から光が消えるほどの、性格の変貌。
“愛していたはずなのに”と泣き崩れる声。
……そんな両親の気持ちの移ろいとは裏腹に、少女は笑った。今でも両親が変わらず“だいすきだ”と、笑ったのだ。
(……もし、だ。もしも……)
もしも、“個性”の強奪と同時に、
──対象と通わせた
『……? はか、せ?』
《!》
『ど、どうしたん、ですか……?』
《……いや、……何でもない》
これは仮説だ。ただの、仮説。
両親の【娘を愛する気持ち】。その気持ちを“個性”とともに奪った少女の中には、【両親からの愛情】が絶えず息づいている。そのため彼女はどんなことがあっても、どんな言葉を投げられても、どんな仕打ちを受けても、両親からの愛情を忘れられない。
【自分は確かに愛されていた】……そんな記憶が、実感が、抜け落ちることはない。だからあの虐待の日々も、“あんなに愛してくれた両親がこんなにも怒っているのは、わたしが悪いのだ”と、自己嫌悪と罪悪感に繋がっていく。
《……何でも、ないんだ》
人の心は不確かなものだ。真に立証などできない。だから仮説は仮説のまま、……僕はこの先永遠に、彼女に告げることはないだろう。
少女が、両親から奪ったかもしれない心のこと。
そして、
『……俺のせいであの子は、
『だから俺が、──俺が、守ってやらんと』
……
「……最上博士? どうなさったんです」
「……いえ。失礼、何でもありません」
は、と掠れた息を飲み、遠い回想から我に返る。広大な雄英高校の敷地を進み、校舎に入り、最上階へ。長い廊下の向こうには応接室があった。ダークウッドのローテーブルを挟んで、黒革のソファーがふたつ。その奥側にちょこんと座っていたのは白くてデカくて服を着たネズ、……根津校長だった。
「やあ! よく来てくれたのさ!」
彼はぴんと髭を立て、にこやかに笑う。それからどうぞ、と席を勧められたが、その前に深く頭を下げた。
「本日はお忙しい中、お時間を頂き感謝致します」
「いやいや、こちらこそだよ最上博士! I・アイランドの高名な博士にお越しいただけるなんてね、思いがけない幸運というやつなのさ!」
「恐縮です」
頭を上げて勧められたソファーに腰掛けると、僕をここまで先導してきたイレイザーヘッドもまた向かい側のソファーに座った。ぎし、と微かにスプリングが鳴る。根津校長の小さな身体はその振動で僅かに揺れたが、……そのつぶらな黒い目は、揺らぎなく僕を見据えていた。
「しかし博士。貴方は“I・アイランドの事件に対する謝礼”のために我が校に訪れた、と言っていたね」
「はい」
「貴方の持ち得る知識はきっと我が校の生徒たちにも良い刺激を与えてくれるだろう! それは実に有り難いことなのさ!
──けれどそこに留まらず、“イレイザーヘッドとの面会”も望んだのはどうしてなんだい?」
根津校長は初めて“個性”が発現した
ヒーロー名:イレイザーヘッド。本名は相澤消太。かつて雄英生のひとりとしてこの学園で学び研鑽を積んだ彼は、卒業後アングラヒーローとしての活躍を経て母校の教員に就任した、ということぐらい至極当然当たり前に彼のフォロワーなら知っている。メディア露出を嫌うのは彼の元来の性格故か、“個性”の表出を避けるためか──僕に向けられる警戒心を見るにきっとどちらもなのだろう。
それに今は、訪ねる時期もまずかった。日本どころか世界をも震撼させた神野事件が起きたばかりで、雄英としては外部との接触を絶ちたいに決まっている。
(……だが、しかし、)
それでも今でなければならなかった。疑われ、警戒を向けられたとしても、より早く動かなければ──動きたいと、思ったからだ。
「僕、……私はこの“個性”至上社会に、疑問を抱いています」
ヒーロー向きのいい“個性”だね。
その“個性”じゃヒーローにはなれないよ。
どの企業からも引く手数多の勝ち組“個性”だ!
なんかパッとしない“個性”だなぁ……。
“個性”によってあらゆる常識や生活が崩壊し、新たに創り変えられたこの社会において、“個性”は絶対的なものだった。生まれついたその“個性”によって、人生のほとんどが決められてしまうほどに。
ヒーロー向きの正しく強い“個性”は崇められ、
ただそうした“個性”を、持って生まれただけなのに。
『はかせ、……わたしの“こせい”のなまえ、きまり、ました』
《、名前だと?》
『はい、……きろくするときに、なまえがあったほうがって、ほかの人が言ってたから……』
“だから、しらべてみたんです”と。
細い少女の腕には似つかわしくない分厚い聖書と辞書を抱えて、いつかのあいつは笑った。幼い顔に、いびつな笑顔を貼り付けて。
『……わたしの“こせい”は、【いぞん】だと、おもいます』
《【依存】? ……しかしそれは、》
『だってわたしの“
その表情はまるで、押し潰されたようだと思った。聖書の厳かな言葉の連なりに、辞典から引いたのだろう言葉の意味の重みに、……これまで生きてきた時間と、これから共に生きていくだろう自分の“個性”を思って、少女は苦しげに息をついた。
『だいすきな人のたいせつなものを、とって、きずつけちゃうから、』
──だから【いぞん】です。
【いぞん】でしか、ないんです。
《…………》
そう言いきる少女に、僕は掛ける言葉を見つけられなかった。人より少しばかり回るだけの頭では、彼女を真に救えはしなかった。
生まれ持った“個性”によって、どうあっても人は縛られる。
そう思っていた。そう、諦めていた。
僕にできることなどほんの僅かで、世界を変えられるわけがない。苦しげに笑う少女ひとりさえ、救えはしないのだからと。
「疑問と諦念を──抱いて、いました」
それでもあの少女は、笑っていた。あの閉じ籠もっていた部屋を出て、公安での訓練を続けて、……会長の何の気まぐれかは知らんが、彼女は
陽の当たる場所で光を弾く白い翼。物珍しそうに辺りを見渡す青い目は輝いていた。ホークスとなったかつての少年と、同級生である常闇の後に続いて自分を『雄英高校1年A組の空中愛依です』と称した。
『博士がわたしの“個性”の許容量を見極めて、念のためとして深く眠らせてくれたから、……だからわたし、こうして誰かと会って話すこともできますし、雄英に通うことだってできてます! 本当に、感謝しているんです。……でも、』
“個性”のメディカルチェックを受けながら、空中となった少女は嬉しそうに頬をほころばせた。誰かと会えて、話せて、学校に通えて嬉しいと。
けれどそれもつかの間、その瞳の空に影が射す。
『でも、もしこの数年の間で、気づかないうちに“個性”が強くなっていたら……』
きっともう学校に通うことはできないと、それは覚悟しているのだと声を震わせた。気丈に振る舞わねばと、下手くそに笑っていた。その声音と瞳の翳りを、僕はしかと記憶している。
《最上博士、……はかせ、》
記憶している。神野を経て寮に入った空中が寄越した、電話越しのその声を。
《わたしの“個性”は、眠ったままでいられますか。
この先も、みんなと一緒にいられますか》
A組のみんながだいすきなのだと、空中の声は微笑んでいた。みんながだいすきだから、一緒にいたい。──みんながだいすきだから、“個性”を奪ってしまうかもしれない。みんながだいすきだから、傍にいられなくなるかもしれないと、その声は泣いていた。
《みんなの“個性”を、未来を、可能性を、
──奪うだけのわたしに、なりたくない……》
“やっと出来た友だちと、ただ一緒に過ごしたい”。そんな些細な願いすら“個性”のせいで叶わない。
……そんなことがあってたまるかと、僕は一瞬感じた不甲斐なさと憐憫を吹き飛ばすべく、吼えた。
『うじうじするな、オタオタするな、──心配するな!!』
そうだ、僕は科学者。発明者。
“個性”でどうしようもなくなった奴らの新たな道を、【科学の力】で開くのだ。それができる。僕ならできる。……“頑張ったけど何もできませんでした”なんて、口が裂けても言えるものか!
「これまで社会は、この力を“個性”だと、皆が許容するべきものだとしてきた。その思想は間違っていない。……だが、」
意識を現在に、視線を目の前のイレイザーヘッドたちに戻す。猫背を無理やり正して、深く息を吸って声を整えた。
僕が研究し続けてきた“個性”の鎮静化。それは
──もう二度と
……ああ、だが、けれど。
『……信じられないくらい、今が幸せ、なんです』
重苦しい過去から始まった研究が、ひとりの少女の笑顔に繋がった。
勿論それは空中自身の、その周囲の人々の努力の結実に他ならない。けれど僕の研究が、“個性”の鎮静化が、その一助になれたのなら、
(……空中が、証明してくれた)
きっとこれからの未来にだって、意味はある。
「……“個性”と真に共に生きるには、選択肢が必要なのだと、気付いたのです」
「選択肢?」
「ええ。“個性”をわが力として受け止めて生きていくのもいいだろう。だが、……“個性”のために当たり前の人生を歩めない者には、その“個性”を抑えるという道もあると、僕は伝えたい」
“個性”によってヒトの規格は大きく変動した。その姿も、能力も、体質も、生き方も、画一的になるわけがないほど。
そんな多種多様な超常社会なのだから、“個性”との向き合い方だって多種多様でなくてはならない。無理に許容するでも排斥するでもない、その選択をひとりひとりに委ねるために。
「──真に“個性”に依らない社会を創るために」
そのために、僕は雄英高校に来たのだ。イレイザーヘッドとの面会を希望したのはそのためだ。
瞬きの間に世界をフラットにしてしまえる。
そんな彼の眼差しを、世界中に届けるために。
「イレイザーヘッド。……貴方の“個性”因子を、私に一部、預けていただきたい」
85.偏屈博士、展望する。
予定していた大人組の視点回、終わりませんでした()なんだか博士から見える・知っている情報を開示しようと思ったら文字数がかさんでしまいました。次回は相澤先生と某大人の視点を書きます。次こそ終わらせて雄英新生活編を終わらせるんだ……
更新が遅いのがデフォルトになってしまい大変申し訳ないのですが、皆様の閲覧やお気に入り登録、評価や感想に力を頂いています。何とか書き進められているのは皆様のお陰です。本当にありがとうございます。また次回も読んでいただければ嬉しいです!
※同時に番外編『日溜まりに浸かる』も上げました。よろしければご覧ください。